19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程 ― ドイツ近代市民層の形成に関する一考察―
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(2) 48. 棚橋 信明. -2都市において革新的勢力はいわば「外」からもたらされたと理解されてきたのである。確かに,18 世紀 後半に問屋制手工業やマニュファクチャの経営者として頭角を現すようになった企業家たちのなかには, 伝統的都市で強力であったツンフトによる規制を避けて,都市郊外の農村部か小都市で活動する者も多か った。そして,19 世紀になると,こうした新興の企業家たちが立地の有利に引きつけられて大都市に流 入し,既得権益を守ろうとする旧都市市民と激しく対立する事例も多く見られた. 5). 。しかしながら,こう. した新しい市民層と旧都市市民の二分法的な理念的理解により,とくに伝統的大都市で 19 世紀中葉まで に見られたはずの両者の複雑な重なり合いや流動的な関係の問題に,すなわち社会的出自や成長過程にお ける「連続」の側面に十分な注意が払われてこなかったと言える。 そこで本稿の目的は,伝統的大都市ケルンにおいて,19 世紀前半期に企業家として経済的指導層に属 した人びとの社会的出自と成長過程を探ることにより,新しい市民層と旧都市市民との関係の再検討を進 め る こ と に あ る 。 こ こ で 取 り 上 げ る 材 料 は , フ ラ ン ス 統 治 期 の 1810 年 に ケ ル ン の 商 業 会 議 所 (Handelskammer) 6)によって作成された 2 つの企業家のリスト ト. 8). 7). と 1845 年の営業税の高額納税者のリス. である。それぞれのリストに記載される工業企業家と商業企業家の社会的出自と経済活動の内容につ. いて分析を進めることにより,19 世紀前半期に経済発展と対応して進んだ近代企業家層の成長が,都市 ケルンにおいてどのような社会構成的特徴をもったかを浮かび上がらせたい。. 1. 1810年ごろのケルンの企業家層 (1)1794年以降の変革 1794 年 10 月にフランス軍が進駐して以降,ケルンの企業家たちの活動する環境は大きく変化すること になった。当初は,断続する戦争による混乱とフランス本国の経済政策に翻弄され,ケルンの経済活動は 深刻な停滞に陥った。その後,ケルンの経済活動に復調の兆しが現れるのは,1797 年 10 月に締結された カンポ・フォルミオ講和により国際的政治情勢に安定がもたらされて以降である。これによりライン左岸 のフランス共和国への編入の見通しが明確に示された。正式な編入は 1801 年 2 月に締結されるリュネヴ ィユの講和後となるが,それ以前にフランス行政の導入を始めとする諸改革がケルンでも次々と実施に移 されることになった 9)。 このようなフランス国家への編入とその経済システムへの統合は,一般的にはライン左岸の商工業に有 利な作用を及ぼし,19 世紀初頭以降の当地域における経済発展の基礎を創出したとされる。ただし,ラ イン河に新たに設定された関税線とイギリス経済に対抗する目的で実施された大陸封鎖は,産業部門によ って多様な影響をもたらした。ケルンにおいて最も大きな恩恵を受けたのは繊維工業,とくに綿織物業で あった。この産業はイギリスとライン右岸のベルク地方の製品との競争から解放されるとともに,フラン ス市場との結合により発展の契機を得た。他方で,18 世紀に大規模経営の発展が見られたタバコ産業は, フランス統治期に衰退に向かうことになった。それは,ライン河の関税障壁により右岸に広がる販路と原 料の供給地を失い,さらに 1798 年 11 月のフランス・タバコ法による税負担が打撃となったからである。 事業者のなかにはケルンでの経営を断念し,ライン右岸に転出する者も出た。また,フランスによる統一 的な関税制度の導入は,ライン河の水運における古くからの阻害要因を除去したが,実際の輸送量は政情 不安と大陸封鎖の影響により大きく落ち込むことになった。このような輸送量の後退と同時に生じたケル ン港における貨物積替量の減少は,ケルンの商業が直面した苦境を表現するものであった. 10). 。. 他方で,フランス統治期に実施された諸改革も,その後のケルンの経済発展に重要な意味をもった。な かでも決定的であったのが,すでに言及した 1798 年 3 月のツンフトの廃止と営業の自由の導入であり, また,その前年の 11 月に市行政府(Magistrat)により決議された市民権の取得におけるあらゆる差別の 撤廃,すなわちカトリックと他のキリスト教徒及びユダヤ教徒との法的平等の実現であった. 11). 。それま.
(3) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 49. -3でケルンでプロテスタントは市民権の取得は原則として認められず,「居留民」として市内に居住するこ とが許されにすぎなかった。不動産の所有も禁じられ,ツンフトと小売業からも排除されていた。そのた め,市内に在住するプロテスタントは,ツンフト規制の対象とならない製造業と卸売業に経済活動を制限 されることになった. 12). 。他方で,ユダヤ教徒は 1424 年以降,市内に居住することすら認められない状態. にあった。 したがって,上記のような改革は,これまで差別的処遇によりケルンへの移住を躊躇していたプロテス タント企業家にとって朗報となった。また,ライン右岸のベルク地方の繊維工業と金属工業はライン河の 関税線により西ヨーロッパ地域の市場を失ったのであり,この地のプロテスタント企業家のなかにはこれ を機にケルンに移住する者も多数あった。帝国都市時代の終わりの 1787 年にケルンのプロテスタントの 人口は 300 ~ 400 人であり,全人口の 1 %程度を占めたが,その 25 年後の 1812 年には 1,720 人となり, 全人口およそ 47,000 人に占める割合も 3.6 %にまで増加している. 13). 。また,ケルンに在住するユダヤ教. 徒としては,1798 年の初めにライン河対岸のミュールハイムから移住したヨーゼフ・イザーク(Joseph Isaak)が最初であったが,その年のうちに銀行家ザーロモン・オッペンハイム(Salomon Oppenheim)も ボンから居を移した。そして,彼が 1801 年 12 月に構成員 18 人によって設立されるユダヤ教徒ゲマイン デの代表となる。ただし,ユダヤ教徒の人口は 1813 年に至ってもわずか 189 人で,人口の 0.4 %程度で あった. 14). 。. 以下の考察では,企業家の社会的出自の問題として移住(出生地)と宗派の問題に,そして,カトリッ ク企業家の場合には彼らの帝国都市時代の政治的地位の問題に注意を払っていくことになる。それは,ケ ルンにおける旧都市市民と新しい市民層の関係を探る上で,これらが重要な手がかりとなるからである。 (2)1810年ごろの工業企業家 表 1-A は,1810 年にケルンの商業会議所が,主要なマニュファクチャと工場の所有者について作成し たリストである. 15). 。これには多種多様な製造業が含まれるが,32 人の所有による全部で 26 の企業が記. 載されている。この 32 人の経営者について出生地を含む社会的出自を完全に把握することは困難である が,ここではまず,カトリックとプロテスタントの宗派の構成について確認してみよう。 32 人のうち 24 人がカトリック,8 人がプロテスタントであった。8 人のプロテスタントはほとんどが フランス統治期になってからの移住者であったと考えられる. 16). 。前述のように,1812 年に至ってもプロ. テスタントの人口割合は 3.6 %にすぎなかったことから,表 1-A において当時の有力な工場経営者の 25 %をプロテスタントが占めたことは,新参のプロテスタントがフランス統治期の工業発展において重要な 役割を担いつつあったことを示している。 それでは,新参のプロテスタントたちは,ケルンでどのような業種で創業したのであろうか。表 1-A からわかるのは,彼らの創業の重心が圧倒的に繊維工業の分野に,取り分け綿工業の分野にあったことで ある。プロテスタントの経営する 5 社のなかで,ルートヴィヒ・v・ヘース(Ludwig. van Hees)[1-A-. 14],ヨハン・フリードリヒ・ヒュッセン(Johann Friedrich Huyssen)[1-A-16],ゴットフリート・シュ ミッツ(Gottfried Schmitz)[1-A-21],アブラハム・ヴュルフィンク(Abraham Wülfing)[1-A-26]の 4 社が綿糸ないし綿製品を製造した。なかでもヒュッセンが 1799 年に創業した綿紡績工場は,綿工業の大 規模経営としてはケルンで最初のものであり,1810 年には 150 人の労働者を直接的に雇用していた. 17). 。. フランス統治期において綿工業は,プロテスタントによる創業が目立つように,ケルンでは比較的新し い産業であった。それでも,綿工業の工場の設立は 18 世紀の終わり以降,カトリックによっても見られ た。ヨーゼフ・ラウターボルン(Joseph Lauterborn)[1-A-18]は 1800 年に綿織物業を創業し,1810 年 には綿紡績業も含めて全部で 35 人の労働者を工場で雇い入れ,120 人の織工を問屋制により使用した。 同様に 1803 年に綿織物業を創業したヨハン・フランツ・シーファー(Johann Franz Schieffer)[1-A-20].
(4) 棚橋 信明. 50. 表1-A 1810年のケルンの有力工場経営者※1 番 号. ※2. 1. 氏 名※3, 4 Biermann, N. N. □ Biermann, N. N. □. 製造品目. 労働者数※5 企業内. 外部. 石鹸,蝋燭. 5. 4. 2. 4. 2. Bredt, Jean Pierr. 石鹸. 3. Breuer, Jean ■. タバコ. 4. Bürgers, Jean Wohlther ▲. タバコ. 5. DuMont, Henry Joseph □◇▲ タバコ. 65. 資本金. - 100,000. 年齢. 配偶 関係※6. 39. 既婚. 37. 未婚. 200,000. 31. 既婚. 300,000. -. -. 300,000. 55. 死別①. -. -. 300,000. 44. 既婚. 80. -. -. 500,000. 4. -. 20,000. 500,000. 52. 既婚. -. -. 300,000. 52. -. -. 300,000. 48. 死別①. 500,000. 30. 既婚. 300,000. 50. 既婚. -. 6. Farina, Jean Marie. オーデコロン. 7. Farina, Jean Marie. オーデコロン. 8. Farina, Jean Antoine. オーデコロン. 1. -. 9. Fonck, Anton △. 白鉛(顔料). 15. -. Ferrenholz, Franz Sever.. 着色絹布. 10. 生産額. (フラン) (フラン). -. -. 400,000. -. 11. Geist, André. 毛織靴下,糸. 50,000. 100,000. 55. 既婚. Graff, Engelbert. 絹リボン. -. -. -. 100,000. 36. 既婚. 13. Grimberg, Balthasar ■. 毛織靴下. -. -. -. 300,000 100,000. 15. * van Hees, Louis * Elbers Hirn, Jean Baptist ■. 16 * Huyssen, Jean Frédéric 17. Langen, Gaspard Wencelius, Frédéric. 綿・絹製品. 23. 未婚. 500,000. 53. 死別①. -. 200,000. 27. 既婚. タバコ. 40. 10. -. 200,000. 35. 既婚. 35. 既婚. 35. 120. 200,000. 37. 既婚. 2. 90. 200,000. 60. 既婚. 42. 150. 150,000. 46. 既婚. 毛編み物製品. 20. Schiefer, Jean Franz □. 綿製品. 21 * Schmitz, Godefroy ○. 羊毛布・綿布. 22. Schütte, H. T.. 絹製品. 23. Schülgen, Joseph ○. 石鹸 ビロード,鏡 絹布. 190. 225,000 - 180,000. -. -. 500,000. 48. 未婚. -. -. -. 600,000. 60. 既婚. -. -. -. 28 130. 2 -. -. 50,000. 200,000. 150,000. 600,000. * Wülfing, Abraham * Scheibler, J. H.. 既婚. 60,000. Norrenberg, Ferdinand ■. 26 * Wülfing, Frédéric. 40. 50. 19. Velten, Philippe. -. 400. 綿製品. 25 * Urbach, Jean Abraham. 230. -. 60. Lauterborn, Joseph. Schülgen, Guillaume. 24. -. 150. 羊毛製品,毛織布 綿糸. 18. 24. 340. -. 12. 14. 6. -. -. 綿・絹製品. 45. 170. -. 300,000. - 24. - 未婚. 28. 既婚. 66. 既婚. 44. 既婚. 33. 既婚. 45. 死別②. 註 :※1 原題は"Liste der bedeutendsten Mnufakturbesitzer und Fabrikanten 1810"である。当時のドイツにおける 註:※ 1 原題は "Liste der bedeutendsten Manufakturbesitzer und Fabrikanten vonvon 1810" である。当時のドイツにおける Manufaktur (マニュファクチャ)及び Fabrik(工場)の用語法に関しては,本文中の註 15) を参照。 Manufaktur(マニュファクチャ)及びFabrik(工場)の用語法に関しては,本文中の註15)を参照。 ※ 2 番号に付した下線は,後継者あるいは後継となる会社が,1845 年の営業税の高納税者リスト(表 2-A ないし表 2-B)に ※2 番号に付した下線は,後継者あるいは後継となる会社が,1845年の営業税の高納税者リスト(表2-Aないし表2記載されることを示す。 B)に記載されることを示す。 ※ 3 氏名の前の * は, プロテスタントであることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。このリストではファーストネー ※3 氏名の前の * は,プロテスタントであることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。このリストではファー ムについてフランス語表記が混在するが,ドイツ語に直さずそのまま記載した。 ストネームについてフランス語表記が混在するが,ドイツ語に直さずそのまま記載した。 ※ 4 氏名の後の記号については,□ は帝国都市参事会員が親族から出ていることを意味し,以下■ ※4 氏名の後の記号については,□ は親族から帝国都市参事会員が出ていることを意味し,■は帝国都市参事会員を, は帝国都市参事会員 ○ はフランス統治期に都市行政の役職者ないし選出市議会議員を, ◇ はプロイセン時代の任命制市議会 (1815 ∼ 1845 年) を,○ はフランス統治期に都市行政の役職者ないし選出市議会議員を,◇ はプロイセン時代の任命制市議会(1815~ の議員を,▲ は商業会議所の議員を自身が務めたことをそれぞれ意味する。 1845年)の議員を,そして▲ は商業会議所の議員を自身が務めたことをそれぞれ意味する。 ※ 5 「企業内」とは,直営の作業場で労働していることを,「外部」とは問屋制により雇われ,家内工業に従事していること ※5 企業内とは,直営の作業場で労働していることを,外部とは問屋制により雇われ,家内工業に従事していること を意味する。 を意味する。 ※ 6 「死別①」は元の経営者の死去後,その未亡人により経営が続けられていることを ,「死別②」は氏名の記載される経営 ※6 「死別①」は氏名の記載される経営者の死去後,未亡人により経営が続けられていることを,「死別②」は氏名の 者が,その配偶者をすでに亡くしていることを意味する。 記載される経営者が,その配偶者をすでに亡くしていることを意味する。 出典:Herbert Milz, Das Kölner Großgewerbe von 1750 bis 1825, Köln 1962, S. 82..
(5) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 51. -5は,1810 年には 42 人の労働者を工場で,150 人の織工を問屋制で雇っていた。こうしたカトリック企業 家は,帝国都市時代に商業によって資力を蓄えており,フランス統治期になって新たに販路の広がった繊 維工業の分野に進出していったのであった. 18). 。. また,カトリックによる繊維工業の創業は,18 世紀の帝国都市時代にも数多く事例を見ることができ る。ただし,それは圧倒的に問屋制によるもので,商人たちが自立の困難になった親方たちを従属下に組 み入れる形態を取った。18 世紀の問屋制の発展はとくに毛織物業の分野で見られた。たとえば,バルタ ザール・グリムベルク(Balthasar Grimberg)[1-A-13]はもともと靴下や革製品を扱う商人であったが, 1763 年に問屋制をもって靴下などの編み物製品の製造業にも乗り出した。また,ヨハン・バプティス ト・ヒルン(Johann Baptist Hirn)[1-A-15]は香辛料を扱う商人であったが,1787 年に毛織物業を創業 し,1810 年には 60 人を工場に雇い入れていたが,400 人の編工や織工を問屋制によって使用した。そし て,フェルディナント・ノレンベルク(Ferdinand. Norrenberg)[1-A-19]のニット製造業も,表 1-A の. 外部労働者の数からもわかるように問屋制に完全に依拠していた。彼の企業は 1727 年に創業の毛織物業 を父親から引き継いだものであった. 19). 。. 以上のように,綿工業におけるラウターボルンとシーファーも含め,取り分けカトリック企業家が創業 した繊維工業は,1810 年に至っても問屋制にかなりの比重を置いていた。こうしたケルンの問屋制は, 近隣地域の織工や編工をも経営に組み入れていたとされる。また,表 1-A で L・v・ヘースや A・ヴュル フィンクの事例が示すように,プロテスタントの創業した綿工業においても問屋制に大きな比重を置く企 業があった。他方で,労働者の協業をもって経営される工場も近代的な設備をもったものは少なく,ほと んどがマニュファクチャ段階にとどまるものであった。こうした状況のなかで,プロテスタントの企業家 ペーター・ベムベルク(Peter Bemberg)[1-B-4]が 1810 年に設立した綿紡績工場が,蒸気機関を備え た近代的な工場としてケルンでは最初のものであり,また例外的な事例であったとされる. 20). 。. それでは続いて,1810 年時に,繊維工業以外で,どのような業種の製造業がケルンで発展していたの かを見ていこう。表 1-A の製造品目で目につくのは,石鹸,タバコ,オーデコロンである。これらの製 造業については帝国都市時代にツンフトによる規制がなく,そのため 18 世紀前半から大規模経営の設立 が数多く見られた。こうした企業がフランス統治期にもケルン経済において重要な位置を占めたのである。 したがって,これらの業種では 1810 年においても旧都市市民に属したカトリック企業家が圧倒的に優勢 であった。ただし,彼らの社会的出自を見てみると興味ある事実が浮かび上がる。 まず,タバコの製造業について見てみよう。帝国都市時代のケルンにおいて,タバコはワインや香辛料 とならんで重要な交易品であった。商人たちはタバコ葉と完成品の取り引きに連結させて,マニュファク チャと問屋制によるタバコの製造業に乗り出していった。帝国都市時代の終わりまでに大経営を発展させ た代表 的 な企 業家 を創 業 の古 い順 にあ げると ,ハイン リヒ ・ヨーゼ フ・デ ュモン( Heinrich Joseph DuMont)(創業 1741 年)[1-A-5],フランツ・フォヴォー(Franz Foveaux)(同 1753 年)[1-B-15],ヨ ハン・ブロイアー(Johann Breuer)(同 1777 年)[1-A-2],ヨハン・ペーター・ビュルガース(Johann Peter Bürgers)[1-A-4](同 1779 年)の 4 名の名前をあげることができる. 21). 。. このなかで 18 世紀半ばに創業したデュモンとフォヴォーは,その名前からも推察されるように,ケル ンに土着の市民ではなかった。まず,デュモンはベルギー東部の出身であり,彼がケルンで市民権を取得 したのはタバコの製造業を立ち上げる直前の 1740 年のことであった。彼の会社は,1810 年には彼の孫で 祖父 と 同名 の ハ イ ン リヒ ・ ヨ ーゼ フ ・ デ ュモ ン とヨ ハン ・ミ ヒャ エ ル・デ ュ モン (Johann Michael DuMont)の兄弟により経営されていた. 22). 。そして,フォヴォーはフランス北部のリールの出身であり,. デュモンにやや遅れて 1750 年にケルンの市民権を取得し,その 3 年後にタバコの製造業を興している。 1766 年の彼の死後は,彼の未亡人が経営を引き継ぎ,1793 年以降は息子のハインリヒ・ヨーゼフ・フォ ヴォー(Heinrich Joseph Foveaux)が経営責任者となったが,彼は 1809 年までにタバコ製造業から撤退.
(6) 棚橋 信明. 52. -6している. 23). 。フォヴォーの会社が表 1-A に記載されないのはそのためである。. ケルンのタバコ産業は,前述のように,ライン右岸の販路と原料供給地の喪失に加え,重いタバコ税の 負担により大きな打撃を受けた。その結果,1799 年に数えられた 50 人のタバコ製造・販売業者のうち, 1801 年までに 15 人がライン右岸に拠点を移し,そのほか多くの企業家がタバコ製造業から手を引いてい った. 24). 。したがって,表 1-A に記載されるのは,ライン左岸やフランスに市場を開拓するだけの余力の. あったかなり有力な企業家と見ることができる。 つぎに,芳香水の一種であるオーデコロンについては,そもそもイタリアから移住者した香水師ヨハ ン・マリア・ファリナ(Johann Maria Farina)が,1708 年に製造を始めたものであった。彼は 1709 年に 兄のヨハン・バプティスト・ファリナ(Johann Baptist Farina)が設立した商社に入り,この会社を独創 的な芳香水の製造・販売をもって大きく発展させたのである。発展の大きな切っ掛けとなったのは,七年 戦争時にフランス軍の将校がこれを本国に持ち帰り,その使用を広めたことであった。その後,彼の芳香 水はフランス語で「ケルンの水」を意味する「オー・デ・コロン(eau de Cologne)」の名前をもってヨー ロッパ各国に輸出されるようになった。J・B・ファリナの会社は彼の死後,甥でオーデコロンの開発者 と同名の J・M・ファリナが譲り受け,1810 年にはさらに彼の同名の息子が経営に当たっていた。表 1-A に記載される経営者名から,1810 年時にファリナ家は,複数の会社に分かれてオーデコロンの製造を行 っていたことがわかる。ただし,表中の労働者数にも示されるように,オーデコロンの製造業は小規模な 手工業的な生産形態によっており,1811 年に他の製造業者を含む全部で 13 の企業で,労働者は 20 人を 数えるのみであった. 25). 。. ここで指摘すべき事実は,帝国都市時代のケルンの都市市民層が,外来者に対して完全に閉鎖的・排他 的ではなかったことである。裕福なカトリック商人であれば,金銭的な負担と引き換えに市民権の取得は 比較的容易であったようである。そして,タバコの製造業を創業した H・J・デュモンのように,市民権 を取得してのち都市参事会員に選出され,都市の門閥家系の仲間入りをすることも可能であった。彼は市 民権を取得して 9 年後の 1749 年には参事会員に初めて選出され,1794 年に死去するまでこの職に繰り返 し 選 出 さ れ た の で あ る 。 そ し て , 彼 の 息 子 の フ ラ ン ツ ・ ハ イ ン リ ヒ ・ ヨ ー ゼ フ ・ デ ュ モ ン ( Franz Heinrich Joseph DuMont)も,1777 ~ 1786 年に参事会員に継続的に選出されている. 26). 。. また,こうした 18 世紀の移住者も含めて,1810 年の有力な工場経営者には,帝国都市の自治行政を担 った旧都市門閥に属する企業家も数多く含まれていたことも指摘される。たとえば,綿織物業者の J・ F・シーファーは,帝国都市時代にワインや繊維製品の取り引きで財を築いた商人家系の出身であり,シ ーファー家からは 18 世紀を通じて数多くの都市参事会員が出ている. 27). 。また,毛織物業者の B・グリム. ベルクは,帝国都市時代の 1757 ~ 1794 年に継続して参事会員に選出されており,その息子ヨハン・ヨー ゼフ・グリムベルク(Johann Joseph Grimberg)も父親の事業を受け継ぐとともに,1792 ~ 1796 年に参 事会員になっている。そして,同じく毛織物業者の F・ノレンベルクも帝国都市時代末期の 1793 ~ 1794 年に参事会員に選出されている. 28). 。このように帝国都市時代に参事会において政治的実権を握っていた. 旧都市市民が,フランス統治期にも都市の経済的指導層の一部を形成していたのである。 そして,最後に指摘すべきは,フランス統治期の有力な工場経営者として記載される者のほとんどが, 移住者も含め商人の出身者であったことである。原材料と製品の取り引きに連結させて,取り扱う製品の 製造に乗り出していくのが一般的なパターンであった。また,この時代の工業の発展段階として,綿工業 の新興によって顕著な発展の見られた繊維工業においても,マニュファクチャの発展は限定的であり,取 り分け伝統的な毛織物業では問屋制の比重が依然として高かったことにも留意が必要である。 (3)1810年ごろの商業企業家 表 1-B は,1810 年にケルンの商業会議所が作成した有力商人のリストである。表 1-A の工場経営者の.
(7) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 53. -7場合と同様に選出基準は不明であるが,ここには 89 人の所有による 75 の企業(商社)が記載されている。 表 1-A の工場経営者と比較して企業数で 2.9 倍であったことから,ケルンの経済活動における商業の優勢 が見てとれる。また,資本金の額を比較してみると,26 の工業企業の平均が約 298,000 フランであったの に対して,75 の商社の平均は約 467,000 フランと,資本金についても商業に従事する企業家がはっきりと 優位にあった。前節で確認した,フランス統治期までのケルンの工業化における商人の「主導」は,この ような優位を基礎としていたのである。 ここで,表 1-B に記載される 89 人の経営者の宗派の構成について見てみると,58 人がカトリック,30 人がプロテスタント,残る 1 人がユダヤ教徒であった。プロテスタントの割合は 33.7 %に達し,当時の 人口割合 3.6 %のみでなく,表 1-A に記載される工場経営者におけるプロテスタントの割合 25 %を大き く上回った。このことから,フランス統治期にプロテスタントの企業家は,まず商業の分野において急激 に力を伸ばしていったことがわかる。ここではまず,商業分野で活動したプロテスタントの社会的出自と 活動内容について見ていきたい。 表 1-B ではすべての企業家について年齢とともに出生地(出身地)が示される。これによるとプロテ スタントのなかには,ケルン生まれの者が約半数の 14 人含まれ,さらにそのうち半数の 7 人が 50 歳以上 であることがわかる。彼らは帝国都市時代にケルンに移住し,すでに長く定住していたものと考えられる。 その代表が,68 歳の P・ベムベルク(1810 年の綿紡績工場の設立者)[1-B-4]と同年齢のヨハン・ヤコ ブ・ヘルシュタット(Johann Jacob. Herstatt)[1-B-28]である。後者の父イザーク・ヘルシュタット. (Isaak Herstatt)は,アーヘン近郊のエシュヴァイラー生まれのユグノーであり,1720 年にケルンに移住 し,1727 年には問屋制により絹織物業を創業した。この事業は息子の J・J・ヘルシュタットとその兄の ヨハン・ダヴィット・ヘルシュタット(Johann David Herstatt)によって受け継がれたが,前者は 1782 年 に独立してワイン取り引きと精糖業を経営し,成功をおさめた。他方で,兄が単独で経営することになっ た絹織物業は 80 年代以降,次第に経営難に陥り,そのため彼は銀行業に比重を移し,やがてこれを本業 として大きな成功をおさめることになる。表 1-B に銀行業で掲載されるフリードリヒ・ペーター・ヘル シュタット(Friedrich Peter Herstatt)[1-B-27]はその息子である. 29). 。. こうした 18 世紀の半ばに定住したプロテスタント家系に属する者のなかには,フランス統治時代に市 民権を獲得すると,すぐに都市行政の重要な役職を担う者たちも出た。たとえば,上記の F・P・ヘルシ ュタットは,1798 年 4 月に設置された市行政府(Munizipalität)において,1799 年に 6 人の行政官 ( administrateur) の 一 人 に 任 命 さ れ て い る. 30). 。 ま た , P・ ベ ム ベ ル ク は , 1805 ~ 1809 年 に 市 議 会. (Munizipalrat)に選出され,これには彼の弟のカスパール・ハインリヒ・ベムベルク(Caspar Heinrich Bemberg)も 1800 ~ 1801 年に選出されている. 31). 。この選挙制の市議会は,1800 年にフランスの都市行. 政制度である「市長制度(Mairieverfassung)」の導入にともなって設置されたものであり,100 人の最高 納税者によって選挙されるものであった. 32). 。こうしたプロテスタントたちは,帝国都市時代の終わりに. その経済力を背景に多数派であるカトリック市民層のなかにもすでに信望を獲得しており,フランス政府 からも信任を得ることになったと考えられる。 他方で,ケルン外で出生したプロテスタント 16 人の大部分は,帝国都市時代の終わり以降にケルンに や っ て 来 た も の と 推 察 さ れ る 。 そ の 代 表 が ペ ー タ ー ・ ハ イ ン リ ヒ ・ メ ル ケ ン ス ( Peter Heinrich Merkens)[1-B-69]であり,彼は 1791 年に 14 歳の時にライン河対岸のミュールハイムからやって来て, J・J・シュル社(J. J. Schüll)[1-B-67]でしばらく修業をした。そして,1808 年に 31 歳の時にカトリッ クでマーストリヒト出身のヤコブ・ザイトリッツ(Jacob Seydlitz)と一緒に,おもに植民地物産を扱うザ イトリッツ&メルケンス社を設立した。1810 年にザイトリッツはすでに亡くなっており,表 1-B には彼 の未亡人が共同経営者として記載されている. 33). 。そして,もう一人の代表が,ヨハン・ハインリヒ・シ. ュタイン(Johann Heinrich Stein)[1-B-71]であった。マンハイムの商人の息子であった彼は,1790 年.
(8) 棚橋 信明. 54. ※1 ※1 表1-B 1810年のケルンの有力商人 表1-B 1810 年のケルンの有力商人. 番 号※2. 氏 名. ※3, 4. 取扱い品目など. 取引地域. 資本金 (フラン). 年齢. 配偶 ※5 関係. 出生地. 1. Bartmann, François Joseph □○◇ ワイン. ドイツ,フランス. 500,000. 56. 既婚. Köln. 2. Becker, Emanuel ■. 帽子. 周辺地域. 150,000. 59. 既婚. Köln. 3. Becker, François Joseph ○◇. タバコ,ワイン,木 周辺地域,ドイツ 材. 400,000. 32. 既婚. Bonn. 68. 既婚. * Bemberg, Pierre sr. ○ 4. * Bemberg, Frederique * Bemberg, Pierre jr. ▲. モスリン,綿,亜 麻,羊毛. 周辺地域. 600,000. * Bemberg, George 5 6 7 8 9. Bettendorff, Jean Guill. Birkenstock, Ferdinand □◇ Birkenstock, Theodor □ Boisserée, Bernhard ○◇ * Bolkhaus, Abraham ○ * Bolkhaus, E.. ワイン. 周辺地域. 300,000. 委託商. ドイツ. 200,000. 委託商. 周辺地域,ドイ ツ,スイス. 800,000. 鉄,銅. フランス,ドイツ. 150,000. 32. 既婚. 29. 未婚. 27. 未婚. 64. 既婚. 27. 未婚. 25. 未婚. 36. 既婚. 72. 未婚. 60. 未婚. Köln. Aachen Köln Köln Köln. Cassinone, Maximilien. 植民地物産. フランス,ドイツ. 800,000. 50. 既婚. Köln. 10. Cassinone, Wwe. Pierre Jos. □. 植民地物産. フランス,ドイツ. 500,000. 50. 死別①. Köln. 11. Engels, Germain Joseph ○. 装飾品. 周辺地域. 700,000. 49. 既婚. Köln. 12. Essingh, Wwe. Germain Jos. □. 薬種,染料. フランス,イタリ ア,ドイツ. 150,000. 59. 死別①. Köln. 13 * Evers, Theodore Guill.. 植民地物産,委託商. フランス,ドイツ. 300,000. 36. 未婚. Büderich. 14. Flatten, François Antoine ■. 穀物,他の農産物. 周辺地域. 200,000. 48. 既婚. Köln. 15. Foveaux, François ○. タバコ. 周辺地域,ドイツ. 800,000. 47. 既婚. Köln. 16. Foveaux, Louis ○. ワイン. 周辺地域. 400,000. 75. 死別②. Lille (フランス). 17. Fromm, Wwe. Jean. 木材. 周辺地域,ドイツ. 300,000. 46. 死別①. Köln. 18. Fromm, Guilleaume ■○. 木材. 周辺地域,ドイツ. 150,000. 63. 既婚. Köln. 19. Fürth, Laurent ■. 凝灰岩,石炭. 周辺地域. 800,000. 75. 既婚. Köln. 300,000. 40. 未婚. Ems. 350,000. 57. 未婚. Köln. 1,000,000. 62. 死別①. Jülich. 54. 既婚. 32. 既婚. Köln. 20 * Goedecke, Jean Jacques. 委託商,植民地物産 周辺地域,ドイツ. 21. Hahn, Pierre. 委託商,植民地物産 ドイツ,フランス. 22. Hamm, Wwe. Tillmann Laur.. 毛皮. Heimann, Fred. Charles ■◇▲. 委託商,ワイン,植. 23. Heimann, Philippe 24 * Heinius, Jean Pierre 25. Herriger, Joseph. 26 * Herstatt, Christophe 27. * Herstatt, Fred. Pierre ◇. フランス,ドイツ. 民地物産. フランス,ドイツ. 銀行. フランス,ドイツ. ワイン,砥石. 周辺地域. 銀行,オーデコロン フランス,ドイツ. 600,000. Eichenhof bei Waldbröl. 1,000,000. 76. 未婚. Amsterdam. 300,000. 60. 既婚. Köln. 1,000,000. 65. 未婚. Köln. 35. 既婚. Köln. 42. 既婚. Krefeld Köln. 1,000,000. 銀行. フランス,ドイツ. 28 * Herstatt, Jean Jacques. ワイン,精糖. 周辺地域. 500,000. 68. 既婚. 29. Hoffmann, Mathieu Jos.. モスリン,綿布. 周辺地域. 150,000. 40. 既婚. Köln. 30. Hoffschlag, Marie Michel ■○◇. 委託商,鉄,紙. 周辺地域. 200,000. 58. 死別②. Köln. 31. Jansen, Jean Henri ■. 染料. フランス,ドイツ. 500,000. 70. 既婚. Köln. 32. Keurten, Wwe. Jean Guill.. 委託商,植民地物産 フランス,ドイツ. 200,000. 死別①. -. 33. Kierdorff, Gerard ■. 布類. 300,000. 65. 既婚. Köln. 34. Kohlhaas, Jean Adam ◇. 委託商,植民地物産 フランス,ドイツ. 150,000. 39. 既婚. Erbach. 植民地物産. 600,000. 53. 死別②. von den Westen, Louis Godefroy. 35 * Krabb, Matthieu 36. Krapp, Godefroy Antoine. 37. Leven, François Joseph □◇. 38 * Löhnis, Germain ◇▲ 39. Ludowigs, Pierre Engelb.. 周辺地域. - ワイン,綿布 委託商,植民地物 産,農産物 ワイン,タバコ. フランス,ドイツ. Mülheim a. d. Ruhr. フランス,ドイツ. 300,000. 73. 既婚. Zülpich. 周辺地域. 300,000. 33. 既婚. Köln. フランス,ドイツ. 800,000. 44. 既婚. Köln. 周辺地域,ドイツ. 800,000. 44. 既婚. Köln.
(9) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 40. Ludowigs, Ignace Theod. ◇▲. 41. Lieversberg, Jacques. ワイン. 周辺地域,ドイツ. ワイン,タバコ. 55. 200,000. 42. 既婚. Köln. 周辺地域,ドイツ. 800,000. 既婚. Köln. 42 * van Maenen, Gerard Guill.. 植民地物産,農産物 周辺地域,ドイツ. 200,000. 45. 既婚. Köln. 43 * Meinerzhagen, Wwe.. 銀行,鉛鉱山. 周辺地域,ドイツ. 2,000,000. 58. 死別①. Köln. 44. 委託商,ワイン. フランス,ドイツ. 300,000. 62. 既婚. Köln. 37. 既婚. 32. 未婚. 43. 既婚. 55. 既婚. 40. 既婚. 48. 死別②. Köln Solingen. Merlen, Frederic Guill. Mertens, Henri ▲. フランス,ドイツ. 200,000. 委託商,植民地物産 フランス,ドイツ. 600,000. 薬種,染料. フランス,イタリ ア,ドイツ. 500,000. 48 * Moll, Theodore. 薬種,染料. フランス,イタリ ア,ドイツ. 200,000. 49 * Mumm, E.. ワイン. フランス,ドイツ. 1,000,000. 45 46 47. 50. Mertens, Louis ▲ Molinari, Jacques ○◇▲ * Moll, Conrad ○ * Moll, Jean ◇. * Mumm, Jacques ◇▲ * Mumm, Phil.-Frederic * Mumm, Frederic. 51 * Mumm, Charles Beckh, Frederic. 委託商. ワイン 委託商,植民地物 産,農産物. フランス,ドイツ. 600,000. フランス,ドイツ. 150,000. ―. Erpel Köln Köln. 60. 既婚. 31. 既婚. 21. 既婚. 24. 未婚. 23. 未婚. Elberfeld. 34. 未婚. Göppingen Köln. Solingen Elberfeld. 52 * Nierstras, Jean ◇. 薬種,染料. フランス,ドイツ. 300,000. 38. 既婚. 53. Nolden, Paul Joseph ■◇▲. 魚,凝灰岩. フランス,ドイツ. 200,000. 57. 既婚. Köln. 54. Oettgen, Leonard Joseph. 染料,ワイン,布地 フランス,ドイツ. 200,000. 43. 既婚. Erpel. 55 +Oppenheim, Salomon ▲. 銀行. フランス,ドイツ. 1,000,000. 38. 既婚. Bonn. 56. 亜麻布. フランス,ドイツ. 300,000. 72. 死別①. Gevenich. Pfeiffer, Wwe. Jean Gerard. 57. Pregruber, Pierre Jos.. 委託商. フランス,ドイツ. 200,000. 31. 既婚. Köln. 58. Reincker, G. A.. 蒸留酒,農産物. 周辺地域. 600,000. 46. 既婚. Ladenburg. 59. Riegeler, J. M.. ワイン. 周辺地域. 200,000. 70. 既婚. Bartenstein. 60. Roeseling, Germain. ワイン. 周辺地域. 300,000. 50. 既婚. Köln. 61. Schaaffhausen, Abraham ■○◇. 銀行. フランス,ドイツ. 1,000,000. 54. 既婚. Köln. 62. Schaaffhausen, Wwe. Joan W. □. 銀行,毛皮. フランス,ドイツ. 600,000. 76. 死別①. Rheindorff. 63. Schlösser, Charles. 銀行業. フランス,ドイツ. 1,000,000. 63. 既婚. Elberfeld. 64. Schmitz, Constantin. 委託商. フランス,ドイツ. 300,000. 64. 既婚. Gruven. 65. Schmitz, Germain Joseph ■. タバコ. フランス,ドイツ. 200,000. 47. 既婚. Köln. 植民地物産. フランス,ドイツ. 1,000,000. 56. 既婚. Köln. 24. 既婚. Köln. 24. 既婚. Hanau. 61. 既婚. Varel. 33. 死別①. 66 * Schüll, Everhard Gaspard ○ 67 68. * Schüll, Jean Jacques Duhsais, Daniel Jean Schulz, J. D. W.. 委託商,農産物. フランス,ドイツ. 150,000. ワイン. フランス,ドイツ. 300,000. Seydlitz, Marguerite 69. * Merkens, Henri ▲. 植民地物産. フランス,ドイツ. 300,000. 33. 既婚. Köln Mülheim a. d. Ruhr. 装飾品. 周辺地域. 300,000. 46. 既婚. Köln. 71 * Stein, Jean Henri. 委託商,銅. 周辺地域,ドイツ. 300,000. 37. 既婚. Mannheim. 72. 委託商. 周辺地域,ドイツ. 400,000. 62. 既婚. Malmedy (ベルギー). 73 * Strömer, Jean Jacques. 薬種,染料. 周辺地域,ドイツ. 150,000. 62. 既婚. Gemünd. 74. Tossetti, Thomas Jacques. 委託商. 周辺地域,ドイツ. 300,000. 49. 既婚. Mainz. 75. Zilken, Antoine Henri. 委託商. 周辺地域,ドイツ. 150,000. 32. 未婚. Bonn. 70. Simons, Frederic ◇. Steinbach, Jean Nicolas. 註:※ 1 原題はフランス語で "negotiansetetcommercants commercants plus déstigués" である。 註 :※1 原題はフランス語で"negotians lesles plus déstigués"(最も卓越した卸売商人及び商人)である。 ※2 番号に付した下線は,後継者あるいは後継となる会社が,1845年の営業税の高納税者リスト(表2-Aないし表2-B)に記載される ※ 2 番号に付した下線は,後継者あるいは後継となる会社が,1845 年の営業税の高納税者リスト(表 2-A ないし表 2-B)に記載 ことを示す。 されることを示す。 ※3 氏名の前の はプロテスタント,+ はユダヤ人であることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。このリストではファース ※ 3 氏名の前の **はプロテスタント, + はユダヤ人であることを示す。他の無印の者はすべてカトリック。このリストではファー トネームについてフランス語表記が混在するが,ドイツ語に直さずそのまま記載した。 ストネームについてフランス語表記が混在するが,ドイツ語に直さずそのまま記載した。 ※4 氏名の後の記号については,□ は帝国都市参事会員を,○ はフラン ※ 4 氏名の後の記号については,□は親族から帝国都市参事会員が出ていることを意味し,■ は帝国都市参事会員が親族から出ていることを意味し,以下■ は帝国都市参事会員を,○ ス統治期に都市行政の役職者ないし選出市議会議員を,◇ はプロイセン時代の任命制市議会(1815~1845年)の議員を,そして▲ は商 はフランス統治期に都市行政の役職者ないし選出市議会議員を,◇ はプロイセン時代の任命制市議会(1815 ∼ 1845 年)の議 業会議所の議員を自身が務めたことをそれぞれ意味する。 員を,▲ は商業会議所の議員を自身が務めたことをそれぞれ意味する。 ※5「死別①」は氏名の記載される経営者の死去後,未亡人により経営が続けられていることを,「死別②」は氏名の記載される経営者 ※ 5 「死別①」は元の経営者の死去後,その未亡人により経営が続けられていることを ,「死別②」は氏名の記載される経営者が, が,その配偶者をすでに亡くしていることを意味する。. その配偶者をすでに亡くしていることを意味する。. 出典 :Hans Pohl, Wirtschaftsgeschichte Kölns im 18. und Beginnenden 19. Jahrhundert, in: Zwei Jahrtausende Kölner Wirtschaft , Bd. 2, Köln 1975, S.. 出典:Hans Pohl, Wirtschaftsgeschichte Kölns im 18. und beginnenden 19. Jahrhundert, in: Zwei Jahrtausende Kölner Wirtschaft, Bd. 2, Köln 139-142. 1975, S. 139-142..
(10) 棚橋 信明. 56. - 10 に 17 歳の時にケルンに移住し,委託・運送代理商として活動を始めた. 34). 。メルケンスもシュタインも,. プロイセン時代になって前述の J・D・ヘルシュタットとならんで銀行業で大きな成功をおさめることに なる。 それでは次に,カトリック企業家の社会的出自と活動内容に関する検討に移りたい。まず,表 1-B で 彼らの出生地を見ると,58 人のうち 14 人までが,すなわち約 4 分の 1 の者が移住者であったことがわか る。この 14 人のうち移住年が明らかな者はわずかであるが,移住者の意外な多さは,工場経営者につい て検討した前節でも確認したように,ケルンの有利な立地に引きつけられて 18 世紀を通じてカトリック 企業家の移住者がかなりあったこと,ケルンの都市市民が外来者に対してある程度の開放的性格をもって いたことを示すものである。たとえば,前節ですでに言及したフォヴォー[1-B-16]は,1750 年にケル ンの市民権を獲得しており. 35). ,フリードリヒ・カール・ハイマン(Friedrich Carl Heimann)[1-B-23]は,. 1779 年の結婚時にプロテスタントからカトリックに改宗し,市民権を獲得している。ハイマンは,ワイ ンや植民地物産の商取り引きのほかに火薬の製造業にも従事した. 36). 。他方で,フランツ・ヨーゼフ・ベ. ッカー(Franz Joseph Becker)[1-B-3],ヨハン・アーダム・コールハース(Johann Adam Kohlhaas)[1B-34],アントン・ハインリヒ・ツィルケン(Anton Heinrich Zilken)[1-B-75]のように 30 代の年齢か らも,帝国都市時代の終わり以降に移住してきた者も多かった。 また,前節でも同様のことが確認されたが,表 1-B に記載されるカトリックの商人のなかには,帝国 都市時代に参事会員や都市の重役を輩出したような門閥家系に属する者も多かった。58 人のうち自身が 帝国都市参事会員を経験した者は 11 人,そのほかに家族や親族にそのような者をもつ者が 7 人確認され る。 幾つか事例をあげると,帽子のほか毛皮なども取り扱ったエマヌエル・ベッカー(Emanuel Becker)[1 -B-2]は,自身が 1793 ~ 1794 年に参事会員であった. 37). 。また,1791 年に父親の商社から独立して銀行. 業を創業したアブラハム・シャーフハウゼン(Abraham Schaaffhausen)[1-B-61]は,それ以前の 1784 年より 1794 年まで参事会員に繰り返し選出されていた。その間に彼は, 現職の参事会員のみが就任でき る都市行政の高級官職である罰金裁判官(Fiskalrichter)と刑事裁判官(Gewaltrichter)を務めている。 彼の父のヨハン・ヴォルター・シャーフハウゼン(Johann Wolter Schaaffhausen)も,1756 ~ 1783 年に参 事会員を務めており,1810 年当時は表 1-B に見るようにその未亡人が彼の会社の経営を引き継いでいた [1-B-62] 38) 。また,ビルケンシュトック(Birkenstock)兄弟[1-B-6]の父親ハインリヒ・メルヒオー ル・ビルケンシュトック(Heinrich Melchior Birkenstock)は,1768 ~ 1796 年に参事会員に選ばれ,その 間にとくに威厳のある官職とされたシュティムマイスター(Stimmeister)を務めた. 39). 。. それでは次に,表 1-B に記載される「取り扱い品目」の欄を参照しながら,帝国都市時代からの連続 面における商業発展の特徴について確認しておきたい。ここで最も多く記載があるのは取り扱い品目では なく,業種を意味する委託商(Kommssionshandel)であることにまず気がつく。75 の商社のなかでこの 委託商を看板に掲げるものが 21 もあり,全商社の 28 %を占めた。この委託商とは,他の商人あるいは製 造業者から商品の販売の委託を受けるもので,買い手を見つけて引き渡すまでを請け負うことが多く,そ のため商品を運搬する船や運搬人の手配を行う運送代理商(Speditionshandel)を兼業することも多かっ た. 40). 。いずれも商品の価格に応じた手数料が,商人の収入になった。それでは,このような業種のケル. ンの商業における大きな比重は,何を意味したのであろうか。 中世後期から近世初頭にかけて,帝国自由都市ケルンはハンザ同盟にも加盟し,経済的な繁栄をきわめ たことはよく知られている。市内では織物や金属加工などの輸出向けの手工業が発展し,その原材料の輸 入と製造された商品の輸出によって遠隔地商業の発展も促されることになった。ケルンの人口は 16 世紀 までに 4 万人に達したが,これは当時のドイツの都市のなかでも最大規模を誇った。こうした繁栄には, ケルンが陸路及び水路における交通の要衝に位置していたことが大きく貢献していた。ところが,18 世.
(11) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 57. - 11 紀になるとケルンの経済的衰退と人口の停滞は顕著となり,1800 年ごろのケルンの人口は 16 世紀とほぼ 同程度にあったと言われる. 41). 。. こうしたケルンの経済的後退の原因として,周辺の領邦国家が進めた経済政策があった。18 世紀にケ ルンは独立した都市国家としてユリヒ・ベルク公国とケルン大司教領に囲まれ,孤立した状態にあった。 そして,この 2 国を含むドイツの領邦国家の重商主義政策により,ケルンの経済活動は圧迫を受けること になった。周辺の領邦国家は,自国内の産業を保護するために意図的にケルン商人の活動を妨害すること もあった。たとえば,ケルン大司教とクレーフェ・マルク公国による革製品の輸入禁止と原材料となるタ ン皮の輸出禁止は,はっきりとケルンを標的にしたものであり,これによりケルンの皮革産業は大きな打 撃を受けることになった。他方で,都市内部ではツンフトによる厳格な規制により製造業の技術革新は妨 げられ,大規模経営の成長は押さえ込まれる状況にあった. 42). 。. こうしたなかで,ケルンの商人たちは輸出向けの手工業製品を扱う遠隔地商業を縮小せざるを得なくな った。そして,伝統的特権である互市強制権(Stapelrecht)と積み替え強制権(Umschlagrecht)に依拠し ながら,委託商及び運送代理商の業務に次第に比重を移していったのである。互市強制権とは,ケルンを 通過しようとする商品を一定期間,市内に留め置き,ケルンの商人による買付けに供させるものであった。 他方で,積み替え強制権とは,ライン河の港に停泊した船から一旦,荷物を陸揚げさせ,数日後に別の船 に積み替えることを強制するもので,これもケルンの商人たちに商機を提供することになった。領邦国家 からの圧力により 18 世紀にはこうした特権を完全に行使することは困難になり,ケルン港を素通りする 貨物船の数も次第に増えていったが,これらの特権は取り扱う商品が次第に限定されるようになったケル ンの商人たちにとって,委託商及び運送代理商として活動を続ける拠り所であり続けた. 43). 。. なお,ケルンの互市強制権は,1804 年 8 月に導入された「ライン航行税(Rheinschiffahrtsoktroi)」によ りライン河の 32 の税関が廃止されると同時に消滅したが,積み替え強制権はその後も維持されることに なった. 44). 。いずれにせよ,フランス軍による占領,そしてフランス共和国(帝国)への編入により,通. 商路に大きな混乱と変化が生じるなかで,1810 年に至っても交通の要衝としての有利な条件と伝統的特 権に依拠したケルンの委託商は,商業全体において重要な位置を占め続けたのである。このことはフラン ス統治時代になってもケルンの商人にとって,新しい有望な取り扱い商品が出現していなかったことを意 味する。表 1-B の「取り扱い品目」の欄で,次に多く記載されるのはワインと植民地物産であるが,こ れらも新しい商品と言えるものではなかった。 ワインについては,表 1-B に記載される 75 の商社のうち 17 社(22.7 %)が取り扱い品目として掲げ いるが,このうちカトリックの商社が 14 社であったのに対して,プロテスタントの商社はわずかに 3 社 であった。このこともワインが 18 世紀以来の伝統的な取り引き商品であったことを示唆している。実際 にワインは,中世後期からケルン商人にとって利益率の高い重要な商品であり,18 世紀の終わりまでに 最盛期に比して取り扱い量に若干の後退はあったが,1797 年の『住民録』にはワイン商として記載され る者が 122 人もあった。ケルンのワイン商たちは,市壁内のブドウ畑で生産されるワインのほか,ライン 川,モーゼル川,アール川の流域で生産されるワインを大量に買い付け,これを西ヨーロッパ全域からア メリカ大陸にまで輸出して利益を得ていた。また,商人たちのなかにはライン中流域のブドウ畑を所有し たり,前貸し等によって生産者を従属下に置くことによって輸出するワインを確保しようとする者もあっ た. 45). 。. そして,植民地物産については,75 の商社のうち 15 社(20.0 %)が取り扱い品目として掲げているが, プロテスタントの商社がそのうち過半数の 8 社を占めたことは,ワインの場合との大きな相違として指摘 される。植民地物産とは,具体的には東インド及び西インドに産するコーヒー,紅茶,砂糖,米,香辛料, 染料,タバコなどのことで,オランダを経由してライン河でケルンに到着していた。そして,ケルンを中 継してドイツ中西部や南部,さらにオーストリアやスイスにまで送られたのである。フランス統治期には,.
(12) 棚橋 信明. 58. 表2-A 1845年の営業税の高納税者(製造業) 番号※1. ※2. 会 社 名. 経 営 者※3,4. 業 種. ● 納税額 250 ターラー 1 Carl Joest & Söhne. 精糖. *. Joest, Carl sen. ◆/Joest, Carl jun. ◆ /Joest, Julius/Joest, Wilhelm. 精糖. *. Rath, Johann Jakob vom/Rath, Johann Peter vom ▲/Rath, Carl vom. ● 納税額 156 ターラー 2 Gebr. vom Rath ● 納税額 104 ターラー 3 Baehrens Hagen & Comp.. 鋳鉄・機械製造. Hagen, Paul Joseph. 4 vom Rath & Bredt. 精糖. * Bredt, Carl Peter/Bredt, Titus ◆. 5 Manderbach & Gosenbruch. 精糖. * Gosenbruch, Friedrich. ● 納税額 91 ターラー 6 Johann Maira Farina. オーデコロン製造. 7 J. F. Koch. 絹織物業・商業(絹製品). 8 Franz Foveaux. タバコ製造. Minderop, Johann Joseph. 9 Rollfs & Comp.. 捺染・染色. * Rolffs, Christ. Gottlieb ▲. 10 Schleußner & Heck. Farina, Johann Maria ◆▲ * Koch, Johann Friedrich. 精糖. - . ● 納税額 78 ターラー 11 Joh. Theod. Stroof. 商業(ワイン)・鉛管製造. Stroof, Conrad Joseph. 12 H. J. DuMont. タバコ製造. DuMont, Johann Michael ◇▲. 13 Kropp & Comp.. 精糖. Kropp, Franz Peter. 14 Gebr. Carstanjen. 精糖. Carstanjen, August. 15 Franz Maria Farina. オーデコロン製造. Mülhens, Peter Joseph ◆▲. 16 Jean Maria Farina. オーデコロン製造. Scheib, Johann. ● 納税額 65 ターラー. 17 Felten & Guilleaume. ロープ・デンプン製造. Guilleaume, Christina (未亡人) /Guilleaume, Carl Augst/Guilleaume, Hermann/Guilleaume, Johann Theodor ◆▲. ● 納税額 52 ターラー 18 H. J. DuMont-Reynier. 皮革. DuMont, Marcus. 19 Gebrüder Braubach. 絹織物. Braubach, Michael/Braubach, August. 20 Opfergelt & Scheper. タバコ製造. Opfergelt, Heinr. 21 G. A. Reinecker & Comp.. 針製造. D'Eu, Henri/Merkens, Jacob ◆. ● 納税額 39 ターラー + Heß, Luzia(未亡人). 22 Heß & Horst. 精糖. 23 A. J. Bürgers. タバコ製造. Bürgers, Anselm Joseph. 24 P. J. Büttgen. タバコ製造. Büttgen, Heinrich Joseph. 25 J. J. Decker. 羊毛製品製造. Decker, Johann Joseph. 26 Joh. Anton Farina. オーデコロン製造. Leven, Peter. 27 Johann Maria Farina. オーデコロン製造. 28 C. H. Kotthaus. 精糖. Farina, Ther. (未亡人) * Kotthaus, Carl Heinrich ◆▲. 29 J. Schieffer. 羊毛製品製造. Schieffer, Johann ◆▲. 30 Carl Anton Zanoli. オーデコロン製造. Zanoli, Franz Anton ▲. 31 Gebr. Wrede. 石鹸製造. Wrede, Gertrud (未亡人). ※ 註及び出典については,表2-Bの欄外を参照。.
(13) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 59. - 13 関税政策や 1806 年以降の大陸封鎖により植民地物産の交易は大きな打撃を受けたはずであるが. 46). ,1810. 年にも多くの商人がこれを取り扱っていたことは,そもそも植民地物産の大半が高価値の嗜好品であり, 限定された取り扱い量でもある程度の利益をあげることができたからであったと考えられる。また,これ を取り扱う商人にプロテスタントが比較的多く含まれたのは,ケルンに移住してきたプロテスタント商人 のなかにオランダ商人との取り引き関係を以前からもった者が多かったことによるものと考えられる。 1810 年時に,ワインや植民地物産といった伝統的な高価値商品に対して,工業の原材料や製品を扱う 商人はわずかであった。こうしたフランス統治期の商業の特徴は,前節で確認したような同時期の工業の 発展段階,すなわち繊維工業において依然として問屋制が大きな比重をもっていたこと,18 世紀半ばか ら発展した伝統的なタバコ産業とオーデコロン製造業が依然として重要な地位を占めた状況ともリンクし ていたと見ることができる。. 2. 1845年ごろのケルンの企業家層 1815 年 6 月に締結されたウィーン議定書に基づき,ケルンはプロイセン王国に編入された。これによ りケルンの経済活動は,それまでのフランスとの直接的関係を断たれることになったが,ライン河の右岸 地域を市場として回復するとともに,これ以降は,プロイセンの東部諸州との関係を次第に深めていくこ とになる。こうしたなかで都市ケルンを中心とするライン地方が,40 年代に始動するドイツの本格的な 工業化において指導的な役割を果たすことになるのである。本章で問題となるのは,48 年革命の直前の 工業化の始動期における都市ケルンの指導的企業家層の社会的出自と活動内容である。以下では,1845 年に 39 ターラー以上の高額の営業税を納めた企業を,製造業を本業とするものと商業・金融業を本業と するものに分けて整理した表 2-A と表 2-B を参照しながら,各分野の企業家について検討を進めたい。 (1)1845年ごろの工業企業家 まず,表 2-A に掲載される 31 の企業の経営者について,その宗派の構成を確認しておきたい。高納税 者として掲載される企業のなかにも経営者が不明のものがあり,またすべての企業家について宗派がはっ きりしているわけではないが,ここに記載される共同経営者を含む企業家 42 人のなかにはプロテスタン トが少なくとも 13 人,ユダヤ教徒が 1 人含まれた。都市ケルンのプロテスタント人口は 1815 年以降も増 加を続け,1846 年には 9,692 人で,全人口 90,249 人の 10.7 %を占めるに至る. 47). 。それに対して上記の 13. 人のプロテスタントが表中の企業家において占める割合は 30 %と,それを大きく上回った。また,単純 な比較は禁物ではあるが,表1-A でこの割合が 25 %であったことから,1810 年時に比して指導的な工 業企業家におけるプロテスタントの割合は増進していたと推察される。 そのうえ注目すべきは,上位の高納税者のグループにおけるほどプロテスタントが大きな割合を占めて いることである。納税額 104 ターラー以上の企業の経営者 11 人のうちパウル・ヨーゼフ・ハーゲン(Paul Joseph Hagen)[2-A-3]を除く 10 人までがプロテスタントであった。また,納税額 78 ターラー以上の企 業で見ても 19 人中 13 人がプロテスタントであり,68.4 %を占めた。そして,彼らのほとんどがフランス 統治時代以降に,ケルンに移住してきた人びとであった。 つぎに,前章で取り上げた 1810 年時の有力な工業企業の「残存」を検討してみると,表 2-A に記載さ れる 31 企業の経営者のなかで,表 1-A ないし表 1-B に記載される 1810 年の有力企業家の後継者は,業 種の転換が認められる者も含めて 12 企業の 14 人の経営者であった。表 1 と表 2 が基礎とする資料の性格 の相違に注意する必要はあるが,この間に有力な工業企業のおよそ 6 割が衰退するか,ケルンから転出し たと見ることができる。逆の観点から見ると,表 2-A に記載される 31 の工業企業のなかで 19 企業は, 1810 年以降にケルンで新たに創業するか,急激な成長を見せた企業であったのであり,この間に有力な.
(14) 棚橋 信明. 60. - 14 工業企業の入れ替わりがかなり激しかったと言える。それでは,1845 年までに,ケルンではどのような 製造業の興隆が見られたのであろうか。 表 2-A で新しい製造業として圧倒的な存在感を示すのは精糖業である。104 ターラー以上の納税額の工 業企業 5 社のうち,4 社までが精糖業の会社であった。また,表 2-A に掲載される 31 企業のうち精糖業 を本業とするものは全部で 9 つ数えられ,業種別でも最多であった。他方で,表 1-A には精糖業を本業 とする企業がまったく掲載されていなかった。 ケルンにおける精糖業の隆盛は,1820 年代にライン河における蒸気船の運航によって植民地産の蔗糖 の精製が国内産の甜菜糖の生産に対して有利になったこと,そして 30 年代にドイツ関税同盟の成立によ って精製糖の市場がドイツ全土に大きく開けたことを契機として進んだ. 48). 。1836 年には 19 の精糖業者. が 367 人の労働者を,そして,1849 年には 13 の精糖業者が 771 人の労働者を雇っており,この間にも精 糖業者の淘汰と大規模化が進んでいったことがわかる。1849 年にケルンの精糖業は,製造業のなかで最 大の労働者数を擁し,1 企業当たりの労働者数でも最大であった. 49). 。それでは,どのような企業家たち. がケルンで精糖業を創業し,このような大規模経営を発展させていったのであろうか。 まず,最高納税額である 250 ターラーを支払ったカール・イェースト父子社(Carl Joest & Söhne)[2A-1] は , ゾ ー リ ン ゲ ン 生 ま れ の プ ロ テ ス タ ン ト あ っ た カ ー ル ・ ヴ ィ ル ヘ ル ム ・ イ ェー スト ( Carl Wilhelm Joest)が創業したものであった。彼は当初,出生地を拠点にブラジルからの蔗糖の輸入に従事し ていたが,1831 年に輸入した蔗糖を精製する工場をケルンに設立したのであった。その後,息子たちを 共同経営者としてカール・イェースト父子社を社名としたのは 1841 年のことであった。1839 年に彼の工 場は 130 人の従業員を擁し,合わせて 75 馬力の能力の 3 基の蒸気ボイラーを使用しており,これは当時 のドイツで最も近代的な精糖工場の一に数えられた. 50). 。. そして,納税額 156 ターラーのフォム・ラート兄弟社(Gebrüder vom Rath)[2-A-2]を経営する 3 人 の兄弟も,デュースブルク出身のプロテスタントであった。彼らが出生地で精糖業を創業したのは 1822 年のことであったが,原料と製品の輸送に有利な立地条件を求めて,1834 年にケルンに工場を移転させ たのであった。1839 年にラート兄弟の会社は従業員 39 人を数え,精糖業ではイェーストの会社に次いで 第 2 位を占めた。また,ここで特筆すべきは,長兄のヨハン・ヤコブ・v・ラート(Johann Jacob. vom. Rath, jun.)が,ケルンへの移住前にデュースブルクですでに大きな声望を獲得しており,1831 年に設立 された同都市の商業会議所議の初代会頭に就任し,1834 年までその地位にあったことである。彼のよう な人物の移住は,ケルンの立地条件が周辺地域の企業家にとっていかに魅力的に映ったのかを物語ってい る. 51). 。. また,表 2-A には,精糖業者としてフォム・ラート&ブレット社(vom Rath & Bredt)[2-A-4]も 104 ターラーの高納税者として記載されているが,この会社は上記のラート兄弟の父親で植民地物産商を営ん でいたヨハン・ヤコブ・v・ラート(Johann Jacob vom Rath, sen.)が,彼の義理の息子であるヨハン・ペ ーター・ブレット(Johann Peter Bredt)と共同で設立したものであった。同社は 1797 年にケルンに石鹸 工場を設立し,表 1-A にブレットの名前が見られるように,1810 年にその経営は順調であった。ラート の死後,同社はブレットの単独経営となり,彼は 1830 年に精糖業にも乗り出し,次第にこれに比重を移 していったのであった。表 2-A に掲載されるカール・ペーター・ブレット(Carl Peter Bredt)とティト ゥス・ブレット(Titus Bredt)の兄弟は J・P・ブレットの息子たちである. 52). 。. 以上のように,精糖業で成功した企業家には,ベルク地方出身のプロテスタントの移住者が目立ったの であるが,彼らがケルンの経済界や都市政治の場において重要な地位を獲得していった事実も確認してお きたい。C・W・イェーストは,1846 年 10 月にプロイセン統治下で初めて実施された市議会選挙におい て第 2 階級から議員に当選している。そして,彼が 1848 年に死去したのちには,息子のカール・イェー スト(Carl. Joest)が,1850 ~ 1877 年に第 1 階級から繰り返し市議会議員に選出されることになる. 53). 。.
(15) 19 世紀前半期の都市ケルンにおける近代企業家層の成長過程. 61. - 15 また,精糖業を創業した J・J・v・ラート(息子)は,1846 ~ 1849 年にケルンの商業会議所の議員を務 めている. 54). 。他方で,ブレット家は 18 世紀の終わりにケルンに移住してきており,精糖業者のなかでは. 古参の家系と言えるが,表 2-A に掲載される C・P・ブレットが,1840 ~ 1843 年に商業会議所の議員を 務めたのち,1850 年に実施された市議会選挙で第 1 階級から議員に選出され,1853 年までその地位にあ った. 55). 。こうした人びとは新参のプロテスタントであり,なおかつ目新しい業種の精糖業で 30 年代に急. 激な成功をおさめたのであったが,40 年代には早くもケルンの市民層において大きな声望を獲得したの である。 それでは,精糖業を除くと,1845 年のケルンではどのような製造業が盛んであったろうか。表 2-A で 業種の数で精糖業に続くのが,6 社を数えるオーデコロンの製造業,そして 5 社を数えるタバコ製造業で あった。オーデコロンとタバコの製造業は,すでに前章の第 2 節で取り上げたように,18 世紀半ばから 顕著な発展を見せた産業であり,19 世紀半ばのケルンではすでに伝統的産業と呼べるものであった。 それでも,オーデコロンの製造業については,18 世紀の終わり以降,開発者のファリナの家系に属さ ない企業家の参入も数多く見られた。表 2-A に記載されるペーター・ヨーゼフ・ミュルヘンス(Peter Joseph Mülhens)[2-A-15],ヨハン・シャイプ(Johann Scheib)[2-A-16],ペーター・レーヴェン (Peter Leven)[2-A-26],フランツ・アントン・ツァノリ(Franz Anton Zanoli)[2-A-30]がそれである。 しかしながら,彼らの多くが「ファリナ」を会社名に,すなわち商標として使用していることからも明ら かなように,19 世紀の半ばに至ってもファリナ家は大きな影響力を保持していた。要するに,正規の契 約により「ファリナ」の商標の使用権を獲得し,伝統的製法の秘伝を入手することは,この産業で成功す る要件になっていたのである。また,その製造工程は依然として手工業的であり,各企業の従業員もせい ぜい 10 人までであった。1849 年にオーデコロンの製造工場は芳香石鹸の製造工場も含めて 21 に達した が,工場で働く労働者は 91 人にすぎなかった. 56). 。. 他方で,ケルンのタバコ製造業では,大規模経営の発展が見られたが,表 2-A に記載されるフラン ツ・フォヴォー社(Franz Foveaux)[2-A-8],H・J・デュモン社(H. J. DuMont)[2-A-12],A・J・ビュ ルガース社(A. J. Bürgers)[2-A-23]はすべて,前章の第 2 節で言及しているように,18 世紀の半ばか ら後半に創業したものであった。これらの企業は,フランス統治期の重い税負担と,さらに 1810 年 12 月 に実施に移されたフランス政府による専売化によって,生産の大幅な縮小や一時的停止を余儀なくされて いたが. 57). ,プロイセン時代になって復活し,再び大きな発展を見せたのである。ケルンのタバコ製造業. は 1836 年に 19 の企業が 327 人の労働者を,そして,1849 年には 36 の企業が 515 人の労働者を使用して おり,1849 年には雇用する労働者数において精糖業に次ぐ地位を占めたのである. 58). 。. ここで最後に指摘しておくべきは,ケルンでは産業革命を指導するはずの近代的な綿工業と金属加工業 が依然として未熟な状態にあったことである。表 2-A には,繊維産業では絹織物と羊毛製品の製造業者 がそれぞれ 2 社,金属製品の企業も 2 社のみが記載されている。フランス統治時代に創業し,表 1-A で 有力企業として名前のあった J・F・ヒュッセンの綿紡績業,L・v・ヘースと J・ラウターボルンの綿織物 業,そして 1810 年に初めて近代的な綿紡績工場を設立した P・ベムベルクの会社も,1820 年代にはケル ンから姿を消していた. 59). 。そのほか絹織物業と羊毛製品の製造業の分野でも,フランス統治期に数多く. の創業者があったが,プロイセン時代にかけて大規模経営として継続的な発展を見せるものはわずかであ った。 (2)1845年ごろの商業企業家と金融企業家 表 2-B には,4 つの株式会社を含む 105 の企業が記載されている。表 2-A に記載のものも含めると, 1845 年に 39 ターラー以上の営業税を支払う企業は全部で 136 あり,本節で取り上げる商業及び金融業を 本業とする企業は全体の 77.2 %を占めたことになる。また,表 2-A 及び表 2-B に記載されるすべての企.
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