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<書評論文>障害者解放運動と視覚障害者運動の接点

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(1)

著者

山岸 蒼太

雑誌名

KG社会学批評

6

ページ

1-10

発行年

2017-03-24

URL

http://hdl.handle.net/10236/00026666

(2)

(1.書評論文)

1-1.障害者解放運動と視覚障害者運動の接点

堀智久『障害学のアイデンティティ──日本における障害者運動の歴史から』 (生活書院、2014 年)

山岸 蒼太

1 はじめに 本稿は、本書において、日本の障害学の固有性として提示されている反優生思想の視座を評 者の研究テーマである視覚障害者の運動史の視点から検討することを目的とする。 1970 年代以降、英米の障害者運動は、従来からの障害を個人的悲劇とみなす考え方に意義 を唱え、健常者中心の社会を問い直す運動を展開してきた。こうした運動の中から障害学が誕 生し、1990 年代以降日本にも導入され、今日まで多数の研究が蓄積されてきている。 一方、日本では、英米とは別に、1970 年代に障害者差別の告発、養護学校義務化や施設収 容などを批判する障害者解放運動が台頭する。倉本智明は、こうした日本の流れは、欧米とは その源流をことにしており、1960 年代末から 70 年代初頭には障害者運動のターニングポイン トを通過していたことを指摘している(倉本 1999 : 221)。著者もこの立場を支持した上で、 日本の障害学は、この障害者解放運動に依拠しており、その思想や理念を明らかにすることで 日本の障害学の固有のアイデンティティを見出すことができると述べている(本書:19)。ま た、日本の障害者解放運動の歴史について、著者は、専門職支配への抵抗と家族との当事者性 の相違を浮き彫りにしてきたと評価する一方で、それゆえに、従来の障害学は、障害者家族や 専門家の視点や主体性を無視する傾向があったのではないだろうかと問題提起している(本 書:19)。さらに、この問題意識と関わって、障害当事者による運動とともに、親や専門家の 間でも自己のあり方を相対化する試みがなされてきたことを挙げ、障害者解放運動の担い手 は、その思想や理念を共有する人々であり、その点でも支援者としての親や専門家の運動に着 目する本書の意義を述べている(本書:19)。 なお、本稿では、まず、第 2 節において、本書における著者の主張・論点を確認する。次 に、第 3 節において、評者の研究テーマに関連して、日本の視覚障害者運動の中で主張されて きたことや文化の特徴について検討する。最後に、第 4 節において、本書から得られた知見と 視覚障害者運動・文化の特徴を整理し、全体の総括を行う。 1

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2 本書の構成 本書は、序章、終章を含め全体で 9 章から構成されている。まず、序章において、本書の目 的が述べられており、続く第 1 章では、本書の鍵概念となる「反優生思想」の視座が社会学の 学説史等を踏まえて提示される。第 2 章から第 7 章は、戦前戦後の精神薄弱教育・福祉体制の 確立に影響を与えた親や専門家の運動(第 1 部)と 1970 年代以降の障害者解放運動の思想や 理念を共有した親や専門家の運動(第 2 部)の歴史について実証的な見当が行われる。そし て、終章では「反優生思想」の視座から、本書で検討された親や専門家と障害児者の関係性の 歴史が整理・検討され、日本の障害学の固有性としての反優生思想の意義が示されている。 まず、序章において、本書の目的を著者は、「日本の「障害学」の固有性を明確化すること から、「『障害学』とは何か」という問いに対して、筆者なりの解答を与えたい」(本書:34) と述べている。ここで、著者は、日本の障害者解放運動の思想・理念の中核として「反優生思 想」の概念を提示している。日本の障害学は、1970 年代以降に展開されてきた障害者解放運 動に依拠していることを踏まえ、本書ではこの反優生思想を定式化し、親や専門家の運動の中 でこの思想がどのように受け止められてきたのか明らかにされている。 第 1 章において専門家批判や親批判について、社会学の学説史的検討を通して、日本の障害 学の独自性としての反優生思想が仮説として提示される。反優生思想の視座とは、「『障害をな くすこと総体に対する懐疑的なまなざし』であり、自己の『内なる優生思想』の問い直しを中 心としながら、『自己肯定/他者肯定』と『(その自己の置かれた)社会の告発』を同時に進行 させる思考様式」(本書:58)であると説明されている。すなわち、健常者中心の社会のみな らず、そこで生きる個人もまた批判の対象になる点に特徴がある。具体的には、専門家批判と 親批判に言及しながら、反優生思想の視座が説明されている。 まず、著者は、専門家批判について、T. パーソンズの病人役割に言及して分析している。 それによると、「障害者解放運動における専門家批判の射程は、パーソンズの病人役割でいう 第 4 の役割義務への批判、いわば『医師(専門家)に援助を求め、協力する』役割義務の改善 運動にとどまらない。(中略)ここでの障害者解放運動における専門家批判は、障害を積極的 に肯定し、治療やリハビリテーションを否定する、いわばパーソンズの病人役割でいう第 3 の 役割義務である『病気(障害)を否定的に捉え、回復に努める』役割義務の拒絶をも含んでい る点で、きわめてラディカルなのである」(本書:43)という。障害児教育や臨床心理学は、 障害の治療や軽減を目的としており、本来障害はあってはならないものという優生思想の要素 を読み取ることができる。このような視点に立てば、障害者解放運動は、こうした専門性との 対立であったといえよう。 また、著者は、日本の障害者解放運動の中で主張されてきた親批判を欧米の脱施設化や障害 者が親元を離れて自立生活を送る脱家族の考え方と区別し、日本固有の考え方であることを指 摘している。すなわち、日本においては、親のパターナリズムや差別性が明確に批判の対象と

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されてきた点に特徴がある。そして、その背景には、日本の障害者解放運動は、「障害者は本 来在ってはならない存在」という親も含めた社会の意識を非難の対象にしてきたことがあると いう。 脱家族の議論は、社会学的には、近代家族の愛情規範による障害者の囲い込みやラベリング 論の観点から障害者家族に対する社会の偏見のまなざしが問題とされる。しかし、障害者解放 運動、とりわけ青い芝の会の主張では、個人に内面化されている「内なる優生思想」が問題と されてきた。著者によれば、「そもそも『青い芝の会』の思想の真骨頂は、能力主義社会や健 常者中心主義社会を告発した点にとどまらず、同時にわれわれの『内なる優生思想』をも批判 の対象にした点である。すなわち、われわれの外にある『社会』と同時に、われわれ『個人』 をも批判の対象に据える。これを親批判にも適用するなら、母親をとりまく、あるいは背後に ある『社会構造』と同時に、母親『自身』をも直接的に告発の対象にしたということである」 (本書:53)という。 さらに、著者は、障害者解放運動の理念は、親批判を積極的に位置づける要素を含んでいる と述べている。それは、横塚晃一(2007)に示されている歎異抄理解に基づく自己肯定の発想 である。労働によって財産を残し、良い家庭を築き、社会の役に立つような生き方が善人の手 本、幸せの見本とされるなら、それができない不幸な人は、悪人となる。この悪人を障害者に 置き換えると、健全者とその社会を最善のものとみなし、それに 1 歩でも近づこうとする障害 者は、悪人と同じ存在であると解釈される。その悪人は、最も救われるべき存在、すなわち浄 土に生まれる資格を持っていると考えられる。このような自己の存在を凝視し、障害を含めた 自己の存在を積極的に肯定する発想は、障害者の親も自身が差別される存在であると同時に障 害者を差別する存在であることをみつめ、自己肯定/他者肯定すべき存在であるという点で障 害者との連帯の可能性を持っていると著者は指摘する。 以上、第 1 章では、反優生思想の視座が示されている。すなわち、反優生思想とは、自己の 内なる優生思想や内なる健全者幻想に気づくことであり、障害をなくす見方に対する批判的な まなざしであり、自己の内なる優生思想を問い直しながら、自己肯定/他者肯定と自らのおか れた社会を告発する思考様式である。そして、この考え方は、日本の障害者解放運動において はその中核をなす考え方であった。 第 2 章以降は、2 部構成となっている。著者は、日本の障害者運動史を戦後の患者運動を基 点とする社会保障運動と 1970 年代を基点とする障害者解放運動に大別しているが、本書の第 1 部と第 2 部は、この分類に従っている。 第 1 部(第 2 章、第 3 章)では、精神薄弱教育に関わる教育心理学者、実践者らが、戦前に 精神薄弱教育保護構想を提起し、戦後、彼ら専門家中心の運動によって、分離教育、施設収容 の福祉政策として具現化されていったことが述べられている。さらに、高度経済成長期におけ る親の運動の主流として、全国重症心身障害児(者)を守る会が、親なき後の不安と、親の介 護義務のみの限界性を訴え、施設拡充を求める運動を展開してきたこと、そして、社会開発の 一環として障害児者対策が位置づけられ、親の訴えが政策の中で実現されてきたことを明らか 山岸:障害者解放運動と視覚障害者運動の接点 3

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にしている。こうして、専門家や親の運動によって戦後の精神薄弱教育・福祉体制が整備され ていった。 第 2 部(第 4 章から第 7 章)では、1970 年代以降の日本臨床心理学会の学会改革運動を通 して、クリニカルサイコロジスト(以下、CP)の専門性批判の歴史と、1970 年代から 80 年代 にかけての先天性四肢障害児父母の会(以下、父母の会)の障害をめぐる認識の転換の過程が 明らかにされている。 まず、日本臨床心理学会の学会改革運動は、専門性の持つ抑圧性に対する徹底的な自己批判 の運動であった。日本臨床心理学会は 1964 年に設立され、当初は臨床心理士資格の制度化を 目指す関係諸団体と連携を図っていた。しかし、学会幹部らが目指す臨床心理士資格に対し て、特に現場の CP から彼らの目指す資格制度では CP の身分保障やクライエントの人権擁護 が達成されないとの批判がなされ、これが学会改革運動の契機となった。 1970 年代前半においては、CP の専門性が十分に発揮されない状況を問題視する主張が中心 であったのに対し、患者とのかかわりを通して、後に心理テスト善用の否定、心理治療が患者 に与える抑圧的な効果についての認識が共有されていく。その背景には、精神病・精神障害当 事者からの告発が大きな影響を与えていた。そして、彼らは自らの専門性を全面的に否定して いく主張が学会内部に広まっていく。 1980 年代に入ると、こうした主張に対して現場の実情と遊離しているとの批判が示され、 現場の具体的な問題の解決を目指す現場性を重視した活動を目指す者が現れる。こうした動き に対して著者は、「『人の悩みを聞くのは、本来は専門家である必要はない』という認識は共有 されている(中略)『される』側を『モノ』化するという批判から、『する』側と『される』側 の相互的な関わりを内省的に検討する『事例』検討が模索されてきたことからも、『される』 側をまなざし、『する/される』の関係性がつくられることの懐疑の感覚も分けもたれている」 (本書:142)ことを挙げ、単なる専門性再考や再認識とは質的に異なることを指摘している。 すなわち、障害は本来あってはならないものと考える優生思想的な考え方が 1970 年代 80 年代 の運動を通して払拭されていったことを示している。 次に、父母の会の運動は、1970 年代から 80 年代へかけて障害をあってもよいとする見方へ 変容してきたことを示している。 父母の会(1975 年設立)は当初、子供の障害の原因究明を通して、それを環境汚染の影響 であることを実証し、障害の原因究明を目指す活動を行っていた。この活動は、障害が家系や 血筋によるものでないことを示し、差別や偏見を払拭しようとすることを意図していた。 しかし、1980 年代以降、こうした活動に対して子供の立場の成人会員から違和感が表明さ れる。たとえば、「障害者が増えている原因を追及し、なくすべきなのだ、それはどうも○○ という薬がいけない、といっても問題提起になりますね。ですがもうすでに、当の本人は障害 者にとって理想的とはいえない社会の中で、五体不満足のままで十分、精一杯生きているので す。(中略)五体揃っているのが理想的なのでしょうが、揃っていないからといって欠陥人間 ではないし、不自由だとは思わない」(本書:160)という語りに示されているように、子供の

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側は、障害は不便ではあるが不幸ではないと受け止めており、障害を否定的にとらえる親の見 方に違和感を示している。また、障害児が生まれたことを衝撃や悲しみとしてとらえている親 の思いや語りに触れることで、当事者が自らの存在を否定されていると感じるといったことが 語られるようになる。こうした 1970 年代 80 年代の会の変遷は、「親たちが、子どもは子ども なりの仕方で障害を感受していることに気づいていく、子どものありのままの姿を認めるよう になる過程」(本書:181)であったと著者は指摘する。 一方で、父母の会内部では、親が障害児を持ったことを衝撃や悲しみとして経験すること、 あるいは遺伝性の障害の場合、次の子供を持つことに対する不安を感じることは避けがたいこ とであることも語られている(本書:181)。これは、優生思想が払拭しがたいものであること を示している。 従来の運動は、親や専門家が運動の担い手であり、彼らと障害児者の当事者性の相違が明確 にされることはなかったが、70 年代以降に展開されるこれらの運動においては、両者の立場 に相違点があることが明らかにされながら運動が展開されている。さらに、障害を治療や克服 すべきもの、あるいはあってはならないものとする考え方に対して、ありのままを受け入れる こと、障害はあってもよいという見方が強調されている点も大きな特徴である。そして、こう した障害の認識の転換の背景には 70 年代以降台頭する障害者解放運動あるいは、障害当事者 たちの告発や意見表明が大きな影響を与えていた。 これらの運動の展開とそこで主張されたことからは、著者の提起する反優生思想をよみとる ことができるだろう。 3 視覚障害者と障害者解放運動 前節で確認したように、障害者解放運動の理念は、自己のあり方を相対化しながら健常者中 心主義社会を問い直す考え方であった。ここでは、障害者自身も批判の対象になることが指摘 されているが、それは単なる自己批判ではなく、健常者中心の社会へ 1 歩でも近づこうとする 自己のあり方を問い直し、その自己を取り巻く社会を問い直す契機としての意味があると考え られる。 本節では、評者の研究テーマに関連して、日本の視覚障害者運動・文化をめぐる論考を参照 しながら、彼らが主張してきたことやその特徴を整理する。このことを通して、日本の歴史 的、社会的、文化的背景の中で視覚障害者がインペアメントやディスアビリティを含めて「障 害」をどのように経験しているのかを明らかにできると考える。そして、本書で論じられてい る精神障害者や先天性四肢障害者の経験との共通点や差異を検討することが可能になると考え る。 3.1 盲人文化にみる障害者解放運動の契機 杉野昭博は、障害文化を「名づけ」としての支配文化、「名づけに対する反作用」としての 山岸:障害者解放運動と視覚障害者運動の接点 5

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対抗文化、「名乗り」としての固有文化の 3 つに分類し、これに即して盲人文化の 3 層構造を 分析している(杉野 1997)。 日本の視覚障害者文化を考える上では、彼らが独自に形成してきたコミュニティの歴史を確 認する必要があるだろう。その起源は、中世以降成立した職業ギルドとしての当道座に求める ことができよう。杉野は、その変遷について、「13 世紀ごろから地神盲僧などによる地方的な ギルドがいくつも成立していたと考えられる。彼らは寺院などを中心として座をつくり、地神 経や音曲を生業として独占していた。(中略)当道座の主要な生業は、平曲から音曲・3 療・ 金融業などへと変遷していくが、盲人の独占的職業ギルドという基本的性格は 19 世紀まで変 わらなかった」(杉野 1997 : 264-5)と述べている。当道座は、江戸時代には幕府の保護を受 けていたが、1872 年、明治政府は近代化に相応しくない制度としてこれを廃止した。相互扶 助機能を有していた当道座を失った視覚障害者は、成業として確立していたあんまの職域確保 と弟子の要請のために鍼按講習所として各地に盲学校を設立した。 こうした視覚障害者の歴史を踏まえて、杉野は、盲人文化について、「障害の名づけ」とし ての従属文化、「名づけに対する反作用」としての対抗文化、「障害の名乗り」としての固有文 化の 3 つの側面を整理している(杉野 1997)。まず、従属文化とは、健常者の影響を受けて形 成された文化であり、たとえば、視覚障害者は 3 療業に就くのが当然である、健常者社会では 障害者は迷惑な存在であり、障害者が努力すべきであるといった価値観を盲学校やリハビリテ ーション施設で内面化される。次に対抗文化とは、健常者からの押し付けに対する反発であ る。たとえば、盲学校の進路指導においては、自立を奨励しながら、その道を 3 療業しか示す ことができず、また 3 療業で自立しても障害年金など福祉制度に依存せざるを得ない卒業生の 実態を追認している盲学校に対する不満は生徒たちに広く共有されているという。こうした生 徒たちの不満の中から 1970 年代に東京教育大学附属盲学校(現筑波大学附属視覚特別支援学 校)でおこったいわゆる雑司ヶ谷闘争について、杉野は対抗文化の象徴的事例であると述べて いる。そして、この運動は、単に盲学校を批判したのみならず、社会が盲学校を通して彼らに 押し付けている依存と自立のジレンマすなわち、社会に依存しながら迷惑にならないように努 力する役割期待への抵抗であった(杉野 1997 : 263)。また、東北地方で伝えられてきた盲人 縁起を分析し、ヴァルネラブルな存在の盲人が心霊の加護を得た強力な存在、あるいは役に立 たない盲人が役に立つ盲人へと転換する図式があることを示し、これらは盲人が健常者に対し て対抗的アイデンティティを示していることが読み取れると述べている(杉野 1990)。そし て、固有文化とは、障害者同士のコミュニケーションの中で生まれる文化である。杉野は、日 本の視覚障害者文化の特徴として、当事者運動の歴史の古さ、3 療業(あんま・鍼・灸)、盲 学校の 3 つが挙げられると指摘している(杉野 1997 : 264)。たとえば、明治期に各地で盲人 自身によって設立された盲学校の性格を考えるならば、それは、盲人を社会から隔離する側面 と同時に、盲人自身の砦としての側面を併せ持っていた(杉野 1997 : 264)。明治期以降、盲 学校で 3 療技術を身につけた盲人たちは、あんま専業運動を展開する。杉野は、この運動は、 社会の中に自分たちの拠って立つ場を求める盲人たちの固有文化の象徴として理解されるべき

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であると述べている(杉野 1997 : 266)。 上記の杉野の議論を踏まえると、視覚障害者コミュニティの歴史やそこで形成されてきた文 化の中でも、特に対抗文化、固有文化として理解される側面においては、障害は不幸であると いう健常者社会のまなざしに対する批判が読み取れる。特に、1970 年代の雑司ヶ谷闘争は、 教育内容の充実や制度改正などの要求運動とは異なり、盲学校のあり方を批判したという点で 注目に値する。 一方、石川准は、視覚障害者コミュニティの文化は、障害を積極的に価値付けようとしない 文化であると述べ、「見えないより見えるほうがいいに決まっているが見えない以上は工夫し て生きよう、という文化である。対抗文化としての迫力や輝きには乏しいが方法に富む文化で はある」(石川 1999 : 64)とその特徴を指摘している。視覚障害者運動の主流は、健常者社会 の批判や糾弾というよりむしろ、要求運動を通して、健常者社会への参加、すなわち石川の指 摘する「工夫」を追求してきた歴史であったといえよう。広瀬浩二郎は、近代化はマイノリテ ィがマジョリティに同化するために、「特殊」を「普通」に変換する歴史であり、視覚障害者 もまたそうした歴史をたどってきたことを指摘する(広瀬 2005)。視覚障害者が社会参加を求 める上では、「障害を持つ者が人一倍努力『奮闘』すること、他人に『手数』をかけないこと を約束し、社会参加したいと『懇願』する。その『懇願』は、理解ある健常者の『同情』によ りかなえられるという図式」(広瀬 2005 : 347)があったと指摘する。こうした図式は、打ち 破るべき常識として認識され、1950 年代から 60 年代の運動に引き継がれ、それは視覚障害者 の大学進学の門戸開放などの形で具体化されてきた(広瀬 2005 : 347)。また、1948 年に結成 され、今日でも国内最大の視覚障害者組織である日本盲人会連合の結成大会の決議には、「盲 人の文化的経済的向上と社会的地位の躍進」(日本盲人会連合 50 年史編集委員会編 1998)を 計ることが示されており、それは、3 療業の職域確保や障害年金の増額による生活保障、公共 料金や税金の減免などの要求運動として展開されている。こうした運動は、視覚障害者は、健 常者中心社会の価値観を否定し異化の方向へ向かうのではなく、積極的に統合されることを目 指していたといえるだろう。また、前述の盲人のあんま専業運動が意味する方向性について、 「社会の中に盲人の拠って立つ場を設けろということなのだろう。(中略)本当は『あんま』だ けでなくすべてを盲人の専業にしたいのだと思う。そうは言えないので『せめてあんまだけは 手を出すな』ということなのではないだろうか」(杉野 1997 : 267)という記述からは、視覚 障害者が健常者社会の中に自らを位置づけ、統合されることを目指していた運動であると解釈 できるだろう。 3.2 視覚障害者と専門職の関係 著者は本書第 4 章と第 5 章において、日本臨床心理学会の専門性批判の運動を取り上げてい る。ここでは、「する側」の専門化の行為が「される側」のクライエントに対して抑圧的に働 くことに専門家自身が気づいていく過程が明らかにされている。また、その契機としてクライ エントの立場である精神障害者の告発が大きな影響を持っていたことも指摘されている。で 山岸:障害者解放運動と視覚障害者運動の接点 7

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は、視覚障害者にとって、専門家はどのように位置づけられるのだろうか。 前述の杉野の論考では、盲学校や職業訓練を行うリハビリテーション施設において、目の見 えない者は健常児とは違う、半人前であるということを内面化されたり、健常者の同僚に迷惑 をかけない障害者であることが求められたという当事者の経験の語りを示しながら、障害アイ デンティティの社会的構成が検証されたと述べている(杉野 1997 : 258-9)。このような障害 の負のイメージの付与、あるいは、劣った存在としての障害者という名づけに対する抵抗の象 徴として、杉野は盲学校において、特に進路指導のあり方を批判した生徒の運動について言及 している(杉野 1997 : 263)。また、大橋由昌は、当時この運動に関わった生徒の立場からの 回想を記している(大橋 1988)。大橋は、盲学校の閉鎖性、障害児を社会から隔離しながら、 社会適応や自立を求め、しかし、それに対応できる十分な教育を保障できていない特殊教育の 実態を批判している(大橋 1988)。この盲学校における生徒の運動は、こうした実態を追認し ている特殊教育の専門家としての盲学校教師に対する批判であるといえる。この運動は、前述 の杉野の障害文化の分類に当てはめるならば、健常者からの名づけに対する反作用としての対 抗文化として位置づけることができる。 また、盲学校の大きな特徴として、あんま鍼灸の職業養成を行う理療科の存在が挙げられ る。佐藤貴宣は、盲学校高等部普通科の勤務経験を有する教師の語りを通して、理療科と他の 教師集団との隔たりを指摘している(佐藤 2010)。具体的には、理療科の教師における視覚障 害者が占める割合が非常に高いことを踏まえ、視覚障害当事者である理療科教師の声の前に非 当事者としての普通科教師は沈黙を強いられる。すなわち、当事者性をめぐる非対称性が盲学 校の組織内に存在していることを示している。 盲学校における視覚障害当事者の役割について、杉野は、戦前においては視覚障害を持つ学 校長らが、戦後においては理療科教員連盟が盲人運動の一翼を担ってきたことを述べている (杉野 1997 : 264)。このように、視覚障害者教育を行う専門家の中に視覚障害当事者が大きな 役割を持っている点は、視覚障害者と専門家との関係を検討するうえできわめて示唆的であ る。すなわち、視覚障害者と(視覚障害を持つ)専門家との関係は、健常者の専門家が視覚障 害児者に対して一方的に働きかけるという関係のみでは捉えきれないであろう。本書におい て、著者は、CP と精神病患者・精神障害者との関係、父母の会の親とその子供との関係を健 常者と障害者という図式を前提にしている。しかし、前述したように、視覚障害者の場合、こ の図式には当てはまらない関係性を含めて検討する必要があるだろう。特に、視覚障害者をめ ぐる日本特有の歴史・社会・文化的背景や文脈を考慮する必要がある。視覚障害を持つ専門家 は、自ら障害当事者として盲学校内部あるいは視覚障害者コミュニティにおいて、固有文化を 形成してきた。一方で、健常者中心社会の常識を内面化する機能を持つ専門性を通して従属文 化を形成する役割も果たしていると考えられる。 以上、本節では、日本の視覚障害者運動や彼らのコミュニティの中で形成されてきた文化の 特徴を検討した。視覚障害者の運動・文化の中には、健常者の社会に対して対抗的なアイデン ティティを示したり、独自の歴史的背景を持ち、固有文化を形成してきたことが明らかになっ

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た。それらは、障害者解放運動の理念や思想とも共有しうる点が見出せるだろう。しかし、こ うした特徴を本書の議論と対比するならば、視覚障害者運動においては、「反優生思想」の視 座を見出すことはできなかった。視覚障害者の運動・文化については、今後より詳細な研究が 必要となろうが、視覚障害者運動を考える上では、著者の提示する「反優生思想」とは異なる 枠組みが必要になることを示唆していると言えよう。 4 終わりに 本書は、父母の会や日本臨床心理学会の専門家らの運動が、障害当事者の告発や意見表明を 通して、障害はあってもよい、障害のありのままを受け入れるという主張へと転換していった ことを明らかにしている。そして、従来、障害当事者の運動や視点のみに偏っていた研究に対 して、親や専門家の運動の中にも障害者解放運動の思想や理念を共有していたことを明らかに した点で大きな意義がある。特に、彼らが運動を展開する背景に障害者解放運動の思想や理念 を共有していたことは、障害者が自身を取り巻く社会や自らの障害とどのように向き合い、社 会の中でどのような戦略で自身の存在を社会に認めさせてきたのかを考えるうえで、重要な視 点を示しているといえるだろう。 障害者解放運動は、健常者中心の社会の常識や価値観を転換させる運動、すなわち、異化を 志向していたといえよう。一方で、第 3 節で見たように、日本の視覚障害者の場合は、必ずし もそのような戦略をとってはいなかった。石川(1992)の図式を借りるならば、視覚障害者 は、同化&統合を目指し、健常者社会に自らを位置づけようとしていたと言える。しかし、視 覚障害者の対抗文化や固有文化、具体的には 1970 年代の盲学校生徒による運動は、健常者中 心主義の社会を批判するものであり、ここには障害者解放運動の理念と結びつくものがあるだ ろう。また、障害者の処遇を決定する上で重要な役割を果たす専門家の位置づけについては、 健常者の専門家と障害者という 2 項対立的な図式では捕らえきれないことにも着目する必要性 を明らかにした。具体的には、視覚障害を持つ理療科教師を事例に、彼らは、健常者社会の価 値観に基づき、障害の名づけを行う従属文化を形成する一方で、彼ら自身も視覚障害者コミュ ニティの仲で固有文化を形成してきた側面があることを指摘した。日本の視覚障害者運動・文 化は「反優生思想」視座ではとらえきれない側面があるだろう。 今後の障害者運動研究においては、それぞれの障害者が経験するインペアメント・ディスア ビリティ、あるいはそれぞれのコミュニティで形成されてきた文化や歴史を踏まえ、その差異 を考慮しながら検討されるべきだろう。その場合においても、本書が障害当事者と親や専門化 が「反優生思想」という共通の思想や理念を共有し運動していた歴史を明らかにしたことは、 それぞれの障害者団体がどのような思想や理念にもとづいて運動してきたのかを検討するうえ では重要な示唆を与えている。 山岸:障害者解放運動と視覚障害者運動の接点 9

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【参考文献】 広瀬浩二郎,2005,「バリアフリーからフリーバリアへ──近代日本を照射する視覚障害者たちの“見果 てぬ夢”──」『文化人類学』70(3):379-398. 石川准,1992,「アイデンティティ・ゲーム──存在証明の社会学」新評社. ───,1999,「障害、テクノロジー、アイデンティティ」石川准・長瀬修編『障害学への招待──社会、 文化、ディスアビリティ』明石書店,41-77. 倉本智明,1999,「異形のパラドックス──青い芝・ドッグレッグス・劇団態変」石川准・長瀬修編『障 害学への招待──社会、文化、ディスアビリティ』明石書店,219-255. 日本盲人会連合 50 年史編集委員会,1998,『日本盲人会連合 50 年史』日本盲人会連合. 大橋由昌,1998,『キャンパスにオジサンは舞う──盲学生奮闘記』彩流社. 佐藤貴宣,2010,「〈進路問題〉をめぐる教育経験のリアリティ」『解放社会学研究』23 : 31-48. 杉野昭博,1990,「障害の文化分析」「『民族學研究』54(4):439-463. ────,1997,「『障害の文化』と『共生』の課題」青木保ほか編『岩波講座文化人類学 第 8 巻 異文 化の共存』岩波書店,247-274.

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既存の精神障害者通所施設の適応は、摂食障害者の繊細な感受性と病理の複雑さから通 所を継続することが難しくなることが多く、

トン その他 記入欄 案内情報のわかりやすさ ①高齢者 ②肢体不自由者 (車いす使用者) ③肢体不自由者 (車いす使用者以外)

兵庫県 篠山市 NPO 法人 いぬいふくし村 障害福祉サービス事業者であるものの、障害のある方と市民とが共生するまちづくりの推進及び社会教