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明治末期の教育事件と新仏教徒同志会

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(1)明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. New. Criticism. Buddhists,. 幸. 木. 久. Beginning. 男. of the Educational of the Both Century. Affairs. the. at. HISAKI*. yukio StJM班ARY shinbukky∂to al. in. 1899,. was. (New. D68hikai One. Of. the. ground of Buddhist Nev Buddhists idealism,. their. unique. Buddhist free. pantheism・. at aimed System・ of Tenn6. the. founded. Fellowship),. Buddhists. in. groups. studies. reformation. in. 20th. the. by. K6y∂. century・. religions・. of old. rationalism・ Buddhism wbicb. Sakaino Standing and. et on. realistic. bad. yielded. i皿prOVement・. argued advocated their times・ namely the of educational affairs the social and criticized radically problems, Textbook Adoption Scandal Concerning College” Affair・ the Bribery -"Tetsugakukan Education by Minister of Students Morals''issued "The lnstructions about (1902-03), Eistory Textbook the radical (1911)・ Through Japanese of The (1906), and The Revision the light to the defects of e血cational and contradictions they could bring criticism, were above those affairs System, because mentioned Tenn8 educational of structure But their Tenn6 System・ criticism disclosures but the of the contradictions of nothing System・ the new, or the of Tenn6 focussed older side was upon absolutism, mainly the criticism・ was beyond scope of their side of wbicb and imperialistic capitalistic the no more than the conscientious critics of educational Buddhists were After all, New. under. the. pressure. They. also. social. ,. structure. of Tenn6. System.. 序 明治末期,すなわち20世紀初頭の10余年間は・教育事件のひん発した時期であるo 明治35年(1902)から翌年にかけての哲学館事件および教科書疑獄事件,日露戦争後の 明治39年(1906)の訓令1号問題,明治44年(1911)の南北朝正閏問題など,とくに 著名な事件があいついで起っている。これらの諸事件は当然,その発生要因や外見上の様 相を異にしているが,いわゆる「体制的確立期1'+に入った天皇制教育が内包する諸矛盾 の噴出と考えられる点では,共通のものをもっているo それゆえ,上記諸事件が教育界のみならず広く一般社会の関心を呼び起し,さまざまの 論議や批判がまき起った中で,単に個々の事件に対する直接の評論のレベルに止まらず, 事件を続発せしめた天皇制教育体制の基幹部にまでふれる批判が現われたのはふしぎでは ないoこのような批判が主として,初期社会主義者たちや一部キ1)スト教徒からなされて いることは周知のとおりであるが,本稿で取り上げようとするところの,明治32年(1899) 創設の仏教思想団体・新仏教徒同志会2'の批判にも,また注目するベきものがあるo初期 *教育学教室(°ept.. of Education).

(2) 社会主義者もキリスト教徒も,それぞれ自己が依拠する普遍的原理を軸として,自らを自 覚的に天皇制教育体制に対置せしめることによって,犀利な批判を提起し得たのであるが, 社会主義老やキリスト着たちと交流を深めていた新仏教徒同志会もまた,その独自の仏教 的汎神論への確信3'に支えられつつ,天皇制教育-の異色ある批判を展開しているのであ る。. 新仏教徒同志会についてほ,すでに吉田久一氏の詳細な研究4'がある。吉田氏は同志会 の設立事情,思想の特色を概観し,さらにその国家観,戦争観,社会主義との関係,社会 運動や社会問題とのかかわりなどを網羅的に解明したが,教育事件や天皇制教育体制に対 する態度については;その一部にふれている程度で,とくに主題的に取り上げてはいない. もとより新仏教同志会ほ,教育批判のみをこととしたのでほないから,社会主義や社会運 動との関係にウェイトをおいた吉田氏の研究が,それを大きく取り上げなかったのは当然 といえるoしかし前にもふれたように,新仏教同志会の教育批判ほきわめて異色あるもの であり,教育史的検討に十分値すると思われるのである。. 新仏教同志会の同人の中で,教育に関してとくにしばしば発言しているのは,鏡野 (黄洋),高島. 哲. 円(米蜂),田中治六(我観),林竹次郎(古渓,漠庵),川村十二郎(五. 峰),などであるが,そのほか閑. 玄透(撲堂),伊藤証信,中学校長の鈴木券太郎,小学 校長の伊藤枯野5',会友では白柳武司(秀湖),井上秀天にも注目するべき論稿がある。一 方,有力同人でも,杉村広太郎(縦横,楚人冠),伊藤左千夫,鈴木貞太郎(大拙),加藤 特大郎(叱堂)などは,教育事件に対してあまり意見を出していない。このように,ひと 口に新仏教徒同志会の教育批判といっても,実際の発言者はかなり限られている上に,個 々の問題に対する発言者の態度には,単なるニュアンスの差以上の相違が認められる場合 がないわけではない。寛容主義を重んじた新仏教徒同志会ほ,会員の思想意見の相違につ いてはきわめて寛大であって,強いて統一を求めなかったのであるが,むろん単なる烏合 の衆でほなく,思想の基調においてほ明確な一致があった。本稿では先ずこの思想的基調 を一応明らかにして教育批判り起点をさぐり,その起点から20世紀初頭の日本の教育が どのように把握されていたかを概観した上で,教育諸事件に対する新仏教徒同志会の批判 を個々に検討したいと思う。 注 1 2 3. 4) 5). 寺崎昌男・佐藤秀夫「国民教育の体制化とその矛盾+(『教育学全集』第3巻,近代教育史,p.91) 設立当初の名称は仏教清徒同志会。明治36年改称。 新仏教同志会の中心人物・鏡野黄洋は, 「仏教の根本原卦-一言に申さば汎神論+といいき 〔『新仏教』第11巻 第7号,明治43年7月, つている傾野黄洋「新仏数十年史+ p.661〕) 吉田久一『日本近代仏教史研究』 p.355ff. 愛媛県の小学校長伊藤枯野には,教師が官僚機構に組み入れられ, 「教権狭小+となっている 現状を批判した論稿がある(『新仏教』第12巻 第5号,明治44年5月, p.485f.). 明治44年,境野黄洋ほ「新仏教十年史+を書いて,新仏教徒同志会の誕生とその後の.

(3) 3. 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 歩みを回顧し,同志会が「従来如何なることを説き,思想上に如何なる収獲を得て居るか といふこと+を明らかにしたが1),その後吉田久一氏や宮城顛氏2)も,同志会の沿革や その主張の大要をかなり綿密に紹介している。それゆえ本稿でほ,これらの点に詳しくふ れる繁を避け,同志会の教育事件批判の特色を理解する資となり得ると考えられる点を中 心にして,その沿革と思想的基調とを簡単に概観するに止める。 同志会のそもそもの始まりほ, 『反省雑誌』すなわち後の『中央公論』の中心人物の一 人・古河. 勇(老川)が,中学の後輩の杉村広太郎などとともに,明治27年結成した経. 緯会に始まるといわれる。この会にほその後,黄洋や渡辺海旭が加入し,黄洋によれば 「此の頃の各宗の殆んど全体にわたつて,仏教の現状に満足出来ないといふ総べての連中 が網羅せられた+という。経緯会は雑誌『仏教』に拠つて仏教革新を叫んだが,その後会 員に分裂があり,黄洋は桝寸,渡辺や高島米蜂,田中治六などとともに明治32年,仏教 清徒同志会を結成,翌年,機関誌『新仏教』を発刊するo会の名称は「今日の道徳の腐敗 を救済するに重きを置いて,厳粛の感を惹くに足るものは,英国のピューリタンではある 「清徒と云つたからとて・. まいかといふので,仏教清徒同志会と名づけることにした+が, 最初から禁欲主義といふ意味ほ少しもなかつた8)+といわれる。なお会名は,明治36年, 新仏教徒同志会と改められている○ 会の活動は,機関誌の発行のほか,同人・会友の研究会たる談話会・読書会,さらに公. 開の定例演説会の開催などが主なものだが,その他,廃娼運動4)に力を入れ,ペスト羅病 者救助(明治36年),東北飢僅救済(明治38年),青森大火救援(明治43年)などの 社会事業的活動も行なっている。しかし会の本領ほやはり思想団体たるところにあり,と くに『新仏教』誌上での社会問題に対する活発な発言には,注目するべきものがあるoま た特定の時事問題をテーマに,時折催された新仏教「大演説会+も,広く社会の関心を集 めた。例えば,哲学館事件・教科書疑獄などの教育事件をテーマに,明治36年3月22. 日,神田綿棒館で開かれた「倫理問題大演説創(有料)にほ,. 1000名をこえる聴衆が集. まっている5)0. しかし同志会の活発な活動は,その革新的性格6'のゆえに,やがて官憲の干渉弾圧を招 『新仏教』や会員の著書が発禁処分をうけることが 来するに至る。とくに1910年以降, 『新仏教』は遂に廃刊を余儀なくされ,同志会も事実上 たびたびあり,大正4年(1915), の解散に追い込まれる。 「激しい弾圧を受けて漸次衰亡7'+したのであるo 新仏教同志会の特色ほ,その6か条の綱領に求められることが多いo吉田久一氏ほ綱領 を「健全な信仰・社会の改善・自由討究・迷信勤絶・教団制否定・政治権力からの独立+ 「最も基. と要約し,これらほ「二十世紀初頭社会の歴史的契機に深く相応じている+が, 本的立場+は「旧仏教の否定,つまり教団制や僧侶制の排斥+にあると述べている8'oこれ 「破壊から建設への転換+つまり,旧 顕氏は,経緯会から同志会-の変遷が, に対し宮城 仏教否定から新仏教建設-の脱皮を意味すると見,同志会の根本的態度を「教義の上でも, 組織の上でも合理的たらんとする理知主義+に求めている9'。綱領の6項目は相互に密接 な関連があり,とくにどの項目が「最も基本的立場+を現わすかは簡単に決し発いが,黄.

(4) 洋自身ほ次のように述べている。 新仏教徒は自由討究一随つて信仰の自由,思想の自由,良心の自由といふ大旗の下 に動きほじめたもので,またその自由的信仰を空文の中に楽しむことを敢てせず,之を. 実際生活の上に活現するを根本の旨趣とするものである10)0 黄洋のこの主衷に従えば,綱領6項目ほ結局自由討究の一条に集約されることになろう。 迷信勤絶・教団制否定が,宗教の自由討究の帰結として導き出されることは改めていうま でもないし,自由討究の批判的精神が「実際生活の上に活現+せられれば,当然社会改善 の実践が生まれよう。また,批判的精神が政治権力への従属を拒否するものであることも, たやすく理解されよう。そして,このように「実際生活の上に括現する+「自由的信仰+こ そが,. 「健全なる信仰+とされるのである。. 自由討究を根本の旨趣とする黄洋ほ,その意味をさらに敷術して,それが理性を偏重し ない理性主義であり,現実に埋没しない現実主義であるとして,次のようにいう。 自由討究といふことほ理性を軽蔑せぬといふことであるから,智識の判断が信仰に裁 いてほ,何の価値もないものだといふ従来の誤見に反対した理性主義となるのは勢の自 然である。. --斯くの如く論じて来ると,新仏教ほ如何にも智論理性ばかりを重んじて, 感情を度外視して居るものの様に見へるが,決してそうではない--。畢菟宗教上の信 (ママ). 仰といふものほ,感情だけの満足を意味するものでもなければ智識だけの判断を指すも のでは勿論ない。全人性の満足を意味するものであるといふのが,吾徒多数の間に認め られて釆た箇条の一つの様である11)0. 理性を偏重しない理性主義ほ,当然「学問万能論を排+する態度となって現われ,また 「常識主義+の主張にも連なる。黄洋は常識を定義して, 「智識が感情と能く調和し,実用 的になつた智識+だとし,. 「常識的といふのほ,或ほ実際的とか,実用的とか言ひ換-て. 見てもよからう+とも述べている12'。知識や思想は,それをもって現実と格闘する武器で あって,. 「空文の中に楽しむ+ものでほないというのが,新仏教の立場であった。. このような・知識の現実的有効性の重視は,現実主義,現世主義と結びついている。黄 拝も「新仏教徒の多数ほ,現世主義の傾向に富んで居る+とし,その現世主義とは「世欲 を窓にする+ことでも,. 「独り己を楽しむ+ことでもなく,. 「理想的現世主義,即ち進修不 息の活動主義である+といっている。もっとも進修不息といっても,無前提の努力精進で ほないo. 「進修不息の活動といふものほ,底に宗教的大安心があつて出来る+のであり,. 「理想の現世に於ける開拓ほ,常に歩々大安心の上に動いて居るものである+というのが, 黄洋始め同志会の立場であつた18'。この点,同志会としばしば対比される14'清沢満之の, 「天命に安んじて人事を尽す15'+という態度に相通じるものがあるといえよう。 同志会の思想的基調が,自由討究・理性主義・現実的理想主義ないし理想的現世主義に あることほ,上釆の概観からほぼ承認されようが,次にこのような思想的基調に立つ同志 会が, 20世紀初頭の日本の教育をどのように把捉し,その批判的精神からそこにどのよ うな問題を見出しているかを,簡単に検討しよう。同志会の同人・会友にほ,小中学校や㌧ 専門学校の教師や教師経験者が比較的多く,教職経験をふまえての所論の展開が見られる。.

(5) 5. 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. そのことごとくが斬新な視角から適確な分析を加えたものばかりとほいえないが,しろう との教育論議の域を脱していることはいうまでもない。 中等教育,とくにカリキュラムを主たる対象としながら,この時期の学校教育の問題点 を取り上げたのは,黄洋の「現代教育に対する疑義16'+であろう。当時東洋大学講師だっ た彼は, 「自分が今現に多少教育といふことに関係をして居る所から,そう抽象的の議論 「昔も決してなかつた+ ではない,比較的実際の上から,自分の常に懐いて居る疑義+ほ, 「能力誘導+という「わかりきつた教育の意味が, ほどの「ひどい注入教育+が横行し,. 実際に於て今日の日本の教育の上には行はれては居ないといふこと+だという。そして中 学校に例をとれば,. 30をこえる科目が設置されていて「十三四才位からの柔い頭の子供. が,切角これから大人にならうといふ大事の場合に,凡そ五年ほどは,此の三十余科の学 科をドンドン頭の中-詰め込まれ+ており,しかもその学科目の並列が分析的で相互の関 「今の教. 連を失なっている事実を指摘し,このような「学科陳列流の注入教育+こそが, 育の弊の存する根本+であるという。学科の過多・教育内容の過剰に対する批判は,当時. しばしば見られたところで17),その限りでは黄洋の議論は,陳腐でほないにしてもとくに 目新しいものともいえない。. ところで黄洋ほ,注入教育の弊害,つまりそれが排撃されねばならない理由として,吹 の4点をあげている。. (1)注入教育は「何でもかんでもチョイチョイ知つて居るが,一つ. も身につかない+という結果に終る。この意味でそれは,きわめて「非実際的+である。 「頭の働きのない,器械的の (2)注入教育は生徒に暗記を強い,その自発性を抑圧して, 「恒久. (3)散漫・無連絡の学科の並列は,基礎学力の養成に役立たぬ上に, (4)注入教育ほ「少年の頭を疲労せしむる+ 性,持久性+を培う妨げになる。 人間を造る+0. 「ニトリの. ない,セセッコマシイ教育+であって,彼らを「神経質・感情的+ならしめ,さまぎまの 社会病理現象を生み出す原因ともなっている。 (2)自由討究の批判主義, この4つの弊害が,同志会の主張する(1)実際・実用の重視, (4)知識・感情調和の常識主義の反対物であることほいうまで (3)進修不息の活動主義, もないが,田中治六も「教化普及の利弊18)+において,教育・文化(田中は「此に謂ふ教 化とは教育・文化の義なり+といつている)の普及が生み出した「危険と弊風+とを,同 志会の主張との関連で把握している。田中によれば教育・文化の普及は,. 想・自主独立の精神とともに,. (a)自我の思. 「社会国家より抽出したる個人其物+を骨張する「本能満. (b)窮屈な学校生活が青少年の「神経. 足の自然主義+や「利己拝金の主義+をもたらし,. を過労+せしめて,種々の「犯罪的行為や風紀素乱+を招来し,さらに,. (c)知識の増大. (d)職業選択の自由と就職難を生み出している。 「平凡劣機のものを標準+とする「軟教育+を普及させたが,. とそれに対応する「八百屋的学習の風+ また(e)就学者の増加は,. その反動として「昔時の迷夢なほ醒めざる+. 「硬教育の声+が起り,. 育に偏しで性格陶冶が等閑視されるため,武士道・儒教・禅など「保守的+. (f)知識・技能の教 「常套的形式+. による修養が叫ばれたりもしているという。そして田中ほ,これらの「危険と弊風+克服 の途を指し示すものは新仏教だとして,次のように述べている。.

(6) 久. 6. 幸. 木. 男. 新仏教ほ文明治時代の所産なり。教化普及の結果なり。故に我徒の見地は此大勢より 生れ,而も之を滞導して有終の美を済さしめんとするものにあらざるはなし。自由討究 及び自力的信念を唱ふるは自我思想の発展に応ずるもの,健全なる常識主義は病的歳弱 の対症剤なり。知識の博大には理性の権威と知情の平衡とを以て,職業の選択には平穏 満足を,教化の普及,衆民の救済には平凡主義を,活動的現代には進修不息の努力主義 を以て対す。而して之等諸主義を統一するに仏教の根本義たる汎神観を以てし,かくし て活ける新人格の往く処に新道徳成り,到る処に光栄あり,意義あらしむるほ,即ち我 徒の主張なり,信条なり。. これに対して黄洋ほ,新仏教の思想が弊風克服の指標となることを固より承認しつつ, より具体的な克服策として,日常生活と連絡を失ない「生徒の軽蔑を受けて居る+修身教 育の改善, 「永遠の生命のある書物+ 「不朽の価値+ある古典を教科書に採用することのほ 「今後の教育科目はもつと総合して簡便なもの+にし, か,一種の広域教科制を主張して, 「総合的に実際的に教授すること+を力説している。そして,どの学科とどの学科とを統 合するべきかはまだ深く研究していないが,文法・会話・訳読,代数と幾何,歴史・漢 文・修身などほ「随分総合の余地ある学科+だと述べている。すでに樋口勘次郎19)以来, 教授の統合,教科の総合の主張や実践が重ねられていることは周知のとおりだが,それら の多くは小学校におけるものである。中学校においてほむしろ科目の細分化が進行してい. る20'。このような状況下に,黄洋が中学校における広域教科制や統合教授の主張をしてい ることほ,やほり注目に価するといってよい。 黄洋が問題をカリキュラムにしぼり,田中が教育普及という視点から議論を展開したた め,. 「危険と弊風+とを学校教育にもたらした根本の原因についてほ,この二人の論文で. は十分に論じられていない。この問題を正面から取り上げ,国民の教育要求という視点か ら公教育批判を試みたのは,東京朝日の記者・川村十二郎の「教育民営論21)+である。彼 は先ず,. 「今の日本国民今の青年+が,まったく「柔弱無抵抗無弾力+で,. 「正義公道の為. に,一個の私利私情を捨て,平和の戦場に立つて非理不道徳と奮闘するの勇気と確信+杏. 喪失している事実を指摘し,その原因を「過去四十年間に於ける我が国教育主義+に求め て次のようにいう。 明治政府の新経営者は,代々自己の政策に対して従順なるべき,忠良の国民を作るべ. く,代々巧みに国民に去勢術を行ひつつ,今日に至つたのである。而して之が為には圧 「ママ). (ママ). 迫,懐柔強制干渉等有ゆる手段を用ひ,勅○忠孝,彰表の鼻薬を配剤して先づ之を小学 校中学校及び其の教員等に対して施したる結果,其の効験空しからず,年と共に薬の利 きやう著しく,遂に全く国民及び国民の子弟は,小心翼々として只管御上の御命令に違 背せんことを是れ恐るる柔弱無弾力にして,為政者の為には此の上も無き良民と化L終 つたのでは無いか。. つづいて彼は,最近における「国民去勢策+の例として,明治42年に始まる地方改良 運動をあげ, 「現今の教育は膏に国民の要求する処と相距る遠きのみならず,却つて国民 の幸福を減殺すべき幾多の弊根を蔵して居る+と断じる。そしてさらに,今日の教育が.

(7) 7. 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 「国家本位国民の教育にほあらずして,御上本位為政者万能主義に立脚した教育主義+だ ということほ,. 「是を制度の上より論ずれば,官学本位主義+であって,国民が「巨額の 「是. 教育費を負担+して「自己の利益に反する+公教育体制を維持させられているのほ, れ畢尭盗掛こ鍵を貸すの愚をなせる老+であると結論するo. このような結論から導き出される「弊根+除却策が,教育民営の主張-「国民は自ら 「官学本位主義+に 時代の要求に応じたる教育棟関を施すベきである+という主張であるo 対して,いわば「私学本位主義+といってもよい。もっとも,私立学校令(明治32年) 早,専門学校令・公私立専門学校規程(明治36年)などを通じて,. 「文部省の所謂劃-政. 莱+が「特色ある大小の私立を撲滅し尽してしまつた+状況のもとにおいて,教育民営を 「左れど今日の状態が,果して 「制度の上に於て行ふ事+の困難を,彼も十分認めている。 幾年の後まで継続すべきか+と一方でほ将来に希望を托しつつ,さしあたっては「校外機 関に依りて是が欠陥を補ふの方法+を採ることをすすめているoただしその具体策は提示 されてはおらず, 「教育民営論+の重点ほ,やほり国民の要求をふみにじる公教育批判に あったというベきであろう。. 萄洋も田中治六も川村十二郎も,こぞって指摘している青少年の「元気喪失+. 「無気力+. 20世紀初頭,とくに日露戦争後の社会に顕在化した傾向として種々の議論を生んだ 問題であって22,, 『新仏教』誌上でほ三輪政一が取り上げているが23',とくに目立った論 は,. 点が出されているわけでもないので省略するoそれよりも,川村の教育民営論との関連で 注目されるのほ,高島米峰の「高等師範学校廃止論24'+であるoその主張の要点ほ・ 高等師範学校創立の目的既に達せられたるが故に,これを廃せざるベからずo高等師 範学校出身者は役に立たぎるが故に,これを廃せざるベからずo教員の供給に依枯行ほ るるが故に,これを廃せざるベからずo高等師範の存在は,天下青年の元気を衰へしむ るが故に,これを廃せざるベからず。 というに尽きるが,同時に,. 「文部省が常に私立学校を敵視し--(その)功労を認めざる. (ママ). の偏頗を噸笑して,これに改悔を為さしめむとすることも,また本論の目的の要部を成せ りo而して,これ実に予の宿論にして,決して一時の出来JLにはあらざるなり+と述べて いることからたやすく判るように,そこには川村の主張と相通じるものがあるのみでなく,. それは米峰始め同志会の人びとの「宿論+でもあったのであるo 要するに新仏教徒同志会は,この時期の日本の教育を「危険と弊風+を深く蔵した,矛 盾にみちた存在としてとらえ,それを克服する途を指し示すものほ新仏教の思想だという 確信に支えられつつ,矛盾の原因をカリキュラム・訓育,教育体制などさまざまのレベル. で追求している。そこに自由討究の批判精神が一貫していることほ明らかであるoこの批 判精神が続発した教育諸事件をどのようにとらえ,また何をそこから引き出したかを,吹 に検討しよう。 注 1). 『新仏教』第11巻 顛「浩々洞+ 2)宮城. p・651fE・ 第7号, (明治43年7月) p・ 375ff・) 『清沢満之の研究』 (教化研究所〔編〕.

(8) 3 4 5 6. 7. 境野黄洋「新仏教幼年時代+(『新仏教』第6巻 第4号,明治38年4月, p. 280) 吉田久一・高島 進『社会事業の歴史』 p. 204. p. 342ff.) 杉村,#横「倫理問題大演説会+ (『新仏教』第4巻 第4号,明治36年4月, 柏原祐泉「明治仏教における結社運動+ (『印度学仏教学研究』第8巻 第1号, p. 223) 池田英俊「新仏教徒運動に於ける信仰復興について+ (『印度学仏教学研究』第6巻 第1号, p.283). 8) 9) 10) ll) 12) 13) 14). 15) 16) 17). 18) 19) 20). 21) 22) 23) 24). 吉田久一『日本近代仏教史研究』r p. 359. 宮城 顕「浩々洞+ (教化研究所〔編〕 『清沢満之の研究』p. 379) 第7号,明治43年7月, 境野黄洋「新仏教十年史+ (『新仏教』第11巻 同上, 同上, 同上,. p. 668ff.. p.. 675.. p.. 678.. p656.). 吉田久一『日本近代仏教史研究』 p. 303f. p. 374. 清沢満之「転迷開悟録+ (『清沢満之全集』第7巻, p. 75.) p.212ff. 第3号(明治43年3月) 『新仏教』第11巻 沢柳政太郎『実際的教育学』 (『沢柳全集』第1巻, p. 134.) p.4ff. 第1号(明治44年1月) 『新仏教』第12巻 樋口勘次郎『統合主義新教育法』 p. 64. 例えば明治45年の中学校教授要目を,明治35年のそれと比較すると,博物1科目,地理2 科目の増加が見られ,科目細分化の傾向がうかがわれる(『明治以降・教育制度発達史』第4 巻, p. 192ff.第5巻, p. 153ff.) 第10号(明治44年10月) 『新仏教』第12巻 p.963ff. p. 68ff.) 山本良書「学生元気問題+ (『教育学術界』第13巻 第7号,明治39年9月, p. 580f.) (『新仏教』第12巻 第6号,明治44年6月, 三輪政一「教育界の二大欠陥+ 『新仏教』第7巻 第12号(明治39年12月) p.906ff.. 明治35年から36年にかけての哲学館事件は,新仏教徒同志会が創設後始めて遭遇し た大きい教育事件であった。黄洋・米蜂・田中治六・林竹次郎など哲学館関係者を多数擁 していたこともあって,同志会は『新仏教』誌上に論陣を張り,また前述倫理問題大演説 会を開催して世論の喚起に努めるなど,この間題にまっこうから取り組んでいる。哲学館 事件ほ,同校講師・中島徳蔵担当の倫理学卒業試験に,動横論を採らなければ自由のため に常道をなす者も責罰されるという不合理が生じるという趣旨の答案があったのを理由に, 中島の学説が「国体に合せざるもの+と臨監の視学官によって認定され,中島ほ哲学館お よび東京高工講師を退職,哲学館ほ中等教員無試験検定資格を取り消された事件であるが, その経過や教育史的意味などについてほ,ずでによく知られているところであって1),改 めて述べる必要もないと思われる。ただ同志会の該事件批判の論点と関連ある事項を中心 に,主として哲学館側の資料2)によって,事件の要点のみを整理しておこう。 石田 雄氏も指摘しているところであるが1),この事件で先ず注目されるのほ,中島の 学説が「国体に合せざるもの+という認定が,文部官僚によっていち早くなされているこ とである。事件のきっかけとなった答案は,中島が使用した教科書(ムイア-ッド『倫 理学』)の一節を暗記記述したものであるが,すでに試験の当日,臨監の隈本有尚視学官 が, 「ム氏の主義に批評を加-たりや+. 「動機善なれば拭虐も悪に非ざるにあらずや+など.

(9) 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 9. と中島に質問していることによっても,中島およびムイア-ッドの学説(動機説・自我実 日,無. 現説)の当否が最初から問題になっていることがうかがわれるが,同年12月14 試験検定資格取消処分をなすに当り,野尻精一祝学官が哲学館講師・湯本武比古に対し,. 「教師が不都合. 処分の主な理由は「教科書が国体上軽からざる不都合事を含有せしこと+ なる考を有し居ること+だと述べていること,翌36年1月29. 日の『読売』紙上で隈本 (ママ). 視学官が「若し目的が善ければ手段ほ構はぬとすれば,伊庭想太郎--の行為も非認され 日 2月15 ぬ訳となり,日本の国体上容易ならぬ事にもなりませう+と語っていること, 『時事新報』所載の「文部当局者の弁疎+に, 「国体に伴ほざる危険の講説を為したる哲学. 鰭+とか,. 「哲学館にして若し今後共国家に危険なる倫理学説を唱導するものと信ぜば,. 断然閉鎖を命ずることあらんのみ+などの語句が見えることなども,文部官僚が学説審査 を行ない,それにもとづいて処分をしたものであることを,はっきり物語っている。 『時事』紙上. これに対し中島ほ,処分の不当を論じた公開抗議文を1月28日の『読売』. に発表,これがきっかけとなってジャーナリズムはこの問題をいっせいに取り上げ,各紙 はこぞって中島擁護・文部省批判の記事・論説をかかげた。新仏教同人も,田中治六・高 島米峰がそれぞれ『東洋哲学』 『中央公論』誌上に中島擁護論を展開している。こうして 事件は,広く社会の注目をひく大事件となっていったが,文部省批判の新聞論調に共通に 見られる点は,例えば『東京朝日』が,. 「我国体に合せざる極端なる引例迄も書籍の値講. 授し+た中島ほ「不注意の責を免れ+ないが,. 「之に制裁を加ふるは少く苛酷の嫌あり+と. 述べているごとく8,,中島の不注意を認めた上で,無扇南扇蚕琵遍ぎ るとしていることである4)。しかしこのような形での批判ほ,. 長官談話「ミュア-ッドの学説を一切否認したるにも非ず+. 3月12. 日の岡田良平総務. 「教授上の不注意より哲学館. に対する認可の特典を取去りたるにすぎざるなり5)+に見られるような,問題のすりかえ による反撃を許すことになったことも否定できない。. この間,東京帝大哲学科3年生代表が「公開質問状+を発表して,. 「学者たるもの如何. の態度を以て国体若くほ皇室に関する事理を討究すべきか+を明らかにせよ,と「学界の 識者+に問いかけたが6),上述のように事件の本質があいまいにされていく中でほ,もと より明快な解答が得られるべくもなかった。 「学者に対する迫害+と題する この事件に対する新仏教の批判は, 「新仏教子+の名で, 巻頭論文の形をとって発表されているが7),その論旨は一般新聞論調とほ著しく異なって いる。むろん中島擁護・文部省批判の立場をとっていることはいうまでもないが,事件の 「学界の趨勢に陪昧+な 中心問題を「中島の不注意+に対する「苛酷な処分+に求めず, 文部官僚が「学者に対してその思想の自由に迫害を加へた+ものとして,次のように断じ ているところに,その特色がある。 文部省の此の処置ほ,最初素より不注意を尤めんとしたるにはあらず.熟ま「動機善 なれば拭虐も亦可なり+といへる表面の文字に驚き,其の所謂専売業たる忠君愛国の標 準に照し,学説を危険と認め,其の冷酷過当の処分も,必ず世の同情を得べきことを予 想したりしより出でたるものなり。他語にて言-ばこれを取りも直さず学説上の衝突な.

(10) 10. 久. 木. 幸. 男. り。其の最初に当りムイア-ッドの学説を以て最も危険なるものとし,之を文部省に報 告したるものは誰ぞ。視学官隈本某なるものにして,彼ほ自ら倫理上直覚説を取るもの なることを明言したりといふ。然らばこれ直覚説と自我実現説との衝突其の困をなした るものといふベし。. --一般倫理学老の間に最も穏健中正の学説と信ぜられ,殆んど定 論となれる自我実現説を,数学者隈本某が,日本に於て否定せんとし,日本の文部省が 之を認めたりとは天下の奇妙不可思議なる現象にあらずや。. -・宜なる哉我国の倫理学 老も,今や一般に自我実現説の穏健を認め,大学以下公私の専門学校, -として此の学 説を講ぜざるなきや。しかも文部省は之を知らざりき。. --事の漸く世に喧伝されんと するに及び,始めて此等の事実を知り,驚いて辞を設けて日く,不注意の一事此の件を 惹起すと。. そしてさらに,中島の不注意を処分理由とする見方の矛盾を次のように指摘する.. -. 中島の不注意なら,哲学館退職ほとにかく,無試験検定資格剥奪という不利益処分を生徒 に及ぼす理由はなく,また中島が東京高工を免職になる理由もない。もし中島が東京高工 でも不注意を犯したと「推測+され,教師の不注意が生徒の資格剥奪にまで及ぶベきだと するのなら,高工生が不利益処分を受けぬのは不審だ。その上中島は,日本法律学校講師 を退職させられず,その生徒も何ら処分を受けていない。要するに中島の不注意というの は,. 「単に一片の言ひ訳に過ぎ+ない。. の処分をなし+. 「文部省が学界の趨勢に暗味なりしがため,過て其. 「其の過失を掩ほんがために不注意の辞を設けて学者に迫害を加へた+の. が事件の真相であり,. 「不注意+なのは中島ではなくて「寧ろ文部省+である。. このように,事件の中心ほ「不注意+でなく「迫害+であり,しかもその迫害は,. 「殆. んど定論+となっている学説に対して無知な文部官僚の慈意によって加えられたものだと する論旨ほ,事件の経過に照らしても,たしかに青紫に当っている。しかし洛意発動の起 点ともなり,弾圧の大義名分ともなった「忠君愛国の標準+そのものには,何ら検討が加 えられていない。新仏教がその自由討究の立場から学問・思想の自由擁護を主張したのは 当然だが,自由を妨げる「忠君愛国の標準+を自由討■究の姐上にのせなかったため,結局 学問の自由を声高く叫ぶだ桝こ終り8),必らずしも事件の本質や背景を正確にとらえた有 効な批判とほなり待ていないし,また東大哲学科生が提起した問題にも答えていない。せ いぜい「忠君愛国の一手販売を専業とする日本の文部省+といった,皮肉の口吻を洩らす に止まっている9)。この点に関してほむしろ,前述倫理問題大演説会における一部同人や 同調者の主衷に,かえって注目するベきものがあるようである。. 既述のように1000名をこえる聴衆を集めて明治36年3月22日開催されたこの演 説会では,同人の高島米峰・毛利柴庵・加藤哨堂,同人外10)では石井佐助(早大生) 治突然・木下尚江・村上専精が哲学願事件を取り上げている11)。演説会の様子は杉村の記 録によってその大略がうかがわれるが,各人の論旨の細部には不明確な点がないでもない。 しばらく杉村の記すところ12)によって上記7名の論旨を分類すると,およそ次のとおりに なろう。. (1)ムイア-ッドの動機説を危険視するのは杷憂だとするもの-石井・佐治・村上o. ・佐.

(11) 11. 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. (2)自由圧迫・私学弾圧を文部省の一貫した政策ととらえ,官学・官吏批判に重点を おくもの-毛利・加藤。とくに毛利柴庵がこの事件を,久米邦武事件・尾崎共和演説事 件・足尾鉱毒事件と一連のものとして把握しているのは注目される。 (3)直接・間技に「忠君愛国+を問題にしていると考えられるもの-米蜂・木下。 高島米峰ほ,杉村によれば「之(哲学館事件)に対して真先に其所信を公にして,天下 を指導すべき大学教授連の,兎角に蓬巡して奮ほざるを憤り,はては赤門の末路に論及し てさんざんの噺罵拓馬熱罵冷罵を極め+たといわれるが,その大学教授批判の具体的内容 は分明でない。しかし桑木厳翼・元良勇次郎・井上哲次郎などの「大学教授連+ほ,この 時期までにそれぞれ事件に対する「所信を公にして+おり(井上ほ文部省擁護・桑木・元 良は中島擁護),朝永三十郎・波多野精一・藤井健次郎・桑木・村上・元良ら丁酉倫理学 会員が,. 「動機説を教育上危険と認めず。. -ヰ島氏が其引例を其の値になし置きし所作 を以て,深く杏むべき不注意に非ずと認む+という声明書18)を出していることも,著名な 事実である。それゆえ米蜂が「大学教授連が兎角に蓮巡して奮ほざるを憤+ったのほ,彼 らがまったく沈黙を守ったからではなく,その発言が核心にふれていないと米蜂が判断し 「教授連+が哲学科学生の公開質問状に答えなかったことを直接米峰が. たからであろう。. 取り上げたのか否かは判明しないが,米蜂自身の発言が,この学生たちのそれに近いもの だったのでほないかとも考えられる。これに対し,忠君愛国を直接問題にしたのほ,木下 尚江であるが,それは忠君愛国を「小にして取るに足ら+ぎる「些事+だときめつける形 「道徳の名に於ける迫害+と題する木下の演説は,吹 でなされた。杉村の要約によると, のような趣旨だったという。. 君ほ先づ我の満足より説き起して,人格の発達に及び,さて日く,人格なるものほ家 族的より種族的に進み,種族的より国家的に進み,以て今日の形勢を造れり。されども,. 世の現勢は尚過渡の一時期にして,更に之より之を世界的に進ましめぎるべからず。今 日の識者努力すべき所ほ,実は此の点に外ならず。狭陰なる意義に於ける忠君愛国の如 き些事に至って,請ふ姑くいふこと勿れと。 見方によればすこぶる平凡,あるいはきわめてひかえ目な表現とも受けとれるが,忠君 愛国が些事だというのほ,やはり事件の核心に迫まる批判であろう。周知のように中島自 身も,また多くの中島擁護論も,動機説は国体に反せず忠君愛国に背かないという形で論 旨を展開しており,その限り,. 「忠君愛国を標準+とする文部省側と共通の地盤に立って. いる。この共通地盤にはっきり疑問を投げかけたのが木下演説である。哲学科学生の問題. 提起に十分に答え得るものとほなっていないにしても,この事件をめく中る議論の中でほ, やはり出色のものとしなければなるまい。. 木下ほかねて米蜂と親交があり14), 『新仏教』誌にもたびたび寄稿しているが,むろん 同人ではない。哲学館事件に対する最も核心を衝く批判は,新仏教徒同志会同人でほなく, その同調者によってなされたことになる。これに対して,哲学館事件と相前後して起った 教科書事件に対する異色ある批判を展開したのほ,黄洋の「教育家収賄事件の意義+であ る。.

(12) 12. 久. 木. 幸. 男. 教科書事件ほ事件としてはきわめて単純な,教科書会社と教科書採択委員との問の贈収 賄事件であるが,その摘発の当初から,. 「書籍と教育家との間に怪聞醜行の多きほ殆ど天 下の公論15'+と報道されているごとく,溝件がたちまち全国的規模にひろがったことや16,, またこれを契機に教科書国定制が一挙に強行される-ともに,一方でほ文部省廃止論17,が唱 えられるきっかけとなったことなども,よく知られているところである。. 『新仏教』誌ほ 「排文部省+と題する地方読者. 教科書国定制にほ沈黙を守り,文部省廃止論に関しては,. の投書をのせているのみで18',批判ほもっぱら疑獄事件そのものに集中している。. 新仏教のこの事件に対する批判としてほ,黄洋の論文以外に,和田覚二(不可得)の, 「教科書疑獄事件を憤慨する者ありo. これも亦今の世をあまりに詩歌的に見たる謬り也。. --骨と皮にて造り本を教ふる教員として,黄金の面は悪しからず見ゆるなるべし19,+と いう短評や,田中治六「現今の道徳問題20'+があるo田中は先ず,事件の原因を個人の廉. 恥心欠如や利欲追求に求める発想を否定し,旧道徳の廃弛・新道徳の未確立・欧米輸入の 物質的拝金主義の盛行という「過渡期の混沌+が事件の根本原因だとする。しかし物質的 拝金主義そのものが悪なのではないo欧米における「此主義はその裏面に於ける精神によ りて巧みに運用せられ,自ら妙用をなしつつある+が,わが国でほこのような,資本主義. 的利益追求の精神とそれに対応する市民社会の倫理とが平行していない。それゆえ, 質主義をして道義的精神と相待ちてその活動を謬らざしめること+具体的にほ,. 「物 「自律的道. (ママ). 徳によりて各人格の尊重すべきを所以を知り,以て真成の自由及び人権の確立を目的+と した近代市民倫理の確立こそが急務であり,それによって「早く過渡期を過ぎて,日ざす 所の新天地に進ましめんことを努むべきなり+と,田中は力説するのである。 しかし田中ほ・市民倫理形成がわが国で妨げられてきた要因についての分析をほとんど. していない(物質主義の皮相の模倣という指摘をしているのみ)。そして, 「目ざす所の新 天地+に対する,かなり楽観的な期待を,この段階でほもっていたようである。このよう な田中論文の不十分さを補なうものほ,既述の「倫理問題大演説会+での演説をまとめた, 黄洋の「教育家収賄事件の意義21'+であろうo彼も田中と同じく,事件を個人のレベルに 引きおろして見ることを拒否し,さらに「独り教育家の問題とし取扱ふことを欲しない+ というoなぜなら,政府の議員買収を始め,陸・海軍省,農商務省,鉄道院などでも,賄 賂は「公然の秘乳となっており,このような天皇制官僚機構全体をおおう腐敗の一端が 「偶ま教育の方面から噴き出した+のが教科書事件にほかならないからである。そして彼 ほ,この事件をとおして「社会が其の根本的政治を要求して居る+のであり,ここにこそ 教科書事件の意義があるという.むろん救治のた捌こは腐敗の原因が明らかにされわばな らないが,黄洋も田中と同じく,国民道徳の在り方と資本主義がひき起した問題とに,そ の原因を求めるoしかし前者に関しては,田中のいう旧道徳の廃弛でほなく,旧道徳旧価 値観の根強い残存こそが問題だとする.そして一例として,封建時代の役得思想が「久し く政府の役人の間に存して居る+事実をあ帆さらに,道徳観念や思想と実際の道徳との 間にズレや撞着が広く見られることを指摘して, 威厳ある道徳を見ることが出来ないo. 「其の撞着の間に養はれたる所の国民ほ,. -・終に道徳などほつまらない,倫理などほ堅苦し.

(13) 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 13. いといふ放縦の風に陥る+と述べ,たてまえ道徳の普及が国民の道徳感覚を麻痔させてい る事情を明らかにしている。要約すれば,旧道徳の温存とたてまえ道徳の普及とが,道徳. 的退廃をもたらしたということになるが,誰が旧道徳の温存をほかり,たてまえ道徳の普 及に努めたかについては,黄洋ほ直接にはふれていない。資本主義の発達が惹起した問題 についてほ,彼はとくに奪惨-消費の増大を取り上げ,. 「菅惨の風を排斥しなければな. らぬ+と述べているが,それが「我々の如き貧乏に苦しみ,社会の奪惨の風潮に伴ふこと の出来ぬものほ,此の奪惨といふことについての感が特に深い+という立場からの,つま り分配の問題を視野におさめての発言であることは,一応注目されよう。しかしより注目. しなければならないのは,退廃の根本原因を信仰の欠如に求める,次の発言である。 社会の道徳思想の腐敗は,畢寛国民に信仰のない結果である。故に根本的救治は,国 民に信仰を与へるといふこと以上の第一義諦はない。信仰といふことを教育の仇敵の様 に思つて居つた,また現に思つて居る日本の教育者ほど禍なるものほ恐くはあるまい。. 信仰なき国民,信仰なき教育者の胸の内にほ,神の声ほ聴かれない。仏の慈悲は観ぜら れない。力ある命令が心の奥から発せられるといふことがない。彼等は実に悲しむべき ものであると弔せざるを得ない。 すべての問題を信仰の有無に短絡するという,宗教家が往々陥りがちな傾向を,ここで 黄洋がおかしているのでほない。このことほ,信仰と教育とが「仇敵の様+な関係にある ことを指摘していることから,容易にうかがわれよう。このような「仇敵+関係ほ,周知 のように,天皇信仰を国民に強制するために普遍宗教排除をほかった一連のできごと教育勅語・教育と宗教衝突事件・訓令12号など って,. の中で成立した関係である。したが. 「国民に信仰を与へる+ためにはこの関係が廃絶されねばならず,そのためにほ天. 皇信仰強制・普遍宗教排除の諸措置が撤廃されねばならない。. -少なくとも黄洋の主張. は,このような意味を含蓄している。 もっとも黄洋ほ,信仰と教育との関係については「今しばらく之を論じない+として, 議論の鋒先を,旧道徳批判・資本主義の害悪是正などに転じている。しかし旧道徳が天皇 制教育の有力な土台の一つであり,また教科書事件が天皇制官僚機構全体の腐敗の現われ ととらえられたかぎり,天皇制教育体制そのもの-の批判を含蓄することになったのは, ふしぎではない。ただし,黄洋が教育勅語を正面から取り上げて論じるのは,後の訓令1 号批判においてであり,おそらく日露戦争に際して非戦ないし厭戦の傾向を深めた経験が, 天皇制教育体制に対する姿勢の明確化に与ったのであろう。 ところで,黄洋が非戦厭戦の態度を示した日露戦争は,一面からいうとまた一つの教育 事件でもある。しかし日露戦争に対する同志会同人の態度が区々であることほ,すでに吉 田久一氏がくわしく明らかにしたとおりで22),とくに付加するべき点もない。この戦争が 教育に及ぼした直接の影響を取り上げた林竹次郎「国家のため+. (「漠+というペンネーム. で発表)を紹介しておくにとどめよう。 見ずや小学校の生徒のあるものほ,国家の為にとて飯を喰はせられずして,憶惇枯稿 したるにあらずや。見よ農民の或者ほ,国家のためなりというて土地の栄養産物の蕃殖.

(14) 14. 久. 木. 宰. 男. を怠り,其家族を敗顔せしめ其の子の教育をも捨てたるにあらずや。国家の為というて 教育家ほ,その口その手その足を縛られたるにあらずや。. --国家のためといふにより. て学問教育ほすべて敗顛し,文学技芸は堕落し,一般の人心ほ,すべて荒敗に帰せるに あらずや。. --あゝ国家のためとほ,まことにかくの如きものなり28). 注 240ff.. 1. 石田. 2. 中島徳蔵先生学徳顕彰会(編) 『中島徳蔵先生』p・ 66ff・ 『東京朝日新聞』明治36年2月1日。 『万朝報』 (明治36年2月1日)も,中島の不注意ほ「さしたる過失といふべからず+と論じ 『中央新聞』(明治36年2月1日)も,中島一人の不注意に対し,哲学館を処分したのは「没 常識にして頑迷不霊+と述べるなど,論議を中島の「不注意+に対する「処分+の当否に集中. 3 4. 雄『明治政治思想史研究』. p1. している。. 『日本新聞』明治36年3月12日。 『時事新報』明治36年2月19日。 『新仏教』第4巻 第3号(明治36年3月). 5. 6 7 8. 9). p・176ff・. 『読 この事件を,官憲による学問の自由の圧迫ととらえたのは,むろん新仏教だけでほない。 「当局者の浅識+が学問の圧迫を招いたとしている。 売新聞』 (明治36年2月8日)も, p・ 371)も'文部省 (『新仏教』第4巻 第5号,明治36年5月, 無平無T^斉「文部是文盲+ の学問圧迫を焚書坑儒に喰え,秦が久しからずして滅亡したごとく,文部省は「教科書収賄の 「因果応報亦甚だ速かならずや+という,感情的 醜徒百数十名を其部下より出した+として, 反発のレベルに止まっている。. 10) ll) 12) 13) 14 15. 16 17. 18 19 20 21 22. 23. 同人外の4名は,いずれも新仏教のシンパないし同調者である。 帰一,平井金三も演壇に立っているが,黄洋と平井ほ教 科書事件を論じ 融ほ新仏教の現世主義道徳について語っている。 p・ 342ff・) (『新仏教』第4巻 第4号,明治36年4月, 移村縦横「倫理問題大演説会+ 「中島徳蔵日記+によると,会員のうち,井上哲次郎と吉田熊次は声明書に「大不賛成+だった という(中島徳蔵先生学徳顕彰会〔編〕 『中島徳蔵先生』p1 382) p・ 10f・) (『新仏教』第11巻 第1号,明治43年1月, 木下尚江「浪人独語+ 本文にあげた7名のほか,黄洋,融. 『万朝報』明治35年12月18日。 (国民教育奨励会〔編〕 『教育五十年史』p・ 233f・) 渡辺董之介「国定制度の実施+ 辻 新次「文部省廃止すべからぎるの意見+ (『教育公報』第275号,明治36年9月, p・601・ 『新仏教』第4巻 第7号(明治36年7月) 105) (『新仏教』第4巻 第2号,明治36年2月'p・ 和田不可得「如是我観+ 『新仏教』第4巻 第2号(明治36年2月) p・111ff・ p1260ff・ 『新仏教』第4巻 第4号(明治36年4月) 吉田久一『日本近代仏教史研究』 p. 388・ p・623・ 『新仏教』第5巻 第8号(明治37年8月). p・1ff・). ⅠⅡ. 日露戦争後,新仏教徒同志会が立ち向った最大の教育事件は,明治39年の文部省訓令 1号,いわゆる「風紀訓令+問題であった。戦後に噴出した天皇制教育の諸矛盾を解消す る途の一つを,学生・生徒の思想・行動の統制という方向に求めたこの訓令ほ,これまで 注目されることが比較的少なかった。それほこの訓令が,後述のごとく賛否両論を呼び起 して教育界の大きい問題となりつつも,結局たいした効果をあげることもなく,自然消滅.

(15) 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 15. に近い形で収束されたからでもあろう。しかし,訓令がひき起したさまざまの波紋や,そ れをめくやってかわされた議論の中には,いくつかの注目するべき問題が示唆されている。. ただし,それらを詳述する余裕はないので,同志会の訓令批判に焦点をあわせつつ,訓令 問題のあらましを先ず紹介しよう。 明治39年6月9日付で牧野伸顕文相によって出された,比較的長文のこの訓令は,「学 生生徒ノ本分+が,. 「健全ナル思想+. 「確実ナル目的+をもって「刻苦精励+するにあるこ. とを序論的に述べた後,最近の「青年子女+に「意気鎮沈+ るという。すなわち,. 「風俗頚廃+の傾向が認められ. 「現二修学中ノ老ニシテ或-小成二安シ奪移二流レ或-空想二煩悶. シテ処世ノ本務ヲ閑却スルモノ+守,. 「放縦淫廉ニシテ操行ヲ素り惜トシテ恥チサルモノ+. が少なくないが,その原因は「家庭ノ監督ノ方ヲ謬マリ学校ノ規律漸ク弛緩+した点に求 められる。それゆえ頚廃防止・風俗矯正のためにほ有害な図書および社会主義思想から青 少年を隔離する必要がある,として次のように述べている。 近時発刊ノ文書図画ヲ見ルニ或-危激ノ言論ヲ掲ケ或-厭世ノ思想ヲ説キ或-晒劣ノ 情態ヲ措キ教育上有害ニシテ--学生生徒ノ閲読スル図書--. -苛モ不良ノ結果ヲ生ス -キ虞アルモノ-学校ノ内外ヲ問-ス之ヲ禁遇スルノ方法ヲ取ラサル-カラス 覇者極端ナル社会主義ヲ鼓吹スルモノ往々各所二出没シ種々ノ手段二依り教員生徒等 ヲ証惑セムトスル者アリト聞ク-・・危険ノ思想教育界二伝播シ我教育ノ根抵ヲ動カスニ. 至ルコトアラ-国家将来ノ為メ最モ寒心ス-キナリ事二教育二当ル者宜シク留意戒心シ. テ矯激ノ僻見ヲ斥ケ流毒ヲ未然二防クノ用意ナカル-カラス1) 訓令が出た直後の反響はまったく様々であった。 『万朝報』ほ「吾人は敢て双手を挙げ て賛する所也2)+と書き, 『教育時論』は「頗る時弊に適中するもの+と賛意を表しつつ も, 「訓令一片の効能ほ甚だ持久力の薄弱なるもの+とその効果には疑問を投げかけてい る8)。一方,学生風紀問題は「眼前耳目に触るる小問題+にすぎず,それよりも「社会の 大問題に着限する+べきだし,風紀退廃ほ主として政府指導者の私行に原因があるとする, 大隈重信の批判4)もあったし,また鎌田栄吉は,文相が「一般の学生の精神上に立入りて 公然取締りを為さんとせるは慎重の見解と云ふべからず5)+と,訓令が意図する思想取締 りを非難した。教育界の反応は当初は一般に冷淡で,. 「帝国大学の如きほ伝来の習慣によ とく. い. りて放らに拘泥せざるの態度を執り+私立学校は「生徒を花客とする程ゆゑ,厳重なる取 締を為すに梼緒+しており,府県立中等学校でも,生徒にこの訓令を朗読して聞かせる程 度だと報ぜられている8)。また成瀬仁蔵(日本女子大)が,. 「本校ほ常に風紀の矯正,品. 性の陶冶と云ふに重きを措き-. ・訓令が出たからとて教育の方針に変更を加へる必要はあ りませぬ7)+と語り,東京府立四中校長が, 「本校ほ創立以来訓育に重きを置き--今更. の如く周章狼汲すべきものあるを知らず8)+と述べているように, 広告9)+だと皮肉られるような意見を洩らす校長も少なくなかった。. 「多くは直ちに自校の. 訓令を出した文部省側にも,その実施方法や実効性については,あまり成算がなかった らしい。訓令発表直後には,. 「訓令施行方法に付き,各直轄学校並に地方長官に対し頗る. 綿密なる内訓を発布したる由10)+と報ぜられたが,この「綿密なる内訓+,が実ほ,. 「特別.

(16) 久. 16. 木. 幸. 男. に詮議すべきものを各学校長教授等の協議に任せ,図書の選定なども宜しきに従って取捨 せしめ,必ずしも文部省より一々指定せず+といった程度のものだったことが,後に明ら かにされている11)。文部省は訓令を出したもののその有効な実行策を見出しかねたらしく, 「近来頻りに高等官会議を開きつつあるが,由来風紀上に関する大問題なれば,中々容易 最初, 「学生風儀の奔放ほ, に決定するに至らざるべく12)+と報ぜられる有様であったo 予が予想に超越せるものあり13)+という危機感に駆られて訓令を出した牧野も, 6月下旬 にほ「斯問題ほ到底一時に決定すること能ほず. 期すべし14)+と語るほどに後退している。そして,. --一歩々々に佳良の成績を得んことを 「数回の高等官会議+が出した結論は,. 「地方状況を承合する必要+があるとして,府県知事に照会を発することにすぎなかった15)0 文部省が具体策を出しあぐねている間に,当初は訓令を無視するのではないかとも予想 されていた16)地方庁が,かえって熱心に訓令の実施に努める事例が見られ,末端へ行桝ぎ 行くほど「雪塊が転々其積を増すが如く,漸次不必要不時代的の内容を増加し,天下の学 生生徒をして,訓令の栓桔に苦しましむる17)+ごとき場合も少なくなかった。 状況としては,生徒の校外生活の監督,. 会・寄宿主会の開催などが,. 7月初めの 「各売捌店に就きて+の新聞雑誌の「検閲+,父兄. 「各地を通じて現に行ひつつある方法+として報じられてい. るが18),地方庁の中にほ,県知事訓令を出して実施細目を定めたところもあった19)0 このように文部省が,とくに統一的な具体策を打ち出さず,地方一任の形をとったのは, 批判が文部省に集中するのを避けるためだったと,考えられなくもない。当初賛否半ばし ていたのではないかと思われる世論,とくに教育ジャーナリズムの論調は,その後次第に 訓令批判の色あいを濃くしていった。最初は消極的賛成論だった『教育学術界』ほ訓令発 表後,生徒の一切の行動の責任を教師に帰する誤った風汐が生じたとして,消極的反対論 に転じた20)。同じく消極的賛成論の『教育時論』も,訓令の効果はもっばら一般社会に注 意を喚起した点にあると,その論点を変更し21),さらに牧野が「保守的礼儀+を説いた22) のをきっかけに,訓令批判にふみきっている23).ただしその批判は,訓令が青年子女に認 められる好ましくない傾向として列挙しているところを,事実無根または無視してよい程. 度の例外にすぎぬとして,反駁するに止っている。終始一貫した批判ほ,. 『教育界』に見. られる。同誌所載の3篇の批判論は,訓令の各節を分担批判する形になっていて,それぞ (1)風紀退廃ほ「社会の流行+ 「上流人士の言動+に起因するから,訓令がその責任. れ,. を家庭学校に帰するのほ酷だと断じ24),. (2)読書制限・禁止は「文芸の発展を阻害し,管. 学社会学的思索の汐流を圧迫+するものと批評し25), 端ならざる社会主義ほ結構な事で-. (3)社会主義排撃についてほ,. 「極. -全体いかなる善い事でも極端にやれば皆悪い。. 極端なる社会主義固より悪いが,之を誤解して社会主義ほ皆悪いものの様に思つたら,世 ほ直ちに桂内閣の暗黒時代に逆戻り+すると論じている2e)o 訓令が目立った実効を現わさず,批判の声のみがこのように高まって来る中で,文部省 「文部 ほ9月,遂に沢柳政太郎次官の談話を発表して収束をはかるに至る。次官談話は, 省訓令の実行方針ほ,有形上制度組織の上に之を顕現すべきにあらず.要ほ局に当るもの. の人格方寸に存することなれば,教育実際の裏面を洞観し,各地中学校長の如きも,努め.

(17) 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. 17. て英人物を詮衡して適材を得る等,着々事実の上に其効果を発揚せんことを期せり27'+と いう趣旨のもので,問題を「人格方寸+に転嫁して事態を収拾しようとしていることがう かがわれるが,これに先立って『新仏教』詰もまた批判の戦列に加って訓令攻撃の筆陣を 張っている。同誌上でほ米峰が,訓令が宗教非難の口実とされることを危供したほか28', 黄洋と自柳秀湖とが,それぞれ本格的な批判を展開したo他の多くの訓令批判が,学生風 紀退廃の原因を社会風汐や政治指導者の私行などに求めているのに対し,自柳も黄洋も問 題の根源は教育体制そのものにあることを明確に指摘しており,この点きわめて異色ある 批判となっている。. 自柳如,は先ず,訓令が強調する青年堕落の事実を否定するo彼は,近代社会の民主化, 教育の普及に伴なう「智的平準化+が,平準化-凡俗化-堕落と錯覚されたにすぎず,真. の問題は「文部省が十年一日の如く固執し来れる教育主義の大破綻+にあり,訓令ほこの 「大破綻を忌慣なく告白した+ものだというo白別によれば,およそ教育にほ主義・方針 r#然たる智識+ と材料との調和が必要であって,明治初期には「民族的統一+の方針と, という形をとった材料との間に調和があったが,その後この調和は破れ去ったとされるo 「極力偏狭なる国家主義を固執し+ それは,文部省が「着々科学的教育を採択+しながら, っっけたためである。. 「科学的教育+は「自己意識+や「個人の自覚+をうみ出したが,. 文部省はそれを抑圧迫害し,その結果「二三学生の間に不健全分子を腫月台するに至+ったo 「文相自ら其責任を覚らずし反つ これは文部省が「社会に負ふ所の一大罪悪+であるが, て之を小説に帰し,家庭に帰せんとす,何たる破廉恥の極みぞや.+-このように論じた 自柳は,最後に訓令の社会主義排撃の項を取り上げて,これほ文部省の社会主義老に対す る挑戦状だが,社会主義者の動向についての記述ほ事実に反するのみならず「匹夫野郎の 悪罵+に類し, 「此の如き訓令は只過去に於ける政府の鎮圧策の失敗を告白するに過ぎず+ と結んでいる。 自柳とほやや異なった角度から,教育体制の矛盾を衝く黄洋の論文「教なき国30'+は, 初めに訓令にいう「極端なる社会主義+の語の意味はあいまいだと疑問を提示した後・教 育と宗教との関係を論じるとして,かつて「教育家収賄事件の意義+で保留した問題を, 正面から取り上げているoむろん彼も,他の多くの訓令批判論が強調した論点-文相の 思想統制の可否,学生堕落の事実の有無などを無視するのでほないが,それらほ当面の中 心問題でほないから「諸君の注意を請うて置くに止める+として,ただちに教育と宗教と の関係の問題に切り込んでいくのである。. 教育と宗教との関係を考えるに当って,黄洋ほ先ず,. 「今日の教育+が「人の品性の陶. 袷,或ほ道徳養成といふ様な方面に向つては,甚だ力のない+ものだという事実に目を向 けるべきだ,という。教育家ほ「教育万能+の主張をもち,教育学老は「人格の養成とか,. 倫理教育とかいふこと+を教育の目的だと論じるだろうが∴「事実に於ては,今の教育は 智識的教育であつて,決して倫理的修養を目的とするものではない+というのが,学校教 育に対する,彼の基本認識であるoこのような認識に立てば,当然,訓令が学生堕落の故 「左程学校教育を道徳上から重く見るには及ば をもって学校を非難するのほ無理であり,.

(18) 18. 久. 木. 幸. 男. ない+ということになる。 もちろん黄洋は,. 「学校でも倫理教育を施して居る+事実を否認するのでほない。彼ほ. 「今の学校の倫理教育にほ二つの部分+があるという。. 「一つは教場で教-て居る,即ち勅 語標準の倫理教育+であり,他ほ「所謂学校道徳の監督+である。前者は「教育勅語を暗 諭させ,或は教科書に書いてあることを覚えさせて,能く暗諭し覚えて釆て,答案をうま く書いたものにほ高点を与-る倫理教育+であって,いわば「口の上,書物の上+のもの である。それは「多少精神の上に感化を与へるにほ違いないが,どうも人が思ふほどの重 きを置くべきものではない。+後者,つまり「学校道徳+とは, 「例-ば,朝来る時間を間 違へないとか,教場に這入つて静粛にして居るとか,着て来る洋服が校規に背いて居らぬ とか+いうような,. 「学校の風紀を維持し,安寧を保つて行く+ためのもので,. 「一般の道 徳の修養といふことから見れば,極めて範囲が限られ+ている。だから「これだけで人格 を養い得る如く思ふのは,最も誤謬の甚しきもの+ということになる。 このように黄洋ほ, 「教場の倫理教育+も「学校道徳+も,道徳教育としてほほとんど 無力・無効だとするのであるが,後者が効少ないのは上述のようにその範囲の狭まさのゆ えであり,前者が無力なのは,それが教育勅語を標準としているためだという。それゆえ. 教場の倫理教育の無力性は,主として教育勅語の無力に帰することになる。それではなぜ 教育勅語が無力なのか。黄洋ほその原因を,教育勅語が学校外でほほとんど権威をもって オーソリチー. いないという事実に求める。黄洋によれば, 「教育勅語を証権として訓練を施して居る+ 家庭もなければ,一般社会において「教育勅語が日本人の道徳思想を左右して居るとい ふ程+にもなっていない。とすれば,. 「家庭や社会と関係の薄い+教育勅語の教育が,. 「学. 校の門を出れば忘れ+られてしまうのほ当然であり,. 「斯くの如き教育に対して,倫理上 多大の望みをかけることは,抑も世人の迷信+ということにもなる。このように,家庭・ 社会における教育勅語の権威失墜の事実を指摘する黄洋は,しかしながら,その権威回復 を主張しているのでほない。反対に,教育勅語の権威ほ決して家庭や社会に拡げられるべ きではないとして,表現に細心の注意を払いっつ,その理由を次のように述べている。 教育勅語はどこまでも教育勅語でありまして,そこ(家庭・社会)まで拡げて行くべ きものでは恐らくありますまい。. ・-日本人の道徳思想は,日本本来の特質と,之に儒 教とか,仏教とか,種々の要素が加つて自然に養成されたものでありまして,勅語は例 へば沢山の茎の上に咲乱れた,菊の花を見渡した様な心地が致すのであります。 し菊の花の下にほ,根の土中に張りつめて居ることを知らなければなりませぬ。. -・然 --戟. 日本人の精神力には,如何なる根が張り詰めて居つて斯様な花が咲いたのでありましや うか。此の根抵の説明は極めて深遠であります。其の深遠の奥を探れば,終にほ哲学上 の問題にも触れなければなりませぬ。ここに教が成り立ちます。私は勅語はどこまでも, 教育勅語ほ教育の勅語であつて,教として-教といふのは広い意味の宗教といふ意味 -そこまで拡げて行くべきではないといふ理由,実にこのわ桝こよるのであります。 教育勅語を菊花に,儒教仏教を地中の根に愉えたのは,教育勅語が国民の精神に板をお ろしていないことの寓意とも見られるし,また「哲学上の問題にも触れなければなりませ.

(19) 19. 明治末期の教育事件と新仏教徒同志会. め+と述べていることを考慮に入れると,前者には後者に見られる普遍性が欠けているこ とを,いおうとしているとも考えられる。そして,教育勅語が国民の精神に板をおろして いないかぎり,家庭や社会にその力を及ぼすことはできないし,また教育勅語が普遍性を 欠き,黄洋のいわゆる「教+たる内実を具えていないかぎり,家庭・社会にその権威を及 ぼし得る根拠もない。要するに教育勅語ほ「権威あ声精神上の力+たり得ず,したがって その権威が家庭や社会にまで拡げられてはならないというのが,黄洋のいわんとするとこ ろであろう。 「教+たり ところが,このように権威のない教育勅語が権力によって国民に強制され, 得ないにもかかわらず, 「教となって他の信仰を拘束+している状況が,実際には存在し. ている。むろん教育勅語が「教となつて+いるのは,いわば名目上のことにすぎない。強 制された教育勅語が家庭や社会で権威をもっていないことほ,黄洋の指摘するとおりであ るが,精神的権威のない教が教として立てられるところに,教の欠如状態,黄洋のいう 「教なき国+が現出する。そして黄熟も. このような教の欠如状態の危険を指摘して,. 「た. とひ今日の青年が,総べて堕落せるが如く思ふのほ誤謬であるとしても,今の学生が危険 の地に臨んで居ることほ疑がありませぬ+という。教育勅語と,それに代表される天皇制 教育の全体系に対する,痛烈な批判というべきであろう。ただし黄洋は,批判を批判のみ に止め,あるいほ「国に教のないといふことは実に残念+と,いたずらに嘆きのことばを のみ洩らしているのではない。国に教を回復する途を求めて,それほ結局「健全の宗教, 健全の信仰の扶植+に帰するという主菜をもって,この論文を結んでいる。健全の信仰と は,いうまでもなく同志会のかねての主衷であるが,この場合ほ単に常套的に同志会の持 論をもって結論としたのでほあるまい。教の欠如状態を克服し得るものが健全の信仰だと いうことは,健全の信仰を教育勅語と,明確に対置せしめることになるからであるoこの 意味で黄洋のこの論文は,同志会の天皇制教育批判の一つの到達点を示すものといってさ しつかえないであろう。. そしてこのような天皇制教育批判の線上に,. 『新仏教』誌発禁の原因となったと■いわれ. る31,井上秀天「不問答82'+守,公教育における合理主義の偽摘性を痛烈に訊刺した,米蜂 「体罰復興論+,鈴木券太郎「国民教育家ほ体罰問題の感想を発表せよ33'+など教育に関す る論策が現われる。しかしこれらはいずれも,教育事件を扱ったものではないので割愛 し34,,最後に南北朝正閏問貯5)に関して善かれた,伊藤証信の論文を取り上げよう。 この事件については,その経過・意義ともに広く知られているところであり86',この事 (2)歴史 件が直接提起した主な問題が, (1)北朝・南朝の正閏如何という史学上の問題, 教科書執筆者・喜田貞書の休職処分に見られる学問の自由の問題,. (3)学問研究の成果が. どのように教育(この場合ほ教科書)に反映されるべきかという,学問と教育との関係の 問題であることなども周知の事柄である。 「歴史教科書改訂問題を論ず7'+と題する伊藤の 論文ほ,すでに南朝正統説にもとづく教科書改定が進められつつあった時期に書かれた, (1)(2)にもふれていないわ 改定批判論であって,上記(3)の問題を*jむとしているが, 「容易に決択すべき事項+ではないから,専門歴史学 けではない。先ず(1)については,.

参照

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