はじめに
グローバリゼーション・スタディーズが豊かな果実を育むよ うになってからかなりの時日が経つが、その多管的な系譜のな かで、近年とりわけ異彩を放っているのがモビリティーズ・ス タ デ ィ ー ズ で あ る 。 そ こ で は フ ロ ー 、 ム ー ブ メ ン ト 、 マ イ グ レーション等で示されるものが一括してモビリティとして論じ られ、グローバリゼーションの進展とともにそれらの位相にあ らたな目が向けられるようになっている。考えてみれば、モビ リティは久しく﹁動かないもの﹂を向こうにしてモダンの中心 に置かれてきた。そしてこの﹁動かないもの﹂を象徴するもの として国民国家が位置づけられてきた。モビリティは国民国家 を 通 底 す る ﹁ 中 心 と 周 辺 ﹂ の 機 制 を 正 確 に な ぞ ら え る マ イ グ レーションをあらわすものとされてきた。これまで社会学では、 階 層 移 動 と か 地 域 移 動 な ど と い っ た 研 究 が 累 積 さ れ て き た が 、 それらは総じて上述の機制の枠内にとどまっていたといえよう。 ちなみに、階層移動研究は一貫して﹁中心﹂に閉じていく国内 の労働力編成を与件としていた。他方、地域移動研究では、国 境を越えて移動する移民に照準を据えたモノグラフを多数輩出 し て き た が 、 そ れ ら の ほ と ん ど は ﹁ 国 策 移 民 ﹂ と か ﹁ 企 業 移 民﹂などを対象にしたものであり、かりにボーダレスなマイグ レ ー シ ョ ン で あ っ て も 、 何 ら か の 意 味 で ナ シ ョ ナ リ テ ィ を 背 負 っ た も の で あ っ た 。 別 の 言 い 方 を す る と 、﹁ 内 ﹂ な る ﹁ 中 心 と 周 辺 ﹂ が ﹁ 外 ﹂ に 漏 出 し た マ イ グ レ ー シ ョ ン を 扱 う も の で あったのである。 こんにち、グローバリゼーションとセットであらわれている モビリティは、大枠としてモダンの枠内にある。しかし﹁中心 と周辺﹂の円環の構造にはけっして閉じていかない。たとえば、 いち早く﹁フローの空間﹂を打ち出したマニュエル・カステル は、それを境界に囲まれた場所︵プレイス︶の対向に据えてい吉原
直樹
ポスト・オートモビリティのゆくえ
る ︵ Castells 1989= 一 九 九 九 ︶。 た と え ば 、 モ ビ リ テ ィ ー ズ ・ ス タ デ ィ ー ズ の 才 フ ィ ギ ュ ア 幹 で あ る ジ ョ ン ・ ア ー リ に 至 っ て は 、 明 確 に﹁社会を越える社会﹂の基層をなすものとして位置づけてい る。いまや、モビリティが﹁動くもの﹂と﹁動かないもの﹂の 二 分 法 の 上 に 措 定 さ れ る こ と は な い 。 同 時 に 、 近 年 の モ ビ リ ティーズ・スタディーズが一九九〇年代にピークを迎えた空間 論 的 転 回 を ひ と つ の 水 脈 と し て い る こ と を 指 摘 し て お き た い 。 空 間 論 的 転 回 じ た い に つ い て は す で に 別 稿 ︵ 吉 原 二〇二〇︶ で詳述しているので、ここではごく大雑把に社会理論を﹁時間 と空間﹂で書き換える動きとしてとらえるとして、そこで起点 をなしているのは、クロック・タイムと 遠 パースペクティヴ 近 法 空間を所与の 前提とする社会理論の再審である。空間論的転回の衣鉢を継ぐ モビリティーズ・スタディーズは、グローバリゼーションを経 験場としながら、モダンの時空間の両義性に深く分け入ってい る。そしていまや、その理論射程は場所︵ローカリティ︶にま でおよぶようになっている︵吉原 二〇〇八︶ 。 さ て 以 上 の よ う な 位 相 の 下 に あ る モ ビ リ テ ィ ー ズ ・ ス タ ディーズに、近年、強い関心が寄せられるようになっているが、 とりわけそうした関心が傑出した形で立ちあらわれているのが オートモビリティである。しかしオートモビリティについては これまでほとんど論及されてこなかった。たしかにそれぞれの 時代相に立ち入りながら、車/カーの変遷を叙述したり、社会 批評の次元で自動車批判をおこなうといった試みはこれまでも み ら れ た 1) 。 し か し な が ら 、 グ ロ ー バ リ ゼ ー シ ョ ン の 進 展 と と もに浮き彫りになったモダンの両義性を見据えながら、オート モビリティのありようを再帰的に問い込み、さらにデジタル化 やAI化の展開とともに取りざたされるようになっているポス ト・オートモビリティのありようを論じるような研究は未だ本 格的に立ちあらわれていない。そこで本稿では、表題のような 問いを立て、その検討を通してモビリティーズ・スタディーズ の展開に与することにしたい。
1
オートモビリティと﹁時間︱空間﹂
まず最初に指摘したいのは、ここでいうオートモビリティは オートノミーとモビリティの合成語、つまり自律的な人間と移 動能力を持ち合わせた組み合わせのことであるという点である。 こ の オ ー ト の 二 重 の 含 コ ノ テ ー シ ョ ン 意 か ら 、 オ ー ト モ ビ リ テ ィ が 自 律 的 に操縦ができ、自由自在に一般道路に繰り出していくことので き る ﹁ 自 動 車 ︱ 運 転 者 か ら な る 複 合 体 ﹂︵ Urry 2005=2010:42; Beckmann 2005= 二〇一〇一二五︶をさしていることがわか る 。 ま さ に ﹁ 物 質 的 ﹂ な 自 動 車 そ の も の で は な く 、﹁ 流 動 的 な 相互連関のシステム﹂ ︵ Urry 2005= 二〇一〇四二︶に目が向 けられているのである。こうした﹁流動的な相互連関のシステム﹂がもたらすものは、 ﹁周り﹂に拘束されずに、より正確にいうと、 ﹁周り﹂に監視さ れているかもしれないという疑念を抱かずに、どこにでも自由 に移動し、誰とでも会うことのできる生活であり、高度のフレ キシビリティとハイブリディティをともなうものである。そう し た フ レ キ シ ビ リ テ ィ と ハ イ ブ リ デ ィ テ ィ は 、﹁ 自 動 車 − 運 転 者からなる複合体﹂がいっそう﹁コミュニケーション・メディ ア の プ ラ ッ ト フ ォ ー ム ﹂︵ Featherstone 2005= 二 〇 一 〇 二 ︶ に近づきつつあることを示しているが、同時に、そこに伏在す るソフトウエアによる制御が容易に反転態、たとえば監視機能 を強めるといった事態へといざなう惧れがあることを示してい る 2) 。 そ れ は こ の 間 、 モ ダ ニ テ ィ の ジ レ ン マ と し て 指 摘 さ れ て きたことと深い関連がある。 しかしその点は指摘するにとどめ、ここではむしろ﹁自動車 ︱運転者からなる複合体﹂=﹁ 構 ア セ ン ブ リ ッ ジ 成=集合体 ﹂が新しい﹁時間 と 空 間 ﹂ の 経 験 に 根 ざ し て い る こ と に 注 目 し た い 。 ち な み に 、 こ れ に 関 連 し て 、 マ イ ケ ル ・ ブ ル は 以 下 の よ う な 批 判 を お こ なっている。 多くの理論家たちは概して、いまなお社会的な空間や場所に ついて﹁不動的﹂な、空間的に不連続な理解のなかで思考し ている。典型的な場合、こうした説明のなかで空間はそれが いかに住まわれ、 流 ア プ ロ プ リ エ ー ト 用=占有 され、かかわり合いをもたれる のかという観点からではなく、静態的にあるいは﹁所与のも の﹂として理解されている︵ Bull 2005= 二〇一〇三八三︶ 。 詳 述 は さ て お き 、 こ う し た 批 判 的 認 識 、 す な わ ち 定 セ ダ ン タ リ ズ ム 住 主 義 的 思 考 3) に た い す る 批 判 を 起 点 に 据 え て は じ め て 、 オートモビリティを﹁自己組織的かつオートポイエティックな 非線型システム﹂ ︵ Urry 2005= 二〇一〇四二︶として概念化 することが可能になる。ちなみに、アーリによれば、この﹁非 線型的システム﹂は﹁多くの瞬間的・断片的な時間の個人主義 的なタイムテーブル化﹂にともなう﹁自己の再帰的モニタリン グ﹂から生じるとされる︵ Urry 2005= 二〇一〇四六︶ 。その 際、この立論に深くかかわってくるのが、ギデンズの指摘する、 ﹁抽象的システムにより 選 フィルター 別 された複数の選択肢をコンテクス ト と し て ⋮⋮ 一 貫 し た 、 だ が 常 に 書 き 換 え ら れ る 物 語 ﹂ ︵ Giddens 1991= 二〇〇五六︶である。アーリはこの物語に 寄 り 添 い な が ら 、﹁ オ ー ト モ ビ リ テ ィ は 人 び と に 、 断 片 的 な 時 間をうまくやり繰りして複雑で壊れやすい偶発的なパターンか ら な る 社 会 生 活 ﹂ を 組 み 立 て る よ う 強 い る 、 と す る 。 そ し て ﹁ オ ー ト モ ビ リ テ ィ が 産 出 し 前 提 す る 移 動 の 様 式 の う ち に 不 可 逆的な仕方でロックインされた﹂この生活が単線的な時間、幾 何 学 的 空 間 4) の 向 こ う に 置 か れ る と い う の で あ る ︵ Urry
2005= 二〇一〇四六︶ 。 しかし、オートモビリティについて流布している支配的な思 考は、アーリがとらえるものとは真逆のものである。たとえば、 デイヴィッド・イングリスは、ルフェーヴルに倣って、オート モ ビ リ テ ィ を ﹁﹃ 幾 何 学 的 空 間 ﹄ に よ る 、 共 同 体 に 根 ざ し た 関 係 性 か ら な る ﹃ 生 き ら れ た 空 間 ﹄ の 征 服 ﹂︵ Inglis 2005= 二〇一〇三二四︶であるとみなす。イングリスによると、こ うしたとらえ方はギー・ドゥボールやジャン・ボードリヤール らの現代フランスの傑出した思想にも強くみられるものである と い う 5) 。 ち な み に 、 イ ン グ リ ス が 依 拠 す る ル フ ェ ー ヴ ル に よ れば、指摘されるような幾何学的空間化は、自動車による日常 生活の﹁植民地化﹂を意味しており、まさにモダニティの中心 的 事 実 を な し て い る の で あ る ︵ Lefebvre 1968= 一 九 七 一 ︶。 い ずれにせよ、オートモビリティが線型的な世界のものとして描 かれているのである。アーリはこうしたとらえ方を、現行の自 動 車 シ ス テ ム の 裡 に ひ そ む 、﹁ 転 回 点 な い し は 転 換 点 ︵ テ ィ ッ ピ ン グ ・ ポ イ ン ト ﹂ を 超 え る 以 下 の よ う な 動 き を 示 す こ と に よってとらえ返そうとする。 小さな原因が大きな結果を引き起こし⋮⋮変化は漸次的に線 型的な仕方で起こるのではなく、システムが切り替わる瞬間 に劇的に起こる︵ Urry 2005= 二〇一〇五三︶ 。 こうとらえるアーリの非線型的システムへのまなざしは、明 らかにオートモビリティに通底するモダニティの両義性に向け られている。とはいえ、この両義性を再度オートモビリティに おける﹁線型的なもの﹂と﹁非線型的なもの﹂とが交錯する次 元/地平に立ち返って検討すると、当然、両義性の絵柄はそれ ぞれの社会におけるモダニティのありようによって異なってく る。次節で少し立ち入って述べることにしよう。
2
自動車文化の三つの時代
指 摘 さ れ る よ う な 両 義 性 の 絵 柄 は 、 一 つ に は 自 動 車 文 化 と モ ー タ ー ス ケ イ プ の 多 様 性 を 通 し て み る こ と が で き る 。 近 年 、 自 動 車 を 文 化 的 プ ロ セ ス と み な す 見 地 が 有 力 に な っ て い る が 、 そうしたなかで注目されるのは、マイク・フェザーストンがナ シ ョ ナ ル な 運 転 コ ー ド と の せ め ぎ 合 い を 経 て 、﹁ 特 殊 な 視 界 の モード、認識のコンテクスト、慣習、操縦能力、等々﹂が上述 の 絵 柄 に 塗 り 込 ま れ て い る と し て い る こ と だ ︵ Featherst one 20 05 = 二 〇 一 〇 九 ︶。 こ の 議 論 は 、 自 動 車 に ナ シ ョ ナ ル な ア イデンティティが刻印されているという、ルディ・コーシャの 解 釈 へ と つ な が っ て い る 。 だ が コ ー シ ャ に と っ て 重 要 な の は 、 ﹁自動車がもつネーションの帰属性﹂の強調ではなく、 ﹁固有の 自動車文化同士がネーション間の境界を越えていかに相互作用し て い ﹂ る の か を 明 ら か に す る こ と で あ る ︵ Kosher 2005= 二 〇 一 〇 一 九 八 ︶。 ち な み に 、 コ ー シ ャ は メ ル セ デ ス を 事 例 にして、次のように述べている。 目標となるのは、自動車をめぐるナショナルな文化を、やが て互いに接触するようになる個別的かつ境界をもつ実体と理 解することではなく、むしろ⋮⋮ナショナルな境界を越えた 交換や総合、すなわち相対的に安定的でもあり一時的でもあ るような自動車のナショナルな帰属性の定義や表象がそこか ら生じてくる、イメージ、概念構成体、伝統、関係性、等々 の 混 合 状 態 の 創 造 に つ い て 論 じ る こ と で あ る ︵ Kos her 2005= 二〇一〇一九九︶ 。 こうした脱ネーションとむすびついた 自 オ ー ト ・ ミ ー ニ ン グ 動車の意味 の掘り起 こし、すなわちトランスナショナリティに根ざす﹁多様なオー デ ィ エ ン ス に よ る 意 味 の 構 築 と 脱 構 築 ﹂︵ Kosher 2005= 二〇一〇二一六︶は、ジョナサン・ザイトリンが指摘するよ う に フ ォ ー ド 主 義 生 産 の パ ラ ダ イ ム 6) に 符 節 を 合 わ せ る も の で は あ る が ︵ Zeitlin 2000 ︶、 同 時 に 自 動 車 に 照 準 を 合 わ せ な が ら 、 みてきたような﹁非線型的なもの﹂としてあるモビリティがも ともとハイブリッドでボーダレスなものであることを示してい る と い え る 。 ち な み に 、 ナ イ ジ ェ ル ・ ス リ フ ト は 、 ド ・ セ ル ト ー の ﹃ 日 常 的 実 践 の ポ イ エ テ ィ ー ク ﹄︵ de Certeau 1984= 一九八七︶を読み解きながら、そうした自動車の意味の掘り起 こしの基底に、幾何学的空間から生きられた場所への再帰属化 /再召喚をうながすような﹁循環的創造性﹂のプロセスが伏在 していると述べている︵ Thrift 2005= 二〇一〇八二︶ 。 もっとも、自動車文化が異文化間で共振する場合、いくつか の段階と 審 インスタンス 級 がある。この点に関して、ややオーソドクスで は あ る も の の 明 快 な 記 述 を あ た え て い る の が デ イ ヴ ィ ッ ド ・ ガ ー ト マ ン で あ る 。 ガ ー ト マ ン に よ る と 、﹁ 20世 紀 の 自 動 車 の 時代﹂はおのおの﹁意味とアイデンティティをめぐる独自の文 化的論理によって特徴づけられる﹂三つの時代からなる、とい う 。 最 初 に 時 代 は 世 紀 転 換 期 か ら 一 九 二 〇 年 代 半 ば ま で で 、 ﹁ 熟 練 し た ク ラ フ ト 的 労 働 プ ロ セ ス ﹂ か ら 立 ち あ ら わ れ た ﹁ 高 価な自動車﹂の時代である。そこでは、自動車が階級的差異を 競い合い、もっぱら上層ブルジョワジーの誇示のための﹁装飾 品 ﹂ と し て 登 場 し た 。 第 二 の 時 代 は 、 一 九 二 〇 年 代 半 ば か ら 一 九 六 〇 年 ぐ ら い ま で の 大 量 消 費 の 時 代 で 、﹁ 専 門 特 化 し た 機 械と組立ラインからなる生産プロセス﹂から作りだされた安価 な量産車が市場に出回った。第三の時代は、一九六〇年以降現 在にいたるまでの段階であり、自動車がサブカルチャー的差異 化と断片化のもとに立ちあらわれる。そこではカスタマイズや ﹁フレキシブルな専門化﹂ 、さらに製品の差異化にいざなわれて
﹁ 大 量 の ま っ た く 新 し い 種 類 の 自 動 車 ﹂ が あ ふ れ 出 る 。 そ し て そ れ は 、﹁ 非 ︱ 階 級 的 な 特 徴 に も と づ く 、 小 さ な よ り 特 定 化 さ れたニッチに目標を絞ってい﹂くことになった。こうして多種 多様な車種やブランドを売ること、さらに﹁ライフスタイルの 選 択 ﹂ を メ ル ク マ ー ル と す る 自 動 車 の 時 代 が 到 来 す る こ と に なったのである︵ Gartman 2005= 二〇一〇二六六 -三〇七︶ 。 ところで、以上の三つの時期区分で興味深いのは、それぞれ の 時 代 相 を 説 明 す る の に 、 ピ エ ー ル ・ ブ ル デ ュ ー 、 テ オ ド ー ル・アドルノ、ポストモダニズムの社会理論を援用しているこ と で あ る 。 ま ず 第 一 の 時 代 に た い し て は 、﹁ 消 費 を 、 そ の う ち で種々の階級が文化資本や地位にまつわる名声を求めて競争す る差異化のゲームと考えている﹂とするブルデューの﹃ディス タ ン ク シ オ ン ﹄︵ Bourdieu 1984 =一九九〇︶ で の 議 論 を 、 第 二 の 時 代 に た い し て は 、﹁ 自 動 車 の よ う な 消 費 向 け 商 品 は 、 そ の 生産をめぐる階級関係を大衆の個性という物象化された見せか けの背後に隠し、消費者たちに同一の幻想を異なる量だけ配分 することで大量生産という事実の否認の代償を果たす﹂と解釈 す る ア ド ル ノ の ﹃ 不 協 和 音 ︱ 管 理 社 会 に お け る 音 楽 ﹄︵ Adorno 1978= 一 九 九 八 ︶ で の 議 論 や ミ シ ェ ル ・ ア グ リ エ ッ タ ら の レ ギュラシオン・パラダイムを、さらに第三の時代にたいしては、 ﹁ 消 費 向 け の 商 品 の 多 様 性 と 個 性 は 、 断 片 化 し た サ ブ カ ル チャーの基盤を形成することによって古い階級的アイデンティ ティを掘り崩している﹂とするデイック・ヘブディッジの﹃サ ブ カ ル チ ャ ー ︱ ス タ イ ル の 意 味 す る も の ﹄︵ Hebdige 1979= 一 九 八 六 ︶ で の 議 論 等 を 援 用 し て 説 明 し て い る ︵ Gartman 2005= 二〇一〇二六四 -二六五︶ 。
3
オートモビリティの非線型的な布置連関
だが果たして、ガートマンが援用した三つの理論は三つの時 代にのみあてはまるのであろうか。実はそれらをつなぎあわせ て﹁自動車の時代﹂をとらえかえしてみると、複数の境位/時 代相からなるオートモビリティが相互に密接に関連しているこ とがわかる。そこにはアーリが﹁転回点ないし転換点﹂と呼ぶ もの︵既述︶がいくつも埋め込まれ、オートモビリティの非線 型 的 な 布 コ ン フ ィ グ ュ レ ー シ ョ ン 置 連 関 を な し て い る こ と 、 換 言 す る な ら 、 差 異 と 同 一 性 、﹁ 動 く も の ﹂ と ﹁ 動 か な い も の ﹂ が 複 雑 に 交 錯 す る モ ダ ン の 機 制 を 観 て と る こ と が で き る 。 そ し て そ れ を 裏 返 す と 、 ガ ー ト マ ン の い う ﹁ 弁 証 法 的 線 型 性 を も つ ひ と つ の 発 展 ﹂ ︵ Gartman2005= 二〇一〇 三 〇 八 ︶ を 示 し て い る と い う こ と になる。しかしこの点はそう単純ではない。ここであらためて、 それじたい﹁流動的な相互連関のシステム﹂によってもたらさ れ た も の で あ り 、﹁ 周 り ﹂ の 監 視 を 遮 断 す る と い う 特 徴 を も つ 私 的 で 心 地 よ い 空 間 7) が 、 ソ フ ト ウ エ ア に よ る 制 御 に よ っ て 容かった、あるいはそうでなければ、あまりにも清算主義的に否 定されてきた﹁自由な移動の感覚、開けた道路の魅力、新しい 経験への期待﹂ ︵ Featherstone 2005= 二〇一〇二三︶が、 そ 4 の 対 向 に 置 か れ て き た も の と と も に あ っ た 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 こ と の 確 認 で あ り 、 再審である。オートモビリティがわたしたちにとって﹁中心的 事実﹂であり、わたしたちの日常生活に深く関連しているから こそ、この確認・再審は避けて通ることができない。しかもポ スト・オートモビリティが取りざたされているいま、この課題 に応えることはますます喫緊性をおびたものになっている。 そのためには、さしあたりポスト・オートモビリティの境位 をオートモビリティとの接続面でさぐることがキーになると考 え ら れ る 。 ち な み に 、 ア ー リ は ポ ス ト ・ オ ー ト モ ビ リ テ ィ を オートモビリティの終焉として位置づけている︵ Urry 2005= 二〇一〇︶ 。ここで想起されるのは、アーリが後年、 ﹃未来とは 何か?﹄において、オートモビリティからポスト・オートモビ リティへの転相推移を四つのシナリオ、高速移動都市、デジタ ル都市、 ﹁住みやすい都市﹂ 、要塞都市を通して検討し、結局の と こ ろ 要 塞 都 市 を ﹁ 既 知 の 未 来 ﹂ と し て い る こ と で あ る ︵ Urry 2016 =二〇一九︶ 。 フ ェ ザ ー ス ト ン は 、 早 い 段 階 で 、 そ うした見方を﹁近代の一望監視的論理にしたがって中央集権的 な自動車文化を中心化するような見方﹂ ︵ Featherstone 2005= 二〇一〇三〇︶だと指摘している。この指摘が妥当するなら、 易に反転態へと化してしまう惧れがある、と先に述べたことに 戻ってみる。 上 述 の 私 的 で 心 地 よ い 空 間 は 、 ミ ミ ・ シ ェ ラ ー が 指 摘 す る ﹁ 運 転 に よ っ て 多 く の 人 び と が 得 る 解 放 や エ ン パ ワ ー メ ン ト や 社 会 的 一 体 性 の 感 覚 ﹂︵ Sheller 2005= 二 〇 一 〇 三 六 四 ︶ に 深 く 根 ざ す も の で あ り 、 そ れ じ た い 、﹁ 自 動 車 − 運 転 手 ﹂ の ﹁ 構 成=集合体﹂への新たなテクノロジーの埋め込みを与件/要件 としている。つまり、自動車のソフトウエア環境の影響力が増 大するにつれて、運転者が運転の作業からより解放されるよう になることに起因している。そしてそうであればこそ、新たな テクノロジーによるソフトウエアの革新、さらにそうしたソフ ト ウ エ ア シ ス テ ム へ の 過 剰 な 依 存 そ の も の が 、﹁ 人 間 の 自 由 ﹂ を﹁人間の不自由﹂に変えてしまっていること、つまり反転態 のメカニズムに目が向けられていくことになるのである。だが こ れ ま で は 、 ど ち ら か と い う と 、 そ れ は 線 型 性 の 説 明 枠 組 み 、 平たくいうと、 一方を他方の否定の上で述べる 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 4 という論法で論 じられてきた。 あらためて指摘するまでもないが、ここではこうした論法に よらない。むしろ上述の反転態の基層にひそむモダニティの機 制に分け入り、その上で﹁非線型的なもの﹂がどのような形で 芽を吹いているかを確認することが重要である。いま深く問い 込 ま れ て い る の は 、 あ ま り に も 一 方 的 に 肯 認 さ れ る こ と の 多
アーリはきわめて近代主義的なパノプティコン型の論理に陥っ ていることになる。つまり、アーリのいうオートモビリティか らポスト・オートモビリティを通底する非線型的なプロセスは、 結局のところ、線型的な道筋から抜け出ていないということに なる。ただ、ここでは性急な判断を下すことは避けたい。 あらためて問われるべきは、アーリにとって非線型的なシス テ ム の 要 と な る 、﹁ 偶 発 的 な 出 来 事 か ら 一 般 的 な プ ロ セ ス へ 、 小さな原因から大きなシステム的効果へ、歴史的・地理的に離 れ た 個 々 の 地 点 か ら 一 般 的 な も の へ 、 と い う か た ち ﹂︵ Urry 2005= 二 〇 一 〇 五 二 ︶ で 分 析 す る こ と が で き る ﹁ 経 路 依 存 性 ﹂ と 、 そ れ と 対 と な っ て い る 、﹁ 下 位 の 性 質 や 過 程 か ら 、 新 し い 還 元 不 可 能 な 上 位 の 性 質 や 過 程 が 生 じ る こ と ﹂︵ 河 野 二 〇 〇 八 二 四 四 ︶ と し て あ る ﹁ 創 発 性 ﹂ の 機 制 を 、 ポ ス ト ・ オートモビリティにおいてどう探りあてるかということである。
4
ポスト・オートモビリティの地層
さてその点は後述するとして、このところAI化、自動運転 化の進展とともに、本稿の冒頭で言及したようなオートノミー とモビリティの﹁二重奏﹂が崩れ、むしろ両者が背反し、ポス ト・オートモビリティの世界が取りざたされるようになってい る。ちなみに、フェザーストンはこの点に関連して次のように 述べている。 自 オ ー ト パ イ ロ ッ ト 動︱操縦 の乗り物としてのソフトウエア制御による自動車 の 移 行 ⋮ ⋮ が 示 唆 す る の は 、 運 転 者 は 、 電 子 制 御 装 置 の ス イッチを切って自分の手で運転することが不可能になるだろ うということだ。自動車は非人間化され、運転者は不在とな り、交通のマスター・プログラマーにより命じられたリズム にしたがいながら、電子的知覚をそなえる道路を移動するこ とになる。これがポスト自動車として予想されるひとつのあ り方である。それは一部の環境主義者のはかない夢としての 公共交通への代替による自動車の死ではなく、あるいはジョ ン ・ ア ー リ の 論 じ る よ う な ﹁ 鉄 と ガ ソ リ ン ﹂ の 自 動 車 の 終 焉 8) で も な く 、 オ ー ト モ ビ リ テ ィ に お け る ﹁ オ ー ト ﹂ の 意 味 のひとつ︱
好きな時間に、好きな場所へ、好きな方法で運 転することの自律性︱
の終焉なのだ︵ Featherstone 2005= 二〇一〇三〇︶ 。 ここで示唆されているのは、ポスト・オートモビリティの世 界では、 ﹁運転者︱自動車﹂の織り成す﹁複合的構成=集合体﹂ が瓦解しつつあること、そしてそれとともに﹁自由な移動の感 覚、開けた道路の魅力﹂からなるカースケイプが崩壊しつつあ ることである。当然、アーリがいうような、現行の自動車システ ム の 裡 に ひ そ む ﹁ 転 回 点 な い し は 転 換 点 ﹂ も 見 え な く な る 。 フェザーストンはさらにそうした世界の下で都市空間がますま す ﹁ た ん な る 移 動 の 関 数 ﹂︵ Sennet t 1994:159 ︶ に な る と と も に 9) 、 A I や 人 間 工 学 的 設 計 に も と づ く 自 動 車 制 御 シ ス テ ム を そなえた新たなソフトウエア環境がより高度な監視ないしは追 跡 の 装 置 と な り 得 る だ ろ う と 指 摘 し て い る ︵ Featherstone 20 05 = 二 〇 一 〇 一 七 ︶。 こ う し た 認 識 は 、 こ と 最 後 の 点 に 関 し て い う な ら 、 ア ー リ が ﹃ 未 来 と は 何 か ? ﹄ で ﹁ 要 塞 都 市 ﹂ ︵ 既 述 ︶ と 共 振 す る も の と し て と ら え た デ ジ タ ル 都 市 、 す な わ ちデジタルな出会いがコミュニケーション環境の中心に位置し、 身体性が消滅し、人びとが﹁電子データの海﹂をただよう一情 報となるような都市︵ Urry 2016= 二〇一九一八二 -一八八︶ に た い す る 追 認 10)と む す び つ い て お り 、 そ の か ぎ り で 先 に 一 瞥 したアーリへの批判はブーメランとして返ってこざるを得ない。 しかし、フェザーストンは同時に、ポスト・オートモビリティ の世界において、オートモビリティの世界以上に、自動車を介 し て ﹁ 人 間 が 日 常 生 活 の な か で 新 た な テ ク ノ ロ ジ ー に 出 会 い 、 ﹃ テ ク ノ ロ ジ ー の う ち に 住 ま う ﹄ こ と を 学 ぶ ﹂ よ う に な る ︵ Featherstone 2005= 二〇一〇一八︶と述べている。詳述は さておき、この﹁テクノロジーのうちに住まう﹂ことは、一方 で﹁近代の一望監視的論理にしたがった中央集権的な自動車文 化﹂に馴致しながら、他方で﹁さまざまな持続的な自動車文化 に見いだしうる自動車を使用する多種多様なやり方﹂をうみだ す創建的なプロセスでもあるのだ︵同上 三〇 - 三一︶ 。 こ こ で 想 起 さ れ る の は 、 ド ・ セ ル ト ー が 、 先 に と り あ げ た ﹃ 日 常 的 実 践 の ポ イ エ テ ィ ー ク ﹄ で 、 人 間 の 身 体 が 配 列 さ れ る 列車内で、人びとは一望監視的モードからパノラマ的なモード へ と 切 り 替 え を お こ な う と し て い る こ と で あ る ︵ de Certeau 1984 = 一 九 八 七 ︶。 考 え て み れ ば 、 こ の パ ノ ラ マ 的 な モ ー ド は オ ー ト モ ビ リ テ ィ の 地 層 に も 継 受 さ れ て き た 。 そ し て ポ ス ト ・ オートモビリティのいま、AI化、自動運転化の進展とともに、 パノラマ的なモードからより執拗で巧妙な、個人をまるごと透 視する超監視的モードへの切り替えがおこなわれようとしてい る。しかしそれは線型的な道筋の上にあるのではない。同時に、 超監視的なモードを穿つ再帰的主体が立ちあらわれる可能性も 出てきている。 フェザーストンがいうように、オートモビリティの世界では、 ﹁ 知 インテンジェント ・ ヴィークル 的 自 動 車 ﹂の出現に合わせた﹁ 知 インテリジェント ・ ロード 的 道 路 ﹂ができあ がった︵ Featherstone 2005= 二〇一〇一七︶ 。そしそこにさ まざまな信号装置が埋め込まれた。興味深いのは、そうしたな かで赤信号を除去するという動きが二〇〇三年にオランダのド ラ ハ テ ン で は じ ま り 、 ヨ ー ロ ッ パ 中 に ひ ろ が っ た こ と で あ る 。 そ の 結 果 、﹁ 自 転 車 に や さ し い 都 市 ﹂ が ヨ ー ロ ッ パ の あ ち こ ち の 都 市 で み ら れ る よ う に な っ て い る 11)︵ 写 真 1 ︶。 も と も と 信
号 機 は 歩 行 者 、 荷 車 、 自 動 車 、 自転車の間でな されていた譲り 合いを機械化す ることによって 交通事故を防ぐ ことにあったが、 信号機の除去に よって却って交 通事故が急速に 減少したのであ る 。 し か し ジ ェ ー ム ズ ・ C・スコットが いうには、そう したことよりも 信号機の除去によって﹁自動車運転手、自転車乗り、歩行者た ち の 知 性 、 常 識 、 注 意 深 い 観 察 ﹂ の 結 果 、﹁ 交 通 管 理 の た め の ﹃ 共 シ ェ ア ー ド ・ ス ペ ー ス 有された空間 ﹄﹂が形成されるようになったことが重要なの で あ る ︵ Scott 2012= 二 〇 一 七 九 八 ︶ 12)。 こ う し た 事 例 か ら 引 き 出 さ れ る 再 帰 的 主 体 、 そ し て ﹁ 共 有 さ れ た 空 間 ﹂
︱
そ れ は 、 ル フ ェ ー ヴ ル が 熱 い ま な ざ し を 向 け る ﹁ 生 き ら れ た 空 間 ﹂ で あ る︱
が 、﹁ 運 転 者 ︱ 自 動 車 ﹂ の 織 り な す ﹁ 複 合 的 構 成 = 集合体﹂が瓦解しつつあるポスト・オートモビリティの世界に おいて果たして そのまま 4 4 4 4 のぞめるのかというと、微妙であると 言わざるをえない。しかし、ポスト・オートモビリティとの接 続場面において、閉じられたストーリーに回収されない、ある 意味で﹁外﹂への飛翔を可能にするような再帰的主体がはぐく まれつつあるようにみえるのもたしかである。むすびにかえて
むろん、それによってポスト・オートモビリティの世界に非 線型的なシステムの要となる、アーリのいう﹁偶発的な出来事 から一般的なプロセスへ、小さな原因から大きなシステム的効 果へ、歴史的・地理的に離れた個々の地点から一般的なものへ、 と い う か た ち ﹂、 い わ ば ﹁ 創 発 性 ﹂ の 機 制 を 、 た だ ち に 観 て と る こ と が で き る わ け で は な い 。 し か し 、 ま ぎ れ も な く ポ ス ト ・ オートモビリティの地層にまで通底しているようにみえる、先 にとりあげたドラハテンからはじまる﹁共有された空間﹂の事 例 で は 、 少 な く と も ア ー リ の い う 上 述 の ﹁ か た ち ﹂= ﹁ 創 発 性 ﹂ の機制が瞬間的なエピソードとしてほのかに示されているとい える。 写真 1 コペンハーゲンの自転車専用道 出所)https://project.nikkeibp.co.jp/mirakoto/atcl/global/h_vol7/考えてみれば、オートモビリティの世界では、車は個人消費 のプライマリーな 項 アイテム 目 となっていると言われてきた。たとえば、 ミミ・シェラーは、車がスピード、セキュリティ、安全に加え て性的な達成、職務実績、自由、男らしさなどの誇示を通して ステータス・シンボルとなっているだけでなく、感情にも多大 な 影 響 を 及 ぼ し て い る と 述 べ て い る ︵ Sheller 2004:221-242 ︶。 実はこうした主張と符節をあわせるようにして語られてきたの が 、﹁ 自 律 し た 個 ﹂ と そ う し た 主 体 の フ ッ ト ワ ー ク の 軽 さ で あ る。同時に、オートモビリティの世界では、そうした自由なは ずの主体がパノプティコンの論理にすっかりからめとられてい る と い う の が 、 い ま ひ と つ の マ ス タ ー ・ ナ ラ テ ィ ヴ と し て 広 が っ て い た 。 問 題 は 、 そ う し た マ ス タ ー ・ ナ ラ テ ィ ヴ を ポ ス ト・オートモビリティの世界においても 同形的に 4 4 4 4 語れるのかと いう点である。 ここでは性急に判断を下すことは避けたいが、先に言及した 再帰的主体とルフェーヴルが熱く語った﹁生きられた空間﹂を 追求しながら、愚直にポスト・オートモビリティのありようを 問 い 込 む こ と 、 そ し て そ れ こ そ が ア ー リ の い う ﹁ 非 線 型 的 思 考﹂をポスト・オートモビリティの世界において定立するひと つの方法であることを確認すべきであろう。だがそれとともに 問 わ れ る の は 、﹁ 非 線 型 的 思 考 ﹂ が 陥 っ て い る 罠 を ど の よ う に とらえ、どう対象化するかという点である。このことは必然的 に﹁非線型的思考﹂そのものがモダニティのジレンマ/両義性 に組み込まれていることをどうとらえ返すかという課題につな がっていく。この課題の解明は、結局のところ、オートモビリ ティ、そしてポスト・オートモビリティを一方でモビリティか ら、他方で自動車からアプローチすることのモダニズム的思考 の虚構性を暴き立てながら、オートとモビリティが相互に召喚 しながら 一つとなっている 4 4 4 4 4 4 4 4 グローバル化社会における﹁動くも の ﹂ の 意 味 を 、﹁ 動 か な い も の ﹂ と し て の ネ ー シ ョ ン を 向 う に おいてどう問いただすかということに帰着する。 いずれにせよ、堂々めぐりして本稿の﹁はじめに﹂でとりあ げた問題構制に戻ってしまったことは否めない。実は、この問 題構制の解明にとって﹁運転者︱自動車﹂の織りなす﹁複合体 構 成 = 集 合 体 ﹂ を ハ イ ブ リ デ ィ テ ィ の 面 か ら だ け で な く 、 コ ミュニケーション環境として追い上げる視点の充実も欠かせな いが、本稿では果たせなかった。他日を期することにする 13)。 注 1) た と え ば 、 イ ヴ ァ ン ・ イ リ イ チ の 次 の よ う な 自 動 車 批 判 は 、 文明批評であり、ある種の社会批評である。 車 は 交 通 を 独 占 す る 力 を も っ て い る 。 車 は 自 分 の 姿 に あ わ
せ て 都 市 を か た ち づ く る こ と が で き る
︱
実 際 に ロ サ ン ジ ェ ル ス で 徒 歩 や 自 転 車 で の 移 動 を 締 め 出 し た よ う に 。 そ れ は タ イ の 河 川 交 通 を お 払 い 箱 に す る こ と が で き る 。 フ ォ ー ド よ り シ ボ レ ー に 乗 る 人 が 多 い と い う こ と が 根 源 的 独 占 な の で は な く て 、 自 動 車 に よ る 交 通 が 歩 く 人 の 権 利 を 削 り 取 る と い う こ と が 根 源 的 独 占 な の で あ る 。⋮⋮ そ の 非 人 間 的 な 速 度 は 人 間 生 得 の 移 動 能 力 を 退 化 さ せ 、 も っ と 多 く の 時 間 を 移 動 に 費 や す よ う に 人 間 に 強 い て や ま な い だ ろ う ︵ Illich 1973= 二〇一五一二一 -一二二︶ 。 2) 後 述 す る よ う に 、 A I 化 の 進 展 と と も に 自 動 車 が 完 全 に ソ フ ト ウ エ ア 制 御 に も と づ く 自 オ ー ト ︲ パ イ ロ ッ ト 動 ︱ 操 縦 の 乗 物 に な る ポ ス ト ・ オ ー ト モ ビ リ テ ィ の 段 階 で 、 こ う し た 事 態 は 極 限 態 に 向 か う と 想 定 さ れ る 。 注 目 さ れ る の は 、 そ う し た 事 態 に 自 動 車 と 交 通 の 流 れ を 電 子 制 御 化 す る こ と に よ り 、 自 動 車 を 運 転 者 不 在 の 電 子 的 知 覚 を そ な え た ポ ス ト 自 動 車 に す る と と も に 、 そ う し た 電 子 的 知 覚 に み あ う 基 盤 構 造 を 提 供 し よ う と す る 国 家 や そ の 他 諸 機 関 の 諸 力 の 行 使 、 そ し て そ れ と 共 振 す る い わ ゆ る ﹁ モ ビ リ テ ィ ・ カ ン パ ニ ー ﹂ の 行 ビ ヘ イ ビ ア 動 様 式 が 見 え 隠 れ し て い る こ とである。 3) 古 今 東 西 、 反 都 市 思 想 は 定 住 主 義 を 基 調 音 と し て き た 。 オ ー ト モ ビ リ テ ィ は 都 市 空 間 を ﹁ わ が も の ﹂ と す る こ と に よ っ て こ う し た 定 住 主 義 的 思 考 に く さ び を 打 ち 込 ん だ わ け で あ る が 、 モ バ イ ル ・ テ ク ノ ロ ジ ー を 駆 使 す る な か で 都 市 空 間 を ﹁﹃ 流 動 的 に ﹄ 再 リ ー ア プ ロ プ リ エ ー ト ︱ 流 用 = 占 有 ﹂︵ Bull 2005= 二 〇 一 〇 三 八 四 ︶ し 、︿ 再 定 住 ﹀ を う な が し て い る と い え る 。 そ う し た 点 で 、 オ ー ト モ ビ リ テ ィ は ﹁ 動 く こ と ﹂ と ﹁ 動 か な い こ と ﹂ の 相 反 共 存 性 の 上 に あ る ﹁ 住 ま う こ と ﹂ の あ り よ う を 示 唆 す ることになったともいえる。 4) 幾 何 学 的 空 間 は 日 常 生 活 レ ベ ル で の 道 具 的 空 間 に 相 当 し 、 そ こ で は 個 々 の も の 、 で き ご と は 有 用 で あ る か ど う か に よ っ て 、 し た が っ て 目 的 に ど れ だ け 適 っ て い る か ど う か に よ っ て 判 断 さ れ る 。 そ う し た 幾 何 学 的 空 間 の 下 で は 、 時 間 は 等 速 、 等 質 で あ り 入 れ 替 え 可 能 で あ る こ と が 絶 対 的 な 要 件 と な る 。 邦 生 は 、 こ う し た 幾 何 学 的 空 間 ︱ ク ロ ッ ク タ イ ム が 全 社 会 的 な も の に な る と 、 情 緒 が 重 要 な 役 割 を は た す 生 の 場 所 が 喪 わ れ て し ま う と 述 べ て い る ︵ 二 〇 〇 二 ︶。 な お 、 以 下 の デ イヴィッド・イングリスの指摘も参照のこと。 5) イ ン グ リ ス は 、 み ら れ る よ う な と ら え 方 の 源 流 と し て シ チ ュ ア ニ ス ト ・ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル の 思 考 を と り あ げ 、 次 の ように言及している。 シ チ ュ ア シ オ ニ ス ト ・ イ ン タ ー ナ シ ョ ナ ル と は 、 一 九 五 〇 年 代 末 に 形 成 さ れ た 極 左 の 知 識 人 や 芸 術 家 の 集 団 で あ り 、彼 ら は マ ル ク ス の 商 品 フ ェ テ ィ シ ズ ム の 分 析 を 、 戦 後 に 出 現 し た 消 費 社 会 の 新 た な 要 素 を 把 握 し う る か た ち で 展 開 し よ う と し て い た 。 こ の 集 団 の 重 要 人 物 の 一 人 で あ る ギ ー ・ ド ゥ ボ ー ル は 、 一 九 五 〇 年 代 末 以 来 、 自 動 車 に つ い て ﹁ 疎 外 さ れ た 生 活 の 至 高 の 財 ﹂ と し て の 役 割 と い う 観 点 か ら 考 えている︵ Inglis 2005= 二〇一〇三二二︶ 。 6) ち に み に 、 デ イ ヴ ィ ッ ド ・ ガ ー ト マ ン は ミ シ ェ ル ・ ア グ リ エ ッ タ に な ら っ て 、﹁ 新 た な 大 量 生 産 の プ ロ セ ス は 、 専 門 分 化 し た 機 械 と 組 立 ラ イ ン が つ ぎ つ ぎ と 送 り 出 す 財 を す べ て 流 通 さ せ 消 費 さ せ る た め に 、 新 た な 大 量 消 費 の 様 式 を 必 要 と す る ﹂ と し た 上 で 、 そ の ﹁ 新 た な 生 産 様 式 と 新 た な 消 費 組 織 の 組 み 合 わ せ を フ ォ ー デ ィ ズ ム と 名 づ け る ﹂ と し て い る ︵ Gartman 2005= 二〇一〇二七七︶ 。 7) ア ー リ は 、 こ う し た 空 間 で ﹁ ド ラ イ バ ー は 多 く の リ ス ク か ら 切 り 離 さ れ た 鉄 の カ ゴ の な か で カ ー ク ー ン さ れ 、 肘 掛 け 椅 子 身 を し ず め 、 カ ー ナ ビ の よ う な マ イ ク ロ エ レ ク ト ロ ニ ク ス に よ る 情 報 源 や カ ー エ ア コ ン や カ ー ス テ レ オ を 含 む あ ら ゆ る 制 御 の し く み に 身 を ま か せ る こ と に よ っ て 快 適 さ 4 4 4 を 手 に 入 れ る ﹂ と し て い る ︵ Urry 2016= 二 〇 一 九 一 六 四 。 た だ し 、 傍 点 は 筆 者 記 入 ︶。 だ か ら こ そ 、 こ う し た 空 間 の 監 視 空 間 へ の 反 転 は 、 上 述 の ﹁ 快 適 さ ﹂ が 必 然 的 に 帯 同 す る も の で あ っ た と もいえる。 8) だ が こ の 終 焉 は 、 こ の と こ ろ か な り 現 実 味 を 帯 び て き て い る 。 ノ ー カ ー ボ ン ︵ 脱 炭 素 ︶ へ の エ ネ ル ギ ー シ フ ト と と も に 、 需 要 の 急 減 で ピ ー ク オ イ ル が 現 実 の も の に な る と い っ た 議 論 が 噴 出 し て い る 。 新 型 コ ロ ナ ウ イ ル ス の パ ン デ ミ ッ ク は こ う し た 議 論 を 後 押 し し て い る よ う に み え る 。 だ か ら 、 終 焉 へ の 趨 勢 は も は や 否 定 で き な い と し て も 、 そ れ が す ぐ に や っ て く る と 考 え る の は 早 計 で あ ろ う 。 再 生 可 能 エ ネ ル ギ ー の 見 通 し が 不 透 明 で あ る し 、 い わ ゆ る ﹁ カ ー ボ ン ・ ウ ェ ブ ﹂ は 依 然 と し て 根 強 い 力 を 保 持 し て い る 。 ま た 自 動 ︱ 操 縦 の 進 展 が 、 か え っ て 核 エ ネ ル ギ ー の 再 利 用 を う な が し か ね な い と い う 面 も 否定できない。 9) ち な み に 、 セ ネ ッ ト は ﹃ 公 共 性 の 喪 失 ﹄ で 次 の よ う に 述 べ ている。 今 日 、⋮⋮ わ れ わ れ は 個 人 の 自 由 な 移 動 を 絶 対 的 な 権 利 と み な し て い る 。 個 人 の 自 動 車 は こ の 権 利 を 行 使 す る た め に 必 然 的 に 必 要 と さ れ る 道 具 で あ り 、⋮⋮ そ の 影 響 と し て は 、 空 間 が 自 由 な 動 き に 従 属 で き な け れ ば 、 無 意 味 に な る か 、 さ ら に 腹 立 た し い も の に さ え な る と い う こ と な の で あ る ︵ Sennett 1977= 一九九一︶ 。
10) い み じ く も ユ ヴ ァ ル ・ ノ ア ・ ハ ラ リ は 、 コ ン ピ ュ ー タ ー の 知 能 が 人 間 の 意 識 = 身 体 と 分 離 し つ つ あ る 事 態 を 次 の よ う に 述べている。 今 日 ま で は 、 高 度 な 知 能 は つ ね に 、 発 達 し た 意 識 と 密 接 に 結 び つ い て い た 。⋮⋮ 高 い 知 能 を 必 要 と す る 仕 事 は 、 意 識 の あ る 私 た ち 人 間 に し か で き な か っ た 。 と こ ろ が 今 で は 、 そ の よ う な 仕 事 を 人 間 よ り も は る か に う ま く こ な す 、 意 識 を 持たない新しい種類の知能が開発されている︵ Harari 2015 =二〇一八一三七︶ 。 11) ち な み に 、 二 〇 二 〇 年 六 月 に パ リ 市 長 選 挙 で 圧 勝 し た ア ン ヌ ・ イ ダ ル ゴ は 、 化 石 燃 料 車 禁 止 を 宣 言 し 、 自 転 車 専 用 道 の 延 長 を 柱 と す る ﹁ グ リ ー ン 都 市 ﹂ の 推 進 に 取 り 組 ん で い る 。 まさに Paris sera toujours Paris ! ︵私たちにはいつでもパリが ある︶のだと︵ https://www.msn.com/ja-jp/money/other/ ︶。 12) だ が 、 こ の ﹁ 共 有 さ れ た 空 間 ﹂ の 広 が り は 、 ポ ス ト ・ オ ー ト モ ビ リ テ ィ へ の 移 行 に 向 け て の 磁 場 を 形 成 す る 一 方 で 、 上 か ら の よ り 高 度 な ソ フ ト ウ エ ア 装 置 を 管 理 し よ う と す る 試 み ︵ た と え ば 、MaaS ︶ に 奇 妙 に も 同 定 化 さ れ て し ま う 惧 れ が あ る 。 少 な く と も 、﹁ 運 転 者 に 自 モ テ ィ リ テ ィ 動 性 ︵ 自 発 的 か つ 独 立 的 に 動 く こ と の で き る 能 力 ︶ を ア フ ォ ー ド す る ﹂︵ D an t 20 05= 二 〇 一 〇 一〇二︶場になるとは簡単に言えないのである。 13) 新 型 コ ロ ナ ウ イ ル ス の パ ン デ ミ ッ ク に よ っ て 、 ニ ュ ー ノ ー マ ル の 時 代 の 到 来 と と も に 、﹁ 新 し い 生 活 様 式 ﹂ の 確 立 が 声 高 に 叫 ば れ て い る 。 考 え よ う に よ っ て は 、 こ の ニ ュ ー ノ ー マ ル の 時 代 =﹁ 新 し い 生 活 様 式 ﹂ は ポ ス ト ・ オ ー ト モ ビ リ テ ィ へ の 扉 を 開 い て い る よ う に み え る 。 し か し ﹁ 新 し い 生 活 様 式 ﹂ が 喧 伝 さ れ る な か で 、 マ イ カ ー の 利 用 が か え っ て 増 え て い る と い う 現 実 も 無 視 で き な い 。 い ず れ に せ よ 、 ニ ュ ー ノ ー マ ル が 単 に ﹁ 成 長 ﹂ へ の 復 帰 で な い と す る な ら 、 ポ ス ト ・ オ ー ト モ ビ リ テ ィ の 内 実 を ど う 担 保 し て い る の か を 問 う こ と は 避 け ら れないだろう。 文献 Adorno, T., 1978, On the Fetish-character in Music and the Regression of Listening, in A.Arato and E. Gebhardt ︵ eds ︶, , Blackwell. ︵= 一 九 九 八 、三 光 長 治 ・ 高 次 知 義 訳 ﹃ 不 協 和 音 ︱ 管 理 社 会 に お け る音楽﹄平凡社︶ Beckmann, J., 2005, Mobilities and Safety, in M. Featherston, N. Thrift, and J.Urry ︵ eds ︶, Sage. ︵=二〇一〇、 近 森 高 明 訳 ﹁ 自 動 車 移 動 の ﹃ シ ス テ ム ﹄﹂ 、﹃ 自 動 車 と 移 動 の 社 会学﹄法政大学出版局︶
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