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ペスタロッチーの人聞観
寸ホ
田昇
Pestalozzis Menschenanshauung
’ Noboru Murata 近世の形而上学が,時代の新しくなるのにつれて漸 くかの宇宙論的な問題から遠ざかって入間学的な問題 に近づき,人間,若しくは人間の本質に関する関心を 強めるに到ったのは,周知の事である。“入間とは何 ぞやN’(Was ist der Mensch ?)という問題は,今 や現代哲学の中心であると言わなければならない。私 は今,あの革命を経ずしては時代的推移の遂げられな い程の一大変動期に際会して社会の悩みの底に悩みぬ き,しかも身を以て時代を生きぬいた実践家であり, 且つ又思想家であった,我々のペスタロソチーによっ て,其の問題を解く一つの手がかりを求めたいと思 5。 周知の如く当時のスイスは,経潴的には漸く興って きた産業革命によって農民は極度の苦境に陥ってい た。それにも増してフランス革命の嵐が次第に強く吹 きつのってくる。其の中にあって,当時のスイスの階 級的な秩序,アンシャソ・レジームに強い嫌悪感を抱 いていた,民主日義的社会改革者ペスタロノチーは,か のフィヒテやシラー等と同様に,フランス革命に歴史 的必然性を認め,感激を以て其れを迎えたのであった。 しかし,この革命によって,個々入の権利や安寧につ いて何等問う所のない野蛮国が一掃され,全市民が価 値と自然の権利とを与えられ,個々人が国家権力の干 渉から保護され1道徳的生活が更新されるであろうと する彼の望みは1ジャコバン党員の殺気立つた行為, 古い暴君政治の地位に代るに野蛮なサンスキュロソテ 覚員の専制政治,其等を目の当りに見て全く失われ, 正に幻滅の悲哀を感じさせられたのであった。かかる 祖国の危機に直面し,身を以て憂い,沈痛の思いの中に 自らの経験からそ㊧深い解釈と克服とを求めようと, 三年間心血を注いで書きあげたのが,『人類の発達に おける自然の過程についての余が探求』(Meine Na− chforschungen Uber den Gang der Natur in der Entwicklung des Menschensgeschlecht.1797.)(V. S.377−562)である。“玉座の上にあっても木の葉の 屋根の蔭に住っても同じ人間,其の本質から見た入 間,そも彼は何であるか”(III・S・ 145)とPt某の処女 作r隠者の夕暮』(Abendstunde eines Einsiedlers. 1780.)の冒頭で問うた“入間の本質如何”という, 言わば彼の,、唯一の書”であり,終生彼につきまとい 彼を不安ならしめた問題は,此の書において,道徳的 及び社会的,政治的方面から答えられている。そして 例えば,全生活は道徳化された家長的状態の更新等に よって健全なものとなり得る,とい5ような,1792年 頃まで彼に抱懐されていた希望は完全に葬られ,権力 と正義,社会的生活と道徳的現存在と.の聞の緊張が根 本的なものにまで掘下げられて,人間の聾心に置かれ ている。 ペスタロッチーの人間観は彼の全著作を通じで解明 されるべきことは言うまでもないが,現代の私と.して は到底為し得ることでなく,取敢えず此の『探究』を 中心に考察してみたい。 *ペスタロッチーの原文からの引用は,総て次のテ キストによった。文申括弧内の数字は,例えば(III・ S.145)は全集第三巻145頁を示している。 Heinrich Pestalozzi. Werke in 8 Banden, Gede− nkausgabe zu seinem 200. Geburtstage. hrsg. v. Paul Baumgartner. Erlenbach−Zurich. 1945−6. 1 周知の如く,ヴォルテ・・一ルやルソー以来,ペスタロ ッチーの時代は,入間や国家等に関する問題を特に発 生史的に答え,其れに歴史哲学の衣服を纏わせるとい う方法を好んで用いたが,ペスロタノチーにおいても, イ我とは何ぞや,人類とは何ぞやP”という問題は, 、,A類の発達における自然の過程’の問題となって答 えられている。そして入類の発達は,“動物的t「(若し くは〃自然的t「)(tierish, natUrlich)状態, 〃社会的” (gesellschaftlich)状態,“道徳的’ノ(sittlich)状態の三 段階に区別されている。 先ず動吻的状態にあっては,人々は自らの本態に導 かれ,生活に必要なものは思うがままに与えられ,欲 望は自然に満され,人及び動物た対しては本能的な好 意(iten物的好意tt tierische Wohlwollen)を有し・ 努力も,苦痛も,不安もなく,只管,安楽にして,140 滋 大 紀 要 第 5 号 1 9 5 6 ,無邪気”(Unschuld)な状態が想定されている。 即ち,本能と好意という,対立する二極が調和されて いる状態。彼は其れを“堕落せざる動物的状態”(un− verdorben tireischer Zustand)と名付けるのであ る。固よりかくの如き状態は,幼児が此の世に生れ出 る瞬間にしか存在しない。勿論其れに比較的接近して いる状態を,彼は例えば小さな子供や,或いは自らの 一群を貢税なしに自由に放し得る牧入の中に見出して いるとはいうものの,今や本能的な“呑気さ”(Beh− aglichkeit)は容易に得られなくなり,外部から絶え ず危害を加えられ,不安や心配が自覚されるや否や, かかる調和は破られるのである。ペスタロソチーはか かる状態を印象深い比喩を以て語っている。“私は洞 窟の中に住む人聞を見る。彼は其の洞窟の中で総ての 自然力の掠奪を受けてさまよっている。彼よりも強い 者が彼をずたずたに引裂く。彼より弱い者は彼に毒を 与える。太陽は彼の泉を澗らす。雨は彼の洞窟を泥土 で汚す。川の流れは彼の住居の土手を荒す。そして彼 は砂ばかりの野原に彼の墓を見付ける。風は激しく吹 いて彼をして盲目的ならしめ,沼の毒気は彼から彼の 呼吸を奪う。そして彼が三日間一尾の魚も,又一匹の 鼠も発見しない時には彼は死ぬのである。にも拘らず 彼は総ゆる地帯において彼の生存を保ち,到る所にお いて総て地上の害悪に打勝っている。tS(V. S.424) と。かく,1,我々の動物的自然というタク1・,即ち本 能と,我々の動物的調和と1・う絃,即ち動物的好意と が,我々の裡において無爵かつ不確実になり始め る,其の点からして,我々の自然の動物的堕落が始ま るのである。”(V.S.456)即ち,入間の裡なる本能 的な欲望を容易に満足させ得ない限り,人は特別に其 れを達成する為の多くの事柄を考え,満足が困難とな ればなる程,況んや外部からの危害や脅迫を加えられ るに及んでは,益々本能は緊張を増し,生活安全と享 楽への努力は一層意識的となり,慎重となり,総ゆる 力と手段を尽しての抵抗が考慮されるのである。此処 に人間の本性に根づく,,我欲”(Selbstsucht)が力を 強め,,,堕落せる(verdorben)動物的(自然的)状 態’となり,恐怖と憎悪,好適と狡猜等が此処から形 成され,更に利得と権力が生じるのである。 しかし此の混沌の中に,同族相殺み合う総ゆる闘 争,永遠の争いの中に,却ってその事を通じて,人は 既の方法では真の平和は決して招来し得ないし,又他 の方法が可能である,という事を静かに認めるに到 る。“1血を滴らす地上の平和は,彼を如何に刺戟する としても,彼は此れに堪えることは出来ない。彼は日 の光受くる北竜の樹蔭において気力尽ぎ果てる。彼が 2g)り余る程の御を早出す所において,一匹の蚊が彼を 殺す事もある。彼が欠乏に苦しんでいる所において は,彼の憤りが彼を殺す事さえある。総ゆる地位にお いて彼は更により良き権利を渇望する。彼の棍棒の権 利を求めるよりも更に良き権利を渇望する。総ゆる地 位において彼は彼の同族との戦に倦む。総ゆる地位に おいて彼は,彼が殺害する人との和合を渇望する。” (V.S.424y此処においてかかるうつろな憧れは他入 との共同意識となって現われる。“一個口石も彼にと って重すぎる。一本の枝も彼にとっては高すぎる。彼 は感ずる。若し今一入の入が自分の側にいたならば, 自分は石を持上げ,枝から果実を取るであろう,と。 今や彼は一人の人を石の側に発見する。枝の下に発見 する。飢の如き,又非常な渇の如き感情が彼を駆りや る。彼は其の石の側の其の枝の下の所に行かざるを得 ない。今や彼は其の人の側に立っている。彼の眼の中 には未だ立て其の中に輝いたことのないまなざしがあ り の コ る。其れは,我々は相互に助け合う事が出来る,とい う考えである。隣人の眼にも同様なまなざしが輝いて いる。彼等の胸は波立って来る。彼等は彼等が未だ曽 て感じた事のないものを感じる。彼等の手は互に絡み 合い,彼等は石を持上げる。彼等は枝を折取る。今や 彼等は彼等が未だ曽て笑った事のない笑いを笑う。彼 等は彼等が一致し得る;事を感じる。”(V.S.425)iEヒの 自由な,幸福をもたらす笑いと握手,其れから発展す る,互に話し合う言葉,此処に,“堕落せざる動物的 状態”に根ざす,t,好意’(Wohlwollen)の萌芽が発展 する。 かく,堕落した動物的(自然的)状態にある人聞の 、治りなさ”から,生活の悩みが加わるに従い,やむ なく相互に歩み寄り,相互の契約によって法秩序を作 り出して社会的生活に入り,其処において強者は自ら の財産を保全し,弱者はなお一層損失から護ろうとす る。其れ即ち,,、社会的状態”に入るのであるが,此 処にあっては個々人は動物的欲求の満足を唯一の目的 として,只一定の外的な条件の下で単なる動物的存在 として祉会に従属し,他に奉仕せんとしてではなく, 反対に社会からの助けによって自己の生活を容易なら しめんが為に努力するのであって,其の好意も自己の 利益の為の好意に外ならない。従って,此処に生じ る,,財産,取得,職業,政治,法,此等の総ては,動 物的自由の火除に際して,なお自らの動物的自由を満 足せしめんとする人為的手段’(V.S.461)であるに 外ならない。だから,“社会的状態は,其の本質にお いて,自然的状態の堕落において始まる,万人の万人 に対する闘争(der Krieg aller gegen allen)の継 続である。成程,社会的状態においては,其の形式こ そ変っている魁 しかし,其の為に何等激情は減殺さ
ペスタロッチーの人間観 (村田) 141 れていない。寧ろ反対に,入間は此の状態において, 其の弓形化され,且つ充足されざる自然の全き偏屈と 頑固さとを以て,此の闘争を遂行する。”(V.S.464) 此処では只,外形が文明化しているだけで,其の実は 野蛮状態と変らない,否寧ろ,其れ以上の残忍な戦が なされているのである。自然入には動物的好意があ るのに,社会的人間は社会的状態の重荷の下にあっ て,心情が硬化し,無情冷淡となっているからであ る。,,野蛮人の棍棒が裁縫師の針であり,作家のペソ であり,商人の策略であり,農夫の家畜であり,貴族 の土地であり, 国王の王冠である。t「(V. S.462)表 面は高尚優美の如く見えて,実は其処に残念冷酷な戦 がなされているのが,此の社会的状態である。,社会 的入間そのものは,彼が其の本能の血潮の上に,更に 又,其の好意の墳墓の上に座する事,恰も殺害人が被 害者の血潮の上に座するのと同様なのである。”(V.S. 464) 更に彼は,tt社会的状kQ’tにおいて,野蛮的な利己 主義のii道徳的カムフラージ化t「を殊更に説明する。 既に考察した如く,社会的な法秩序そのものは,其の 本質において実際に道徳的ではあり得ない。其れは個 人的な道徳的な人格としての入間に相応ずるものでは ない。しかし其れが,常に道徳的なll正当性”を以て 真実の“正義”として表わされる事があり得るので ある。,勘物的状態’ρにおいては,簡単に,無頓着で 野蛮的な自然力ttとして現われ,開いた頬当をして戦 に出ていたのが,此処では自ら仮面をかぶり,しかも 事情によっては,階級の名誉,国家倫理,国民道徳, 愛国心,歴史的必然性等の美名によって価値付けよう とする。、、然る時は,礼儀や処世術や制度等という衣 服の下に不正な虚偽の哲学が忍込んで来る。tt(V. S. 434)そして此の“権力の動物的感覚「t,此の仮面をつ けた“支配欲”は何物の前にも止む事はない。“宗教 でさえも,彼等の手中においては彼等の不正な頭や無 情冷酷の惨めな服務の手段であり,又彼等の惨めな警 察や国家の欠陥の埋め草であるにすぎない♂(V.S. 436)かかる,,みせかけの倫理tt(Schein Ethik)によ って,此の段階においては,人間の堕落と緊張とが特 に大きくなる。そして支配者においては不遜や傲慢や 道徳的概念の言われなき逆立ちが惹き起され,他方, 被支配者においては,只単に奴隷根性だけではなく て,道徳的な不具や,鈍い諦めの心憎が生じるのであ る。 しかし此処で忘れてはならない事は,社会的状態そ のものを一定の方向に形成しようと望む力が人間の中 に目覚まされている,という事である。実に堪え難き 形を取った,人間の困窮と抑圧は,若し権力欲や貫徹 欲が専制的な狂暴行為にまで高められる場合には,彼 をして,彼が最も堕落した弊害を出来得る限り妨げ, 権力の濫用を合法的に堅く制限し,公民を権力の濫用 と無節制に対して出来得る限り防禦せんとするような it公民的状態「「(bUrgerlicher Zustand)を得るよ う,決定的に努力せしめるのである。しかし,既に述 べた如く,絶体的な正義とは此の段階にあっては其れ 自身矛盾である。と言って,国家は権力的な性格を解 き得ない。しからば其の事が,人間を全然tbu物的状 態7に再び陥らせるのではなかろうか。しかしペスタ ロソチーは,仮令専制的な秩序であっても秩序一般の 放棄よりはなお良いとする。かくて彼は,只単にフラ ンス革命とナポレオンによって解き放たれた混乱の中 での政治的目的からだけではなく,もっと深い根拠か ら,人間尊厳を保証し,且つ其れを明瞭に認知するよ うな立憲国家,法治国家を要求した。此の点において 彼の人間観から結果するものは,実に,確固たる政治 的課題である。 他方又,社会的状態が人間にもたらす緊張,即ち, 社会的な分裂と道徳的な歪は,其の対象に完全な人聞 性と真実の正義を希求するに到る。例えば“Recht” という一つの言葉の中に,国家的・法律的秩序乃至は 権力の意昧と同時に正義の理念の宮座一一だから止揚 し得ざる緊張の状態にあることの事柄が包含されてい るという事,其れは,恰かも社会的・国家的現存在と いう肉の中に,より高い道徳的要求が刺として刺さっ ている事を表わしていると言って良い。倫理的カムア ラージを行った所謂権利状態においては,我慾と支配 欲とが一層甚だしいが故に,だから此処では入間の緊 張と奇形化とが一層大きくなるが故に,“奥底におい て満足せんとして,tt,1より善き正当さ”に憧れる人聞 は,其の克服を求め,人間の入格的関係を憧瓦るので ある。即ち,真実なる道徳的正義への深い憧憬,言い 換えれば,人格的領域における帰依と愛と誠実への深 い画憬に対する基礎が其処に芽生えるのである。其れ はt,堕落せざる動物的状態”の,,動物的好意”の中に 共の出発点を有し,“堕落せる動物的状態”において も亦示され得るものである。今までの社会的状態で示 し得た,“正しい相互的関係へのにぶい憧れ”は,先 の動物的状態でと同様に,強化され,具体化されてお り,且つ又一方,利己的な本能が社会的権利の中でよ り多く働き続けている。故に社会的状態は,今までに 述べられた二つの段階の如く,二極性(DoPPelpolig− keit)を示し,更に詳しく言えば.先のと同様に,無 条件的に,,利己的な極”の方が他に優先し,他の力は 言わば潤われながら現われているのであって,未だ本 来形成的な生命力とはなっていないのである。
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滋夫紀要
舞 5 号
t g S 6 皿 社会的状態にあっては,かの動物的状態にと同様 に,利己的な本能によって支配される限り,又,真正 な入格的結合とより深い満足への憧れが未だ満たされ ずに留る限り,入閤は,社会的現存在を乗り越えて, より高い,より純粋な生存形式へと促されるのであ る。恐らく,今までは境遇や権力欲によって単に“駆 られたltものが,今最後に,彼は彼自らが手綱を掴 み,そして,自らに大切なことは,自己の権力や享楽 や外的な輝きではなく,自己自身を制禦し,酔化する ことによって初めて真に幸福となり,自由となる,と いう事であると思いつくのである。其処において入間 は初めて最も深い意昧において彼の行動の主体とな り,彼の生活も精神的に形成する者となり,最早や境 遇や情欲に簡単に引渡されないで,却って平等に力強 く対処する。即ち,人聞が境遇に引渡されるならば, ’境遇が人間を作る。ts(Die Umsttinde machen den Menschen)しかし同時に彼が意欲するならば, ll人 聞が境遇を作る。t’(Der Mensch macht die Um・ stande)(V・S・429)而して,,,入間は,自らを,自ら の意志に従って様々に御してゆく一つの力を,自己自 身の裡に持つのである。”(ditto.)此処において今まで のとは違った,正しく百八十度の転回が見られる。其 れは,,,汝が単なる感性的自然である限りにおいては・ 大死一番の跳躍(Salto mortale)である。”(V. S.418) さて,道徳的行為とは,t,克己”と,,我欲”を捨て る事を意味する。ペスタロッチーの見解によれば,人 聞が彼の内的な,道徳的な自由を獲得するのは,彼自 身其の全生涯を通じて実現せんと努めたのと等しく, 人間が自らの自我を度外視して他に仕える事によって である。私が自ら自己の裡なる本能的なもの,自己中 心的なものから断乎として身を転じ,神的な愛の精神 によって生活し,活動する事によってこそ,私は, 、,私自身の所dett(Werk meiner selbst)なのであ る。即ち,ii自然の所産(Werk der Natur)として は(即ち動物的状態においては),私は此の世界にお いて自分が欲しくてたまらない事を為すのを自由と感 じ,自分に有用な事を為すのを是認する。私の種族の 所産(Werk meines Geschlechts)としては(即ち 社会的状態においては),私は此の世界において此の 境遇が自らに履行を命ずる事を行い,其れに耐える事 を境遇と契約とによって結ばれていると感じる。私自 身の所産としては(即ち道徳的状態においては),私 は自らの動物的自然や自らの社会的境遇の我欲に従属 しないと感じ,自らを聖にし,自らの周囲を祝福する 事を行うのを等しく是認し,等しく義務とするのであ る。tt(V. S.514)此れを以て全段階を通じて久し』く 希求して来た,其の深い満足と内的な休息を得るので ある。だから或る意味において,人間とは本来,高度 な段階において堕落せざる自然状態に還帰するとも言 い得よう。 道徳的行為とは,上述した如く,常に、,他者への奉 仕”である。しかし,此の道徳的要求そのものは,個 々の入間にli全人格的1)(ganz pers6nlich)に向け’ら れる。だから此処で肝要なのは,他の万人を慮る事 のない“入格的存在t「.(Person)とての人間である 事である。“私は此の世界の一切の事物を,自らの動 物的要求にも依存せず,:工臨らの社会的関係にも依存 せずに,只管,自らの内面的向上に寄与せしめんと する観点においてのみ表象し,或は拒否せんとする力 を,私自身の内に持つ。此の力は自らの自然の奥底に コ コ の コ おいて独立しているものである。即ち,其の本質は決 して私の自然の何等かの他の力の結果ではない。其れ は,私が存在するが故に存在し,又,私は,其れが存 在するが故に存在する。其れは,本質的に私に内在せ る感情,即ち,私が私の為すべき事を私の意欲する事 の法則と成す時に,私は私自身を完成する,という感 情から生じる。’s(V.S.494)此の言葉の中にh我々の 最後の念願たる人間生命の内的酔化と更に此れが実現 の可能根拠としての人間の意志の自律が確信されてい る。しかも,、道徳性とは全個人的(ganz individuell) であり,二者の間に成立しない。如何なる人間と錐 も,私に代って,、我在り,’と感じる事が出来ない♂ 如何なる開聞と錐も,私に代って,,我道徳的なり’ と感じる事が出来ない。”(V.S.494)従って道徳性は 汝への真正なる奉仕,真実の愛の中に其の意味を有 し,又,其れは,完全な入格的傾注と個人的な生存に 強く結びつくものである。逆に言えば,先ず人聞は, かかる克己と奉仕の中に自らのより深い生存を得るの である。 III 入間の判断や挙動其の他の一切は,悉く以上の三 状態に相応して変化するのであるが,かくして今や漸 く,“好意t「よりtt愛”へ,更に“宗教”へという, 人間生命の本源への遡及が遂行せられ,しかも其れと 関連的に,其の二二にあった“我欲”による異常な歪 が[ヒ揚せられるに及び,社会の生活諸形式そのものの 持つ客観的な独自性が,本来の位置を回復して来るの である。ペスタロソチーは実例として,商人の,其の 使用人たる労働者に対する関係を導いている。,i自ら に従属する労働者を其の資産の加工の為に自らの手中 に現存する手段としか君倣さない商人は,自然の所産ベスタロヅチーの人間観 (村田) 143 に劣る種族の所産である(即ち動物的状態にある)。 労働者を同等の興野を以て其の自然の要求を満足させ る代償を必要とする,独立した被造物と看紛すべく, 規則の強制によって強要されている商人は,t.其の権利 を承認する種族の所産である(即ち社会的状態にあ る)。 だから,規則の強制なしに其れを念頭に置く商 入は,道徳的な入間である。”と。(V.S.534)そして 我々の生存は,三つの全状態の入混つた物(lneinan・ der)である,という事が出来る。その際,動物的状 態は,言わば,我々の生存の自然的根抵である。そし て道徳的状態は,努力して獲得すべき目標を示してい る。しかし,社会的状態は,我々入類が動物的状態か ら道徳的状態にまで発展して行く為の,不可避的な, 媒介,道程,道行きなのである。更に此処で重要な事 は,ペス腸胃ッチ∼が,入間の中に生れた瞬間から潜 んでおり,国家的・社会的な権利範囲と道徳性と名付 けたものの中に完全に刻印されるような,入間的努力 の根源的両極性を呈示している事である。実に,人間 が自己自身において二つに分割されており,従って常 に緊張の中に生きているという事は,彼の人間学的思 想の核心とも言い得よう。そして一極においては,我 々の入間存在の公的な・社会的な面が問題となってお り,他の一極においては.我々の人間存在の人格的・ 私的な面が問題となっている。此の,『探究』の中に 画き出された人聞の両極性は,更に後期の作品,『余 が時代及び余が祖国の無邪気・真面目並びに宏量に対 して』(An die Unschuld, den Ernst und den Edel・ mut meines Zeitalters und meines Vaterlands. 1814/15)(VIII. S.5−250)の中で,一層明瞭に分析さ れている。今其れに対して詳論する暇はないが,此処 においても,感覚的・動物的(sinnlich・tierisch),集 合的(Kollektiv),個病的(individue11)の三段階を 区別し,集合的存在と個入的存在とを対立せしめ,其 れに“文明’t(Zivilisation)とit文化n(K:ultur)とを 夫々対応させている。即ち,言う所の、、3(明”を特質 付ける“fi含的生存’とは『探究』の場合の“社会的 状態”に相通じ,其れに対して“文化「「を特質付ける “個入的生存’とはかの,、道徳的状態”と相通じる。 そして,人間が真に人聞でありたいと望む限り,.玉 座の上にあっても木の葉の屋根の蔭に住っても,”何 人と錐も,此の両極性を避ける事が出来ないのであ る。何故なら,人聞が只生存の社会的な面だけしか見 ないのでは,彼は既に人聞ではなく,職業の不具者, 国家の不具者であるから。だと言って,人間が市民的 世界の外部で“tw道徳的ttに行動せんと望むのも亦, やはり人間ではない。其れでは,彼は,社会や国家の 中に生れて来た,歴史的・社会的な存在ではないから である。だから,“我々人類の集合的生活そのものは 個々入の要求に矛盾し,入生の一段高い見解,入生の 本質的使命とは永劫に矛盾するような要求を抱くもの である。t「(VIII. S.106)
IV
此処に真正の人間的・道徳的観点と単なる市民的観 点との間の,具体的な人格的な克服が求められなけれ ばならない。即ち,入は国家的全体の中に生存してい るが,社会や国家が言い,命令するものを,自らの倫 理的決定の究局的なものと君倣す必要はない。又,人 は不可避的に集合的社会の一部分ではあるが,しかし 責任を意識する人格体である事に一切をかけなければ ならない。だが一一方叉, “私の道徳性とは,元来,自 己を酔化せんとする,或は通俗の言葉で正しい事を為 さんとする純粋意志を,一定度合の私の認識に,及び 一定状態の私の諸関係に結合する仕方と態度とに外な らない。そして,父として,母として,官憲として, 臣下として,自由人として,奴隷として,かかる一切 の諸関係において,私自身の利益や私自身の満足とよ りは,寧ろ私の確信によれば,監督,養育,保護剛権 利並びに服従,忠実,感謝,帰依なる責を負える一切 の対人の便益と満足とを求めんとする,純粋にして他 意なき労を自らにとらんとする方式と態度とに主なら ない。”(V.S.501) ペスタロソチーによれば,此の止揚し難い緊張は, 義務の関係する範囲が狭ければ狭い程緩和する。彼の 所謂“近Pt’t’ iNahe)の原理が此処に問題となる所以 である。即ち,,、自然が私の動物的存在と道徳的対象 に結びつける事が近ければ近い程,又成るべく種々の 学力・ら,共の動物的福利並びに動物的苦痛が私に触れ れば触れる程,私は愈々多く其処に道徳性への刺戟と 動機と手段とを見出す。自然が私の動物的存在を道徳 的対象から遠ざげれば遠ざける程,かかる道徳性への 刺戟と動機と手段とを其処に見出す事は愈々少くな る。tS(V. S.502)更にペスPt Pソテーによると,人聞 は群衆としては根本的に悪である。だから民衆の生 活が群衆生活の面に従って:方向を定めるとすれば民衆 生活は堕落する外ない。It人間が集合的生活を営む場 合においでは.我々本性の購入的欠陥という一切の感 情が消滅し,人類の動物的な共同社会という感情が入 込むのである。此の感情は其の本性上無差恥であり, 非良心的である。tt(VIII S.161) だから,人格的な ものを社会が妥当せしめるならば,言い換えれば,某 の社会からは家族と全入格的結合とが聖なるものと看 倣され,合法的に強化され,人間が其の人格的陶冶に おいて支えられ,強化されたならば,道徳性は愈々繁144 滋 大 紀 要
第 5 号
1 9 5 6 卜するのである。しかし反対に,若し個々入が国家の 器官となり,又或る方法で,生活の技術化や官僚化や 組織化によって群衆化されるならば,事情によっては 道徳的生活は正に窒息させられ,人間的実体が徒消さ れる事は明らかである。次には直ちに,支配者には暴 力活動が,被支配者には奴隷根性が培養されるのであ る。だから,危険の生じる可能性の最も強い,高度に 技術化された生活においては,技術化ど群衆とを,少 くとも個人的なものの対極の前で決然と停止せしめ, 一定の方法で制限するような揖防を築き,禍を避けな ければならない事になる。即ち,国家における権力や 組織を法的に制限する事によって,市民各個々入の基 本的権利と基本酌自由とを承認する事によって,立憲 的機関に対する支配の責任性によって,要するに各個 々入及び彼自身の責任意識に対して尊敬の念を抱く事 によって,個人的・道徳的生活を可能にしなければな らないのである。しかも,国家並びに社会は,居間や 家庭的感情や宗教や人格的陶冶を強化する為に,直接 的な干渉によってでは決してなく,実際には弱いもの ではなく強いものであるような賢明な自己制限によっ て,一切の事を行わなければならない。ペスタロッチ ーは,此の方向において其の時代に度々訴え,特に. r余が時代……』の中で,国家と社会とは,高度な生 活を破滅せしめるものに対して防禦する為に,現存在 の集合盤面に正しい形式と制限とを与えるべきである と,強く呼びかけている。しかし其れは,入間が入絡 性の陶冶の為に社会的・国家的領域を軽蔑して顧み ず,不遜な自足の中に私的生活を行うというのでは決 してなく,寧1ろ反対に,政治的範囲が正しい視覚を維 持し,権力が生じ,群衆的生存が増大するような事の ないように,各個々人が共同責任を持たなければなら ない,というのである。そうでなかったならば,只単 に国家的・社会的生活を破滅させるだけではなく,道 徳的・人格的生活をも亦破滅させる事となるであろ う。 ペスタロソチーは当時の政治的世界を見渡して,此 の事を確信したのであった。彼は国家と社会の現状を 嘆いて反語的に言う。、.我々の立法は非常な高さに達 しており,其の為に最早入間というものを考える事の 出来ないようになっている。”(V.S.388) しかし彼 は其れに絶望しないで人絡的発展と人間的尊厳を法的 に保証して道徳的精神に笑際に活動の余地を与えるよ うな,彼の民衆の国家秩序の為に,不屈の精神を以て 戦ったのである。彼が民衆を堕落させたあの三つの絶 対主義一t,総ゆる国家の自立性の極端な衰弱という 様式(アンシャン・レジr一・ム)。其の国家的衰弱によ ってのみ惹き起された,ジャコバン党の民衆一揆。正 に此の原因によつでのみ起された,ジャコバン覚の野 蛮的状態から野蛮的政治への転換であり,人類そのも のの腐敗に導く狭猜な野蛮的技術への転換(ナポレオ ンの専制主義)。(VII1. S.43)一一を体験した後,1814 年から』15年に法治国家の始まりを見て,喜びながら, しかし又憂いながら,次の如く尋ねている。“我々は 今,言わば我々の悩みの此の三重の形式に只恐れをな し,言わば只其の形式の前をこそこそと避けて,人間 性,公民権,公量の原:理に移っているのではないか?tt (ditto・)と。今日我々が屡々目の当りに見る,政治的 妥協,無関心,逃避,事勿れ主義等が,世事一般の態 度である事を,ペスタロソチーは既によく知ってい た。そして特に,国家は其れが道徳的・入汐的生活を 自由にする時,其の限りにおいてのみ価値がある。同 時に,前聞は若し彼が生活に対して政治的に考慮され たならば,此の生活に値する。という事を強調したと 言わなければならない。 かくペスタロッチーの人聞把握が常に此の活動的な 政治的態度と結ばれていたにも拘らず,彼は,内的生 活の浄福は単に外的な,市民的な秩序から期待するの は根本的に誤っている,と確信する。其の内的生活の 浄福は,恐らく個人的な生活形式の事柄であり,入聞 陶冶の事柄であろう。,生活のより高き見方なしに は,人聞本性は,如何なる種類の公民的な憲法によっ ても,大衆としての其れ自身の如何なる種類の構成に よっても,又其れの如何なる種類の集合的生存そのも のによっても,醇化されるものではない。”(VIIL S. 107)“我々をして人聞たらしめよ,其の上で我々が更 に公民となり,更に国家となり得る為に!tt(VIII. S. 47)かくして彼は,,道徳的,精神的,公民的に沈ん だヨーロンパを救済するには,教育,入間性への陶 冶,人間陶冶による外可能でない。”(VIII. S.187) といみじくも喝破する。 しかも,,屈家及び一切の 国家施設が人聞陶冶及び国民文化の為に現に行わず, 叉,為し得ざる事をば,我々はなさねばならない。” (Vm. S.59)真正な全教育学的努力の重点は実に此 処から生じて来る。同様に,彼の人聞観と教育原理と の密接な関連が明らかとなる。即ち,我々の文化生活 が人格的な,内的な生存の強化によって健全となり得 るものである限り,人間の人間にまでの教育が彼にと って聖なる課題とならねばならない。要するに,彼が 年月の流れの中に,入漁存在の政治的・社会的な面を 懐疑的に観察する事を学び,人間的生存の両極が彼に とって一層緊張したものとなった時にこそ,其の解決 を人間の内なるものに求めて,教育学白勺労作が一屠意 昧あるものとならざるを得なかったのである。故に彼 がやがて其の被覆を取去って,『政治の哲学』を完成ベスタロッチーの人間観 (村田) 145 した後に,後は愈々以て狭い意昧での教育学者,若し くは教育実践家となり(特にシュタンツ時代1799年以 来),更にメトーデの問題に鋭く近づいて行った事も 決して偶然でばない。 【交 献】 Heinrich Pestalozzi, Werke in acht Btinden Gedekausgabe zu seinem 200. Geburtstag. hrsg. v. Paul Baumgartner. Erlenbach−Zttrich. 1945−6. Bd. V. Meine Nachforschungen Uber den Gang der Natur in der Entwicklung des Menschen− geschlechts. Bd. VIII. An die Unschld, den Ernst und den Edelmut meines Zeitalters und meines Vater− lands. Albert Reble: Pestalozzis Metis’chenbild und die Gegenwart. Stuttgart. 1952. Albert Reble: Geschichte der Padagogik. Stuttgart. 1951. Karl M田ler:Johann Heinrich Pestalozzi. Stuttgart.1952.