教育行政政策と道徳教育
-義務教育成立過程に視点を当てて-Educational Administration Policy and Moral Education
Focusing on establishment process of compulsory education in Japan松田 智子
Tomoko Matsuda
要旨(Abstract) 明治以降、国民全体の道徳的価値の育成において、学校教育をコントロールする教育行政は、良い意味や悪い意味 においても、大きな役割を果たしてきた。本稿では教育行政の中で、道徳教育=修身が義務教育成立期に、どのよう な政策のもとに推進されてきたかを歴史的に概観することとする。江戸時代の儒教主義的な道徳政策は、現象面にお いては、明治政府の欧化主義的な意向を受けて変化したが、その後「教育勅語」により、道徳教育=修身の基本的な 中身が、文部行政により大きく方向転換される。明治維新後の教育行政は短期間のうちに、現象面では 180 度「保守」 から「開明」に、またはその反対に揺れ動いていくように見える。しかし本稿では、道徳教育=修身の基盤となる思 想には大きな変化がないことも明らかにする。天皇を中心とした復古主義と儒教倫理は、表面上の教育政策は変われ ども、内包され継続されているのである。 キーワード 学制、開明主義 復古神道と儒教倫理 Ⅰ.「学制」以前の道徳教育 (1)明治維新理念の妥協性 1868(明治元)年、明治天皇が公卿や諸侯をひきつれて、天地神明に誓う祭儀として行った「五箇条の御誓文」の 中に、明治政府の道徳教育=徳育の理念が明らかにされている。そこには「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決ス」「上下心 ヲ一ニシテ盛ニ経論ヲ行フ」「旧来ノ陋習ヲ破リ天地ノ公道ニ基ク」「知識ヲ世界ニ求メ」と言うように封建主義時代 から近代国家への変換が道徳律として述べられている。特に「皇基ヲ振起ス」の文言が、国の統治は天皇が行うこと を明示している。またこれは、「諸事神武創業の始に基づき…」という王政復古の基本方針に基づく古代王政の祭政一 致の儀式でもあった。御誓文には勅語がついており、これには国民だけでなく天皇自らが天や神を率先して敬うとい う神道的な思想が見られる。道徳教育の視点からは、神道が国家の政治と一体化することになり、精神的支柱が明確 にされたと言える。 その翌日には、太政官名をもって、「人たるもの五輪之道を正しくすべき事…」「ととうしてしいてねがい事くわだ つるをごうそといひ、あるひは申し合せ居町居村をたちのき候を、てうさんと申す。堅く御法度たり…」「きりしたん 邪宗門之儀は堅く御禁制たり…」という永年掲示の「定三札」を含む 5 枚の立札が建てられた(1)。この立札の内容は、今日明治維新に対して教科書等で教えられる、一般的なプラス印象からすると意外ではないだろうか。筆者は、明治 維新以後は四民平等になり、様々な面で欧米化が進み、福沢諭吉の「天は人の上に人をつくらず」等の言葉通り、人 間が個人として見られるようになったと小・中学校の社会科で学んだことを記憶している。しかし、この立札を見る 限り、日本の近代化は簡単には実現せず、儒教的倫理の要求、徒党、強訴、逃村の禁止、キリスト教の禁止という封 建社会の支配の基本をひきついでいたといえる。さらに同時に復古神道の古代的・宗教的権威をもった天皇制を前に 押し出しながら、出発していたと判断される。文明開化による近代化政策と天皇親政の神話を基本にした復古主義で あり、これらの相反する思想を共存させることにより、明治維新の不徹底性と妥協性は継続された。このあいまいさ が、この後の日本の近代社会の道徳と道徳教育に大きな影響を当たえることになる。 (2)神道の国教化 明治政府は、封建諸勢力や列強諸国との関係では、政体書に基づく三権分立主義などの開明的な広義与論政治の様 相をとりながら、自国の国民に対しては封建主義時代思想を受け継ぐ禁令を出していた。しかし明治維新後の国民の 精神的な落ち着きと国家政策への協力を得るため、1969(明治 2)年に「京都府下人民告諭大意」を出し、さらにま だ戦火がくすぶる東北地方に「人民告諭」を出すことになった。前者は日本が世界中で最も優れた「神州」であるこ とを主張するもので、後者では「天子様ハ天照皇大神宮様ノ御子孫様ニテ此世ノ始ヨリ日本ノ主ニマシマシ…誠に神 サマヨリ尊ク1尺ノ地 1 人ノ人民モミナ天子様ノモノニテ日本国ノ父母ニマシマ(2)」すと断言するものであった。つ まり、両者とも日本の土地も国民もすべて天皇のものであるという王土王民思想を唱えたていたのである。統一国家 の象徴としての天皇に、新たな宗教的な権威をまとわせ、その神格化されたイメージに国民の不安をあいまいに解消 させていく政策を強硬に打ち出したのである。 このようにして復古神道と儒教倫理に基づく国民教化運動は進められていった。しかし一方で富国強兵のための開 明的な装いを持った強制的義務教育である「学制」の準備が並行して進められていた。表面上は相反するように見え る政策が、同時に進行していたのである。 つまり、専制的に国民を愛国や遵法に従わせようとしていた無理を、それなりに自覚していた明治政府は、「文明開 化」「富国強兵」とともに、たえず「復古神道」「皇道主義」を必要としていた。 Ⅱ.「学制」の公布と道徳教育 (1)学制おける道徳教育=修身 1872(明治 5)年には、学校教育を担う人材養成のための師範学校が、初の官立学校として設立され、さらに「学 制」が発布され、日本の近代的な学校教育制度が法的に整備された。「学制」には教育理念は全く示されておらず、そ の後の「学事奨励に関する被仰出書」(太政官布告 214 号)に、その教育理念が述べられている。この中では、封建時 代の道徳的中心思想である儒教的・神道的な考えは、むしろ批判的に捉えられていた。被仰出書における学問の目的 は、「身ヲ立ルノ財本」「身ヲ立ルノ基」とされ、「身ヲ修メ」という徳育の課題も「人々自ラ其身ヲ立テ其の産ヲ治メ 其業ヲ昌ニ」するという立身治産昌業の実生活に役立つこととして、関連付けられて取り上げられていた。したがっ て、「身ヲ修メ智ヲ開キ才芸ヲ長スル」教育は、個人主義・功利主義・実学主義に集約されたといえる。つまり「日用 常行言語筆算を初め士官農商百工技芸及び法律政治天文医療等に至る迄凡人の営むところの事」を学ぶことが第一で あるという教育観であった。この学力観は、岩倉具視が自己の封建的学力観を突然変更し、教育を「人智ノ開進」「人 ノ智能ト芸術トヲ講明了得サスヘキノ具」と捉え、教育力を向上ずることにより「国家ヲシテ文明ニ導キ富強ニ赴カ
シムコト」を狙いとしていたと言える。道徳の扱いについては「学制」の翌年に出された、その実施要項というべき 下記の「小学教則」における修身科の配当時間と教授方法を見るとより明らかになる。「学制」や「被仰出書」では教 育の目的が個人的な立身出世であって、国家のための教育でないと強調していた。しかし一方では、小学校について は近代国家が「必ス学ハスンハアルヘカラサルモノ」(学制第 21 条)「必ス邑ニ不学ノ戸ナク家ニ不学ノ人ナカラシメ ン」(被仰出書)と述べて、全国民に半強制的に就学を奨励したのは、本質的な意味で、教育を個人的なものと捉えて いたとは言い難い。 では、「学制」期の道徳教育は、どのようになっていたのだろうか。「学制」の翌年に公布された「小学教則」によ って、修身の配当時間と指導方法を見ることとする。 第8級 修身口授 1週2字即チ2日置キテ1字 民家童蒙解童蒙教草等ヲ以テ教師口ツカラ縷々之ヲ説諭ス 第 7 級 修身口授 1 週 2 字 前級の如シ 第 6 級 修身口授 1 週 2 字 勧善訓蒙修身論等ヲ用ヒ教師之ヲ講述 スルコト前級ノ如シ 第5 級 修身口授 1 週 1 字 性法略等ノ大意ヲ講授ス(3) この翌年には、教科に国体学が追加されることにより、8 級と 7 級は各 1 時間、さらに修身の授業が減らされるこ とになる。また「学制」の準備段階では、並行して復古神道と儒教倫理に基づく国民教化運動は進められていたが、 現実には圧倒的な文明開化の潮流のなかで、復古神道や儒教の考えが表面的には、背後に追いやられていたように見 えていた。 この当時、神道は明治政府に政治的に利用されて、天皇制中心の国民教化の道具として利用されていたが、本来の 古新道の考えはそれとは異なっているはずである。古神道は、大自然と融合・調和した「惟神(随神)の道」、つまり 対自的・排他的でない生活の「道」である、包容力や寛容力や順応性が強調される思想である。さらに、私心を去っ て全体に帰するという道徳的心境としての「キヨキ心」や「アカキ心」は、きわめてすぐれた個々人の美的・道徳的 規範を示していた思想である。しかし、今日では明治維新の神道国家政策=戦争推進政策の軍国主義イメージがあり、 本来の古神道までを否定的に捉える人が少なくないのは残念である。 (2)学制と小学教則における道徳の特徴 道徳教育について「学制」と「小学教則」について述べられていることには、次の 4 つの特徴的なことが見られる。 第1は、江戸時代では、教育=徳育といえるほど徳育が教育全体を通して総合的にあつかわれ、未分化な教育課程 であったが、明治時代の「学制」と「小学教則」においては、道徳教育が修身科として独自の教科になってきたこと である。しかし、各都道府県の実態を当時の資料から見ると、内容も形態も一般的に完全に分化は出来ていなかった ようである。しかし実態はどうであれ、文部省の教育課程としては、欧米を模倣して教育課程を編成していたため、 修身科は完全に他の教科から分かれることになった。封建社会においては、教育自体がそのまま道徳教育になってい たが、江戸時代末期では「寺子屋」において、「御談義」「心学講釈」という形で道徳のための特別な領域が成立する 状況が見られ、その延長上に修身科が出来たとするならば、教育歴史上の当然の流れとして受け止めることもできる。 第2は、修身科の時間が、明治のこれ以降の時代と比較すると、文明開化運動の影響により、学校教育全体の中で 占める比重がとても少なくなっていることである。修身科は 8 年生の小学校の 1・2年だけに「修身口授」として週 2 時間(2 年後半は 1 時間)だけ設けられていた。1872(明治 5)年の「小学教則」では、下等小学、上等小学の全教科 の授業時数に占める道徳の時間の割合は、全 481 時間中において修身口授 7 時間だけで、その比率はわずか 1.5%に
すぎなかった。下等中学(現在の中学校)でも修身科が設けられていたが、16 教科の中で 14 番目という下位に置か れていた。この後は、自由民権運動等に対する明治政府の危機意識が契機となり、修身が筆頭科目に置かれ、さらに 全学年が修身を履修することになり、その授業割合は 10%にまで増加する。このことから、今日我々が考えるような 道徳教育は、学制期の学校教育においては、とても軽く扱われていたといえる。そして、一般社会では当時は国民皆 学を基礎にした富国強兵を最優先するために、知識や技術の教育が第一となっていたのである。つまり「学制」と「学 事奨励に関する被仰出書」は、日本の緊急課題である近代的資本主義志向を背景とした、個人的な立身出世主義を、 道徳教育の支柱にすり替えて、天皇中心の強固な国家体制の基盤を築こうとしていたといえる。 第 3 の特徴は、修身科の授業形態は、「修身口授」であり、これは基本的には教師の一方的な説話であった。現在の ように子どもに考えさせる学習とはなっていなかった。そして説話の材料となる教材というと、他教科と同様に翻訳 本が修身の教科書として大幅に活用されていた。そのため、当時の日本の復古神道や儒教倫理とは異なる、欧米市民 社会の道徳論が修身の内容に導入されたのである。例えば翻訳本「修身論」の道徳論はアメリカ市民社会の道徳であ るから、当時の日本社会とは異なる個人の自由や平等や私的財産権などについても述べている。学校では、イギリス の教材を翻訳した「童蒙教草」(福沢諭吉訳)や先述した「修身論」(阿部泰藤訳)等が多く使用されており、日本独 自のものはあまり使われていなかった。 一方では、伝統的な和漢の道徳価値で編集された修身教材も、多く発刊されていた。和漢の修身書には女子を対象 とした西沢成一の「教女軌範」や、伝記ものを集めた城井成章の「近世孝子伝」などがあり、封建社会の儒教的思想 を色濃く反映しているものが目立った。当時は、文明開化と啓蒙思想という時代思潮ゆえに、一般的には欧米の翻訳 本か翻訳の修身教科書が多く使用されていた。しかし、文科省の伝統的儒教倫理を反映する修身を推進する教育政策 とあいまって、意図的に和漢の教科書の発行数の方が多くなっていた。例えば、修身の教科書が多く発行された学制 直後の 1873(明治 6)年とその翌年の 2 年間で発刊された修身教科書の内、欧米の翻訳書は 16 冊であるが、和漢書は 22 冊に及んでいる。和漢の教科書の基本には、東洋あるいは日本の復古主義道徳がふさわしいという考えであり、現 実社会の表面上は文明開化で欧米化が進んでいても、思想的な根底には儒教的な精神を求める教育政策が根強く残っ ていたのである。文部省の開花と並行する教部省=教導職による国民教化路線が社会的な背景として存在しており、 さらに和漢の道徳教育の発刊数の多さという事実から考えると、明治初期の道徳教育を欧米模倣の個人主義と自由主 義と一面的に捉えるのは問題である。道徳教育の方向性は、この後の自由民権運動への反動として、日本の教育行政 政策が文明開化路線から突然に儒教主義復興路線に逆戻りしたと言われているが、これは疑わしい。従来まで一般的 に広く理解されてきたこの道徳的価値の 180 度急展開論については、再度考える必要がある。 第 4 の特徴は、学制期の道徳教育に欧米市民社会の道徳論が取り入れられたために、道徳教育の方向性に若干の混 乱が起きていたことである。これは、学制期の小学教則の修身教科書として文部省の示した 5 種のうち、その 1 種は 法律書であったことで明らかになった。これは当時の文部省が公民教育に関わる法律書と道徳書の区別が明確にでき なかったということである。現在の「特別の教科道徳」においては、公民教育も道徳の項目に含まれるので、欧米を 模倣することに躍起になって、内容を十分理解していなかった文部省としては、あり得ることである。江木千之の談 話から、そのために起きた混乱の様子を垣間見る。 性法略は法律論であったが、学制に於て既に之を修身の教科書として用ふる事になって居たものだから、法律書 ならば他の書物を代用して差支なからうといふので、文部省に伺ひを立てて、其の許可を得た上で、其作麟祥の
仏欄西民法を採用した県もあった。而かもそれが 10 県以上もあった。然るに実際教場でやってみると、児童に 仏欄西民法の呑みこめる筈がないので、又文部省に向って、下級生に限り仏欄西民法の代りに違警罪罰則を用ゐ てよいかといふ伺ひを立てて来た。其の理由は其の方が児童に分かり易い、例えば往来に牛を放してはいけない とか、便所でない所で小便をしてはいけないとか、或は之を犯すと 1 朱の罰金を課せられるとかいふ方が反って 分り易くて、修身教科書として都合がよいといふのであった。当初私達も、既に文科省に這入って居って、之を 見ながら、初めはそれを不審とは思わなかった。佮度オースチンのジェリスブルーデンスが盛んに読まれたので、 私たちも之を読むと、法律と道徳には区別があることが分かってきた。今までの巡査が怖い、罰金が嫌だからと 言うのででは、道徳ではない。道徳といふ者は、そんなことに関係なく良心から悪事を働かぬといふ処に行かな ければならぬ事がだんだん分かってきた。其処で多分明治 11 年から追々法律書で修身を教ふる事は廃止になっ たと記憶する(4) 江木千之の談話では、当時の法律と道徳が混乱しながら分離していく様子が分かる。しかし、近代日本は、この分 離の道をそのまま問題なく進んでいったわけではない。 (3)学制期の道徳教育の実際 当時の日本の国家財政状況を勘案すると、学制に基づく、発足したばかりの小学校教育では「小学教則」を具体的 に実施実現するだけの、諸条件を整えることは困難であった。第1は、文部省がはじめに意図した欧米流の修身の教 科書が、印刷技術の制約により、終身教材が十分に普及できなかった。第 2 に、もしその欧米市民の翻訳道徳書を入 手できても、その内容を正しく理解し、それを指導できる力を備えた教員養成が、間に合っていなかった。当時は師 範学校が出来たばかりであったので、圧倒的な教員不足だった。第 3 に、日本が文明開化の時代ゆえに、授業時数の 上では徳育が大幅に軽視されていた。これらの理由で、実際の道徳教育は、十分に成果を上げることはできなかった ようである。実態を正確に伝える資料はないが、個人の自伝の中にその様子を垣間見ることができる。 其頃はマダ教育勅語といふものが無かった。・・・拠るべき道徳の規範が無かったので、有触れた修身道話が繰り 返された。が、24 孝式の親孝行咄では咄すものも張合いが無く聴く方は本より退屈して初めからヒソヒソ咄をし たり欠伸をしたり中には大ッペラにグウグウイビキを掻くものがあっても余り叱られなかった。当時の私達の先 生は講釈が好きで・・・修身の時間に太閤記や義士伝の講釈を聴かした。南龍張のノンノンズイズイの修羅場読 が面白いので生徒は机に頬杖突いて口を開いて聴惚れてゐた。が、賤ケ岳の 7 本槍や赤垣源蔵の徳利の由来のや うなものなら今の文部省でも文句は無かろうが、終には鼠小僧や国定忠治の咄を修身の時間にするようになった。 (5)。 実際の道徳の時間は江戸時代と大きく変わらない儒教道徳だったり、市民道徳の場合も教師自身が十分理解できてい なくて、一方的な口授であったりして、子どもにとり退屈な時間であったようだ。修身の時間が文部省「小学生徒心 得」等の単なる行儀見習いやしつけの時間だったリ、その内容は各学校によりばらばらな状態であった。 (4)改正教育令に示される徳育 1877(明治 10)年の西南戦争後、政治情勢は比較的安定するが、大衆の自由民権運動はさらに活発になっていく。 政府内部において、自由主義的な欧化思想の立場(開明派)と、孔子の思想を基にした儒教主義的な国粋思想の立場
(復古派)とが、道徳教育の方向性を巡って対立が表面化し「開明」と「保守」に分かれて混迷を深めていた時代で ある。これは明治政府が、成立当初から内部に抱えた矛盾が表面化しただけの事である。 復古派の代表としては、天皇の侍講元田永孚があげられる。彼は天皇の地方巡幸の後、2つの「聖旨」を示した。 一つは、国民が奢多贅沢に流れ、勤倹力行の風が衰えたという勤倹の詔勅であり、もう一つは、「風俗ノ弊」を引き起 こしている、学制以来の教育における「文明開花」路線の政策を見直す「教学聖旨」の伝達であった。 この「教学聖旨」に対して反対したのは、「開明派」の伊藤博文である。彼は「仰弊端ノ原因ハ、既ニ専ラ教育ノ失 ニ非ス」として、「風俗ノ弊」は「維新ノ際、古今非常ノ変革ヲ行」った結果として起こったものだと主張した。そし て「末端ヲ救フニ急ニシテ、従テ大政ノ前轍ヲ変更シ、更ニ旧時ノ陋習ヲ回護スルガ如キコト」があってはならない として、特に道徳は教育行政の管理するべきものでないことを論じた。伊藤は自由民権運動に対しては、元田と共通 の抑圧する立場に立ち、強い危機意識を持つていた。伊藤の提案した具体的教育上の政策は、「其足ヲサル所ヲ修補セ ハ、文明ノ化猶之ヲ数年ノ後ニ望ムベシ、其教則ハ略ホ現行ノ法ニ依リ」といって、「富国強兵」につながる学制の「智 識才芸」を重視した実学教育を継承することであった。 上記のような様々な議論を経たが、基本的には皇道主義の国民教化策が継続されており、維新政府の教育政策は、 啓蒙と強化、維新と復古、学問技術と彝倫の道、西洋の芸術と東洋の道徳などと、お互いに相反する理念を内包した まま実施されていった。さらに自由民権運動等の動きを抑制するためにも、1879(明治 12)年、天皇の侍講元田永孚 によって起草された「教学聖旨」により保守的道徳教育を重視する方向性は決定された。これには、国民道徳の不十 分さの原因は「知識才芸」のみを重視する開明教育にあると論じられ、その解決のために「祖宗ノ訓典ニ基ツキ専ラ 仁義忠孝ヲ明カニシ道徳ノ学ハ孔子ヲ主トシテ人々誠実品行ヲ尚トル然ル上各科ノ学ハ其才器ニ隋テ益々長進シ道徳 才芸本末全備シテ」という方針が示されていた。天皇の名による「教学聖旨」の発行を契機に、表面上は、文明開化 に合わせた欧米からの知識・技能流入重視の教育改革は、一気に保守的な方向へ転換をする。 1880(明治 13)年、上記の趣旨を生かした「改正教育令」が出され、その 3 条では「小学校ハ普通ノ教育ヲ児童ニ 授クル所ニシテ其学科ヲ修身読書習字算術地理歴史等ノ初歩トス」と規定され、修身が学習の最も上に位置付けられ て重視された。さらに同年の 8 月には、文部省は「教科書採択ニ関スル注意」を各学校に通達し、修身等の教科書と して「教育上弊害ノアル書籍」は採用しないように促し、翻訳本の修身教科書は使用しないように全国に指導を行っ た。1881(明治 14)年には「改正教育令」の実施要領である「小学校教則綱領」が公布され、修身の時間数は初等科 と中等科とも毎週 6 時間、高等科では毎週 3 時間と一気に増加されることとなった。その目標は「徳性ヲ涵養シ」や 「作法ヲ授ク」とされた。これらは、文部省が修身=道徳重視の施策を、強硬に教育課程に反映した結果と言える。 Ⅲ.明治時代後期の道徳政策 (1)民権運動と教育 明治の自由民権運動は 1980(明治 13)年ころから始まり、これには多くの富農層が参加することとなり、全国的な 国会開設運動として展開することになる。この運動の中心の担い手が富農層であることにより、運動は一定の限界性 を備えていたが、教育における自主と自由を要求したという点では大きな意義があった。彼らは、主に商業的農業の 成果により財政的にも豊かで、学制の熱心な担い手ともなって、その学習意欲はとても旺盛で向上心あふれる階層で あった。農業で得た経済的な余裕を支えとして、福沢諭吉の思想を積極的に受け止め、その諭吉の路線に基づき実践 することにより、自らの未来をも切り開こうとしていた。さらにこの運動を通して自己解放の道を模索するためにも、
彼らは学習意欲をますます高めていったのである。彼らが全国で結成した農民的結社は当時の記録では、全国で 1000 を越すと言われ、熱心に経済の学習会や政談演説会や農事改良などの多彩な学習会を開催していた。運動の中心が富 農層という限界はあるが、明治政府の下請け活動ではなく下から国民が自ら、政治や教育の主体として動き始めたこ とは当時としては画期的な出来事であった。 このように、自由民権運動が単なる政治運動でなく、啓蒙・学習=教育運動として展開していったため、多くの師 範学校の学生や小学校教師が、この運動に参加することになる。しかしこの当時、師範学校を卒業した教師はその地 域では社会的な地位が高い存在であり、農村地域における唯一の知識層であったため、その意識は一般の農民のそれ とは離れたものであった。彼らが自由民権運動に参加した契機は、教師としての自己の教育実践や自己の待遇の改善 といった、自らの教育的に内包された課題には存在しなかった。そのため、運動の中では学校教育における修身=道 徳教育の在り方や内容に対しては、まったく批判的意見等は出てこなかった。教育一般に対しては、中央集権で画一 的になる指導方法を批判し、地域の実態に応じた自由裁量を求めるという論議を繰り返す程度であった。 この当時は、国民皆学といっても実質の就学率は 30%前後という数字であり、義務教育はまだ国民的な課題となっ ていない時代だった。自由民権運動側も教育に対する自由の主張が「学齢児童ガ悉ク就学スルト云ウコトハ後世ニ至 ルモ万アルマジキコト」という有産者的認識の傾向が強かった。そのため自由民権運動内部には義務教育の有償制に 反対するという発想もなく、教育を受けることは国民全体の権利であると意識する文化も育っていなかったといえる。 (2)勅語と徳育論争 明治 10 年代の後半、国際的には日本は条約改正を控え、自由民権運動も散発的に衰退していくにつれ、明治 14 年 頃の「小学校教則綱領」に示された儒教的文教政策から、再び欧化主義、開明主義的な立場が強調されることになる。 維新以後の太政官制を廃止して新たな内閣制度が設けられ、1885(明治 18)年に第一次伊藤内閣が成立し、森有礼が 文部大臣に就任した。森は国家主義精神の持ち主であり、欧米市民社会を模範として、教育を国家富強の柱とする考 えの持ち主であった。そのため近代的、開明的立場から、近代国家を担う人材を養成することが、国家的な教育充実 を急務と認識していた。彼は道徳面においては「今の世に孔孟の教を唱ふるは迂闊なり」と断じて「教学聖旨」の方 針を大きく変更させた。つまり。諸学校の制度改革を行った時に、小学校の教育課程の基準を示し、修身科は「内外 古今人士ノ善良ノ言行ニ就キ」教員が「口授」することにとどめたのである。文部省では民間で刊行されていた修身 の教科書の使用を差し止めることとして、修身の時間も削減した 森は伊藤と同様、政教分離の立場から近代日本の倫理を基礎として、道徳の根本を立て直そうとしたのである。森 は「宗教にも頼らず。哲学にも頼らず。広く人間社会を通観し、此の世の中は自己と他人との相ひ持ちにて、自他相 共にすれば世の中は太平無事」という「自他併立」の市民社会における道徳的常識による論理感を志向していた。 さらに森は、忠君愛国の教育は単なる言語で表現するのでなく、教育上の実践として示すことが重要と考えていた。 そのため、教育内容では兵式体操を学校教育に導入して、教育課程では体育重視政策となって表れた。森の道徳観は、 元田永孚のように天皇にカリスマ的な権威を求めてはいなかったが、天皇制国家を形成にふさわしい屈強な兵士とし ての能力を持つ臣民の育成という最終の目的では同じ立場であった。しかし、森の教育観は従来の修身の形を大きく 変化させることとなり、地方では学校現場における修身科の不徹底や混乱が生じた。この混乱が、教育行政において 再び道徳論争を引き起こした。 (3)教育勅語における徳育 1889(明治 22)年、日本国憲法が発布され、翌年には議会が開催され、日本は確実に近代国家としての体制を整え
ていった。教育面では、1890(明治 23)年、天皇陛下の言葉として、「教育勅語」(「教育に関する勅語」)が発布され る。「教育勅語」は、わずか本文 315 字の、短い簡潔な文章で、この時代の最大公約数的意見と考えられるものであっ た。これの内容は、一般的には大きく 3 つに分かれている。まず、日本の「国体」と臣民の忠孝が示され、教育の源 はそこにあるとされていた。次に、道徳教育には儒教的な徳目(孝・友・和・信等)と近代市民社会的な徳目(博愛・ 公益・憲法尊重・国法遵法等)が両方とも必要として示され、その最後のまとめとして天皇への「義勇奉公」が至高 の徳目と位置付けていた。教育勅語の最後には、ここに示された内容は皇室祖先の遺訓であり、臣民はその正しい道 を守るべきであると記載されていた。 文部省は、この「教育勅語」の謄本を、早速全国の各学校に下付しはじめ、ほぼ 1 年という短期間のうちに全国に くまなく下付された。そして祝祭日の式典における勅語の奉読を義務付けた。それと同時に、天皇・皇后の御真影へ の最敬礼や万歳奉祝が実施された。国や地方の教育行政が学校儀式の形式を細かく定めて、重々しい雰囲気の下に威 厳をもって学校行事は行われた。これらの繰り返しを徹底することで、全学校の児童生徒の頭に「教育勅語」は浸透 していき、神格化されたのである。その後は、国民教育の精神的支柱となり、教育全般に渡り絶対的な影響を与える ことになる。こうして「教育勅語」に基づいた道徳教育の制度が整うにつれて、次は教育内容への統制へと続いてい った。 1902(明治 35)年、教科書疑獄事件(教科書採択を巡る収賄事件)が起き、それを政府が政治的にうまく利用する 形で、翌年に政府の念願であった教科書の国定化が実現した。修身の教科書の編集趣意書から見ると、第 1 期国定教 科書は、全体として資本主義興隆期の近代社会の論理を強調していたのに対し、第 2 期の修身書はきわめて国家主義 的で儒教主義に裏付けられた、家族的国家観が強調されていた。近代国家を目指していた日本なのに、相反する家族 的国家観という前近代的な道徳教育を強化しようとした要因はなにかについて下記に論じる。 (4)自然主義と道徳教育 それは、当時の社会的な背景に起因するものである。自然主義的文学が隆盛をきわめ、社会主義運動が大逆事件に まで発展し、日露戦争後の不安定な社会情勢を引き起こしていたからである。これは、明治初期以来の上からの性急 な近代化政策の締め付けのために、欧米の新風に触れたものの、文化的に芽を出す機会を失っていた日本人の内面の 近代化といえる自我解放の動きと言える。 自然主義とは元来、誇張・虚飾・虚偽を排して事物の実態をありのままに描くという芸術上の思考であり、日露戦 争以後の日本文壇の中心はこの潮流になっていった。自然主義文学は包み隠さず真実を語り、現実を暴露することに なる。代表的な文学作品としては、島崎藤村の「破戒」が挙げられる。この小説には、上からの国家主義道徳をはね のけて、我とは何か、人間とは何かを根本的に考え直そうとしている主人公の丑松が登場する。 日本で社会主義運動が本格化するのは、日清戦争以後である。日清戦争の勝利は、資本主義を大いに発展させ大工 場を出現や軍備の拡張は進んだが、一方では賃金労働者の増加や租税の増徴や物資の高騰を生み出し、労働者の生活 は厳しくなり、労使の対立も顕著になりストライキが日露戦争前後に頻発するようになる。 国家が教育する道徳は偽善であると唱える自然主義思想や、国家体制と私有財産を否定する社会主義思想が出現し、 政府としてはこのような国家主義に反対する思想に若者が惑わされないような教育方策を、修身において積極的に講 じなければならなかったのである。 Ⅲ.大正時代への継続
1912(明治 45)年、明治天皇が崩御し、年号は大正とされた。明治天皇の葬儀の日、陸軍大将の乃木は夫人ととも に自殺をした。新聞では乃木夫妻の自殺を「殉死」美談として大きく取り上げた。日本が近代国家として出発してす でに半世紀も経過している時に、封建的な主従道徳・君臣関係が、乃木の自殺により脚光をあびることとなったので ある。文部省は「殉死」という前近代的な乃木の行為そのものを公式に認めることはできなかったが、個人の責任に おいて自らの死を自由に選択し、それにより天皇への忠誠を示した「乃木精神」については肯定的にとらえ、学校の 道徳教育に生かそうと画策した。そのため、教育界を通してヒステリー的な「乃木神話」が国民に普及していくこと となる。明治政府の支配基盤が思想的に経済的に揺らぎつつある危機の中では、天皇制教育の復興にとって乃木殉死 事件は大いに幸いな事柄となったのである。この「乃木神話」の成立は、教育行政が国民の道徳意識の形成を、積極 的にコントロールする契機となったといえる。 Ⅳ.まとめ 道徳教育=修身は、封建時代では教育全体のなかで総合的に行われてきた。明治において教科として分化された道 徳教育は、江戸時代の後期の寺小屋において、その萌芽が見られていた、発展でもある。明治維新から「富国強兵」 の掛け声の下、文明開花の潮流の中でも、道徳教育は=修身は隠れたカリキュラムとして実施されてきた。明治時代 に、義務教育の就学率は格段に上がり、それに伴って道徳教育=修身も徹底されていくのである。 道徳教育は、明治維新により権力構造が変化し教育の制度や内容が変化する際に、支配の側のイデオロギーを補完 するために、教育行政を通して最大限利用されてきた。この道徳教育と国家権力と教育行政のからくりは、日本の歴 史上に繰り返し登場する構造である。今後も、国民の視点から道徳教育の歴史を追いながら、道徳教育と教育行政政 策との関係性をさらに明らかにする。 【引用文献】 (1)「日本近代教育百年史 第 7 巻」1974 年 国立教育研究所編 pp133-134 (2)同上 pp137 (3)「明治以降教育制度発達史」第 1 巻 教育史編纂会 1937 年 p398-402 (4)「教育 50 年史」国民教育奨励会 民友社 1922 年 pp153-154 (5)「教科書の歴史」唐沢富太郎 創文社 1956 年 pp56 【参考文献】 1)「世界教育史体系2 日本教育」世界教育史研究会 梅根悟監修 1975 年 2)「世界教育史体系3 日本教育」世界教育史研究会 梅根悟監修 1975 年 3)「世界教育史体系 38 道徳教育」世界教育史研究会 梅根悟監修 1975 年 4)「世界教育史体系 39 道徳教育」世界教育史研究会 梅根悟監修 1975 年 5)「心の教育からの脱却と道徳教育」 吉田武男編 2013 年 学文社 6)「教育政策・行政」 安藤忠 壽福隆人 2013 年 弘文堂