琉球の創造力(四) ー漂流物からみた沖縄文化論ー
著者
比嘉 佑典
著者別名
HIGA Yuten
雑誌名
アジア・アフリカ文化研究所研究年報
巻
35
ページ
16-34
発行年
2000
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00009435/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja琉
球
の
創
造
力
(
四
)
││漂流物からみた沖縄文化論││
一、漂流物から見たチャンプルI
文化の視点ω
漂流物から見た文化の発想 漂流物といえば、島崎藤村の﹁榔子の実﹂の詩を思い出す。遥か南方の、 名も知らぬ遠き島より流れ寄る榔子の実一つの歌は、叙情詩として人々の 心 を 打 っ た 。 ( 1 ) その歌の発端は柳田国男であるが、彼の﹃海上の道﹄でこのことにふれ ながら、綿子の実の流れ着く浜辺について民俗学の目が当てられる。﹁日 本 の 海 端 に 、 ココ榔子の実が流れ着くということは、決して千年ばかりの 新しい歴史ではなかったはずであるが、書物で海外の知識を学び取ろうと した者は、かえって、水い閉それを知らずにいた﹂。﹁多数の漂着物は永い年 代に亘って、誰一人省みる者もなく、空しく磯山の陰に朽ち去った﹂ 0 ﹁ 人 と榔子の実とを一つに見ょうとすることはもとより不倫な話に相違ないが、 島の人生最初を考えて見れば、これもまた漂着以外の機会はあり得なかっ た﹂。﹁もちろん私は榔子の実の漂着地の一つをもって、原始日本人の上陸 点と見ょうとするものではない。しかし少なくとも日本の海岸線の数千里 ム ノ、比
嘉
典
佑
の延長の中で、特に殊邦の物の流れ寄りやすい区域が限られ、従って久し く世に知られずに過ぎたという点は参考になり、同時にまた簡単なる学校 地図によって、ここが近いからこの辺から渡ってきたろうなどと、まるで 飛石伝いのような早合点をする人を、笑ってもよいことになるのである﹂ o 柳田はこう指摘しながら海部について語り、特に糸満人を通して沖縄文 化にふれながらこうも語っている。﹁一人糸満の海底生物学のみと言わず、 かつては沖縄文化の中枢とも認められたトキ取り・エカ取りの知識なども、 人こそ知らね年久しい自然観察と、その丹念な綜合とが基礎となって、農 耕漁携の生産面は言うに及ばす、神祭や生死の儀式にも一貫して、力強い 指導原理を打ち立てていたらしく、単なる方術の類いでなかったことは、 僅かに残った遺跡からも窺われるのだが、惜しいかな文字の伝記に乏しく、 外部に立つ者はもう利用することができない。海を環っている潮流のこま ごまとした枝分かれ、常吹く風の季節ごとの移動など、やがては綿密な学 者 の 調 査 が 、 一々の地区について説明してくれる日が来るのだろうけれど も、今は何分にもまだその便宜がなく、たとえば支那南海の黒潮に乗って という類いの大胆な一説が、誰にも笑われずに閤歩する時代なのだから、当分はやはり従来の切れ切れの経験の跡を繋いで行くの他はないのであ る ﹂ 。 和辻哲郎の ﹁風土﹂とこの柳田国男の ﹃ 海 上 の 道 ﹄ の両書は、農業高校 を出た筆者にとって深い印象を与えてくれた。琉球の創造力を書くに当たつ て、両書はその基盤になっている。 沖縄の︿石敢雷﹀の研究で、沖縄本島北部・ゃんばるの地域を調査して いる時に、ゃんばる原人に会った。ゃんばる原人とは、筆者がつけたニツ ク ネ
l
ムである。実はその人は仲村保(昭和十九年生まれて東村教育委 員会の職員である。この男(親しみを込めて)、生粋のやんばら l ( ゃ ん ばる人) である。他人は、何とも変わった男だと思っているようだが、筆 者にはそれこそまともな、ゃんばる自然人・原人に映るのである。 ( 2 ) 彼との付き合いは平成十年からである。お互いに﹁山原島酒之会﹂のメ ンパーである。その結成式の折りに知り合った。その後、彼に案内されて、 望遠鏡や拡大鏡を手に、 ゃんばるの自然を隅から隅まで案内・教示いただ いた。ゃんばるの植物群、生物の生態、渡り鳥の観察、写真の撮り方、自 然の歩き方、風景の見方、野宿の仕方等々、実地で教えていただいた。彼 は、ゃんばるの自然にとりつかれて以来、実に二十数年間ゃんばるの白然 を歩き回ったというから、キャリアからして、プロ級の大ベテランである。 ゃんばるの大自然を見つめる彼の眼差しは鋭いものがあり、その態度に筆 者はやんばる原人の姿をみたのである。筆者もやんばる生まれのやんばる 育ちであるが、これほどまでにやんばるにこだわる男を見たことがない。 ( 3 ) つれづれにつづった彼の著書﹃ぴんぴん﹄は、独特の語り口 そ う い え ば 、 でやんばるの自然を描き出していて、彼の原人的性格がはっきり現れてい 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) る。﹁比嘉さん、わたしはね、二十数年間山歩きをしましたが、、 、
7 ニ ト ノ M J I u -吋 ' h まれたことは一度もありません。また、首吊り自殺をはかった死体にも、 一度も会わなかったのは幸いですよ﹂。 一 瞬 ど き っ と し た が 、 ﹁ 山 を 愛 し 、 山にやさしい男のあなたに、山も決して悪いことも、 いやなことも、かく して見せないんでしょう。きっとあなたに、 いつも美しく見られたいので すよ﹂と言、っと、﹁山にはね、それぞれの表情があるんですよ。季節毎に みせる表情もね。出ひとつひとつは個性をもっていますよ﹂。 いや、この 人にはまいったね。 さらに、ゃんばるの生物を撮った彼の写真集﹁山原の美しい野鳥と自 ( 4 ) 狭山﹂は、プロ写真家も舌を巻くほどのできばえである。写真の技術がうま いというものではなく、 ゃんばるクイナやノグチゲラやさまざまな動物・ 生物たちのとらえかたが実にリアルでポーズがおもしろく、うまく撮って いるのである。彼いわく﹁熱中し真剣に、しかもごく自然にカメラを向け ると、向こうの動物たちがいいポ1
ズをとってくれるんです。動物だって いやなところは撮ってほしくないですから、私のカメラの前ではいいポl
ズをとるんですよ﹂と笑いながら冗談まじりに語っていたが、動物たちと の関係には自信がある語り口で、﹁ゃんばるの動物たちはみんな私のこと を知っていますよ﹂まるで相棒のように言った。自然をくまなく知りつく していないと、あういう生物たちとのいい関係はないだろう。 そして、もっともやんばる原人らしいのは、かつてのやんばるの自然破 壊に対する反対闘争である。今でも語り草になっているという。ある人は、 ﹁彼がいなかったら、今頃ゃんばるは、はげ山になっていたはずだ﹂と言つ ていた。ゃんばるの自然を断固として守り通したところに原人の原型(姿) 七琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) を見たのである。 その彼が、﹁先生、私は最近、海に関心がありましてね。海の漂流物を 集めているんですよ﹂と何げなくいうのである。案内された山小屋の中に、 驚くほど沢山の漂流物(主に漁具やベットボトル)が山積みされていたの である。この男は一体何者?そう見ていると、この男はいよいよ本物のや んばる原人に見えてきた。 漂流物についての彼の説明はとてもユニークで、﹁一つ一つの漂流物に ついて、漂流のドラマを書いた漂流物博物館を作りたいですね﹂と言い出 し、実際漂流物博物館(大きな山小屋)を作ったのである。現在、未整理 のまま陳列されている状態であるが、その夢はでっかい。﹁漂流物(漂着 物)をじっと見ているとですね、どのような旅をしてこの海岸にたどり着 いたか思い浮かべるとですね、海のジプシー気分になるんですよ﹂ゃんば るのボヘミアン仲村らしい発言である。 ﹁いつもやんばるの山野を見ていたのですが、このごろは、漂流物を見 ていると、漂着物からアジアを見ることに興味が沸いてきましてね。漂流 物の国籍を調べているうちに、関心を寄せるようになったんですよ﹂。そ ういえば、彼の館には中園、朝鮮、台湾の大きな地図がかかげであった。 漂流物が、地図をたよりに、 アジアの各地を案内してくれたに違いない。 ﹁先生、人間は交易や交流をしていますが、漂流物も人間と同様に、勝 手にあちこち漂流しているんですよ。最近はよく地図を見るようになりま した﹂。このなにげないことばに、筆者は﹁はつ﹂とあることを思いつい たのである。そうすると、沖縄のチャンプル l 文化と漂流物、柳田の﹁海 上の道﹄と漂流物、とイメージが次々と浮かんできた。そうだ、漂流物か J¥ らみた沖縄チャンプル l 文化論を展開してみようと思い立ったのである。 この発想の転換は、仲村氏がヒントを与えてくれたのである。 仮説として、沖縄という地理的風土では、人、もの、文化の交流はチヤ ン プ ル i (ごちゃまぜ)的色彩が濃いとすれば、多分漂流物もいろいろな 国々から流れ着いているに違いない、ということである。そういう仮説を 立てて、本論文は漂流物・漂流を視座に、沖縄の文化論を展開して行きた い と 思 う 。 (2) アジアをつなぐ海域構想からのヒント いろいろ研究の構想を練っていたときに、 ( 5 ) 浜下武志の著書﹃沖縄入門│アジアをつなぐ海域構想│﹄に出会った。そ 仲村氏の漂流物に刺激され、 の著者のねらいは、沖縄の聞かれた海域を背景にして、歴史的に、日本と 中園、東アジア・東南アジア、さらに世界をつなぐ結ぴ目の役割を果たし たことを、主に琉球王国の外交文書﹁歴代宝案﹂を通して海域ネットワ l クのダイナミズムを説き明かしているが、筆者が注目したのは、沖縄の位 置・海域世界的発想である。浜下氏の発想は、従来の陸の沖縄に対して ﹁海の沖縄﹂を研究の基礎に置いたことである。 つまり彼にいわせると ﹁地理、すなわち陸の道理や理があるならば、海理すなわち海の道理や理 があってよい。地の利という表現があるならば、当然海の利が考えられて もよい﹂と前置きした上で、﹁しかし、これまでの沖縄研究・沖縄理解は、 必ずしもこのような海の歴史的文脈に沿ったものではなかったといえよう。 私が本書でとりわけ強く意識しているところは、琉球・沖縄史を海域の視 点から捉え直すことによって、現在ならびに将来にわたる、新たな地域像
を考える根拠としたいということである﹂と指掃している。 このような根拠に従えば、﹁海という空間は、まず広域地域を構成する 多文化、多民族・多権力の相互関係を形作らせる性格づけを行っており、 次に沿海経由であれ海域横断航路であれ、大量の物資や人員の輸送を可能 とさせる手段として最も重視された﹂として、海域を利用した交易ネット ワークを展開し、琉球・沖縄の後背地関係(図 1 ) を上げて検討している。 浜下氏は、歴史的にみて、琉球・沖縄に関連する広域地域間関係を構成す げ て い る 。 る広域地域モデルを五つ提起しているが、その中に﹁後背地モデル﹂を上 歴史的後背地モデルは、次の七つの諸関係が結ぼれるとしている。 り①薩摩・九州・日本との関係②朝鮮半島・李氏朝鮮との関係①福建との つ ま 琉球の沖縄の後背地関係 図 1
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琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) ア リ ン ア と の関係① フィリピ ンとの関 係①太平 洋との関 係以上の 広域地域 とのさま ざまな関係によって展開される交易ネットワークを考えている。 このように浜下氏の交易ネットワークの考え方を、筆者は仲村氏の漂流 物にヒントを得て、広域の海域における﹁漂流物﹂の交流に発想を転換・ 置換して、沖縄の海浜にうち上げられた漂流物を調査分析することによっ て、そのことから逆に文化の来た海の道(文化の交流)を解明したいと思、
っ
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二、漂流物のたどり着く島沖縄 文化・人・ものを運ぶル1
ト(経路)を、われわれは道・道路とよんで 海の交差点 いる。道はいろいろなものが行き交うところである。いわば合流・交流地 点である。そこは繁栄と文化の花開くアジマl
( 場 ) -道 と な る 。 ところで、海はどうか。まっ平らな海はすべてが︿道﹀である。凸凹で 険しい陸地に比べれば、海は縦横無尽な自由道路であり、上がり下りの坂 道のない便利な道である。陸地の固定的な道路に対して、海上は流動的な 道 で あ る 。 陸と海の決定的な相違は、不動の陸上道路に対し海洋道路は﹁道そのも の が 動 く ﹂ 、 いわばエスカレーターやベルトコンベヤーみたいなものであ る。陸地の道に、ものを置いても変動はない。海だと海流が自然に運んで くれる。海流、まさに海のベルトコンベヤー式道路である。沖縄のウミン チ ユ ( 海 人 ) は 、 ﹁ 海 人 の 民 族 学 ﹄ ( 秋 道 智 粥 ) が 一 語 る よ う に 、 ﹁ 八 重 山 、 宮古、奄美、トカラ(十島村)はいうにおよばず、九州の五島、四国、隠 岐、八丈島へと魚をもとめていった。さらに、ウミンチユは、ミクロネシ 九琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) アンダマン、ニュ
l
ギニア、ト ( 6 ) レス海峡をふくむ広大な海域で漁携活動を展開してきた﹂のである。もし ァ、フィリピン、カリマンタン、ジャワ、 これらの海域の道を、陸上の道路で行ったとしたら、気の遠くなる話しで ある。動く道・海上の道であればこそ黒潮に乗って疾走して行ったのであ る 不動の道路と流動の道路、ここから発想して、海というものを考えると ﹁海からの発想﹂は途方もない可能性をわれわれに与えてくれる。陸上に 凝り固まって生活している人の︽陸上的常識・発想︾は、地に縛られた国 定的なもので、自由性と柔軟性を欠いている。固定観念的な陸地人間に対 して、海の人は大洋を自由閲達に飛び回る。海の人は潮の流れ ( 道 ) を 読 む。陸上の人にはその発想はない。 古代中国の老子の﹁タオl
・道﹂は、大陸的﹁タオl
・ 道 ﹂ で あ っ た 。 もし、老子が小さな陸地沖縄で大洋の大自然と暮らしていたら、ニライカ ナイ的タオーよりも、もっと大胆な大洋的大感情・海のタオl
・ 大 道 な る ものを発想したのかもしれない。 この海流・潮の道・ものを運ぶ道としての﹁自然道路﹂的に発想を転換 してみると、沖縄は太平洋、東支那海をかかえた大洋道路の中心・交差点 ではないかと考えた。沖縄が﹁もの・人・文化﹂の交流地域であり、チャ ン ブ ルl
文化を形成しているとしたら、そこはまた海流の交差点でその必 然性を自然地理的にももっていたのではないか、それが本論文の根底にあ る 発 想 で あ る 。 二O
沖縄は、海流・海の道の交差点のみならず、台風や季節風にも影響され 風の道・台風の道 る︿風の道﹀も存在する。その風と海流を利用して、遠隔地にまで足をの ばしたのである。十一月ごろになるとミl
ニシ(北風)がやってくる。こ の北風にのってタカ の大群が旋回しながら南下していく。季節 ( サ シ パ ) 風は、進貢船や交易船を西の国・中国に走らせる。 逆にこれらの海路や風の力をかりで、周辺諸国から沖縄に船でやってく る。この間にものや人や文化が合流する。 そればかりではなく、不用品・廃品のゴミ捨て場・海。海に捨てられた 廃品は、それぞれの地域を離れて海をさまよい漂流する。名も知らぬ榔子 の実もその一つである。廃品ばかりではなく、場合によっては船も漂流船 になる可能性もある。この漂流船についても、沖縄は漂着地としてどこの ( 7 ) 海域の島より多いのである。﹃波高し!漂流琉球船﹄(比嘉朝進)の難破船 の記録はそのことを物語っている。 それらの漂流船でやって来た漂流入(民)も数多く、様々な地域・国に またがっている。ちなみに沖縄の各地には、それらの漂流民の墓地が点在 している。詳しいことは定かではないが、漂流民・漂着の民も含めて今後 この漂流民の墓地調査は研究に値すると筆者は考えている。これらの漂流 船は、台風銀座沖縄の影響によるものが多い。しかし、何ゆえ沖縄が古く から台風の通り道であったのだろうか。そのことは、自然地理のなせるこ となのでなんとも説明がつかないが、沖縄が台風の目になっていることが、 この地域に漂流物・船・人を引き寄せる磁場・磁石のはたらきをしている 事実に注目したいのである。沖縄は海域からいえば、黒潮海流圏である。南から北へと大きな黒潮海 流の帯びになっている。漂流物調査をはじめた仲村氏が気づいたことは、 漂流物を分類してみると、意外に韓国の漂流物が多いことだ。黄海 (可色。調印何回)を渡り大量のペットボトルや漁業用のブイ・玉浮(沖縄で はそう呼んでいる。浮玉ともいう)が漂着しているのである。しかも、調 査しているうちに分かったことは、季節により漂流物の漂着地が変わると いうことである。仲村氏の説によると、それは季節風のせいではないかと 指摘する。風が手伝わないとここまで漂着するはずがない、というのであ る。風も計算に入れるべきであると、﹁風の道﹂を強調していた。海面を 吹き抜ける風の道、これも諜流物にとって重要なル
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ト で あ る 。 筆者は、風の道についていろいろ調べているうちに、二枚の地図に出く 図2-夏季の東シナ海
40一
0一
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600 k. 1 :12,000,000 2氾O 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) わした。中国と琉球との関係の文献を調べている中で、野口銭郎著﹃中国 と 琉 球 ﹄ の本を手にしたときに、偶然にも二枚の地図がはさまれていたの である。それは、本の一部ではない。購入者が、何かの都合ではさんでお いたもののようである。筆者にとっては、まさに救いの神であった。それ は﹁夏季の東シナ海﹂(図 2 ) 、﹁冬季の東シナ海﹂(図 3 ) 、 の地図で、風 向、暖流、寒流の方向が一不された地図であった。出所は、岡山口♀己畠a
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円。
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言。賞者著からの写しである。その地図によると、海流と風向の流れ が一目瞭然である。これで、漂流物の経路がはっきりした。暖流、寒流、 風向が沖縄に物を運んでいたのである。沖縄が、地理的に物の集まる交流 地点・合流位置にあることは、チャンプル1
文化を作り出す基盤になって いるといえるだろう。 図3冬季の東シナ海
400 600一
一
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1 : 12,0凹,000 2οo 一 一 一 → 風 向 = 司 令 暖 流 ===:>寒流 Tぉ
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-琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) 一ニ、ゴミの出身地を調べつくした男の調査から ゴミを調べる男 ( 8 ) 朝日新聞の記事(一九九九年一二月一七日)にいわく﹁ごみの出身地調 べました﹂﹁四八
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カ所の海岸を歩く・海外からも続々流れ着く﹂という 見出しで、漂着ゴミの山が写真入りで紹介された。﹁海岸に打ち上げられ ているごみは、どこからながれてきたのだろうか己そのゴミを調べ尽く した人は、山口晴幸教授(防衛大学校・環境地盤工学) で あ る 。 一 九 九 七 年二月から約二年半かけて、北海道のオホーツク海沿いから沖縄与那固ま で計四七九所の海岸を一人で調べたというから、この男の肝っ玉には恐れ 入 っ た 。 山口氏は、はじめは海浜の砂の汚染度を調べているうちに、どこの浜で も漂着ゴミの多いのに驚き全国調査に乗り出したという。しかし運転免許 がないため、パスと自転車と自分の是をたよりに調査したというから驚き である。この男の執念を感じさせられる。ゴミの多いところで、海岸線一 キロあたり五千個を超えるゴミを分類しながら記録して歩いた。 一 日 一 万 五千個を数えるのが限度だったらしい。 これらのごみの調査は、ゴミの表面の文字やバーコードを手がかりに漂 着ゴミの出身地を分類。約三百二十七カ所で外国のゴミをみつけ集計した。 その結果は図4
の 通 り で あ る 。 判別したゴミからみると、南西諸島全体では外国産が日本産を上回った。 それらの外国産を調べると、韓国が三割、中国と台湾が計約六割を占めて いる。北海道の日本海や新潟では日本のゴミが増え、約四割にたっしてい 欝欝欝理璽聾圃園田│ (山口晴幸防衛大学教授による) 漂着ゴミの出身地調査 。日本産と外国産の割合 日本寸 I 外国不
明
与那国島眠総指7 山陰地方 北海道日本海開l
オホーツク海沿岸 下北半島 東京湾、相模湾 図4 (2) 沖縄県のゴミ調査から 山口氏は、沖縄県の沿岸のゴミの調査も行っている。特に離島を中心に、 る。外国産は、韓国産が半分以 上を占めている。オホーツク海 側 で は 、 ロシア産が約三割に達 した。青森県の下北半島では、 外国産の八割が韓国産。日本海 に漂う韓国のゴミが、津軽海峡 を通って太平洋側へかなり大量 に流れていることを示している と い 、 っ 。 ゴミの種類別では、ほとんど がベットボトルや缶、漁具類だ という。仲村氏は、ベットボト ルと漁具類とライター等を集め て い る 。 ち な み に 、 伊平屋島、伊是名島をのぞけば、ほとんどの離島を調査したことになる。 一 九 九 九 年 三 一 月1
四月に行っている先島諸島の調査地は表 1 の 通 り で あ る 。 ( 9 ) 沖縄を含め、彼が行ったゴミ調査を分類整理したのが図 5 である。それ によると、沖縄本島以南先島諸島では、圧倒的に中国産(台湾を含む)ゴ調査地点:沖縄県 調査海岸地点 海岸・海浜名 調j査 日 沖縄県伊平屋島野甫 野市の海岸 日11.3.24 未 調 査 沖縄県伊平屋島 西側lの海岸(A) H11.3.24 沖縄県伊平屋島 くまや洞窟前 (B) H11.3.24 沖縄県伊平屋島 港タ ミナル脇 (C) H11.3.24 沖縄県石垣島白保 白保海岸北側 H11.3.26 沖縄県石垣島平野 平野の海岸西側j H11.3.27 石 垣 島 沖縄県石
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島平久保 平久保灯台下海岸 H 11.3.27 沖縄県石:1!1島星野 星野の海岸 H11.3.28 沖縄県石垣島星野 星野の海岸南側l H11.3.28 沖縄県西表島南側I 南風見田浜 H11.3.29 沖縄県西表島義原・大原 豊原・大原の海岸 H11.3.29 沖縄県西表島高那 高那の海岸(A) H11.3.30 沖縄県西表島高那 高那の海岸 (B) 日11.3.30 西 表 烏 沖縄県西表島大宮 仲間崎の海岸 H11.3.30 沖縄県西表島上原 上原漁業脇の海岸 H11.3.31 沖縄県西表島中野 中野の海岸 日11.3.31 沖縄県西表島上原 上原の海岸(A) H11.4.1 沖縄県西表島k原 上原の海岸 (B) H11.4.1 沖縄県西表島住吉 みみきりの浜 H11.4.1 沖縄県与那国島 ウブドウマイ浜 H11.4. 2 沖縄県与那国島 祖納港一帯の海岸 H11.4. 3 沖縄県与那国島 東崎の海岸 H11.4. 3 与 那 国 島 沖縄県与那国島 ツア浜 H11.4. 4 沖縄県与那国島 トグル浜 H11.4. 4 沖縄県与那国島 ナーマ浜 H11.4.4 沖縄県与那国島 カタブル浜 H11.4.4 沖縄県伊良部島(宮古) 白鳥海岸一帯 H11.4.5 宮 古 島 沖縄県池間島(宮古) 池間島一帯の海岸 H11.4.6 沖縄県宮古島新城 新城ビーチ H11.4.7 沖縄県宮古島吉野 吉野ピーチ H11.4.7 粟 岡 高 沖縄県粟凶島 粟医l島の海岸(A) H11.4. 8 沖縄県粟国島 粟国島の海岸 (B) H11.4. 8 漂着ゴミの調査 表1 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) (山口晴幸防衛大学校教授1999年) 調査地点:沖縄県/調査日:H 11.3 . 26~ H 11.4. 9/調査距離:約16.78km 漂着ゴミの発生区分 外国の総計 漂着ゴミの種類 総計(個) 日本語系 不明 韓国 中国 台湾 ロ シ ア 英 字 系 (個) (個) (偶) (偶) (個) (倒) (個) (側) ピ ン 類 358 5,092 248 567 43。
94 952 6,402 缶 類 1,740 436 128 151 86。
167 532 2,708 ベットボトル・プラスチック類 2,058 42,407 5,173 6,694 4,236。
537 16,640 61,105 織。
397。 。 。 。 。
。
397 漁 具 類 プイ 1 2,201 34 287 113。 。
434 2,636 発泡スチロール。
6,112。
56。 。 。
56 6,168 総 計(個) 4,157 56,645 5,583 7,755 4,478。
798 18,614 79,146 表2 タイヤ:46個 薬ピン:149個 注射器:49個 (山口晴幸防衛大学校教授の調査) 、である。沖縄本島では、韓国 産のゴミが多数を占めている。 これは、筆者らの調査でも判明 し て い る 。 さらに、山口氏は沖縄県内の 漂着ゴミの種類と数についても 詳しく調査しているが、その調 査結果は表2である。その種類 や数から、沖縄の漂着ゴミの実 態が明らかになった。 これらの調査結果から読み取 れることは、沖縄諸島は本土と 比 べ て 、 いろいろな外国からの 漂着物が多いというこである。 つまり韓国、中国、台湾、その 他の固からの漂着ゴミの集積場 に な っ て い る 。 別の観点からい えば、これらのゴミは、運んで 来た海流・海の道、押し流した 風の道・季節風によって沖縄に 漂着したのである。 いってみれ ば、沖縄は自然地理学的にも気 象学的にも、また交易・文化的一
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琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) 図5 確認された外国からの漂着ゴミの表示諸によ る区分比率状況 口 ハ ン グ ル 語 関 中 国 語 .:ロンア語白.その他(英語等) 表示語による区分百介率(%) サンプル 20 40 60 80 100 総数(個) 北沿海岸道オホーツヲ海 78 E彊置│ (41 ) 日本海沿岸I 85
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J ( 127) ー 斗 仁3 日本海沿岸W 86 隊須ト (485) 8~7.,
0 新潟県佐渡ヶ島 86 協 ! (333) し5 日本海沿岸II 90 JJ盟 (10) 6,
r5 石川県触倉島 89 __fj[!Ij (64),
4 島根県隠岐諸島 96 Jlj (23) 」ア4 日本海沿岸1II 961
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(28) ..r2 九州玄界灘沿岸 80 信義L~~現| ( 129) 長崎県壱岐 75 W%i9:1Jfj<1 (154) 」士7 長崎県対島 93 長湯 (73) 鹿児島県奄美大島 85J
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盟 (34) 」ご6 鹿児島県喜界島 63 隊後初仮設司 ( 16) 鹿児島県徳之島 87 院!JiI (23) ..r3 沖縄県沖縄本島 67 協 級 協 働 (37) 位 協級協徽.9.~タ務務徽~ 沖縄県石垣島 (321 ) 沖縄県竹宮島 11 ~1~後物貌 22 ヨ (54) 沖縄県黒島 12 íj~後~物川 19 il ( 120) 沖縄県西表鳥 15 71 (196) 沖縄県波照間島 7 73 (71 ) 神奈川県相模湾沿岸 40 修務後綴53級協綴lJ (15) 四 (山口晴幸防衛大学教授の調査) この仲村氏の︿自然発想法︾は、漂流物に 及んだ。実際、短期間で沖縄本島北部の海岸 線を駆けずり回って、あっという聞に大量の 漂流物を集めたのである。土日または仕事の 合聞をぬって、集めた漂着物は、主にベット ボトル、漁具(ブイ・玉浮)、ライターなど である。今では、彼自らが建てた山小屋風博 物館にびっしり収められている。 仲村氏の、博物館に陳列されているいろい ろの漂流物を見てみると、最も多い中国産の ものから、台湾産、韓国、 フィリピン、イン に 集 め た と い う 。 ある。これらの漂流物は、沖縄本島北部太平洋に面した東村の海岸を中心 ドネシア等の南方の聞のものまで多種多様で にも︿もの・文化・人﹀の交差点・磁場になっているのである。 四、漂流物博物館を建てた男の漂着物調査から 平成一一年一一一月に、仲村氏に案内されて、東村の宮城東海岸へ調査に ) 唱 E 4 ( ゃんばる原人海に下る でかけた。その結果は、次の通りである。 場所東村・宮城東海岸 一九九九年十二月二五日、午前一01
午後二時 ゃんばるの原生林を知りつくした男仲村氏は、今度は海に下った。海岸 ﹁いいえ、漂流物の方がわたしを引きつけたのですよ﹂の返事である。自 調査結果 調査対象漂流物・・玉浮類(漁具)とベットボトル を歩き回っているうちに、彼が興味・関心をいだいたのが漂流物であった。 然体でものを考える彼らしいことばである。﹁自然をして語らしめる﹂は 建 省 ) ①韓国製ブイ・ベットボトル多数 ②中国製(主に漸江省・福 ①インドネシア製ベツ 彼の口ぐせである。﹁自然(その場所)に身を置いたら、自然がわたしに ト ボ ト yレ ①台湾製、中国に次いで多数 ①沖縄製多数 ①不明多数 ラ ベ ル の 表 示 ( 国 の 文 字 ) 、B
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、同一漢字 語りかけてくるんですよ、ちゃんとわたしを見なさいとね。そこから、音ゆ 漂流物の判定方法 使用の中国と台湾の場合は、生産地や旧漢字の台湾 識せずにも自然と、思考がはたらきだすのですよ﹂。と略式漢字の中国で判断 その他の漂流物も含めるとあまりにも多く、海岸はゴミの山であった。 陸地では都市を中心にゴミ問題は深刻だが、海岸のゴミの山も大問題であ る。日常生活にふれないだけに、法的規制もなく、やりたい放題、まるで 海岸は国際チリ捨て場になっている。 (2) 漁具・ベットボトルからアジアを見る 一口に中国産漁具、ベットボトルといっても、その製造元やラベルを見 るとさまざまな地域が浮かび上がってくる。福建省、漸江省、上海、さら にそれらの省の中でも製造元が異なっている。仲村氏と中園地図をひろげ ながら確認していく。台湾についても、韓国についても同様である。台湾、 韓国の地図をひろげて確認作業をおこなった。 英語圏の漂流物でもっとも多いのは、ジャカルタ、インドネシアの表示 であった。英語表示に関してはいろいろあったが、これらは近海を航海中 の船から投棄されたものだと判断した。しかし、それにしてもインドネシ ア産のものが多いのには、船からの投棄だけではすまされない量であった。 正確に調査するのは困難だが、おおかた現地で投棄され流れ着いたものも あるとみた。というのも、 一九九九年一一月に沖縄県石垣市(八重山)に 講演にいった時の話である。講演終了後懇親会に招かれた折りに、漂流物 の話をしたら、地元の石垣美紀子(地元八重山毎日新聞記者を兼任)から、 自分達も漂流便を出しているとのことであった。瓶に手紙を入れて定期的 に海に流すというのである。漂流便は、遠く本土の地域まで届くという。 届いた遠方から、返事をもらうのを楽しみにしているとのことであった。 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) いわゆる漂流郵便交流である。海流が運ぶ郵便物、何かロマンを感ずる。 このことからおして考えると、インドネシアにも同様なことが言えるので はないかと判断したのである。 仲村氏の漂流物収集は始まったばかりで、これから分類整理する必要が あるが、大ざっぱに漂流物である漁具やベットボトルの生産国からしてい えることは、ゴミの調査を行った山口氏の調査結果と同様なものであった。 山口氏の観点は、海浜の汚染物としてのゴミからの調査であり、その日 的で対象をとらえると明らかにゴミそのものであり、海岸を汚染するゴミ の山である。それはそれとして、深刻な環境問題でもある。山口氏はその ことを強く訴えている。 他方、仲村氏の場合は、ゴミが博物的意味をもっているところに山口氏 との大きな違いがみられる。仲村氏は、漂流物をアジアを知る手掛かりと してとらえた。そうなると、漁具類やベットボトル類は、博物としての文 化の意味をもってくる。ゴミである漂流物自体が漂流物博物館のお宝にな る と と も に 、 アジアを知る文化的価値をおびてくる。筆者はそこに、文化 の源流をみたいのである。 五、文化としての漂流物 文化としてのゴミの山・貝塚的発想法 考古学がもっとも大事にするところは、ゴミ・チリ捨て場、 いわゆる貝 塚である。古代人の生活廃棄物・廃品を捨てた場所は、貝塚として考古学 の 宝 の 山 で あ る 。 この観点から発想してみると、海浜のゴミの山は現代の員塚でもある。 二 五
琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) 拾い集めた漂着物をひとつひとつ丹念に調べてみると、そこにはそれぞれ の国の文化が反映されている。 同じ漁具類のブイ・玉浮を見てみると、中国産の玉浮と韓国産の玉浮は 明らかに異なっている。材質は同じでも、形態に違いが見受けられる。形 や大きさの違い、もっと細かくいうと加工製品のできばえ、表示形式の違 いなどがあげられる。同じ中華圏の台湾産と中国産との間にも、違いが見 受けられた。例えば、加工技術やできばえは台湾産が優れており、表示も 台湾産は旧式漢字を使用しており、中国は簡略文字を使用している。仲村 氏の話では、漁具にくっついてくる網や縄を見ると、韓国産か中国産かす ぐ判断できるという。網や綱の製造も、品質の違いと色などによって判明 で き る と い う 。 玉浮以外にも、さまざまな漁具が漂着する。仲村氏の関心はそこに集中 する。この漁具類の工夫の仕方、それを使ってどのように漁労するのかを 調べ、想像することが楽しいと語る。そこに、漁民の知恵が凝縮している という。かつて筆者に、ベットボトルを浮きにして魚をとる釣り道具を見 せてもらった。見るからに原始的な釣り具である。知恵をしぼって、うま く作ったあとがあった。ごく単純であるが、 アイデアのよさに感心して見 ていると、仲村氏は﹁比嘉さん、この原始的釣り具に、二家の生活がかかっ ているんですよ﹂といわれて、はっとしたことがある。 デザイン的にも、おもしろいのはベットボトルである。それは国柄が反 映していておもしろい。まずは形や容量、国によりさまざまでありそのデ ザインも国柄・国民の好みを反映している。色合いも同様である。色は国 民の好みがある。ベットボトルのラベルのデザインがもっとも特徴的で、 ーよa ノ、
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の仕方がおもしろい。やっぱり一番おおげさなアピールは中国産で、 宣伝文句やデザインもおおげさなところがある。韓国は、 ハングル文字の 表示に芸術性を生かした感じがする。おのおのの国の人気スターを登場さ せたり、名産や文化をシンボライズしたりと、 それぞれの特徴がうかがえる。 いろいろな工夫が見られて このようにしてゴミである漂流物を観察してみると、国によってさまざ までおもしろく、比較文化をしている感じである。ゴミという汚染物のイ メl
ジよりも、生活文化の残像があって、各国聞の比較を通じてそれぞれ の生活文化の在り方が見えてくるように思える。子どものころ、チリ捨て 場が宝の山であったことを思い出した。いつもチリ捨て場に飛んで行って、 今日はお宝が捨てられていないかと好奇心の目を光らせたものである。ゴ ミはいってみれば、生活文化そのものであり、生活上使えなくなったもの (廃棄物・廃品)というだけにすぎない。 人の手を通して持ち帰った品物(文化)ではなく、また船で運んできた 品物(文化)でもない漂着ゴミは、自然が運んできたもの、つまり海流が、 風が運んできた品物(文化) である。この意味で、自然的な文化の漂着地 としての沖縄をそこに見るのである。 漂流物に見るニライカナイ ヮ “ 沖縄における海岸は、ニライカナイを望む海岸でもある。 古代沖縄人は、はるか海の彼方にこの世に幸福をもたらす楽土があると 信じていたが、そう観念される地点をニライカナイとよんでいた。このニ ライカナイの信仰は古くからあったようで、古代沖縄人は、人間生活にとって貴重な物、さらに人聞に無限の生命をあたえるセジ(霊力)もそこから 訪れてくるニライの神によってもたらされるものだと信じていた。また、 人間の生活にはなくてはならぬ火も、ニライカナイからもたらされたもの ( 叩 ) と考えていた。稲も、ニライカナイから伝来したという伝承がある。 漂流物のたどり着く海岸は、 ニライカナイを望む海岸でもあり、 い っ て みれば幸福が訪れる海岸でもある。このニライカナイの信仰は、海流と季 節風という沖縄の地理的風土と密接な関係があると筆者はとらえている。 さらに沖縄に点在するアマミク アマミキヨ説話伝承地点地図 図6 ( 来 訪 神 ) の来た地域の考え方も、同様だ .説話伝承地告 企神名様名伝承地点
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~ o 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) (外関守善[沖縄の祖神アマミク』より) 「アマミキヨ」伝承神歌保有地点地図 図7 .'南品歌誌大成沖縄繭」 所:H神 歌 保 有 地β ゐ『おもろきう L.dH~H - オ モ ロ 1也企 17国名 品 ;1/ .伊平屋島 or島 尻 A 伊是名豊島 勢理事川手是名 と 考 え て い る 。 琉球国の正史﹃中山世鑑﹄には、島造り、国造りをした神をアマミク (阿摩美久)とよんでいる。アマミクは王府の神話、だけでなく、琉球列島 の島にちらばるたくさんの島々村々の神歌や、民間の神話、伝説として伝 わる創世神もやはりアマミクである。図 6 はアマミキヨ説話伝承地点地図 である。さらに図 7 は、島々の歌謡や﹁おもろさうし﹂に出てくる﹁アマ ミキヨ﹂伝承神歌保有地点地図である。これらの図からもわかるようにア マミクは海の彼方(とりわけ北から来た)からきた、 久 米 仲 城 名 安 嘉 併 協 ・ 4 肋 鴇 口 恒 ¥ G I 川 〆¥叶叫城 ] 4 p 索 Jhs 中 知 i i 制 来〆/一 q F 仲 北 小 越 r i M ノ 、 晶 、 F l 見、
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銘 一 一 保 士仲 E 目 昌 一 ア マ ( 海 人 ) 海 人 族だといわれている。それは、外間 (外関守善『沖縄の祖神・アマミク j より) 守普氏の仮説であるが、外間氏は ﹃ 沖 縄 の 祖 神 ア マ ミ ク ﹂ で、結ぴに こう述べている。﹁北方の九州から 渡ってきた海人を原像とするアマミ ク神たちによって、イノ l ( 礁 湖 ) 空間を活用した漁携、稲作を中心と した農耕が島々村々に広まり、経済 生活を支えていったのであろうとい ぅ、沖縄文化の源流に関する仮説の 大きな論郭を私は描いてみたかっ た。:::沖縄の祖神といわれるアマ 、ク神の素姓を探り続けた結果が、 九州から南下してきた海人族、すな わちアマベにつながったため、私の 七琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) 論調が、沖縄の丈化の源流はすべて北につながっている、 といっているか のような誤解が生まれかねないが、太古以来、沖縄にはさまざまな文化の 波が打ち寄せていたのであって、その一つというか、主流になっていった ものが弥生時代に九州から稲作をたずさえて南下してきたアベ、そして彼 らが変容して尊称されるようになったアマミクたちであったろうというの ( 日 ) が私の論点である﹂ 0 筆者の言いたいのは、 アマミキヨの北からの流れの外に、さまざまな文 化の波が打ち寄せていた、との指摘である。そのことと、漂流物を重ね合 わせて見てみると、そこにチャンプル文化の源流を見る思いである。 前述したように、沖縄が海流と季節風の交差点ともいえる地理的・気候 的な条件が、これらの創世神話を生み出す元になっていると推測する。漂 流物のように、海流に乗って、風に運ばれて、沖縄の島にアマミキをはじ め、さまざまなものがやって来た。多くの場合は、幸福につながるもので あったに違いない。だからニライカナイやアマミクの信仰が根づいたもの だ ろ 、 っ 。 しかし、すべてが幸福ばかりではない。 ニライカナイの海からは災い (不幸)もきた。まだ十分に調べたわけではないが、魔除け、厄除けのた めの石敢嘗や瓦屋根のシ
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も、それと関係があるのではないかと考え る 。 シl
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の魔除け、厄除けや石敢首は数では沖縄県は他県より群を抜 いている。多いということは、それだけ魔除け、厄除けを必要とするから( ロ
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である。小玉正任氏の著書﹃石敢嘗﹂は、石敢嘗の数の比較が出ているが、 沖縄の数の多さは他の比ではない。石敢首の多さには、中国の影響を大き く受けたことも事実だが、ニライカナイの信仰的土壌沖縄で、これほどま 人 で に シl
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と石敢嘗の多さに、単に風習だけではかたずけられない背景 がありそうである。 その背景のひとつに、前述したような地理的条件を加えておきたいので ある。あくまで推測であるが、こうも漂流物が多く、またさまざまに、た どり着く島も外にあまりないからである。自然的・地理的条件が背景にあ ると指摘するにとどめたい。 六、チャンプル文化の必然性 ) 唯﹃ム ( 沖縄の位置 ﹁琉球列島は、九州南端と台湾を結んで弧を描きながら、太平洋を背に 東支那海を囲う形に点在する大小の島々からなっている。沖縄島は日本・ 中国・朝鮮からほぼ同距離にあり、八重山諸島に沿って南下すれば台湾を 経てルソン島へ至る。琉球・沖縄の歴史を大きく決定づけてきたのは、そ の地理的条件である。琉球の名が初めて歴史に記されたのは﹁陪書﹂﹁東 夷伝琉求国﹂の記事である。:::この記事は、この時代すでに邪久・昆掃 人など日本および南方諸民族と交渉のあったことを裏付けるものである。 琉球が貢物に南海物産を用いたことが正史に記された最初は﹃高麗史﹄お よび﹁明史﹄におていである。﹁高麗史﹄恭譲王元年(一三八九) の 頃 に は硫黄、蘇目・胡板・申等、﹃明史﹄洪武三三年(一三九O
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の 頃 に は 馬 ・ 硫黄・胡板・蘇木・乳香等の南海産の品々はシャムとの交易で入手したも のと考えており、当時すでに東南アジア諸地域と交易のあったことが分か る。琉球国の外交文書集である﹃歴代宝案﹄には、永楽二三年(一四二四) から同治六年(一八六七)まで四O
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年余にわたる対外交渉(日本を除く)の記録が収められている。琉球の交易した地域は、中国・日本・朝鮮は言 うまでもなく、選羅(シャム)・安南・蘇門答刺(スマトラ) 瓜睦(ジヤ ワ -満刺加(マラツカ) 仏太泥(パタネ) 巡達(スンダ) ( ル ソ ン)と広く東南アジア一帯に及んでいる。琉球がこれ程広大な地域を交易 の対象とし、東アジアと東南アジアを結ぶ中継貿易をなし得たのは、その 地理的条件と当時の琉球をとりまく国際的な情勢によるものである。琉球 は中国・日本・朝鮮から海を隔てて遠くに位置したため、直接的な支配や 影響を受け難かった。 ( 日 ) 程のものであった﹂ 0 一方でこの距離は、早い時期から交易を可能にする この文は﹁琉球国使節渡来の研究﹂(横山息子 e ) の一文であるが、沖縄は 歴史的にかなりはやい時期から、周辺および遠方の諸国と交易していたこ とが分かる。航海技術もあまり発達していない時代にあれだけの遠隔地へ くり出すことは、航海技術のみでは不可能である。前述したような海流や 季節風の力を借りなければ、荒波の太洋を航海することはとても不可能で ある。地理的条件とは、このことも含めて考えるべきだろう。 さらに、琉球と適当な距離に文化豊かな交易国が存在していたことが、 琉球に文化をもたらす契機となったのである。琉球とそれぞれの国々との 聞を、海流は船を運び、風は船をおし進めていったのである。このような 地理的・気候的条件があって、周辺諸国の文化的影響を、つけて、沖縄はチヤ ンプル文化を形成していったのである。 文化のチャンプル的特質 ( 比 ) すでに本論文(一)﹁琉球の創造力チャンプル文化論﹂でもふれたよ 琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) うに、沖縄の文化的特質を周辺諸国へ旅・調査に行くことによって、沖縄 文化の諸相に出会う機会があった。その国々で出会った文化は、沖縄の文 化の元をなしていることを実感したのである。とりわけ中国の文化的・信 仰的影響は沖縄に多大な影響を与えていることを、中国一年間の滞在で分 かったのである。どの国にいっても沖縄文化の匂いがする。文化のつなが りを感じるのである。逆にいえば、沖縄文化がどれだけ周辺諸国の文化を 吸収していたかがはっきりわかるのである。その意味で、内なる文化の特 質を逆に周辺諸国から見た場合により鮮明に見えるのではないかと思う。 周辺諸国の文化を沖縄にもってきて、そこで沖縄流につくりかえること によって、沖縄の独自の文化を形成していった。周辺諸国の多様な文化の 影響を、つけて、文化的にはチャンプル的性格・特質をもつようになったの だ ろ 、 っ 。 その文化の起源を、筆者は漂流物に観るのである。 注 (1)柳田園男﹃海上の道﹄筑摩書房昭和四九年 ( 2 ) 山 原 島 酒 之 会 は 、 一 九 九 八 年 九 月 八 日 に 発 足 。 機 関 誌 ﹃ 山 原 島 酒 之 会 会 報 ﹂ を年数回発行、琉球泡盛の研究及び古酒造りを行っている。会長は比嘉佑 典 ( 東 洋 大 学 ) ( 3 ) 仲 村 保 ﹃ ぴ ん ぴ ん ﹄ 一 九 九 三 一 年 ( 4 ) 仲 村 保 ﹁ 山 原 の 美 し い 野 鳥 と 自 然 i 東洋のガラパゴス﹂一九九 O 年 ( 5 ) 浜下武志著﹃沖縄入門アジアをつなぐ海域構想﹄ちくま新書、二 000 年 ( 6 ) 秋 道 智 禰 著 ﹁ 海 人 の 民 族 学 ﹄ NHK ブックス昭和六三年一七頁 ( 7 ) 比 嘉 朝 進 著 ﹁ 波 高 し 1 漂流琉球船﹄風土記社、一九九 O 年 (8)朝日新聞(夕刊)一九九九年二一月一七日(金曜日)記事﹁ごみの出来地 九
琉 球 の 創 造 力 ( 四 )
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調べました﹂山口晴幸 ( 9 ) 山口晴幸﹁外国から漂着するゴミによる海洋汚染﹂﹃土木学会誌﹄ 年三月号(第八三巻第三号)六二頁 (叩)琉球政府文化財保護委員会﹃沖縄文化史辞典﹄東京堂出版、昭和四七年 (日)外間守善﹁沖縄の祖神・アマミク﹄築地書館、一九九 O 年 (ロ)小玉正任著﹃石敢嘗﹄琉球新報社、一九九九年 (日)横山撃著﹁琉球国使節渡来の研究﹄吉川弘文館、昭和六二年プ;一一頁 (比)比嘉佑典﹁琉球の創造力(二│チャンブル l 創造文化論﹂﹃アジア・アフ リカ文化研究所研究年報﹄第三二号、東洋大学、一九九七年 一 九 九 八琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) ①沖縄本島北部・国頭のj兵に漂着した榔子の実 ①漂流物を前に(著者)平成12年12月 ①国頭地方の東海岸(太平洋側)に打ち上げられ た漂流物(平成12年12月) ①漂流物の収集(仲村保氏) ①漂着した漂流物類 ①漂流物(平成12年12月)
琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) ⑦漂流物(平成12年12月) 氏 ふ叶J 1 京 T 市 T , S 1
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る す 明 説 を 物 流 漂 ) の 月 ' レ q L ト 年 A-、のノ“ 一 M d e 唱E ム ト 成 ツ 平 ベ ( ぷ ⑪一
①漂流物を手に海域を説明する仲村保氏 (平成12年12月) ⑪玉浮の漁具(沖縄ではブイといわずに普通浮玉、 玉浮と呼んでいる) ①イ中村保氏所有の漂流物博物館 ⑫中国系玉浮(漁具)琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) ⑬玉浮の種類 ⑬各国のペットボトル ⑪小型の漁具類 ⑪韓国産ペットボトル
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⑬小型の漁具類 ⑬中園、台湾産ペットボトル琉 球 の 創 造 力 ( 四 ) ⑬各国の漂着したライター ピン @中国産ペットボトル、 @中園、台湾、韓国産ライター @季節風や海流の説明をする仲村氏 四 @漂着漁具類を説明する仲村氏(平成12年12月) @漂流博物館の庭