• 検索結果がありません。

阿波藍商と肥料市場(1)三木屋與吉郎家を中心に 利用統計を見る

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "阿波藍商と肥料市場(1)三木屋與吉郎家を中心に 利用統計を見る"

Copied!
39
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

阿波藍商と肥料市場(1)三木屋與吉郎家を中心に

著者

白川部 達夫

雑誌名

東洋大学文学部紀要, 史学科篇

36

ページ

43-80

発行年

2010

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00000085/

Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja

(2)

阿波藍商と肥料市場付

輿

白川部

はじめに

藍は近世中期以降、阿波の特産品として、全国市場でも揺るぎない地位を占めていた。この阿波藍は、吉野 川 流域で作 付けられたが、その栽培には干鰯・僻などの魚肥が欠かせないものであった。そこで藍草を集荷して、藍に仕上げる工程 を担った藍師は春先に農民に魚肥を貸し付けて、藍草の代金と相殺して集荷した 。 藍は阿波の特産品として藩の統制が行き届いていたが、同様に肥料についてもその事情は同じであった。この点で同じ 特産地であっても領主権力による統制が及びにくかった摂津・河内の綿作・菜種作地帯とは異なった特徴をもっていた。 ここでは以上の点を念頭に阿波国板野郡中喜来村の大藍師・藍商であった 三 木 輿 吉 郎 家 ( 三 木屋と称した)の史料によ り、阿波藍生産地帯の肥料市場について検討する 。 三木家を中心とした範囲ではあるが、これにより中央市場とのかかわ りも、うかがうことができるであろう 。 三木家を中心とした阿波藍の生産・流通については、すでに高橋啓・天野雅敏・泉康弘などによる充実した研究がある。 しかし藍の栽培に重要な役割を果たした肥料については泉の廻船問屋の分析があるだけで、在村については、その実態を 十分に分析したものがない。 三 木家の経営を分析した高橋の仕 事 でもその中心は、藍師・藍商としての経営にあり、藍葉 阿 波 藍 商 と 肥 料 市 場 付 │ 三 木 屋 輿 吉 郎 家 を 中 心 に 四

(3)

四 四 集荷の手段として肥料商売がとりあげられているにとどまる。また天野の仕事でも、肥料については﹁庖卸勘定帳 ﹂の収 支レベルでの紹介であり、検討の必要が残されている。そこでここではまずこれらの仕事に学びながら、三木家の﹁干鰯 買入帳 ﹂などの仕入れ記 録を整理して立ち入った分析を行うことに したい 。

藍作と肥料

まず藍の作付と肥料について簡単に概観しておくこととする。藍の主産地は阿波の吉野川平野である。吉野川は水位が 低く、用水として利用することがむずかしかった 。 このため平野部の八割は畑で水田が少なかった。その上、水源の四国 山地には台風の時期に多量の雨が降り、吉野川はしばしば氾濫した 。 この地に藍が作付されるようになったのは戦国期から 藩 政初期であったが、藍は節分の頃に苗床に播種して、旧暦六月 中頃に収 穫 した。水害の季節を待たないで収 穫 で き 、 しかも染料として高い商品価値をもっていたので、当該地域に最適 な作物として作付が普及したのであった 。 しかし良質な藍 葉を生産 するためには、多 量 な肥料が必要であった。 ﹃ 徳 島 県 史 ﹄ によれば苗代で四回、麦の聞に定植した後、八十八夜まで五回の施肥が必要であった。 寛 政元年(一七八九)に著された

~J 霊

作 始 終 略 書 の﹁上中下押平シ、中所之積ニシテ﹂﹁植付之次第﹂という項目から、 一 反当たりの収支を示しておこ まず肥料が記載されているが、苗床肥に干鰯粉一斗(銀六匁)を与え、その余裕のないものは下肥を施す 。 四月中に苗 から畑へ植え付けてから二、三日目に、附肥シ干鰯粉三斗(一五匁)を入れ、その後七、八日目ごとに 二番 肥干鰯粉五斗 (二五匁)、三番肥八斗(四

O

匁)、留肥として三斗(一五匁)を藍の根本に施すとされる 。 これによれば肥料は干鰯二石

(4)

でその代銀は一

O

一 匁 となる 。干鰯 小成シ粉で銀 一 匁 につき 二 升 の 価格で計算したとされる 。しかし 同 書 の ﹁ 植 付 之 次 第 ﹂ の箇所では、もっと多い記事もある。これにしたがえば、干鰯二・二三五石より三・四石が必要で、 その代銀は一一二・ 七五匁より一七一匁になる 。 肥料代のほかに、水取日用銀二

O

匁 、藍にかかる 一 切の年貢 一 九 ・ 五 二匁、藍掲き賃 ・ 砂 代 など藍玉生産にかかる経費 銀五匁、肥シ代銀利一・

O

七匁で、合計経費一四六・五九匁が必要であった。肥シ代銀利は藩の肥料代貸し付けの利子で あり、肥料代の全体にたいするものではない。明和仕法による藩の貸し付け利率は月一・二%で、四月に貸し付けて一

O

月に決済した 。 六ヶ月で七・二%であったので、これによって貸し付けを受けた銀高を逆算すると一四・八六匁となる 。 藩の貸 し付けは少なくともこの計 算では、農民が 必 要 とする肥料のごく 一 部 にすぎなかった 。 これにたいして収益は、 豊 作 の 時 で 、 藍葉が三五貫目であ り、これを 藍玉 に 加 工 す る と 、 二本 ( 一 本 平均五

O

玉)代金 二 四

O

匁 と な り 、 差 引九 三 ・ 四 一 匁 の利益となるという 。 収支については、宇山孝人による詳細な検討があるが、四

01

六 七 %を干鰯代が占めていた 。また 肥料代を﹁植付之次 第 ﹂の記 載 にしたが っ て、その平均で計 算 す る と 、 利益は五七匁となり、米作五五匁とあまり 変わらなかったとされる。 ﹃ 藍 作始 終略書﹄の計算 に は 、 家族労働とその生計費が含ま れ な い の で 、 再生産費を除いた 剰余については判断できない 。 かりに一反の耕作労働力を 一 人 、 その飯米を年間米五斗・麦五斗として宇山の算出方式にならって計算すると、寛政年間 では四七匁余の支出となる 。 ﹃ 藍作始終略書﹄の中程度の土地の豊作時の収支計算では、ある程度の剰余は期待できるが、 同 書の ﹁ 植 付 之 次 第 ﹂から 宇 山の行った肥料代平均をもとに計 算する方式で は、剰 余は豊 作時でも むずか しいといえる 。 またすべての農民が藍玉生産まで行ったのではなく、藍葉の段階で藍師へ販売することが一般に行われていた 。藍葉 段階 では、藍玉生産に必要な諸経 費がか からない反面、価格はもっと抑えられたと考えなければならない 。 阿波 監商と 肥料市 場付 │ 三 木屋奥吉郎 家 を中心に 四 五

(5)

四 六 収支については、これ以上ふれないが、肥料については一反当たり少ない方で二石、多い場合、三・四石という多大な 量を必要とする ことがわかる 。 山口之 夫の﹃綿圃要務﹄の整理によれば、河内木綿の場合、すべてを干鰯でまかなうと し て 、 一 反 当 た り 一 ・五石より一・七五石の施肥が必要だったとするが、藍作は木綿以上の施肥量を必要としたことになる 。 農民はこの肥料を前借りし、 収 穫した藍葉で返済したが、不作になると返済が滞り、土地を失って没落した。 阿 波藩では、こうした農民の没落を防ぐため、 肥料代 や 肥料の 実物を貸し 付けた ) 。 明和仕法では、当初銀札で貸し付け から藩が江戸で購入した干鰯を四月に貸し付け、 たが、困窮した農民がほかに流用するため、明和四年(一七六七)

月に利子一月に一・二%の計算で決済した。さらに明和六年(一七六九)になると干鰯の相対売買を禁止して、藍方市で の建売買を命じて、移入税として売買代金の三・五%と干鰯一俵につき銀一分の仲仕賃を売り人から徴収することにした 。 また諸国から直買したものは、その代銀の 三 ・五%を徴収した 。 干鰯の貸し付けや税の徴収は藍方代官所の支配下にあっ からは為替方の取り扱いをやめて、問屋が﹁入船案内帳﹂を作成して、 た為替方役所で行われたが、寛政二年(一七九

O

)

これを 基準に 帆立銀を徴収することにした 。 さらに寛政 一 一 年 ( 一 七九九)には、干鰯問屋頭が徳島と撫養に一人宛指名 され、このもとにそれぞれ八軒の平問屋が設置され、 それ以外は干鰯仲買とされた 。 荷物が入津すると平問屋が改めて見 本を水揚げして問屋頭に提出し、干鰯売買が成立すると俵焼き印を受けて運送した 。売買 で平問屋の仕切銀が不足する時 は、問屋頭が荷物を預かって融資し、 一 定 期 間内に返 済できなければ問屋頭が荷物を売買 し た 。 この要領で為替の取り扱 いも問屋頭が行った 。 また他国からの入津荷物については価格の六歩の口銭を荷主から徴収した 。 これについては後の記 録では、二歩は藩の収入 ( 二歩掛り)、二歩は平問屋口銭、一歩は問屋頭筆紙料、一歩は買い 人 一 戻 り 歩 口 銭 と し て 配 分 さ れ 、 別に 二歩 仲仕 賃が徴収された。また 肥料小売商が他国より直売 買したものについては、三歩の 口 銭を問屋頭 に出して、改 め印を受けることにした。

(6)

文 久2年度の阿波藩への移入魚肥額 俵 数 2歩掛り(匁) 移入額(匁) 表1 362.598 13,038,570 41,087 13,442,254 7,252 260,771 822 268,845 ﹃ 阿波藍沿革史 ﹄ による明治 二年(一八六 九)の干鰯問 屋など は 、 干 鰯 問 屋 が 近藤利兵衛(撫 養 ) 、 板 東貞兵衛 ( 徳 島 ) 、 干 鰯 平 問屋が木 屋宗十 郎、播 磨屋 九兵衛、西 条屋直吉、久住 九 兵 衛、宮崎屋庄蔵、伊浮吉兵衛、 山城 屋半四郎、森六兵衛、天野屋平吉、宮島屋治兵衛、阿賀 であった。また干鰯問屋目利役として近藤内茂兵衛、板東内金助の 屋 庄 兵 衛 、 ( 一 名 不 詳 ) 品目 干鰯

I

14,490 諸魚粕

I

20,836 品々肥物

I

2,402 合計

I

37,728 出!Itl:

r

阿波監沿革史J341 -342頁。 ※数値は文久元年8月 文久2年7月の1年問。 名前がある 。 ただこの記録は前書きが﹁年頭出仕目見人名﹂とあり、干鰯平問屋は徳島城下 のものに限られている 。 泉康弘によれば、明治 三 年 ( 一 八 七

O

)

の撫養の平問屋は天羽兵太 郎、泉幸 三 郎、山西庄五郎、乾伊平太、今津甚五郎、正木 善吉 、米谷庄三郎、新居角太郎の 八名であった 。 干鰯は阿波 藩 内でも漁 獲があったが、当然ながらそれで間 に合うものではなく、大半は関 東などからの移入でまかなった。表 1 に文久元年(一八六こ より 文久二年(一八六二) の 一 年 間の徳島 藩 の 二 歩 掛り収益から移入銀額を計算した数値を示したが、総計で銀 一 万 三 四 四 二貫余 と な っ てい到 。 安政四年 以前 一

O

年平均では銀九八四八貫余であっ目。弘化 三 年 ( 一 八四六)に名東郡早淵村の組頭庄屋 後藤庄 助が出した 意見書で は、阿波 藩で は 藍玉の代金総 額 が 四

O

万両で肥料代は 一 六 万両位であると指摘されている 。藍生産 の収益の四

O

%

は肥料 代として消 費 されたことになる 。文久元年(一 八六ニの場合、 一 両 H 七四・八匁で計 算 し て い る の で 、 一 七万九七

O

九両となる 。 弘化 三年(一八 四 六 ) の 後藤の指摘 はある程 度論 拠 がある数値であったといえる 。 いっぽう当時の緋粕の価格を 三木家の文久二年 四月頃の仕入れ価格から 一

O

貫目に銀七五 匁として計算すると、重 量 に し て 一 七九万 二 千貫日程度の移入があったことがわかる 。 阿 波 藍 商 と 肥 料 市 場 付 │ 三 木 屋 興 吉 郎 家 を 中 心 に 四 ,七

(7)

四 八

三木家の

肥料商売の収支

三 木家は、播磨の戦国大名 三 木氏の流れを、汲むとされる 家柄 で 、 近世では中 喜 来村の庄屋を勤めていた 。藍草 を加工し て藍玉を生産する藍師経営を営み、藍商としても江戸や姫路に出庖を設けて藍の販売にあたった 。 阿波 藩 では藍方代官所 その運用にあたる御用利を設けさらに、その下に代官所年頭出仕お目見えを許されたものを多数設けたが、三 木家は諸御用利二五名のなかにあげられている有力藍商であった 。 同 家 には安永四年( 一 七七五)よりの屈卸帳があり、 の も と に 、 この内、文化九年( 一 八 三 乙および文政七年( 一 八 二 四)より 嘉永二年 ( 一 八四九)までについては肥料取引の収支が わかる記載がある 。 それを示したのが表

2

ーーである 。 記載方式は文化・文政期は 一 定しないが、天保年聞からはある程 度定まってくる。そ こ で 天保元年分を示 すとつぎのようである 。 第 ほしか之部 鱒緋関東〆粕佐 伯ほしか共 〆 て 千八拾俵 仕入高 代合三拾五 貫 九百九十日七分六り て 千 百 俵 売高 代合四拾七 貫 七拾弐匁五分弐り 内 、 三貫 四百七十四匁壱分 本年取立不足 残 テ四拾四 貫 弐百五拾目壱分

(8)

差引 八貫弐百五拾九匁三分四り 利 壱割見込積り 此 利 四 貫 八百目 決算の時はその年正月であるので、天保元年(一八三

O

)

の数値は実際は前年度の決 算 となる 。 収支計 算 は、毎年各部門 で行われる 。 干鰯ではまず仕入れ高が俵数とその代銀額として示される 。 これにたいし売上高がやはり俵数と代銀額で示 される 。 さらに前貸ししたものの未回収となった代銀を差し引いて、これから仕入れ代銀を引いて利益を算出した 。銀 八 貫二五九匁余の利益が出ているので、売上高にたいして一七・五%の収益となっている。さらに三木家は売上高の一割の 利益を目安にして惣利納に計上する習慣があったため、壱割見込積りの項目がある 。 この前年文政 一二年度 の干 鰯 仕入れ高の項には﹁右ハ亥九月より子 三 月迄仕入高﹂とあり、文政 一

O

年 ( 一 八 二 七)九 月から文政 一 一 年 ( 一 八 二 八 ) 三 月までの計 算 だったことがわかる 。 この俵数は 一 一 六 二俵 ということになっているが、﹁粕 干鰯仕入覚帳﹂ の当該範囲の記載では 一

O

八 二俵 にしかならない 。文政 一 一 年八月まで広げて 一 年 分 とすると、俵数は一 一八二俵、代銀は三七貫七六九匁と近い数値が得られる。天保元年の場合では、文政一一年九月より文政一二年八月まで の合計俵数は 一

O

O

俵 、 代銀 三 五 貫 八五 二匁 となり、代銀は若干ずれがあるものの俵数は 一 致 し て い る 。 したがって仕 入数は前々年の九月から前年の八月までの数値であったと考えられる 。 いっぽう販売の場合は、﹁干鰯有利帳﹂ の文政一二年(一八二九) の末尾につぎのようにある 。 俵数合千百俵 寅

月 代 四 銀 日 四 勘 十

七 十 弐 匁 五 分 弐 り 阿波藍商と肥料市 場付 │ 三木屋輿吉郎家を 中心に 四 九

(9)

三木家の肥物収支1 年度 仕入品 仕入俵数 売上銀 売上俵数 取立不足 利 利主主率 (匁) (匁) 文化9年 74,000 90.062 16,062 17.8 文 政6年 56,721 7.576 13.4 文 政7年 57.772 1,946 70,096 1,894 6,939 12,320 17.6 文 政8年 43,277 1,410 51,864 1,654 8,987 17.3 文 政9年 41,955 1.642 40.695 1.343 6,112 15 文 政10年 26.585 841 43,080 16,495 38.3 文 政11年 37,449 1,162 49,500 文 政12年 35,991 1,080 44.250 1,100 3,474 8.259 18.7 天保元年 23.220 947 30,060 924 1,928 4,911 16.3 天保2年 20,111 744 25,655 715 845 5.543 21.6 天 保3年 20,496 628 24,772 616 600 4,276 17.3 天 保4年 36.750 937 42,580 957 600 5,830 13.7 天 保5年 36.276 794 44,837 813 3.000 8,560 19.1 天 保6年 42,577 889 48.385 866 3,000 5.808 12 天 保7年 59,731 1,322 50,159 1,051 11,846 -9,573 -19.1 天 保8年 25,489 460 18,589 463 14,000 -6,900 -37.1 天保9年 30,867 642 35,334 639 1,500 4,468 12.6 天保10年 38.272 524 45,993 518 7,721 16.8 天保11年 45,340 1,267 58,318 1,244 12,977 22.3 天 保12年 58,682 1.437 70,891 1,429 1,209 1.7 天保13年 92.185 1,981 108,981 1,883 3,500 13,296 12.2 天保14年 91,003 2,046 109.374 2,113 16.372 15 弘化元年 87.738 2,361 109,354 2,374 2,000 18,616 17 弘化2年 77,799 1,642 95,540 1,638 2.000 15.741 16.5 弘化3年 93,138 1,701 122.330 1,750 2,000 27,192 22.2 弘化4年 86.680 1,775 117,450 1,857 2,000 28,770 24.5 嘉永元年 84,150 2,035 114,127 2.050 8.000 21.980 19.3 嘉永2年 82,378 2.038 109.798 2,040 6,000 21,420 19.5 表2ー1 五 0 この数値が、届卸勘定の天保 元年の販売数と一致してい る。販売月は三月がピ l ク で 五月を過ぎるとわずかしか 販売が行われていない 。 七月 の初旬に数俵売れて、飛んで 九月一七日に僻粕五俵が売 れたことが最後の記述とな っている 。 またこの合計の記 嘉永4年正月「庖卸帳J(三木文庫)。 述 の 後 に 天 保 元 年 ( 一 八

O

)

正月 二 ハ 日の販売記録が ある 。 厳格に前年九月から八 月までということではない が、会計年度はほぼこの範囲 で行われたと見られる 。 し た がって本論では後述する仕 入帳の帳簿計算の区切りも 出典 同様に前年九月始まりで八

(10)

三木家の肥物収支2 年度 仕入高 仕入俵数 売 上 銀 売上{表数 リ手 利益率 (匁) (匁) 嘉永2年 96,102 2,298 109,798 2.040 13,695 13 嘉永3年 49,295 1,617 139.037 2,416 89,742 65 嘉永4年 89.921 1.856 122,265 1,889 32.344 27 第永5年 127,414 3,316 148,232 3.358 20,817 14 嘉永6年 80,084 1,874 145,576 2,099 65,491 45 安政元年 207.623 4,233 168,656 2.806 -38.967 -23 安 政2年 55,895 685 136,171 1,185 80,276 59 安 政3年 135,969 3,473 142,388 1,998 6,419 5 安 政4年 105.011 1.400 144,983 1,403 39.972 28 安政5年 91,525 891 127.856 891 36,332 28 安 政6年 121,195 1,812 136.486 1,506 15,290 11 万延元年 83.432 2.331 121,832 2.356 38.400 32 文久元年 64,849 418 87.239 519 22,390 26 文 久2年 109,063 926 109,838 570 775 1 文久3年 83.131 681 115,791 681 32.660 28 元治元年 55,186 283 119.834 486 64,648 54 慶応、元年 158,955 578 191,168 577 32,212 17 慶 応2年 242.258 547 288,987 551 46.729 16 慶 応3年 160.079 347 128,005 220 ー32.074 -25 明治元年 30,603 89 81,191 189 50,588 62 明治2年 104,395 267 157,263 260 52,868 34 明治3年 144,247 206 168.280 213 24.034 14 明治4年 134.974 213 171,990 216 37,016 22 表2-2 阿波監商と肥料市場 付 │ 三 木 屋 輿 吉 郎 家を 中心に 月までの 一 年を単位として行うことにす る 。 また年度の表現は、庖卸が正月で そ の前年の動きを示していることになるの で、庖卸の記載より 一 年繰り下げて表記し た 。 表

2

1

について みると、文 化九年 度で は二

000

俵を越えていたと考えられる が、その後文政後半になって 一

000

俵台 になる 。 天保年間にはいると凶作もあって 一

OOO

俵 台を割って販売が不振となっ た 。 しかし天保 一

0

年度頃 から回復に転じ 各年度の寅入帳と売帳による。 て、弘化初年には 二

OOO

俵台を越えた 。 藍も天保末年は好調で、藍玉は例年にない 高直になった 。 このため肥料代の滞りもな くなったという 。 利分については、売上高 にたいする利益率を計算した数値を示し た 。 通常は 一 五 1 二

O

%

程度の利益が出た 出J)J! ことがわかる 。 ただし文政七 j 九年にはこ 五

(11)

五 れからさらに口銭分を除いて計算しているので、諸掛かりなどは含まれていないようである。文政七年(一八二四) の 場 合、滞り分六貫九三九匁余と口銭一貫四

OO

匁とを差し引いた利益は三貫九八九匁余であるので、これで計算すると五・ 七%となる。この年は肥料代前貸しの滞納者が多く、利益が圧迫されている。文政八年(一八二五)は 一 五%、文政九年 は 二 二 %であった 。 諸掛かりや代銀滞り分を除けば、利益は一割程度という 三 木家の見立ては、案外的を射 ( 一 八 二 六 ) ていたのかも知れない 。 表 2 1 2 は、嘉永以降から明治四年(一八七二まで、それぞれの年度の買入帳と売帳の記載をもとに比較したもので あ る 。 庖卸帳で損失処理されている取り立て不足分がわからないので、単純な仕入れ量と販売量の比較にとどまっている が、概要はわかるであろう。仕入れて売れない場合、翌年の仕入れを調整していることがわかる 。 干鰯・魚粕類は虫がつ くので望ましくないが、保存は短期なら可能であるので、多少の調整を行なったと考えられる 。 利益率は取り立て不足分 があるので実際にはもっと低いはずである。売帳の記載で時々、現金と掛けの数値が出ることがあるが、平年だと半々程 度であった。そこから年末にかけて取り立てを進めて、その残りが不足分になるのであろう。なお嘉永二年(一八 四 九 ) は 、 表 が 重 な る が 、 仕入れの 実際額が庖卸帳の数値と異なっている。こう し た 遣いはかなり認められるが 、ここではこのまま シ ﹂ v u h ι 。

三木家

の干鰯仕入れ

文化期の仕入れ状況 三木家の干鰯仕入れについては、文化七年﹁粕干鰯買入帳﹂という帳簿が初見である 。 この帳簿には文化六年( 一 八

O

(12)

文 化7年 文 化10年 三 木 家 の 肥 物 仕 入 れ 文化7年 文化8年 文化9年 文化10年 { 表数 銀額(匁)i f表数 銀額(匁)i f表数 銀額(匁)i

1

表数 銀額(匁) 関東干鰯 532 9,788i 1,136 21,064i 2,143 40,000i 110 1,848 伊勢干鰯 150 1,303: 34 388 916 7,553 加回二F鰯 321 1,840 578 3,947 91 789 内海干鰯 174 1,564 ~tl州干鰯 129 1,548 土佐干鰯 237 3,244 干 今浜干鰯 632 4,447 地干鰯 126 1,599 鰯 西国干鰯 4 52 7 91 対馬干鰯 376 3,910 鱒干虫色j 170 6,649 5 168 口干鰯 66 545 千鰯 675 12,080 133 1,575 49 604 231 3,569 キビナゴ 224 1,882 525: 沙魚、干鰯 60 小言│ 1,793 32,542 2,551 35,229i 3,617 51,041i 1,348 13,759 関東〆粕 30 101 3,436i 29 861i 内海取粕 128 1,843 取 対鳥取粕 粕 五島取粕 218 6,343 40 1,518 取 粕 201 6,607 合!(i粕 11 329: 61 2,580: 小計 11 358i 319 9,780 459 16,653 平 平 子 89 676 290 1,934 子 土 佐 平 子 54 545 小iii 143 1,222 290 1,934 " ( 少; 小つつ 2 19 の 上庄 133 1,556 他 泊 粕 43 650 小計 2 19i 176 2,206 合員│ 1,804 32,900i 3,015 46,250i 4,542 71,834 1,348 13,759 表3 阿波 陵商と肥料市場 付 │ 三 木屋輿吉郎家を中心に 九)より文化一

O

年 ( 出典 各年度の買入帳。 注 関東産の干鰯、〆粕は関東干鰯、関東〆粕にまとめた。仙台鮪粕は鮪粕にまとめた。 j

の仕入れの記載 がある 。 この時期はその 後のものと異なった特徴 をもっているので、まず この時期から見ていくこ とにする 。 表 3 に各年度の仕入れ 品目と金額を示した 。 年 度の始まりは前年九月よ り八月までの 一 年とした ので、文化八、九年は 年分をとることができた が、文化七年、文化一

O

年は、それぞれ前後が欠 けている 。 これによれば文化八年 ( 一 八 一 一 ) は俵数合計 五

(13)

五 四 が 三

O

一 五俵、文化九年( 一 八 一 二 ) は四五四 二 俵となっており、表 2 1 で判明している文政・天保期とは比較になら ない仕入れ規模だったことがわかる 。 銀高でも文化九年(一八 一 二 ) の合計は銀七 一 貫 八 三 四匁余となった 。 収支を示し た表

2

ー ーによれば 、文 化九 年(一八一二)の仕入額は銀七四貫匁となっており、ほぼ相当している 。 したがって文化七 年

1

文 化九 年までは、近世後期の最大規模の肥料仕入れが行われた時期と見ることができる 。 なお支払いについては江戸 などは金 貨 に換算して支払っている 。 換 算率 は 金銀 相場によってその都度変化があ っ たが、ここではできるだけ近い月日 から換算できる場所を探して計 算 し、すべて銀貨に換算してある 。 肥料の種類については、この時期は干鰯が中心で、文化八年( 一 八 一 一 ) では俵数で全体の八四・六%、銀額で七六・ 一 %を占めた 。 取粕はまだ文化八年(一八一 一 ) では俵数で 一

0

・六%余にしかな っていない 。 取粕の比率は価格では二 一 ・ 一 %であった 。 取粕は鰯などを 煮 て油をとったもので肥効が高かったが、手間もかかったので、干鰯よりは数倍高か っ た 。 また俵の 重量 も干 鰯な どよりは 多 くはいるのが 一 般であ っ た 。 このため俵数にたいして価格が高く表されている 。 ほかに平子・油粕もあるがごく少数にすぎなか っ た 。 いっぽう品目については、文化八、九年とも関東干 鰯 が中心で、俵数では文化八年で 三 分 一 、文化九年で半分にも及ん だ 。 銀額では文 化八年で四五・五%、文化九年で五五・ 七%となった 。 文化九年では関東 〆 粕の仕入れも一定数に達して いるので、これを加えると文化八年とほぼ同じ程度になる 。 これらの内、半分程度は三木家が江戸の出屈などを通じて直 仕入れしたものである 。 文 化 八 年 ( 一 八 一 一 )では、直仕入れの干鰯は俵数回九九俵、銀高八貫七

O

九匁余、〆粕一

O

五 俵、銀三貫三九五匁余、文化九年(一八一二)では干鰯九

O

四俵、銀 一 八 貫 一

O

匁余、粕八 三 俵、銀三貫二四六匁余とな っ た 。 江戸直仕入れについては各買入帳簿の冒頭に、買付の掛かりをまとめた記録がある 。 一 番 整 っ た文政 二 ニ 年﹁干鰯 買入

(14)

帳﹂の記述を示すとつぎのようであ 弱 。 江戸仕入 江戸問屋口せん金壱両 ニ 壱分五り 俵直 し 墨打 粕壱分 ( カ ) 干か八り 撫 養 仲 士ちん・蔵入粕もの壱俵ニ八りん宛初ニ取 粕江戸より直船 粕九分 干か七分 兵庫迄 粕七分 干か五分五り 同所より 三 分五り又ハ四分五り 同所かかり物改料ハ壱分宛 申十 一 月積り也 一、金壱両 ニ 付 六十四匁八分 五 分 の せ 匁 取粕弐俵半運 賃 壱匁五分 江戸口せん 五分 俵直し 阿波 藍 商と肥料市 場付 │ 三 木 屋 奥 吉 郎 家 を中心に 五 五

(15)

五 六 三匁九分弐り 六分懸物口せん 〆七十四匁弐分弐りニて元銀也 回目頭は江戸の干鰯問屋から仕入れた場合の口銭と運送のための俵直しなどの掛かりである。また荷物は、 一 日 -兵 庫 へ 運 ば れ て 、 そこから阿波にはいった。帳簿上にもほとんどが兵庫から運ばれたという記載があるので、実際にもそのような航 路がとられたことがわかる。兵庫からは撫養にはいり、問屋の改めを受けてから旧吉野 川 の水路などで中喜来の三木家ま で運ばれたと考えられる。関東干鰯・〆粕など東国系の魚肥で大坂を経由した記事はない。江戸からの運賃では、江戸干 の﹁粕干鰯商売取扱方心得書﹂によれば、大坂への運賃は粕で九分七 鰯問屋の喜多村藤蔵が残した嘉永五年(一八五二) 厘にたいし、兵庫では粕で六分五厘となっており、干鰯についても大坂が八分五厘、兵庫が五分五厘と兵庫の方が安かっ た。その点で兵庫着が有利だったことになる。阿波まで直送は、粕九分 ・ 干鰯七分でこれは文政期から変わっていない。 三木家は手船も所有していたので、直接運ぶこともあったと見られるが、 一 度 に 一

001

OO

俵程度のものが多いの で、適宜、江戸 │ 兵庫の廻船に乗せて運ぶことも多かったのであろう。上方から江戸への廻船は、返り荷に船の安定を図 るため重量のある干鰯・〆粕を積んだとされている。この時期、江戸の仕入れ先は記載されていないので不明である。直 仕入れではなく、江戸干鰯問屋が売り付ける場合があり、栖原久次郎・藍屋弥兵衛が文化九年(一八一二) 一 一 月 に 関 東 〆 粕七一俵を売った記録がある。これも兵庫の塩屋利左衛門を経由して三木家に届けられた。三木家は江戸からの運賃を負 担しているが、直買付にある墨付けの負担がない。﹁両人より御上り﹂とあるので、栖原らが売り付けたのであろう。兵 庫へ送ったものが、結局三木家に廻ったとも考えられる。栖原久次郎は江戸永代場組の干鰯問屋で、明和七年(一七七

O

)

の記録では紀州住居とある。文化九年(一八一二)の帳簿には、紀 州 湯浅の栖原屋権六から仕入れた記録があるので、あ るいはかかわりの深いものであったのかも知れない。

(16)

関東干鰯・〆粕は直仕入れや江戸の干鰯問屋からの買付以外にも、紀州湯浅・大崎・清水の商人や兵庫・阿波の問屋か らも仕入れている 。 とくに紀州は江戸 │ 大坂・兵庫の中継地でもあるので、中継商売が行われたのであろう。文化九年(一 八一二)二月の項では、紀州大崎浦の綿屋新右衛門から内海中羽干鰯一七四俵と関東越長干鰯三二俵を仕入れているが、 ﹁綿屋新右衛門殿 調﹂とあり、代銀について﹁右は只蔵彼地ニて払済﹂と記載がある。三木家側が人を派遣して買付の 約束をして、綿屋が内海干鰯などを買い集めた様子がうかがえる 。最後 に不足が出たので金三三・七五両を追加で支払つ たとある。代金は五七・四 一 両余であるので、前金は 二 三 ・ 八一両であった 。 関東干鰯のほかに、伊勢・加田・内海などの紀州灘と伊勢湾周辺の干鰯が仕入れられている。紀州加田は阿波の対岸で、 鰯漁が盛んであったと考えられる。網主と思われるものから少しづっ買付が行われたが、網干屋吉左衛門という人物が取 りまとめにあたっていた 。 また西国産の干鰯として讃岐 ・ 土佐・今浜・対馬、取粕では対馬・五島などがあったが、 そ れ ほど多いものではなかった 。 これらの多くは撫養を中心に、徳島などの阿波の干鰯問屋から仕入れたものであった 。撫養 では問屋頭の近藤利兵衛、和泉屋三郎兵衛、徳島では大和屋惣兵衛、雑 賀屋 佐七、天野屋順吉などがあげられる 。 阿波 藩 で は 、 寛 政期から移入肥料に歩掛かりをかけ、問屋制度を強化していた。しかし三木家では文化期ではまだ 藩 内干鰯問屋 との取引はそれほど大きくなく、直接各地から直仕入れをしたり、持ち込まれたものを買入れる方法で仕入れを行ってい た 。 また魚肥は干鰯が中心で、関東を中心に紀州・内海などのものが多く、西国ものはあまり大きな比重をもたなかった ﹀ ﹂ い 、 え マ ③ 。

2

文政期の仕入れ状況 表

4

に文政期の魚肥の仕入れ状況を示した。表 2 1 1 の各年度の合計と比較すると、 一 致 しない場合が多いことがわか 阿 波 藍 商 と 肥 料 市 場 付 │ 三 木 屋 奥 吉 郎 家 を 中 心 に 五 七

(17)

同く 表4 文政期三木家の肥物仕入れ 文化14年 文政冗年 文 政2年 文政3年 文政4年 文政5年 文 政6年 俵 数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁):f表数 銀額(匁):1表数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁):俵数 銀額(匁) 関東干鰯 598 7,441: 692 10,640 : 152 2,014 190 972 488 5,010 140 2,030 沼津干鰯 200 1,680 干 伊勢干鰯 982 7,486 鰯 土佐干鰯 28 386 干鰯 57 480 951 13,385 147 2,922 169 1,905 159 2,110 : 79 474 小計 1,637 15,407 951 13,385 867 13,948 321 3.919 190 972 847 8.800 219 2,504 その他小計コマエ・鮒・鱒・井白 5555 11.,995588 5 5 116655: 南部取粕 72 1,851 30 813 関東取粕 72 1,574 85 2,094 200 5,211 636 16,532 833 21,326 528 13,493 伊勢取粕 184 2,740 131 2,092 干 三河取粕 260 4,399 382 4,904 鰯 佐伯取粕 309 10,184 923 28,879 380 11,508 342 10,303 272 9,853 556 15,868 取 日向取粕 56 1,427 粕 五島取粕 165 4,725 166 3,765 65 1,489 対馬取粕 22 712 干鰯粕 10 394 10 394 小言f 734 19,308 804 12,983 1.308 37,511 590 17,114 1.034 28,262 1.135 31,992: 1,084 29.361 鱒 緋 鱒粕 130 6,921 63 3,229 588 26,040 146 5,876 286 15,378 100 4,984 取粕 M~粕小計 125800 125,555 3 87 77 2,638 12 554 323 13,478 ,475 66 3,315 665 28,678 158 6,430 286 15,378 423 18,461 その 取粕 192 3,532 150 2,180: 31 1,061 271 . 8,229 他 その他取粕 60 1,380: 175 5,924 175 5,924 l 32 42 1,172 取粕 小計 192 3,532 210 3,560 206 6,985 175 5,924 1 32 313 9,401

。 。

そ 数子 1 49 平子 154 897 の i由粕 25 325 f出 155 946

。 。 。 。 。 。

25 325

合計 2.563 38.247 2.400 43.349: 2.502 63.716 1,751 55.635 1,383 35,695 2.611 66.060 1.726 50.326 和泉屋一郎兵衛 569 14,583 938 15,504: 1,217 39,894: 1,095 41,432: 655 19,003 : 957 22,457: 1,451 45,540 干 山西庄五郎 鰯 近藤利兵衛 197 3,532 415 18,027 間 天野屋兵右衛木下藤右衛門門 165 4,725 39180 42,356 115 3,675 32 1,073 ,823 165 1,964: 172 3,412 179 4,813: 250 7,168 : 屋 板東貞兵衛 200 5211 350 9298: 120 3715 合計 931 22,839: 1.346 22,6]_4_ ; 1,382 41.857: 1.582 53.730: 1.216 34.187: 1.742 51.367: 1.451 45.540 注、その他粕・鯵・佐伯鯵・ウグイ ・かれ・コノシロ・鮪・サンマ 平海の取粕など

(18)

文政7年 文政8年 文 政9年 文政10年 文 政11年 文政12年 俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁): 俵数 銀額(匁): 俵数 銀額(匁) 関東干鰯 105 1,458 622 10,913 267 4,025 124 2,294 136 2,777 144 1,800 沼津干鰯 干 伊勢干鰯 鰯 土佐干鰯 321 3,692 干鰯 31 265 小言│ 105 1.458 943 14.605 267 4.025 124 2.294 136 2,777 175 2,065 その他コマエ.~ll'J ・鱒,制ト 小計 南部取粕 29 873 84 2,496 72 3,208 関東取粕 2,461 56,329 304 11,016 461 15,545 431 11,864 505 14,340 490 15,960 伊勢取粕 干 三河取粕 鰯 佐伯取粕 244 7,355 234 9,188 150 5,527 456 16,401 35 1,202 取 日向取粕 粕 五島取粕 対馬取粕 干鰯粕 小 計 2,734 64,556 388 13,512 767 27,940 581 17.391 961 30,742 525 17,163 鱒 緋 鱒 粕 160 8,592 25 1,594 20 1,244 取 粕 緋 粕 373 12,837 146 6,793 85 4,250 200 10,644 小 計 160 8.592 398 14.431

。 。

146 6.793 85 4.250 220 11.888 その 取 粕 20 496 他 その他取粕 181 6,229 4 89 140 4,241 取 粕 小 計

。 。 。

181 6,229 4 89

。 。

160 4,737 そ 数子 の 平子 他 油粕~i

。 。 。 。

8888 11.336655

。 。 。 。 。 。

合計 2.999 74.607 1.729 42.548 1.303 39.559 855 26.567 1.182 37.769 1.080 35.853 和泉屋三郎兵衛 2,571 62,610 652 22,866 314 12,028 434 16,341 171 6,643 312 12,784 干 山西庄五郎 578 17,694 297 7,932 860 27,591 624 21,268 鰯 近藤利兵衛 問 天野屋兵右衛門 144 1,800 木下藤右衛門 屋 板東貞兵衛 446 6129 合 計 2,571 62,610 1,098 28,995 892 29,722 731 24,273 1.031 34,234 1,080 35,853 出典:各年度の買入帳 室ささ謹1短よJ~~拒!\'w主一川特凶器〈朝日星主総帰宅1-',2]

)

同長

(19)

ノ、

る 。 その最大のちのは文政七年( 一 八 二 四 ) で 表

2

ーーでは、俵数一九四六俵、銀五七 貫 七七 二 匁余であったものが、買 入帳を元にした表

4

では、二九九九俵、銀七四 貫 六

O

七匁余と大きな聞きを示した 。 これは買入帳に文政六年(一八 二 三 ) 示す記 事 があるためである 。多量 なので三木家が購入して、 一 二 月一三日 、 関東取粕 一 一 七

O

俵、文政七年( 一 八 二 四)正月 二 六日、同 一 一 四四俵の突出した購入が行われたことを そのまま一部を他の肥料商などへ売り渡したために、庖卸帳 と買入帳とに 差 が生じたのではないかとも考えられるが、確かなことはわからない 。 文政八年(一八 二 五)と文政九年(一 八 二 六 ) は届卸帳が三

OO

俵ほど少ないが、以後は近似してきている 。 文 政 一 二 年(一八 二 九)には俵数は完全に一致し ているが、こうした例はまれで、両者のずれは恒常的に存在する 。 ここでは事情が不明なのでそのままとした 。 表

4

にしたがって全体の動向を見ると、文政七年を境に、仕入れは 二

O

OO

俵 台 を 割 り 、 一

OOO

俵台前後に低落して 天保期に至っている 。 また仕入れ品目については、干 鰯 が比 重 を低下させ、取粕への 移 行が進んでいった 。 干鰯は文化一 四 年 ( 一 八 一 七)には前年分を含まないのにかかわらず 一 六 三 七 俵 を 買 入れていたが、文政初年から低 落 し、文政八年以 降 は 二

00

1

O

O

俵にとどま っ た 。 干鰯の内訳は文化 一 四 年 ( 一 八 一 七)に伊 勢 干 鰯 を九八 二 俵購入した以外は、 基 本 的には関東干鰯が中心であ っ た 。 ほかには沼津、土佐干 鰯 などが購入された 。 いっぽう取粕は関東取粕を中心に佐伯取粕がこれに続いた 。 ほかには南部、伊勢、 三 河などの 東 国物と日向、五 島 、対 馬などの西国物があった 。 西国物がかなりの比重で購入されることになったのがこの時期の特徴であろう 。 また鱒粕・緋 粕などの蝦夷地産の魚肥の購入も多くなった 。 ことに鱗粕は文政元年度に購入されたのが初めであった 。 文政前期には 鱒 粕が中心で、文政後期になると緋粕の比 重 が高くなったが、まだ関東取粕や佐伯取粕の比ではなかった 。 仕入れ先について見ると、和泉 屋三 郎兵衛を中心とした撫 養 ・ 徳 島 の干鰯問 屋 からの仕入れとなり、文化期に高い比 重 を占めた 直 仕入れはわずかしかなくな っ ている 。 直仕入れの 場 合 、 三歩 の 歩 掛かりを問 屋頭 に納めることにな っ て い る が 、

(20)

などに配分して その記述のあるものはほとんどなく、歩引きが各所に確認できる。阿波 藩 では問屋頭が売買高の六歩を徴収して、平問屋 一 歩を買い人に戻した 。 この歩引きの記載があることは問屋から 三木家 が購入したことを示す 。 阿波 藩 が肥料の統制を確立したのは寛政一 一 年 ( 一 七九九) であったが、文化期には三木家は直仕入れを中心として、問屋から の買付は少なかった 。 しかし文政期にいたって問屋からの買付が主流となっていった 。 干鰯問屋の市場掌握がこの時期に なって三木家にも及ぶようになってきたといえる 。三 木家は江戸・姫路に出屈をもっており、必要があれば直仕入れが容 易にできる条件があったが、この時期は、 むしろ干鰯問屋を利用したのである 。 干鰯問屋の集荷力が安定して、三木家が もとめる魚肥の供給に応えられるようになったこともあるのであろう 。 表

4

の下段は文政期に取引のあった問屋の内、主要なもの六名をあげたものである 。 この六名で取引の大部分を占め ている 。 この内、中心になったのは撫 養 の和泉屋 三 郎兵衛で文政期を通じて、 三 木家と多額な取引を行った 。 とくに佐伯 取粕などが扱われている 。 さらに文政後半になると天保期に取引の中心となった和泉屋山西庄五郎が現れる。また撫養の 干鰯問屋頭近藤利兵衛、平問屋天野屋(天羽)兵右衛門、徳島の問屋頭板東貞兵衛、平問屋木下藤右衛門ほか徳島・撫養 の 問 屋 とその都度、取引が行われている 。 3 天保期の仕入れ状況 天保期は、天保飢僅の影 響 もあり、仕入れは縮小した 。表

5

に天保期の仕入れの動向を示した 。 これによると天保前半 期は 一

000

俵を下回ることがほとんどで、天保八年( 一 八 三 七)には四

OO

俵台にまで仕入れ 量 が減少した 。 そ の 後 、 次第に回復し俵数では文政前半期の水準になった 。 銀高では天保一四年(一八四 三 )には 一 一 五 貫 四七六匁余とはじめて 一

OO

貫を越している。 いちがいにはいえないが、価格も文政前半期よりは高騰してきている様子がうかがえる 。 阿 波 監 商 と 肥 料 市 場 付 │ 三 木 屋 輿 吉 郎 家 を 中 心 に ム ノ 、

(21)

1(I 1 表5 天保期の三木家の肥物仕入れ 天保元年 天 保2年 天 保3年 天 保4年 天 保5年 天 保6年 天 保7年 俵数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁): 俵 数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵 数 銀額(匁) 関東干鰯 145 2,284 90 1,152 262 5,454 100 1,860 32 570 199 3,721 干 筑前干鰯 14 141 鰯 干鰯 137 2,192 小計 145 2,284 90 1,152 137 2,192 262 5,454 114 2,002 32 570 199 3,721 銀} 剣ト 小言f 八戸取粕 40 1,276 南部取粕 40 910 岩城取粕 関東取粕 268 3,640 278 7,654 190 5,449 73 2,506 439 12,012 140 5,068 355 11,978 干 内海取粕 200 4,441 29 639 259 4,356 60 1,028 鰯 三河 取 粕 46 818 取 熊野取粕 46 726 粕 泉州取 粕 140 4,601 506 17,028 29 1,607 宇和 取 粕 51 1,692 佐伯取粕 232 6,668 20 604 126 4,761 109 4,781 266 12,225 その他粕 50 1,311 20 796 小言十 647 14,037 518 13,495 359 10,689 705 24,294 577 18,400 665 21,649 541 16,010 鱒 粕 30 1,853 30 1,776 30 2,076 48 3,523 31 2,521 50 3,731 32 2,704 車 専 松前緋粕 2 136 12 508 42 2,526 緋 唐太緋粕 取 緋 粕 71 2,962 85 4,124 100 5,565 100 5,340 210 13,797 211 14,857 360 20,365 粕 ホッケ粕 54 2,454 小計 155 7,269 115 5,900 130 7,641 150 8,999 241 16,319 273 19,095 434 25,595 その他植 物 粕 29 1,951 小lli 29 1,951 合計 94723,590: 723 20,547: 626 20,522: 1,117 38,747: 932 36,721 : 970 41,314: 1,203 47,277

(22)

天保8年 天保9年 天保10年 天保11年 天保12年 天保13年 天保14年 f表数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀音質(匁): 俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁) 関東干鰯 30 680: 134 2,881 干 │筑前干鰯 鰯 干鰯 10 230: 50 450: 15 240: 30 330 小言i 10 230 : 30 680: 50 450: 134 2,881 : 15 240 30 330 緋 │ 緋 133 8,270 小計 133 8,270 八戸取粕 南部取粕 50 1,603 岩城取粕 69 3,394 関東取粕 241 9,515 571 35,825 79 3,282 869 25,172 783 21,714: 922 24,723: 883 27,524 干 内海取粕 318 7,066 鰯 三河取粕 取 熊野取粕 粕 泉州取粕 宇和取粕 83 4,061 佐伯取粕 102 5,984 23 1,132 255 11,700 : その他粕 17 1,101 27 1,224 2 57: 742 21,853 小計 258 10,617 598 25,401 264 13,328 892 26,304 1,107 36,808 1,242 31,846: 1,675 50,980 鱒粕 30 2,966 6 431 15 1,399 40 3,930: 377 30,388 鱒 松前緋粕 15 1,203 286 21,784 20 1,735 110 8,460 I非 唐太緋粕 111 5,772 7 467 140 9,473 : 取 制

n

白 160 11,094 55 4,218 205 17,536 90 4,404 260 20,252 634 34,675: 389 25,508 粕 ホッケ粕 5 524 小言十 175 12,297 60 4,742: 521 42,286: 207 10,607: 302 23,852: 924 56,538: 766 55,897 その他│植物粕 6 67 小音│ 6 67 合計 443 23,144 664 30,210: 815 56,294: 1,149 37,360: 1,543 63,541: 2,314 88,624: 2,471 115,476 出 典 各 年度の買入帳。 注 、 そ の 他 粕 平i写 まかせ・鰯・鰯-小少女、植物粕:種粕-干粕油粕。 亘書芸能』樫-\J製薬tE~工一川特腿嶺〈制E壁紙、おそ!-,.::JI J i(111

(23)

四 仕入れ魚肥の種類についてみると、干鰯は関東干鰯が継続的に仕入れられているが、その数 量 は 一

OO

俵前後で天保後 半には仕入れのない年も 多 くなった 。 干鰯から干鰯取粕への移行が本格的に進んでいったが、その中心は関東取粕を軸に 佐伯取粕などがこれを補っていた 。 鰯粕など取粕は干鰯より肥効が高か っ たので、施肥にあた っては干鰯 より少 量 で 済 ん だ 。 したが っ て販売 量 も少なくなるので、干鰯中心の文化期と取粕中心の 天保期を 同 じ 俵数基準で 比較できない 。天 保 一 四 年 ( 一 八 四 三 ) のように取粕を中心として 二 四 七 一 俵を購入していると、干鰯だけだと 三

OOO

俵以上の 量 に匹敵した と見られるので文 化 期並になったともいえる。 ま た 鱒 粕・緋粕など蝦夷地産の魚肥が次第に 比 重を増していった 。 ことに天保末期になると緋粕の 比 重が増加した 。 天 保末年には僻粕の産地も記載されているが、これではネモロ ( 根 室 ) 、 ア ツ ケ シ ( 厚 岸 ) など東蝦夷産のものとアツタ ( 厚 田)中 場 所の日本海側のものであった 。 ま た 北 前船の 来 航が記録されることも始まり、 天 保 一 四 年 ( 一 八 四 三 )には﹁加 州北 吉 丸九郎兵衛船﹂から小女子粕七四 二俵を購入 している 。 小女 子は瀬戸 内海・九州でとれるが、北方系の魚なので蝦 夷 地でもとれた 。 北吉丸がどこで荷 積み したかはわからない 。 の 山 西庄五郎を中心に、同じく和泉屋 三 郎兵衛、近藤利兵衛、徳島の宮島次 介、雑賀屋佐七などがかかわっていたが、その後はほとんど 山 西庄五郎との取引に絞られていった 。 なお天保元年( 一 八 買入れは天保四年頃までは、撫養(林崎)

一月には九十九里から関東取粕二六八俵を直仕入れ し ている 。 江戸の干鰯問屋を通さず、神奈 川 宿宇平の世話であ ﹀ : t 一ふ九ふ H M 一回限りで終っている 。 山西庄五郎は和泉屋三郎兵衛 家からわ かれたとされ、この頃、塩並薪大問屋・肥物平問屋として台頭してきてい的 。 さ らに多数の子船をもって買積み商売を行い大きな利益をあげていた 。 天保 一 二 年 ( 一 八四こには千石船を四般所有し、 慶 応 元 年 ( 一 八六五)にはやはり千石船を六般(徳 栄 丸 ・ 皇照 丸 ・ 伊 勢宮 丸・永福丸 ・ 松栄丸・徳福丸) と 千 石 船 一 般 、

(24)

千石以下の船七般を預かって運行していた。三木家は山西と深いかかわりをもっており、天保一五年(一八四四)には共 同 出 資 で 一 一

OO

石積みの伊勢丸を建造して共同経営している。さらに三木家は千石船の万徳丸と観音丸という子船をも っていたが、天保一三年(一八四二)にはこの内、観音丸の経営を山西に委託している。山西はこれらの船で、塩を中心 にその相荷物として藍を江戸に運び、魚肥などを仕入れて帰った。取引は買積み形態をとり、廻船問屋として主商品の塩・ 藍・魚肥の安定運送をもとめるだけでなく、その売買利益を確保することで発展していった。これにくらべて和泉屋三郎 兵衛家は次第に、経営がふるわなくなったとされるが、おそらく山西が積極的に進めた子船化と買積み経営を組み合わせ た新しい経営の潮流についていけなかったのであろう。三木家はこうした山西の経営展開を後押し、その買積みに乗る形 で、肥料の確保にあたるとともに、その利潤の一部を山西に出資して利益の配分を受けていたのである。 4 弘化・嘉永期の仕入れ状況 弘化・嘉永期には、魚肥の仕入れは天保期末を引きついでほぼ全体で二

000

俵を前後する状況で、安政元年(一八五 四)に至る。表 6 に弘化・嘉永期の仕入れの状況を示した。仕入れ品目は、関東取粕を中心に、佐伯粕などの干鰯粕類が 基本で、これに緋粕が三分一程度含まれていた。関東取粕では、飯員、東良海(東浪見)、南場、本場、鎌倉、飯岡、九 十九里、鹿島、下総などの産地が記載されたものがある。また緋粕ではソヲヤ ( 宗 谷 ) 、 シ ャ リ ( 斜 里 ) 、 利 尻 、 ア ッ ケ シ ( 厚 岸 ) 、 ネ モ ロ ( 根 室 ) 、 マ シ ケ ( 増 毛 ) タルマイ ( 樽 前 、 現 苫 小 牧 近 辺 ) 、 クナシリ産の緋粕が仕入れられた。 ソ ヲ ヤ ・ 利尻など西蝦夷や日本海側のマシケ (中場所)などの産品の仕入れが目につくようになる。 取 引 相 手 は 、 ほとんどが山西庄五郎であるが、嘉永期にはいると大規模な直仕入れが行われることがあった。嘉永四年 (一八五二には江戸の栖原久三郎から関東取粕九

O

五俵、銀二四貫五八八匁余、窪田長右衛門から関東取粕一 一 五

O

俵 、 阿波藍商と肥料市場付 │ 三木屋輿吉郎家を中心に 六 五

(25)

(

(

表6 弘化・嘉永期三木家の肥物仕入れ 弘化元年 弘化2年 弘化3年 弘化4年 嘉永冗年 {表数 銀額(匁): 俵 数 銀額(匁): f表数 銀額(匁)

i

{表数 銀額(匁): f表数 銀額(匁) 10 162 72 1,411 干 鰯 10 110 鰯 計 10 162 10 110 72 1,411 緋

I

緋小計 100 6,547 3 225 100 6,547 3 225 八戸・南部取粕 100 4.389 300 11,473 相馬粕 関東取粕 741 21.758 187 3.049 956 34,044 791 27,077 1,452 45,697 干 内海取粕 110 4,050 10 583 鰯 泉州取粕 599 28,423 取 宇和取粕 124 5,944 ヰ 泊 佐伯取粕 344 11480 1050 41856 231 12235 鰯粕 3 96 197 15,747 粉粕 240 119 小言十 1,687 61,758 1,237 45,146 1,166 42,484 1,643 72.595 1,462 46.280 鱒粕 20 1,757 22 1,459 5 555 52 4,549 1 84 230 12,777 粕 緋 粕 491 34,472 555 39,149 574 43.153 640 47,761 600 44,256 小計 741 49,005 577 40,608 579 43,708 692 52,309 601 44,340 合計 2,528 117,310: 1.814 85,754: 1,758 86,579: 2.345 125,014 : 2.135 92.032

(26)

嘉永

2

年 , 嘉永

3

年 嘉永4年 嘉永5年 嘉永6年 f表数 銀額(匁)

i

{表数 銀額 (匁)

i

俵数 銀額(匁): 俵 数 銀額(匁)

i

俵数 銀額(匁) 関東干鰯 73 1,080 20 260 20 370 干 干鰯 20 270 鰯 小計 73 1.080 20 260 20 270 20 370 財 ト 鰐f 小計 八戸・南部取粕 相馬粕 93 3,050 関東取粕 1,195 36,378 1,496 42,995 1,037 26,581 2,545 69,456 1,331 44,511 干 内海取粕 280 7,445 鰯 泉州取粕 取 宇和取粕 粕 佐伯取粕 66 3,300 19 1.477 鰯粕 粉粕 19 147 小計 1,475 43.823 1.562 46,295 1,037 26.581 2,564 69,603 1,443 49,037 鱒粕 40 3,520 鱒 唐太緋粕 200 12,111 剣f 粕 緋粕 550 39,089 35 2,738 759 59,550 752 57,811 430 32,406 小計 750 51,199 35 2,738 799 63,070 752 57.811 430 32,406 合 計 2,298 96,102 1,617 49.292 1,856 89.921 3,316 127,414 1,893 81.814 出典.各年度の寅入帳 注、鰯粕:鰯粕、 地引鰯〆粕、粉粕は1845、47年度は俵 数の表記がないのでそのまま銀額のみを示した。

(27)

- 、 ‘ , t ﹂ ノ , ノ

O

匁余を直仕入れしている。窪田はこの年三月に株仲間再興にあたり銚子場仮組に属している新たに参入した { 幻 } 干鰯問屋であった。江戸直仕入れの事例として記載を見ておくとつぎのようである 。 江戸 窪田長右衛門殿 山西徳福丸貞吉船 イ印 高千百五拾俵之内 て関東取粕百八俵 ( 百 日 ) 惣〆千三百九拾三貰二 内四拾三 貫二 { 人け引 } 入引 正ミ千三百五拾貫 三拾九貫五百目がへ 代金 三拾 四両ト拾匁六分三り 同金 三両 ト六匁四分八り 口 せ ん 同 六匁四分八り 場怒り j13 〆金三拾五両卜八匁三分七り ( 中 略 ) 俵数合千百五拾俵 惣〆合壱万四千九拾五貫六

(28)

代金合三百七拾五両三分ト拾匁八り

f

E[ 徳福丸・徳繁丸 二 般積入歩懸り、並ニ運賃荷切出之分は、奥徳繁丸座へ相改メ付出置候、閏二月十四日 窪田の取粕は 山西庄五郎の持ち船である徳福丸と徳 繁丸で運送された。徳繁丸分もあるがここでは省略 している 。全 体は 一 一 五

O

俵で、それが 一

OO

俵程度に区分けされて、記号が付けられている 。 ほかの 事 例では、その区分けごとに入札な どで買付が行われたようで、全体のなかから 一 番と五番などと購入していることがわかる 。 記載について検討しておくと、 惣〆は全体の重量を示す 。 粕は重量で取引されたので、 一俵ずつ重量が記載され ていた 。 その合計が惣〆である 。 そこか ら入目引が引かれる。引いたものが正昧の重量となり、これをもとに代金が計算される 。 この頃は関東物については 一 両 当たりの重量を定め、正昧を割って金額を計算した 。 さらにこれに口銭と場懸りが加算されて、代金が定められる 。 こ こ で口銭・場懸りは江戸での経 費 で、阿波についてからは但し 書 にあるように歩懸りや運賃、切出などの経 費 が か か っ た が 、 ここでは徳繁丸の口座に記載が送られている 。 また船との関係で見ると山西に委託した観音丸の 積 み荷を引き受けたり、直仕入れ形式で引き取ることもあった 。 弘化 元 年 ( 一 八四四)には、九月に観音丸の積み荷四八

O

俵 、 一

O

月には四七

O

俵を引き取った 。 いずれも佐伯取粕で観音丸 は瀬戸内海航路に就航していたと見られる 。 こ の 場 合 、 三 木家は積み荷のほぼすべてを買い取ったと考えられる 。 九月は 山西を通す形をとり、 一

O

月は直仕入れの 形をとっている 。 いっぽう弘化三年(一八四六)には伊勢丸の記事がある 。 同 年二月に伊勢丸から飯貝根粕、南場中羽粕、南部取粕合計四七七俵、四月に東良海取粕四七俵、九月に鎌倉取粕 一 九 三 俵 、 一 二 月に飯貝根粕 一 八

O

俵 をそれぞれ直仕入れの形式で仕入れている 。 伊勢丸は江戸との聞を運行していたが、 三 木家が 購入 し たのはその運送分の一部であった 。 伊 勢 丸は 三木家 と山西で共同出 資 し た船であるが、嘉永 二 年 ( 一 八四九)に遠 州沖で破船して、 双方で損失を折半 し て 終 わ っ た 。 阿波 監商と肥料市場 付 │ 三 木 屋 輿 吉 郎 家 を中心に ノ 、 九

(29)

ギO 表ア 安 政 ・ 明 治 期三木 家 の 肥 物 仕 入 れ 安政元年 安政2年 安政3年 安政4年 安政5年 安政6年 万延冗年 俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁): 俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁) 関東干鰯 10 125 干 干鰯 80 1,024: 50 935 鰯 小計 90 1,149 50 935 八戸・南部取粕 相馬粕 関東取粕 3,478134,056 245 9,924 2,696 69,108 490 17,510 100 5,182 1,388 63,437 2,261 74,651 干 鰯 佐伯取粕 19 1,477 取 粕 185 15,952 292 28,241 500 50,408 50 5,952 鮪粕 17 1,667 魚粕 小言↑ 3,663150,008 245 9,924 2,988 97,349 990 67,918 117 6,850 1,438 69,388 2,261 74,651 鱒取粕 鱒 取 粕 緋 唐太鱗粕 40 4,344 緋取粕 570 57,614 440 45,971 395 37,471 360 36,158 774 84,675 334 47,463 70 8,781 小言↑ 570 57,614 : 440 45,971: 395 37,471 360 36,158 774 84,675 374 51,807 70 8,781 そ 正石灰 。 〉 他 小計 合計 4,233207,623: 685 55,895: 3,473 135,969: 1,400 105,011: 891 91,525: 1,812 121,195: 2,331 83,432

(30)

関東干鰯 ヰ│干鰯 小言t 八 戸 南 部 取 粕 相馬粕 関東取粕

~

I佐伯取粕

:

1

鰯粕 鮪 粕 魚粕 小百十 鱒取粕

器│唐太蜘

者│緋取粕 小計 そ 正 石 灰 のl 他れト計 文久元年 ; 文久2年 ! 文久3年 i 元治元年 ! 慶 応 元 年 ! 慶 応2年 ! 慶 応3年 俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁)

i

俵数 銀額(匁):俵数 銀額(匁) 5 450: 5 450: 30 3,166 : 200 12,595 50 5,146 15 768 30 1,626 180 27,165: 466 48,890 20 3,549 20 3,956 70 19,275 36 17,860 12 5,182 180 27,165: 511 52,824: 250 17,769 70 9.102 70 19,275 36 17,860 12 5,182 66 11,684

i

i

i

5 1,114 8 1,256: : : 30 6,490: : 100 42,696 15 6,920 164 24,743: 415 56,239: 431 65,362: 178 38,481: 508 139,681: 406181,252 290 147,752 238 37,684: 415 56,239: 431 65,362: 213 46,084: 508 139,681: 506223,948 305 154,672 30 225 30 225: 合 計

i

418 64,849

i

926109,063

i

681 83,131

i

283 55,186

i

578 158,955

i

547242,258 347 160,079i

(31)

ギ11 明治7年 明治3年 明治2年 明治元年 銀額(匁) 俵数 銀額(匁) {表数 銀額(匁) 俵 数 銀額(匁) f表数 関東干鰯

:

1

干鰯 小 計 2,145

l

5 八 戸 南 部 取 粕 相馬粕 関東取粕 干 │ 鰯│佐伯取粕

鮪粕 20,304 52 45,498 63 28,260 40 4,681 12 4,239 12 魚粕 20,304 52 45,498 63 28,260 40 2,145 5 8,920 24 小言十 260 149,636 97,515 259 260 149,636 97,515 259 260 149,636 97,515 259 ﹄ ta ﹄ ' ﹄ ﹄ ﹄ ﹄ ﹄ 1 l ' A ' t t ' ' ・ 1

t 1 1白 令 ,.. . q u q u 弓 t n 民 U n k u n M u n w u A M g u n 〆 u , , , n u Q u n u n w d A U d n 〆 “ ' i q F U Q d q L 粕 粕 緋 粕 取 太 取 計 鱒 唐 緋 小 鱒 帥 附 取 粕 65 21683 262 102249 166115987 150 89476 240 240 89,476 150 166 115,987 262 102,249 21,683 65 213 134,974 206 144,247 267 104,394 30,603! 89 そ│正石灰 の l 他│小言十 医 師 K A 叫 W i e s -入 一 向 貝 一 の 一 度 一 年 計 一 各 ム ロ 一 占 hM 悼 守 、 -巴 “ " n 出

(32)

5

安政

i

明治初年の仕入れ状況 表

7

に安政・明治初年の仕入れの動向を示 し た 。安政元年(一八五四)に後期の最大規模であった四二五二俵の仕入れ が行われた後、次第に取引規模が少なくなっていく。そして万延元年(一八六

O

)

り言言二俵を最後に、

O

O

O

俵を 下回るようになり明治初年に至った 。 その後は自家分程度しか購入しなくなった。品目では、万延元年(一八六

O

)

か ら 関東取粕以下の関東産の鰯系魚肥は見られなくなる 。鰯 粕といってもタルマイ産の鰯粕となり、ほとんどが蝦夷地産にな タルマイは天保期頃まで鰯漁で栄えたが、以降は不漁でふるわなくなったとされる。しかし関東産の鰯取粕が っ て い く 。 はいらなくなったため購入が行われたのであろう。関東の代表的鰯漁場であった九十九里浜では文化一三年(一八二ハ) より天保一四年(一八四三)が鰯の豊漁期、弘化元年(一八四四)より安政四年(一八五七)までが不漁期、安政五年(一 八五八)から明治一五年(一八八二)までが豊漁期とされる 。摂津 尼崎の干鰯屋梶屋の買付史料でも、安政五年( 一 八 五 八)から明治二、三年(一八六九、七

O

)

までは、関東物の干鰯、取粕の買付が減少し、緋粕などに替えられていた 。 た だ明治四、五年には関東物の鰯系魚肥の比重が回復している 。 し か し 三 木家の仕入れでは明治六年(一八七三)に至って も鰯系魚肥が回復することはなかった 。 三 木家の場合、万延元年(一八六

O

)

までは江戸直仕入れを積極的に行うことで 関東産の干鰯取粕を確保していたが、豊漁期にはいってから、 むしろ仕入れがなくなっていったのである。 文久元年(一八六二 からは緋粕が中心となるが、全体に俵数が減少しており緋粕は五

OO

俵台が多い方であった。仕 入れ俵数の合計でも明治元年には一

OO

俵を割り、その後、二

OO

俵台に回復したものの、それ以上仕入れが増えること はなかった 。 緋粕の産地は嘉永期のものに加えて、 ルルモツへイ ( 留 萌 ) 、 唐 太 ( カ ラ フ ト ) 、 カ ヤ へ ( 茅 部 ) な ど が 見 ら れ た 。 また廻船には越前を中心に加賀・出雲などの北前船が多く入港した。 以上、幕末期の三木家の魚肥仕入れ状況を見てきたが、最後に藍商売とのかかわりについてふれておこう 。 三 木家の肥 阿波藍商と肥料市場 付 │ 三木屋 奥吉郎家を中心に 七

(33)

七 四 料商売は幕末にかけて縮小していったが、藍商売の場合これと反対に拡大していった 。 しかしその内容は大きく変容して い た 。 それまで三木家では周囲の農民に魚肥を前貸しして、藍葉を肥料代と相殺して集荷していた 。 ところが魚肥の売り 上げは嘉永 ・ 安政初年をピ l クに減少し初め、明治初年には集荷に役立つほどのものではなくなる 。 これにたいして藍葉 の集荷は安政末年まで増加し、明治初年にかけて急減していった 。 また安政末年には、中 喜 来周辺から藍作の進んだ板野 郡中心部まで仕入れが拡大した 。 藍葉仕入れの拡大期には、 肥料の仕入れは後退を初め 、肥料前貸しによる藍葉買 付方式 が成り立たなくなっていたことを示している。前貸しによらない買付が多くなったのである 。 また藍葉ではなく藍玉その ものの買付に主軸が移っていった 。 三木家は藍葉から藍を制作するという藍師から、完成品である藍玉の集荷にあたる藍 仲買商としての側面を強化していったのである。このため三木家は肥料部門を縮小することが可能になったといえる 。 いっぽうこうした三木家の展開を可能にしたのは、在方における小規模藍師の輩出であった 。 阿波 藩では天保期から明 治期にかけて、藍師の数が増加し、生産も上昇していった 。 在来産業型の発展が見られたのである 。 こうしたなかで三木 家が子を引いた 肥料市場についても在方肥料商が 展開し、この間を埋めるようになったと考えられる 。 干鰯問屋の山西庄 五郎の弘化元年(一八四四)と思われる﹁肥売帳﹂を見ると、在村の農民に 二

O

、 三

O

俵という単位で緋粕などを売って 一 歩 引が行われているので形の上では、干 鰯問屋から 小売・仲買への 販売であったが、直接消費農民が含まれた可能性はあ刻 。 子船で買積み商売をする廻船問屋の山西はいっぽうで、大規模 い る 。 なかには緋粕二俵などというものもあった。 な藍師(商)・肥料商だけでなく、直接消費農民を含む広範な人びとに魚肥を直接販売していた 。 そうした市場が広がれば、 藍師が肥料の前貸 し で 農民から藍葉を有利に買付ることはむずかしくなる 。 また在村に小規模な肥料商が成長して、藍葉 の集荷とは切り離して肥料前貸しを行うようになった 。 例えば板野郡高原村の池北屋太兵衛(後、繁右衛門)の干鰯売帳 から明治二年(一八六九)まで 二

O

冊 残っている 。 これでは池北屋は前貸しをしているが、利子 が文政三年( 一 八 二

O

)

(34)

を付けて現銀で回収した 。 藍葉での相殺は前提となっていない。利子は文政・天保期には年 利 一 四・四%で、藩が農民に 貸 し付けた肥料代の利子と同じであった 。藩 の農民への肥料代貸し付けは、 量 的にはわずかだったが、肥料商の貸し付け 利子はこれに規定されたと見られ、民間の利子率を抑制する意昧はあったといえる 。

以上、阿波の藍商であった 三木家の魚肥 仕入れ状況の検討を行ってきた 。 これを通じて藍特産地域の肥料 事情 と全国市 場との結びつきを見ることができた 。 阿波藍は木綿以上に、魚肥を投下して耕作する側面があっただけに、 農 民にとっては肥料の確保は欠かせなかった 。 藍 を国産品としてその流通を掌握した阿波藩も仕法を重ねるにしたがって肥料にも統制を及ぼすようになり、農民への貸し 付けから流通統制に及んでいった 。 この結果、寛政年間には、干 鰯 問 屋頭 │ 干鰯平問屋仲買・小売商という流通機構を 定め、歩掛かりの徴収などを行うようになった 。 三 木家の干鰯取引もこの環境のなかで行われていたが、文化期までは自ら江戸屈を通じて直仕入れを行ったり、伊勢や 紀州からも仕入れを行うことが多かった 。 その廻船は江戸からは兵庫廻りで、阿波へはいっており、大坂経由は見られな かった 。 またこの時期は、関東干鰯を中心に各地の干鰯が仕入れられていた 。 しかし 文政期 になると撫 養や 徳島の干鰯問屋からの仕入れに変わっていった 。 撫 養 (林崎)の和泉屋 三 郎兵衛を中心に 取引が行われた 。 こ の 時 期 、 藩の 肥料流通統制が 三 木家にも及ぶようになったといえる 。 もちろん藩は直仕入れを禁止し ていたのではなかったし、 三 木家も江戸屈をもっていたので、容易に直仕入れを行うことはできた 。三 木家が品質・価格 ・ 阿 波 監 ・ 閥 と 肥 料 市 場 付

l

三 木 屋 輿 吉 郎 家 を 中 心 に 七 五

参照

関連したドキュメント

これはつまり十進法ではなく、一進法を用いて自然数を表記するということである。とは いえ数が大きくなると見にくくなるので、.. 0, 1,

熱が異品である場合(?)それの働きがあるから展体性にとっては遅充の破壊があることに基づいて妥当とさ  

 このようなパヤタスゴミ処分場の歴史について説明を受けた後,パヤタスに 住む人の家庭を訪問した。そこでは 3 畳あるかないかほどの部屋に

今回、新たな制度ができることをきっかけに、ステークホルダー別に寄せられている声を分析

各テーマ領域ではすべての変数につきできるだけ連続変量に表現してある。そのため

 今日のセミナーは、人生の最終ステージまで芸術の力 でイキイキと生き抜くことができる社会をどのようにつ

自然言語というのは、生得 な文法 があるということです。 生まれつき に、人 に わっている 力を って乳幼児が獲得できる言語だという え です。 語の それ自 も、 から

夜真っ暗な中、電気をつけて夜遅くまで かけて片付けた。その時思ったのが、全 体的にボランティアの数がこの震災の規