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ハイデガーと権力の問題

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Academic year: 2021

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ハイデガーと権力の間題

      的場哲朗

﹁テクストを読もうじゃないか﹂︵ラクーーラバルト︶   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 5

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   序、哲学と政治

哲学と政治の関係を物語る、

 ヘラクレイトスのエピソード

次のような興味深いエピソードが伝わっている。  ﹁そして彼はエペソスの人々から法律の制定を求められたが、その国がすでに悪い国政によって征服されていたた め、その要求を軽蔑した。それから彼はアルテミスの聖域へと退いて、子ども達とサイコロ遊びをした。するとエペソ スの人々は彼のまわりに立った。そこで彼は彼らに向かって次のように言った。﹃悪者諸君、何で君たちはびっくりし        ポリス ているのかね、それとも、こんな遊びをすることよりも君らと一緒に政治に与することの方がましだとでもいうのか    ユロ ね。﹄と。﹂ エピソードの主人公の名前はヘラクレイトス、古代ギリシアの哲学者である。彼は小アジアのエペソスで法律の制定

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を求められた。しかし、国政はすでに乱れている。そんな現状を見て彼は馬鹿らしくなったに違いない、そこにいる大 人達を軽蔑し、子ども達と聖域でサイコロ遊びに興じる。話の筋はそんなところである。いつの世も政治は汚辱に満ち ている。哲学者たる者、政治とは無縁の高潔な、それこそ︿子供のような純粋無垢な世界﹀に生きるべし!そんな風に ヘラクレイトスは思ったに違いない。問近に政治の混迷を見ている私たちとしてもヘラクレイトスのこの嘆きは他人事 とは思われない。いや、大いにエールを送りたいところでもある。  ところで、この同じエピソードをマルティン・ハイデガーが引いている。これを引くのは、一九四三年のフライブル       ハ ロ ク大学夏学期講義﹁ヘラクレイトス﹄︵=段農野︶である。あの、後に︿ナチス関与﹀という悪い噂がされる︿学長辞 任﹀が一九三四年三月であるから、ちょうど十年後の講義ということになる。  ハイデガーも、ヘラクレイトスと同様に、政治の喧燥にほどほど呆れかえり、純粋無垢な子供の世界に生きたくなっ たのであろうか。一九三八年から四十年の間に執筆された遺稿﹁真有の歴史﹂︵∪一ΦOΦωo巨畠9α8ω身霧︶では、﹁そ して結局彼は人問達を侮蔑し、俗世の道︵α震篶目α器詩ひq︶を去って山に生きた﹂という一文まで付け加えられてい

 政治の喧曝を去って純粋無垢な子供の世界に生きる。実際、ハイデガーの伝記を探ると、彼は、ヘラクレイトスにあ やかったのか、あの事件以降、田舎に引き籠っている。ついでながら一言書き加えると、最後に引いた一文にある﹁俗 世の道﹂をドイツで書くと、αR篶ヨ①ぼΦ諄磯となっている。ドイツ語のニュアンスをそのままに生かして訳せば、 ﹁普通の道﹂、﹁粗野な卑しいやり方﹂、﹁共通の方法﹂といったニュアンスが含意されている。とすると、ハイデガーは ただ政治を捨てただけではなく、普通の思索の仕方、世俗の人間たちが一般に行っている粗野な卑しい考え方  も

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ちろん彼からすれば、伝統的な哲学的思索も入ってこよう  、そうした普通の道を一切合切捨て去って、純粋素朴 に、︿まったく独自な思索の道﹀を切り開こうと決意したことになる。またしても、ヘラクレイトスの伝承が言うよう       パ ロ に、﹁闇の人﹂︵U閤認︾討︶として、﹁どんな人よりも気有高逼で、また侶傲﹂︵U昏N置︶に生きていこう、と。とは いえ、この、﹁そして結局彼は人間達を侮蔑し、俗世の道を去って山に生きた﹂という一文は後に編集者が注釈中に加 筆したものらしい。︵ということは、ハイデガーはこの一文を意図してカットしたのであろうか。︶  詮索はそこまでにして、もう一度冒頭のエピソードに戻ることにしたい。ハイデガーはこのエピソードに次のような コメントを付けている。   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 7

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 ﹁だからこそヘラクレイトスに言及すると、元初的な思索、すなわち真有の歴史について本質的なことが言い示され る。ただしこれは、ひとがヘラクレイトスを︿伝記的﹀に、とりわけ︿史学的﹀に︿読ん﹀で理解するのではなく、歴 史的に経験する︵鵯零匡9岳9R♂ぼ窪︶と仮定してのことであるが。﹂︵G 。o 。︶  ﹁原初的な思索︵鼠ωき騰ぎ鷺o箒UΦ鼻窪︶﹂ないし﹁真有の歴史﹂とはハイデガーの後期哲学の核心部分である。と すると、ヘラクレイトスに言及すれば、ハイデガーの後期の思索、つまり﹁原初的な思索︵鼠のき建渥日箒U窪ぎp︶﹂ ないし﹁真有の歴史﹂の核心部分が言い示され、理解されてくるということになる。やはり、あのエピソードは彼の哲 学を理解する上で重要な意味を持っていたのである。  しかしそうなると  もう一度あのエピソードに立ち戻ろう  、ハイデガーはやはり政治の問題から児戯に逃げ込

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もうとしたということであろうか。とすれば、政治の問題は彼にとって大きな痛手ということになり、哲学は児戯、つ まり子どものサイコロ遊び程度にすぎないことになってしまいそうであるが、それで良いのであろうか。仮にそうだと したら、いったい児戯に等しい哲学とはどういうことを言うのであろうか。  たしかに、ヘラクレイトスの伝記をそのままハイデガーに重ねてしまえば、哲学は児戯に等しいということになって しまう。もちろん、それはそれとして、二ーチェの三つの変身ではないが、﹁子供は無垢である。忘却である。そして ひとつの新しい始まりである。一つの遊戯である。一つの自力で回転する車輪。一つの第一運動。一つの聖なる肯定で ある。そうだ、創造の遊戯のためには、我が兄弟達よ、聖なる肯定が必要なのだ。﹂と彼の姿勢は肯定的にとれなくも  ハ ロ ない。しかし、ひょっとしたら、政治から見ると哲学など児戯に過ぎないと見えるかもしれないが、児戯、すなわち哲 学彼の言う﹁元初的な思索﹂から見ると、むしろ政治の方が児戯にすぎない、ということはいえないのだろう か。もしかしたら、ハイデガーはそんな風に示唆しようとしているとはいえないのだろうか。もしかしたら、彼は政治 の問題から逃避するどころか、むしろ、哲学の世界から本格的に政治との格闘︵!︶を始めようとしたとは言えないの であろうか。もちろん、そのためには、この引用にハイデガーが付けたように、﹁ヘラクレイトスを⋮歴史的に経験す る﹂ことが必要となる。  以下、著作集六十九巻に収められた遺稿﹁真有の歴史﹂を手掛かりにしてハイデガーの政治論、とりわけその権力 ︵三8騨︶論を詳述することにしたい。

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  場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 91 1

    一、ハイデガーと政治の問題

 いったい、ハイデガーの政治論、とりわけ権力について論じることにどのような意味があるのであろうか。  このように問うことはそれ自体無意味であると、そんな誹りを浴びてしまいそうである。というのは、ハイデガーく らい政治のスキャンダルにまみれた哲学者も他にそういないからである。  たしかに、ハイデガーについては様々な政治的スキャンダルがまとわりついている。彼の盟友ヤスパースは﹃哲学ヘ       ハ レ の道﹄の中で、﹁彼の講演形式は傑出したものでしたが、その内容はナチス的な大学改革計画でした﹂と述べており、 彼の弟子のカール・レーヴィットも、﹁彼が学長として発布した選挙の呼びかけは、まったくナチズムの文体で書かれ        ハクロ ており、同時に、ハイデガー哲学からの一般向け抜き書きである。﹂と述べている。もう一人の弟子ハンス・ヨナス は、﹁深遠な思想家丁ハイデガー︺が、褐色シャツ大隊丁ナチス親衛隊︺の怒涛の行進に歩調を合わせようとした 時、彼個人に幻滅しただけでなく、哲学の敗北すら私の目に映ったのであった。そこでは一人の人問ばかりか哲学もダ       ハ ロ メになった﹂と嘆いている。その他、彼とナチスとの関係を伺わせる証言は数限りない。  周知のように、この問題はファリアスの﹃ハイデガーとナチズム﹄によって世人の注目を集めるところとなった。 ファリアスは次のように述べている。  ﹁私の中心テーゼを総括すると次のようになる。マルティン・ハイデガーは、長い準備期間を経た後に、ナチ党に入 る決定をした。⋮ハイデガーのナチ党への入党はその場しのぎの日和見主義あるいは戦術的な考慮からなされたもので

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は決してなかった。フライブルク大学の学長を引き受けるはるか前から、そしてまた学長として、        パ レ としては完全に、彼は政治的口実践的にナチズムの理念に沿って行動していた。﹂ かつナチ党の支持者  ファリアスは様々な資料を駆使してハイデガーのナチス関与を糾弾する。もちろん、こうしたファリアスの姿勢それ        ヤ  ヤ 自体に文句を言うつもりはない。しかし、哲学者を糾弾する場合、何よりもその哲学者の哲学を問題とする必要がある のではないだろうか。つまり、ハイデガー自身が政治、とりわけ権力についてどのように考えていたのか、その哲学の 中で政治や権力といった問題がどのような意味を持ち、どのような位置を占めるのか、そういった問題を解明すること なくして哲学と政治の結びつきについて論じることができるのであろうか。その点から言えば、ラクーーラバルトの ﹃政治という虚構﹄の次の指摘はまさしく正鵠を得ていると思えてならない。  ﹁ハイデガーの政治参加は、彼の思索と絶対的な一貫性をもっている。そして︿政治的なもの﹀と︿哲学的なもの﹀ の絡み合いはたいへん強固なものだったので、実際上、講義全体が国家−社会主義との︿対決﹀にあてられたのであっ ハルロ た。﹂        ハロレ  ラクーーラバルトはハイデガーの﹁テクストの厳密な読解﹂を目指し、﹁その最後の結論に至るまでハイデガーとと      ハレロ もに歩むこと﹂を志す。つまり、ハイデガー哲学に深く沈潜しながら彼の政治哲学を解明していくのである。当然なが ら、ファリアスの﹃ハイデガーとナチズム﹄に向かっては、﹁ハイデガーのテクストはこの本では端的に読まれていな

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  場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ ハ 21 1 パおレ い﹂と避難する。  そしてラクーーラバルトは、﹁ハイデガーに政治的な言説があるとすれば、それは紛れもなくヘルダーリンについて          ハき       ハゑ のテクストの中にある﹂と結論する。この結論自体は彼の﹁ひらめき﹂であったらしい。この﹁ひらめき﹂が正しいの か誤っているのか、その判断はさしあたってここでは差し控えることにする。その理由は、彼の主張する、﹁テクスト         ハおロ を読もうじゃないか﹂という姿勢に大いに賛成したいからであり、彼のこの姿勢は依然として正しいと判断するからで  かレ ある。しかも現在、すなわち、彼の﹁ひらめき﹂時代とは異なり、ハイデガーの著作は膨大に出版されている  もち ろん、ラクーーラバルトであれば、﹁ハイデガー全集の出版の仕方が仕方ですから、テクストの読みがきわめて怪しげ        ハほロ なものにならざるをえない﹂と危惧を懐くかもしれないとしても。  私たちも、ラクーーラバルトの姿勢に倣って、ハイデガーのテクストを厳密に読むことによって彼の権力哲学を究明        ヤ  ヤ  ヤ     ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ することにしたい。いったいハイデガーにとって権力とはどのような意味を持つのか。これこそ私たちの最大関心なの である。そのような問題意識に立つとき、彼の遺稿﹁真有の歴史﹂がきわめて重要な意味をもってくる。というのは、 ハイデガーはこの遺稿の中で権力について主題的に論じているからである。したがって本論は、﹁第六十九巻、真有の 歴史﹂を中心に置いて彼の権力哲学を究明することにしたい。 一一、真有の歴史と政治 ところで、遺稿﹁真有の歴史﹂を精緻に読むと、ファリアス等が糾弾する、ハイデガーの政治姿勢とはまったく違っ

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た権力︵蜜8辟︶論が展開されていることに気付く。  彼は、﹁政治的11実践的にナチズムの理念に沿って行動していた﹂どころか、むしろ実際的な政治問題には ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ 一切無関係に、形而上学の歴史の中から権力そのものを徹底的に批判しているのである。ラクーーラバルトが先の引用 で述べていたように、ハイデガーの関心はむしろ﹁国家−社会主義との︿対決﹀にあてられた﹂のである。何はともあ れ、彼の言葉を引くことにしたい。  ﹁︿権力﹀は︿政治的﹀諸考察や諸態度決定や諸党派活動の枠組みから即刻取り出されるべきである。︿権力﹀の本質 はただ形而上学的にのみ問い質されうる。﹂︵$●ま︶あるいは、別の引用をすれば、﹁私たちは権力そのものの本質を思 索する、すなわち、権力を有︵ω①営︶として理解する⋮﹂︵o 。一︶。  いきなり﹁形而上学﹂や﹁有﹂といった哲学的な抽象概念が飛び出し、読者は面食ってしまうかもしれない。そこで これをあえて具体的な言葉に置き直してみると、ハイデガーは、権力を西欧の歴史の流れ  彼はこれを形而上学と呼 ぶ  から基礎付け、権力と形而上学の結びつきの必然性を解明し、こうした︿権力−形而上学﹀からの︿真の克服﹀ の道を探ろうというのである。簡単に言えば、ハイデガーは権力を生み出す西欧、とりわけ近代のパラダイムを究明し ようとしているのである。  とすると、ハイデガーの権力論をどのように読むべきかという方向性も見えてくる。それはまず、彼のテクストを精 緻に読むことによって、そのパラダイム批判論とやらを解明するということなのである。

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ここでまた彼の言葉を引くことにする。   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ ハ 23

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       ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ﹁本書の、権力の本質を規定する様式と見通しは狭量な、歴史学的な考察様式や政治学の考察様式からはとらない。 ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ 決定的なものは、真有に即した歴史の思索の中からのみやって来るのだ。すなわち、問いの提起は、此処彼処で直に見 出される︿現象﹀といった︿権力﹀から出発して権力の本質を境界づけることではない。そうではなくて、思索はすで に、有を問い質す歴史の中からやって来ており、思索はこの歴史の中で、有が現実性に、自己表象的な作用︵主観性︶ に、知的な意志に、そして結局的には︿権カヘの意志﹀になるということを経験し、そして有がどのようにしてそのよ うなものになるのかを経験することである。権カヘの意志は有るものについての︵形而上学的︶真理の完成として、し たがって有として思索されなくてはならない。そのように思索されてのみ、権力への意志の中で権力の本質が有として どのように思念されるのかが認識されるのである。﹂︵8\認、傍点は翻訳者︶  権力の本質を既成の歴史学や政治学の枠組みからではなく、存在論︵蛙形而上学︶   ﹁真有に即した歴史の思索﹂   の中で究明しようというのである。そうすれば、有が歴史の中で主観性の中に取り入れられ、最終的には権カヘの 意志の中に飲み込まれていく様が明白になり、それによって、そうした権力への意志の中で権力の本質がどのようなも のになっていくのかが解明されてくるはずだ、とハイデガーは主張するのである。  それにしても、なぜ既成の歴史学や政治学では権力の本質は究明されないのであろうか。なぜ、︿権力﹀の本質は形 而上学的にしか問い質すことはできないのであろうか。

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﹁八十五節、歴史学﹂の断片にその理由が次のように書かれている。  ﹁歴史学は過去のものを現在に向かって決済するが、そのやり方では、現在は依然として将来のないままに留まり、 現在に向かって転換しながら  現在の本質を的確に言い当てながら  到来する可能性のあるもの︹11将来︺を何 も許容しないことになる。︿将来﹀として許されるものは、あらかじめ1計算されたもの、すでに確実になっているも の、したがって、そうしたものを誇張した︿永遠なるもの﹀である。  過去のものの決済は、過去のものについての知る価値を、現在の諸尺度と諸表象とに照らして、表象的に分配するこ とである。こうした決済は、現在的なものを整理して操縦する計算には役立つ。過去のものの決済は、したがって、同 時代の人々を、彼らの︿関心﹀を満足させるものに馴致することになる。その︿関心﹀それ自体がどこまで及ぶかとい えば、その都度続いている現在が有るものの有から遠ざけられ、成長していく自己確信とその形成とに巻き込まれる範 囲でしかありえない。  過去のものの決済、つまり史学︵田ω8旨︶とは、機械的なものによって駆り立てられないものについての技術であ る。この技術はそれ自体︿政治﹀によって駆り立てられている。すべての史学は︿政治的﹀であるが、それは、史学が 優れて︿政治的﹀諸事象をみずからの対象にしているという外的な意味で言うのではなくて、史学が、自己確信に向 けて馴致された︿生﹀の全体計画に  意識があろうが、予感がなかろうが  役立ち、そうした全体計画の駆動装 置の中に組み込まれているからなのである。︿文献−史学﹀も技術的ー政治的であり、大胆にその都度歴史への関係を 試みるといったことはできない。ひたすら︿諸作品﹀︿それ自体﹀を観察して説明しているように見え、どのような大

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きな目的表象︵安易に ︵一〇〇︶ ︿民族性﹀等々を狙ったりする︶を避けている場合でも、︿文献−史学﹀ は ︿政治的﹀である。﹂   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 5

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 既存の歴史学は、歴史を研究すると言っておきながら、過去を現在に向かって整理決済するだけであり、そこに自明 として前提されているのは結局現在支配的な尺度と表象に過ぎない。これでは真の意味で過去は見えてこないし、将来 も見えてこない。しかも彼らは何よりも  意識しているか意識していないかは別として  政治的である。ハイデ ガーはこんな手厳しい歴史学批判をする。﹁本質において歴史学は歴史とは無関係であり、歴史は歴史学によって概念 把握されることはけっしてない。﹂︵一8︶  同時にここからハイデガーの歴史論の意図が浮かび上がってこよう。  それは、﹁現在の諸尺度と諸表象﹂に照らして過去を﹁表象的に分配する﹂のではなく、むしろ現在と過去と将来と を等しく見渡すことのできる﹁元初︵霞きひq︶﹂に立ち返り、歴史を丸ごと根本から意味づけ、位置づけし直し、基礎 付けしようというのである。しかしこれは言うのは易しいが極めて困難な試みであるといえよう。はたしてそのような ︿元初の立場﹀に立つことは可能なのであろうか。そもそもそのような﹁元初﹂などあるのであろうか。  そのように問われると答えに窮するが、ハイデガーはそのような﹁元初﹂として古代ギリシア人の︿自然11真理旺有 の経験﹀︵H真有3ω留旨︶を想定する。自然が、有るもの︵人間の意図︶に一切遮られることなく素直にそのまま輝 き出てくるような根源的な経験である。﹁︿元初﹀はみずからの中に真有の尽きせぬ秘密を秘める。元初だけが元初を想 起でき、そして言葉にもたらすことができるのである。﹂︵⑩o 。︶そのような古代ギリシア人の有のみずみずしい、生き

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生きとした根源的な経験も、しかし、いつしか西欧の歴史の中で忘れ去られ、いつのまにか、有るものだけが支配する 物質世界︵形而上学︶に置き換わっていく、しかもこの物質世界の基礎には人間の主観性︵権力欲”支配欲・権力への 意志︶がぎらぎらと目を輝かせるようになっていく。つまり、歴史とは、彼によると、根源的な有を忘却して人間の権 力欲に置き換えられていく、つまり権カヘの意志に向かっていく過程なのである。みずみずしい有が拒絶・隠蔽され、 むしろ有るものがしゃしゃり出で支配してくる歴史︵目形而上学の歴史︶なのである。  別の言葉を使えば、歴史の中で変化変容していく諸々の事件や諸々の事物の歴史ではなく、そうした歴史の変化変容 の中で忘れ去られていった真有の原体験を掘り起こし、この原体験からその都度の時代の意味を省察し、位置づけ直し ていこうということなのである。そうすれば、現在という時代が、どれほど元初から離れて歪にゆがんでいるかも見え て来るであろうし、私たちの将来というものもそこからうかがい知ることができるに違いない。そのように彼は考える のである。彼の歴史論の主役は歴史の上に登場してきた諸々の事件ではなくて、むしろ歴史の発展の中で置き忘れ、忘 却されてしまった根源的な真有の姿であり、そのように置き忘れられ、忘却されてしまったという意味では、私たち現 在人もどこかでハッと思い起こすことができるような根源的な自然目覆蔵なきもの目有の経験なのである。  ﹁真有の歴史は真有の本質であるが、本質とは本質活動であり、この本質活動こそが元初的に歴史の核心をなすもの ︵毛霧080霞o窪巴εである。﹂︵屋①︶あるいは、﹁歴史とは真有の真理の本質活動で有る。﹂︵㊤o 。︶          ヴエ ズンク ﹁真有は自分の真理の本質活動の中で歴史の本質を贈与する、 歴史は、その本質に関する限り、真有の歴史である。

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 そのように述べるからといって、歴史は真有による策動であり、この策動によって世の中の諸々の事件が解き放たれ るのだと見なされてはならない。歴史というものは元初的にずっと真有の所有物なのである。真有が比類のない仕方の 関係を調律︹規ー定︺しているのだ。歴史は真有によって本質現成化されるのであり、真有はこの本質現成化の中でみ ずからをみずからの真理へともたらすのである。  だからといって、真有は︿絶対者﹀、つまり︿もっとも普遍的なもの﹀ではけっしてないし、最高のものでも最低の ものでもないし  こうした慣れ親しんだ、すなわち形而上学的見方のどれによっても算定されえない。  端的に比類なきもの、どのような関係によっても言い当てることのできないもの、それゆえ本質において切り1離さ       アプヒ ソ ル ト ゥ ム れ、そのような意味で切り1離されてあるもの、絶ー対的︹では有る︺が、しかし最高のものでも、もっとも価値の低 いものでもなく、ただ唯一無比に真有の本質から出たもの︹で有る︺。﹂︵㊤R︶   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 72

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 言うまでもなく、歴史学はこのような﹁真有﹂を前提にしないし、歴史をそうした真有の本質活動とも考えない。 ﹁歴史は、︽歴史学的︾には、けっして経験されえないし、ましてや︽思索︾されえない。元初はただ元初的に、元初       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ に立ち戻って思惟されるべきであり、みずからの由来︵=の蒔巨陣︶であるまさにそのような覆蔵︵ぎ3Φお巨磯︶にも とづいて思惟されるべきである﹂︵器①︶﹃六十七巻、形而上学とニヒリズム﹄の言葉を引けば、﹁こうした、歴史学的 に見られた︿形而上学﹀からは真有の歴史としての形而上学の本質に至る道はない。むしろ逆なのである。真有の歴史 は真有の真理を問い質すことによって初めて経験可能となるのだ。そしてこの問い質しはそれ自身真有から出来する。﹂ ︵零\認︶

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 真有から見る歴史とは何か。 れるのであろうか。 その詳細はしばらく置くとして、そうした真有の歴史から権力はどのように解明さ     一二、権力とは何か。  ハイデガーの真有の歴史からすると、権力はいったいどのような意味をもつのだろうか。 彼が﹁権力﹂︵寓8げ窪︶と呼ぶものは実際の政治勢力ではなくて、近代的な形而上学を根底から支える ︵蜜8ぽ窃3聾とである。  ﹁権力機構とはここでは、すべてのものを作り、作り上げる、有るものの作為可能性を意味しており、 の中ではじめて、真有から見放された有るものの有るもの性が規定されるのである。﹂︵8μ①︶ ﹁権力機構 この権力機構  権力機構とはすべてのもの  政治も経済も建築も歴史学も  を作り上げる根本動性であり、有るものはすべてこ れによって統御されているのである。簡単に言えば、権力機構とは、近代社会を根底に支えている根本動性、つまりは パラダイムということなのである。こうしたパラダイムを﹁有そのもの﹂と言い換えると、権力とはすべての有るもの を有るものたらしめる有そのものであると言い換えることも出来る。

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 ﹁権力には担い手は不要であり、そもそもそうしたものをもつことなどありえない。なぜなら、権力はけっして有る ものではなく、どこそこで確定したり表象したりできるものではけっしてないからである。権力とは、それぞれ違った ︹形で︺覆いを剥がされた有そのもので有り、どのような有るものもこの有の中で︵有効的なるものという仕方を持っ て︶  洞察できようができまいが  揺れ動いているのである。権力としての有が有るものを単なる有効性︵力、暴 力等々︶の中へと解き放つのであり、まさしくそのように解き放つからこそ権力は無制約的な権力なのである。﹂   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ ハ 29 1  権力にはその担い手がいるわけではなく、むしろ一切のものを担う有そのものである。有るものではない以上権力に ついて確定したり表象したりすることは出来ない。  それにしても、こうした権力機構はどのようにして生まれてきたのであろうか。人間が作り出したのであろうか、そ れとも”自然”に生まれてきたのであろうか。権力は真有自身が生み出した、とハイデガーは考える。それも、真有が おのれを覆蔵し、有るものを見放すことによって、真有の拒絶という貧困によって、生み出したと考える。﹁権力はた だ、有による有るものの見捨てに基づいてしかみずからの最高の本質を証明することはできない。これはすなわち、権 力の本質の無制約性がいかに決定的に根源有に依存しているか、そしてどのようなものも︵いかなる無よりも空虚なも の︶根源有がなければ有りえないということを言い示している。﹂︵臼︶  しかも、彼によると、こうした権力機構は西欧形而上学の最終形態であり、その﹁形而上学の最極端なもの﹂、した がって真有からもっとも離れたもの、真有を最極端に忘却したものだという。当然ながら、それは真有とは最極端に 対立する。というのは、真有は、これまでの説明からもわかるように、﹁すべての権力に対して本質的に他なるもの﹂

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03 1 1 2 ︵8︶であるからである。しかし真有は他なるものではあるが、すべては元初たる真有から出てくるものであり、権力 の本質も、その元初を辿れば、真有から生まれてくるものなのだ。権力とはつまり、﹁︹真︺有が、有るもの性という 非本質の中に最極端に解き放たれたもの﹂︵o 。N︶に他ならない。﹁権力の本質現成は形而上学の最極端なものである。﹂ ︵8︶  権力機構という、真有の最極端な解き放しに至ると、何が起きるのであろうか。こうした、真有の歴史から権力11権        ヤ  ヤ     ヤ  ヤ カ機構を考えるとき、どのようなことが具体的に見えてくるのであろうか。道徳と人種の問題を考えてみたい。  ﹁六十九巻、真有の歴史﹂の中でハイデガーは﹁権力と人種﹂とタイトルして具体的に人種︵寄ωωΦ︶思想について 言及している。  ﹁寄ωωo﹂というドイツ語は、仏英語の声8と同一の語であり、﹁種族﹂や﹁品種﹂といった意味もある。したがっ て、﹁人種︵匡窪零ぽ目器器︶﹂と訳語を当てることそれ自体、ある種の価値観を押しつけることになると思われるが、 ここでハイデガーが言及している寄ωωoは間違いなく﹁人種の思想﹂であると考えられる。もう一つ、O&き臣αR 寄ωωΦというドイツ語の召段﹂︵属格︶を﹁人種︹について︺の思想﹂と目的格に訳すのか、それとも﹁人種という思 想﹂と同格に訳すのか、判断に苦しむが、﹁どのような人種論にも最初から人種優位の思想が織り込まれている﹂と述 べられているところから推して、同格と取る方が適切な訳語だと考えられる。  当然ながら、ハイデガーは人種問題を形而上学の問題として理解し、政治の問題とはけっして考えない。 ﹁人種という思想が言い示そうとしていることは、人種の計算が︹近代形而上学の︺主観性としての有の経験から生

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じており、︿政治の問題﹀ではないということである。⋮人種思索の形而上学的根拠は生物学主義でなくて、 的に思索されるべき、有るもののすべての有についての主観性である。﹂︵ざh︶ 形而上学   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ ハ 31 1  人種という思想は人間を計算することであり、その意味で、他の一切のものと同様に、近代の主観性口権力機構に基 づいており、政治の間題ではないし、ましてや生物主義の問題でもない。生物学の観点から、人種優位論を論じたとこ ろでまったく意味がない。﹁生物学主義を反駁しようとするすべての試みの荒削りな思索について︹いえることは︺、し たがって、無駄︹の一言︺﹂︵自︶なのである。         ヤ  ヤ     ヤ  興味深いのは、道徳や法に対するハイデガーの主張である。  権力の横暴に対しては、当然ながら、世の人々から非難や糾弾がなされることになろう。しかし、ハイデガーは、こ うした非難や糾弾に対して、本来形而上学の問題である以上、そうした非難や糾弾が権力それ自体に届くことなどあり えないと主張する。権力というものは、真有の歴史の産物として、そうした現実の世界とはまったく別のところにある というのである。  ﹁有の本質としての権力が歴史的になるところでは、すべての道徳性と合法性︵零3岳畠ぎごは追放される、しか       ヤ   ヤ       ヤ   ヤ   ヤ   ヤ   ヤ も無条件に。権力は道徳的でも非道徳的でもない。権力は道徳性、法、掟の外でカを行使する。こうした領域の中で構 築され、守護され、堅く保持されているもの、この領域で求められ規範として措定されているもの、そうしたものはす べて権力そのものによって無条件に破壊される、しかもただ破壊されるだけでなく、破壊されたものの後には権力その

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もののほか何も出現しないのである。しかし、出現しないとはいえ、権力そのものは有としては把握できない無のよう な︹目に見えない︺仕方で有するのだから、すべての恒存するものや長く存続しているものに対する破壊はこのような 極端な形をとらざるを得なくなるのだ。﹂︵傍点訳者。8\ミ︶ 権力者に対する批判めいた言葉もある。  ﹁地球規模のめぼしい犯罪者はその本質上、権力の無条件的な権力強化に無条件的に隷属しているという点から見れ ば、完全に同じで有る。史学的に︹狭く︺制約され、表だって目立った区別しか見ないようでは、ただ犯罪性を罪のな いものに仮装するだけ、いやそれどころか、犯罪性を成し遂げたことを道徳的に必然的なものとして人類の︿関心﹀か ら説明するだけである。  地球規模のめぼしい犯罪者は最近になってはじめては可能になり必然的になったわけであるが、彼らの数を数える と、片方の手の指で数えられるほどにすぎない。﹂︵$\お︶  二十世紀を振り返るとき、二つの大戦や冷戦をはじめとして地球規模の大戦争があった。こうした戦争を通して、勝 者と敗者、優位と服従を巡る激烈な争いが繰り広げられてきたのである。もちろん、今でもそうである。絶え間ない権 力の地球的拡大こそ現代社会の時代的特色であるといえよう。現代とは地球規模で勝ち組と敗け組が鮮明に差別化され る不平等社会である。しかし同時に、都市の様子や生活様式や世界基準やコンピューター等の規格を見ればわかるよう

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  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ に、等形性・平等化が地球規模で徹底して進行し行く世界だともいえなくはない。そうした点から言えば、発展途上国 や異質な宗教文化からするテロはそうした同形性・平等化に対する反抗だともとれなくはない。私たちの世界は権力に よる支配が徹底的に進行すると同時に、﹁同形性﹂﹁平等性﹂﹁平均化﹂が地球的規模ですみずみに行き渡る時代でもあ るのである。   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ

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1  ﹁︿権力﹀というとどうしても、︿権力﹀の本質は優勢と支配とにひたすら突き進む、したがって服従にも、いわんや 抑圧にも突き進むという考え方に傾く。それによると、権力は不平等をもたらすというわけである。︹たしかに︺これ は、わたしたちが権力によって規定された有るものだけに目を向けている限り、当を得てもいる。しかし、わたした ちが権力そのものの本質を思索すると、すなわち、権力を有として理解すると、権力には︹むしろ︺本質的な等化力 ︵島①壌霧窪岳o冨9皿oげヨ零ゴ凝︶が、それも無条件的な意味で、帰属しているということがたちどころにわかってく る。⋮権力を増大するには、みずから自身の確実性を考慮するだけでも、できるだけ︿原理﹀を単一化することが必要 であり、その結果こうした、権力本質の単一化は権力の等形性、すべての権力拡大における平等性の強制を含むことに なる。それゆえ、権力闘争がいよいよ純粋に展開されるところではどこでも、⋮敵対する者同士相互にみずから自身と 完全に平等なものに変わっていくという事態が生まれてくる。﹂︵o 。H︶ では、このような権力に対して私たちはどのような態度をとったらいいのであろうか。 権力に対して権力で対決すべきなのだろうか。人知を集結して対応策を案出すべきなのであろうか。 しかしそんなこ

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とをするとまた同じことが、つまり人間の主観性という権力が繰り返されるだけのことではないだろうか。では、既成 のものを何とか組み直して、権力を乗り越える道を探るべきであろうか。しかし既成のもの、つまり伝統的な形而上学 をどんなに組み直してみたところで、権力は克服できるもではないであろう。なにしろ、権力は形而上学の極致であ り、形而上学そのものなのである。これまであったものをただ転換   ﹁転換させて繰り返すだけ﹂dヨ≦匹N巨鵬        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ だけでは歴史は何も変わらないといえよう。とすれば、必要なのは、根本的な、抜本的な変革である。すなわち、形而        ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ     ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ  ヤ      ヤ  ヤ  ヤ  ヤ 上学そのものを根本的に乗り越え、新しい始まり、すなわち別の元初を始めることである。  ﹁ここで必要なことは、本質的に別の基づけ、すなわち、将ー来による由−来︵歴史的由来としての︶の基づけであ る。要するにここでは、単なる進歩、すなわち転換かーそれとも、元初︵>畦き鵬︶の突如性かの選択しか残されてい ないのだ。この元初だけが、歴史の深遠としての、真有の本質の未済を耐え抜く。歴史はただ、その都度原初的に真理 の本質について決断されるところにしかないのである。﹂︵㊤①︶ ハイデガーは別の元初を選択することによってしか、権力を克服する道はない、と考える。

   四、結び  権力は乗り越えられるのか

このようなハイデガーの、権力に対する姿勢をどのように評価すべきであろうか。

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 消極的だと評価すべきであろうか。もう少し積極的な提言はないのか、もっと倫理的道徳的な提言があってしかるべ きではないかと非難すべきであろうか。それとも、事柄の大きさ︵何としても、形而上学なのだ︶からして、正直な、 むしろ大胆と表現してもよいような誠実な主張だと積極的に評価すべきであろうか。いや、ひとによっては、権力に真 正面から取り組むべきなのに、西欧の形而上学の歴史︵真有の歴史︶などという抽象的な深遠な哲学の世界に逃げ込ん でしまった。それは哲学の裏切りであり、思索の放棄ではないか、と非難するかもしれない。  もう一度ハイデガーの言葉を引こう。   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ ハ 35 1  ﹁権力は本質においてはただ権力を1必要としないものによってのみ克服される。みずからを本質の中に取り戻す有 そのものだけが、学知されない有の見放しの中で支配へと高まってきた有るものを崩壊させる。  権力が無を突いてはじめて、︹つまり︺権力がもはや反対者を作ることができなくなったときに、権力はみずからと みずからの本質との中で瓦解する。 有るものがもはや、有を︿正当化﹀しようとして  とはいえ、有の本質を無理やり手段に引きおろすに過ぎない のであるが  、みずからの効用と保持と高まりに訴えることができなくなったときに、権力は瓦解するのである。﹂ ︵$\ざ︶  ハイデガーはみずからを﹁思索する者﹂︵UΦ嘗震︶と呼ぶが、けっして哲学者とはいわない。伝統的な︵ある意味で は手垢のついた︶呼称を避けるためであるが、しかし、自分が取り組んでいる事柄の重大性からみて謙虚な、誠実な呼

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称だともとれなくはない。いったい、一人の思索者になにができようというのだろうか。  伝承されたエピソードによると、ヘラクレイトスはアルテミスの聖域へと退いて、子ども達とサイコロ遊びをしたら       ポリス しい。﹁悪者諸君、何で君たちはびっくりしているのかね、それとも、こんな遊びをすることよりも君らと一緒に政治 に与することの方がましだとでもいうのかね。﹂と、半ば呆れ、半ば諦めた姿勢で。  ハイデガーも、古代ギリシアのヘラクレイトスと同様に、子供の遊びの世界に逃避したのであろうか。しかしハイデ ガーはヘラクレイトスと同じ時代に生きているわけではない。彼は、ヘラクレイトスとは違い、西欧形而上学が最極端 に達した﹁権カヘの意志﹂の支配する時代、有るものがわがもの顔に支配する時代のただなかに住んでいるのである。 とすると、ヘラクレイトスと同じわけにはいかないであろう。とするとここに、﹁歴史的に経験する﹂という彼のキー ワードの意味も見えてくる。それは、有るものばかりが幅を利かせる現代において、真有の行方を、隠ぺいされ忘却さ れてしまった真有  ヘラクレイトスによれば、﹁真理は隠れを好む﹂ということらしい  を誠実に、真摯に見守る        パゆロ こと、いや断固として有そのものを決断することなのである。彼は﹁六十七巻、形而上学とニヒリズム﹂の中で次のよ うに述べている。  ﹁経験できるようにならねばならぬことは、有るものの優位の中で有によって有るものが見捨てられているという 事態、真理の根拠喪失、真理の本質の基づけの必要性⋮真有の空け開けとしての真理、すなわち真有の歴史﹂︵雪\㎝︶ に他ならない、と。当然そこには、断固たる決断︵国旨あ畠9身鑛︶が求められる。最後に思索する者としてのハイデ ガーの言葉を引くことにしよう。﹁真有の歴史に即した思索は諸々のなぞの解決も諸々の困窮に対する安らぎも作り出

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さない。それは真理の本質の中に切実な思いで立つことなのだ。 られるというのだろうか。﹂︵雪\o o刈︶ それ以外にいったい思索にどんな本質的なものが求め 次のハイデガーの著作集からの引用は︵︶内に頁のみを明記した。 ゆきまP9のOΦωo鼠o窪のα8の①春ωさ耳鼠o困o馨震ヨ餌口戸牢目さ旨弩匡鉱P一〇〇〇 。・ 次の二つの著作からの引用は︵︶内に巻数と頁を併記して典拠を示した。 野&Oρω①ωぼ昌轟、<鐸&o困o誓巽ヨきP等き堅訴聾ζ巴PおOo 。・ ゆきま凶匡の富9閉涛巨αZ一匡δヨ5≧律oま箆89門ヨ馨廿磐醇訂目ζ巴PHOOo 。。   場 的 ︵ 題 問 の 力 権 と 一 ガ デ イ 、 ノ 7

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1 注釈 ︵1︶ ︵2︶ ︵3︶ ︵4︶ ︵5︶ ︵6︶ ︵7︶ ︵8︶ ︵9︶ ︵10︶  山本光雄編﹃初期ギリシア哲学者断片集﹄岩波書店、一九五八、一九七五年一五刷、三〇頁。  ]≦畳ぎ=&①躇。目扇きα㎝㎝魯Φ声匡けHピ震ぎ団き閃α。ωぎΦ区一ぎ駐畠①pu①⇒犀①口の・b。、い。閃民浮声窪叶の写寓。<§い。晦。ω・<葺&。 困oのけRgきP写き巨旨馨霞鉱Pの﹂9  ζ畦旨浮一α。躇9ゆきま節∪一。oΦω。導幕α8ω。旨ω.Hg①のΦω&。窪&Φωω。網βp区。ぎ・■ぎ毘震○Φω象受&。ωω①旨9<鐸自一。 困02霞ヨ磐P響き堅旨騨日鼠巴Pψo 。o 。い  山本光雄、上掲書、三〇頁。  二ーチェ﹃ツァラトゥストラはこう言った︵上︶﹄岩波文庫、一九六七年、一九九四年第四五刷、四〇頁。  カール.ヤスパース﹃哲学への道﹄草薙正夫・林田新二・増渕幸男・宮崎佐和子訳、以文社、一九八○年、一九二頁。  カール.レーヴィット﹃ナチズムと私の生活ー・ー・仙台からの告発﹄秋間実訳、叢書・ウニベルシタス三二五、一九九〇年、法政大学出 版局、六二頁。  ハンス.ヨナス﹃哲学ー世紀末における回顧と展望﹄尾形敬次訳、東信堂、一九九六年、二六ー七頁。  ヴィクトル・ファリアス﹃ハイデガーとナチズム﹄山本尤訳、一九九〇、名古屋大学出版会、三三−四頁。  ラクーーラバルト﹃政治という虚構ーハイデガー、芸術そして政治﹄浅利誠・大谷尚文訳、藤原書店、一九九二年、四二頁。

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︵n︶ ︵12︶ ︵13︶ ︵14︶ ︵15︶ ︵16︶ ︵17︶ ︵18︶ ︵19︶  同書、二四四頁。  同書、二五八頁。  同書、二四〇頁。  同書、二七二頁。  同書、二七二頁。  同書、二九五頁。  的場哲朗﹁書評・ラクー⋮ラバルト、浅利誠・大谷尚文訳﹃政治という虚構  ハイデガー、 存思想論集皿﹃ことばと実存﹄﹂以文社、一九九三年、一五七−一六〇頁︶を参照。  ラクーーラバルト、上掲書、二九五頁。  寓貰鼠頃の置のα。﹁αq9ωき含ρ国Φ轟匹けω﹂H 芸術そして政治﹄﹂︵実存思想協会編﹁実 ︵本学法学部教授︶

参照

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