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國民道徳と個人主義

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Academic year: 2021

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(1)國 兵道徳と個人主義 泉谷周三郎. Na. 廿 on. 荻 Mo. 丘荻 こ %. 町ldInd. 「㎡. dua. Ⅱ sm. Shuzaburo!ZUMIYA 歴史というものは、 どの時代においても、 さまざまな政治と 社会の動きと 共に 、 多くの人々の 喜怒哀楽の中で 展開されてきたはずであ. る。 ところが、 明治維新以後の 歴史書ないし 研究書では、. 明治の歴史があ たかも「富国強兵」に 通進 した歴史であ るかのように 描かれたり,あ るいは派閥. 政府と自由民権 運動の二元的な 対立が過度に 強調され、 図式化されるといったようにかなり な 一元的ないし 二元的図式化がなされてきた ついてもあ ては. ま. 強引. よう に思われる。 " このことは、 道徳教育の歴史に. ろ。 明治 23 年の教育勅語の 発布は、 その後の日本人の 精神形成と思想に 強く. かつ深い影響を 与えたものであ り、 その影響力は 昭和 20 (1945) 年の敗戦まで 続いたことから、 ともすれば、 明治 23 年以降、 道徳教育の研究においても、 国家主義が国是として 確定されてき た 面にのみ注目して、 近代化の進展と 共に個人の自由・ 平等の問題がさまざまな 形で提起されて. きた面が軽視されてきた. よう. に思われる。. 明治 26 年井上哲次郎は、 「教育と宗教の 衝突」論争において、 キリスト教を 非国家主義と 決め. つけ、 教育勅語の主意が 徹頭徹尾国家主義であ ることを、 次のように述べている。 「勅語は元来日本に 行わるる所の 普通の実践倫理を 文章にしたるものにて、 その倫理は一家の 中に行うべき 孝悌より始まり、 一家より一村、 一村 2. 0. 一脚に推及 し、 遂に共同愛国にいたり て. 終わる。 その貫一身を 修むるも国家の 為なり。 父母に 孝 なるも、 兄弟に友なるも、 畢克 国家の為 にして我が身は 国家の為にして 国家の為に供すべく、 君の為に死すべきものなり。. ・…‥殊に勅語. の中に『一旦緩急アレハ 義勇 公 ニ泰 シ以テ 天壌無窮 / 皇運 ヲ 扶翼 スヘシ 』とあ るを以て之を 観れ. ば 、 我井の臣民たるものは、 如何なるものも、 国家の緩急に 際しては、 身をも犠牲に 供して皇運 の 隆盛を図るべしとの 意 なること 復た 疑 う べからず。 然れば勅語の 主意は、 一言にして之を 言え. ば 、 国家主義なり。」・,,. 大西祝 (1864-1900) は、 井上哲次郎が 教育勅語の主意を 国家主義と説いたのに 対して、 次の よう. に反論している。. 「教育勅語は 一定の倫理説を 布かんがために、 与えられたものにあ らざるべしと。 けだし勅旨 吾 は 国民の守るべき、 個々の徳行を 列挙したるものにはあ れども、 倫理を談じたるものとは 見ら れ ざればなり。. 勅語は倫理訴上、 道徳の基本を 示したるものにあ らざる故に,英中に掲. げ たる幾多の徳行は、 おの づ から倫理 説 上絶対的のものとは 解せられず。 倫理訴上絶対的のも. のは、 朱徳の基本となりて、 之を貫通 合 括するものの 外にあ らざればなり。 勅語には忠孝をさ えも、 絶対的のものなりとは、 断じてあ らざるなり。. 」. ( 「私見一束」、. 明治 26 年 ) (,,. また大西祝は、 明治 27 年「教育はすべからく 国家主義に立つべし」と 説く国家主義の 風潮に 対して、 世界文明の大勢を 考慮しない国家主義は、. 偏狭におちいらざるをえないとし、 「従来教. 育家を始めとして 国家主義を言う 者、 最も事理に明なる 少数の人々を 除いては、 概ね国家以外の.

(2) 泉谷. 2. 周三郎. ものを具眼界に 置かず、 国家を立っるの 目的また価値如何ぞというが 如きことは、 彼らの絶えて. 胸中に想い浮かべざる、. また 浮 ぶるを好まざりしところなり。 ただ一国家そのものをのみ 見て 、. そのいう国家主義の 強固なる如くに 思惟したりしなり。 ゆえに 其 弊や往々 魎回 に失し、 自ら狭う. して誇り、 喜び ,安ずるが如きの 傾 あ りき。. 」. ( 「国家主義の 解釈」 ). 教育において 国家主義を説くことは、 必ずしも誤りではないが、. ㈲と批判している。 大西祝は 、. 問題はその国家主義がどういう. ものであ るかにあ るとし、 自分の国以外のことを 考慮しない国家主義は、 正当な根拠をもたない. とした。 そして国家が 世界人類の生活に 祝福を与えるために 存在するならば、 その国民は、 偉大 なる理想と希望をもって 燃えるであ ろうと述べ、 真の国家主義は 世界主義と両立するものでなけ ればならないと 主張した。. 国民道徳論とは、 狭義には日露戦争が 生み出した社会状況のなかで、. 明治 40 年代に井上哲次. 郎 、 吉田 熊次 、 穂積八束らによって 提唱され、 修身教育の強化とあ いまって、 明治末から大正時 代にかけて人々に 大きな影響を 与えた国家主義的な 道徳運動のことを 意味する。 この論文では、 国民道徳論がどのような. 経緯により盛んになったのか、 国民道徳論の 内容はどのようなものであ. ったか、 また個人主義の 側からどのような 反論が試みられたのか、 国民道徳論と 倫理学の関係は どのようなものであ ったか,といった問題を考察する。 そして最後に 国民道徳論の 果たした役割. と問題点を指摘することにしたい。 1. 新旧思想の衝突 明治 38 年の日露戦争の 終結から明治末年にかけては、 政治のレベルだけでなく. 思想や社会の. レベルにおいても、 分極・拡散が 進み人々の間で 連帯感がなくなり、 モラルの混乱が 顕著になっ た時代であ った。 明治 38 年 9 月ポーツマス 条約に反対して 民衆が日比谷で 集会を開催し、 日露 講 和 に反対するという 民衆運動が起こったし、 明治 41 年 1 月には秩序と 統制あ る行動で知られてい た兵士が集団で 脱営するという 事件が起こった。 また明治 43 年 5 月、 明治天皇の暗殺を 企てたと いう. 理由で、 多くの社会主義者が 検挙された大逆事件が発生した。. 明治 41 年 7 月に成立した 第二次桂太郎内閣は、 閣僚がすべて 官僚あ がりで、 その施政方針を 国 家 優先・効率重視におく 典型的な官僚内閣であ. った。 このことは、 「戊申詔書」を 天皇の名で発. 布して、 国民の荒廃をいましめて 一致協力と自助的努力を 要請したことにもあ らわれている。 「戦後日向 浅ク 、 庶政益々更張 ヲ要ス、 宜ク 上下心. ヲ 一ニ. シ 、 忠実業二服 シ 、 勤勉 産ヲ治メ、 惟. レ信 , 惟レ義 、 醇厚裕 ヲ成シ、 華ヲ 去り実三献 キ 、 荒廃相識 メ 、 自彊 息 マサル ヘシ 。. 」. 「戊申 詔. 書 」では、 このように勤勉・ 倹約・醇朴を 奨励して国民が 一生懸命働いて 節約に努めるように 要. 請している。 政府は、 る. 「戊申詔書」を. 受けたかたちで 地方改良運動に 乗りだし、 自治団体におけ. 事務の改善、 財政の整理、 経済殖産の開発、 勤倹貯蓄の奨励などをすすめるとともに、. 「戊申. 詔書」の地方への 浸透にあ たっては、 教育勅語の精神を 徹底することにも 努めた。 (,, 明治 43 年 8 月、 石川啄木 (1886.1912) は、 『時代閉塞の 現状』という 評論を書いて、 青年知識 層が国家という「強権 」との対決を 避けたまま「自我」の 確立を論じることへの 不満を、 自然 生 表文学への批判を 通じて、 次のように述べている。. 「今やわれわれには、 自己主張の強烈な 欲求が残っているのみであ る。 自然主義発生当時と じく、 今なお理想を 失い、 方向を失い、 出口を失った 状態において、 長い間修 横 してきたそれ. 同 自. 身の力を独りでもてあ ましているのであ る。 すでに断絶している 純粋自然主義との 結合を今なお.

(3) 國 民 道徳と個人主義. 3. 意識しかねていることや、 その他すべて 今日のわれわれ 青年がもっている 内証的、 自滅的傾向は、 この理想喪失の 悲しむべき状態をきわめて く. 時代閉塞. ). 明瞭に語っている。. われわれ青年を. の結果なのであ る。. そうしてこれは 実に. 囲 縛 する空気は、. 動しなくなった。 強権 の勢力はあ まねく国内にゆきわたっているⅡ, ( 岩波文庫 石 Jl@ 木は、 青年知識層が 置かれている 自滅的な精神状況をこのように. した現状を打破するためには、. 今やも ). 少しも 流. う. ",. 指摘したうえで、. こう. 自然主義を捨て 盲目的反抗をやめて、 「善や美に対する 空想」で. はなく、 「一切の空想を 峻拒して、 そこに残るただ 一つの真実 一 必要一」を、 換言すれば、 強権. に批判的に対決する 必要があ ることを力説した。 また夏目漱石. (1867-1916) は、 明治 44 年 8 月の講演「文芸と 道徳」のなかで、 明治以前の道. 徳をロマンチックの 道徳、 明治以後の道徳をナチュラリスチックの 道徳. と 名づけたうえで、. 「. ロ. マンチックの 道徳はすでに 廃れた」とし、 次のように述べている。. 「日露戦争も 無事にすんで 日本も当分はまず 安泰の地位に 置かれるような 結果として、 天下国 家 を憂としないまでも、 その暇に自分の 嗜好を満足する 計をめぐらしても 差支えない時代にな っている。 それやこれやの 影響からわれわれは 日に月に個人主義の 立場からして 世の中を見渡. すようになっている。 したがって、 われわれの道徳もしぜん 個人を本位として 組み立てられる ようになっている。 すなわち自我からして 道徳律を割り 出そうと試みるようになっている。. こ. れが現代日本の 大勢だとすれば、 ロマンチックの 道徳、 換言すれば、 わが利益のすべてを 犠牲 に 供して他のために 行動せねば不徳義であ ると主張するようなアルトルイスチック はどうしても 空疎になってこなければならない。. 一方の見解. 昔の道徳即ち 忠 とか 孝 とか 貞 とかい. 6. 字を吟. 抹 してみると、 当時の社会制度にあ って絶対の権 利を有しておった 片方にのみ非常に 都合の好 いような義務の 負担にすぎないのであ ります。 親の勢が非常に 強いとどうしても 孝を強いられ る 。 」。". 石川啄木と夏目漱石の 見解に示されているように、 明治 40 年代は、 西洋思想の影響のもとに 個人の権 利や人格の尊厳を 重視する新しい 道徳の精神と、 国体や忠孝一本や 家族制度の長所を 強 調する伝統的道徳の 精神という新旧の 思想がはげしく 衝突し対立した 時代であ った。 藤井健次郎. (1872-1931) は、 明治 45 年 7 月に執筆した「新来思想と 歴史思想との 衝突」Ⅱ太陽』. 第. 18 巻 12. 号 ) のなかで、 明治 40 年代は新旧 両 思想が最も激烈に 衝突した時代であ るとし、 次のように 述 べている。 「. 今 40 年代はいわゆる 新道徳の精神と 歴史的国民思想とが、 いよいよその 中堅と中堅、 根抵と. 根抵 との真剣勝負をするようになったのであ. る。 一方は個人の 権 威、 人格の尊厳、 主我、 権 利、. 一方は忠、 孝 、 没我、 義務。 この勝負はなかなか 凄いところがあ り、 また真面目に 考察しなけ. ればならぬところもあ る。 (Pp.62-63) 」. 藤井健次郎によれば、 この新旧 両 思想の衝突の 結果のうちで、 最も恐るべきもので 避けなけれ ばならないのは、 表裏 相 反主義であ る。 表面上は陽を 信ずる真似をしている 思想と、 裏 面では陰 を実際に信じている 思想とが同居し 統一したような 顔をしている 主義であ る。 これは最も憎むべ き 主義であ. るが、 中等以上の知識階級に 多く見られるよ. う. で、 実に痛歎すべきことであ る。 新旧. 思想の衝突の 結果起こってくる 思想、とは、 自由・平等の 根 抵 となっている 個人や人格を 重視する 思想、を根こぎに引き 抜いて、 歴史的国民思想のみで 行こうという 主義であ る。 この思想の主張す るところは、 「忠孝は建国以来変わらざるところの 我が国民の精神であ る。 さればこれを 継承し.

(4) 4. 泉谷. 周三郎. 宣揚するのは 我が国民をして 歴史あ らしめる所以で、 われらは 唯 これをこそ守れ 、 他に求むる要 はない」. (P.64) ということであ る。 しかしながら、 明治維新以降、 国家が設立した 各種の制度. は 、 自由・平等主義に 基づいて づ くられたものであ る。 また人間の精神は 発達すると、 自然に群. 衆意識から個人意識へと. 進むものであ る。 これらのことを 考慮すると、 この主義で 40 年代の衝. 突を和してゆくことはできないように て自由・平等の 精神だけで行こ. う. 思われる。 それならば、 歴史的国民思想をまったく. 閑却し. という主義が 考えられるが、 この主義で行くこともできないし、. 行くべきものものでない。 藤井は、 我 ら明治 児は 、 この動かし難き 剖判的建設の 社会中に養育 「. せられ、 教育せられて、 徐々にそれに 従って吾人の 良心を形成し、 おもむろに旧道徳を 捨てて新 道徳へ移りつつあ るのであ. る」. (p.55) と結論している。. 新旧思想の対立は、 憲法学においても 見られた。 上杉慎吉は、 明治 44 年. F 国民教育、. 帝国憲. 法講義』のなかで、 美濃部達吉の 説く国家法人説・ 君主機関税をは げ しく攻撃した。 これに応え て 、 美濃部は「国民教育、 帝国憲法講義を 評す」を『国家学会雑誌』. (第. 26 巻第 5 号 ) に発表し. て、 上杉の批判に 反論し、 両者の間で憲法論争が 始まった。 この論争は、 「天皇統治の 大義」と. いう理念の面では 一致しながら、 国家における 統治権 の主体はどこにあ るかという問題をめぐっ て展開された。 美濃部は、 論ずる者の間にすらも、. 『憲法誇言 き. 』. ( 明治. 45 年 ) のなかで「専門の 学者にして憲法のことを. 尚 言を国体にかりてひたすらに. 専制的の思想を 鼓吹. し、. 国民の権 利を抑. えてその絶対の 服従を要求し、 立憲政治の仮想の 下にその実は 専制政治を行わんとするの 主張を 聞くこと稀ならず」と 述べて、 明治憲法を保守的に 解釈する穂積八束やその 後継者であ る上杉慎 吉の憲法論を 批判している。 8). 明治憲法体制における 最高のアポロジスト. ( 護 教家 ). といわれる穂積八束 (1860-1912) は 、. 愛媛県の宇和島で 生まれた。 明治 12 年東京大学の 政治学科に入学した。 学生時代に『東京日々 新聞』に何度か 寄稿して立憲 制は ついて論じている。 明治 15 年にはミルの『自由論 「多数者の専制」を. よ. 凹. における. りどころにして、 民選議院での 多数者への不信を 表明して、 一院制論を批. 判して貴族に 基礎をおいた 上院の設置が 不可欠であ ることを論じている。 ㈲明治 17 年から 5 年間. ドイッに留学し、 帰国後すぐに 東京帝国大学の 教授となり、 以後 24 年間憲法の講義を 担当した。. 穂積によると、 国家理論の中核となる「統治権 」とは、 その主体であ る君主の権 力 (権 利ではな くして ) のことであ る。 換言すれば、 統治権 とは、 法によって基礎づけられた 権 利ではなくして、 すべての法を 生み出す根源となる 力のことであ る。 それゆえ憲法は 主権 者たる君主を 制限するも のではなくて、 君主の命令なのであ る。 明治 23 年にフランス 人 ポア ソナードを中心として 作成. された民法典が 公布されたとき、 その施行の可否をめぐって 法律 界 ・言論 弄 は 、 真っ二つに分裂 し、 激しい論争が 交わされた。 このとき実施延期派の 中心として論陣をはったのが 穂積八束であ った。 穂積は、 明治 W4 年「民法 出デ 、 忠孝 仁ブ 」という論文を 発表し、 そのなかで「鳴呼極端 個人本位 / 民法 ヲ布 キテ姉千余年 / 信仰三房ラントス」と 嘆き、 我が国が「祖先 教 」の国であ 「. 家制 」の郷であ ることを力説し、 「方今ハ国家 ヲ以テ相 依り、 相撲 フノ 根拠. トセリ. 。 家別主義朗. 三度 バズ トス ルモ 、 国家主義 ヲ以テ 法制 / 本位 ト為 スベキナリ」と 主張した。 。 ,のまた穂積によ ると、 国家的支配を 基礎づけるところの 人間関係の母胎は「 家 」とそこにおいて 酒 養される「祖. 先 教 」であ る。 家 とは、 家長権 によって支配される 親族団体であ り、 祖先の霊を崇拝する 念を育 む 場であ ると同時に 、 父と子という 優劣のあ る人間関係を 通じて「権 力」という考えを 養う場な のであ る。 この ょう に穂積は、 家 」における権 力関係を、 父子関係に見られる 「. よう に 、 上から.

(5) 國 民 道徳と個人主義. 下への命令と 強制という実力関係にとどまらず、 ての服従と崇拝という 倫理的関係として. 5. 親への崇拝に. 見られるように、 下から上に向け. 捉え、 この二重性を 融合するものとしての「祖先 教. 意義を強調するのであ る。 。 , ,,国民道徳とは、 「国民として 履践すべき道徳」のことで、 と「 家 」によって維持されるのであ. の. 」. 「祖先 教. 」. る。 穂積は、 祖先教命そが 国体の基礎であ るとし、 その意義. を、 次のように述べている。 「我が国. ノ、 彼レ 二具ナル 所ハ唯 二万世一系 / 不易 / 君主 ヲ戴 クト姉フノミ ナラズ 、 祖先 教ヲ以. テ 社会 / 秩序 ヲ正フシ 、 祖先. 国民族 / 祖先宗家統 ノ下二 維持 シ得 タリ ヲ. ヲ 崇拝スルノ. ヲ 奉戴シテ、 ト. 教 ハ郎民族 / 宗家タル皇室. 一図一社会. ヲ. 団結スルト五フ. ヲ 尊敬スルノ. ノ 歴史二桁ブルノ. 念 ニ友 ボシ 、. 法制 ヲ 数千年間. 五フ克ニ在り。 此 建国 / 基礎タル愛国 / 情ハ 、 人倫忠孝 / 精神 ヲ以テ 社会. 維持セントスルトキハ、 祖先 教ニ 依頼スルノ 外他 二方案ナシ。. 」. ( 「家別 及 国体」 ). "). 井上哲次郎の 国民道徳論. Ⅱ. (1855-1944)は、 福岡県の太宰府で 医家の家に生まれた。. 井上哲次郎. 学科を卒業し、 し、. 2. 明治 13 年東京大学の 哲. 年後東京大学助教授となり 東洋哲学史を 講じた。 明治 16 年『倫理新説』. そのなかでイギリスの 功利主義に基づいて、 シジウィッ. ク. の折衷したものを 倫理学説として 提唱している。 明治 17 年から. ヲ 公刊. の直覚主義とダーウィンの 進化論 6. 年間ドイツに. 留学し、 帰国直後. に 36 歳で東京帝国大学文科大学の 日本人最初の 哲学教授となり、 68 歳で退職するまで 哲学界の. 最長老として 君臨した。 明治 24 年に『勅語 街義 』を刊行し、 勅語の主意が「孝悌忠信の 徳行」 と「共同愛国の 義心」にあ ると説いた。 また明治 26 年「教育と宗教の 衝突」においてキリスト 教 攻撃の口火をきり、 キリスト教を 勅語の精神と 相和することができないと. 批判した。 明治 30 年 東京帝国大学文科大学長に 就任した。 また明治 33 年に公刊された『日本陽明学 之 哲学Ⅰの 序 文 では、 功利主義が次のように 批判されている。 「維新以来、 世の学者、 或は功利主義をⅠ 昌尊 し、. 或は利己主義を 主張し、 その結果の及ぶところ、 或はっ ド に我国民的道徳心を 破壊せんとす。. 功利主義の如き、 国家経済の主義としてもとより る唯一の道徳主義とするは. ・・. 可 なり。 ただしこれを 個人に関す. 不可なり。 何となれば、 その場合には 道徳は他律的となりて 事も心 徳. を 養成するに効なければなり。. 」。, ,,井上哲次郎は、 明治 43 年から翌年にかけて 東亜協会や東京帝. 国大学において「国民道徳論」を て 明治 45 年『国民道徳概論. コ. 講述した。 その講述内容を 稿本とし、 これに訂正・ 増補を加え. として三省堂より 出版した。 、 ,。 ・彼によると、 国民道徳の研究が 特. に必要となったのは、 第一に国民道徳と 国民教育との 関係が明瞭でなくなっているからであ 国民道徳は国民教育のなかで. 主要な地位を 占めているものであ る。. 国民を国民として 教育する目的をもっからであ. る。. というのは、 国民教育は元来. る。 ここで国民教育とは、 小学校から中学校教育. 程度の教育を 総括して意味しており、 この教育目的を 達成するためには、 個人教育と団体教育と が 併び 行われなければならない。 換言すれば、 国民として教育するには、 従来歴史的に 発展して きた国民道徳が. 教えられ、 それによって 国民自衛の資格を 持つように図られなければならない。. 第二に国民道徳は、 民族的精神の 顕現、 すなわち「民族的精神が 次第次第に歴史的に 発展してそ 0 社会に現れてきたもの」であ. る。 そこで国民道徳の 研究は 、 単に道徳を研究するだけでは. 分で、 民族的精神の 研究を含まなければならない。. 不十. 第三に国民道徳が 一般の倫理学で 看過されて. い ることであ る。. 井上哲次郎によれば、 明治維新以前において 国民道徳の要素となっているものとして、. 日本 固.

(6) 泉谷 周三郎. 6. 有の精神、 儒教、 仏教の三つがあ げられる。 儒教と仏教は 日本に輸入され、 日本の国民性に 同化 されて日本文明の 要素となった。 明治維新以来、 西洋文明が輸入されるようになり、 に 大きな変化をもたらした。. 日本の社会. 西洋文明は、 儒教や仏教と 同様に、 日本の国民道徳の 発展に貢献し. ている。 だが西洋文明には 非常に複雑な 要素が包含されており、 そのなかに国民道徳を 破壊する. 「不健全なる 思想」もあ る。 この危険な思想が 輸入されて、 社会の一部には 国民道徳を破壊する ような考えを 持っ者がでてきているのであ る。 最後に井上哲次郎は、 教育勅語こそ 国民教育の大 方針を示した 明治の聖典であ. るとし、. 「教育勅語は 我が国における 国民道徳の粋であ ると考え ろ. れる。 あ のなかにはすべて 国民道徳の要点と 思. う. ものが列挙」 (P.11) されていると 述べている。. 井上によると、 道徳というものは 古今東西にわたってなんらの 差別もないものであ る。 だが道徳 を 実行する手段や. 方法となると 境遇によって 異なってくる。 このことが国民道徳を 形成する原因. となるのであ る。 次に国体と国民道徳との 関連が考察される。 国体と国民道徳とのかかわりが 重 要 なのは、 我が国の国民道徳の 由来が特色あ る国体に基づくからであ る。. 国体という言葉は、. 西. 洋の言葉では、 的確に表現することができない。 教育勅語を英訳したときに thefundamentaI ch 旺acterofourEmpire. としたが、 この訳では国体の 体ということが 言い表されていない。 国体. という言葉は、 中国では古くから 使用されていた。 日本で国体という 字を誰が使ったか 不明だが、 中世以来用いられていたようであ る。 そして徳川時代に 入って学者たちによって 多く使われるよ うになった。 日本の国体は、 万世一系の皇統を 基礎として成立したものであ. り、 これには七つの. 附属的特色が 見 ぃ だされる。 これを木に 楡 えると万世一系の 皇統が根幹であ. り、 附属的特色は 枝. 葉花実のごときものであ る。 国法学では日本の 主権 はいつでも皇位にあ る。 歴史的に見れば、 万 世一系の皇統が 主権 の所在であ る。 日本の国体は、 数千年の歴史を 貫いて変わらぬものであ り、 この国体を将来に 向かって保証したのが 憲法であ る。 したがって、. 日本の国体は、 万世一系の皇. 統を基礎とし、 これに附属的特色を 加えて全体となるのであ る。 皇位継承の資格としては、 皇統 の 血統を受けていること、 正統の後継者であ ること、 後継者は一人であ ることの三 つ があ げられ. ている。 国体の附属的特色としては、 国体と政体との 分離、 忠君愛国の一致、 皇室は国民に 先だ. って存在すること、 祖先崇拝、 家族制度の体系、 君臣の分明かなること、 国民の統一体、 の七つ があ げられている。 井上は、 国体の附属性として セ つのものに言及したうえで、 かつて三種の 神. 器も附属性の 一つであ ったが、 今日では重要な 意味はないように 思われると述べている。 そして 日本の国体の 特色は、 その継続がながいこと. (正確ではないが. 2271 年 ) にあ ると主張している。. また井上によると、 国民道徳にとって 家族制度はきわめて 重要であ る。 家族制度とは、 家長が一 家を統率してゆくように 組織ができている 制度のことであ る。. 井上は,『勅語街義 』においても、. 君主と臣民との 関係を述べた 箇所で、 両者の関係を 父母と子孫との 関係に擬した 上で、. 「一国 ハ. 一家 ヲ 拡充セルモノ」と 述べて、 家族国家観を 形成化することを 試みているが、 まだ彼の倫理体 系の中核をなすものではなかった。. 井上によると、 我が国の家族制度は 二種類に区別される。 一. つは個別家族制度であ り、 他の一つは総合家族制度であ る。 個別家族制度とは、 個々の家族が 家 長を立てて一家を 統率してゆく 組織のことで、 それを支えているのが 祖先崇拝の精神であ る。 総. 今家族制度とは、 個々の家族が 一つの団体となって、 その上に家長がいてこれを 統率してゆく 組 織のことであ る。 日本においては 国家全体が一大家族制度をなしており、. 歴代の天皇が 国家全体. の家長の地位を 占め、 臣民をことごとく 家族のように 統率するのであ る。 井上は、 「祖先崇拝は. 家族制度の精神的方面、 家族制度は祖先崇拝の 形体的方面といってよい」 (Pp.205206)と指摘し、.

(7) 國 民 道徳と個人主義. 7. 我が国の家族制度の 特色を 、 次のように述べている。. 「総合家族制度というものは、 個別家族制度を 基礎として成り 立っている。 そこに天皇が 家長 の 地位にあ らせられて、 国家全体が統一されておるのであ. ります。 そうしてそこに 忠 という徳が. 生ずる。 日本では個別家族制度の 側において 孝 という徳が胚胎. し、. 総合家族制度の 側において 忠. という徳が胚胎した。 これは全く日本の 特殊なる社会組織の 結果に出たことであ ります。 支那の 方では忠が 孝 ほどに大切になっておらぬというのは、 ことであ ります。. 」. 総合家族制度のない 結果で、 これは当然の. (Pp.227-228). このように、 井上によると、 総合家族制度は 個別家族制度を 基礎として成り 立っている。 石田 雄にょ れば、 すべての国体論者は、 個別家族制度が 崩壊すれば我が 国の国体も危殆に 瀕するとい う見解で一致していた。 (" 総合家族制度は、 一家族を一つの 団体と見なすものであ 義 に基づいている。 井上に. よ. り、 団体主. ると、 この団体主義に 反対する主義が 西洋文明と共に 輸入されてき. た。 それが個人主義であ る。 個人主義の発展は 自由競争を促し、 商工業の勃興をもたらしたが、 他面甚だしき 不平等を生じたのであ る。 井上によると、 個人主義と団体主義とは、 両者とも必要 なものであ り、 家族制度というものの 内容を個人主義によって 改良・刷新していけば、 この時勢 が 必要としている 両者の統一が 可能になるのであ る。. また井上哲次郎は、 第 10 章で「忠孝一本と 国民道徳」との 関係を論じている。 彼によれば、 日本の国民道徳は 忠孝一本に限られるというわけではない。. 重要な徳目、 例えば快活、 潔白、 正直、 誠実、 武勇等があ る。 こうした徳目は 他国にもあ る。 しかし、 決して 国民道徳にはいろいろな. 他国にはないといっても 差し支えないのが ,忠孝一本の道徳であ る。 「,忠孝一本」という 思想、は中 国にもあ るが、 忠孝一本ということは 行われていない。 というのは、 中国には個別家族制度と 総 今家族制度という 社会制度がなかったからであ る。 「忠孝一本の 道徳は特に日本だけに 行われて いる。 支那にはない。 西洋にもない。 どこにもない」 で 最初に道破したのは、 菅原道真であ り、 彼の詩文集. (p.268)のであ る。 旺. 忠孝一本の意味を 日本. 菅家文草』のなかで 忠孝一本の趣旨が 述. べられている。 徳川時代になると、 水戸学派の人々が 忠孝一本を主張し、 吉田松陰も同じ 趣旨の. ことを忠孝一致と 呼んでいろ。 井上に. れば、 「日本では個々の 家族が家長に 対して孝を尽くす と 同じような具合に、 臣民が天皇に 対して忠を尽くすように 社会組織がなっている。 それで忠孝 ょ. 一致が成立する」 (p.269) のであ る。 忠孝一致とは、 われわれが真心をもって 家長に対すれば、 それが 孝 となり、 同じ真心をもって 君主に対すれば、 それが 忠 となるということであ る。 換言す. れば、 一家の平和を 維持し、 自分の本務をなすと、 それが自然に 忠になるということであ る。. 日. 本 民族はた いてぃ 天祖の末 族 であ り、 皇室は天祖の 直系で国民の 宗家であ る。 それゆえ天皇に 対. して忠を尽くすのは、 本に報いることで 孝の大なるものなのであ る。 井上は、 忠孝の意味を 解釈、 したあ とで、 「民主主義は. 君主主義と調和しうる」として、. 説きようによっては、 君主主義と調和することができる。 うしてこれに 対して真心を 尽くして仕えるということが 義に合するわけであ. 次のように述べている。 君主というものをチヤン. 「民主主義も と 立てて、 そ. 人民一般のためになる。 すなわち民主主. ります。 (P.283) 」. また 第 Hl 章で「国民道徳の 変化及び将来」が 言及されている。 井上によれば、 道徳は民族の 存続・発展のために 欠くことのできないものであ. る。 我が国では明治維新以来社会の. 激変が続 い. ており、 たえず新しい 境遇に突入しているので、 従来の道徳で 行けるかどうかが 問題になる。 或 る. 人は 、 新しい境遇に 突入したので 新道徳が必要であ り、 旧道徳はもはや 適用できない、 い わん.

(8) 泉谷. 8. や. 周三郎. 旧道徳でもって 現在及び将来を 律せんとするのは 間違っていると 主張している。 こういう破壊. 思想は、 社会を刷新するうえで 一つの カ となるものであ るから驚くにあ たらない。 しかしながら、 旧道徳を破壊する 者は、 旧道徳を破壊するばかりで、. これに代わる 新道徳を供給しない。 そこで. 道徳は各人が 思い思いにやって 行くことになり -、 オーソリテーというものが 失われてしまうので る。 こういう考えは 破壊的で建設的ではない。. ところで、 国民の性格というものは 容易に代わ. るものではない。 日本民族は古来日本民族としての. ,性格をもっており、個人の道徳的行為はその. あ. 性格によってかなり 確定されている。 日本の国民道徳は、 民族的精神の 顕現であ って、 短所は制. 裁をうけて減少し、 長所は賞賛を 受けて発達してきた。 それゆえ日本の 国民道徳の長所は、 今. ネ糸. の 新しい境遇において 勝利を得ることを 可能にするものであ る。 井上は、 旧道徳が一切のオーソ. リテーを失っているというのは 根拠なき果断であ るとし、 次のように述べている。 「今日及び今日以後に 必要な道徳は 決して新旧. リテーを失っているはずがないのであ ば 社会の健全性を. と 称すべきものではない。. かかる道徳はオーソ. ります。 やはり感化 力 があ り、 またオーソリテーがなけれ 新境遇に対する 道徳のほうが、 過. 保持して行くことはできない。. 去の道徳より 大切であ りますが、 しかし新境遇に 対してもよく 適応するには、 過去の道徳がそこ に 関係してくる。 過去の道徳の 要素なるものが、 さらに発展して 新境遇に応ずるので、. だけで足らないところは、 新たに補って 行かねばならぬのであ ります。. 」. 井上哲次郎の『国民道徳概論』で、 注目に値する の基礎」を論じていることであ 的 基礎、. よう. もしそれ. (pP 304-305) ‥. に思われるのは、 第 13 章で「国民道徳. ろう。 国民道徳の基礎として、 哲学的基礎、 心理的基礎、 倫理学. 生物学的基礎、 社会学的基礎、 歴史的基礎、 人類学的基礎、 宗教的基礎が 取り上げられ. ているが、 その内容はごく 簡単に思い つ きを述べているにとどまり、 国民道徳の基礎づけに 成功 しているとは 到底みなすことはできない。. Ⅱ. 国民道徳論の 由来 国民道徳論の 運動は、 具体的には明治 43 年頃 に始まったと 見なすことができる。 明治 43 年 7. 月、 井上哲次郎は 東亜協会において 二週間にわたって「国民道徳の る. 。 また同年 12 月には文部省において. 研究」という 講演を行って い. 師範学校修身 科 担当教員の講習会で 穂積八束、 井上哲次. 郎、 吉田 熊 次の三人が、 国民道徳に関して 講演を行っている。 憲法学者の穂積が 講師として呼ば れていることは 奇異に思われる。 それは、 明治 41 年国定教科書の 改定が行われた 際、 穂積はこ の時に設置された 教科別図書調査委員会の 第一部長に任命され、 修身教科書の 編纂にあ たって い たからであ る。 。 , 。,石田雄に よ ると、 我が国の国定修身教科書において、. 観念として登場したのは 明治 44 年の修身 科 教科書においてであ. 家族国家親が 中核的な. り、 にの解説普及運動を 契機に. 国民道徳論の 名のもとに家族国家親が 興隆しはじめるのであ る。」㎝明治 44 年 7 月、 文部省にお いて師範学校、 中学校、 高等女学校の 教員講習会で 上記の三人が 国民道徳についての 講演を行っ ている。 吉田 熊 次は、 自分が明治 42 年 7 月に東亜協会の 講習会で「教育的倫理学」という. 題で国. 民道徳について 講演したことや 文部省主催で 国民道徳の講習会が 始まったことを 指摘して「国民 道徳論の近き 由来は明治 43 、 44 年頃 に起こったものであ ると言っても 差し支えなかろう」と 述 べている。 。 ",. 明治 AA 年 5 月、 穂積八束、 井上哲次郎、 吉田 熊 次の三人は、 東京府の修身 科 講習会においても 講演している。 この講演記録『修身 科 講義録』によると、 注 。 , 。) 穂積は、 一回、 井上、 吉田は 、.

(9) 國尾道徳と個人主義. 9. 四回ずつ講演を 行っている。 この講演のなかで 注目に値することの 一つは、 三人が講演の 冒頭で、 る。 穂積八束 (1860-1912) は、. 教育と学問の 違いを強調し 倫理学者を批判していることであ. 「. 国. 民 道徳の本旨」という 講演の冒頭で、 教育に関係していない 者の間に教育と 学問あ るいは学問の 自由・独立と 教育の自由・ 独立を混同する 者がかることを 指摘している。 彼に. よ. れば、 学問は学. 者 個人の仕事であ るが、 教育は公の仕事であ って、 国家が国家の 方針にしたがって 行うものであ る。 そして教育勅語は、 国家の教育行政を 統一するところの 大方針を示したものであ え、. 教育に従事するものは 勅語に由らざるをえぬ 国法上の義務をもっているのであ. る。 それゆ. る。 そして教. 育は、 学問ではないので、 倫理学説を批評するが 如くに、 勅語を批評するのは 全く間違ったこと であ る。 穂積によると、 今日は立憲政体の 世であ る。 国民の政治への 参与とは、 「国民が 皆 国家 のため、 我を忘れて分ける 重んじ参政するであ ろうということを 前提・予期して、 そうして参政 の 権 を与えたものであ る。. 」. (p.23) ところが、 立憲政治を個人主義に 解釈すると、 憂慮すべき事. 態が起こるとして、 次のように述べている。. 「予期に反して、 これを個人主義に 解釈された日に. は、 実に立憲政体ほど 危険な政体はない。 投票するにも 自己の利害を 打算し、 にも自己の立場、 自己の利害から 打算することになりました. 國. の法律を議する. 日には、 折角統一あ る国家をして 唯. 個人の略奪に 任せることになる。 ゆえに立憲政体における 国民を養成するという 場合になりまし ては、 別してこの国民道徳の 基礎を養わずんば 益々危険であ ります。 (p.23) 」. 井上哲次郎も「国民道徳大意」という を 述べている箇所で、. 講演において、 国民道徳の研究がなぜ 必要かということ. 国民教育のなかで 修身 科は 「国民としてみまして、 こういうことでなくて. はならぬ」ということを 教える最も重要な 学科であ るとし、 倫理学者の多くが 国民道徳を度覚視 していることを、 次のように批判している。. 「国民道徳を 研究する倫理学者は 比較的少数であ る。. 多くは西洋の 倫理学者の研究の 仕方そのままを 受け継いで、 絶対に国民道徳というものは 倫理学 の 範囲外に駆逐したような 状況を呈してきたのであ. ります。 そうなりますと 国民道徳というもの. は、 非常に形を失って 社会に認められぬようなことになる. 虞があ る。 (p.l0) 」. また吉田 熊次 (1874-1964) は、 山形県東置賜郡に 生まれた。 東京帝国大学の 哲学科卒業後ド イツ、 フランスに留学し、 帰国後女子師範学校 兼 東京高等師範学校教授となった。 明治 40 年 東. 東帝国大学助教授、 大正 5 年教授となり、 教育学を担当した。 彼は、 「修身科及び 国定修身教科 書について」という 講演の冒頭で、 最近教育界において「文部省において. 盛んに唱導せらるる 国. 民 道徳の鼓吹はなぜに 倫理学を無視し、 あ るいは倫理学者を 軽蔑したとせねばならぬのであ. るか」. という不思議な 現象をとりあ げ、 学校で教える 修身と学問としての 倫理学は無論密接の 関係をも っているが、 二つのものは 同一のものではないとし、. に. よ れば、. 修身 科と 倫理学の違い る 強調している。 彼. 博物学、 物理学、 化学に関する 専門の著書と 小学校で教える 理科とを比較すると、 二. っ のものの間には 大きな違 い のあ ることが判明する。 学校教育で使 排タ Ⅱせられ、. う. 知識というのは、 教育的に. 教育上の見地よりして 選択されたものであ る。 そして吉田は、 「修身という 学校教. 育 の一つの学科目に 関する研究、. あ. るいはそれについての 講習等に専門学者を 必ずしも必要とし. なり、 また修身上の 教えというものは 必ずしも倫理学の 本によらないことになるのは、. とであ. る」. 当然のこ. (P.4) と主張している。. 吉田 熊 次は、 のちに『我が 国民道徳』. U 大正 7. 年 ) のなかでは、 穂積八束と井上哲次郎の 国民. 道徳論を 、 次のように批判している。 穂積によると、 国民道徳とは 国民たる資格に 伴 う 道徳のこ. とであ る。 国家は歴史的にその 國 の特殊なる事情によって 定まるものであ るから、 国民道徳は.

(10) 泉谷. Ⅰ0. 国々の特色に 応じて異なるべきものであ. 周三郎. る。 この意味で国民道徳は. 穂積が我が国の 国民道徳の本質として 家、. 國、. 特殊道徳なのであ. る。 吉田は、. 忠孝、 祖先崇拝などをあ げて、 国民道徳は特殊 道. 対して、 国民道徳とは 国民たるの資格に 伴うところの 道徳全体を包 括してこそ全き 国民道徳であ るとし、 穂積の定義の 狭さを批判している。 また吉田は、 井上哲次 郎が 、 国民道徳を「国民に 特有なる道徳」と 定義し、 穂積の定義と 同様に、 国民道徳の特質を 国 徳 であ ると主張しているのに. 民道徳と解釈しているのを、. 国民道徳の定義としては 狭すぎると批判している。 そして吉田は 、. 定義し、. 国民道徳を「国民的生活を 本位とする」道徳と. め、 我が国の国民道徳とは、. どの國 にも国民道徳が 存在することを 認. 基本としているところの 国民的道徳全般を 指す. 「我が国を背景とし. (P.111)と述べ、 我が国の国民道徳を「 忠 というものを 根本 としてすべての 道徳が結合せられる」 (P.130)道徳体系で、 畢覚 するに教育に 関する勅語に 示さ ものであ ると解釈すべきであ ろう」. れたるところの 道徳というほかはない」 (p.118) とみなしている。 明治 43 年に始まった. 国民道徳の運動は、. 具体的には. 穂積八束、 井上哲次郎、. 吉田 熊次 らと. 文部省との協力のもとに 展開された。 これらの国民道徳論者の 議論の特色は 、 我が国の過去にあ ったと推定される 道徳の事実 あ. る。 倫理学者のなかで. らは、 国民道徳論者が. ( 国体など ). と教育勅語を 現在の国民的当為とみなしていることで. 個人主義ないし 人格主義の立場にたっ. 倫理的自由ないし 道徳的自律を. 藤井健治郎、. 無視したり、. 中島徳蔵 、 大島正徳. 五倫における 服従を過度に 重. 規 したり、 国体観の確立を 目指していることなどを 批判した。. W. 藤井健治郎の「国民道徳論」批判 藤井健治郎. (1872-1931) は、. 山形県の医家の. 子として生まれた。 東京帝国大学哲学科卒業後、. ドイツに留学し、 帰国後早稲田大学教授となり、 東京高等師範学校、 東京帝国大学の 講師もつと めた。 大正 2 年以後京都帝国大学の 教授となり、 倫理学を担当した。 彼は、 『国民道徳論』 (大正 九年 ) のなかで、 ㎝国民道徳論一般を 考察して「国民道徳を 鼓吹しさえすれば、 倫理学は不必. えで、 個人主義の思想を 我が国民道徳と 背 個人思想撲滅論者に 対して、 個人主義の意義を. 要 であ る」という考えが 誤りであ ることを指摘した. 反するとし、. これを仇敵視して 撲滅しょうとする. ぅ. 厳しく反論している。 藤井によれば、 国民道徳に関して 論述されたものをみる と、 大別して二つの 態度が見出される。 一つは信仰的態度でもって 実行する態度であ り、 他の 一 つは探求的・ 検討的態度でもって 終始疑いをはさみつつ 考察してゆこうとする 態度であ る。 この 二つの態度は 共に必要なものであ って、 いずれかを重くみたり、 あ るいは軽くみることはできな 明らかにしながら. い 。 だが、 前者に著しく 傾けば盲信となり、 後者に著しく 傾けば冷淡ないし 懐疑となる。 ところ. で、 従来論述された 国民道徳論をみると、 信仰的態度をとる 者、 すなわち「国民道徳は、 かすべからざる 絶対の真理であ るという信仰のうえに. あ る動. 立って、あ らゆる枝葉と 末節とに至るまで、. この態度によって 説明し解釈しようとする 者」が比較的に. 多いように思われる。 換言すれば、. 国. 民 道徳に関する 従来の論説は、 その多くが教訓的・ 説教的であ ったということができる。 この 態. 度が強くなると、. ややもすれば 偏狭となり 固晒 となりがちであ る。 こうした態度が. 国民道徳が「宗教上のドバマ 化するような 日が来ないとも 考えられない」のであ. 藤井に. れば、. よ. 長く続くと、. る。 (p.2). ると、 国民道徳という 語の意義を「あ る国民の間に 行わるる道徳の 事実を表す」とす. 倫理学と国民道徳との 関係はきわめて. はその事実に. 明瞭で、 「国民道徳は 所与の事実であ って、 倫理学. 即したる理論」ということになる。. ところが、. 国民道徳論者のなかには 国民道徳. と.

(11) 國 民 道徳と個人主義. 倫理学は相対立していると 考えたり、. あ. 1Ⅰ. るいは倫理学は 西洋思想に根抵を 有している空論であ っ. て 、 我が国の国民の 実践においてはなんの 役にも立たないとみなす 者がいる。 彼らは実践上国民. 道徳があ ればよいのであ って、 倫理学は蛇足であ ると考えているように 思われる。 このことは国 民道徳が思想界で. 提唱されるようになったとき、 文部省が従来中学・ 師範・高等女学校・ 実業学. 校 において一主要学科であ った「倫理」という 科目をすべて「修身」と 改めたことに 示されてい. るし、 さらに明治 43 年 12 月の文部省主催の 国民道徳講習会においてその. 講師に修身 科 に直接関. 保 していない講師が 選ばれたことにも 現れている。倫理学とはいかなる 学問であ るかについては、 その見解はいろいろで 定まらないが、 倫理学とは「道徳生活または 法を究明する 学科であ. る」. 道徳事実のなかに 潜在せる 理. (p.22) という点ではいかなる 学派の人々も 異議のないことであ ろう。. ところが、 藤井によれば、 国民道徳の書といわれるものを 考察してみると、 国民道徳は「単に 事 実 とのみ観るべきものではなく、 一種の倫理的見解. (ethicaI ㎡ ew) を加味せるものといわなけれ. ばならない。 何となれば、 例えば『神皇正統記』にしろ、 『中朝事実』にしろ、 智一定の倫理的 見地から書かれたものなるが 故にであ る。 (P.33)藤井によると、 このように国民道徳は 倫理学 」. と密接に関連しているのであ. 藤井健治郎は、. る。. 第 4 章で「国民道徳と 個人思想」という 問題を取りあ. げて考察している。 彼に. よれば、 我が国の思想史において 個人思想が顕著になった 時代としては、 明治維新以後があ げら れる。 維新以降国家や 社会の文物制度はなにからなにまで 個人主義白 9 色彩をもつようになった。. まず第一に、 政治や法律において 個人主義的色彩が 鮮明になった。 維新以前の政治は 全くの専制 主義であ ったが、 明治に入ってそれは 典論主義となった。 また参政権 は一定の資格をもつ 国民一 人 ひとりに与えられた。 刑法や民法などはその 権 利義務の主体となるものを. 現代の産業組織は、 自由契約と自由競争という 二つの自由の 原則の. う. 個人とした。 第二に、. えに成立している。 この. 自. 由の原則は個人ないし 個人に準ずる 法人を予想している。 第三に、 文学や芸術はもともと 個人的. なもので、 個人の個性がなければ 文学も芸術もないといえるほどであ. る。 このように明治維新城. 彼 個人思想が盛んになり、 国民の精神生活において 一大主潮の観を 呈するにいたったのであ る。 藤井健治郎は、 個人思想がこのように 自然不可抗力によって 生まれたことを 指摘し、 個人思想 をこの社会から 葬り去らんとするならば、. これを生んだ 社会情勢そのものを 変えなければならな. いが、 それははたして 可能であ るか、 と個人思想撲滅論者に 問いかけている。 藤井によると、 個 人 思想は、 一方では国家生活を 危殆に導く悪魔のように 嫌忌され、 他方では人類の 生活を更新せ しめる天使のように. 渇仰されている。 個人思想は、 複雑な概念であ るが、 少なくとも次の 四つの. 要素を含んでいる。 第一は 、 「われは人なり」という 自覚であ って 、 他のすべてのものから 人と しての自分を 区別する自覚であ る。 この自分という 自覚から「他人もまた 人であ る」という自覚 が 起こり、 「われも他人も 個人であ る」という意識が 現れてくる。 第二は、 われも人であ り他人 もまた人であ るということから、. 「. 人 としては晋平等なもの」という. 意識が現れてくる。 人 とし. ての自分に一定の 自由と権 利があ るならば、 人としての他人にも 一定の自由と 権 利があ. る べきだ. という自覚がでてくる。 第三は、 このように自覚した 個人には無限に 自己を開展しようとする 絶 大な力をもっているという. 自覚があ. る。. この 力. は、 生物学的には「自己保存の 欲求」と呼ばれ、. 哲学的には「自己創造の 秘 力 」と名づけられる。 この 力 を思う存分働かせるところに 生き甲斐の あ あ. り、 それを支えるのが「個人の 自由」であ る。 第四は、 個人は多勢のなかの 一人で り、 個人の自由は 多勢によって 認められなければならない。 この認められた 自由が権 利と名づ. る生活があ.

(12) 12. 泉谷. 周三郎. けられる。 藤井によると、 個人思想にはこのように「個人」「平等」「自由」「権 利」という四つ の観念が重要な 要素として含まれているのであ と「権 利」の観俳をとりあ. る。 藤井は、 この 四 つ め 要素のうちから「自由」. げ、 最初に国民道徳と 自由思想との 関係を考察する。 彼によれば、. 自. 覚された個人思想は、 明治維新において 政治の領域で 現れた。 自由思想は、 前代の政治に 対する 反発として「上司に. 抵抗し、 吏僚に抗争」するという 形をとり、. 「積極よりも. 消極、. 肯定よりも. 点に特徴があ った。 当時導入された 個人思想は、 18 世紀. 否定、 構成よりも破壊」という. ッパ の個人思想で「比較的浅薄なもので」「往々. 危敵 な分子」も含まれていた。. ヨ. 一口. そこで我が国の. 自由思想、も浅薄皮相な 面を含んでいた。 ところで、 ヨーロッパの 個人思想、は、 19 世紀に入ると. 漸次深刻なものとなり、 カントの哲学的人格主義とカーライルの. 詩的文明批判という 理想的個人. 主義が提唱されるようになった。. 個人思想が深刻なものになり、 理想主義的個人主義の 色彩を濃くするにつれて、 我が国のそれもその 影響をうけて 深まり、 哲学・倫理・ 教育のみならず 政治・法律・ 経済などの ヨーロッパの. 分野においても 大きな力をもつ この傾向に反対する. よう. になった。 社会の思潮が 個人主義の傾向を 強めるにつれて、. 思想が現れた。 それは、 このような個人思想は 我が国の国民道徳の 容れるこ. とのできないものだという 思想であ る。 こうして国民道徳と 個人思想との 関係は、 国民生活にお. 重要な問題となった。 この問題は、 適切に解決されるならば 我が国の隆盛のもと となるが、 解決を間違うと 取り返しのっかなりことになる。 藤井健治郎は、 この問題を解明する ために自由の 観念を、 政治的自由、 心理的自由、 倫理的自由の 三つぼ区分し、 政治的自由と 秩序 いて相対立する. との関係を考察する。 彼に. ょ れば、. 国家の機能は 大別して消極的任務と 積極的任務に 区分される。. 消極的任務とは、 国内の安寧・ 秩序を維持して 国民が安んじて 活動できる よう にすることであ り、 積極的任務とは、 国家それ自身の 発展、 言い換えれば 国民の幸福のために 積極的にあ る行動をな すことであ る。 国家はこの二つの 任務を果たすために 秩序を維持し 統一を保有する 権 力を持って いる。 各個人は国家が 秩序を維持するので、 その自由を享楽することができるのであ る。 したが って「国家があ るから個人の 自由が制限されるのではなく、 国家があ るから個人はその 自由を享 柴 することができるのであ る。 (p.253)次に、 「自由と服従」との 関係が考察される。 彼による と、 服従はいかなる 國 の道徳においても 大切なものであ るが、 我が国民道徳においては 特に重要 」. なものであ る。 君臣・父子・ 夫婦・長幼の 区別がはっきりしており、 上を上として 敬い、 これに 服するのが我が 国の道徳であ る。 服従は、 その動機からみると、 半意識的服従、 利己的服従、 道 徳的 服従に区別される。. 半意識的服従とは、 例えば催眠術をかけられた 者がその施術者の 命令に 服従する場合で、 幼児や野蛮人などが 他の暗示にしたがって 服従することであ る。 利己的服従と は、 与えられた命令に 服従することが 自己の利益になるか 否かを打算して 行為することであ る。. また道徳的服従とは、. 命令の内容を 検討し服従の. 意義をふまえて、. その命令に服従する 場合であ. る。 換言すれば、 与えられた命令が 道徳的に価値があ ると信ずるから、 それに服従しないわけに はいかないとして 服従するのであ る。. ところで、 服従は我が国民道徳の 美徳であ る。 藤井によれば、 服従を発達・ 助成することは 大 切 であ るが、 あ る権 力を用いて強いて 服従を求めるようにしてはならない。 権 力や圧迫をもって 服従を強いれば 服従させることはできる。 だが、 そうして生まれた 服従の多くは 半意識的服従 か 利己的服従であ って道徳的に. 敵であ. ると. 賞賛すべきものではない。. 「権 力や圧迫は. 、. 必ずしも倫理的自由の. りえ ぬのであ るが、 しかしとかくに 敵になりがちであ る。 したがって 、 みだりに 権.

(13) 13. 國 民 道徳と個人主義. 力. ・圧迫をもって 服従を強いようとすると 知らず識らずの 間にだんだん 倫理的自由を 打ち滅ぼし. てしまうようになる。 倫理的自由が 亡びては世は 偽善・虚偽の 世となってしまう ロ (pp.279-280) 最後に藤井健治郎は、 道徳を人類一般に 通ずるものとみなす 人類道徳と国民道徳との 関係を考 察する。 彼に. ょ. れば、 国民が国民道徳を 実行して、・それを道徳的に 価値あ るものとするためには、. 普遍的な道徳や 宗教上の教えや 歴史の示す事実などを 参考にしなければならない。. この意味にお. 実行することは、 やがて人類道徳を 実行することであ り、 国民道徳を実行せず に 人類道徳を実行することができず、 同時に人類道徳を 実現することなしに 国民道徳を行 こと. いて「国民道徳を. う. ができないと 断言せざるをえな い のであ. しかるに人類には 自負. る。. で、 吾に特有道徳があ りとすると、 その特有道徳をもって、 比して、 すべて優れているものであ. あ. 自 ,漫の弱,点があ るの. らゆる他人または 他国民の道徳に. るかのように 想、うのであ る。 即ち自己の特有道徳をもって 価. 値 において第一等道徳なりと 想、うようになるのであ る。. 想、うようになることによって、 自然 に他を卑しみ、 外を排するようになる。 これは人情の 弱点とはいえ、 大いに戒慎すべき 事柄であ る. V. 。. 」. かく. (Pp.344345). 自主愛国の倫理と 忠君の倫理 国民道徳論は、 狭義には明治 42 、 43 年頃 に始まり、 修身教育の強化に 尽力し、 大正時代にか. けて多大な影響力をもった 保守主義的で 国家主義的な 道徳運動のことを 意味する。 だが、 国民道. 解釈すると、 この風潮は、 明治維新以降、 文明開化の修正を 求めた、 明治 12年 8 月 の 「教学聖旨」にまでさかのぼることができるし、 下っては太平洋戦争末期の 蓑田 胸 喜の日本主. 徳論を広義に. 義などの国粋思想をも 含めることができょ. ぅ. 。 。 ,,. ・. 明治 5 年 8 月「学制」が 公布された。 明治 4 年に設置された 文部省では,「学制」を 制定するに あ. たり、 欧米の教育制度や 行政に通じた 河津祢 Z や箕作麟祥らを 起草委員に選んだ。 それゆえ. 「学制」の教育理俳は、 各人がそれぞれ 身を立て、 産を治め、 業を昌んにしてその 生を遂げるこ とを目的としており、 西欧の個人主義の 影響の強いものだった。 福沢諭吉は、 『学問のすすめ』 ( 明治 5. 年 ) のなかで、 「修身学とは 身の行を修め 人に交り 此 世を渡るべき 天然の道理を 述べたも. るとし、 自主独立と愛国を 結合した新しい 倫理を提唱している。 文部省の倫理教育の 方 針は、 福沢の思想の 影響を ぅけ 、 明治 10 年代の初めまでは 自主愛国の倫理を 強調するものであ の 」であ. った 。 。 ," 明治 12 年 8 月「教学聖旨」が 示された。 これは、 侍講の元田永字が 起草したもので、 当時の知育偏重教育を を 試みたものであ. 批判し、 学校教育の根本は 仁義忠孝を中核にすべしとして 儒教道徳の復活. った。 「教学 / 要 、 仁義忠孝. ヲ. 呪カ ニシテ 、 智識才芸 ヲ究メ 、 以テ 人道 ヲ尽 ス. ハ、 我祖訓 国典 / 大旨、 上下一般 / 教 トスル 所 ナリ。」また「小学条目二件」では、. 心 はすべての人がもっているので. 幼少のときに「. ソ. / 脳髄 ニ 感覚セシメ. 仁義忠孝の. テ 培養スル」ことが. 肝要. であ るとし、 忠臣義士や孝子節婦の 画像・写真を 示して、 忠孝の大義を 脳髄に感覚せしめること. 要請している。 当時内務卿であ った伊藤博文は、 「教育 議 」を上奏して、 風俗の乱れは 大きな 政治改革によるものであ り、 やむをえない 面があ ったとし、 政府が急に根本方針を 改めて儒教主 義の復活を図ろうとしても 無理であ るとし、 開明主義の立場から「教学聖旨」の 内容を批判して を. いる。. 明治 15 年 総理大臣伊藤博文は、 森有 禧を初代の文部大臣に 任命した。 森有祀. (1847一 1889). は 、 「今の世に孔孟の 教を唱ふるは 迂悶 なり」とし、 従来の忠孝道徳に 基づく修身書の 使用を抑.

(14) Ⅰ. 泉谷. 4. 周三郎. えて自主愛国の 倫理を説く、 翻訳教科書を 推薦するとともに、 彼の意見に基づく 新しい修身教科. 書『修身毒』を 編集させた。 元田永字は、 この『修身 書 』に反対して、 「倫理教科書につき 意見 書 」を森に送っている。 両者は「愛国」. ( 近代倫理 ). と「忠君」. (封建倫理 ). で対決したのであ. る. 明治 22 年 2 月 森 文相は、 帝国憲法発布の 式典に参列しようとして 刺殺された。 石田一良によれば、 ㈲. 裸文相の死により、 「愛国」と「忠君」の 対立は「国体」論によって 縫合癒着されるという 方向 に向かうことになる。 国民道徳論の 直接的淵源は、 明治 23 年 10 月に発布された「教育勅語」の. うちに見出すことができる。 勅語の起草は、 総理大臣山県有朋と 文部大臣芳川顕正のもとで 進め られ、 井上毅が原案を 作成し、 元田永字らが 協力してまとめられたと 言われている。 勅語の前半 0 部分は 、 次のように記されている。 「. 朕惟フニ我力 皇祖高宗 國 ヲ肇 ムルコト宏遠ニ 徳 ヲ樹 ツルコト深厚ナリ。 我力 臣民党ク恩ニ 兎. ク 孝二億兆 心ヲ 一ニ シテ、 世々 ソ / 美フ ナセルハ 此レ我力 国体 / 精華 ニシテ 、 教育 / 淵源マタ 実. シ 朋友相宿 シ 恭倹 己. 二化 二 在ス。 爾 臣民、 父母ニ孝二兄弟姉友二夫婦相称. レ. フ持シ 博愛衆三度 ホ. 、ン、 学ヲ修メ業ヲ 習ヒ以テ 知能 ヲ 啓発 シ 徳器 ヲ 成就 シ、 進テ 公益 ヲ広メ 世務 ヲ開キ 、 常 二国憲 ヲ 重シ 国法二道 ヒ 、 一旦緩急アレハ 義勇 公 三泰 シ以テ 天壌無窮 / 皇運 ヲ 扶翼 スヘシ 。 」。, 。,. このように、 教育勅語では 忠孝において 民心が一 つ になることが「国体の 精華」であ り、 教 「. 育の淵源」であ ることが述べられ、 ついで「父母姉孝二兄弟ニ 友二夫婦相称 の徳目が列挙され、 これらを実践して. よき. シ 朋友相宿 シ 」など. 臣民となることが 強調されている。 明治 23 年Ⅰ 0. 「教育勅語」が 公布され、 翌年 1 月「内村鑑姉不敬事件」がおこった。. 月. 明治 25 年、 井上哲次郎は. 宗教と教育の 関係について 談話を発表して「教育と 宗教の衝突」の 問題を提示し、 キリスト教 攻 撃の口火をきった。 これらの動きは、 キリスト教の 批判を通じて 国家主義教育体制の 確立を意図 したものであ り、 国民道徳の基盤となったものといえよ. Ⅵ. 国民道徳論の 技能と役割 国民道徳論者は、 明治維新以降、 政府が富国強兵をめざして 欧米の近代思想や 生活様式を導入. するとともに、 殖産興業に力をそそいで 近代産業の育成をはかったことを、 ら、. あ. る程度評価しなが. 明治前半期における 自由主義ないし 個人主義の風潮に 反発して、 日露戦争後のモラルの 混乱. のなかで、 封建時代における 忠孝の道や主君への 忠義を国体論 いし家別国家論. ). ( 万世一系の皇統と. 家族国家論な. によって 、 天皇への 思 へと高めて忠孝一本の 道徳を強調した。 そして欧米の 個. 人主義が経済活動などにおいては 不可欠なことを 認めながらも、 個人主義は、 個人に無制限な 由を許すものとみなされることから、 反逆する革命家を. 国家を離れて 芸術などの世界に 閉じこもる隠遁者や 国家に. 生み出す一因になっているとし、. 忠孝一本の教えを 修身教育を通じて 強化する. ことに努めたのであ る。 この国民道徳論に 対して、 和辻哲郎は、 民 道徳の問題」. ( 昭和. 自. 「国民道徳論」. ( 昭和 7. 年). 「. 国. 27 年 ) などにおいて、 ㈲当時の国民道徳の 概念の多義とその 混清 および運. 動の保守的性格を 厳しく批判している。 和辻によれば、 国民道徳の概念は 三つの意味で 用いられ ている。 第一は、 日本国民に特有な 道徳を意味する。 これは歴史的事実としての 日本国民の道徳. を指すのであ るから、 その研究は日本道徳史の 研究となる。 第二は、 日本のみならず、 それぞれ の国民に特有な 道徳を意味する。 この概念を用いれば、 国民道徳論は 諸国民の道徳史の 研究とな る。 第三は、 当為としての 国民道徳 を 意味する。. (na廿onalmoral 吋 ) ㈹、. すなわち国民的立場における. 道徳. この概念を用いれば、 国民道徳の研究は 倫理学の領域に 属し、 道徳 史 とは関係がな.

(15) 15. 國 民 道徳と個人主義. いことになる。 ところが、 国民道徳論者は、 国民道徳の概念を 三つの意味で 用いたが、 それぞれ の意味を徹底して 追究しないで、 それらを 混 清して用いている。 たとえば、 あ る学者は、 日本国 民 に特有な道徳を 研究しながら、 この歴史的研究に 基づいて当為としての 国民道徳の原理を 明ら かにしょうとしている。 日本に特有な 道徳の研究は、 「歴史的事実としての 国民道徳」 (naはonal. morals) の研究であ り、 当為としての 国民道徳の研究は、 「国民としての 践むべき 道 」を解明す ることであ り、 倫理学の任務なのであ る。 和辻によると、 多くの国民道徳論者は、 第一と第二の 意味を無反省に 結合しており、 その点に国民道徳論者の 特徴が見出される。 国民道徳論が 明治末 期に勃興したのは、 当為としての 国民道徳を力説し、 国民的自覚を 促すためであ った。 だが、 彼 らは個々の国民と 国民全体との 関係が何であ るかという根本問題に 向かわないで、 いきなり既成 の保守運動と. 結びついてしまった。 和辻は、 国民道徳の運動が 既成の保守運動と 結びつくことに. よってその生命を 失ったことを 次のように述べている。 「その保守運動は、 ブルジョ を 時代と共に新しく. ブルジョ. ワ 精神に対する. 反抗をそれとして 把捉. 全然阻止し得なかったのみならず、. 的に異なる尊皇心と 結合させるという 如き反対の結果を. 道徳論のうちに 巣 喰っているのであ る。. 」. よ. また維新の尊皇 心. 活気づけることをなし 得ず、 ただ単に保守運動としてのみ 現れたがゆえに、. ワ 精神の発展を. また和辻に. し 得ず、. ( 「国民道徳論」. そのブルジョ ワ 精神をばそれと 本質. 産み出した。. この二つの誤謬が 今や国民. p,9). れば、 国民道徳論者の 多くは国民という 概念を「国家に 属する人民」の 意味で用. いている。 しかしながら、. 「あ る国民に特有の. 場合、 その国民は、 西洋の na Ⅱon のまとまった 民衆の全体を. ( 民族 ). 道徳」あ るいは「我が 国民に特有の 道徳」という. と同じく、 言語や性格や 歴史的伝統を 同じくする一つ. 意味している。 和辻によると、 「国民」という 言葉は、 nation と同じ. く国民の全体性を 意味しうると 共に、 また na 億on と異なって国民の 個別,性をも意味しうるのであ る。. それゆえ、 彼にとって国民とは、 「全体にして 同時に個であ る。 個にして同時に 全体であ る。. それは国家の 基礎となるが、 必ずしも国家に 依存するものではない」 (p.12) のであ る。 和辻は 、 国民道徳論の 国家主義的風潮に 強く反発したが、 自由主義や個人主義に 反抗して新しい 国民的自 覚を促した点は. 高く評価し、 次のように述べている。. 「自由主義や 個人主義が、 個人の恐 煮 に無制限な自由を 許すものと誤解され、 社会の秩序や 規. 律が乱されるに 至れば、 それは当然反対運動を 呼び起こすのであ るが、 それのみではなく、 自由 主義や個人主義が 人間存在の個人的な 側面を力説することによって 全体的側面の 無視をひき起こ. していることは、 原理的にも一つの 欠点だと言わなくてはならない。. したがって、 それが日本へ. の 資本主義組織の 輸入として、 経済的にも根深い 影響を与えようとした 際に、 それに対する 反抗. 運動が起こったことは、 かなり意義深いことでもあ るのであ る。 その後起こった 国民的自覚の 運 動も 、 人間存在の全体的側面を 反省させようとしたものとして、. 十分尊重せられてよい。. 」. (「. 国. 民 道徳の問題」 pp.104105). 和辻哲郎は、. 井上哲次郎を 中心にして進められた 国民道徳論に 対して、 新しい国民的自覚を 促. そうとした姿勢を 評価しながらも、 語や概念の意味と 用法における 粗雑さ、 歴史的事実と 倫理的 価値との混同、 評論家的論述の 仕方などに反発し、 昭和 5 年ごろ自らの 国民道徳論の 構想を立て ている。 彼の構想、は、 結局流産して 実現されなかった。 。 ,,,なぜ和辻の国民道徳論は 流産しなけ ればならなかったかという 問題は、 大変興味深い 問題であ るが、 本論の課題ではない。 和辻哲郎 の国民道徳論への. 批判は、 国民道徳論者の 理論展開における 諸欠陥を的確についているが、. 国民.

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