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J. H. クラパム『近代イギリス経済史 第3巻 第4編 機械と国家間抗争 1887−1914 年 付:エピローグ,1914−1929 年』要綱,エピローグ

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《研究ノート》

J. H. クラパム『近代イギリス経済史 第3巻 第4編 機械と国家間抗争

1887−1914 年 付:エピローグ,1914−1929 年』要綱,エピローグ

一 ノ 瀬  篤

(岡山大学名誉教授)     

エピローグ

(戦争と経済的原因)  戦争が始まったとき,殆どの国民は非常に驚いたが,それでもその過半は政治指導者達の行動を受け入 れるか,もしくは熱烈に支持した。それまで分裂的だった批判好きの国民全体が奇妙なほどに一致して, 予期せぬ未知の戦争に突入した。新しい陸軍大臣キッチナー(Kitchener)は,国民に数年間の戦闘を覚悟 するようにと述べたが,国民はその社会的地位の如何に拘わらず,最初は彼の警告を真剣には受け取って いなかった。全欧州の兵士達が,戦争は厳しいだろうが短期に終わると予期していた。諸国の大蔵省関係 者も,近代戦を経済的に長くもちこたえることは出来ないと信じていたし,軍関係者にもその線で助言し ていた。実業界や経済思想家,或いは経済著述家達も同様で,強力な国は緊張や負担が長引いても,もち こたえられるかもしれないが,敵対国側のどこか弱い部分では,1年かせいぜい2年で,経済上の圧力の 結果,亀裂が生じるはずと考えていた。厭戦的でリベラルな人々は,1年以上の戦争など問題外と考えて いた。『エコノミスト』もマルヌ会戦の5日後に,現規模での戦争継続を何ヶ月も続けることは経済的・ 財政的に不可能だ,と書いていた。これは1日当たりの戦費が,最終段階でのそれの₁⊘₄ほどだった時の ことである。これに対して少数派ではあるが,酷い戦争状態も食料と武器弾薬が完全に尽きる迄は続きう るのだ,という意見もあった。実際には,後者の意見の方が現実となった。  経済史家の私には,次のことが問題となる:第一に自分が研究してきた産業的・資本主義的文明は他の 文明よりも戦争に導きがちなのか否か,第二に生産手段が私人の管轄下にあることは,それ自体,戦争を 生じやすくするのか否か,第三に1914年の我が国の参戦は,直接的もしくは間接的に,経済的な要因或い は打算によって決定されたのか否か。  初めの二つの問題に対する解答(むしろ推測)は,19世紀における近代産業文明と世界人口の未曾有の 増加との関係をどう評価するのかによって影響される。もし私が,人口成長は単に技術進歩(increase in skill)への反応にすぎないと考えれば,あの過密や人口流出,或いは陽の当たる良い場所への欲求などは 近代産業文明の責任,とすることになるだろう。しかし,仮に私が無条件に上記の「技術進歩への反応」 という教義を受け入れるとしても,主要交戦国は増大する人口を繁栄的に維持していたことを銘記してお きたい。つまり,原始時代とは異なって,食物や快適さを求めて互いに侵略するような経済上の強制力は 働かなかったのだ。  技術進歩が人口増加の単一の原因であれ,幾つかの原因のうちの単なる一つにすぎないものであれ,そ れは生産手段の私的所有とは,せいぜい間接的な関連しか持たない。私有財産と資本私有の批判者達は, *本稿「エピローグ」で第3巻が終了するので,稿末に第3巻全体の詳細目次を(第1巻,第2巻についても概略目次を)付した。 なお,これで J. H. Clapham, An Economic History of Modern Britain 全体(第1巻初版1926年,第2巻初版1932年,第3巻初版 1938年)の要約が終了する。要約は2008年のdigitally printed versionに依った。初版本に含まれている折込み地図等は,このディ ジタル版では割愛されている。

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常に技術は資本私有なしでも進展すると論じる。逆に資本私有の擁護者達も,社会主義的なインカ帝国や 現在のロシアで技術が進展することを否定しないだろう。もしも技術進歩が人口過剰を生み,人口過剰が 諸政府間の摩擦を生み出すのであれば,摩擦は必ずしも資本主義に帰せられるべきではない。ロシアで,今, 人口が最も急速に増えていることを見れば,そのことはいっそう妥当する。  諸国家が成長して,生存や生活水準を守るために輸出取引に依存する段階に達すると,市場を求める競 争は利害や嫉妬心の衝突を導く。それは戦争類似の感情を育てる可能性がある。そこから,例えばかつて ドイツで普及していたような,イングランドが商業上の羨望心から自国を攻撃するつもりだという迷信, 或いは逆にドイツが政治経済的な野心からそのうちイングランドに挑戦してくるだろうという迷信,が生 じてくる。取引量は一定なので或る国が取引を牛耳れば他国はそこから追い出される,というような古い 重商主義的ドグマも頑強に生き残っている。確かにそのような考えが該当するような取引も,特定部門や 短期間をとれば,ないわけではない。  しかしこれらの事柄は,資本主義とは何ら本質的な関連がない。疑いもなく1914年以前に輸入(奢侈品, 原材料,大量の必需食料)や輸出に関わった人々は,利得を得ようとする資本家達だった。奢侈品ではな く必需品の供給が輸入者の主要機能になったのは,まさに19世紀のことだった。彼らの仕事は枢要である。 市場を求め,それを確保しておくことへの欲求は,資本家達の貪欲の悪しき産物ではなかった。今日のロ シアは木材,石油,小麦,それに最近は金などの輸出に関心が強いが,これは資本家的ブリテンによる綿, 石炭,機械などの輸出への関心に少しも劣ってはいない。ロシアの産業化が進展すれば,この傾向は益々 強まるだろうし,その徴候は既にある。  資本家達による輸出はしばしば,それを望んでもいない市場に無理やり商品を押し込み,人々の間に摩 擦をもたらし,原初的文明を衰微させるという廉で,非難されてきた。確かに19世紀にも他の時期にも, 悪名高い実例はあった。しかし政府は通常,産業家達よりも思慮深く倫理性に富むのだ,という素朴な仮 定を置かぬ限り,政府による貿易管理が国際摩擦を減らす傾向があるとは考えにくい。今日の世界では, 政府統制が量的に増大しているが,それが国際的な調和を推進しているとは見えない。もしもブリテンの 或る私企業がブリテン石炭の価格を引き上げたとしても,外国の買い手は他のどこかに売り手を見出すだ けだろう。しかし,もしもブリテン政府がその価格を引き上げたとすると,それは非友好的な行為と見な されるだろう。少なくとも確実に摩擦は生じる。  19世紀の商人や製造業者達は,自分達の仕事は平和を育てると考えていた。この考えは,貿易戦争の存 在にも拘わらず,未だに誤りであると証明されているわけではない。彼らへの非難で最も多いのは,彼 らが平和を愛するのは金のためだ,というものだった。名誉よりは平和を選ぶ,という類いのものであ る。商人や製造業者が最も権力を持っていた19世紀の世界は,18世紀の政治家達におなじみだった,あの 「一般戦争」(general war)からは免れていた。1918年後に,或る人が『第一次世界大戦』(The First World

War)という本を書き,多くの人々が,このFirstという表現に身震いした。しかし昔の,例えば オハイオ からマニラに至る,或いはマレー群島からエジプトや喜望峰を経由してニュー・オルリーンズやブエノス・ アイレスに至る戦争は,当時では世界規模のものだった。1914⊖18年の戦争では傍観者であった幾つかの 欧州国民も,これらには関係していたのだ。  産業家達は戦争の恐るべきエンジンを製造した。大部分の国では,限られたグループの産業家達が, 大規模戦争の勃発(ビジネスマンとして,彼らはそのリスクを秤量せざるを得なかった)よりは,費用の 掛かるその準備に関心を抱いていた。とは言え,歴史的に見ても世界の現状を見ても,全ての兵器を政府 兵器廠で製造することが,平和をいっそう確実にしたであろうなどとは言えない。例えば全ての巨船が全 面的に王立造船所で造られたのは,イングランドが最も好戦的になった時だった。効率的で非常に巨大と

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言われているロシアの軍事産業も,当然,国家の独占である。ブリテンにおける私企業による兵器製造(国 家によるそれと対比して)が,直接的にはもちろん間接的にも,1914年の戦争勃発に関係があったという ことは証明されていない。

 戦争は高い利率(high interest rates)と結構な利潤をもたらすという理由で,「資本家」一般が戦争を好 んだのだという議論があるが,実際には戦争は全ての人に地方税(実質は固定資産税)をもたらし,多くの 人に利潤をもたらした。上の議論は,この事実から導かれたお粗末な一般化にすぎない。賃金稼得者達が, 結果的に兵器産業労働者やその他の人々が受け取ることになった異常な高賃金のために,或いは戦争とそ れに伴った社会政策によって一定の恒久的な利得を得たがために,1914年の戦争を受け入れたのだ,とい うような議論が全くなかったのは当然のことである。「資本家」も合理的に予測すれば,戦争は取引の消失, 税率引き上げ,家族に生じうる死しかもたらさないし,賃金稼得者にとっても,死,増税,それに失業し かなかった。  産業家というものは,どこでも平和愛好的であり,商人や貨幣関連業者は,いっそうそうである。ドイ ツの平均的産業家達は,他に比べてやや平和志向が弱かったかもしれない。ドイツ人は第二帝国をもたら した二つの戦争(普墺・普仏戦争)によって,自分達の軍隊に確固たる信頼を寄せていたのだ。確かに1914 年以降,ドイツが戦争で優勢だった時期には,ドイツの平均的産業家は鉄鉱山,油田等々の経済的利権に ついて活発に発言していた。とは言え,イングランドを打ち負かすために100年間の平和を熱望したよう なドイツ産業家こそが,世界中の産業家階層では代表的存在だった。ブリテンの産業家もドイツとの競争 に長年頭を痛めており,現在,その有力グループは関税でドイツを打ち負かそうと望んでいるが,戦争で 意図を達成するような考えからは遠かった。  シティや証券取引所関係者達は,1914年8月初めには,戦争が既存の対外投資や信用供与に与えるに違 いない大混乱を非常に怖れていた。厳格な中立と疲弊した交戦国間の調停というのが,彼らの政策だった。 剛毅なアスキスは,彼らを「老婆ども」と呼んでいた。  ブリテンを戦争へと導いた人物(彼自身,戦争を嫌悪していた)の追憶を見ても,それを経済的な打算 と結びつけることは困難だ。確かに,彼エドワード・グレイ(Edward Grey)はノース・イースタン鉄道 社の会長だったし,その後ホワイト・ホールから元の地位に戻った。彼を戦争に荷担させたと思われる義 務感や道義心の背後には,ドイツが力づくで欧州のヘゲモニーを握ることになると,英国の経済上の既得 権(これから得ようとする経済的利益ではなく)が危機にさらされる,という彼の確信があった。ただ, この意識が彼の精神の前面にあったことを示唆する材料はない。もし,彼の精神のどこかにその意識があっ たとすれば経済的打算はあったことになる,という論法に依れば,確かに経済上の打算はあった。しかし 1912年にも1918年にも彼は,ヴィクトリア期の産業文化はよく自慢されるが忌まわしいものであって,消 滅させてもよいのではないか,という趣旨のことを述べている。彼が実際どう考えていたかは,後世の洞 察力ある文筆家の解明に任せるほかない。  グレイが忌まわしいと考えていたヴィクトリア文明は,それ以前の諸文明よりも好戦的ではなかったし, ヴィクトリア文明が促進した個人的利己心は,世界平和にとって,財産国有制の中央集権国家に比べれば 脅威が少なかった。グレイは,立場上「忌まわしい」文明を守る義務を負わされたとはいえ,自身や国家 の物質的利益を得ようという考えを持ってはいなかった,と言えよう。 (戦争と国力)  我が国産業文明の戦争耐久力と適応力には,予想を超えるほど大なるものがあった。しかし耐久力は生 来のものではなく,完全に海の統御力に依存していた。敵船を海上から一掃する作戦の第一次局面の後, 戦争経済がしばらくのあいだ嘘のように順調だったのは,このためである。輸送の無駄をなくするキャン

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ペーンが,6カ所で開始された。あらゆる種類の物資がブリテンと同盟国のために,豊富に到来した。ア メリカやその他地域で生じた出費は,約40億ポンドの対外投資(1913年には推計2億1000万ポンドの収入 を生んでいた)を戦時公債と引き換えることによって,易々と対応されていた。  慎重な商務省は,予め失業増大等に備えて特別の部局を設立していたが,この部局は戦争初期には失業 者数を報告する代わりに,兵士や兵器製造者になったかもしれない人々が,どんな産業に過剰に吸収され ているかを報告していた。そして女性達が従来は考えられなかったような職種に就くように,また野良で は半ズボンをはくように,宣伝文を準備していた。  1917年になって潜水艦による船舶への無制限攻撃が厳しくなる頃から,それまで比較的自由であった商 工業は,次第に政府の監督や自己規制を余儀なくされていった。統制は在庫やサービスに対する戦争部局 の優先権という形で徐々に始まり,軍需省と共に拡大し,ついには統制・統制官・優先権からなる複雑な システムと成っていた。システムは我が国産業を広範にカヴァーしており,人は「この女性労働者の疲れ た背中を支えるには必要」という軍需大臣の証明書がなければコルセットに鋼を入れることが出来ないほ どだった(1917年のコルセットは鋼を多用)。ヘアピンについても似たような規制があった。  鉄道,軍需工場,鉱山では統制が既に始まっていて,事実上,国有に近づいていた。統制が戦闘に直接 に関連しない産業にまで拡大されたのは1917年の海上輸送危機に際してのことで,主として海上輸送その ものを節減するためであった。積載トン数制限から始まって,ついには海運省まで登場した。1913年には 重量でブリテン輸入量の₁⊘5を占めていた木材が,輸入節減による不利益が最も少ないものとして選定さ れた。戦争遂行上の重要性に従った輸入量割当は,綿産業に危機をもたらした。綿は,その産出高のごく 一部しか戦争遂行部面に用いられていなかったので,大産業の中では最も大きな打撃を被った。羊毛とリ ンネルはまさにその逆で,羊毛は戦争当初から,リンネルは飛行機が重要になるにつれて(飛行機の素材 繊維はリンネルだった),必要性が高まった。金属産業はほぼ全て軍需産業と関連しており,大量の石炭 を必要としていた。農業では,政府は女性労働の鼓舞,パン用穀物やジャガイモ増産のための宣伝に大わ らわだった。政府支出構造にせよ政府責任業務の仕組みにせよ,それ迄も一世代半に亘って嵐の時期に最 も急速に形成されたのだが,今次の大嵐(世界大戦)では恐ろしい速さで成長した。嵐が去って膨大化し た政府責任業務は大部分が消失したが,それらは全ての人々になじんでおり経験されてもいたので,簡単 に復活し得たのである。  この頃の政府支出額は以下の通り(単位:100万ポンド)。   1913⊖14年   197   1917⊖18年  2,696(←但し開戦後,ポンドは減価していることに注意)   1918⊖19年 約3,000(←この数値は予算額で,実際には余剰が出た)  このような規模の歳出と,その資金調達の方法(銀行から借り入れ)は,ついには相当なインフレ(破 滅的ではなかったが)を招いた。1億2300万ポンドの金貨が流通から姿を消していた。イングランド銀行 券は1918年12月迄に,1914年6月の値を4,000万ポンドだけ上回っていた。更に政府によって3億ポンド のカレンシー・ノートが発行されて並行的に流通していた。つまり,それが新価格水準が必要とした流通 貨幣量であった。1923⊖25年迄は,歳出額が8億ポンドを下回ることはなかった。この頃の歳出額は,国 民総収入のほぼ₁⊘5を占めており,これに州・市の歳出が加わった。1924⊖25年の歳出額7億9600万ポンド には3億5700万ポンドの国債費(1913⊖14年は2,400万ポンドだった)が含まれていた。国債保有層は国民 相互間での所得移転を享受していたのだが,他方では11年前には考えることも出来なかったような高率の 税負担にも慣れてきていた。彼らと共に,国民全体が新たな規模で租税を払っていた。こうして,この嵐 の時期の政府支出構造の規模に社会が適応し,それが続いていくための下地となったことが重要である。

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(戦後の諸問題:人口)  大規模な政府支出が継続される下地は整えられたが,その目立った増加の余地はほぼなさそうだ。と いうのも戦後10年以内に,租税負担習慣の変化や政府統制よりもずっと重要なことが確実になったから だ。即ち1900年以前にも少数の人々が予見していたように,20世紀においてはブリテンの人口が増加か ら減少に転ずるだろうということである。1911年の人口は約4,089万人,1921年には戦争にも拘わらず約 4,277万人だった。19世紀(しかし比較的近年)の或る推計では,1951年には人口は5,662万人になるはず だった。しかるに1931年迄には,5,000万人に達することは決してないことが確実になっていた。という のも1926年迄には,イングランドとウェールズについては,統計家達が当時から「粗人口再生産率」(gross reproduction rate)と呼んでいた数値が,既に彼らの用語による「一致点」(unity)を下回っていたからである。 「一致点」というのは,出産可能年齢の女性各々 100人が100人の女子を生む水準を指す。「純人口再生産率」 となると,もっと低くなる。なぜなら死亡を勘案すると,次世代に母となるべき女性の数は減るからであ る。1921年にはまだ,この純率ですら「一致点」を上回っていたのだ。  1921年の状況は維持されず,1931年には純率は「一致点」を大きく下回って0.81になっていた。既に5 歳以下児童のグループは,5-10歳グループよりも少数になっていた。この傾向が続けば,近い将来には 軽微な人口減少が,そして世紀末のかなり前には顕著な減少すら,確実であった。  当時は20年代の出生率低下を,戦争の結果や,新たな戦争への恐れ,或いは1921⊖23年の厳しい不況, と結びつけて理解する傾向があった。特にその最後の要因は,確かに影響していた。この時期の景況良好 期には,結婚と出産とは多かった。しかし結婚と,人口を維持するに足る出産数(3ないし4人)との関 係は,以前ほど密接ではなくなっている。50年間(1883⊖1933年)に亘る出生率趨勢曲線を見ると,戦時 および平時の最初の2,3年には,鋭角的だが容易に説明できる不規則な動きがあり,これは川が海に流 れていくかのような,全期を通じる下降趨勢と対照的である。  イングランドだけがこの問題で突出していたのではない。スコットランドでも事情はほぼ同じだった。 アイルランドでは人口は遙か以前から減少していて,まだ止まっていない。他の西欧諸国も英国と同様で, 1930年頃に行われた種々の推計は,続く30ないし40年間の不可避的な人口減少を予測していた。  合衆国も1931年迄には,せいぜい人口を維持している程度になっていた。世紀末以前には,移入民増加 による相殺がない限り,減少がありそうである。既に同国は,今なお人口過剰気味の東欧・南欧もしくは アジアからの移入民を歓迎しなくなっている。英系カナダもほぼ同じ状況なのだが,カトリックのフラン ス系カナダ人の出生率でカヴァーされているだけである。オーストラリアとニュージーランドも将来の人 口を案じている。  何とか信頼できる推計数値がある限りの話だが,ほぼ全ての国で出生率の低下が示唆されている:スペ イン,ポルトガル,イタリー,ポーランド,ブルガリア,ウクライナ、アルゼンチン,日本など。多分ロ シア本土でも同様だろうが,ここでは出生率は今なお異様に高く表れている。インドは事情が異なってい るだろう。中国については,誰も自信をもって語ることは出来ない。しかし4億ないし5億の人口を擁す る同国では,おそらく死亡率と同様,出生率も高いだろう。出生率の減少にも拘わらず,南欧・東欧やア ジア諸国では,まだ人口の定常化もしくは減少は見られない。しかし,北西ヨーロッパで出生率が低下し ていく速度(例えばドイツでは1900年にはまだ減少は殆ど始まっていなかったが,1914年には明白)を見 れば,今から15年ほどの間に,教育のある階層では重大な変化が訪れるだろう。  戦後15年ほどの間に,人口の減少・安定化は確実なものとなった。この傾向を回避するのに必要な社会 的習慣を変えることは,ブリテンや北西ヨーロッパでは難しい。晩婚や少子化は,まずは恵まれた層の人々 から始まる。人口にかんする限りは,19世紀の半ばにJ. S. ミルが議論し,かつ望んでいた「定常的状態」(彼

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の同時代人はそんなことはありそうもないと思っていた)が手近になったのだ。この事態の到来は,経済的・ 社会的風土を全面的に変えてしまうだろう。暗雲が垂れ込め,遙か地平線では空模様が怪しい。この時期, ドイツ人はいつも以上に悲観的で,『西欧の没落』(O. Spengler, Der Untergang des Abendlandes, 1918⊖22年) などと論じていた。 (戦後の諸問題:国の資源)  他方,人口が減ると,農業は国民を養いやすくなる。人口減に伴って農業では改善と再編が進むだろう。 戦争の結果,農業ではためらいがちのものながら,再編・奨励・改良に向かう決意が残されていた。小麦・ カラス麦の価格保証が試行され,廃止され,30年代迄にはまた復活された。砂糖栽培への補助金は,戦後 6年経って導入され,継続されている。この二つの政策は,重要な借地農と農業労働者にとって価値ある ものだった。このような政策の復活は,農地を地方税から免除する政策(1923⊖25年)と並んで,実際のメリッ トはともあれ,農地の最適利用を目指す決意の表れだった。  同じような決意は森林政策でも示された。数次の委員会が,19世紀や戦時における木材不足を報告で強 調していた。報告におけるその対応策は,殆ど実行不能なほどに強い調子のものだった。もし戦争がもう 一年続いていたら,木材事情は危機的になっていたかもしれない。そこで,再森林化政策が揺れ動きなが らも登場したのだ。しかしこの過密な国土では,再森林化は景観の観点,国土の₁⊘₃は稀少動物群やユニー クな遺跡のために残すべきだという不平,毬果植物を整然と植えようとしてもそれが誰かの別荘地等であ るなどの理由で,非常に困難だった。  人口増加の速度が鈍るにつれて,ジェヴォンズが60年前に提起した石炭供給問題は,1914年迄には心配 の種でなくなっていた。石炭の輸出は,種々の理由によって減少した:即ち石油,石炭節約,水力発電の 進展,石炭業での労使紛争,外国での自給自足政策,世界貿易の縮小などがそれである。また人口の展望 も変わっていた。1941年が近づくと,産出量はせいぜい2億5000万トンくらいと思われるようになってい た。石炭を消尽してしまう日の設定も,遠い彼方にかすんでしまった。  鉄鉱石への需要が停滞する可能性もまた,歓迎されるべきかもしれない。長年,ブリテンは鉄鉱石輸入 に依存してきた。1910⊖14年間の正常な数値は600万トンから700万トンで,これに対する国内産出量はそ の2倍強だった。但し国内産は鉄分が少なかった。1914⊖18年間は非常な努力を払って,この600⊖700万ト ンが輸入されていた。戦後の1920年には景況が活発だったが,鉄鉱石の国内産出量は1,270万トン,輸入 量は650万トンだった。ブリテン夾炭層の鉄鉱石埋蔵量が,かなり精密に計算された。カンバーランドの 赤鉄鉱とクリーヴランド鉱石の寿命は余り長くないとされた。しかし17年後には,リンカーンシャーとミッ ドランドに,1世紀にわたり1年につき1,000万トンの鋼を生産するに足る低品質の鉱石がある,と言わ れていた。実際はもっとあったのではないか。地殻は驚くべき量の鉄を含んでおり,それを採取する新た な方法が見出されることは間違いない。ただ非常に長い目で見れば,いっそう経済的な鉄鋼の使用法を模 索することが望ましい。また人口が減少するとしても,鋼の使用が大いに減るのかという問題は,技術上 の未知な諸事情に依存している。  以上のような資源上の弱点はあるが,その結果としてブリテンが全面的であれ部分的であれ,自らの鉄 鋼産業を失う可能性はない。ジュート産業や綿産業の場合に,原料供給国に当該産業を奪われてきたのと は別である。というのも我が国に鉄鉱石を供給している国々は,いずれも石炭に乏しいからだ。 (経済的な勢力均衡と国際取引)  1919⊖25年間に,かなり打撃を被ったブリテンの舵取りをしていた政治家達は,古くからおなじみの自 由貿易と金本位制に憧れていたが,人口や資源の将来について考える時間がなかった。彼らの見るところ, 資源には驚くほど打撃が少なかった。機械設備は多くの点で改良されていた。経済の適応性は明らかに向

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上しており,妨害的な保守主義も忘れ去られていた。海外投資すら,非常に多額で生産的だった。但し一 部はアメリカでの債務支払いに充当され,一部はロシアとルーマニアで失われていた。海外投資は戦争初 期の諸年に,滅多打ちにされたヨーロッパが生活必需品や設備更新を切望していたとき,多少無謀に増加 された。ブリテンは時には恩着せがましくはあったが,概してこれらの供給に協力的だった。オーストリ ア,ギリシャ,エストニア,ドイツ,フランスというように,新旧様々な国に融資した。  しかし助力にかんしては,ブリテンは,全く被害のなかった合衆国に後れをとっていた。一時,ブリテ ンが欧州の大部分に繊維製品を供給したことはあったが,合衆国はそれ以上に食料を提供した。設備更 新に対するブリテンの貸付力(lending power)は,想定していたよりも小さかった。というのも,ブリテ ンの新旧貸付は思っていたより安全性に乏しく,1930年以降には,それを思い知ることになる。合衆国は 1901年に初めて欧州諸政府への債権者となったのだが,その後ですら差引きでは債務者だった。しかし戦 後の10年間に,アメリカは19世紀にブリテンが世紀全体を通じて貸した額に匹敵する額を,海外に貸し付 けたのだ。人々は貨幣権力が最終的にロンドンからNYに移ったとか,世界の経済的重心の西漸運動が完 成したとか,語るようになった。実はR. コブデンやA. スミスはこれを予見していたのだ。  アメリカは自らの債権者としての地位に慣れていなかった。同国は依然として貿易黒字を追求する政策 を採り,黒字分を金で受け取って不胎化した。そこへ同国自らのトラブルが生じ,近年始めていた対外大 規模貸付から手を引いた。その結果,30年代初期には,アメリカに対するブリテンの対外貸付力は,20年 代に比べると改善されていた。しかし結局,20年代の対外貸付地位の完全逆転は,経済力の恒久的なシフ トを刻するものだった。これは早くから指摘されていたことだが,戦争の力で早められたのだ。  英米両国にとって,20年代の欧州諸国は買い手としても売り手としても弱体だった。またブリテンは国 内で困難な再調整が必要だった。不況が,予測されていた以上に早くかつ鋭角的に訪れた。1922年迄には 全労働組合の失業率は15.2%,技術・造船・金属業では27.0%に上昇していた。これは過去最高値である。 その後回復が見られたが,世界はあまりにも混乱していて,急速・完全な回復は困難だった。ロシアは孤 立していたが,1924年頃から再び木材,石油,穀物などを売り始め,ブリテンからは必需資本財を購入し 始めた。しかし1929年になっても,ロシアおよび周辺諸国は,1913年のロシア帝国に匹敵するだけの財貨 をブリテンから購入していなかった。尤もブリテンの対ロシア輸出量シェアは,従来も決して大きくはな かった。  ドイツは,革命・返済不能な賠償金・主要産業地帯の外国による占領,通貨崩壊など,困難な状況の中 でも,戦後最初のディケード末には,なおかなりの経済活動を維持していた。ブリテンとの古くからの貿 易関係も復活していた。1913年のドイツはUK生産物にとって最良の海外購入者であった。1929年迄には USに次ぐ買い手として復活し,フランスやアルゼンチンを超えていた。UKへの販売者としては,1913年 のドイツは唯一USには後れ(大差はあった)をとっていたが,1929年迄にはほぼ同じ地位を回復していた。 とは言えドイツは輸入でも輸出でも,かつての重要性を失っていた。ドイツは以前より貿易で弱体になり, ブリテンは以前よりも富裕度が怪しくなっていた。  旧オーストリア帝国の解体された諸構成地域との間で満足な通商関係を育てるのは,容易くなかった。 他方,ヨーロッパの同盟・中立諸国との間で,旧来からの関係が戦後まもなく始まったのは自然なことだ。 旧来通り,スカンディナヴィアは木材と鉱石の,デンマークは酪農製品やベーコンの供給者として行動し た。また彼らはブリテンから石炭・工業製品を購入した。フランスは多種多様な工業製品や良質な飲食品 を供給した。しかし,彼らのブリテンからの輸入物量も,1913年から1928⊖29に至る物価上昇を勘案した 場合の輸入金額も,ほぼ全て減少していた。  アフリカや西アジアでは戦闘があったが,激しい戦闘のあった地域は,対ブリテンでは強力な供給者で

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も大規模な購入者でもなかった。むしろ戦闘とそれを継続するための運輸発達(パレスチナやイラクの場 合)は,直接的には生産力と購買力の急速な改善に結果した。アジア,アフリカの大部分,それに南洋州 やアメリカの全ては,戦争の後期段階で海上戦がもたらした遅れや混乱などから僅かの打撃を被ったにと どまる。  ブリテンはヨーロッパで失ったものを,すぐに他の諸大陸(特に英帝国地域)との交易で取り戻すと期 待されたかもしれない。しかし戦後最初の10年間,英帝国地域との取引は非常に緩やかにしか増加しな かった。19世紀の後期には,ブリテンの対英領地域輸出割合は総輸出額の30%ほどだった。その割合だけ は1913年に37%,1929年には41%になっていた。ところが1929年の英国の総輸出額は,物価の上昇を勘案 すると,1913年の総額を超えてはいなかった(つまり全体的にもそうだが,特に英領以外の海外諸国との取引が停滞・ 減少していた)。言うまでもなく,これらの原因は合衆国と日本がいずれの市場でも強力な地位を占めたこ とである。合衆国の場合は中立期間にそれが当てはまるし,日本の場合は一応連合側であったが地理的な 独自性から戦争への関与が少なく,経済的エネルギーを温存できたのだ。  合衆国の貿易は,当然のことながらアメリカ大陸で最も伸張したが,アフリカや大洋州でも拡大してい た。1913年にはアルゼンチン,チリ,ブラジルの輸入額は,それぞれ31%,30%,24%がUKからであった。 1929年迄にはその割合はそれぞれ19.6%,17.7%,19.2%に減っていた。大まかには,合衆国にシフトし た分だけ減少したのだ。日本は至る所で前進していたが,主としてはアジア,それも繊維が主だった。当 初,日本からのものに限らず,ランカシャーへの脅威は余り認識されていなかった。同地は多忙だったのだ。 1919⊖21年の在庫補填ブームでは綿産業の町々は会社設立,合同,価格騰貴などに沸いていた。その後の 1924年でも,綿糸・綿織物は,我が国輸出額の₁⊘₄(綿産業が屈強だった1909⊖13年と同じ割合)を占めて いた。しかし既に1920年には輸出綿製品の物量は,主要グループですら(コーツ社は別),逆に減ってい たのだ。弱小グループでは減少はもっと顕著だった。他方この年,毛織物の輸出量は未曾有の高さになっ ていた。世界的に綿よりは羊毛が必要とされていた。コーツの場合は「完成糸」を扱っていたので,市場 を維持できた。より精緻な綿製品,特に染色した糸・布を扱っていた業者は,コーツに準ずる地位にあった。 (ブリテンの産業と戦後の状況)  1929年は景況も失業率もまずまずだったが,それ迄に綿製品の輸出額は我が国総輸出額よりも大幅に縮 小していた。全ての価格が下落しつつあった。1924年の卸売物価指数は166だったが,1929年には136になっ ていた。綿はもはや総輸出額の₁⊘₄(遡る19世紀中葉には30⊖40%)ではなく18.5%を占めるにすぎなかった。 アジアでの後退,精緻な製品への集中,産業全体の縮小化など全て1世代以上に亘る要因は,予測や期待 が可能であった。ただ予測不能だったのは,その速度と綿産業の準備の欠如ぶりだった。不幸なことに現 実には,1914年の少し前,縮小の代わりに相当な拡大が見られた。羊毛業は1911年には1881年に比べて雇 用者数を増やしていなかった。綿では同期間に20%(10万人)ほども雇用者数が増えていた。1921年の軽 微な減少を手始めに,嵐がこの過剰雇用産業を襲う。  1920年代のもう一つ重要な雇用過剰産業は,石炭だった。平時最後(1911⊖13年)の年平均2億7300万 トンという産出高は,もはや到達しがたい水準であることが次第に明らかになっていた。1920⊖29年(生 産が厳しく中断された1921年と1926年を除く)の年平均生産高は2億5100万トンだった。それでも1911年 に比べて,1921年には16%,1931年でも3%多い人々が雇用されていた。ここにトラブルの種子があった。 雇用者側には組織的な協調行動もなかった。炭鉱地域はしばしば孤立した場所にあり,独自の炭鉱夫家族 グループがあった。そしてついに,機械による石炭掘削が重大な進展をもたらした。1901年にはまだ機械 による掘削は全体の ₁ ₁2 %を占めていたにすぎないが,1924年にはそれが19%,1932年には38%になって いた。

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 鉄道は,政府管理(第一次世界大戦中)から民間諸会社(新たな合同諸会社)に戻された時に,雇用削減 が再編の一部として計画された。採用された地域政策は,19世紀に鉄道人達が「地域化」(districting)と 呼んでいたものに他ならなかった。かつてよりも範囲が広かっただけである。地域化が完成したとき,初 期鉄道時代からの名前を残したのはグレート・ウェスタンだけだった。人員削減は慎重に行われたが,種々 の問題(不公平,労働節約的な工夫の導入に伴う困難など)は不可避だった。1921年から1931年の間にブ リテンの鉄道総雇用者数は12万人,割合にして16%だけ,減少した。同じ期間に「自己推進力による乗り 物(self-propelled vehicles)の運転者」として当時の言葉で「有利に仕事に就いている」(gainfully occupied)人々 は22万4000人,割合にして126%以上増えていた。40万1000人の自動車運転者(他方,1931年の鉄道従業 員は61万6000人に減っていた)と,車を自分で運転する数十万の人々のために,道路は変わりつつあった。 これは鉄道の場合とは異なった事態である。  1911⊖21年間の,鉄鋼・工学技術・造船産業における40%ほどの雇用者数増加は,1911⊖14年間の繁忙期 と鋼を大量消費する戦争の要請したものだ。また,1919⊖21年間の造船所における船舶更新活動には異常 なものがあった。その意味では,多くの企業や労働者にとって,1921年以降の展望は暗かった。しかし, 船舶は摩耗するものである。今後の鋼使用の増大や機械化の進展を考えれば,この産業グループが雇用過 剰であるとは言えまい。  1921年センサスでの化学・電気・ガス・電力供給・自動車産業,それに運輸・流通産業一般の顕著な雇 用拡大は,健全で将来の見込みもある。中央・地方政府およびスポーツ・娯楽部門での雇用拡大も重要だ。 建築部門雇用の僅かな減少は重大ではない。現に1931年迄には再び拡大している。他方,農業と家内労働 では減少が続いている。  石炭輸出減少の場合は例外だが,主要な商業・産業の拡大・縮小は,全て予測可能なもので,速度こそ 緩やかだったかもしれないが,戦争がなくても生じていただろう。1929年にガス・鉄道・企業一般・各家 庭が,1913年ほどには石炭を消費しなくなったのは,基本的には戦争ではなく知性と経済性とが原因であっ た。あらゆる事情を考慮に入れると,戦後10年間のブリテン経済の動きの中で,将来の歴史家にとって印 象的なのは,予測可能で継続的な諸要因であろう。 (経済上の継続性と非継続性)  このように根強い継続性があったために,ブリテン経済の内部組織における目立った変化はなかった。 変化の大部分は,鉄道制度再編の場合もそうだが,革新と言うよりは加速に過ぎなかった。しかし一つだ け,継続性に対する重要な例外があった。この現象がブリテンで余り注目されなかったのは,おそらくそ れが地方で生じたからだろう。ブリテンでもスコットランドでも,農業省のこの問題への取り組みは気乗 り薄だった。しかし土地所有における長期趨勢に,半世代の間に明確な逆転現象が生じていたのである。 少なくとも1914年以前の2世紀間,イングランドでは所有者が耕作する農地の割合は,減少しつつあっ た。2世紀間の統計数値は,期間の終わり頃までは欠陥があったが,それでも減少傾向には疑いの余地が ない。19世紀後半,イングランドとウェールズにおけるその割合は約12.0%だった。1913年にはその値は 10.7%,1919年には12.3%,1921年には20%,1927年迄には36%以上になっていた。スコットランドでは 同年,28%になっていた。これほど耕作者所有地が多かったのは,史上初めてのことだろう。(以上が面積ベー スの話か保有地数ベースの話かは述べられていない。)  事態の一般的趨勢は明らかである。しかし,売買両側で働いていた相対的力関係については,まだ十分 に解明されてはいない。1920年には,6年間順調にやってきた農業主は価格にかんする限り,生産した農 産物の大部分について,1911⊖13年(この時期も彼はまずまずの状態)に比べて3倍ほどの卸売価格を享 受していた。それから鋭角的で全面的な価格下落が生じ,1923⊖27年には価格は,1913年水準を50⊖60%ほ

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どしか上回っていなかった。ただ,これは農産物に限らずほぼ全ての価格に生じたことである。その後と は異なって,農業はまだ桁外れの打撃を受けていたわけではなかった。多くの農業主の銀行勘定には,ま だ十分な残高があった。同時に戦時税と相続税に圧迫された土地所有者によって,また今がチャンスと冷 静に判断した所有者によって,土地が市場に売りに出されつつあった。そこで長期に借りていた農業主が, しばしば所有者になった。彼らは誰かが土地を買って,自分達の頭越しに運命を決めてしまわないかと恐 れたのだ。その後,農業が再びどん底に落ちたとき,最も多く聞かれたのは,この意味での強制的購入と 税圧力による売却であった。  1927年以降10年間の困難と農業上の実験の期間,3人に1人以上(9人につき僅か1人ではなく)の農 業主が,自らの上にショック・アブソーバーとしての地主を持っていなかったという事実は,第一級の重 要性がある新らしい出来事である。  農業とは異なり,工業では継続性への例外はなかった。変化があったとしても,それは戦前からの傾向 の加速に過ぎなかった。その加速すら,戦後初期の産業上の不和によって,或いは平時経済への移行に伴 う諸問題に忙殺されたことによって,しばしば20年代終り頃まで延引されていた。他方,世論はあらゆる 種類の結合(combination)に対して,協同(co-operation)という色彩を付して考えるなど,戦前に比べ ると遙かに友好的になっていた。協同は軍需省の管轄下の大産業では,愛国的義務として論じられていた。 雇用主達の組織も秘密主義から抜け出して,公開的になりうる状況だった。  価格統制は,不人気ではなくなっていた。中央・地方政府がそれを行うようになったからである。世論 は今や,企業者団体を認め,公開的で公明正大である限り,最大級の企業合同にすら殆ど反対しなくなっ ていた。組織化された賃金稼得者達は,十分に組織化された雇用主達と交渉する方を好んでいた。教条的 な社会主義者達も,企業合同には産業統制を私人から公的な手に究極的に移行させる要素があると見てい た。最大級の新しい合同であるICI(Imperial Chemical Industries)は既に半ば公的な性格を有していて,上 質染料を輸入に依存しなくてよいという点で国家に役立っていた。尤も化学産業での合同は,ブリテン企 業合同史の最初期から存在したし,その事業者団体はもっと古くからあった。  1925⊖26年の「石炭産業にかんする王立委員会」も,2,500の炭鉱を有する1,400の炭鉱企業に対して,協 同や合同の遅れにかんし,批判的な傾向にあった。「合同は殆ど静止点に達した」と述べ,ブリテンの石 炭企業の規模は経済的に最良とは言えない,ウェストファリアの石炭企業の規模はもっと大きい,など と指摘している。あらゆる面で,石炭企業はイングランドで最も旧態依然としていた。石炭産業は戦時統 制の解除,産業の健全さにかんする国の数次の調査,1921年の無駄の多い産業内乱(これで産出高激減), 同年の過剰繁忙(スト期減産の補填やUSの石炭ストライキによる),1923⊖24年の再度の超繁忙(ルール 地方石炭の生産停止による),これら予想外の出来事による高利潤・高賃金,1925⊖26年の政府補助金支出 などの事情を抱えていたが,1926年,ブリテンの国際収支が石炭輸出の途絶と外国からの輸入で逆調になっ た時に,殆ど国全体を引きずり込みながら,史上最大の産業内乱に突入した。その後も長年の間,石炭産 業は苦闘を続けた。需要・生産量は停滞もしくは減少し,人員も痛みを伴いつつ徐々に減少した。この産 業は自然な傾向の加速が遅れた極端な例である。但し,合同等が進まなかったわけではない。数値を見れ ば,このことが分かる。1890年代の石炭企業数は2,000ほどで,上記委員会(1925⊖26年)の頃は1,400ほど だった。  しかし商工業一般では,種々の合同や重要な新規産業の企業規模拡大(特に自動車製造や衣服の製造・ 小売等々)が予想を超える速さで進んでいた(但しこの種の成長を調査する委員会は殆ど設立されず,事 実が公的に精査されることはなかった)。持株会社が益々利用されつつあった。造船では大規模な合同が 進んでいた。綿でも同様だった。「海底および無線」グループ(Cable and Wireless interests)では強大なコ

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ンツェルンが形成されていた。そして異様なほどの全国的・国際的連合企業,即ちリーバ・グループの成 長があった。同グループは,大胆で拡大志向の石鹸製造業者W. H. Lever(初代 Leverhulme 卿)の名を冠し, その刻印を受けていた。  銀行間合同は,1929⊖31年迄には非常に進展していて,それ以上のことは,1931年に政治的な事情で議 論された国有化以外には,想定できないほどだった。制度の頂点にはイングランド銀行が,政府との協同 関係をいっそう強めて君臨しており,従前よりも遙かに強力に貨幣関連業者を統制していた。1928年には, イングランド銀行券を統制していた古いピール法も緩和された。政府は戦時のカレンシー・ノートを廃止 し,イングランド銀行券だけが流通していた。しかしこれらは,中央銀行に対する政府の力,および金融 界に対する中央銀行の力が予想を遙かに超えて成長したことに比べると,些事である。1914年にも銀行合 同は予想可能だったが,政府・中央銀行の力の増大は予想されていなかった。これは戦争とそれによる通 貨混乱の所産だった。

 1925年の「通貨委員会」(Committee on the Currency)は,減価したポンドや管理通貨制度について,報 告書では議論しなかった。この旧態への復帰姿勢(旧平価での金本位復帰)のために,上述した政府・中 央銀行の権限強化は,1920年代後期には後の時期ほど目立たなかった。金本位制への復帰は,極度の金・ 通貨上の混乱のために,1931年に放棄された。こうしてポンドと金との関係が切断されたことが,政府の 権限と中央銀行の影響力の成長を必要とし,また露呈させたのである。  一般産業における事業単位の成長と絶えず進行している機械化は,工場検査官によって記録されていた。 しかし,合同や個々の工場がどの程度単一の金融統制に服しているかを報告することは,検査官の仕事で はなかった。戦後の経済崩壊後の停滞的な数年間,工場建設や会社設立は殆ど停止していて1926⊖29年ま で回復しなかったが,実際の工場数は非常に緩やかに増加していた。他方,登録された作業場の数は,漸 次減少していた。1907⊖1927年間には,工場数はほぼ40%だけ増加していたのに,作業場数は26%だけ減 少していた。減少は,工場がなお征服すべき余地のあった衣服製造業,洗濯業,製パン業で生じていた。 自動車による運輸がどこでも,小さな地方企業(馬具職人,鍛冶屋,村の仕立屋,婦人服・帽子製造業者 など)を掘り崩し,仕事を奪っていた。主席工場検査官は1928年に「この減少は東アングリアとウェール ズに顕著」と報告している。古い田舎産業のしんがりが,最も辺鄙な地方でも死滅しつつあったのだ。そ れ迄は小規模製造業者が予想外の生き残り力を示していたロンドンでも,零細雇用主が大規模組織との競 争に勝てなくなり,多くが被雇用者に転落している。  小企業が残存する領域はまだ色々あったが,1921⊖31年間に小企業が唯一前進していた分野は小売業だっ た。大規模店やチェーン店の存在にも拘わらず,統計対象となった1ダースほどの標本都市(分散は広範) では,1931年の食料雑貨店,パン屋,肉屋,薬局,タバコ屋,新聞販売店,菓子屋,フライド・フィッシュ 店,眼鏡店は,1921年に比べて人口当たりの数が増えていた。逆に服地店は減少し,陶磁器店と質屋は激 減していた。 (産業組織の諸問題)  より高次で一般的な産業組織では,1918⊖21年に二つの進展があったが,後にはこの健全期から生じた 期待は裏切られた。この健全期には賃金稼得者は,ほぼ全て労組に組織されそうに見えた。そして大戦の 休戦の前に準備され,休戦直後に設立された産業別労資会議連合(Joint Industrial Councils:いわゆる「ホ イットリー会議」:Whitleyは当時の下院議長)が,全労資関係者の知恵を結集して産業の平和を維持し,各産 業と国家の利益となる法を制定するだろうと期待されていた。ブリテンと北アイルランドの労組加盟者は, 1919年には800万人(1913年の対応人数は約414万人〔それ迄の最大値〕だった),1920年には約835万人と 報告されていた。農業と家事労働を除く加盟者数の潜在的最大値は,多分それに50%弱を上積みした辺り

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であった。しかし1919⊖20年の素晴らしい数値は霧消してしまった。1928⊖30年の平均値は僅か483万人に なっていた。1933年迄には,戦後第二回目の不況到来で,数値は僅か439万人ほどになった。  1919⊖20年の労組加盟者数の多さは,一時的なものだった。その反動に加えて,長期的には石炭・綿・ 鉄道業(1913年全加盟者の2⊘5を占めていた)が,毎年雇用者数を減らしていた。また,その後の不況も 加盟者を減らしていた。道路・娯楽やスポーツ・全ての新しい軽金属産業では,多数の女性労働者も抱え ており,雇用者の年齢に特徴があって,労組のオルガナイザーには説得が困難だった。産業活動が労働運 動が盛んだった北部からミッドランドや南部,それに従来運動が弱体だったロンドン地域にシフトして いることは明白だった。1923⊖33年間に,失業保険法でカヴァーされている人数は,ミッドランド地域で 16.8%,南西部で22.9%,南東部で38%,ロンドン(南西と南東部の合計より人数が大)で23.2%,増え ていた。この間,北東部,北西部,スコットランドとウェールズでは増加率は4.1%(ウェールズ)から9.4%(北 東部)にとどまっていた。そして1933年迄には,成長の速い4地域の被保険者総数は,遅い4地域の総数 とほぼ同じくらいになっていた。  前述の産業別労資会議(Industrial Councils:IC)や,正規性がそれよりも弱い暫定産業復興委員会(Interim Industrial Reconstruction Committees:1918⊖21年に登場:RC)が,1918⊖21年に族生したのだが,これもま た一時的な動きにすぎなかった。確かにこれら機関は,それまで不完全にしか組織されていなかった産業 において団体交渉の領域を広げ,方法を改善することで,有用な仕事をした。しかし既に十分組織されて いた産業では,ICの必要性がなかった。そこで羊毛・陶器・カオリンでは必要だが,綿・染色・石炭では 不要,などとなった。ICの多くは短命だった。1921年末には73のICがあり,後に14のRCがICに転換した (合計87)。しかし1925年6月迄には,残っていたのは50だけだった。ゼネ・ストの1926年を含むディケー ド末には,ICは2,3の例外を除き,当初果たすべく期待されていた仕事(賃金問題,労働環境,労働時間, 教育,産業の調査など)を殆どしていなかった。  労組は,加盟者減少や1926年の出来事にも拘わらず,その立場を強化していた。TUCは1926年の或る特 別会合で,その一般会議(General Council)に,炭鉱夫達の賃金要求を支持するための全国ストの権限を 与えたのである。ブリテン経済生活の9日間に亘る麻痺に続いて,労組加盟者数が1925年の550万人から, 1928年には480万人に激減した。炭鉱夫達の中には,組合への信頼を失う者も出てきた。長引いて国民的 災厄となった鉱夫ストは,組合への信頼を回復しなかった。しかし労働党が権力の座に昇ったことで,労 組は政府とのコンタクトが出来たし,未曾有のことながら,時折,政府をも動かした。諸組合間の重要な 合同が,当時の資本側の合同と並行して進展していた。組合間の合同は彼らの社会的重みや闘争力を増し た。IC運動は部分的な成功を収めただけだが,組合の社会制度上の地位を改善した。そしてTUCの一般会 議(今や有能な書記を擁する恒久的機関)の重要性が高まり,彼らの中央機関となった。一般会議の知恵 に依るのか,労使双方の良識に依るのか,或いはその他の要因に依るのかはともかく,全国スト後のディ ケードでは,労使紛争による労働日の喪失は,全期間・全労働者について,平均して1年に僅か₁⊘₃日に すぎなかった。 (失業,賃金と福祉)  グレート・ブリテンの非自発的失業者は,失業保険加盟者の8.6%(1927年5月)という最低値から 28.8%(1932年8月)という最大値の間で変動していた。1926年のトラブル以前は,その値は7.8%(1920 年12月)と23.0%(1921年5月:この時に突然の一般的不況と炭鉱夫の闘争とが全産業を襲う)との間にあっ た。したがって,1921年後半6ヶ月の平均15.8%と1922年全体の平均14.1%という数値が,20年代初期の 代表的な数値だろう。  上記のような正確な数値が得られるのは,戦後すぐに失業保険が急速に拡大されたおかげである。1911

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年法の下で,選ばれた産業における200万人強の労働者が実験的に保険制度に入っていた。1916年の軍需 産業労働者保険法によって,100万人以上の労働者が制度に組み入れられた。1920年迄には,UKの被保険 者総数は約420万人だった。そして時宜を得た(結果的に)ことに,景気大崩壊の1921年7月迄には,ぐ んと増加して,約1,108万人が被保険者となっていた。この時グレート・ブリテンだけでも200万人弱が失 業していた。20年代後期には被保険人口はほぼ1,200万人で,どの月をとっても失業率は8.6%,失業者数 は100万人を下回ることがなかった。1921⊖30年(第一次不況,1926年の大混乱,1930年後半からの第二次 不況の一部を含む)では,被保険者の平均失業率は12.2%だった。  上の数値を,戦前の数値と正確に対比させるのは難しい。参考材料は以下の通りである。なお,労組加 盟者は保険対象となる。 時期(景況) 平均失業率 失業率推計対象 1880年代(多難) 1900⊖13年(80年代より遙かに無難) 1922年(多難) 1925年(20年代としては良い) 1923⊖25年(同上)  同上(同上) 1921⊖30年(通期では超多難)  5.3%  4.5% 27.0% 13.5%  9.9%(旧統計) 10.9%(新統計) 12.2% 限定された労組グループ  上記より広範な労組グループ 工学技術・造船・金属産業労組  同上 全労組  同上 総被保険者  以上の数値を見る際には,第一に1920年代に入ると失業保険制度が非熟練・臨時労働者など,失業しや すい労働者をカヴァーするようになったこと(もし保険制度が戦前にも十分普及しておれば,1900⊖13年 の失業率はもっと高く表示されたはず),第二に労働運動が伝統的に活発だった石炭・造船・工学技術の 労組では20年代の失業率が非常に高かったこと,第三にこれら労組は,失業にかんして律儀に申告してい たことを考慮すべきである。総合的に見て,仮に1880年から現在の制度が適用されていたとしても,80年 代の平均失業率(the average for the eighties)が7%を,1900⊖13年のそれが6%を,超えていたとは考え にくい。おそらく6.5および5.5%が妥当な値だろう。これらの仮定に立てば,20年代総失業率のほぼ半ば(約 6%)は,戦後の特殊事情に帰せられ得る。20年代の工学技術と造船の最悪失業率が過去最悪率の2倍に なっていることは,この仮説を裏付ける。  20年代中期・後期の平均的労働者は,就業時なら1914年7月に比べて,おそらく生活が楽だった。非常 に多数が明らかに楽,別の多数が判断微妙,特定の重要グループが明らかに苦しくなっていた。これら3 グループの平均をとっても,さほどの意味はない。戦後好況末の鋭角的な物価下落の後,ほぼ完全に定常 的な賃金率状況とかなり定常的な物価状況とが,1921⊖22年に始まった。公的推計による生計費は次の7 年間,1914年7月のそれをほぼ70%超えていた。この推計は,税率が異常に引き上げられたタバコとビー ルの負担増を考慮していない。また,強制的な新規の保険料支払い負担も含んでいない。したがって20年 代中葉に,1914年7月に比べて80⊖90%程度以下にしか賃金が上昇していない人々は,最近の状況に不満 だったと想定して良い。  幸い,重要で大規模なグループは,この不満ケースではなかった。1925⊖29年には,稼得額階層の底辺 で,建築,ドック,ガス・電気業の労働者達が鉄道業の非熟練労働者と共に,1914年7月に比べて80%ほ ど高い(工学技術,農業の場合),もしくはほぼ100%或いはそれ以上に高い(建築,ガス,ドック等の場 合)賃金を支払われていた。鉄道労働者は全体の中で最も恵まれていた。彼らの中には150%近い賃金上 昇を享受している者も居た。非熟練・半熟練労働者グループで賃金上昇率が生計費上昇率以下の者が居た のは,造船業と鉱業だけだった。

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 これらの業種が,関連の深い工学技術業と金属産業と共に,熟練労働者にトラブルの核心を供給した。 繊維については簡単には叙述できないが,羊毛では対1914年で80⊖90%,綿では65⊖70%の賃金上昇だった。 1926年の鉱山業では,労働者達は前年に全ブリテンで一交代当たり(per man shift)62%(対1914年6月) しか上昇していなかった賃金を何とか維持するべく戦っていた。この数値は,鉱山労働者の生活が闘争前 に既に悪化していたことを示唆していて,極めて重要である。彼らは闘争に敗れ,1928⊖29年には一交代 当たり僅か43%の賃金上昇(対1914年)を甘受せねばならなかった(この間,生計費は65%上昇)。あら ゆる種類の工学技術労働者,造船業労働者達も同様の状況にあった。彼らの誰も1923⊖30年には,50%(対 1914年)を超える賃金上昇率を獲得できなかった。  賃金状況が最悪だったのは,縮小しつつある人員過剰な産業(綿,石炭,多くの工学技術,造船)だっ た。縮小は世界市場の状況に関連していた。鉄道事業への需要も縮小しつつあったが,鉄道サービスは海 外に売る必要はなかった。賃金が良かった多くの他産業と同様,当時で言う保護産業だったのだ。羊毛は 海外市場への依存が相対的に軽い分だけ,綿より幸せだった。綿は海外市場に極度に依存していたので, 最悪状況はまだ先に待っていた。工学技術や造船,石炭の長期展望は綿より良好だった。実際30年代初期 に,工学技術産業では賃金が上昇しようとしたが,綿では下落傾向だった。  産業上の最下層は,相対的に最も高い賃金上昇率を確保したばかりでなく,失業保険制度(拠出しなかっ た場合でも拡張適用があり得た),賃金審議会による賃金規制(苦汗制度のリスクがある産業で急速に普 及),今なお生き残っていた救貧法等によっても恩恵を受けていた。従来彼らは失業の災厄に最もさらさ れ易く,労組加盟によってそれに備えることも極度に困難だったが,今や種々の補助金が期待できたし, それら補助金は熟練労働者達の場合に比べて,日頃受け取っている安い賃金に比較的近かった。ちなみに ロンドンの平(ひら)のドッカー達や,マージーサイドのアイリッシュ労働者の場合,救貧法で補助され ることは,他地域の労働者達と異なって,屈辱ではなかった。  ロンドンでは,これら下層労働者が最も広範に存在したが,ロンドン諸産業は,この時期の苦境産業で はなかった。1927⊖29年(景況良好)のロンドン失業率は,1913⊖14年(同じく良好)のそれとほぼ同水準 だった。ところが全国を採れば,1927⊖29年の失業率は1913⊖14年の2ないし3倍だった。この結果,C. ブー スが1892年に「貧困」および「極貧」と分類していた社会最底辺層の地位は大いに変化していた。主たる 変化は1908⊖11年の年金と散発的な失業保険で始まった。1918年以降はいっそう大きな変化が続く。『ロン ドンの生活と労働,新検証』(The New Survey of London Life and Labour)は1930年に「『貧困水準』以下の

生活の最も恐るべき様相は大部分除去された」,もはや「貧困者」と「極貧者」が「死の谷の崖縁にぶら さがっている」と考える必要はない,失業がロンドンより遙かに深刻な場所でも,彼らの比較的良くなっ た賃金と,失業の際に期待できる援助とが,死の谷への保護柵を提供した,と記している。  世論は,比較的景況の良かった20年代後期にすら何万人もの熟練労働者達に仕事の場がなく,若者には 全く職がないような地域や産業に,当然のことながら最も関心を寄せていた。1925年,大工・指物師労組 の失業率は2.2%という低水準にあったが,工学技術・造船・金属業の総失業率は,前頁表のように13.5%だっ た。1927年6月,失業保険加入労働者全員を対象とした失業率は8.8%で,これがこのディケードのほぼ 最低値だったが,ロンドンでは5.1,南東部では5.7,北東部では12.3,ウェールズでは18.0%だった。ウェー ルズではその後10年間,事態は更に悪化する。石炭・重量金属工業を放棄して村や町の過半の人々が失業 しているという深刻な問題が,現れ始めていた。将来を考えれば廃山を選択すべきような炭鉱や,それに 準じるような地域や産業があった。しかし,その再建や新規事業の招致を検討する動きは遅々としていた。  取り組みが遅れたのは,20年代の大半の期間,問題の性質が殆ど認識されていなかったこと,最終段階 に比べれば問題自体がまださほど切迫していなかったこと,による。古くからの安全弁だったブリテン移

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民は,当初はまだ機能していた。1920⊖21年には,欧州以外の国々への移民がネットで29万2000人も居た (ちなみに1913年単年のネット数値は24万2000人)。その後の年平均ネット数値は10万8000人,1929年数値 は9万3000人だった。このように漸減傾向にはあったが,1929年のアメリカ経済崩壊までは,ブリテンの 対外移民がゼロやマイナスになることはなかった。しかるに1932年には,英領諸国から逆に4万9000人の 移入民があったのである。もはや安全弁は機能していなかった。  深刻な問題は30年代に顕在化するが,それを準備したのが20年代だった。20年代は社会保険の普及と炭 鉱夫達の地位回復への漠然とした信念(組織力や威嚇などで何とかかつての地位を取り戻せるだろうとい う)のために問題への取り組みが遅れたのだ。社会保険が活動力の鈍い人々の「やる気」を失わせ,従 来の就業場所や産業に安住させる傾向を育むことは不可避である。なぜ移住や移民を考える必要があるの だ?というわけである。こういう考えを持っていたのは,失業者ばかりではなかった。  移住や移民も多少はあったが,不活発だった。あった場合でも,町にはやる気のない労働者や老齢者だ けが残る結果となった。ウェールズでは出生率が死亡率を上回っていたので人口はまだ増えていたが,被 保険者の数(就業者および失業者)は1923⊖29年間に2.5%だけ減っていた。スコットランドではウェール ズほど産業上の打撃は大きくなかったが,それでも石炭と金属産業のトラブルで状況は厳しく,被保険者 人口はこの間1.6%増にとどまっていた。他方ブリテンおよび北アイルランド全体では,被保険者増加率 は8%,ロンドンでは13.6%だった。1930年以降の対外移民の途絶えと共に,被保険者はどこでも少し増 えていた。そして1933年1月まで,失業者は被保険者数と共に増えていた。尤も1世紀に亘る対外移民動 向の逆転は,失業者増加要因のほんの一部にすぎない。 (福利向上の検証)  上記のような諸状況にも拘わらず,1908年以降(特に戦争以降)の新社会政策開始以来,ブリテン賃金 稼得者にもたらされた福利改善は,看過できない。福利が最も改善された非熟練・半熟練労働者は,社会 の多数派だった。保護産業に居た者が得をしたという漠然とした不公平感はあっても,彼ら非熟練者達が 社会の非常に重要な部分だった事実は否定できない。  確かに戦時の住宅建築停止と戦後すぐに始まった人口シフトは,一時,多くの場所で法外な家賃や過密 をもたらした。しかし戦争直後の数年の不可避的な混乱と過密の後は,人々の住宅事情がかつてよりも悪 くなったという言は聞かれなくなった。政策の混乱や政治的泥仕合を経て,住宅建築は前進した。1922年 にすら,ブリテンで11万9000戸の新住宅が建設された。1924年迄には,補助金の付かない民間住宅が,地 方自治体の補助金付き事業や政府補助金付き住宅(1919⊖21年に開始)を補完するものとして登場していた。 このとき,建築コストは法外に高かったのである。1926年以降は,年平均の新住宅建設が21万5000戸を超 えていた。1929年末迄には,10年間の総計が138万2000戸となっていた。この内ちょうど₁⊘₃が公的補助な しで建設されていた。  国全体として見た場合,種々の統計や非統計的な材料が,1920⊖22年の厳しい不況や特定産業・地域で の長期トラブルにも拘わらず,平均的な福利水準が上昇していることを検証している。ちなみに古くから の統計的検証の中には,有用性を失っているものもある。例えば,今日,公的補助と呼ばれている膨大な 金額(19世紀の救貧補助)については,拠出側でも受給側でも益々その心構えが出来ていて,昔と異なり, 社会の健康状態を測る手段ではなくなっている。また,昔で言う「奢侈」的な消費-砂糖,茶,タバコ- については,1913年数値がアイルランド(基準が異なる)を含んでいるので比較が不正確になるとは言え, 1913年と1929年との間に,1人当たりの茶の消費量はほぼ50%,タバコ消費量も50%以上,上昇している のである。  より直接的な検証が,更に確実性を増すだろう。労組の留保基金は,特に興味深い。1919⊖20年の高賃

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