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たのしい「生活指導」の課題 -いつも笑顔でにこにこ-

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(1)

にこ−

著者

内沢 達

雑誌名

鹿児島大学教育学部教育実践研究紀要

19

ページ

109-121

別言語のタイトル

Life Guidance

URL

http://hdl.handle.net/10232/9246

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目次 はじめに ― 生活指導はむずかしくない ― 1 生活指導は「いい加減」がよい ― 理想を掲げて妥協する ― 2 生活指導をおこなう諸問題には軽重がある ― 優先順位を逆にしてはいけない ― 3 「子どもとイイ関係」(「悪くない」関係)が 生活指導の最大の目標 4 他に害をおよぼす問題行動は「即妨げるが, 指導は急がない」 5 いじめは人権侵害,犯罪 おわりに ― いつも笑顔でにこにこ ― 本稿は筆者が2004年1月4日~6日に開催され た仮説実験授業研究会の冬の大会(於:栃木県那 須郡塩原町塩原温泉)の全体会で発表したもので ある。上にキーワードや目次を記した以外はタイ トルはもちろん本文もそのときのままである。筆 者のホームページ(「たの研」内沢達のホーム ページ http://tachan.web.infoseek.co.jp/)では公 にしてきたが,いわゆる公刊は初めてである。ご 批判ご検討をお願いしたい。 はじめに ― 生活指導はむずかしくない ― 10年以上前のことである。私が大学で仮説実験 授業を本格的におこなうようになって(1988~89 年頃)から間もなく,生徒(生活)指導の課題に ついて小論をまとめる機会があった。そのタイト ルは「非行問題と教育法」であったが(エイデル 研究所『憲法と教育法』1991年,所収。その抄録 は私のホームページで読むことができる),副題 に「“荒れる中学”をどうする」と付けた。当 時,非行や校内暴力など生徒の問題行動が頻発し ていた中学校が“荒れる中学”などと呼ばれ,マ スコミで喧伝されていた。私は論文で,生徒指導 の現状を批判するだけでなく,“荒れる中学” を,ではどうしていったらよいのか,生徒指導の 課題を整理し明確なものにしようとした。 私は大学の教員になって(1976年10月)直ぐに と言ってもいいほど,早くから講義で仮説実験授 業を取り上げ学生に紹介してきている。しかし, 初めの頃は授業書の一部をプリントし学生に配布 しても,口頭でちょっと説明して終わりといった ものだった。しばらくして,問題に予想を立てて もらい若干の実験もするようになり,学生の好評 をえた。だが,まだまだ本気になれなかった。私 が本格的におこなうようになるのは,仮説実験授 業の入門講座に参加して「授業書」の素晴らしさ を実感するようになってからである。また,当時 「子どもの人権」の問題に強い関心をもっていた 私が,板倉聖宣さんの著作を読み始めて,「仮説 実験授業は最も子どもの人権を大切にしている授 業理論でもある」ことを知ってからである。 そうこうして十数年前には「たのしい授業」と 「子どもの人権」が二大関心事となっていた。そ うした私には,とくに難しいと言われていた中学 校での生徒指導も,何も難しいことはないと思わ れた。難しいという人たちにあっては,問題の整 理がなされておらず取り組むべき課題が明確に なっていないから「難しい」だけの話である。私 は,上記1991年の論文の中で,教師が力を入れて 指導すべきことと反対にすべきでない(してはい けない)こと,また大目にみてもよいことと逆に 軽んじてはいけないこと,生活指導をおこなう諸

たのしい「生活指導」の課題

-いつも笑顔でにこにこ-

内 沢

〔鹿児島大学教育学部(教育学)〕

Life Guidance

UCHIZAWA Tatsushi   キーワード:たのしい授業、たのしい生活指導、子どもの人権、優先順位、そのままの君で!

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問題には「軽重」があることなどを明らかにしつ つ,生徒の問題行動に介入する枠組みと具体的な 指導方法について論じた。この論文はいまも私の 生徒(生活)指導論のベースになっているもので ある(一部,表現を改めたほうがよい箇所もある が)。 その後,1998年4月『たのしい授業』臨時増刊 号(No.196)として,「たのしい生活指導」が刊 行された(翌年単行本にもなったので,以下,仮 説社『たのしい生活指導』という)。 これは,私の講義に新たな活力を与えてくれる ものだった。なにしろ,題材に事欠かないほど生 徒指導の実例が豊富で,かつ「たのしい生活指 導」という考え方が素晴らしかった。教職課程の 授業では,以前から子どもの人権の考え方をもと に生徒指導のあり方についても講義してきていた が,学生に最初に配布するプリント・講義概要 (シラバス)に「たのしい生活指導」と明記する ようになったのは,このときからである。 2002年8月のことであるが,鹿児島県教委から 委嘱された教育職員免許法認定講習(2種免→1 種免など)の講師(形式は県教委の委嘱だが,担 当者は実質的に学部で決まる。他の講習・研修会 も含めて,私への行政からの直接の講師依頼はこ れまで一度もない)も4年目となり,3日間計1 5時間の講義(「教育学Ⅲ」。教育の内容・方法に 関する科目)を,「たのしい授業」と「たのしい 生活指導」をほぼ半々におこなった。「生活指 導」について,現職教員に対してまとまった形で は初めて講義をしたのである。同じ講義には違い ないが相手は学生ではない。はたして現職の人た ちに受け入れられるかどうか。結果は学生への講 義以上に大好評で自信を深めた。例年,講習は好 評であるが,このときの受講者はちょうど200人 で,相当な多人数にもかかわらず講習全体を通し た「たのしかった」「ためなった」かどうかの5 段階評価は,1,2の否定的な評価はゼロ,3は 1~2人,ほとんどの人が5と4という高い,う れしい評価結果であった(詳しくは私のHPをご 覧いただきたい。受講者のレポートも20数人分 UPしている)。 「たのしい授業」をおこなっている教師には, 生活指導も難しくはない。難しくないどころか, これも「たのしく」行なうことができる。以下 は,「たのしい生活指導」について,これまで私 が講義で話してきたことをいくつか重点的に紹介 したものである。板倉聖宣さんの発想法や仮説社 『たのしい生活指導』から学んだことが一番多い が,それらも含め,またルソーの教育論や人権・ 法律論なども踏まえて私なりに論を展開してい る。自信はあるが,現時点では私の「仮説」にと どまるものであろうし,また思わぬ間違いもある かもしれない。そこで,ご感想やご意見,ご批判 をいただけたら幸いである。 1 生活指導は「いい加減」がよい ― 理想を掲げて妥協する ― 「たのしい生活指導」ということでその事例 は?と問われれば,私は真っ先に仮説社『たのし い生活指導』のなかの飯塚英正さん(東京・中 学)の記事「服装違反は“キビしく指導!!”」を あげる。 この記事は飯塚さんが以前の勤務校での話を短 くまとめたものであるが,じつに痛快でたのし い。同僚の教師から「あなたのクラスの生徒が服 装違反している。あなたから注意してほしい」と 言われたらどうするか。飯塚さんは「どういう服 装をするかは生徒が自分で決めることだ」という 考え方だが,職場の人間関係もあるので,「じゃ あ,キビしく指導しておきます」と答えた。実 際,飯塚さんは「服装違反」の生徒を呼び出し, 「違反」の事実などを確かめた後,「キビしく指 導」をした。 「服装違反は,厳しく指導・・・することに なっていますので,キビしく指導します。いいで すね。キビしく指導しましたよ!」 生徒はこれに「ハーイ!」と元気に返事する。 飯塚さんがさらに「深く反省しましたか?」と続 けると生徒はやはり「ハーイ!」と元気がいい。 生徒は「深く反省した」ので,飯塚さんの指導も 「じゃあ,終わり!」と終える。 この指導のいったいどこが「キビシイ」のか。 ちっとも「厳しく」ないと思われるかもしれない が,じつに「キビしく」もある(半分カタカナ,

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半分平仮名なのも,味わい深い)。 だいたい,頭髪だとか服装だとか,生徒からす ると飯塚さんも言う「余計なお世話」でしかな い,くだらない「校則」が学校にはまだまだ多く ある。そんなものを生徒に押しつけ強制するのは おかしい。生徒個人のことなので,生徒各人の自 由でよいのだ。実際,生徒個々人は,その考え方 で頑張ることもできる。 教師もそれで頑張ろうと思ったら頑張ることも できるが,多くの場合,私は薦めない。生徒と教 師の立場は違う。生徒は縛られてはいけないが, 教師は「違反には厳しく指導・・・することに なっている」学校という組織に縛られている。 「生徒の服装は自由であるべきだ!」という考え 方は,たしかに素晴らしい。文部科学省も相当以 前から校則の見直しを指導しているのだから,と きに正面突破もよい。その考え方で労せずしてや れそうなときはやる。だが,多くの場合簡単には いかない。職場には,くだらない「校則指導」に 熱心な生活指導主任や同僚が今も少なからずい る。その理屈は,おかしいといえばそうなのだ が,まったく説得力がないかといえばそうでもな く,一応の「論」にはなっている。「論」と 「論」のぶつかりあいは消耗である。へたに頑張 れば,生徒たちのことを思った主張であっても, その生徒たちから足元をすくわれることだってな いとは言えない。そんなことにでもなれば,同僚 だけでなく肝心な生徒まで信用できなくなる。こ れでは,何のための頑張りだったのかもわからな くなってしまう。 そんな頑張りはしないで,もともと「校則違 反」の指導などは,くだらないことなのだから 「いい加減」にやったらいい。板倉さんの発想法 のひとつに,「くだらぬ仕事は改善せず」とあ る。「くだらぬ仕事をなくすのはいいが,改善し ようとするのは如何か」との問題提起を含んでい る。さして重要でもないことには一生懸命になら ないほうがいいということである。生活指導は, 多くの場合,「いい加減」に「テキトー」にした らイイ! 「いい加減はよい加減」なのだ。 その好例のひとつが飯塚さんの指導である。 このあたりの私の講義について,毎期,少数だ が「そのような指導では,校則違反がなくならな いのでは?」との疑問を授業感想文に書く学生が いる。学生時代からすでに,将来一生懸命に「校 則指導」をおこなう教師を夢見ている,なんと 「真面目な」学生もいたものだ。この場合はそう した学生の「理想」がそもそも問題である。だ が,学生のなかにもいろいろな考えがあっていい ので,あまり深入りはしない。 大多数の学生は,自分の生徒時代をふりかえっ ても「校則指導」に良い印象はない。そこで,自 分が生徒の立場でされたくなかったことは,教師 になってもしない。「したくない(されたくな い)ことはせず・させず」が多くの学生の理想で ある。だが,その理想は簡単には実現しない。学 校の教員であるがゆえに,立場上しないわけには いかないことが少なくない。そこで大切なこと は,理想が直ちに実現しそうもない条件のもとで は妥協を否定しないことである。部分的であれ理 想を実現するためなら,いくらでも妥協してかま わない。 飯塚さんは,「キビしく指導」をした。そのよ うな指導をするようになってから,以前は「頭痛 のタネ」だった生活指導が「何となくおもしろお かしいもの」になってきたと飯塚さんは言う。と きに生徒のほうから「キビしい指導のリクエス ト」まであり,生徒とのイイ関係もうかがえる。 「飯塚さんは妥協して見事に理想を実現してい る」と言える。指導しているようで指導していな い。いや,指導していないようで,ちゃんと指導 しているではないか。 でも,また違反の生徒が出てきて同僚から「注 意してください」と言われたらどうするか。やは り「キビしく指導」すればよい。それでもまた, 言われたら。さらには「先生!本当に注意したん ですか?」と言われたら。「おかし~な? この 間,キツク,キツク言ったんですよ。まだ直って いませんでしたか? ワカリマシタ! もう一 度,キビしく指導しておきます!」と答えたらい い。「キビしい指導」を受け,自分たちが信頼さ れていることがわかる生徒は,理解ある教師を大 きくは困らせない。だいたい,くだらない「校則 指導」が大好きな教師は,他の生徒のことにも

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「熱心」であるから,その生徒のことはやがて忘 れる。 生徒とはイイ関係ができ,同僚とも関係が悪く ならない。こんな「たのしい生活指導」をやらな い手はない。 2 生活指導をおこなう諸問題には軽重がある ─ 優先順位を逆にしてはいけない ─ 仮説社『たのしい生活指導』に,計100字にも 満たない小さな記事であるが,「起立・礼をビ シッとやりたいと思っておられる方,号令の後に 子どもに『ビシッ!』と言わせるとビシッとな る。これ,妻が実践中。(私は起立・礼はやりま せん)」とあった(初出『たのしい授業』No. 11,1984年2月号「はみだしたの」)。 おつれあいさんが実践中の「ビシッ!」。これ を毎日,毎回のようにするのはどうかと思うが, どうしてなかなか楽しそう。とくに,学校全体の 雰囲気が整然としていて硬く,それをことのほか 喜んでいらっしゃる管理職がいるところでは有効 かと思う。まじめくさったような「起立・礼」の 後の「ビシッ!」は笑える。ときに,ここぞとい うときに,「ビシッ!」とやったらいいと思う。 管理職はこれをあてつけと取るかもしれないが, そうしたときは「そうではありません。私のクラ スがキチッとしていることをお見せしたかったの です」と真顔で答えたらいい。子どもたちとは, 「ビシッ!」を心から楽しんで,これをおこな う。 先の服装のことやこうした挨拶についての「指 導」は,なんらかの形でおこなわなければならな いとしたら,たのしく行なう術が他にもいろいろ とあるだろう。 ところで,こうしたことは「まったくどうでも いいことだ」とまでは言えなくても,数ある問題 のなかでは,軽いほうの問題である(原理的には そもそも問題とはいえない「問題」も多い)。そ うだからこそ「いい加減」な指導こそ,「よい加 減」の指導だと言うことができる。 ところが,たとえば「いじめ」問題のように, 生徒の「安全」や「安心」にかかわる問題,とき に「命」のことまで心配しなければいけないよう な問題についてはまったく違う。これは軽んじて はならず,適切に対処しなくてはいけない。こう したことについて,生活指導を「イイカゲン」 「テキトー」にしてはいけないだろう。 だが,この「軽重」がわからず,取り組むべき 問題に取り組まないで,反対に取り組まなくても よい(あるいは「テキトー」でよい)問題に血道 をあげている学校・教師が少なくない。問題には 優先順位があるのに,これを逆にしているのであ る。 私の場合,以前から「子どもの人権」の問題に も関心があり,1990年代半ばころまで鹿児島県内 でも相次いだ中学生のいじめ自殺事件を調査する 機会が度々あった。なかでも,「知覧中いじめ自 殺事件」(1996年9月18日)については遺書が残さ れていたこともあって,手がかりが多く,調査を 通して相当程度に事件の真相に迫ることができた (2001年2月に,書証として鹿児島地裁に提出し た同事件に関する私の「陳述書」は,400字詰め 約100枚の力作である。なぜ一人の中3男子生徒 が死ななければならなかったのか,事実を積み上 げ,事件の構造を明確にしている。HPでも読む ことができるが,印刷物を欲しい方はご連絡くだ さい。裁判は2002年1月に勝訴)。 この知覧中もそうだった。問題の「軽重」につ いてまったく自覚がなかった。不要・不急の問題 について「余計な世話」をやく一方で,「暴力・ 暴行」について見て見ぬふりをし,これを学校中 に蔓延させた。 では,問題の「軽重」や「優先順位」につい て,よく自覚した生活指導とはどのようなもの か。私は,仮説社『たのしい生活指導』のなかの 小沢俊一さん(東京・中学)の記事を例としてあ げたい(「机のイタズラ書きをやめていただくお 説教」)。 小沢さんは,美術室の机へのひどいイタズラ書 きをなんとかしなければいけないと思って,小原 茂巳さんの「お説教」の仕方に学んで,全校朝礼 で話した。 まず,多くの人には関係の話だけどつきあって くださいと言って,「事件に直接関係のない一般 の生徒にあやまる」。

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次に,苦労している,困っていると「率直に教 師の気持ちを述べる」。 また,自身にも経験があると「イタズラ書きを した生徒の心理にも理解を示す」。 でも,みんなで使うもの,でこぼこ机じゃ絵も うまく描けないなど,「まずい点を伝える」。 さらに,「キムタクLOVE」とか「小沢先生ス テキ」とか,そういうものだったらまだしも, 「○○死ね」とか「○○むかつく」というのは人 を深く傷つける。「一番やって欲しくないこと」 と伝える。 最後に,再度やった生徒の気持ちにもふれなが ら,でも「確実に人を傷つける」し,教師も大変 なので「これからはやめてほしい」と結論。 この話は,途中の「小沢先生ステキ」のところ では生徒から笑いも出たというから,「たのし い」お説教の一面もある。小沢さんの話は,その 順序や配慮が素晴らしく,何が問題なのか明確に なっていて「会心のお説教!」と言える。同じく イタズラ書きであっても,そこには「まだしも」 と大目に見られることと,そうではない「一番 やってほしくない」「人を傷つける」ものがある ことをはっきりとさせ,優先順位をつけて指導し たところが素晴らしい。 入江洋一さん(広島・中学)の記事(「子ども が窓ガラスを割った時」,初出『たのしい授業』 No.122,1992年12月号)も,「優先順位」の考え 方が大切であることを教えてくれている。 「ガチャン!」 上の階から窓ガラスの割れる音。あなたならこ んな時どうする? 入江さんは,そのような問題提起に始まって, 「さて,現場に到着しました。最初にかける言葉 は何ですか?」と続ける。 ア コラッ!! イ どうして割れたんだ? ウ だれが割ったんだ? エ その他 入江さんの場合は,その他。そんな時,いつも 最初にかける言葉は,これ。 「ケガはない?」 「〈子どもたちの安全を優先する〉という原則 を最優先するというわけです」と述べている。 3 「子どもとイイ関係」(「悪くない」関係)が 生活指導の最大の目標 仮説社『たのしい生活指導』のなかに,小原茂 巳さんが書いた文章がいくつかある。また小原さ んが書いたものでなくても,他の人が小原さんの 発言や考えを紹介しているものもある。小原さん は,生活指導の最大の目標は,〈子どもたちとイ イ関係になること〉(51ぺ)だと言う。その大前 提でもあるが,「〈最悪の関係になることだけは絶 対に避ける〉という目標」に従って(20ぺ。107 ぺも同趣旨),おこなうことが大事だと述べる。 すでに述べたように,生活指導をおこなう諸問 題には優先順位がある(小原さんは,「規則違反 にも序列をつけて,人に危害を及ぼしたり,人に イヤな思いをさせるものから正していく」とも言 う)。加えて,優先順位があるのは問題について だけではない。教師がなんらかの指導や対処をし なければならないとき,なにを目標として生活指 導をおこなうのか。その目標にも優先順位がある のである。 ところが,多くの学校での生活指導はこの点で の自覚もない。 先の入江さんの記事にもあるように,窓ガラス が割れたりすると,即座に「どうして割れたん だ?」「だれが割ったんだ?」と言ってしまいが ちである。しかし,このような最初の一言は,子 どもたちにケンカを売るようなものだ。〈子ども たちとイイ関係〉にならないどころか,〈悪い関 係〉を教師の側から作っている。 私は大学の講義で,板倉さんの発想法について よく話す。そのひとつ,「イコールは等しくもあ り等しくもなし」について,生活指導では「学 校=デパート」の例をあげる。明らかに違うもの であっても,ある点からみるとそれは同じという ところにこそ等号の意味がある。学校にはいろい ろな教科や部活動,そして種々の施設設備もあ る。デパートも百貨店という名の通りいろいろな ものがある。そこが似ているというだけではない

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(学校のなかでも大学には,とくにいろいろなも のがある。でも,ないものが一つ。それは学問だ という,笑える,いや笑えない話もある)。同じ くサービス業を営んでいるというところが肝心で ある。 教育は間違いなくサービス業である。このこと の自覚も学校現場にはあまりないが,ちょっとで も考えれば誰しも疑い得ないほど,これは確かな ことである。サービス業はお客あっての商売であ る。学校のお客といえば,それは生徒,子どもた ちである。デパートの各売場は,客に対してじつ に親切,ていねいである。イイ商品を薦めはする が,けっして押しつけはしない。ところが学校と いうところは,「イイ」こと「悪い」こと,いろ いろと平気で押しつけをする。サービス業なら ば,絶対にしてはいけないことである。 講義をしていて,仮説社『たのしい生活指導』 に紹介されている,いろいろな事例に多くの学生 が感心する一方で,「ちょっと生徒に気をつかい すぎではないか?」といった,やや否定的な感想 も出される。だが,サービス業ならば,客への気 遣い・気配りといったことは至極当然のことでは ないか。学生はアルバイトもいっぱいしている。 飲食店でバイトする学生も多い。明らかに客の不 注意によるものであっても,お皿やコップが割れ たりしたとき最初にかける言葉はなにか? 「お 客様,おケガはございませんか?」ではないか。 まさしく接客業なのでさらに丁寧であるが,学校 で窓ガラスが割れたとき入江さんが子どもたちに かけた言葉と基本は変らない。「そういえば, ちょっと疑問に思った自分たちもバイト先では同 じなんだ」と合点がいったりする学生もいる。教 育はサービス業であるという考え方に立てば,子 どもたちへの気遣いや配慮は,じつに自然なこと である。 ところで,あらためて問いを発すると,教師は なぜ生活指導をおこなうのか? それは,そこに 解決をしなければならい問題があるからでる。ま た問題の解決を通して〈教師と子どもたちとのイ イ関係〉や〈子どもたち同士のイイ関係〉を作っ ていくためにおこなうものである。問題の解決で あれ,〈イイ関係〉であれ,生活指導には目標が あり,そのことを意識することの大切さ,さらに その目標にも問題に応じた優先順位があることを 述べておきたい。 先の小沢俊一さんの「会心のお説教」には,小 原さんの「お説教」が手本としてあった。廊下に 張り出されていた遠足のスナップ写真の何枚かが 誰かのイタズラでなくなり,小原さんが学年集会 で話したことがそれだった。小沢さんが真似した くなるほど小原さんの「お説教」はすばらしく, 数日後写真は戻ってきて見事,問題も解決した。 ここで注意してほしいことは,同じくイタズラ であっても問題に優先順位をつければ,小沢さん が対処したイタズラ書きのほうがはるかに大きな 問題だということである。「○○死ね」とか「○ ○むかつく」といった落書きは,子どもたちの 「安全」や「安心」にかかわる問題で,放ってお くことはできない。それに比べると,スナップ写 真の問題は小さい。見本の写真がなくなってみん なが困ったことは確かだが,いよいよとなればネ ガが写真屋さんにはあるし,対処のしようがない わけではない。昼休みをつぶしてまで学年集会を 開くようなことではない。しかし,小原さんが不 在だったためすでに臨時集会開催のレールは敷か れていた。 そこで小原さんは,「こうなったらしようがな い」「①喜ばれる話は無理としても,②できるだ けみんながこれ以上イヤな思いをしないようにし たいものです。そして,③できたら,アノなく なってしまった写真が戻ってくるといいんだけど なー」(126ぺ。①~③の挿入と下線は内沢)など と考え,学年集会に臨んだ。 私が番号を付し下線を引いたところが,生活指 導の目標にかかわるところである。 ①がいわば「イイ関係」,②が「悪くない関 係」,そして③が「問題の解決」である。 小原さんのこの例では,②の「悪くない関係」 を最優先し,③の「問題の解決」を「できたら」 と目標設定を低めにして,他の目標に優先させな かったことが大事なところである。写真が戻って くることだけが目標ならば,教師らがいっせいに 生徒の持ち物検査をすれば,あるいは出てくるか もしれない。だが,それは最初の問題に比べよう

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もないほどの大きな問題をはらんでいて(明らか な生徒の人権侵害!「何人も所持品について令状 なしに捜索・押収されることはない」といった趣 旨の憲法第35条違反),そもそも選択肢にあって はならない。そうしたことはしないまでも,くど くど長々「写真を返せー」「戻せー」と言うよう では,教師不信や生徒同士の相互不信をつのら せ,〈最悪の関係〉を作っていくようなもので, ①や②の目標の自覚は皆無だ。 こうしたとき,なかには「生徒になんか好かれ なくてもかまわない。嫌われたっていい!」と心 底思って,生徒を怒鳴り散らし,しつこく「説 教」をし続ける教師もいることだろう。でも,そ うした教師はごく一部だと思う。多くの教師の本 心は違う。できるものならば,誰しも子どもたち と「イイ関係」でありたいと思っている。だが, 実際の場面ではそのことを忘れる。ついつい言葉 もすぎてしまう。問題への対処のことだけで頭が いっぱいになって,その問題がもたらした以上に 子どもたちに嫌な思いをさせてもそのときは気づ かない。後から,自分自身も嫌な気持ちになって 落ち込んだりもする。それというのも,何のため に,何を目標として生活指導をおこなうのかにつ いて自覚がないからだ。 子どもたちと「イイ関係」を作っていきたいの であれば,最優先されるべきはまず「悪くない関 係」だ。指導の場面で子どもたちに嫌な思いをさ せてはならない。問題の性質にもよるが,その問 題の解決以上に,優先されるべき目標があること も少なくない。そういったことがわかれば,生活 指導も変わってくる。見通しもでてくる。 4 他に害をおよぼす問題行動は「即妨げるが, 指導は急がない」 諸問題の優先順位や生活指導の目標が意識され ていれば,生活指導は難しくない。問題に直面し たとき,どうすればよいかもはっきりしてくる。 これまで紹介してきた飯塚さんや小原さん,小沢 さん,入江さんの例をはじめとして,仮説社『た のしい生活指導』にはすばらしい事例がたくさん 紹介されている。が,それらの多くは個別的であ るので,ここでは一般的に考えてみたい。問題の なかでも軽いほうではなく,重いほうの問題にど う対処すればよいのか。以下,私の考えを述べ る。 生徒の問題行動のなかには,その生徒個人の問 題に止まらない他の生徒に害をおよぼすものがあ る。そうした問題にこそ,教師は介入しなくては ならない。いじめの問題がその典型だ。これは見 過ごすことはできない。いや,「いじめ」という ほどのことではない,ちょっとした「イタズラ」 「ふざけ」「からかい」程度といったことでも (じつはそうでもないことが多い。後述),その ことで困っている生徒が一人でもいれば,介入の 必要がある。授業妨害もそうだ。これは教師への 反抗という意味合いが大きいが,他の生徒の学習 の妨害でもあるのだから,やはり放っておくこと はできない。そうしたときの介入の原則なにか。 その一般原則は,他に害をおよぼす問題行動は 「即妨げるが,指導は急がない」ということでは ないか。 人間は自由だ。自由であるべきだ。子どももそ うだ。余計な束縛はあってはならない。しかし, その人間,子どもの行為にも束縛がおよぶときが ある。それは,他に害がおよぶ場合だ。誰にも他 人の自由を侵す自由はない(フランス人権宣言第 4条「自由は,他人を害しないすべてをなしうる ことに存する」1789年)。 学校で,ある子どもが他の子どもに害をおよぼ している,あるいはおよぼしそうなとき,教師が これを即妨げ止めさせる。これは当たり前のこと だが,妨げるだけでまずは十分だということが大 事なところである。なぜならば,それで他の子は 助かり「安心」でき,その場も落ち着く。教師の 介入や指導の目標は,問題の解決にある。子ども たちの「安心」や「安全」がひとまずではあって も確保されれば,それは問題の解決といってよ い。困っている子を助け,その場も落ち着かせる ことができる教師は,子どもにとって頼もしい存 在だ。子どもたちとの,また子ども同士のイイ関 係(悪くない関係)にとっても明らかにプラス だ。 ところで,問題行動は即妨げる「が,指導は急 いではならない」とは,どういうことか。

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多くの生活指導の失敗は,指導を急いだ結果 だ。たとえば,ある子が他の子になにか悪いこと をしたとする。そうしたとき,その行為を止めさ せるべく,「今,何をしたんだ!」「そんなことを していいのか!」といった注意の仕方をする。こ うした対応が「指導を急いでいる」ケースにほか ならない(言い方を「優しく」したところで同じ だ。ときにいっそう嫌味でさえある)。 たしかにその子は,悪いことをしたかもしれな い。でも,した方にも言い分がある場合がある。 また,いじめのときには,悪いことをしたのはそ の子自身の意思というよりも他から仕向けられて いる場合さえある。さらには,他の子になにかし たのも,そのことが必ずしも目的ではなく,教師 の反応を試している場合だってある。そのように いろいろとあり得るのに,どうして簡単に「悪い 子だ!」と決めつけられようか。 ジャン・ジャック・ルソーは,『エミール』 (1762年)のなかで,「子どもの状態を尊重する がいい。そして,よいことであれ,悪いことであ れ,早急に判断をくだしてはならない」と述べて いる。この「早急な判断」こそ,指導を急がせる もので,厳に慎まなくてはならない。急ぐのは, 他に害をおよぼす行動を妨げることだけでいいの だ。ルソーは,「熱心な教師たちよ,単純であ れ,慎重であれ,ひかえめであれ。相手の行動を さまたげる場合を除いて,けっして急いで行動し てはいけない」とも述べている。私が一般原則と して述べた「他に害をおよぼす問題行動は即妨げ るが,指導は急がない」ということも,元はと言 えばこのルソー考え方に基づいている。 問題行動を妨げる際の言葉は,「それはダメ! やめよう!」といった,簡潔なもので添える程度 でいい。それだけで大体はわかる。「いや,この 子はわかっていない!」と決めつけ,どうしてダ メなのか,理由をくどくど言ってはならない。た しかにわかっていない子もいるだろう。でも,そ うした子は,なぜ悪い行いなのかわからないから そうしている。その子を責めたてるような説教を するようでは,わかることもわからなくなってし まう。またわかってはいても,先に述べたような 事情がある場合もある。そうしたとき,余計な説 教はまったく意味をなさないばかりか,事態をさ らに悪くしさえする。 ルソーは,「子どもの言いなりになってはいけ ないが,逆らってもいけない」とも述べている。 このルソーの言葉は,実際場面で「子どもを尊重 する」とは,いったいどういうことなのか,その ことの深い理解をうながす名言ではないかと思 う。 子どもが良い行いをしているときは,普通その ことは意識さえしない。問題は,悪い,他に害を およぼす行いをしているときにも,私たちはその 子を「尊重する」ことができるか,ということで ある。その子が悪さをするのは,必ずと言っても よいほどに事情がある。それはその子個人の事情 か,友だちとの関係か,はたまた教師との関係か (さらにはいくつか合わさったものか)は直ちに はわからなくても,何かがあるからそうしてい る。その子の行為そのものは是認し得ないが,そ の子にもあるだろう事情を理解しようとする姿勢 をもつことが「子どもの状態を尊重する」という ことである。 さて,問題はその先である。その子の「状態」 にとどまらず,その子「自身」をも尊重すると は,どういうことか。そのひとつが「言いなりに ならない」ことである。何かの事情があってのこ とでも,他に害をおよぼすようなことはやはり許 されない。その子のしたい放題を認めないという 対応が当然にも,そのことで困っている他の子を 助けるために必要であるだけでなく,その子自身 のためにも欠かせない。 そして,もうひとつが「逆らわない」ことであ る。これは,その子の行為に対してではなく気持 ちに「逆らわない」ということ,その子の気持ち は尊重しようということである。言い分や事情が あれば聞いてあげればいい。たとえ相当おかしな 言い分であっても言い返さない。せいぜい「それ はどうかなー?」とちょっと言葉をはさむ程度に とどめ,「それで」と続きを聞く。このようなと き,教師が生徒に負けているようであっても全然 かまわない(「負けるが勝ち」。板倉さんは,これ を「極意といえる発想法」と言う)。なにしろ, 教師の介入や指導の目標は,何度も述べてきたよ

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うに問題の解決であって,子どもを言い負かすこ とではない。時間が許せば,ずっと聞いてあげて 「うん。君が言いたいことはだいたいわかった。 でも,他の人が嫌がることはやめよう」と,目標 に照らした結論だけが通じさえすればよい。 一番悪い生活指導は,子どもの気持ちに逆らっ て彼らと言い争いをすることだ。どんどんと「説 教」はエスカレートし,はては彼らの人格そのも のの否定にまでおよぶ。「おまえらは,どうしよ うもない!」「クズだ!」「本校のガンだ!」。教 師は口だけでなく,手も足も出す。散々先に殴っ ておきながら,生徒が一発返しただけで「とうと う本校でも対教師暴力が発生しました」と大騒ぎ をし始める。職員室への乱入であれ,窓ガラスな ど器物の損壊であれ,以前「荒れる中学」の様相 をていした,いわゆる「校内暴力」にも,必ず引 き金があった。それは教師が子どもの気持ちに 「逆らった」結果でもある。 一般の生徒はもちろんのこと,相当な「ワル」 「ツッパリ」と見られがちな生徒らも,学校・教 師にとっては大切なお客さんである。小原茂巳さ んが述べるように,「"大人に失礼かな"と思うこ とは,子どもにもしない」(仮説社『たのしい教 師入門』1994年,152ぺ)。教師は,他に害をおよ ぼす問題行動は即妨げるが,彼らの人格の尊厳を 損なわない方法でこれをおこなわなくてはならな い。 ところで,これまで述べてきた私の考えに対し て「問題行動は妨げるだけでいいの?」「もっと 指導しなくていいの?」といった疑問もありそう なので,少し付け加える。この疑問は,「たのし い授業」に寄せられる「授業はたのしいだけでい いの?」といった疑問と似ている。そう言う人 は,「だけ」と言うけれどその「たのしい授業」 ができていない。同じように,「妨げるだけでい いの?」と言う人も,それができていないのでは ないか。問題行動を妨げ,これを止めさせる。こ のこと以上に優先させておこなわなければならな いことは他にない。 生活指導の諸課題を整理していけば,教師が本 当にしなければいけないことはそう多くはない。 仮説社『たのしい生活指導』のなかで,石塚進さ ん(東京・中学)が述べるように「教師が〈行動 しない〉という行動にも意味がある」。生活指導 には,「しない」ほうがいいことはたくさんあっ ても,「する」ことはそれほどない。もっとした いのであれば,生活指導ではなく,「たのしい授 業」をしたらいい。生活指導をおこなう際にも 「教師と子どもの信頼関係が決定的に大事だ」 (石塚さん)。その信頼関係を一番確実にするの は,たのしい授業だ。同じく佐藤正助さん(福 島・高校)の記事のタイトルにも象徴的だが, 「授業以前の問題」に見えるようなことも,じつ はほとんどが「授業の問題」である。たのしい授 業をして子どもたちとイイ関係を作っていく。 「たのしい授業」といわないまでも,「イイ授 業」をしないで,それこそ生活指導「だけ」で関 係を作ろうとすることは,とんでもない思い違い だ。 5 いじめは人権侵害,犯罪 子どもたちの問題行動のなかでもいじめはとく に大きな問題なので,一項おこして述べる。いじ めもこれを妨げやめさせるだけで十分なのだが, いじめをやめさせるために,また必要があれば急 がずに時間をかけて理解をうながしていく,その ために重要だと思われることをいくつか述べた い。 まず私は,いじめを人権の問題として捉える。 教育界では以前から,いじめに対処すべく「子 どもたちのなかにもっと思いやりの心を育てよ う」と言われてきた。「思いやり」それ自体は結 構なことだが,相手を思いやった結果がじつはい じめであった,ということも少なくない(「親切 とお節介は紙一重」「悪事は善意から」。ときに 「いじめの背後に正義あり」)。近年は「心の教 育」のキャンペーンも盛んだが,いじめを漠たる 「心の問題」にしてしまったのではアプローチの しようもない。これを人権の問題として捉えてこ そ,問題の所在や対処法も明確になる。 子どもたちも小学校6年になれば社会科で日本 国憲法について,基本的人権についても学ぶよう になる。人権とは,人間が人間らしく生きていく うえで不可欠の権利のことだ。子どもも当然その

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権利を持っている。生存権や自由権といった言葉 も,それは学校生活において具体的にはどのよう なことを指すのか,子どもたちにわかるようにし てあげたらいい。それは教師との関係でも問題に なるが,ここでは子どもたちの間での権利や自由 の問題に限定して話をすすめる。 すでに述べたように,学校においては子どもた ちの「安全」と「安心」が確保されなければなら ない。たとえば「学校に行くのが怖い」「休み時 間や体育の着替えのとき,トイレ付近がとくに怖 い」というようなことがあってはならない。当然 のことだが,少々堅苦しく言うとそれは子どもの 生存の自由が脅かされてはならないからだ。子ど もたちの安全確保は学校・教師の第一の義務だ。 また「人間らしく」と言うからには,こんにち ではとくに人それぞれの「その人らしさ」が認め られることが大切だ。積極的で活発な子,また反 対におとなしい子,自己主張をする子,あまりし ない子,協調性のある子,ない子,・・・みんな 他に害をおよぼさない限り「そのままの君で!」 (小原茂巳さん)よい。それが自由というもの だ。個人のありようについては,他人の権利や自 由を侵害しない限り,それらすべてに価値があ る。その「あるがまま」を自然に認めあうことが できる社会や人間関係こそ,真に自由だと言えよ う。 もう少し具体的にしてみる。たとえば,子ども が学校の勉強をする・しないも自由だ。「する」 ことは誰もが認めるが,「しない」ことにだって じつは相当に価値あることだ。「学ぶに値する」 ものがなければ「しない」ことは自然だし,それ で平然としていられる子は大したものだ。それは ともかく,勉強に一心不乱になっているからと いってその子が「ガリ勉!」などと唱和されるこ とがあってはならない。逆に勉強をしない,でき ないからといって馬鹿にされることもあってはな らない。休み時間や放課後の過ごし方も,各人の 自由だ。気の合う仲間同士でワイワイガヤガヤも ちろんOKだ。他方では一人で遊んでいてもいい し,ボーっとしていたってかまわない。部活動も 各人,上手下手はあってもそれぞれがスポーツや 音楽などを楽しむ権利をもっている。 子どもたちの間では友だち関係がとくに重要 だ。そして,この関係は結構変化する。ある時期 親しかった友だちとちょっと疎遠になってきて, 別に新しい友だちができたりする。大人の人間関 係では日常茶飯のことであるし,子どもでも普通 はそうしたことに何の問題もない。子どもたちに は,クラス内で,またクラスや学年,部活を越え て,友だちを選ぶ自由がある。 このように子どもたちに,「君には,君らし く,自分の自分らしさを大切にして自由に学校生 活を送る権利がある」ことをわかるようにしてあ げたらいい。「君がそうであるように,他の人も 同じくその権利を持っている」。この他の人の権 利や自由を認めないのが「いじめ」だ。それは間 違いなく人権侵害だ。 いじめの問題をこのように捉えると,対処もむ ずかしくはないと思うが,如何か。教師は個々の いじめ行為を妨げ止めさせるだけでなく,必要が あれば急がずに時間をかけて,子どもたちの間に 権利や自由の考え方を広め,根づかせていったら よい。(と言うと,「そんなに権利や自由ばかりを 強調していいのか?」「義務のほうは何もないの か?」とおっしゃる人もいるかもしれないので一 言。他人の権利や自由を侵害しないことこそ,子 どものみならず,すべての人間の最も重要な義務 だ。) とくに問題が起きがちな友だち関係のことにつ いて,もう少し述べておきたい。子ども同士が自 然に「仲が良い」のはもちろん結構だが,無理を して「仲良くしよう!」さらには「仲良くしなけ れば・・・」ということになってくると私は疑問 符をつけざるを得ない。大人社会では,「仲が良 い」関係だけでなく,「仲が悪い」関係もある。 それでも折り合いをつけてなんとかやっているの が,イイ意味での大人の人間関係というものだ。 子どもだからといって「みんな仲良くしなけれ ばならない」と考えるのは,じつは教師らの勝手 な思い込みにすぎない。その教師の偏見が子ども たちにも知らず知らずのうちに伝わり,「私たち は こ ん な に も ア ノ 人 の こ と を 考 え て い る の に・・・」といった形で,「仲良くしよう」とし て上手くいかなかった結果がいじめであったりす

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るのだ。食べものの好き嫌いは誰しも認めるが, じつは人間についても好き嫌いがあってもかまわ ない。現にあることを,人間の好悪の感情まで否 定してはならない。 示し合わせたような集団的な「ムシ」でない限 り,気の合わない人とはつきあわないということ があっても全然かまわないのだ。「友だちを選ぶ 自由」とは,そういうことも含んでいる(このあ たりは,仮説社『たのしい生活指導』のなかの山 路敏英さんの記事「もつれた糸」が参考になる。 山路さんは,子ども同士の「仲が良い」また「仲 が悪い」関係だけでなく,もうひとつ「関係な い」という関係も認め,「もつれた糸」をときほ ぐした)。友だちがたくさんいることもいいが, あまりいないことだっていい。他を気にせずに数 少ない友とじっくり日々を楽しむことができる。 さらに,友だちがほとんどいないことだってなに もおかしくない。「一人は良くない。孤独はかわ いそう」といった見方も勝手な決めつけでしかな い。「一人がいい」という子,一人遊びが好きな 子が現にいる。 このように子どもたちそれぞれの,様々なあり ようを教師が認められるようになることが決定的 に大切なことだ。そうなれば,いじめへの対処も 冷静におこなうことができるのではないか。 ついでながら,いじめは人権侵害であるだけで なく,ほとんど犯罪でもあることも述べておく。 日本弁護士連合会『いじめ問題ハンドブック』 (こうち書房,1995年)には,次の記述がある。 「いじめ問題に現れてくる具体的いじめ行為を 検討すると,無視といった形態を除いて,多く は,刑法などに規定されている犯罪類型に形式的 にはあてはまる。たとえば,悪口も度を越せば侮 辱罪に,脅かし言葉も継続したりすれば脅迫罪に あたる。身体に対する攻撃は暴行・傷害罪に, ジュース・タバコを買ってこさせたり,金品を 持ってこさせたり,万引きを強要することは,恐 喝罪や強要罪にそれぞれあたる行為である。持ち 物を隠したり,持って帰って捨ててしまえば窃盗 罪に,壊せば器物損壊罪にあたる。」(70ぺ) 先に子どもの問題行動を妨げる際,その理由を くどくど言ってはならないと述べた。言わなくて もだいたいはわかる。悪いことをしているから, 妨げられるのだ。一般社会において許されないこ とが学校において認められてよいはずがない。そ のことは子どもにも十分わかる。人を侮辱した り,脅かしたり,人のものを盗んだりすることが いけないことだということはわかる。けれど, ちょっとした「イタズラ」「ふざけ」「からかい」 程度だという気持ちがわからなくさせている。そ こで必要なときには,そうではないということ を,そうしたことも社会では犯罪になり罰せられ ることを教えてあげたらいい。 そのひとつである暴行について言うと,その範 囲はとても広い。それは殴る,蹴るといったもの だけにとどまらない。「暴行罪の暴行は,人の身 体に加えられる力であるが,必ずしもその力が身 体に触れる必要はない」「不法な(いっさいの) 有形力の行使」を言う(有斐閣『法律学小辞 典』)。過去の裁判例(同『判例六法』各年度版参 照)なども参考にすると,子どもたちの間での次 のような行為がすべて暴行に該当し犯罪にもな る。 ・着ている服をつかみ引っ張る行為 ・殴ったり,蹴ったりする意図がなくても,取 り囲んだり,押さえつけたりして人を動けな くする行為 ・驚かせる目的で,物を投げたりする行為(そ れが当たるか当たらないかは関係ない) ・椅子を持ち上げて脅かしたり,指し棒や掃除 道具などを振り回す行為 ・人の耳元で,突然「ワッ」と大声を出して驚 かせる行為 ・チョークの粉や消しゴムのかすを振り掛ける 行為 おわりに ─ いつも笑顔でにこにこ ─ すぐ前のいじめの項で述べたように,子どもた ちは他に害をおよぼさない限り100パーセント 自由だ。「そのままの君で!」よい。「たのしい授 業」派の教師は,その授業を通して「子どもたち のそのままの素晴らしさ」に気づくが,教科書の 授業しかおこなわない多くの教師は,なかなか 「そのままでよい」とは思えない。建前ではなん

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と言おうが,勉強をしない,勉強ができない子は 「ダメな子」と本音では思っている。また友だち が少ない子は「かわいそう」と勝手に思い込んで いる。それというのも,そうした教師の視野が狭 く,いろいろなところで固定観念に囚われ,これ までの「常識」に縛られているからだ。 例をあげてみたい。小学校学習指導要領「道 徳」の内容の一つに「自分の特徴を知って,悪い 所を改めよい所を積極的に伸ばす」(5・6学 年)とある。私も妥協を拒むものではないので, 「短所をあらため,長所を伸ばす」という「常 識」を一般論としては,これを認め否定はしな い。しかし,少しは突っ込んで考えてほしい。子 どもの「悪い所」と言うけれど,いったいそれは どういうところ? 私がハッキリそうだ言えるの は「他の子に害をおよぼす」ことだけだ。そうい うところがあれば,それは改めないといけない。 けれど,子どもに限らないが,人それぞれの,そ の人に特徴的な性格や傾向,行動様式などについ て,「ここは良い所,あそこは悪い所」などと捉 えてよいのか,ということである。少なくともそ の評価を固定的におこなってはならないと私は考 える。 たとえば,「わがまま」について考えてみる。 「それは良くないことで改めなくてはならない」 というのが普通の考え方で,いわば「常識」であ る。でも,本当に良くないことなのか? わがま まと言えばイコール自分勝手ということで,普通 その言葉によい響きはない。しかし,それは真っ 先に自分のことを考え,自分を大切にしている現 われでもあることは間違いない。「自分を大切に している」ことは,悪くないどころか大変よいこ とではないか(だいたい語源からして,「われ (我)あるがまま」といったあたりか? それは 自然なことで悪くない)。このようにその評価は 視点の置き方次第で変わってくる。一人の人間の なかに,長所と短所が別々にあると私には思えな い。それはほとんど背中合わせだ。 そのことは逆に「わがままでない」人のことも 考えれば,いっそうよくわかる。そうした人は, 他人のこともよく考えている。その点は長所だろ う。けれど,「わがままでない」人はとかく他の 人への気遣いばかりして自分を抑え,押し殺しが ちでもある。そうなってくるとそれは長所とはい えず短所にも容易に変わりうる。「私はこんなに も我慢しているのにアノ人は・・・」といった気 持ちがもたげてくると本当のところ他人を尊重す ることもできなくなる。 もちろん「わがまま」がそれだけで十分によい ことだと言うつもりはない。いまは,「わがまま はとにかくいけないことだ」といった,「常識」 に対して何の疑念もさしはさまない見方を問題に している。子どもの多少のわがままは,それをす るにまかせたらいい。「それはいけません!」と いった言葉からではなく,子どもたちは経験か ら,ときに友だちとも衝突し他の人にも「わがま ま」があることがわかるようになる。そこから自 分を犠牲にしないで一番大切にしてよいというこ とだけでなく,あわせて他人を尊重することの大 切さも学ぶようになる。 作家の五木寛之さんは,「人間的な長所とは, 反対側の欠点によって支えられているとも考えら れます」「努力しても直らない欠点は,たぶんそ の人の最良の部分に根ざしているのではないかと ぼくは思います」と述べている(『生きるヒント 2』文化出版局,1994年)。 人間について教育の世界でもこのような見方が 自然にできるようになると,学校というところも ずいぶん変わってくるのではないかと思う。 毎学期末,担任教師は通知表などの所見欄に, 子ども一人ひとりについて記す。もし,「この子 の良い所が見つからない」ということがあれば, その子の「悪い所」と思ったことを反対にしてみ れば大概は皆「良い所」で,書くべきことは山ほ どある。「わがまま」についてはすでに述べた が,「自分の気持ちをとても大事にしていて,率 直です」と書くこともできる。この子は「でしゃ ばりが過ぎる」と思えば,「何ごとにも積極的で す」でよい。また「おとなしい,もう少し元気が 欲しい」と思えば,「感情に起伏がなく落ちつき があって素晴らしい」とも。さらに「お節介な 子」は,「親切で世話好きです」でピッタリ。そ の他,「まわりを押さえつけがち」な子であれ ば,「リーダーシップ・統率力があります」。「少

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しは自己主張があっていいのでは」と思われる子 であれば,「協調性があります。他の人の意見も よく聞いています」。「ちょっと無神経,繊細さに 欠けるかな」と思えば,「少々のことは気にしな い大人の風格があります」。逆に「神経質,繊細 すぎる」と思えば,「緻密です。他の人が見落と しがちな小さなこともよく気がつきます。感情が 細やかです」。等々。 もちろん,問題は所見欄にどう書くかにではな く,子どもの,そして人間についての見方にあ る。上のような見方を人によっては,いわゆる 「プラス思考」と取るかもしれない。たしかに, マイナス(短所)も視点や見方を変えればプラス (長所)になり得るという点では,そうかもしれ ない。けれど,私が言いたいことは,もともとが そもそもプラスなのだ(「マイナスにもそれ自体 に価値がある」という意味も含めて),というこ とにこそある。そのことに多くの人が気づいてい ないだけのことだ。何度も述べてきたように,他 に害さえおよぼさなければ,人間の,そして子ど ものありようすべてに価値がある。 そのような見方は「たのしい授業」をおこなっ てこそ,自然にできるようになる。 そうなれば,私たちは「いつも笑顔でにこに こ」子どもたちと接することができる。 生活指導で,教師が本当におこなわなければな らないことは,そう多くはない。 そしてこれも,気持ちよく,たのしくおこなう ことができる。 絵本作家の五味太郎さんは,「子どもたちをど う育てるか,どう導くかなんて考えないで,いっ しょに暮らせばいいんだ」と述べている(「五味 太郎の教育論」クレヨンハウス『月刊子ども論』 1995年3月号)。これは,主に家庭での親子の関 係についての話だが,学校でも同じだと思う。こ れからは教師が生徒を教育するとか,指導すると いったことは,あまり考えないほうがいい。「教 育しよう」「指導しよう」などと思っているもの だから上手くいかない。学校でも「子どもたちと いっしょに暮らす」のだったら,なにかできそう な感じがしてこないだろうか。今日一日を,今週 を,今学期を,どうしたら「子どもたちといっ しょに気持ちよく過ごす」ことができるか,その ことを考えれば自ずと答えは出てくるのではない か。

参照

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