インドネシア,スンバワ島医療活動同行体験
著者
品川 憲穂
雑誌名
鹿児島大学歯学部紀要
巻
34
ページ
91-94
URL
http://hdl.handle.net/10232/20668
インドネシア,スンバワ島医療活動同行体験
品川 憲穂 鹿児島大学歯学部6年 2013年8月,私は口腔顎顔面外科の中村典史教授の インドネシアでの学術活動に同行することになった。 今回の中村教授のインドネシア訪問は3つの目的があ るということだった。一つ目は2012年に鹿児島大学歯 学部と交流提携を結んだ国立エアランガ大学歯学部に 鳥居教授,小松澤教授らと訪問し,学術シンポジウム での講演や今後の共同研究の話し合いを行うこと,二 つ目は中村教授が以前2年間働いていたジャカルタ 市,ハラパンキタ病院口唇口蓋裂クリニックの訪問す ること,三つ目はスンバワ島においてエアランガ大学 口腔外科チームとともに行う口唇口蓋裂ボランティア 手術に参加することで,そこにかつてから海外活動に 興味を持っていた私を同行してくれるということで あった。 8月25日朝6時,教授3名と私を含めた4名は鹿児 島中央駅より新幹線で博多駅へ行き,福岡空港をシン ガポール経由でインドネシア,スラバヤへ向けて飛び 立った。時差によりスラバヤは日本より2時間遅い。 飛行時間は約7時間で,スラバヤに到着したのは午後 7時すぎであった。スラバヤはジャカルタと同じジャ ワ島にあるインドネシア第2の都市である。空港では エアランガ大学の口腔外科の人たちが大勢で迎えてく れ,そのままレストランへ行き,皆でインドネシア料 理をごちそうになった。 エアランガ大学の先生はとても気さくで,私もすぐ にうちとけることができた。その中に,すでに大学を 卒業し,口腔外科の専門医コースで学んでいるという スバン君と私は仲良くなった。スバン君の奥さんは, 子供の頃に日本に住んでいたことがあり,スバン君は 私を「センパイ(先輩)」と呼んでくれた。私は英語 がさほど流暢ではなく,海外へも久しく行ってなかっ たので最初会話には少し苦労したが,電子辞書を駆使 しながら食事と会話を楽しんだ。いずれも美味しいイ ンドネシア料理を食べきれないほどもてなしてもら い,たちまち我々は意気投合した。 翌26日には,早速エアランガ大学と鹿児島大学との 学術交流シンポジウムが行われた。両校間の学術提携 を祝う記念式典が行われ,そして鹿児島大学の3人の 教授陣とエアランガ大学のドクターの講演がなされ た。教授の先生方は,ユーモアを交えながら流暢な英 語で(インドネシア語も交えて)講演をされた。聴衆 にはイスラムの装束をまとった女性たちが数多く見受 けられた。エアランガ大学では歯学部の学生の4分の 3は女性であるということであった。 翌27日はエアランガ大学歯学部において,3名の先 生はそれぞれの専門科に分かれて今後の研究打ち合わ せやセミナーに参加され,その間,私はスバン君に案 内されて大学病院での学生による臨床実習を見学し た。インドネシアの歯学部は5年制だが,卒業後の1 年間のインターンシップを経て国家試験に通ると一般 歯科医師免許を取得する。そしてさらにその上の専門 医コースに進み,口腔外科なら7年,矯正科や小児歯 科なら3年の課程を終えると,専門医の資格を得るこ とができるということだった。病院では5年生が臨床 実習を行っていた。タイル貼りのしきりで区切られた 診察スペースには,一人の患者さんに2,3人の学生 がついており,まず学生が診察を行って,その後フロ ア中央にいる教員のもとへ治療方針を報告しに行くと いう手順で実習が行われていた。教員から許可が出れ ば,再びチェアーに戻り,学生自らが治療を行って良 いということだった。スケーリングを行う学生,義歯 作成の咬合床作りをしている学生,そして抜歯を行っ ている学生が,教員について見学しているのではな く,学生たちが自分の意思で治療を行っており,フロ ア全体には非常に活気あふれた雰囲気を感じた。機器 や器具は確かに日本のものより遅れているものであっ たが,学生たちがとても自信を持ち誇らしく診療を 行っている光景が印象的であった。学生による治療が 無料であるということで,患者に十分な承諾が得られ ているからこそ可能な診療体系であると考えられた。品川 憲穂 92 また,別のフロアでは,専門医コース生による専門 の治療もおこなわれていた。学生と専門医コース生と は白衣の色で見分けがつくようになっており,さらに 学生はローテートしている診療科のバッチを付け,こ れも一目でわかるようになっていた。 見学を終えたところでスバン君がイスラムのお祈り に行くというので,「私も行きたい」とお願いしてみ た。私はイスラム教徒ではないが,イスラム教の礼拝 には前々から興味があったのでそう話した。すると, スバン君は笑顔で 「オッケー」 と言ってくれた。イス ラムの祈りは通常はモスクで行うが,学校や病院など にはムショラというお祈り場があり,皆時間になると ここでお祈りを行っていた。スバン君からは,「お祈 りの前には必ずまず身体を洗い清めるのだ」と,その やり方を教えてもらい,手,足,顔,頭,口の中,鼻 の穴,耳の中を水で3回ずつ洗って,そしてムショラ に入った。スバンの後に続いて,同じ動作でお祈りを 終えると,そこにいたみんなが握手をしてくれて嬉し かった。 この日の昼食は,中村教授の発案で,ケンタッキー フライドチキンを素手で食べることになった。イスラ ム教はブタを食することは禁じられているが,チキン なら問題ないので,街のあちこちに KFC の看板を目 にした。インドネシアのチキンは日本のものほど脂肪 が多くなく,また白飯とセットで注文するのが特徴的 だった。チキンにチリソースをつけて,右手で食べる インドネシア風の食事も初めての経験であった。その 語,鳥居教授と小松澤教授はこの日で帰国するという ことで,お別れとなった。両先生からは,「この後, インドネシアでの活動を頑張れよ」と激励を受けた。 28日,いよいよ中村教授も初めていくという辺境の 地ドンプへ,口唇口蓋裂の手術を行うために旅立っ た。ドンプは,バリ島から,さらに東に進んだヌサ トゥンガラ諸島の中のスンバワ島の小さな町だった。 メンバーは,エアランガ大学の口腔外科医と麻酔科医 に中村教授と私が合流して総勢20余名であった。スラ バヤからバリ島のデンパサール空港で乗り継ぎ,スン バワ島ビマ空港に降り立ち,さらに車で1時間走っ て,ようやくドンプに到着した。ドンプは,はっきり とした理由は分からないが,口唇口蓋裂患者が多い島 として有名らしく,その原因は遺伝ではなく環境に問 題があるのであろうと云われていることを中村教授か ら聞いた。エアランガ大学のドクターが話すには,井 戸水に含まれる亜鉛が原因ではないか,ということ だった。そして,治療を受けられないまま大きくなっ ている人が何人もいると知った。 到着後,まず地元政府のレセプションに招待され, 昼食を食べた後,病院へと向かった。病院の待合室に 行くと,口唇口蓋裂患者やノーマという感染症で顔面 の組織が失われた患者が,待合所を埋め尽くすほどに 待っていた。患者だけでざっと30人はいただろう。蒸 し暑い部屋で中村教授やドクターは術前の診察を行っ た。そうこうしているうちに,すぐにこれから手術を 行うということで手術室へと連れられて行った。慌た だしい展開の中で,流れがつかめないまま,私はとに かく皆に付いていった。 手術着に着替えて,手術室に入ると,手術台が3台 並んでいた。しばらくすると,親と離された子どもた ちが泣きながらスタッフに抱きかかえられ入ってき た。そして台の上に寝かされると,麻酔科医はマスク で麻酔を開始し,子どもたちはアッという間に眠らさ れていった。スムースな全身麻酔の手順に驚かされ た。3つの手術台で3つの手術が同時進行で行われて いった。そのうちの一人を中村教授が受け持ち,持参 した手術器具を用いて口蓋裂手術と口唇裂手術を行っ た。 口唇裂の手術方法は,インドネシアのドクターの様 式や手法は日本でみていたものとは随所で異なってい たが,私にはとても巧みにみえた。中村教授が云うに は,口唇裂の手術はその形を覚えるところから入る が,何故そうするのか理屈が分かるようになることが 外科医にとって重要である。そのためには,健常な解 剖を知り,科学的な視野でものをみる必要があるとい う。そして,中村教授自身が長年培ってきた外科医と しての自立の方法を彼らに伝えることが,海外で活動 をする目的であるという信念を聞かせてもらった。各 手術台で3人の患者の手術が終わると,夜の6時で あったが,すぐに次の手術が始まった。我々の滞在期 間は3日しかなく,病院には島中から集まった患者が まだまだ数多くいたので,ゆっくり休む暇はなかっ た。次の手術では,私も Dr. ミラの手術の介助につい た。Dr. ミラは私にいろいろ教えてくれ,私も必死に 自分のできることを探したながら介助をした。 この日6名の手術が終わると時間は午後11時になっ ていた。それから皆でローカルなレストランで美味し い海鮮料理を食べ,ホテルで休んだ。 29日,朝早起きをして,8時から手術が開始された。 手術台はもう1台増やされ4台になった。泣きながら 入室してくる子,暴れて押さえられる子,心を決めた ようにおとなしい子,さまざまであった。考えてみれ
ば彼らにとっては運命の日である。昨日までその顔で 育ってきたものが,1夜にして別の顔に変わるのであ る。まして何年も生きてきた子にとっては,その子が 疾患のせいでどんな苦しみにあってきたのかは想像も つかないが,とにかく手術の成功,そして,その後の その子等の幸せを願い,我々は必死に手術を行った。 1つの手術が終わると,すぐにまた次の手術が始ま るという具合だった。この日は食事も手術室の横で急 いで済ませ,それでも皆で和気あいあいと楽しく過ご す食事の時間はとてもうれしかった。また,手術中も リラックスしたムードが流れていた。皆が疲れてくる と,誰かが歌いだして場を和ませ,中村教授も昔覚え たらしいインドネシアの歌を披露し,喝采を浴びてい た。日本でのピリピリした手術室の雰囲気しか知らな かった私にとっては,いい意味で概念が変わった。こ の日最後のオペを中村教授が終えた時,時計は夜中の 午前2時半を回っていた。手術室の床には寝転がって 眠ってしまっている者もいたが,全員で最後のオペの 終了まで立ち合いこの日を終えた。 30日は金曜日で,15歳の少年,20歳の青年,そして 50歳過ぎの男性の口唇裂の手術が行われた。驚いたこ とに,これを局所麻酔下で行うということだった。3 人の男性が,並んだ3台の手術台に横になった。15歳 の少年は体がブルブルと震え,そして抗菌薬を注射で 静注されているとき,彼は嘔吐してしまった。しかし シーツを換えてすぐに続行するという。私は彼の背中 をさすって,彼を励ました。 局所麻酔が注射されたが,少年は終始 「痛い,痛 い」 とインドネシア語で言っていた。なぜ全身麻酔下 で行われないのか,私にはその理由が理解できなかっ たが,とにかく手術は無事に終わった。不思議なこと だが,私は外科手術の原点をみたような気がした。こ れでドンプにおけるすべての手術を終え,結局,手術 を受けた患者の数は全部で30例余であった。この日は 夕方から皆でビーチに行き,その近くの旧日本軍の防 衛壕にも連れて行ってもらって,ドンプでの最後の楽 しい夜を過ごした。 翌31日,一行はドンプを後にした。途中の経由空港 バリ島デンパサールで,6時間ほど待たされ,せっか く朝早く出発したのに,スラバヤに戻ってきたときは 夜の7時を過ぎていた。ここでエアランガ大学口腔外 科のみんなとさよならとなった。この4日間で本当に 気心が知れ,友達になったので,とても切なかった。 みんな私のことを 「ノリ,ノリ」 と慕って親切にして くれた。本当に素晴らしい外科チームだと思った。 9月1日,中村教授と私は,教授の思い出の地, ジャカルタハラパン・キタ小児女性病院へと向かっ た。昔の友人たちと会えるとあって,教授の表情も嬉 しそうであった。スラバヤがインドネシア第2の都市 と言っていたが,ジャカルタは桁が違って大都会だっ た。芸術的な設計の高層ビルがいくつも建っていた。 しかし人々はやはり気さくで親切であった。 約20年前中村教授はこの病院の口唇口蓋裂クリニッ クの創始期に参加されたということである。そして, かつて共に仕事した仲間は戦友のようなものだと表現 されていた。中村教授は赴任当時の病院内やジャカル タでの出来事を本にまとめて,今回,これを昔の戦友 に届けに来たそうである。中村教授を迎えた昔のメン バーは,本の写真を見ながら,昔のことを懐かしんで, 大層盛り上がった。昔の仲間の先生はハラパン・キタ 小児女性病院をすでに退職したり,離れたりして,そ れぞれの道を進んでおられるとのことだった。中村教 授は,皆と楽しい再会を果たし,私も昼食を一緒しな がら,先生の素晴らしい半生の1ページをのぞかせて 頂いた。 今回のインドネシア訪問に帯同して,私はエキサイ ティングで奇跡的な経験をたくさんさせてもらった。
品川 憲穂 94 私が寄稿文を書くにあたり,誤解を招くような部分も あったかもしれない。しかし,とにかく中村先生はイ ンドネシアの口腔外科のレベルを上げ,ご自分が今ま で培った経験と知識により,1人でも多くの患者が幸 せになるようにとの一心で取り組んでおられるように 私は心から感じた。 この旅に私を連れて行っていただいたことに対し て,言葉で感謝の意を表現し尽くすことはできない。 私も先生から学んだことをしっかりと胸に残し,これ から歯科医として生涯を医療に捧げることによって, 恩返しをしていきたい。