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東北大学の理念としての実学尊重

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東北大学の理念としての実学尊重

著者

初山 高仁

雑誌名

国際文化研究

18

ページ

125-139

発行年

2012-03-31

URL

http://hdl.handle.net/10097/00127164

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東北大学の理念としての実学尊重

初山

要 旨 本論文では東北大学の理念とされる「実学尊重」について歴史学研究の成果を踏まえたうえ での検討を行った。この結果として、現在では「実学尊重」が「産学連携」という意味で捉え られがちな傾向があるが「実学」という用語が用いられてきた経緯や東北大学での実学史研究 の成果を踏まえると「実学」を「直接社会生活に役立つ学」との狭い意味のみに捉えることに は問題があること明らかにした。そして、東北大学の理念としての「実学尊重」という用語を、 四書五経のような古典や明治期の教育学で用いられている「実学」の意味を考慮した上で、従 来にはない研究教育での実績を得ようとする学問的姿勢を示す用語であるべきであると結論し た。 キーワード:大学史/澤柳政太郎/建学の理念/研究第一/門戸開放 1 . はじめに 東北大学においては「研究第一主義」、 「門戸開放主義」、 「実学尊重」といったことが大学の理念 として検討された経緯がある』。このうちで「門戸開放主義」は初代総長の澤柳政太郎が(旧制) 高等学校卒業者以外の入学を認める用語として用い2,後にいわゆる傍系入学や女子学生の入学が 実現したため用語の解釈に大きな1幅はないだろう3。だが、 「研究第一主義」には研究のみを重視 し教育を軽視する立場という見解がある4.筆者らは先の論文5において東北大学の理念としての 「研究第一主義」といわれるところの「研究」の概念を今日的意味から解釈すべきではなく、 この 言葉が教育軽視を意味する用語ではないと指摘した。 ところで、問題なのは「実学尊重」である。現状の東北大学のインターネット上の「使命と目指 す大学の姿・歴史的背景」と題するページでは「『実学尊重』の伝統を踏まえて、産学連携を推進 し、サイエンスパークを整備する」、 「戦前からいち早く大学発のベンチャー企業を設立して地域産 業の育成を図ったり、 日常生活に最も密着した法律である家族法の研究の日本の中心になるなど、 世界最先端の研究成果を社会や人々の日常生活に役立てる」と表現されている6。「家族法の研究」 といったところに少々の譲歩はあるが、 「実学尊重」という用語は産学連携を意味する言葉として 用いられているようである。 東北大学の歴史を見ると 「東北大学五十年史」 (以下、 「五十年史』)には「実用を忘れざるの主 義」という現在ではあまり使われない表現が見られる7.だがここではよく聞かれる標語である 「実学尊重」と「実用を忘れざるの主義」との関係性は示されてない。このほかにも 『東北大学百 年史』 (以下、 『百年史』)には2001年から東北大学の理念が検討された経緯が収載されているが8、 これを取りまとめた当時の副総長であった馬渡尚憲による「東北大学の理念について」9でも「実

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学尊重」ではなく 「実用忘れざるの主義」という表現が用いられている。また、 『百年史』では東 北大学で「実学尊重」なるものが「実用を忘れざるの主義」あるいは「実証主義としての『実学』」 として用いられてきたとし、 「田中耕一のノーベル賞受賞を契機として、 『実学の精神』 ・ 『実学重視 の伝統』があらためて語られるようになった」と述べられている10。これではそもそもなぜ「実学 尊重」という用語が用いられたのかを説明出来ていない。そして、工学部出身の企業内研究者の 「ノーベル賞受賞を契機」とするからには、かなり狭い意味で「実学」という用語を用いているこ とになる。 日本で「実学」を理念とする大学は東北大学だけでないが、その多くは産業的課題と結びついた 大学である(東京農業大学、東京電機大学、東京情報大学など)。ゆえに、 「実学」は「直接社会生 活に役立つ学」と見なされがちで、進んで「産学連携」を意味することにもなる。これは総合大学 の理念としては適切さを欠いたものといえる。『五十年史』で「実用を忘れざるの主義」という用語 が編み出された背景には、 「実学」の「直接社会生活に役立つ学」という意味を弱め、全学的に通 じる概念とする意図があったものと推測する。 しかし、福澤諭吉の創設した慶応義塾大学では「実学」という用語が総合大学の理念として問題 なく位置づいてもいるⅡ。しかも'可大学の場合、工学部は他学部と比較すると後発の学部であり、 「実学」なるものを産学連携という意味に見なしにくい。大学史研究においても慶應義塾での「実 学」を「リベラルアーツ」の意味で受け取る向きがある'2.森鴎外は中国の学風を西洋の学風と比 較し、 「蒸気や電気を使うこと」を「学問の副産物」とした上で、中国では「古来自然学風の実学 を尊んで」いるとまとめたことがあるi3。 今のところ、東北大で「実学尊重」なるものがいつから唱えられたかは定かではない。とはいえ、 1945年に東北大に入学し後に総長も務めた西澤潤一が「実学重視」の学風があったと証言してい るMからには遅くとも戦後間もない時期までには「実学」という学風が形成されていたのだろう。 本論文では「実学尊重」という概念がいかなるものであるかを、時代状況を見据えながら掘り下げ て論じることを課題とする'5。 / / 2. 「実学」と「虚学」の現代的な意味 以上で示した課題を問うにあたり、 まずは今日的な「実学」とその対義語と見られる「虚学」の 概念の国語辞典での記載を管見としてではあるが捉えておくことにする。 岩波書店の『広辞苑j (第五版、 1998年)では次のように述べられている。 「実学」は「[朱子、 中庸章句『其味無窮、皆実学也』]①空理・空論でない、実践の学。実理の学。②実│祭に役立つ学 問。応用を旨とする科学。法律学・医学・経済学・工学の類」。ここでは「虚学」についての記載 はない。三省堂の『大辞林』 (第二版、 1999年)でも│司様である。「実学」は「理論より実用性・技 術を重んずる学問。実際生活の役に立つ学問。農学・工学・商学・医学など」とされている。ここ でも「虚学」についての記載はない。小学館の「日本国語大辞典』 (第二版、 2001年)では「実 学」は「(理論的研究・基礎的研究に対して)習った知識や技術がそのまま社会生活に役立つよう 126

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東北大学の理念としての実学尊重 初lll 高仁 な学問。商学・工学・医学など」と説│卯されている。一方で「虚学」については記載がない。同じ く小学館の「大辞泉』 (第一版、 1995年)では「実学」は「社会生活に実際に役立つ学問。医学. 法律学・経済学・工学など。江戸時代の蘭学、明治時代の職業教育などもさす」とされている。 「虚学」については記載がない。この他、 『国語辞典』 (集英社、第二版、 2000)、 『現代新国語辞 典』 (学研、新版、 1997)、 『辞林21」 (三省堂、初版、 1993)、 『日本語大辞典』 (講談社、第二版、 1995)など、どれもほぼ「実学」なるものを実用や実践の学としている。そしてどれも「虚学」に ついての記載はない。管見の範囲では「虚学」について記載があるのは三省堂の『新明解国語辞 典』だけである(第六版、 2007)。ここでは「実学」が「習った知識が、直接社会生活に役立つ学 問。 〔狭義では、医学・商学・工学などを指す〕」とされ、そしてこの対義語が「虚学」で、 「〔実学 に対して〕一般に、哲学・文学・歴史学などの人文科学を指す」とされている。この『新明解国語 辞典』は初版が1972年であり、 『広辞苑』のような辞書と比較すればかなり歴史の浅い辞典である。 とはいえ、 この『新明解国語辞典』は歴史が浅いがゆえに現代的な単語の意味を汲み取った辞典で あるとも見なしうる。歴史が長く、版を重ねている辞典では、過去の記述を大幅に改めるわけにも いかず、それでいて現代的な意味合いをも述べなければならないという状況が生じうる。したがっ て、一つの単語についての説明も幾とおりかになされ、そのうちのどれが現代的な意味であるかが 明確でなくなるといった事態にもなりうる。 ともあれ、 この『新明解国語辞典』の見地からすれば 理学や自然科学と呼ばれる学は実学と虚学のと書ちらにも含まれないようである。 「虚学」の項目が代表的な[1本語の国語辞典にあまり見られない傾向があるという事実が何を意 味するかはここでは深く論じないが、 「虎学」という用語があまり明確な定義を持った単語ではな いということは間違いあるまい。「虚学」という用語は現代的な「実学」すなわち「直接社会生活に

役立つ学問」の対義語として作られた用語であると見るのがrl然ではなかろうか。 ともかく、後述

するように「実学」なるもの自体が時代によって異なる意味を持ちうるのだから、 この対義語とし

ての「虚学」もまた時代によって異なる意味を持ちうるということは確かである。なお、 『大言

海』では「実学」を「実際の役に立つ学問。実用の学問・実│祭に、我が身に行ふ学問。実践の学」 としているがこれに力llえて「中庸章句階実学也』」と述べてもいる16o『広辞苑』 と│司様に朱子学 を語源としているのである。なお、 『大言海』にも「虚学」という項│]はない。なお付け加えると、

「実学」とは明治初期には「マコトノガクモン」と説│川され、明治後期に「実用ノ学問」と説明さ

れた用語でもある'7oつまり 「実学」はn本で商工業が発展した時期に意味を変えた単語なのであ

る。 現在において、 「実学」という単語が実川の学問という意味で用いられる傾向があるのは確かで ある。 しかし歴史的に見るならば、朱子学のような現在では実用の学と見られない学問が「実学」 と称された経緯がある。そして「実学」は明治期に「マコトノガクモン」から「実刑ノ学問」へと 意味を変えた。このような経緯をふまえて実学史や実学思想史の研究が行われてもいるので、次に これら先行研究の成果をまとめてみることにする。

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3. 実学史・実学思想史研究の成果から 朱子学などを起源とし、福沢諭吉などに至る「実学」や「実学思想」については杉本勲や源了圓 によって研究が積み重ねられてきた。特に源は東北大の教官であり 「実学尊重」という理念がある 大学で「実学」や「実学思想」についての研究が行われたのだから、 これらの成果を引き継ぎつつ 東北大における「実学」なるものについての検討をすべきであると筆者は考える。源は「実学」の 概念を次のようにまとめている。 「実学という概念には、今日の、実証性と合理性に裏付けられた、実際生活、現実生活に有用 な学問、 という意味のほかに、人間的真実追求の学問、道徳的実践の学問、政治的実践を旨 とする実用的な学問、実理に裏づけられた実用的な経世済民の学問、等々、多種多様の意味 が含まれている。ここから明らかなように、実学ということばは必ずしも明確な輪郭をもた ず、多義的で、暖昧な概念である」'8 杉本は次のようにまとめている。 「江戸時代にひろく使われた実学の概念には、現実性・実用性・真実性・実利性(功利性) ・ 合理性・批判性・実証性・実理性・実践性・確実性といった諸要素のうちの、どれかが大な り小なりそなわっており、その点ではたしかに暖昧多義である。そのうえ思想の面で実学と 称するとき、多くの場合、 自分の学こそ本当の実学であると自負し、 これに先行する学を虚 学=空理・空論として排斥するため、その点では相対的・論争的なことばで、使用する人の 主観や立場、時代などのちがいで変動をまぬかれないのである」l9 このように、源も杉本も「実学」という用語が暖昧多義であるという点において一致している。 そして、杉本が「実学」を先行する学問との関係において位置づけていることは重要な指摘と見な すべきである。学問の内容は時代時代によって変化しうる。政治や経済と歴史的に関わり合いなが ら、時代状況を肯定する学問が成り立ち得るし、時代状況を変えようとする学問もまた成り立ち得 る。逆にいえば時代性などを考慮することで意味が明確になるのが「実学」という用語とでもいえ ばいいだろうか。したがって、東北大学の理念としての「実学尊重」の意味を考えるにあたっては、 それが打ち出されたとされる大学創設期の時代性などが確認されなければならないはずである。 そこでまずは一例として源の述べる朱子(朱嶌)のいう 「実学」の概念をまとめてみる。源によ れば朱子学における「実学」なるものは次のようなものであるとされる。 「(1)仏教や老荘は『無実』であり、同じ儒学であっても漢唐の訓詰学は『無用』である。これ らの虚なる学問や思想でなく、人間的真実を追求する聖賢の学問を実学として学ばなければ ならない (2)この聖賢の学問は、具体的には孔子一子思一孟子一周椛渓一程子兄弟、等の学統をさし、 大学、中庸、論語、孟子の四書にその教えの真髄は示されているが、それは高遠な形而上学 的原理を基礎としながら、家.近隣社会・国・ -llt界における人間の共同生活に必要な実事 (人倫、礼楽、制度、天文、地理、兵、刑、等々人事全般)にこたえうる実用性をもつ学問 である」20 128

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東北大学の理念としての実学尊重 初山高仁 つまり、朱子の考えにおいては仏教、老荘、訓詰学の対義として実学という概念が成り立ってい るわけである。しかもここでいう 「実事」なるものは狭い意味での現代的な「実用」なるものでは なく 「人倫、礼楽」を含んだ概念であるということを強調しておきたい。これに加えて、実用とい う意味だけでなく、形骸化・形式化した学問のありかたに対する批判的な意味をもって「実学」と いう用語が用いられてもいるのである。朱子学の研究を行った島田度次は次のようにまとめている。 「朱子でも、朱子学に反対した王陽明でも、みな自己の学を『実学」 (内容のある学問) とし て主張したのであるし、朱子学・陽明学のような形而上学に反対して興った清朝の考証学も、 おなじく 『実学」を主張した。われわれが『実学」 という言葉で、ただちにある特殊な内容 を反射的に思いうかべる、そしてその後の『本義」のようになんとなく思いこむ、 というと ころに、むしろ今日という時代の特色があるのだろう」21 実学を狭い意味での「実用の学」と見て、東北大の現在の学部名でいえば、教育学、法学、経済 学、工学、薬学、医学、歯学、農学を実学とし、文学や理学を虚学と見なすような見地は、島田か らすれば現代の「時代の特色」とでも見なせよう。何をもって「実用の学」と見なすかは時代状況 や政治経済のありかた、地域ごとの文化の特徴などによって大きく異なっていて不自然でない。「実 学」の対義語としての「虚学」なるものの概念が明確でないのもおそらくはこうした事情から由来 するものなのであろう。 ところで、先述したように『広辞苑』や『大言海』では「実学」の語源を朱子による『中庸章 句』に求めていた。源や島田によれば朱子による「実学」という概念は現代的な「実用の学」では ないようである。東北大の理念とされる「実学尊重」の起源は今のところ明確ではないが、 この 「実学」という用語に現在の狭い意味での「実用の学」という語意を単純に当てはめるべきではな いだろう。なにしろ、仙台に最初に設けられたのは理科大学であり、小川正孝初代理科大学長は 「ピユーアサイエンス」が行われる場としてこの理科大学を位置づけている22。理科大学において は石原純によってアインシュタインの相対性理論が受け入れられもした。矢部長克の古生物学など も特筆に値する。これらは現在でも狭い意味での「実用の学」とは見られていないところがある。 4.朱子学における「実学」と東北大学 (1) 朱子学における「実学」 先に述べたように、 「実学」という用語の起源は『中庸章句」にある。朱子は『中庸章句』の序 文を著した後、 『中庸』の本文を解説するにあたり 「実学」という用語を用いている。 「其味無窮。皆實學也。善讃者、玩而有得焉、則終身用之、有不能講者実」 「その味窮まりなく、皆実学なり。善く読む者、玩作して得る有らぱ、即ち終身之を用いて諾 くす能わざる者有らん」23 山下龍二はこれを次のように訳している。 「その味わいは、尽きることなく、すべて実際に役立つ学である。よく読む者が考え求めて得 るところがあれば、一生涯これを用いても、極め尽くすことができないほどである」2!

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宇野哲人による訳は次のようなものである。 「その味わいは無窮無限であるが、みな実際の学問にして少しも架空の議論が無い。善く読む 者がこれを熟読玩味しその真意のあるところを探索して、 これを我が物とし我が身に体得し たらならば、一生涯これを用いても用い尽くすことができないであろう」25 山下が実学なるものを「実際に役立つ学」とする一方で、宇野は「実際」に加え「少しも架空の 議論がない」ことを実学の意味として見ている。この『中庸章句』の文言の解釈については論者に よって様々な見地がありうるが、本論文の主題は東北大の理念を問うことにあるからここではその 子細は論じない(以下、中国思想史研究上の課題については同様の姿勢をとる)。そのため、 ここ では2つの訳を示すのみに止めた。ここでは、朱子が『中庸章句』で述べている「実学」なるもの が「実際に役立つ」という意味に加えて、宇野においては「架空の議論がない」とまで進めて「実 学」の概念が論じられていることに注目したい。先述したように島田も「実学」を「内容のある学 問」と見ている。『中庸』では、偏りのないことや平常であることの徳が述べられているわけだが、 これを「実際に役立つ」と見る向きがあったわけである。このような四書五経の語句をわざわざ本 論文で取り上げるのは、東北大の初代教授陣の中にも四書五経の用語を用いた者があるからである。 (2) 日下部四郎太による「大学」論 理科大学の初代物理学教授である日下部四郎太は雑誌『現代之科学』で「大学之根本」26と題し て「大学」なるものを論じている。 ところで、 ここでの「大学」なるものには二重の意味がある。 日下部は帝国大学の「大学」と四書五経における『大学』 とを重ねて論じ次のように述べている。 「大学は子程子が言はれてある如く、孔子の遺書でありますが、其記述せる処の者は即ち古の 大学にて、人に教ゆる所以の法を説いた者であります。従て其説く処は理を窮め、心を正し、 己を修め、人を治むるの道であります。現今の帝国大学と雌も帰する処はこの外に出ざる者 であります」27 帝国大学も四書五経での『大学』の内にあると日下部は言うのである。そして彼が特に重視する のは『大学』のいわゆる「伝五章」である28・ 日下部は「伝五章」で述べられている「格物致知」 との概念を重要視した。「格物致知」とは朱子学と陽明学では解釈の異なる用語であるが、物理学を 学んだ日下部からするとどうやら朱子学の立場にあるようであり、 日下部は山形県の農家の出身で あるが、彼の妻の父親は江戸後期の儒学者であった芳野金陵の子である芳野世経で、朱子学派の一 人である。物の理を極めるこ とで知が尽される、 とでもい うものが日下部の「格物致 知」であると見ていいだろう。 日下部はまた格物致知と「花 実」なるものとの関係を図l のようにまとめてもいる29。 (花実) 斉家一一→治国一一→平天下 (幹本) ↑ 誠意一一→正心一一→修身 (根箒) ↑ 格物一一→致知 図1 日下部四郎太の格物致知と治国平天下 130

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東北大学の理念としての実学尊重 初山商仁 「花実」を得るためには格物致知が徹底されなければならないということなのだろう。治国平天下、 つまり国を治めて天下を平和にするための格物致知、現代的に言い換えれば科学技術立国のための 基礎研究重視とでもいえようか。なお、 日下部は『易経』の記述から「天文学や地文学や生物学な どの自然科学的研究を根底として、治国の国是を定めた」としてもいる30・ 日下部が「実学」とい う用語を用いた事例は筆者の管見の範囲では見当たらない。しかし「花実」という用語は「実学」 なるものを論じるにあたって考慮しなければならないものではあろう。 東北大の理念としての「実学」なるものが『中庸章句』を起源としているかどうかは定かでない。 しかし日下部の大学観は、 『五十年史」で語られているような「内に学術研究第一主義をとり、外 に社会と親近し実用を忘れざるの主義をうち立てた」31という見地とはかなり異なるようである。 日下部は内も外もなく研究と社会、格物致知と治国平天下とを結びついたものとして論じているの である。 東北大が開学された時代には欧米発の学問が流入していたとはいえ、江戸期から通ずる儒学の教 育が行われてもいた。後にノーベル物理学賞を受賞することになる湯川秀樹(東北大が開学された 1907年に出生)ですら幼少期に祖父によって漢文を素読する教育を受けていた時代である。しかも 湯川は『大学」から習ったとされる32・つまり東北大の創設期は、江戸期からの風習・文化を引き 継ぎつつも、欧米からの様々な思想・学術知識が流入し、 これらが蓄積・整理された時期であった のである。東北大の電子工学研究の基礎を築いた八木秀次は戦後期にではあるが孔子と子貢の討論 を題材とした随筆を書いたことがある33.束北大電気通信研究所の初代所長である抜山平一の著書 にも中国の古典からの引用が何箇所も見られる31.明治大正期を過ごしたいわゆる「文化人」に とって、四書五経は身近なものだったのである。東北大の学生寮である明善寮の名称も 「中庸』に

由来している35。したがって、東北大の理念とされる「実学尊重」なるものが、 『中庸』で述べら

れた「架空の議論がない」、 「内容のある学問」という意味での「実学」を尊重する見地であるとし て不自然なところはない。「実学」を産学連携という狭い意味で解釈するほうが不自然である。 S.教育学における「実学」 ところで、源や杉本らもあまり論じていないところであるが、教育学においては、 「実学主義」 という見地があり、 この用語は東北大の創設期に既に使用されていた。 1922年に刊行された辞書に おいて「実学主義(教育上の)」なるものは次のように説明されている。 「教育の理論及び実際に於て観念よりも事物を重んじ、古語・文学よりも、 自然科学を以て主 要なる教科となすもの。実学主義は人文主義と相対立する教育上の一大傾向にして、 この二 者は時代により互に相盛衰消長し、以て教育史の一面を形成す」36 この記述は当時の教育学者として著名であった大瀬甚太郎の『欧州教育史』 (1906年)の内容を 根拠としたものである。ここまでの検討で「実学」の内容に含まれていなかった自然科学がむしろ 「主要なる教科」とされているのである。しかも大瀬は東北大初代総長となる澤柳政太郎が著した

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『実際的教育学』をめく、る論争相手でもある。澤柳が大瀬のいう 「実学」という用語を知っていた と見て不自然なところはないだろう。 (1) 大瀬甚太郎における「実学」と大学 大瀬が「実学」と見なしているものを以下でまとめていくことにする。まず、大瀬は「十六世紀 における実学的傾向」と題して次のように述べている。 「中古の煩瓊哲学に反する自由なる現世的傾向は、実学の急速なる進歩を来たすを得ざりき。 人文的傾向は、久しくその勢力を維持し、新教の学校に於ても、旧教の学校に於ても、古学 の研究、文法、修辞、弁論の如きを最も貴重せり」37 大瀬においては煩蹟哲学つまりはスコラ学に反対する学として「実学」なるものがあるようであ る。大瀬はスコラ学に反対しながらもアリストテレスに依拠する見地を「言語的実学主義」と名づ け、 このうえで、 コペルニクス、ギルバーl、、ガリレオ、ケプラーらによる活動を「言語的」では ない「実学主義」と見なしている羽。そしてフランスでのラブレー、モンテーニュ、 P.シャロン、 イギリスでのF.ベーコンが「実学の発達」を先導したという39。そして十七世紀においてはラト ケ、 コメニウス、ジョン・ロック、ルソー、バゼドウ、ペスタロッチらの活動が実学的傾向を持っ ているとされる40。これを見れば、近代科学の成立と啓蒙思想の普及に基づいた教育の立場を「実 学主義」と述べていると見なし得る。 さらに大瀬は『新撰教育学』 (1908)4!において小学校や大学といった学校の体系的な関係性を論 じ、 「大学」なるものの役割を次のように述べた。 「大学は、単に一専門学校に非ず、教化の根源たり、精神界の中枢たるべきものなり、故に深 き研究を要し且つ社会開化の基礎たる諸学芸を包有する一体を構成し、以て純粋に学術の進 歩に貢献せんとする学者および最高の科学的素養を要する種々の業務に従事せんとする者を 養成し、国民にその生活上の指導者たるものを供給するを以てその任務とせんこと要す。社 会教化の伝達は総べての学校に於てなし得らるる所なれども、その増進につきては、特に大 学に待たざるを得ざるなり。」‘'2 大瀬は小学校から (当時の意味での)専門学校までは「社会教化の伝達」を役割としているが、 大学においては「研究を要し」、 「社会教化」の「増進」の役割を担うと主張しているのである。詳 しくは後述するように、澤柳もまた東北大学着任前に、 「要するに大学は教授する外に研究するこ とを要する」と論じていた。このように大学を教育を行うだけでなく研究を行う場として位置づけ るという点において大瀬と澤柳とは一致している。このような大瀬と澤柳が、澤柳の『実際的教育 学』をめぐっては論争を行ったのである。 澤柳と大瀬ら教育学者との論争の概略については既に述べられている43ので詳述はしないが、こ れを極めて単純化するならば、澤柳が小学校等における実際の教育のあり方を論じているのに対し、 彼と対立した教育学者は教育学のあり方を論じているのである。当時の教育学は欧米における教育 思想をいわば翻訳.紹介する段階にあった。だからこそ当時の教育学は澤柳にしてみれば「実際と 132 ●

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東北大学の即念としての実学噸重 初lll 高仁 あまりに没交渉」で、 「云わば学者の一家言」といえるほどの状況だったのである‘'!。 (2) 澤柳と吉田熊次「実験的教育学」 澤柳が論争を行った相手は大瀬だけではないが幅、 ここでこれら全ての論争の内容をまとめるこ とは本論文の目的ではない。しかし、 この中でも吉lⅡ熊次の唱えた教育学については踏まえておく 必要があると考える。 日下部四郎太は山形中学校において吉IIIと同級であり (ただし吉田は途中で 東京へと転出)、 日下部が進学した仙台の第二高等学校の校長は澤柳であった。吉田は「実験教育 学」というヨーロッパでの教育学の成果を紹介し‘16, 「実際的教育学」を唱えた澤柳と共感しつつ 論争したのであった17。 「実際」なり 「事実」なり 「実験」なりは澤柳の教育学を論じるにあたっ て重要な概念であり‘18、東北大の開学にあたってはこれらが考慮されたとして不自然でない。吉田 、 、 、 は従来の教育学が教育上の「活問題」対しての注意を怠っている部分で澤柳に共感を示し49、医学 と病院との関係を教育学と学校とに当てはめ、従来の教育学が学校教育の実際的な面を捉えていな いのだと論じた50・吉田が澤柳に反対したのは次の点である。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 「実際問題を学術的に研究するは、やがて教育学でなければならぬ」5! つまり教育学の理論的側面を重視したとでもいえようか。澤柳は次のように返している。 「今日までの理論的考案が教育に関する確実なる判断を養うことができれば結構であるが、そ れが問題である。如何なる理論的研究が教育に関する確実なる判断を養うか之を知りたいの である。」52 澤柳が教育を問題とするのに対して、反論した教育学者が教育学を問題とするという基本構図は 吉田においても同様に見られるといえよう。吉田は澤柳の反論に対してヨーロッパの様々な教育学 者の言を引用したうえで次のようにまとめている。 「教育学そのものもやがて著者の所謂実際的教育学でなければならぬか。あるいは理論的教育 学というものが別に存在して居って、その外に実際的教育学というものが必要であるか。こ れが問題の分かるるところであると思う」53 これに対して澤柳は次のように反論している。 「実際的教育というたのは従来の教育学と区別するのが趣意であって、理論的に対してかく命 名したのではない。実際の事実を根拠として原理原則を研究するという主意であるのであ る」ふ! 吉田と澤柳との論争はさらに続くことになるが55、結局のところ教育を問題とするか教育学を問 題とするかの平行線をたどる結果となった。しかし「実験教育学」を紹介した吉田に対して「実際 的教育学」という澤柳の見地から「実際的」なるものが「理論を排して実際を主」とする立場では ないことが明確にされている。 澤柳は「実学主義」という用語を用いた大瀬とも論争を行っただけでなく、研究と教育、理論と 実際の関係について吉田とも論争を行った。澤柳はこれほどの教育論争を経た後に東北大の総長に

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就任したのだから「研究のみを重視し教育を軽視する立場」になかったことは明らかであろう。し たがって、澤柳が東北大にあって「研究と教育を区別するもの」という立場にあったとする『百年 史』の記述56には疑問を持たざるをえない。そして、東北大学の創立以来の理念としての「実学尊 重」を産学連携という狭い意味で理解することにも問題があるといえる。 6.創設期の東北大学と「実学」 (1) 澤柳政太郎の「研究」と「実学」 澤柳は総長就任前に「単立大学説に反対す」と題する論考の中で次のように述べた。 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 「大学の特色、本務はこの研究ということを一要素とするのである。専門教育における最高教 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 育は、当時の文明が有する処の最高の知識を与うるを以て満足し、直に之を応用せんとする 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 、 ものであるが、大学はさらに進みて、新たなる進歩を企て、文明の先頭に立って進まんとす 、 、 、 、 、 、 るものである。この見解よりすれば 実用大学だの学問的大学だのいう区別 は殆ど意味をなさぬ。大学はすべて学問的、研究的であるべきで、特に学問的と形容するを 要せず、実用的のものは、高等専門教育にして大学では無い。要するに大学は教授する外に 研究することを要すること、 日本の大学も欧米の大学も大体において然りといいうるのであ る」57 ここで澤柳が「実用的のものは、高等専門教育にして大学では無い」としているところは「実 学」という概念を検討する上でも重要である。澤柳は東北大から転任した京大を退いた後、 「大学 間の競争」と題する論考58で大学間の競争がないことを次のように論じた。 「東京大学は地方の大学を軽腿して我が好敵手となすに足らずと考える有様であり、地方大学 は東京大学の尊大自ら居るを畷い、其の何等学問上に於て先進者たるの実を挙げざるを│潮 笑って居る。互に競争して学問上の新研究を遂げ以て学界に貢献せんとする意気込みがな い」59 澤柳は大学間で競争がない原因を大学が教育に加えて「更に重大な任務」があることを認めない ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● からだという。「即ち大学は学問を研究すべきところであって単に学生を教育するのみでは其の任務 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● を十分に尽くしたと云えないと云うことを明確に認めない」"。これは澤柳が京大を退いた後に著 されたものである。先述のように、澤柳は東北大着任前から「大学は教授する外に研究することを 要する」という見解を持っていたのだから、東北大在任中も同様の見地にあったと見るのが自然で ある。澤柳は次のようにも述べている。 「学問上の研究に於ては競争をなすを得べく、之をなさんとしたならば寧ろ地方大学は有利の 地に立って居ると云うてもよい。地方大学は東京に比し新しいだけそれだけ其の設備に於て 新たなるものがある。かかる利益ある上に地方に於ては東京に於けるが如く学者が雑事併務 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● のために煩わさるることなく静かに研究に従事することが出来る。一体学問の研究に最も必 要なものは時間である、東京には其の時間がない、地方にはある」6’ 134

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東北大学の理念としての実学蝋重 初山高仁 東大が「実を挙げざる」と表現され、京大では澤柳の改革が失敗に終わった時期、 ヨーロッパ留 学を経て最新の知識を身に着けた新進気鋭の学者たちが、地方にありながらも最新の実験機器を もって研究に従事していたのが東北大であった。つまり 「実を挙げ」つつあったのである◎ 日下部 四郎太は格物致知の先に治国平天下という 「花実」を見ていた。先述したように澤柳は「実用的の ものは、高等専門教育にして大学では無い」としていた。そして実質的に(つまりは札幌農学校、 農科大学の存在を別とすれば)理科大学から東北大学は始まったのであり、澤柳によって狩野文庫 が購入されていることからは創設時に文学部の設置を構想していたことが知れる。先に述べたよう に、 「実学」という用語は実証性・実理性・真実性などのほか形骸化・形式化した学問のありかた に対する批判的な意味を持ちうる用語である。「実学」を産学連携といった狭い意味に解釈してはな るまい。 (2) 法文学部の創設と学風 1922年に創設された法文学部では法学者である佐藤丑次郎が初代学部長となった。彼は、予定で あれば入学者が三百名であるところ、当初は百数十名程度に抑えられたため、 「学生の授業と指導 とを周到ならしめ得た許りでなく、教官と学生を著しく親密ならしめたのであって、法文学部の学

風は自ら其の間に醸生されつつあったのである」62と述べている。この学風はどうも 「百年史』で

いうような研究と教育を区別するもの63であるとは言いがたい。 新制の東北大学で法文学部は文学部、法学部、経済学部へと発展的に解消されたわけだが、 これ にあたり 『東北大学法文学部略史』が1953年にまとめられているので、 この中から大学の学風に関 わる部分を抜き出してみることにする。理学部で「科学概論」の講義を担当した後に法文学部へと 移籍し、 さらに後には学長を務めた高橋里美は法文学部が成立した当時の状況について次のように 述べている。 「東大何ものぞ京大何ものぞといったように軒昂たる意気が学部に横溢していた。それもその 筈、文科の先生はそれまではいはぱ筋金入りの浪人であったものが多く、文科よりは大体一 昔若い法経の先生は新進気鋭の秀才であったからだ。研究第一主義で二高の古校舎も当時は さほど気にならなかった」61 『百年史jでは、戦後になって高橋が学長であるときに「研究第一主義」を学風として強調した

とされているが65、 この高橋の言からすると、法文学部が成立し高橋も理学部から法文学部へと転

じた時期(1920年代前半)に「研究第一主義」という理念が既にあったということになる(した がって、 『百年史』の記述には疑問を持たざるを得ない)。さらに、東大や京大とは異なる大学のあ りかたを求める「意気」があったとの指摘は重要である。 法文学部の美学を担当した初代教授である阿部次郎は佐藤丑次郎の学部設置への姿勢を「佐藤さ んの話によると、今まで日本にはない学部を設けるので、先輩老先輩に相談せず新しい構想ではじ まり、今迄とはまるで違ったものにしたいというのである」66と伝えている。先述のように、 「実 学」には形骸化・形式化した学問のありかたに対する批判的な意味がある。高橋や阿部の述べると

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ころからすると、法文学部の設置にあたってはこの意味での「実学」の姿勢が貫かれたとも見える。 法文学部に入学し、後に宮城教育大学の学長を務めた林竹二は次のように述べている。 「比較的歴史の若い法文がよくこれ丈の強力且多彩な│嘩容をととのえることが出来た蔭には、 従来の官学的人事にからまる因習を一櫛し全く学問的な実力のみに着目した人選を断行され た、創立の功労者であった佐藤丑次郎教授やそれを助けられた諸氏の見識と勇気とが大きく ものを言っていたと私は聞き及んでいる」67 林は具体的には新聞記者出身の村岡典胴、大学卒ではない山田孝雄、そして夏目漱石門下の小宮 豊隆と阿部次郎を帝大卒ではあるが「従来の官学の枠」にはない人事と位置づけ、 これらの学者か

ら指導を受けたことを「定評ある東北大学の腫厚な学風』 と共に大いに誇りを感じていた」68と

述べている。法文学部もまた(理科大学の前例にならってか)学生数を充足させるために傍系へと 門戸を開放し女子の入学をも認めた経緯があるが69、 「因習を一郷し全く学問的な実力のみに着目 した人選」も行われたのだから、従来とは異なる学部とするために教員人事をも門戸開放したとで もいえようか。「研究第一」であり 「実学尊重」であれば「IIII戸開放」に至らざるを得ないといった ところか。経歴よりも実力を問うというこの法文学部創設期の姿勢70もまた「実学尊重」という理 念を検討する上で極めて重要なものであるといえる。 7.おわしノに 以上、東北大創設期の時代状況を踏まえながら「実学」という用語の意味を検討してきた。東北 大の成立の背景には、江戸期以来の儒学の地盤と、そこに流入したヨーロッパの教育思想があった。 そして初代総長である澤柳らによる教育論争があったのである。本論文では詳述できなかったが、 自然科学の発展とそれに基づいた近代技術の発展と産業の隆盛もまた大学創設の背景にあった。こ のような経緯を踏まえるのならば、東北大学の理念としての「実学」なるものを狭い意味での「実 用の学」や「産学連携」を意味するものと捉えることの問題性は指摘できたと考える。 ところで筆 者らは先に著した論文7'において「研究第一主義」という理念が研究のみを重視する見地ではない ということをある程度ではあるが明らかにした。この点は本論文で述べた『実際的教育学』をめく、 る論争や澤柳の論述によってさらに明確にできたと考える。「研究第一主義」は「内に」などといっ たものではなく、 日下部の見解をふまえ澤柳の言葉を借りれば「新たなる進歩を企て、文明の先頭 に立って進まんとするもの」とする見地であるといえる。この目的のためには教育と研究とはどち らも必要であり、特に区別する珈由などないはずである。「実学尊重」についても同様で「実学」な るものには既存の学問に対する批判的な意味があるのだから、 「外に」という意味での「実用の 学」に留まらず「内に」も向いた見地であると見る必要がある。そしてまた、 「実学」にはこれま でにない「実を挙げる」という創造的な意味もまたある。東北大創設期に見られた経歴や性別を問 わず実力を問うという姿勢は「門戸開放」という理念とも整合している。総合大学である東北大学 の理念としての「実学尊重」なるものには「産学連携」といった限定された分野の概念ではなく、 全学的に通ずる概念があるべきだろう。 136

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東北大学の珊念としての実学尊重 初lll 高仁 本年(2011年)は理科大学が創設されて百年にあたる。大学を巡る社会の諸状況は変化している が、いかにして入学志願者を得るか、そして何を研究・教育すべきかいうことは開学当時も今も変 わらない大学の課題である。学生を引きつける特徴を大学に持たせ、いかなる人材を育成し、どの ような研究を行うか◎この課題に対しては、新設された地方大学に望みを託した先人たちの志を汲 み取りつつ、大学の未来を論じる必要がある。「産学連携」などの形で実用に応えることは一つの学 問の役割であり、 この意味での「実学」なるものの重要性は広く認められるところであろう。問題 は総合大学である東北大学の理念が、 このような狭い意味での「実学」にとどまっていてよいのか ということにある。 東北大学は、創設時に東大や京大とは異なる大学である必要があった。そしてまた大瀬や澤柳が 力説しているように、大学には教育だけでなく研究の機関としての役割も求められていた。 した がって新たに設けられた東北大では、研究教育を行う場としての大学を成立させ、 これまでにはな かったような研究教育での「実」を挙げなければならなかった。東北大学の創立以来の理念として の「実学尊重」はこれまでにない研究教育での実績を積極的に生み出そうとする学問的な姿勢であ ると見なすべきであろう。 なお、本論文の英題では「実学尊電」を『百年史』の記述72にしたがって"Practice-Oriented ResearchandEducation"とした。 ところが東北大学が2010年に公式に発刊した書である7bルok"

〔ノノwe畑秒では「実学尊重」が"P'・acticalApplications''と訳されている73.ここまでの「実学」とい

う概念の検討を踏まえると、 この訳語には疑問を持たざるを得ない。 注 1 2 「東北大学百年史』第三巻、東北大学、 2010、 pp.62-72.以 I、‐ 「東北大学百年史」は『百年史』 と略す。 澤柳政太郎、 「東北理科大学方針」、 『報知新聞」、 l911.7.8,p.1,およびこれを引用した『教育界」、第10巻 第ll号、金港堂、 1911, p.88. とはいえ、 『百年史」第三巻では、 「総長が式辞や祝辞などで『門戸開放』を東北帝国大学の理念や学風と して明確に述べた事例は皆無に近いといってよい」とし、 「数少ない使用例」を「河北新報』の記事に求 め、澤柳が訓示で述べた「IIII戸開放」という発言が「「│Ⅱ1戸開放』によって入学してきた学生たちへの激 励が目的」であるとしている。前掲の「東北理科大学方針」は考慮されていない。 『百年史」第八巻、 2004、 p.713. 初山高仁、井原聰、 「東北大学の理念をめぐって一大学創設時の時代状況一」、 『東北大学高等教育開発推 進センター紀要」、第6号、 2011、 pp.101-ll4. http://www.tohoku.acjp/japancse/pro61e/about/02/abou(0201/、 2011年llノ111日閲覧。 「東北大学五十年史」上、東北大学、 1969, p.65. 『百年史」第三巻、 pp.62-72. 『百年史」第八巻、 pp.704-726. 「百年史』第三巻、 pp.52-61. 『慶応義塾大学百年史』別巻(大学編、文学部)、慶應義塾、 1962、 pp.19-24. 天野郁夫、 「大学の誕生(下)』、中央公論新社、 2009, p.89. 森鴎外、 「鴎外全集」第二十五巻、岩波書店、 1973, p.550.初出は『黄禍論梗概』、 1904. 3

45

6789岨Ⅱ児過

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西澤潤一、 『『-│=年先を読むj発想法』、講談社、 1985、 p.10. なお以下では、特に制度面に論及することはないので、大学名は「帝国大学」という表現を用いず、 的に現在の略称で呼称する。 「大言海』第二巻、富山房、 1933. 惣郷正明、 「明治のことば辞典』、東京堂出版、 1986, p.200. 源了但│、 「近世初期実学思想の研究」、創文社、 1980, p.58. 杉本勲、 『近世日本の学術一実学の展開を中心に−』、法政大学出版局、 1982、 pp.2-3. 源、前掲、 pp、72-73. 島田度次、 『大学・中廊』、朝日新聞社、 1967, p.166. 『百年史」第一巻、 2007, p.87. 山下龍二、 『大学・中廊」、集英社、 1974, p.199. 同上。 宇野哲人、 『中I側、講談社学術文庫、 1983, p.48. 日下部四郎太、 「大学之根本」、 「現代之科学』、現代之科学社、第2巻第8号、 1914、 pp.539-548. 同上、 p.539. 同上、 p.540. 日下部四郎太、 「国民物理学」、内田老鶴IIIil, 1917, p.1.ただし、原著では縦書きである。 日下部四郎太、 『物理学大観』、裳華房、 1922、 pp.13-14. 「東北大学五十年史』上巻、東北大学、 1960, p.65. 湯川秀樹、 『旅人』、朝H新聞社、 1958、 p.55. 八木秀次、 「子貢の才気」、 『技術人夜話」、河出書房、 1953、 pp・194-198. 抜山平一、 「学術研究と技術計画』、丸善、 1943. 「天は東北第二高等学校物語』、河北新報社編、河北新報社、 1977, p.31. 篠原助市、 「教育辞典j,東京宝文堂、 1922, p.283. 大瀬甚太郎、 「欧州教育史』、 1906、成美堂書店、 p.315. 同上、 pp.316-317. 同上、 p.317. 同上、 p.353-354. 大瀬甚太郎、 『新撰教育学』、成美堂書店、 1908. 同上、 pp.439-440. 竹下昌之、 「解説(二)」、 『澤柳政太郎全集j第1巻、国士社、 1975、 pp.496-508. 澤柳政太郎、 「H仲文学士の『教育学果たして研究するのイllli値なきか」について」、 『教育学術界』、 # 巻第六号、 1909, p.44. 竹下、前掲、 pp.498-508. 吉田熊次、 『實嶮教育學の進歩」、同文館、 1908. 吉田熊次、 「澤柳氏の『実際的教育学」を読む」、澤柳政太郎、 「拙著『実際的教育学」に対する吉旺 の批評を論ず」、 『帝国教育j,第322号、 1909、 pp.8-25. 竹下、前掲、 pp.508-513. 吉田、澤柳、前掲、 p.8. 同上、 pp.9-10. 同上、 p.10. 同上、 p.14. 第 に対する吉田 14 15 基本

6789012345678901234567890123411112222222222333333333344444

一八 45 46 47 学士

89012

44555

138

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東北大学の即念としての実学尊愈 初山高仁 同上、 p.18. 同上、同上。 吉田熊次、 「澤柳氏の「実際的教育学」を読む」、澤柳政太郎、 「拙著「実際的教育学」に対する吉田学士 の批評を論ず」、 『帝国教育」、第323号、 1909、 pp.14-33. 「百年史」第三巻、 p.17. 澤柳、 『澤柳政太郎全集」第3巻、 1978、 p.147.初出は「帝l玉1教育」、第330号、 1910. 澤柳、 『澤柳政太郎全集」第10巻、 1980、 pp.249-252.初出は「随感随想』、冨山房、 1915. 同上、 p.250. 同上。 同上、 p.251. 『東北帝国大学ノ昔ト今』、東北帝国大学庶務課編、 1936, p.69. 「百年史」第三巻、 p.17. 「東北大学法文学部略史』、東北大学法文学部略史編集委員会、 1953, p.29. 「百年史』第三巻、 p.40. 「東北大学法文学部│略史』、 p.36. 同上、 p.165. 同上。 「百年史」第一巻、 2007、 pp.270-273. 数学者の高須鶴三郎は理学部においても林鶴一が同様の姿勢にあったと伝えている。高須、 「数学教室の 今昔と将来」、 『│些I修会報」、 vol.22、東北帝陸│大学自修会、 1936, p.32. 前掲、初山、井原、 2011. 『百年史」第三巻、 p.72. 7bノ,oル〃〔ノ>7八,eノ宙/〃,TbhokuUniversityPress,Sendai,2010,p.6. 53 54 55

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