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高崎における近代工芸運動の考察(1) : 工芸運動の発生と経過

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Academic year: 2021

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(1)高崎における近代工芸運動の考察(1) 一工芸運動の発生と経過一 松. A. Study. Modern. the. on. 久. 本. 志. Cra氏s. Hisashi. Movement. in Takasaki. MATSUMOTO*. ABSTRACT There. designs. has. and. in. has. been. advanced. by. as. craft. movement. craft. been. never.. Japan the. a. such in. case. Muneyoshi. Yanagl,. for modernization. movement. remarkable. Europe・Asfor Whose. goal. was. the. not. of the folk. barely. was. craft,there. modernization. orcra氏. During that. she. design. or. was. her. start. Especially,. craft. in. so. own. to. urgent. the. country,. to. getrid. of. unable. of. to. her. considering. parts. were. herself. adapt. movement. most. manufacturers. 1929, however,. had. there a. experienced. In a. Japan. to. European. position. having. their. civilization in. thefields. of from. littlein丘uence. traditional. waァof. thinking. Fusaichiro. lnouye,. manufacturlng. In. who. ill afford. craft・. Europe,the and. Meiji Era,. the. could. Takasaki,. For. this. new. Inouye. purpose) lnouye. establishedthe. town〉. tO. trylng. and. seven. than. he. industry,. start. would. ever.. for. actually. in France.. years. local. With. popular. anAssociation. lnstitue,. Called for. craft art. more. organized. Craft. and. COnneCt. far. craft. tou喝man. a. for design. highquality. make. Japan. to. movement. his native. to. movement. home. came. distribution designlng. started. of. wood. craft,. manufacturing. and. bimsel£ What. he aimed. as. goods It. was. craft. movement. be. to. as. devotlng. a. a. make. *美術教室(°ept.. be a. the. tlny. have. designs. in. only. a. necessary. of Fine. well. craft・ been. found. inJapan,. Indeed, or. for of. a. he. us. our. to. also. evaluate. modern. Bruno. that. with and. manufacturlng. Taut. lnouye. in. Such. craft. to Takasaki in moved fostering his idealof. helping. a. gave in. settled. new. started. in飢1enCe. great. but. craft. established sympathized. movement. Art). local. markets.. Taut. development. had. panorama. basis. design・. Craft. fostering. overseas. never. and. to. was. It would. had. craft. bimselr. Wbat. leader. as. trialization of. to. not. be wellfit for because a of such. so. were. was. would. 1934. whose. at. Takasaki. hand. tothe. indus-. for twenty-seven. months,. Taut〉s. leadership,. cra氏. in. Onthe. Takasakil local. highly. design. and. grew. craft. this. craft. craft.. big. under. here. movement. in. Takasaki,. if we.

(2) 高崎における近代工芸運動の考察(1). 1.は. じ. め. 223. に. 近代の工芸領域にあけるわが国の社会的運動には,山本鼎(1882-1946)の唱導した農 民美術の運動と,柳宗悦(1889-1961)を中心に展開された民芸運動とがある。この両者 の運動は,大正デモクラシーを背景とした一種の社会思想運動としての一面をもっており, 大衆に働きかけ,大衆を担い手とする社会活動であった。大正期に起ったこの両者の運動 と思想は,日本の近代思想の普及に大きな影響を及ぼすことになったが,彼等が対象とす る領域は,手工芸の域から出るものではなく,まして工芸・デザインの近代化運動ではな かった。社会の工業化の進展によって,工芸儀域の主要な問題は,産業デザインにとって かわることになり,山本,柳の運動は次代に継承されることなく終っている。 工芸・デザインの問題が,産業社会という新たな背景のもとに社会的にクローズアップ されてきたのは,第二次大戦後,それも1950年代に入ってからである。欧米の新しいデザ イン恩恵や方法論の涜人によって,工芸・デザイン劉ま新たな出発を余儀なくされ,同時 に工芸・デザイン教育も,新制大学発足を機に,教育方法論を大きく転換し実施されるこ とになったoこのように,日本の社会における工芸・デザインの近代化運動は,明確な形 でばこの期に初めて展開されたとみてよい。 山本,柳の運動から第二次大戦に至る間は,工芸領域は大きな変化のない時代として,. 社会的に論じられることは少なかった。むしろこの時代は,満州事変以来軍事国家化する 中で,工芸はおろか芸術をも主要な課題として考える世情ではなかったといえる。 しかし,このような時代にあって,工芸・デザインの近代化を模索し,教育活動や工芸 運動の形をとって,地道になされたいくつかの活動があった。今日既に顧みられなくなり つつあるこれらの活動を掘りおこし,困鞍な時代における進展のあとをたどり,日本の地 方工芸史の-こまとして考えたい。ここでは特に地方工芸の発展にかけ,そこを起点に日 本の工芸・デザインの牽引をはかろうとした,高崎に焦点を当てて考察してみることにす る。これは山本,柳におけるような思想性をもつものではなく,自づから性格を異にする ものであるが,地方工芸の近代化運動の一つの特異な例として考えられるものである。運 動としては小さなものに終ったが,ここで提起された工芸の考え方と質の問題は,今日の デザインの原理や工芸・デザイン教育の課題を,既に肱胎していた。この稿では,高崎に おける工芸運動の発生の経過をたどり,. BrunoTaut. (1880-1938)を迎えて,発展過程に. ある時期までをとりあげて考察してみる。. 2.工芸運動の発生と初期の展開 農民美術運動や民芸運動が,山本,柳という個人の思想と行動によって発生し,展開さ れたように,高崎における近代の工芸運動も,その推進に当った井上房一郎(1898-. のフランス留学からの帰国が大きな刺激となり,実質的な発端をなしている。先ずここで,. ).

(3) 224. 松. 本. 久. 志. 工芸運動に到る井上の行動と思想形成について,その経緯をたどってみる。 当時井上の実家は,高崎で製粉,製糸,建設など多角的な事業を営んでいた。高崎は北 関東の交通の要地として,商業中心に発展してきており,彼の先代がこの地で生産事業を 始める以前には,見るべき産業をもたない一地方都市にすぎなかった。彼は学業を終える と,家業を継承せず1923年春フランスへ渡った。当時は第一次大戦が終り,商品,株式の 暴落,銀行の破産など社会問題が提起され,大きな社会変革期であった。こうした社会情 勢と彼自身の芸術志向の性格とから,実業界に身を投ずることば困難なことであった。彼 は前記した農民美術運動や自由画運動の提唱者山本鼎や白樺派の人々としばしば会う機会. が奉り,特に山本の思想に深く影響を受け,高崎で自由画運動を画策したこともあったo また,ロシア革命を実見して帰国し,プロレタリア文学論を展開していた片上伸(18841928)などから,社会芸術思想の洗礼を受け,外国の新思想に触れようとする意欲をかき たてられていた。そして,特に興味をもったセザンヌやゴッホなど後期印象派の画風を 慕って,画家になることを決心し,パリでアトリエを借り,美術アカデミーに通って画の 修業に励んだ。同時に新進の人々の仕事や古い大家の作品に接し,その個人的時代的造形 精神とともに,それらを貫いている造形芸術に対するヨーロッパ人の伝統への理解に強く ひかれ,絵から彫刻,建築へと広汎な造形美術に関心を広めていった。その間の事情を次 のように記している。. 「(留学当初)私は何よりもセザンヌに傾倒した。. (中略)セザンヌは自己と外界との関. 係をタブローに実験して,近代絵画の創始者になったが,私はこのことは単に絵画のみな. らず,彫刻,建築,全ての造形美術に通ずるものがあるばかりか,さらに多様な社会関係 についてもそう考え得ることに気づいた。セザンヌに出会い,セザンヌに学ぶことで私は 自己を確立し,外界を観察し,社会的創造をなし得ることに勇気をもつようになった。こ うした考えは,私の将来の活動の方向を決定した。1)+そして「とうとう私の背任は,美術 から建築,工芸を切り離して考えせさるようになってしまった。この頃の私は,現代にお けるドイツその他の新しい建築運動に眼を向けるようになった。かくて私の在仏7年間も 短かく過ぎ,私は画家にもならず,建築工芸を通じて,きわめて一般的な実際家になって しまったo丑)+. 1929年暮に帰国。. 「帰国後は父の事業を継承しつつ,それを近代的に発展させながら,長く西欧において 養われた目をもって,日本文化を見直すことに努め,進んで現代日本の美的貧困を克巌す ることを志したo3)+ 彼が帰国した当時は,金融大恐慌の直後で,経済も深刻な影響を受け,産業の合理化, 輸出の振興などが策としてとられようとしていた。当時高崎も商業中心的な行き方から, 産業更生への道を求める必要があり,その方法論が模索されていた。彼は父のすすめと, 前記の志がよりよく生かせる場としての考えから,群馬県工業試験場高崎分場4) 芸所)の仕事に関係することになった。これが公的機関とのかかわりを得た最初である。 この関係によって,やがて彼は商工省貿易局の嘱託に選ばれ,高崎を中心とした中小企業 の家具,木工,漆工,竹工,染色,織物などのデザインと製作を本格的に指導することに. (後の工.

(4) 高崎における近代工芸運動の考察(1). 225. なった。これと並行して,彼自身の工芸の事業にも取り組んだ。 先ず,高崎とその近≠馴こある家内生産の工芸に着目し,事業化することから始め, 年には既に次のような事業内容をととのえている.5). 1932. /. 木工-「高崎木工製作配分組合+を組織し,主として家具を中心に製作 漆工-3名の熟練工を雇用し自営 染色一高崎染物組合と提携し,高崎絹に加工染色 機織一工業試験場を利用して,高崎絹の生地改良 金属一自家の資本と関係の深い鉄工場と提携し,主として金属家具を製作. 建築一自家の事業 製作活動は木工,漆工を中心に進められ,この時点までに次のものが既に生産体制に 入っている。. 金属小椅子,ティーチ-ブル,サイドボード樺戸棚,小卓,安楽椅子,サイドボード 兼の本棚,事務机,金属パイプ椅子,犀風,漆の小箱,盆 これらのデザインは,ほとんど井上自身の手になるものであり,漆工品や犀風には構成 主義的なパターンがとり入れられ,当時の地方工芸品としては極めてモダンなデザインに なっている。家具にはバウハウス様の機能的なデザインも登場し,特に力を注いだと見ら れる鉄パイプの弾性を利用した椅子のデザインは,日本の先駆的な作品と考えられる。こ うしたデザインは,従来家内工業的に行われてきた旧態依然とした工芸様式を大きく革新. するものであり,地元工芸に与える影響は大きなものがあった.こうした工芸品は, 部の高級な階級の要求に標準をおかぬ6)+よう常に配慮され,彼の理念である良品質工芸 の大衆化が目指されていた。 事業の進展にともなって,研究・製作機関や製作・販売機閑は次のように整理され,工 芸運動の推進がはかられることになった。. ①. 高崎木工製作配分組合. (勤 タスパン株式会社 ⑨. 井上工芸研究所. 木工製作配分組合は,井上が工芸運動の推進上長も早く発想し,組織化したものである。 当時工業試験場高崎分場では,技術伝習生制度をとり,木工技術の向上普及を画したが, 彼等を吸収する十分な体制は地元にはなかった。この組合は彼等を徒弟として雇い入れ, 木工家具の製作者とし,更に一般市民を協力者とする,当時としては新しい工芸運動を展 開するのに最もふさわしい組織であった。それは従来の一般の産業組令,あるいは同業組 合におけるような,業者間の団休的協同体ではなく,組合員はこの地方産業の開発に讃助 するある額の出資者であった。一方運営に当っては,工業試験場とタイアップし,また, 公共団体の支援のもとに助成される特殊な経営体とした。そして彼が期する目標は,生産. 品の主要販路を東京に求め,従来東京から逆移人の形にあった木工品の流人を防ぎ,地方 工芸のレベルを向上させ,工芸運動の拡充をばかることであった。 員70名,職工8名を擁するに到っている'。7). 1932年中期には,組合. 「一.

(5) 226. 松. 久. 本. 志. タスパン株式会社は,前記の染色,磯織の催事から発展したもので,_高崎絹の改良と染 色,カス')地の改良,その他ホームスパン,じゅうたんなどを製作販売する機関であった.. 井上工芸研究所は,工芸品全般の研究,特に漆工を中心に研究,製作を行う嘩閑であった. こうした事業を通して,井上の工芸運動の理念と活動領域は,次第に明確なものになっ ていった。彼は当時の志を次のように記している。 「このような機関を通して,私は工芸を大衆のものとするという,当時の日本にとって 必要不可欠な運動,生産と芸術とが並行して結合しうる社会運動を志したo8)a. 当時にあっては,前記した柳宗悦を中心とした民芸運動の嘩り上りの時期であり,日本 における工芸領域の社会運動としては,これから受ける影響は多大であったと思わ*.る. 井上は,柳の恩恵には深く畢鳴しながらも,上記の志のように,民芸運動とは別の道春歩 んだo柳の運動は,識者の間には大きな共感を得ていたが,発展性のある製作理念に欠け るところがあり,井上は既にこの点は見抜いていたと思われる。彼の目標は良質工芸の大 衆化にあり,工芸の産業化は避けられない前提であった。 このような井上の事業に興味をもち,早くからこれを支援しようとする人々がいた。彼 の事業にいち早く参加していた水原徳言の指摘によれば,バウハウス留学から帰朝したば. かりの山脇巌夫妻,餅やホ-やスパンを独自に研究普及を考えていた蜂須賀年子,銀座q). 一角に「新嘩築工芸学院+を創設し,・日本での「小バウハウス+を志していた川音田煉七 蝕,自由学園で工芸部を作るペく,ドイツから帰って動き始めていた羽仁光子等である。 こ・うした人々は,′井上を中心とする総合的な工芸運動に強い共鳴を示し,その頃,工芸と いえば帝展を頂点とする美術的手工芸の領域のものと一般に考えられていたことに反対し. て,生活に密着した真の工芸を生みだすことに一致した動きを見せ始めていた.9)特に川 喜田煉七郎は,これを自分の仕事と結びつけて考え協力し,高崎をドイツのマグデブル. ダ10)にたとえ,つまりは井上をTautにたとえ考記事を,彼が1931年に創刊した建築・ エ芸の雑誌「アイ・シー・オール+ll)に記している。. Tautの来日など予測もできなかった. 時郡こ,井上の工芸運動の地としての高崎を, Tautがはなばなしく活躍したマグデブル ダにたとえて記していることば特に注目される。井上・Tautの結びつきは,既に見えぬ. 糸で結ばれていたといえよう。以上がTautを迎えるまでの,高崎における工芸運動の初 期の経過である。. 3.高崎地方の工芸生 産事情 高崎における工芸運動甲進展. 第1表1934年皮群馬県工芸物産産額表 製. 糸. 綿. 織. 物. 絹. 放. 物. 29. ,678 57,297. からひとまず限を転じ,井上が. 細鵜交織物. 地方工芸の近代化を企図、したこ. 毛. 織. 物. 2. 木. 製. 品. 1. のようなものであったかを,こ. 漆. 器. ,738 ,397 ,572. 1. の地方のエ芸の事情は,当時ど. ,684. 2. ,364,1()5 ,032. ,208. ,836,994 68. ,175. 焼. (単位円) 物. 9,895. 竹. 製. 品. 194. 履. 物. 類. 937. 藤. 製. 品. 硝子製品 紙. 製. 皮革製品. ,913 ,. 565. 19 ,445. 18. 品. ,330 15,680 198. ,661.

(6) 高崎における近代工芸運動の考察(1) こで簡単に記しておく.. 色白テ. 1934年の群馬県地方の工芸生産の産額を第1真に示す.1皇). この中で,絹織物と製糸が抜群の産額を示しているが,これは古くからこの地方特有の 産業として発達したもので,特に絹織物は桐生,伊勢崎を中心に発展し,当時日本の主要. な輸出品になっていた。製糸は工芸というよりは工芸材料と見るべきものだが,富岡には 官営の製糸模範工場があり,全国製糸の中心的存在であった。井上らが主な対象としたも のは,このような大きな生産組識をもち,すでに安定した製品をつくり出しているもので はなく,旧態のまま家内工業的につくられる木工,竹工,漆工などであった。次にこれら の工芸品の種類,生産地等を略記してみる。 工 ・木 地元用材として桐,杉,袷,樺,栓などがあり,タンス,洋家具,指物類は高時,前橋. が主産地。茶ダンス,茶卓子は桐生,盆,菓子器など挽物類は渋川,沼田方面i履物類 は主に桐,朴を用材として,前橋,高崎,桐生,I館林など広く家内工業として生産され ていた。 工. ・竹 養蚕用品として竹は古くから使われていたが,生花盛カゴ,衣しょうカゴ,手提カゴ,. 炭カゴなどが前橋とその近郊で,すだれが高崎郊外で,団扇,扇子が前橋で,また後に Tautが特に注目した竹皮による下駄表が,高崎とその近郊で家内生産的に作られてい た。. 器. ・漆. 高崎には日清塗として果肉宋人,洗宋のほか各種あり,主として家具,装飾品,飲食器 に用いられ,渋川産の角盆にもこの種の塗が用いられた。零細なものだが工場数は25程 度あった。 ・そ. の. 他. 高崎にはこのほかにスレートタイル,セロファン,ゴム製品,ガラス製品があり,前橋,. 沼臥富岡には金属製品,小泉町に焼物,前橋,高崎を中心に,挽物玩具などがわずか に生産されていた。 上記に見られるように,家具や小工芸品ば,大組織による生産が定着した製糸,織物に くらペ,零細な組織や家内工業的に生産されていたにすぎず,全国比較の上からも少額で, はなはだ振わない経路をたどっていた。. 4.. Tautと工芸とのかかわり. 井上の進める工芸運動にTautが加わるのは,. 1934年8月以降のことであるが,このド. イツ表現派の代表的建築家が,何故日本の工芸に直接かかわりをもつようになったかは, 従来あまり明確にされて釆なかった。ここではその経緯をさぐってみることにする。 Tautが夫人Ericaとともに来日したのは1933年5月3日であり,ソ連を経由して海路. 敦割こ着くと,後に高崎で共に仕事をすることになる日本インターナショiル建築封3'.

(7) 松. 228. 本. 久. 志. 代表の上野伊三郎(1893-1972)らが出迎えている.そのまま京都に宿をとり,翌日から 桂離宮,西芳寺など多くの古建築と,代表的な工芸の工房などをつぎつぎに訪ね,極めて 精力的に見て歩いている。. Tautは若い噴から,日本の芸術のヨーロッパへの影響につい. て着日し,日本の芸術,文化古と憧れを抱いていたし,また,日本滞在が長期に渡るとは当 初予測していなかったので,このような行動になったと思われる。このような行動を通し て,日本の建築や諸芸術について理解を深め,. 6月29日には,早くも日本における最初の. 著書「ニッポンーヨーロッパ人の限で見た-14)+を脱稿している.来日後わずか2カ 月たらずでの著作である。ここでは,わずかではあるが日本の工芸にふれ,伝統的な工芸 の美を賞讃しながらも,量産工芸が安易にデザインされていることを見,工芸の大衆化が そのまま俗悪低劣化する傾向にあることを既に見抜いて,遺感の意を記している。 その後,葉山の建築家久米権九郎宅に滞在しているとき,鈴木道次からの手紙を受け とった。この間の事情についてはTautは何も記していないので,手紙を送った鈴木の後 DWB. の記述によってみる。当時,鈴木は仙台の国立工芸指導所の嘱託として,. (ドイツ. 工作連盟)について調査を進めていたが,手紙はその連盟の経済的な基礎について,かつ て有力会員であったTautの意見をたずねるものであった。それに対し,後にTautから はていねいな回答と人手し得るだけの参考資料が送られてくるのだが,鈴木は発送した手 紙に,工芸指導所が記念展を東京で開いているので見てほしいとつけ加えた.15)特にTaut の来訪を要請したわけではなかったので,特別期待もしていなかったようだが,. 9月5日. に久米といっしょに三越の会場に現われている。 「さて,質のよいものがあるだろうか。 -りょうりょうたるものだ。せいぜい2つか 3つである。そのほかは,いずれも間に合せのやっつけ仕事だ。ヨーロッパ,アメリカの. スケッチ的模倣で,輸出趣味に終始している。16)+と当日の日記に記している。当日会場 で評価を受けた剣持勇は次のように回想している。 「タウトは徹底的な酷評をした。とにかく近代国家を目指す日本の国立研究機閑のやる ことではないということで,率直な見解を述べた。それに国井さん17)が非常に打たれて, 建策書をひとつということになった。18)+ こうした事情から,工芸指導所への招聴策がねられた。しかし,外人を官庁の顧問に迎 えることは前例のないことであり,商工省の認可を得るまでにはかなり難航したようだ。 そして久米から「仙台の件確定+との電報を受けとったのは10月16日であり,仙台に着 任したのは11月10日であった。それまでTantが工芸の仕事に直接かかわった記録はない ので,これが最初と考えられる。. 工芸指導所に着任すると,すぐに事業計画を提出し,それによって椅子,ドアハンドル, 照功器具などの規範的原型が作られたが,これは旧来の工芸設計に対して,新しいデザイ ンの方法論を提示するものであった。工芸に対する指導の理念ほ,. 「外国雑誌の模倣やそ. の換骨,脱胎ないしは単なる紙上の思いつき,図上の遊びに類したスケッチを排して,技 術面と意匠面との密接な速けいの必要,実物試作のくり返し,材料の知識と構造の正しい 把握,株式化した装飾の排除と簡素明快な美しい形式の創造19)Jにあり,これを所員にく.

(8) 229. 高崎における近代工芸運動の考察(1). り返し観いた。こうした指導理念のもとに行なわれた最初の仕事について,鈴木は「日本. のインダストリアルデザインの夜明けを画するものと言ってさしつかえない出来車だった と思うo20)+と記している。 また,再契約されないまま工芸指導所を去るに際して,翌年3月5日所員に対してなさ れた講演「工芸の質の問題+は,後の日本の工芸デザインを考える上で,重要な示唆を与 えるものになった。. (これに関しては後稿でふれる). 仙台を離れて後は,. 5月16日から大倉陶園の顧問に迎えられ,陶器のデザイン指導を. 行っていた。. 5.. Tautの高崎への招聴. Tautが井上に初めて会ったのは5月24日であり,前記久米の仲介によるものであった。 ここで井上の経歴を知り,地方工芸の近代化運動にかける熱意を知って,招請を快く感じ 「これは有望な仕事だ21)+と考え,顧問になる決意をしているo 陶園の顧問の仕事は,. 当時かかわっていた大倉. 6月中旬までの見通しであり,その後の再契約は困難と思われてい. た。当時軍国化が進む社会情勢の中では,反戦主義者とみられていたTautが,本来の仕 事である建築の依頼を受けることは,ほとんど望み得ない状況だったといえるo Tautに好意をもつ人達は多勢いたが,日本滞在が長びくにつれ,その経済的支援のた めの方策には苦慮していたようだ。久米らは井上の工芸運動が軌道にのってきたのを知り, Tautの世話を懇望したのである。井上も前記したように,工芸運動は事業としては十分 な経済的基盤を生むまでに至っていなかったが,久米らの要請を受けて,自ら招請する形 をとったのである。22) Tautの招蒋が決ると,井上の要請を受けた高崎近郊在住の俳人浦野芳雄の世話で,高 崎の郊外確氷郡八幡村の少林山達磨寺畔の洗心事が宿として用意されることになった.B3) これはかつて,この地方の農業の指導に当った農学者佐藤寛次の茶室として建てられたも のである。. 6.. Tautの工芸指導. Tautが高崎に着任したのは1934年8月1日であるが,彼がここで工芸活動を行うため の基盤は,前記したような形ですでにととのえられていたのである。. Tautは井上の招請. を「有望な仕事だ+と快よく感じていたが,いざ着任してみると,工芸指導所におけると 同様の不安な気持になっている。 「今日は高崎へ着くなり井上の事務所で,エ芸のイロ-を今更のように説明しなければ ならなかった。押しつぶされたレモンのようなみじめな気持になる。要するにこの人達に. 紘,現代的なすぐれた質を創造する途がもうわからなくなっているのだ.24)Jと着任した 日の日記に記している。・.

(9) 230. 松. 本. 久. 志. 井上デザインで,木工製作配分組合を中心に製作される洋家具や,井上工芸研究所で作 られる漆の小工芸品時,前記したようにモダンなデザインであったが,多分にヨーロッパ デザインの焼き直し的なものも多かった。当時日本におけるデザインの考え方は,こうし た方法を特に排することなく,容認されるのが実情であった。 したわけである。. Tautにとって,. でなければならなかったのであり,. ①. 正しい材料の選択. ⑧. 諸材料の正しい配合. Tautはこの点を強く指摘. デザインは伝統に立脚しつつ,常にオリジナルなもの 設計に当っては,. (釘 材料の正しい処理. (彰「用+の充足25) が工芸の質を決める要件だったのである。 Tautの仕事は,達磨寺の講堂をアトリエとして始められた。仕事には工芸学校の学生 3名と,彼等を統括する俵田郁彦,それに前記の水原が助手として加わった。着任早々仕 事はかなり精力的なもので, に渡しているo. 8月12日には電気スタンド,椅子の製作図面を仕上げて工場. これらと並行して,. Taut自身はブローチ,首飾り,ボタンなど工芸品の. デザインにとり組んでいるoそして16日には早くも漆,竹工,木工による腕環,腕飾り, ナプキンリング,婦人用ベルト,皿,ビンの装飾用コルク,電気スタンドにとり組み,20 日には「どんな批判にも堪え得る試作品数点26)+が完成している.これは今日のデザイン 方法論からすれぱ,異常なほどのスピードであり,これらの仕事と作品の質に対する自信 のほどがうかがえる。 一方,最初助手へのデザイン指導にはかなり手をやいたようだ。しかし,これは主に,/ 発想法やデザイン方法論の相違に起因するものと考えられる。 「着想のカンどころをいちいちかんで含めるように話してやり,また,図面の線一本で もまず私が画いてみせねばならない。当分は犬でも仕込むつもりで,根気よく訓練しなけ ればなるまい。なにしろ日本の工芸学校では,生徒達に本格的な実習を全く課していない のだから.27)+と日本の工芸・デザイン教育にも批判の眼を向けている. 8月25日までには椅子10点,卓子数点,電気スタンド10点,それに小エ芸品など合せて 約50点の製図を終えている。これはまさに驚異的な仕事量といえる0 試作品が完成しているが,. Tautはこれに対し,ほとんど満足していない。. 27日には椅子3点の Tautははじめ,. エ芸製作機関を井上個人のものと考えていたようだが,実際は工業試験場の設備利用と, 木工製作配分組合に属している木工エ場であって,図面指示通りに試作が行われない場合 も多かった。. Tautは時々工場へ出向き,指示通りでないものは,細部までも誤りを指摘. し修正させているo特に竹に注目し,盛んに電気スタンドへの応用を試みているが,.竹は ドイツにない素材であり,初めて出合う工芸材料であったために,竹のもつ性質を十分に は理解していなかったと思われる。水原の指摘によれば「たとえば評判のよかった電気ス. タンドでも,東京の竹工にたのんで野をまとめたものであり,タウトのデザインのままで 作られたものではないo. (中略)竹はいくら長くとも同じ太さの鉄パイプであるかのよ,5..

(10) 231. 高崎にお灯る近代工芸運動の考察(1) な錯覚があって,そんな竹は現実にほない。しかし,そう見えるように作ってあるからタ ウトも満足し,見る人も賞讃した.名8)+という一面もあったo 9月に入り学生達は去り,俵田,水原を助手として,. Tautはゆで卵受け,塩・コショ. ウ入れ,灰皿,新聞人れ,くし・ブラシ置皿,手鏡,ハンドバッグ,縫物袋,小容器等を 次々にデザインし,試作図面を工場に渡している。しかし,思うように試作品はでき上ら 「日本の素材で,い. ない。これに対し,いらだつことがしばしばあったようだ。Tautは,. かものでない日本独自の造形+を志したが,羊芸に関しては,十分に日本の生活と造形を 体得していたわけではない。デザインする対象,造形ともその志とは相いれないものもか なりあった。例えば製作提案された腕輪,腕飾りなどは,当時の日本では市場性をもつと は考えられないし,こうした発想自体異国的であり,上記の志とは異るものであったと考 えられる。 また,デザインの重要条件である製作およぴ販売に関しても,十分な配慮がなされたと (前記の工芸設計の4条件の中にも,この条件は入っていない)従って井上. は思えない。 にしても,. Tautデザインのものを全て製作に移すわ桝こはいかなかった。木工製作配分. 組合の製作条件,試作費,単価,市場性等経営条件を考えれば当然のことである。井上自 Tautデザイ. 身も永年ヨーロッパで培った造形的素養と,工芸運動としての理念からも, ンが全てそれにかなうものでもなかったと考えられる。 Tautの生活費は,当初全て井上個人によってまかなわれていた。当時井上の事業は, 十分に経済的基盤が確立していたわけではない。佼りにTautデザインが成功したとして ち,その受益者は井上個人よりはむしろ前記組合の組合員であった。また,井上工芸研究. 所も,未だ十分な利益を生むまでには到っていなかった.それでもTautとの契約を終結 しようとはせず,むしろ長期滞在を望んだのは,井上の工芸運動にかける熱意からであっ たと思われる。 井上はTautを県の嘱託にし,身分の安定をはかることを働きかける。その見通しあり と患われた9月22日,向う1年間の仕事の契約を結んでいるo 呼ばれ,. そしてTautが群馬県庁に. 「地方工芸品製作の顧問を依嘱する丑9)+との辞令を受けとったのは11月20日で. あった。こうして高崎の仕事は続けられることになり,井上も県の嘱託になって,井上に 支払われる嘱託料もTalユtのものとし,仕事の継続条件が確立した。 運動にかける理念,およぴ仕事に一層深い理解を示すようになり,. Tautは井上の工芸 Tautデザインで井上. の掌握する工場での作品には,全て2人の名前を入れることを希望し,この2人の関係を 明確なものにしようとした。そこで2人の名前を刻んだ印がつくられ,上記の作品には全 てこれが押されることになった。 また,. Tatltは井上のもつ工芸の質に対する感覚が,・自身のそれとくい違いがないこと. を確認し,井上の工房でしかできないような仕事,つまり真に日本的といえる作品を作ろ うとする意図に賛意を表し,これがかつて,芸術と工芸との協同作業を主旨としたドイツ 工作連盟の,最盛期のやり方であると評価している.80)そしてまた,. 「高崎の工場では,. 私の仕事の成果は限に見えてはっきりした形を成してきた..今では椅子,-肘掛椅子,電気.

(11) 232. 松. 本. 久. 志. スタンド,玩具のほか木製,竹製,漆鞄などの小工芸品が数多く製作されている。. (中略). とにかくこうしてEI独合同の作品が,今まさにできようとしているのである.これは,日 本の工芸における新しい光点ともいうベきものだ.. (中略)私の仕事は,高崎の工芸に一. 段の飛躍を与えることになろう。81)+と,井上の工芸運動における自己の役割と自信を記 している。. ここで「タウト学校+について触れておきたい。 井上は,. 10月頃から工芸運動推進の一つとして,. Tautの滞在が長期化すると予測した Taut. を指導者とする建築と工芸の「タ. ウト学校+を開設することを画策する。これは「バウハウス+の理念にならったものと考 えられるo. Tautもこれに賛同し,自ら学校案を書きあげている。だがこれは,当時の社. 会情勢,資金などから実現されることなく,構想に終ってしまった。当時東京では,前記 の川音田煉七郎によって「新建築工芸学院+が開設され,小規模ながら「バウ-ウス+涜 の教育が行なわれていた。場合によっては,この学院との連合または提携は,当然考えら れることである。いずれにしても,この構想が実現していたら,工芸運動は一層生気ある ものになっていたであろうし,一地方の工芸運動に終ることなく,以後の日本の工芸・デ ザインの進展と教育に,多大の影響をもたらすものになったであろうと推測される。. 井上・Taut連携による仕事は,順調に推移しているように思われたが,経営上の資金 繰りには井上はかなり背慮していた。この事情は, していたが,. Tautにはつとめてあかさないように. Tautはこれには気づいていた。木工製作配分組合の方も,経営上Tautデ. ザインのものばかりを優先することばできない。すると試作品の製作は次第に後まわしに なる. Tatltはこれにはかなりいらだったようだ. 「そこで木工場の仕事もその日暮しになり,生きるためならどんな注文にも応じようと いうあさましい心根にならぎるを得ないo8雪)+と嘆き,工芸運動の正統な継続に不安を投 げかけている。工芸運動の前進のためには,経済的基盤の確立は不可欠な条件である。. Tautは,このような経営感覚にば欠け考ところがあったようだ.前記したように,井上 の工芸の質に対する感覚には信頼を寄せていながらも,経営上の必要からとられる措置に は,きびしい批判の限を向けている。. Tautにとって工芸運動は,かつてドイツ工作連盟. の芸術と工芸の協同作業の理念が,常にその核心でなければならないものであったと考え られる.ここにもTautの芸術的理想主義者としての一面を感じとることができるoだが, このことば,時には井上の経営上の感覚と対立することばあっても,常に相克する関係に あったのではない。工芸連動という,一つの事業をなすためには,むしろ必要な二面で あったと思われる。こうした事情は,今日の工業デザインの推進上にも現れており,時を 経て新たな課題になっている。 12月に入って,井上がかねてから計画していた東京進出の話が具体化した。店名は既に 「ミラテス+. (Miratiss)&8)に決っていた。. rミラテスJは,井上の工房で作られる工芸の店. として軽井沢花あり,これは夏期だけの開店であったo従ちてこの店名は∴夏期軽井沢-i:.

(12) 233. 高崎における近代工芸運動の考察(1) Tautを迎えることによって,充実してきた工芸品を. 訪れる人々には既に知られていた。. 束京に進出させるべく,井上はかねてから画策していたものである。建物が決ると,井上, Tautはそろって上京して検分し,その足で柳宗悦を訪ね意見を求めているoそして, 「どんなことがあっても,いかものめいた製品を置いてはならない。+との見解に接し, 意見の一致に書こんでいる。34)井上もこれに同意し,ミラテスの工芸品は全てTautの設 計になるものか,あるいは彼の助言によって作られた製品だ桝こ限ることを確約しているo またインテリアなど,この店に係るデザザインはTautが担当することとし,工芸品の陳 列も全て後に一任されることになったノ。 「ミラテス+が銀座の一角に開店したのは,. Ta11tが高崎の工芸運動に加わってから約半. 年後の1935年2月12日になってからである。この店に対するTautの期待は多大であった ようだ。店舗設計は細心の注意をはらって行なわれ,開店までに3固上京し,その度に修 正を命ずるなどして,店内装備や工芸品の陳列に至るまで入念な検討を行っているo開店. には自ら立ち会い, 「私としては,なかなか気の利いた店ができたと思っている。陳列した作品も気持のよ いものばかりだ。. (中略)開店当日は大勢の人達が観に釆た。若い人達のなかには店員や. 学生もいた。竹製の電気スタンドは申し分のない出来だ,木製の電気スタンドの仕上げも なかなかよい。ほかにもすぐれた作品が数点ある.3与)+と当日の日記に満足の意を記して いる。. 「ミラテス+の開店を新聞,雑誌はrタウト氏の工芸品銀座に進出+88)などと多彩に報 道し,大きな反響を呼んだ。中には「ミラテス+がTaut白身の店であるかのような記事 を掲載したものもあったo37)今日では,デザインを主体に集められた工芸品店は数が多い が,当時民芸品とは異る近代デザイノンの生活工芸品の専門店は,極めてめずらしいもので あった。しかも,強烈な個性によって貫かれたデザインポリシーのもとで製作された工芸 品の専売店は,まさに画期的なものであったと考えられるo その後,. 「ミラテス+は取扱い工芸品数をふやしてはいったが,問題がなかったわけで. はない。先ず(1)値段が高すぎること,. (3). (2)試作品そのものに不備な点があること,. 金属使用部分に不完全さがあること,等であり,.Taut自身これを認めているo38)問題は もち静(1)の値段にあった。. 「ミラテス+が工芸運動による作品紹介の場だけでなく,営. 利の目的がある以上,避けられない課題である.. Tautの多様な発想と,細部まで神経を. 行きとどかせる製作ポリシーのもとでは,必然的に起る問題であったといえる。. Tautは. 値段が問題であることを十分認めながらも,自己のポリシーを変えることはしない。. 「(工. 芸品の質が)良いということは,高いという欠点を補うに足るものだ。89)+として,どこ までも質の堅持を主張している。そして,上京の折には「ミラテス+に現れ,陳列工芸品 の中に自己の選定によらない「いかもの+を見出すと,放り出すという徹底ぶりであっ た.40)当時としては奇異な行動であったのであろうが,今日工芸・デザインの世界に,こ. うした行動が容易にとり得ないところに,質の問題の壁があると考えられるo 記述は前後するが,工芸運動に加わっている. Taut. のもとへ,. 1934年の暮に柳宗悦と.

(13) 234. Bernard. 芸運動と,. 松 Leach. (1887-.  ̄本. 久. 志. )41)が訪れ,一夜を工芸の談義で過しているo42)二人は高崎の工. Tautのこれへの挺身を評価しながらも,作品の仕上げについては厳しい批判. も出されているo手工芸と近代工芸という,とり組む対象は異っても,工芸の質について は同じ考え方にあったといえよう。 1934年にTautデザインで製品化され,量産に移されたものは,主なものだけでも家 具数点,電気スタンド数点があり,漆および木工の小工芸品は多数に及んだ。またこの時 期には,書机と玩具が天皇家に献上され,お気に召したとの報が伝えられると,. Tautは. 大いに意を強くしているo48'井上の掌握する工場,研究所の生産体制は,次第にTautデ ザインのもの,または指示によるものが主体をなすに到り,これは「ミラテス+の開設に よって一層強まったとみられる。. Tautの理念である良品質性も,-かなりの程度実現でき. る体制になってきたo家具に関しては,それまで東京からの逆移入の形であったが,東横 百貨店の特注を受けるようになるなどして,東京への進出が可能になった。 井上による工芸運動は,地方の工芸振興の気運と結びついて,地道に始められたものだ が,上記のような経過をたどって展開され,地方の工芸生産に大きな影響を及ぼすととも に,中央への進出を機に,各界から注目されるようになり,工芸運動としての一つの項点 をなす時期を迎えるに至った。. 7,お_わ. り.に. 日本各地には,それぞれ土地の・実情に即した工芸の歴史がある。工芸の関係誌や地方史. 誌などには,時折とりあげられることばあったが,今日的な視点から考察される機会はあ まりなかったo第二次大戦後,華やかに展開された産業デザインに焦点が集まり,このよ うな地方の工芸とは,とかく疎遠になりがちだったが,地方工芸の地道な発展のあとに今 日的な意義が見出される。 本稿では高崎における場合をとりあげたが,これは地方における近代工芸運動の一つの 特異な例と考えられる。この運動は,井上のフランスからの帰国に際しての志ほどには容 易に進展しなかったが,. Tautを迎えることによってなされた新しい展開,即ち,オリジ. ナルデザインであること,良品質のものであること,安易に製作しないことなどは,経営 上新たな問題を生むという一面はあったが,当時の地方工芸にあっては,極めてユニーク. なものであったと考えられる。またこの運動は,山本や柳の場合のような強い社会思想を もつものではなく,規模としても地方工芸の域から出るものではなかったために,彼等の ように記憶されることばなかったが,今日の工芸・デザインに対しては,より多くの意義 をもつものと考えられる。本稿では,高崎における工芸運動の発生と,経過を主とし,そ の運動のもつ意義については十分考察し得なかったが,運動の以後の展開を含め続稿にゆ ずりたい。 なお,本稿にかかわる調査に際しては,井上房一敗(井上工業株式会社),水原徳言 (水原企画設計研究所),栗林弘(群馬県工業試験場),松原栄三郎(群馬異教育委員会).

(14) 235. 高崎における近代工芸運動の考察(1). の諸氏から懇切なご教示やご助言,ならびに資料の提供をいただいた。ここに深く感謝申 しあげたい。 注L 1) 2) 3) 4) 5). 6) 8) 9) 10). 私の仕事とその背景「上州路+第2巻9号(1974). 井上房一郎 井上房一郎. p.52. 仕事への道「建築画報+第23巻6号(1932) 前掲書 私の仕事とその背景 p.53. 井上房一郎. p.6. 地元工芸産業振興のため1921年に設けられた。. この分墳は, 井上房一郎. 仕事への道. 7)井上房一郎 井上房一郎. 前掲書 p.8-9 前掲書 仕事への道 p.8. 私の仕事とその背景. 前掲書. p.53. 水原徳富「群居とブルーノ・タウト+あさを杜(1975) p.35-36 Tautは1921年-1924年マグデブルグ市の建築課長の俄にあり,建築の主管をつとめるかたわ ら,建築誌「Frdhlicht+を創刊する夜ど広く活躍していたo. ll) 12) 13) 14) 15) 16). 17) 18). 川喜田煉七郎「アイ・シー・オール+第2巻10号(1932) 「工芸ニュース+第5巻5号(1936) p.32-33. 第1表以外の記述もこの記事を参考にした。. 1927年に結成された建築家集[乱 Tautは海外会員の一人だった。 この著書は1934年5月平井均の訳で明治書房から出版され,後に森傍郎の訳で同社から再版 された。 鈴木道次 B.Taut. タウトと日本の工芸「工芸ニュース+第16巻7号(1948) p.6-7 「日本一タウトの日記+篠田英雄訳 岩波書店1933年9月5日付. 国井喜太郎(1884-1967)当時国立工芸指導所長の職にあった. 国井喜太郎顕彰会編「デザインの先覚者国井喜太郎+カタログ社(1969) 鈴木造次. 21). B.Taut. 22) 23). この間の事情は,これまでほとんど明確にされてこ夜かったが,今回筆者が井上氏に会い直 接聴取したものである。 浦野芳雄 「ブルーノ・タウトの回想+長崎書店(1940) p.1-2. 24. B. Taut. 前掲書1934年8月1日付. 25. B. Taut. 質の問題「タウト全集+第三巻. 26. B. Taut. 前掲書1934年8月20日付. 27. B. Taut. 前掲書1934年8月16日付. 28. 水原確言. 29). B. Taut. 「群馬とブルーノ・タウト+ 前掲書1934年11月20日付. 30). B. Taut. 31). B. Taut. 前掲書1934年9月16日付 前掲書1934年10月29日付. 32). B. Taut. 前掲書1934年12月5日付. 33). 当時の京橋区銀座西6丁目滝山ビル一階に開店した, 売店.店名はアデ))ア・ハザマ(イタ))-)の命名といわれる.. 34) 35). B.Taut. 前掲書1934年12月21日付. B.Taut. 前掲書1935年2月12日付. 36). 1935年2月18日付読売新聞. 37). 1935年3月5日付朝日新聞には「銀座に新彩,商人にをった独の建築家+. 鈴木道次. 前掲書. p.86. 19) 20). p.8. 国井喜太郎顕彰会編. 前掲書. p.144. 前掲書1934年5月24日付. 篠田英雄訳. 育成杜弘道閣(1943). p.320. (1975) p.15-16. 高崎の工芸運動による工芸品の直接版. テスJがTautの店であるかのように報道されている。これにはTautも困惑し,新聞社に 訂正を申し入れたことを当日の日記に記している。. と掲載され,. 「ミラ.

(15) 236. 校. 38). B.Taut. 39). 「工芸ニュース+第4巻10号(1935). 40) 41). B.Taut. 本. 久. 志. 前掲書1935年3月16日付 p.19. 前掲書1935年4月5日付. イギリスの代表的陶芸家。青年時代には専ら日本で作陶し,柳宗悦の民芸運動に賛同し,こ れに加わったこともある。. 42). B.Ta11t. 43). 忠.Taut. 前掲書1934年12月27日付 前掲書1934年12月25日付.

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