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スペイン・イスラム庭園探訪

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Academic year: 2021

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(1)in Spa. 訪 探. 園 庭. ム介 ラ正. ス. イゴⅡ ,. ン. イ. ぺ ス. Islamic Gardens. 五. n. Masaaki@ IWAKIRI 1. メスキータ. 2. メディナ・アサーラ. 3. アルハンプラ 宮殿と へネ ラリーフュ離宮. 4. アルカサル. ( コルドバ ) ( コルドバ郊覚 ) ( グラナダ ). ( セヴィリア ). はじめに. 2001 年 3 月 14 日 一 24 日にアルハンプラ 宮殿の庭などスペインに 残るイスラム 庭園を訪ねた。 以下、 実際の見聞を 参考文献で補足しながら、 これらの庭について 記したい。. ]. メスキー タ. [ モス. 列. ( コルドバ ). 「現存するヨーロッパ 仮首の 庭 」とされる 3 月. 15 日朝、 フランクフルトのホテルを 出て、 マドリッド. ヘ 飛行機で行き、 タクシ一でアト 一チャ. 駅へ着く。 特急でコルドバ 駅に行き、 タクシ一で夕方ホテル・マイモニデースに 着く。 マイモニデー スは メスキータ. ( モスク ). の目の前。 行ってオレンジの 庭を見る。 オレンジの木はコルドバの 街の. 並木になっているから、 オレンジの中庭も 姿自体は珍奇とはいえない。 注目すべきは、 オレンジの 木 ではなく、 オレンジに水を 配る石で縁取られた 水路であ る。 水路は格子状に 整えられている。 濯 湖水路を格子状に 整える方式は 古く ぺルシヤ に由来する伝統であ る。 あ る研究家はこのオレンジの 中庭を「ヨーロッパに 現存する最古の 庭園」. 改めて、 内部に入って 見たのは、. 3. ( 八世紀末 ). だとする。. 月 17 日。 イスラムの 大 モスクの中心部にキリスト 教の聖堂を. 埋め込んだ姿になっている。 どちらの作りも 大きく、 豪華で、 あ い拮抗する。 対照も際立つ。 モス クの 造りは水平で 広い。 キリスト教の 聖堂は、 垂直。 モスクは飾りが 簡素。 キリスト教の 聖堂の飾 りは、 満艦飾に近く、 装飾と彫像があ らゆる壁面を 覆う。 モスク時代の 内部は明るかった。 キリス ト. 教の聖堂が埋め 込まれて門も 閉じられ、 内部は暗くなった。 このモスクはコルドバを 支配した 西 ウマイア 朝 (756-1031) の初代アブダ・アル・ラーマン 一世. が 780 年頃 に起工した。 およそ七年を 費やして完成、 イスラム教徒が 金曜の祈りを 捧げる信仰の 中 心となった。 信者は、 中庭の噴水で 手足を清め、 その中庭あ るいはモスクに 入って 、 祈りを捧げた。 入り日. (門). は複数あ って 、 庭から内部が 見え、 内部から庭が 見えた。 中に光が入り 明るかった。. 内部の美しさは「注と 迫り持ちの森」の 言葉に要約されている。 建設された当初は 現在の規模のお. よそ五分の一であ った。 十世紀末までに 四度ほど増築された。 元の敷地はユダヤ 人のシナゴーバで.

(2) 52. あ. 岩切. 正介. ったときれる。 つぎに西ゴート 族の教会が建てられた。. レコンキスタ. ( 国土回復運動 ). 込まれるのは 1523 年、 マンリ. が終わってしばらく、. その 夏 礎の上にメスキー タ が建てられた。. メスキー タ の内部にキリスト 教の聖堂がはめ. ケ 大司教の発案だったとされる。. 中庭は 、 初めからオレンジの. 中庭ではなかったようだ。 少なくとも十三世紀は. ヤシ が植えられて. いた。 十五世紀にオレンジに 変わり、 それから「オレンジの 樹の中庭」と 呼ばれるようになった。 十八世紀に、 オリーヴの 水 と糸杉が加えられて、 現在に至る。 とすれば、 かってのコルドバの. イス. ラム教徒は、 ヤシの木陰で 祈ることもあ ったと想像される。 コルドバは古くはローマ 時代の要塞の 0. 州都となる。. ローマの支配の. 町。 紀元前二世紀に 遡るとされる。 やがて、. 跡は、 神殿や市聖、. 橋や宮殿 跡. ( マクシミリアン. ヒスパニア 州. 帝 ) 、 河港. ( 丹青. などに残されている。 西ゴート族が 、 南 ガリアに建国するのは 418年、 スペインの大半まで 征 服するのは、 470年。 そして八世紀、 西ゴートはイスラム 教徒 ( ムーア人 ) に圧倒される。 イスラ. 場). ム の 将 タリ ク が西ゴートに. 引導を渡すのが 711 年のへレスの 戦い。 コルドバが 西 ウマイア朝の 首都. になるのは 756 年であ る。 日本では奈良・ 平城京の時代。 コルドバはイスラムの 下で空前の繁栄を 迎える。 八世紀の ァプダ. ・. ァル. ・. ぅ一. マン一世 (756-788) と十世紀の同名の 三世 (912-961) がと. りわけ有名であ る。 コルドバのメスキータ. ( モスク ). は 1984 年世界文化遺産に. 指定され、 アルカサル ( 王宮 ). と並ぶ. 文化遺跡となった。 西 ウマイア朝の 最盛期は十世 華 己であ. った。 日本では平安時代。. コルドバの人口はこの 時十万から. 二十万。 アンダルシアの 沃野は小麦を 育て、 葡萄、 オリーヴ、 オレンジを産した。 野菜や花は都市 で 消費され、. 果物や穀物は 輸出された。 牧野には 羊 、 牛 、 馬が草をはんでいた。 コルドバの町では、. 皮 製品、. クリスタル・グラス、 金属細工、 絹織物などの 生産が盛んに 行われた。 東西の貨 沢品 、 羊 皮 紙、 香水、 薬、 香辛料など物産の 集散地として 商業も栄えた。 街灯が灯され 生活が夜に延び、 歌 手、 踊り子、 楽師が活躍。 美味も追求され、 宮廷ではババダッドからやってきた 料理人の シ ヤプ リ. という人物が 腕を振るい、 コース料理を 創出し、 食卓の作法も. 定めた。 学芸も盛んで、. 年に七万冊. 写本が造られた。 紙は十世紀、 麻や亜麻を原料に 作られるようになっていた。 王は四 千万冊を納める 図書館を持っていた。 後に哲学者 イ プン・ラシド ( アヴェロエス 1126-1198)や哲 学者にして医者のマイモニデース (1135-1204)が出るのもこのような 文化の伝統を 承けてのこと。 から八万冊の. 日本の紫式部のような 女性の詩人も 誕生した。 十一世紀に、 地方の別、 さらにムーア 人. ( ベルベル. キリスト教徒、 ユダヤ人などの 別 、 これらの分裂の 要因が表面化。 内戦 (1010) も起きた。 こうして三十以上の 公国に分裂。 それらの小国を 軍人あ るいは土地貴族が 支配することになった。. 族) 、. このような形で 西 ゥ マ イア 朝が滅びたのは 1031年 。 その後、 イスラム支配は 統一、 再分裂を経てい. くなかで、 次第にキリスト 教徒による北からの 国土回復運動に 追い詰められていく。 1236年、 コル ドバ はカスティーリャ 王フヱ ルナンド姉世の 手に落ち、 交易と行政の 中心はセヴィリアに 移った。 2. メディナ・アサーラ. ( コルドバ郊覚 ). カリフの領土を 眺 且 する 庭. アフタ・ ァル ・ラーマン三世 (912-961) がコルドバ西方十キロに 造った離宮と 庭であ る。 発掘と復元作業は 二十世紀半 は から始まり、. 研究も進んで、. 往時の姿がかなり. 明らかになった。.

(3) スペイン・イスラム 庭園探訪. 『明解ガイド プ,ク一コルドバの昨日と. 今日』. 53. 助 nfacherReisefUhrer.Cordobagesternundheute. を開けば、 復元想像図によって 元の姿を彩色 図 でみることができる。 アブダ・アル・ラーマン 三世は優れた 武人であ ったが、 アルセン ゼガ の戦い (938) に敗れた後 は、 この離宮の造営に 没頭した。 着工は 936 年、 完成までに 25 年の歳月を要した。 アプ ダ ・アル・. ラーマン三世は、 オレンジの庭に 囲まれた広間で、 ヨーロッパや 東方からやってくる 君主や大臣、 学者や詩人、 芸術家、 音楽家や踊り 手を迎えた。 ビザンチン帝国の 使節 か 八丁薬物誌 コの 写本を 贈られたのもここ. 0. Ⅰ薬物誌 ユは ギリシャの医師ディオスコリデー. @@ Doscorides@. (c . 40-c , 90)@ @. 著した薬草と 植物の古典であ った。 広間造営の目的は 国際的な文化の 集まりであ った。 文化の モデ ルと 仰いだのはコンスタンチノープルであ ったといわれる。 賓客の歓迎、 様々な式典もここで 行わ. れた。 広間は離宮の 中核といえる 建物で離宮の 敷地のほぼ中心、 主 庭 に臨んで立つ。 奥の壁に ミ一 ラ フと 呼ばれたアーチ 型の壁 血 があ りカリフが座った。 左右に大理石の 柱が並び 赤 白の縞模様のア 一. チを 支えていた。 内部の装飾は 豪華を極めた。 金 、 銀、 ダイヤモンド、 宝石 類が 壁面や天井の 飾り. に惜しげもなく 使われたという。 壁面はあ のイスラムの 微細な植物紋様。 その繊細な線状の 模様が 光を受けて 埠 めく様にだれしも 感嘆、 驚きに誘われたという。 珍しくも広間の 中央に水銀を 満たし た水盤が置かれ、 その神秘な埋めきもまた 人々を驚かせた。 天井から大粒の 真珠がっ. り. 下げられて. いたともいわれる。 左右にひとつづ つ 小部屋が控えていた。 東には、 カリフや廷臣、 賓客が利用し. たとされる浴場があ る。 広間は南向きで、 夏期の太陽は 戸口に止まり、 冬季の太陽は 広間深く差し 込んだ。 広間の前に長 方形の深い池があ った。 池の反射光は 広間の内部にも 届いたであ ろう。 池の対岸に 苑亭 があ った。 広間と 苑 亭の構造は似通い、 二つの建物は、 大理石の柱とそれが 支える迫り持ちの 門を見せ合って 池 越しに相対していた。 苑 亭の左右と背後に 正方形の小池が 置かれており、 苑 亭は四方から 池で取 り. 囲まれる形になっていた。 おそらく、 苑 亭を水に浮かぶ 島 と想定しての 造りであ ったろうと解さ. れている。 この 苑 亭は眺望の場。 左右と背後にも 開口部をもっていたと 推定されている。 眺めたの はまずここから 広がる 庭 。 庭は四分され. ( 必ずしも四等分ではない ) 、. ァブダ. ・. ァル ・ラーマン 三. 世の愛したオレンジの 樹の他に、 珍果を実らせる 様々の果樹と 花々が植えられていた。 スミレも香っ ていたといわれる。 庭の植物はいまオレンジの 樹が目立つが 忠実には再現されていない。 庭の広さ は 163X144 メートル。 ほぼ同じ造りの 庭がもう一面西側に 設けられていた。 上部庭園に対して 下部. 庭園と呼ばれ、 段差はおよそ 十二メートルあ った。 擁壁の中央に 望楼があ ったとされる。 苑 亭から南方に 遠望されるのはシエラ・ モ レナ・イェーベル 山 。 中農には耕地と 牧野の広がりが. 眺められた。 メディナ・アサーうは、. ゴヒ. にモンテ・ デ. ・. ラ ・アマーダ山を 背負い、 南の平野に目って 三段の テ. ラスを繰り広げる。 テラスは崩落のためか 現状はいささか 不揃い。 上段には、 カリフや親族、 高官 の館、 政庁の中枢が 置かれていた。 軍の中枢もそこにあ った。 衛兵の詰所や 物見はやや下がった. と. ころ。 またやや下がって 太守の館。 これはカリフの 謁見を待つ高官の 控えの間だったと 解されてい る。. 上段では整った 館の庭もひとつ 確認されている。 カリフあ るいは親族が 使用した 館 だったとさ. れる。 この中庭は一種の 二分庭園であ る。. 中段にあ るのは、 離宮の枠、 いま述べた広間と 宛字であ る。 このテラスの 東端へ行くと. ( 正確に. はさらにやや ゴヒ ) 一段下の閲兵 場 が見下ろされる。 ひとが立つのは 崖のようなひときわ 高い壁の縁 であ る。 この 高 壁は高い迫持ち 門を十五連ねている。 かって中央に 台座があ ってカリフはそこから.

(4) 4 り. 岩切正介. 氏. 閲兵した。 この立派な門はコルドバからやって 来る者を迎える 離宮の正門であ った。. 下段にモスク。. この下段のモスクに 中段のテラスから 渡る架橋がかけられていたが、 今はない。. モスクは東南を 向いている。 聖地メッカのあ る方向であ る。 このモスクを 囲んで、 下級政庁、 住家、. 店舗、 工房、. 市場など城下町があ った。 西の方には兵舎。 動物園も鳥屋も 下段にあ ったといわれる。. カリフは様々の 機会に 、 北 アフリカの王族からライオン、 酪駝 、 ダチョウ 、 ガゼルなどを 贈られた。. この離宮の町に 住んだ者は一万二千人ほどといわれる。 離宮と庭の工事は. 大がかりで、 青大理石、 赤大理石、 自大理石が、 コルドバ、 カプラから、 また. 遠く、 タラ ゴナ 、 カルタゴ、 チュニス、 コンスタンチノープルから 運ばれた 0 柱も諸国から 運ばれ た。. 働く者の数一万人、 駄馬千五百頭、 格花四百頭が 使われたといわれる。 腕の立っ職人がコンス. タンチノープルやババダッドから 呼び寄せられた。 水道工事も大がかりで、 背後の山から 水道橋 や. 腱 道を築いて水が 導かれた。 言い伝えは、 ァプダ ァル ラ マン三世と 妃 アサー ぅ は、 昼夜、 桃源郷にいるごとくうっとり ・. と 池畔の苑 亭で 過ごし、. ・. シヱ ラサ ーダの 物語る魅惑的な 物語に耳を傾け、 この楽園の植物と 小鳥と. 話を交わした、 という。 アフタ・アル・ラーマン 三世がこの離宮を 築いたのは寵愛する 王妃 ア サ 一 うのためだったとも。 二人の楽園の 南方に遠望されるのは、 シエラ・ モ レナ・ イヱ一 ベル 山 。 アプ ダ. ・アル・ラーマン 三世はアサーうのために、 その遠望される 山肌をアーモンドの 花で飾ったとか。. 庭はまた動物の 園。 孔雀やガゼルが 自由に歩行していた。 キジもいた。 ライオンは銀の 程に 、 と伝. わる。 このような言い 伝えはほとんどが 潤色らしい。 第一、 王妃 ア サ一ぅ は 存在も確認されない 架空の. 人らしい。 離宮造営の目的は 王妃と二人で 閉じこもる楽園を 築くことではなかった。 目指したのは 田舎の風景の 中の宮殿都市。 アフタ,アル・ラーマン 三世は宮廷と 政治をここへ 移した。 ル イ 十四 世が ヴェルサイユ 宮殿に宮廷と 政治を移したことと 似ている。 そしてここは 外へ向かっての 眺望を. 意図した離宮と 庭であ った。 眺められたのは、 城下町、 果樹や野菜が 育つ沃野、 小麦の畑と牧野、 そして遠方の 山々。 自然と耕地、 カリフの支配する 領地なのであ った。 アフタ・アル・ラーマン 三 世は 、 東のアッバース 朝 (750-1257) の幾つかの都市に 出現した宮殿と 庭を凌駕する 意気込みでこ の 離宮と庭を築いたのだといわれる。 この宮殿と庭はまた 下から見上げられることも 意識されてい た. メディナ・アサー ぅ はひとつに歴史に 現れたイスラムの 庭が必ずしも 閉ざされた 庭 ばかりでなかっ. たことを物語るといえようか。 もうひとつ、 イスラムの 庭 すべてが水路で 四等分された 四分庭園で ないことも教えてくれる。. 言い伝えは、 人. またこの離宮が 神の嫉妬と怒りにより 破壊された、 という。 実際は 1010 年、 ムーア. ( ベルベル 族 ). が引き起こした 内乱によって 破壊された。 言い伝えは離宮がいかに 費沢 であ った. かを物語るのであ ろう。 半世紀の夢の 跡であ る。 アプ ダ ・アル・ラーマン 三世亡き後、 ここの主と なったのは、 息子のアル・ ハキム 、 それから幼主ヒシャム 二世を幽閉した 摂政アル・マンスール な どであ る。. 離宮と庭は、 約 1.1ヘクタールで、 周りは壁で囲われていた。 下段も含めたこの 離宮都市の広さ は 1,518X745メートルといわれる。 全体でみれば 発掘はまだ 10% ほど進んだ段階だという。 ところでコルドバ 市内の王宮はどこにあ ったのだろうか。 西 ウマイヤ王朝のカリフ 達が住んだ 王.

(5) スペイン・イスラム. 宮は メスキー. タ. 55. 庭園探訪. の西側にあ った。 それは新築したものではなく、 西ゴート王国の 王達の残した 王宮. を利用したものであ った。 幾つかの建物からなる 複合的な王宮で、 全体は囲 壁 に取り囲まれていた。 グァ. ダル キ ヴィル河に臨んで 広い散策略があ り、 隣のメスキー. タ. との間には架橋が 設けられていた。. 王宮はそれぞれ 中庭を囲んでいた。 複合的な王宮の 南西には広い 庭があ って果樹とオリーヴと 豊か は 水で有名であ った。 王宮はコルドバ 市内で 1/6 の面積を占めていた。 市内は狭く騒音に 満ちてい. た。 カリフをはじめ 貴族達の好みは 郊覚の別荘生活にあ った。 楽しみはそこでの 文学と芸術。 そこ では野や森を 通り、 川に沿って散策をすることができた。 ディナ・アサー. ぅ が造宮される. 別荘の多くはコルドバの 北郊にあ り、. メ. 頃 にはその数は 三十を越えていたといわれる。 カリフも市の 東と 西. の 郊覚に別荘を 構えた。 コルドバの商人達も 商業から得られた 利益で農園を 購入し、 経営に勤しむ. かたわら別荘生活を 楽しんだ。 歴史を遡れば、 コルドバ一帯でローマ 時代の別荘 vlllaが 16 発掘さ れている。 田舎や自然への 憧れの歴史が 見て取れる。 コルドバ市内にあ ったこの複合的な 王宮と庭は今ともになく、 詳細もよく分かっていない。 ホテ ル ・マイモニデースが 建つのはかって 王宮の敷地の 一部だったところであ る。. 別荘嗜好で際立つのはアブダ・アル・ラーマン アルサファ. ). 一世であ った。 コルドバ北西姉キロの 地. ( 現在の. に新王宮を築いた。 これはムスリムのカリフが 新築した初めての 王宮であ った。 この. ムシャト ・アル・ルサーファ 宮はⅡ lべりにあ り、 その庭は広く、 植物の珍種と 美樹で称えられた。 庭の モデルになったのはシリアの 同名のルサーファ 宮 ル・ラーマン 一世が造ったルサーファ 宮の庭は四部構成. ない。 およその四つ 割り. ). ( 八世紀 ). の 庭 だったとされる。 アブダ・ア. ( 必ずしも四等分のいわゆる. 四分庭園では. の 庭で、 この後スペインのカリフ 等支配属 が 造る庭のモデルとなったの. ではないかと 重視する研究家もいる。 通説はイスラムの 庭の原型を ぺ ルシャの庭に 想定する。 七世. 紀 ササン 朝 ペルシャを倒したイスラム 教徒は ぺ ルシャの整形庭園にコーランの 語る天国の写しを 見 た 、 イスラムの庭はこの 出会いを出発点、 とする、 という。 これに対して、 この新説はイスラム 庭園. の源をアラブ 地域に求める。 アブダ・アル・ラーマン 一世をはじめスペインのアンダルシア. 地方を支配したカリフや 支配層の. 多くはシリア 出身であ った。 およそ八世紀から 十世紀の間コルドバ 近郊に造られた 別荘の庭の多く は 、 アブダ・アル・ラーマン 一世の新王宮の 庭を模範として 造られていったのであ ろうことは十分. 考えられる。 アブダ・アル・ラーマン 一世は新王宮を 愛し、 造営後はここに 住んだ。 この王宮もの ち 1010 年の内乱で灰焼に 帰す。 後のアブダ・アル・ラーマン 三世もコルドバ 近郊に王宮と 庭を造っ ている。. 3. アルハンプラ 宮殿 とへネ ラリーフェ 硅宮 様々な解釈を 許す拝辞典雅の 庭 コルドバの鉄道駅の 構にあ るバス・ターミナルから 長距離バスでバラナダのバス・ターミナル. 向かう。 途中の景色はいわゆるアンダルシアの. 沃野。 小麦、 オリーヴに牧草などが 広がる。 その風. 景がやがて町並みに 変わり、 バスはバラナダのバス・ターミナルに ら. ヘ. 着く。 町はずれなので、 そこか. タクシ一でホテル ヘ 行く。 ホテル・ナヴァ ス は市庁舎の広場の 奥で、 グラナダの中心地にあ るけ. れども、 静かでよい。 三月十八日. ( 日 ) 。 ホテルのレストランで 昼食。 アルハンプラ へ 向かう。 ヌ. エ バ広場からアルバ イ シン・バス. (130 ペセタ. ). を利用。 三時ころの入場券では、 アルハンブラ 宮. 殿への入場時間は、 17:30-18:00 と指定されている。 かなりの時間があ る。 まず突端にあ る砦の方を.

(6) 56. 岩切. 正介. 見る。 塔にも上がってみる。 すばらしい展望所であ る。 高い台地の上になお. 高く. 斉 える 塔 だから。. ここが要衝の 地であ ることがよく 分かる。 要塞が築かれたのは 九世紀から十三世紀。 ついでこの. 要塞の丘の奥手に. ァ. ルハンプラ宮殿が 造営されることになる。 アルハンプラ 宮殿はスペインの 地に. 残った最後のイスラムの 小国グラナダ. ( ナスル 朝 1238-1492). の王建が順次築いた。. 17時 30 分。 王宮の人口に 集まった多くの 人達と一緒に 入る。 メスアールの 間 一 黄金の間の中庭 一 テンニン カ の中庭 問. ( コマレスの間 ) 一. ( アラヤ ヌ. ライオンの中庭一二姉妹の 間一正たちの 間を見て王宮の 外へ。 パルタル庭園. で旧宮殿跡や 庭を見て、 要塞 壁 沿いの道を橋へ。 そこから仝度はへ アルハンプラの 庭ではハイライトは 二 つ であ. ろう 0. は 微細、. (. ネ. ラリーフ. アラヤネス の中庭. ンの中庭であ る 0 いずれも静かで 端正 0 釣り合いの美があ. 玉座の間. スの中庭 ) 一 小舟の間一玉座の. る0. く. ヱ 離宮へ向かった。. 天人花の中庭. ). 繊細さと軽さも 感じられる. と. ライオ. 0. また、. コマレスの間 ) や二 姉妹の間など 広間のあ まりに絶妙な 造りと装飾に 驚く。 装飾の単位. その組み合わせは. 一見錯綜しているが、 たぶん連続や 繰り返しには 規則があ る。 ただその. 規則が巧妙すぎて 分からない。 色彩も豊か。 色彩の単位も 微細で、 その組み合わせや 連続はやはり 巧 傲を極める。 見受けられる. 模様は、 幾何学模様と 植物模様とアラビア 文字の三種類。 何というも. のを造りだしたのだろうか。 ヘネ ラリーフ. ヱ 離宮では、. 順路に従い、 まず、 二十世紀になってから 造られた野外音楽堂や 新 庭. 園を見ることになる。 新庭園は細長くイスラム 風に造ってあ り異国風で珍しい。 迷路ではないが、 歩いている人の 姿は隠れ、 思わぬ処に現れる。 水路の様な池 と 放物線の噴水があ り、 水路のような 池は十字形をなし、 交点に大きな 平皿のような 水盤が置かれている。 離宮への門をくぐって 石段を昇り離宮の 中庭へ出る。 「水路の中庭」と 呼ばれる。 ここでも 放物 線の噴水が向かいあ って水を水路に 落とし続ける。 水路の左右には 植物の緑と花の にあ る。 外の景色は、 歩廊 中庭」とよばれる 中庭があ. ( 西側 ). 色。 離宮は北辺. と展望塔から 見る。 水路の中庭に 並ぶようにもう 一つ「糸杉の. る。 そこから一段上に 上部庭園。 さらに階段を 昇ると、 最高点へでる。. 肝心なのは階段か。 手摺 りが水路となっている。 翌日. 3 月. 19 日に再訪。 見物後、 アルハンブラ 故地内にあ るアメリカ・ホテルで 昼食を取った。 値. 段は高めであ ったが、 とても美味しかった。. 以下、 参考文献で確認、 したことを加えてやや 詳しく記す。 アルハンプラ 宮殿やへ ( ナスル. ネ. ラリーフ ヱ 離宮はスペインの 地に残った最後のイスラムの 小国グラナダ. 朝 1238-1492) の三連 が 築いたものだが、 それは初代のアル・アフマール. から ュ スフ一世. ( 在位 1333-1354). ( 在位 1232-1273). までの間であ る。 日本ではほぼ 鎌倉時代から 次の室町時代の 初. めにあ たる。 長い間顧みられなかった ァ ルハンプラの 復元作業は 1870 年から始められ、 今日見られ. るような姿に 回復された。 ヘェ ラリーフュ離宮の 回復は二十世紀に 入ってからであ る。 見るべき庭園はアルハンプラ 宮殿では、 「テンニン テンニン. カ. カ. の中庭」と「ライオンの 中庭」であ ろう。. の中庭は ュ スフ一世 (1333-1354湖 造らせた。 コマレス宮の 中心を占める。 南北に長く 、. 36.6メートルと 23.5メートルの長方形。 中庭の中央に 細長い池があ り、 二つの炉辺にはアーチの. あ. 6 歩廊があ って向かい合っている。 アーチの数はそれぞれ 七つ。 中央のアーチがひとつ 大きい。. そ. こから奥の玉座の 間. ( コマレスの間 ). 軽やかでレースのカーテンのようにも. が望まれる。 アーチが支える 微細な石 宙 細工を施された 壁は 、 見える。 南北の池 縁 には水盤と細い 水路が設けられ、 これも. 向かい合う。 水が静かにここから 湧きだし池に 入る。 左右. ( 東西 ). の 長辺 に沿ってテンニン. カ. の生.

(7) スペイン・イスラム. 庭園探訪. 57. け垣 。 生け垣はおよそ 腰の高さに刈 り込まれてやはり 向かい合う。 中庭全体は抽対照の 造りであ る。 他 周りは大理石が 敷き詰められている。 丘辺に沿って 二階の高さの 部屋が壁のように 立っている。. 二つ並んでいる。 内部は四人の 足の部屋。 部屋の造りは 四つとも同じ。 南側はい まカール 五 世の宮殿 (1526 年頃 着工。 完成は二十世紀 ) が塞ぐように 建っているが、 もとは南側に. 部屋の窓は小さく も 広間があ. り王子達と教育係りに 当てられていたといわれる。. この南側からの 眺めがおそらく 最高で、 多くの写真もここから 撮られている。 視線は池と中庭を. 越え、 アーチを貫き、 玉座の間に至る。 他面には微細な 装飾を施された 柱廊と玉座の 間が映ってい る。 池に逆さに映る 建物も含めた 端正な 軸 対照の、 しかも垂直線を 倍化した眺め。 これを見ること になる。 垂直線は王の 権 威も物語るもの。 そして中庭の 上に空が広がる。 ここは直線と. 円、. 半円弧. で造られた世界であ る。 テンニン カ の中庭の造形が 見せる優美な 品格は格別であ る。 玉座の間にはスルタンの 威光を示す仕掛けがあ. る。 玉座の間の突き 当たりには小さな 三つのアー. チがあ る。 それは外へ張り 出したバルコニ 一の入り口で、 バルコニ一の 窓には細かな 色彩ガラスが はめ込まれている。 使節や臣下を 迎えるスルタンは、 中央のバルコニ 一に陣取り背に 色彩ガラスの 透視光を背負って 座った。 これが演出されたスルタンの 姿であ ったといわれる。 玉座の間はイスラムの 装飾芸術の極を 示す。 ひとつはスルタンの 威光を示すためだが、 それだけ ではないようだ。 ここはまたアラーを 称える空間でもあ った。 アラビア文字の 装飾はたとえば「ア ラ一の神にのみ、 偉大と名声、 永遠と帝国、 そして 力 は属する」と 繰り返す。 天井の中心部を 見上 げれば絶妙な 装飾があ る。 彩色された極小の 木板を釘で止めて 作りあ げたといわれるが、 これはま た 宗教的な意味を. 含んだ紋様だという。 イスラム教では 信者の魂は七つの 天を通り、 アラ一の君臨. する第八 天 に達する、 とされる。 天井の図柄はこの 八つの天を示す。 あ たかも中天に 一際明るく 輝 く. 大星のように 見えるのがアラ 一のいる第八 天 0. 翻って ア ラ サネス の中庭には宗教性があ ったのであ ろうか。 あ る研究家によれば、 イスラムの 庭 は 当初から天国の. 写しと意味づけられていたのではない。. 料でたどる限り、 十世紀を終わる 頃 までコーランのい. イスラムの庭について 語られた言葉を 資. う 天国に関係づけて. 語られた言葉は 見当たら. ない。 西 ウマイヤ朝の 支配した 南 スペインでは、 潅概 をはじめとする 様々な農業技術と 巧みな農地 制度によって 農業が著しく 進展、 十世紀に頂点を 迎えた。 南 スペインの風景は 到的に豊かな 沃野に 作り変えられた。 人々は農業こそ 豊かさの源泉と 理解していた。 アンダルシアの 野は「 緑 豊かな、 肥沃な、 生産力に富む 、 美しい」と詩人に 謂 われた。 西 ウマイヤ朝の 庭はこのような 農業の風景を 純粋・簡素化して 表したものであ ったと解される。 作り出した風景のミクロコスモスであ. る。 たと. えば、 庭の噴水は 、 泉や湧き水、 庭の花壇は果樹園や 耕作 地 、 庭の水路は濯湖水路や 井戸、 池は貯 氷池 そ それぞれ 表 わしたもの。 耕作のきつい 労働の空間は 庭の瞑想と愉楽の 空間に変わる。 ただ、 この時期、 あ まりに 費沢 な庭は非難された。 また、 「庭の美しさは 天国の美しさを 思わせる」と 称. えて 庭 と天国を関係づける 言葉が初めて 現れるのは十一世紀。 十セ 世紀にムガール 帝国で造られたタージ・マハル 寺院の庭は死後迎えられる 天国と明記されて. いる。 この庭は周知のように 王が王妃の霊廟に 付属するものとして 造った庭であ る。 イスラムの 庭 の 意味合いが歴史的に. 変わったことが 読みとれる。 耕地の風景を 象った庭から 天国の写しと し ての. 庭へ 。 いつどうしてこのような 変化が起こったのか。 それは十四世紀、 墓所や霊廟の 庭が多く造ら. 合いが宮殿の れるよ. う. になり、 ここで庭が死後行くべき 天国を表すと 解されるよ 庭にも適用されるようになったからだとい. ,. つ. う. になり、 次にこの新しい 意味.

(8) 58. 岩切 正介. このような説は、 当初からイスラムの 庭を天国の象徴と 見る通説からすれば 異説といえるであ ろ うが、 十分資料にあ たっていることをき えねば 、 無視できない。 そしてこの説を 知ってみれば、 ア. でなく、 たんに四方対称の 整形庭園とし て構成されているのかも 納得しやすい。 そしてまた、 この庭の植物はいま 生け垣のテンニン カ の他、 ラヤネス の中庭がなぜ 四分庭園 ( コーラン語る 天国の姿 ). 二 ,三の植物があるにすぎないが、 以前は植物の 種類も多く、 色彩と香りも 豊かであ ったことも、 また、 いまは小窓だけ 見せる左右の 壁にはかっては 植物や花の中で 踊る乙女達の 姿が描かれていた. ことも説明がつきやすい。 恵まれた自然と 耕作出の風景一一豊かな 植物と花々、 そして緑陰 と 水、 その中で踊る 乙女達。 これはアラ一の 恵みでもあ る地上の楽園を 表すものではなかったか。 テンニン カ の中庭はすると、 類い 希な 造形的な美しさと 合わせて身の 豊かさを象徴的に 表した 庭 ということになるのだろうか。 アラ ヤネス の中庭にはいまださほど 宗教性は忍、 び 込んでいなかった と 受け止めてよいのであ. ろう。. この中庭は建物の 中に風を送る. 役割も果たしていた。 庭 自体また涼の 空間だった。. コマレス宮では、 テンニン カ の中庭の手前、 「黄金の中庭」までが 公式の場で、 普通はスルタン の裁きも使者への 回答もここで 告げられ、 それらは黄金の 間に陣取る書記官によって 記録・保存さ れた。 謁見もここで 済まされた。 この時スルタンはどこに 座ったのか. 0. 黄金の中庭に 望む三段の階. 段の上に玉座が 据えられたのだという。 大臣の会議はふつう「メスアールの. 間」で行われた。 メス. アールの間はまたスルタンの 裁きを聞く者、 謁見を待つ者などの 控え室として 使われた。 テンニン カ の中庭や玉座の 間はスルタンの 私的空間であ った。 玉座の間は 、 王の寝室と工専用の ォし. 拝の間に通じていた. 0. トイレもあ ったし浴室にも 通じていた. 0. なかでも浴室はもっとも 私的な空. 間0 ただ、 コマレス 宮 へやってきた 使者たちは玉座の 間に招き入れられることもあ ったし、 なお親密 な 会談が必要とされれ ば 、 浴場が使われたと 言 う 。 ァ ルハンプラ宮殿では 私的空間が親密な 会談の 場も兼ねた。 政治と外交がそこまで 入り込んだらしい。 アルハンプラ 宮殿の庭でも. う. ひとっ見るべきものが、 「ライオンの 中庭」であ. る0. これも長方形. で、 32 メートルと 17 メートル。 これは東西に 延びるので、 テンニン カ の中庭とは 鉤型 をなすような 位置関係になっている。 造ったのは息子の. ム アマド姉世. (1354-1359および 1362-1391) で 1377 年の. こと。 より私的な空間を 願ってのこととされる。 ここは建物も 含め「獅子の 宮」と呼ばれる。 ここ で日本の足利義満の「花の 御所」. (. 室町殿ともいう。 1378年 ) や金閣寺 (1397年 ) を用、ってみるの. もいい。 中庭の造りは ( 正確にい う. 等分の四つ割り。 いわゆる四分庭園であ る。 中央に噴水。 そこから出る 細い水路. とこれは 苑 路で中央に細 い 水路が設けてあ. 庭へ 突きだした不死 亭 があ. る。. この. る). が中庭を四分。 東西両側からそれぞれ. 小苑亭は柱 と天井だけの 吹き抜け。 壁がないので 視線も風も抜. ける。 中央の水盤は 十二頭のライオンに 支えられている。 ライオンは腰に 水盤の縁を載せ、 顔をまっ. 向けている。 口から静かに 一條の水を落とす。 表情や姿勢は、 おとなしい。 この庭の 水の流れはやや 複雑であ る。 ライオンの口を 出て周囲の十二月の 水路に落ちる 水の流れは遠心的。 すぐこちらに. 他方、 小宛字. と 広間の床の水盤に. 発して直線の 水路を中央に 向かう水の流れは 求心的。 この水は中. 火水盤を取り 囲む十二月の 水路に至ってライオンの 口から落ちてくる 水と合流して 先のテンニン. カ. 地下に消える。. の中庭の水の 動きが求心的であ ったのとはやや 対照的な動きになっている。.

(9) スペイン・イスラム. この中庭の中央には 噴水があ り庭は水路によって. 59. 庭園探訪. 四つに等分されているから、 その造りは、 明白. にイスラムの 天国を象ったものと 解されている。 そしてまた多くの 論者がこの庭はオアシスを 象っ たものと語る。 124本の細い大理石の 柱がこの中庭を 取り囲む。 柱が支えるのは 石碑細工を施され たアーチ. と 壁面。 五帝細工は微細で. ヤシ の 幹 、 アーチ. と 壁面を. 多様な曲線を 見せる。 柱は無装飾。 これを一望して、 細 い 柱を. ヤシ の広げる 葉 、 と想像するのも 自然のなりゆきなのであ ろうか。 中庭. の眺め全体はいかにもオアシスに 比せられやすい。 イスラムの中庭はオアシスへの 憧れを秘めてい る、. とするのもほぼ 揺るぎない定説であ る。 ただ、 これらの解釈は 正しいのか、 最終的にはやはり. 判然としない。 決定的な結論はまだ 宙に浮いている。 いま四つ割りにされた 庭面には、 白茶色の小石が 敷かれ、 四隅に一株の 丸く仕立てたオレンジが 植えてあ るだけなので、 日本の枯山水の 庭の面影がなくもない。 しかし、 当初は地面は. 7 5. センチ. ほど掘り下げられ、 そこは色彩と 香りにあ ふれた花壇であ った。 ただ花に許された 高さは地面まで。 スルタンの権 威を表すライオンを 越えてはならなかった。 ライオンはスルタンの 権 威を表すもので あ. ったから、 その姿はどこからでも 見えなくてはならなかった、. とあ. る研究者は解説する。 ライオ. ンの見方は他にもあ って、 まず、 十二頭のライオンはまずライオンそのもの、. また天空の獣帯の 十. 二宮、 十二月を表すとする。 十二宮も十二月も 永遠に存在するものと 考えられていた。 中庭の左右の 長辺の背後には、 それぞれ広間があ る。. ゴヒ. 側にあ るのが「 二 姉妹の間」、 南にあ. る. のが「アベンセラ ヘス の 間 」。 それぞれ二階に 寵姫達の部屋があ った。 その子供たちも 一緒に住ん だと言われる。 二 姉妹の間も. ア. ベンセラ ヘス の間も私的な 空間だったらしい。 二 姉妹の間では、. ム. アマド姉世の 王子の割礼が 行われたことがわかっている。 二 姉妹とはうら 若き乙女のことではない。 床に使われている 特に長い二枚の. 大理石のこと。 入り口から広間中央の 水盤まで延びて、 左右から. 水盤を抱いている。 中庭の東端にあ るのは「 王 たちの間」。 ここは正一族あ るいは廷臣達も 加えた 娯楽と慰安の 場。 宴も開かれた。 狩りの場を描いた 天井画も残されているから、 狩りの話に身を 乗 り. 出したであ ろうことも想像される. 0. ただ、 この天井画は、 かならずしもイスラム 流ではない. リスト教国の 騎士達も登場し、 イスラムの騎士たちと 馬上槍試合をし、 狩りとチェスをする. と女性、. そして 庭 という西欧のモチーフも. 0. 0. キ. 城塞. 描かれている。 制作したのは、 キリスト教国の 画家であ. ろうと推測されている。 この時期、 両 陣 宮は友好的で 文化の交流も 妨げられなかったという 背景が あ. る。 王 たちの間」は 東端全域を占め、 三部屋続きで 30 メートルと細長く 広い。 冬季の催しは 暖 「. かい ア ベンセラ ヘス の間に移され 行われたとの 説もあ る。 ム. アマド姉世の 時代はキリスト 教国側との戦闘も 少なく比較的長い 平和の時代であ った。 文化が. 最高点に達したと 言われる。. ム. とつはライオンの 噴水の水盤の. てスルタンの 栄華を願 リ. ブ. アマド姉世の 大臣で詩人であ ったイブン・サムラ. る。 ひ. 縁に刻まれている。 詩は神の奇跡のような 庭の美しさを 称え、. う 気持ちを語る。. 加え. 「庭の美しさは 神の奇跡。 水 と大理石はひとっとなる。. は獅子たちを 畏怖させ、 怒りを鎮撫する。. 和と長寿が恵まれん. ク の詩があ. ヵ. リ. ブ. ;. は高貴な一族の 直系にしてその 嫡子。 神の平. 事を。 ここでは宴がうち 続き、 敵の憂慮をいや 増さんことを」と 要約できよう。. このライオンの 中庭に臨む広間や 苑亭の天井は 格別に美しい。 鍾乳洞に似た 様が繊細華麗な 図案 になっている。 十九世紀の研究家 オ 一ェ ン. 柱や三角柱を. ・. ジ,一ンズ は 二 姉妹の間の天井のドームに 五千個の角. 数え、 その微細な組み 立てを図解して 残している。 無数の短い角柱や 三角柱が凹面あ. るいは凸面を 連ねて丸天井. ( 正確に言うと. 八角形のドーム. ). を造っている 鍾乳石 紋は 、 これも工芸.

(10) 60. 岩切. の 絶妙。 色彩は鍾乳石に. 正介. 似せた黄色から 金色。 茶や緑の細かい 模様も散見される。 ドームの底辺を. 取り巻いて小窓が 開けられ外光が 取り入れられ 美しさをさらに ン. ・サムラ. ク. 飾の中に織り. 夢幻的にする。 二 姉妹の間にも. イブ. の詩が残されている。 その詩は腰 壁 をなす彩色タイルの 壁の上部の漆喰細工の 帯状装. 込まれている。 膜壁も帯状の 装飾も広間の 四壁をめぐる。. 子の割礼がここで 行われた時に. う たわれ、. この詩は ム アマド 三 世の 王. 24 の 詩 旬からなる。 中庭と広間を 交互に 誼ぅ 。 この詩は. 華麗。 夜空の昴はその 護符、 微風は庭の守り 手。 広間の丸天井は 比類ない美しさ。 月 さえ立ち寄っておしゃべりをする。 星は軌道を離れ、 ここに留まり 我が君に仕えたいと 願う。 二 姉妹 ( 大きな大理石 ) も手を伸べる。 アラ一の神に 仕えるスルタンの 名声は揺るぎない。 柱廊は美 「庭は高貴にして. しさを 蒼冑と 争う。 並ぶ柱はすべての 人に称えられる。 大理石は輝く 真珠、 その光は隅の 葉陰にも 届く。 ここ以上に花と 香りに満たされた 庭は見たことがない。 朝、 葉群はギリシ ヤ の銀貨、 昼それ は 太陽の金貨」と. 要約できよう。 詩人が 誼う 見事な空間であ る。. この詩はひとつに 広間と中庭が 連続する一体のものだったことを 教えてくれる。 そしてまたここ が 早朝も、 またとりわけ 夜、 五感で享受される 庭であ ったことも教えてくれる 0 当時水盤の縁には. 金が貼られていたから、 きららな豪華. さ. この上なかったであ ろう。. このような庭は 一挙に生まれるものではないであ ろう。 ムルシア. ( コルドバの 東 、. 海岸近くの町 ). に十二世紀のモンテ アグド 宮があ. る。 中庭の平面図はよく 似ている。 また、 獅子の中庭はべネディ. クト会の修道院. ). く. リャ 王 ペドロ一世. 六世紀に始まる く. の中庭との類似もよく 指摘される 0. 残忍 王 ) (1350-1369). に 方 および支援者として. ム. アマド五牲. は カスティー. 遇され一緒に 住んだこともあ り、. 1362 年には復位を 助けられた。 キリスト教 国と イスラム教国の 間の文化交流も 盛んであ った。 順路を外へ出ると「パルタルの 庭園」と呼ばれる 一画へ出る。 パルタルとは 柱廊の意味。 ここに は 緩い斜面にテラス. 式の庭が整えられているが、 これは二十世紀のもの。 1924 年に、 アルハンプラ. を復元した二人の 建築家 M. センドー ヤと L.T. バルバスの設計で 完成。 ュ スフ姉世 (1408-1417)の 宮 殿の土台や中庭の 池などを利用して. 造られた。 伝統的なイスラムの 中庭を太陽と 青空の下、 戸外の. 庭に仕立て直す。 このような十九世紀のスペインの 庭の系列にあ るようだ。 小さめの矩形の 池が 階 段や水路で繋がり、 中心部には 軸 線が通っている。 テンニン カやツゲ 、 糸杉の生け垣が 小庭を仕切 り、 そこここでポプラや 糸杉が空にそびえる。 噴水は小さく、 水路の水は細く、 水音は物静か。. こ. の庭の一画、 要塞 壁 よりに、 ムアマド姉世 (1302-1309) の造営した宮殿と 中庭の跡が残されている。 訪れるのは最後になるがいま 残る姉つの宮殿のうちでは 最も古い宮殿であ る。 宮殿はかろうじて 屋 根 、 壁、 柱を残し、 建物の姿を保っている。 中庭の跡は、. あ の長方形の池で. 偲ばれる。. ヘネ ラリーフェ離宮で 見るべき庭はひとっ。 「水路の中庭」であ る。 四つ割りの長方形の 中庭だ. が、 中央を縦方向に 延びる池が水路のように 細いのが特徴。 その左右に大理石の 歩道、 その外側に 花壇。 池の中央に小さな 水盤。 池は中心で横方向の 軸と交差。 横軸は池でなく 歩道。 この中庭でも やはりアーチのあ る柱廊が南端北端にあ って向かい合う。 細い水路のような 池の面には、 左右の歩 道 に並ぶ噴水の 口から細い線状の 放物線が注ぐ。 この中庭はキリスト 教徒の手に渡ってから 随分と 手を加えられ. 変更されたが、 1958年の火災の後、 かなり忠実に 復元されたという。 それでもまだ 加. えられた変更は 完全に払拭されていない。. たとえば今、 花垣は歩道と 同じ高さにあ るが、 もとは堀り下げられ 一段と低い花垣になっていた。.

(11) スペイン・イスラム. 庭園探訪. 6Ⅰ. 植えられていたのは、 オレンジ や花 だったといわれる。 それから放物線の 噴水の列ももとはなかっ たもの。 放物線の噴水の 列はイスラム 庭園の特徴のように 思われがちだが、 それは違うという。. こ. れは十九世紀の 西欧のロマン 主義が付け加えたもの。 ただ、 発掘調査 (1958) によって最近、 歩道 に埋め込まれたイスラム 時代の水道管が 12確認されたという。 すると、 どういう図になるのであ. ろ. うか。. Ⅰ明解ガイドブ ,ク一グラナダの昨日と 今日』 Emnfacher Reisef廿hrer. Granada ges ern und heute に示されている 復元想像図では、 歩道に噴水はなく、 そこには人物が 描かれている。 歩く人 も. 物がひとり、 仔む 者が三人、 歩道に腰かけて 水路の水に足を 浸す者ひとり。 復元想像図では、 左右 は 壁のような二階の. 建物になっている。 一方の壁. 窓がならんでいる。 もう一方. ( 西側 ). ( 東側 ). の二階の部分に 中庭を覗くような 小さな. の壁にはそのような 窓はなく、 一階部分にアーチが 切られて. いる。 ここは外に突き 出た眺望所であ った。 当時その眺望所には 中庭から入る 他 なかったが、 現在 は全長が歩廊に 造り替えられており、 順路になっているので 訪れた者は歩きながら 外の風景を眺望 できる。 本来の内向していたイスラムの 中庭は、 この改造によって 外向性を加えられた。 また、 キ リスト教両姉による 征服後の 1494 年に北の園亭の 上にさらに上階が 載せられている。 「水路の中庭」がいつ 造られたかははっきりしない。 少なくとも. ム. アマド姉世 (1302-1309) あ. るいはイスマル 一世 (1314-1325) の時代には、 上述の復元凶のような 中庭と北と南の 両国事があ. たのは確からしい。 ヘネ. ゴヒ. の 園亭は. っ. スルタンが使節や 客を迎えるためにも 使われた。. ラリーフェ離宮では、 ここより一段 止め テラスに庭があ りそこからさらに 離宮最高点を. 目 f旨. して登っていく 階段がイスラムの 庭の仕掛けを 偲ばせる。 三つの踊り場にはいまでも 水盤が残って いるが、 元は階段に水が 流れ段々滝になっていた。 今も手摺 りを流れる水に「水の 音楽」を感ずる というひともいる。 なお、 いま最高点にあ るのは眺望所であ るが、 これは 1836 年にもとの四壁の 上 に 造られたもの 0 もともとここにはイスラムの 礼拝所があ ったといわれる。. 一段 止め テラスの庭は 十九世紀のロマン 主義の趣向で 造られたもので、 イタリア風 0 といって 、 特に見所があ るのでもない。 以前の庭の詳細は 不明であ る。 また、 「糸杉の中庭」は 十六世紀と十 九世紀に大きな 変更を施され、 いま勢いよく 大きな放物線の 噴水が饗宴を 繰り広げ、 勢い余って ぶきが空気を. し. 濡らしている。 十六世紀の初め (1526)に訪れたヴェネツィア 使節の記述に 依れば、. これがすでに 当時の姿であ った。 イタリア・ルネサンスの 庭の趣 好 であ る。 イスラムの庭の 細やか さと. 静 説を知った者には 異 世界のものと 感じられるであ. 元来は浴場があ ったところとされる。. ろう 0. スペインで営まれたイスラムの 庭の歴史の中でアルハンプラ. ような位置を 占めるのか。 それは風景を 眺望する王宮 と庭 、 の 終点に位置する、 とあ. る研究家はいう。 参考文献. 1 2. あ. と. へ ン ラリーフェの 王宮と庭はどの. るいは「見る・ 見られる」王宮 と庭. を著した女性研究家ラグレスの 見解であ る。. 始点にあ ったとされるのは 十世紀に アプダ ・アル・ラーマン 三世が造ったコルドバ 近郊のメディナ・ アサーうであ る。. アルハンプラでは、 二 姉妹の間の奥に「リンダラ ヤ の望楼」 MlradordeLmndaraya ていた。 ここから「リンダラ ヤ の中庭」. ( 現在は改修されたもの ). の向こうに. ダ. が設けられ. ロ川を越えアルバ. イシンの丘に 向かって広がっていく 風景が眺望された。 都市と王国の 眺めであ る。 リンダラ. ヤ の望. 楼 の 入 り口や窓の枠に 彫り込まれた 詩. 庭 と都. ( イプン・サムラク. 作). は、. 「そこから. ( カリフは ). 市と王国を眺める」とうたった。 十六世紀にカール V 世の結婚旅行にあ れせて付け加えた「王の 御.

(12) 62. 岩切 正介. 問 」によって現在はここからの 眺望は望めない。 いまその眺望が 得られるのは、 「王の御間」に 続 く柱廊からになる。 また、 「コマレスの 閉 」の上階にあ たる「コマレスの 塔. TorredeComares. 」. に 陣取る者も王国を 一望できた。 そこから下方の 王 領 へ回って発していたのは、. の全知、 見守り. ( 監視 ). といった無言のもの。. あ. ヵ. リ. ブ の存在、 そ. るいはこれはまた 眺められる王国の 民が見上げる. 視線で感じ取っていたものでもあ る。 アルハンプラ 宮殿では、 とりわけこの「コマレスの 塔 」が下 から臣民に見上げられるべきものであ 隣 にあ る礼拝所. (. った。 パルタルの王宮にも 眺望所が設けられていた。 王宮の. ミーラ フ ) に設けられた 小窓がそれであ る。. ヘネ ラリーフ ヱ では「水路の 中庭」を囲む 壁を切って設けられた 眺望 所. (. ミラドール. ). から、 テ. ラスをなす 琉 菜園や果樹園、 さらに下方の グ ロ 川 、 それを越えてアルバ イシン が眺められた。 水路. の中庭の北端に 設けられた 苑 亭も眺望を許した。 十三世紀に書かれたあ る農書 は 、 農園の家屋敷はもっとも 高い処に置くとよ. し. 、 、 と勧めている。. 「洪水にあ れないし、 乾き切ることもない。 引いた水は農園、 庭、 畑にまわすことができる」から。 また、 川岸の上に家を 建てるのもよい。 「戸口や窓から 東風をいれると 健康によい」から。 イスラ ム 支配のアンダルシアでは. 豊田主たちもやはり 上から耕地や 果樹園を下方に 眺める事が多かったも. のかと想像される。 なおアルハンプラ とへネ ラリーフ ヱ で庭について 補足すべきことがいくらかあ る。 ひとつ。 ヘネ ラリーフ ヱ の前庭園が完成したのは 1950 年代。 これはあ る研究家によれ ば、 擬 イス. ラム庭園で、 じつはイタリア 風。 ひたすら花と 香りがにぎに には 1862 年、 イサベラ二世訪問の 時に造られたキョウチク. ぎ. しく、 良くないという。 ただ、. トウ のトンネルと. 糸杉の並木道が 残って. おり、 このふたつはよい、 という。 ともあ れ出来上がるまでのおよそのいきさつは 年 、 離宮に近い一画に. バさ. ここ. 次の通り。 1931. と糸杉を使ったアーケードを 中心とした庭が 誕生。 1951年、 延長工事。. 十字の池の庭、 糸杉の生け垣、 パーゴラが加えられる。 1952年、 さらに延長、 野 外 劇場 が 造られる。 なお、 新庭園で使われている 植物や花の種類は 百六十種あ まりだという。 イスラムの細長い. ふたつ。 アルハンプラでは、 丘の先端にあ る砦の外側、 観光客が戻る 順路として通る 事にもなっ ている処に庭が. 整えられている。 これはイスラムの 中庭を応用してスペインの 庭 として戸外に 造っ. たもの。 十セ 世紀のモンデハル 伯爵がルネサンス 風にべ ルヴヱ デ ーレ 0 度として考案した。 似た 着 想 が十九世紀、 アルバイシンの 丘の家の庭を. 復活させ、 グラナダの特徴あ る庭を造りだした。 アル. バ イシン の丘の斜面に 並ぶ家は小さく、 元はアラブ人の 商人などが住んでいた。 十九世紀、 中庭を. もつ家、 そして背後に 雛壇のように 重なる小庭が 白い塀に囲われる。 小庭にはそれぞれ 在やハープ、 プ、 果樹や野菜、 ナップ ヤシや 糸杉などが植えられた。 パーゴラが日陰を 提供する。 家はパティオを 内 包し、 加えて装飾整形 園 、 果樹園、 琉 菜園を持つ形になった。 このようなアルバイシンの 丘の家は カルメン Carmen. と呼ばれる。 家は敷地の下端、 庭に水を与える 水槽が敷地の 上端に置かれた。. カルメンに与えられた 一応の定義は、 「都会の中の /J さい別荘」であ る。 実態は述べた 通り。 これ へ. はまた考えてみれば、 ヘネ ラリーフェをぎゅっと 縮めたものとも 見立てられる。. ヘネ. ラリーフェも. 離宮と実用園でできている 斜面の田舎の 別荘だから。. 三つ。 アルハンプラの 要塞の覚の南斜面は、 かってパレード や 兵や馬を鍛える 練兵場などにも 使 われ、 防衛の意味からも 樹木は少なかったといわれるが、 それでも一部は 樹林の庭としてアルハン ブ ラの丘に住むスルタン 達の散策と憩 い の場として利用されたという。 いま ノ ア ン ホ Realejoと坪.

(13) スペイン・イスラム. 庭園探訪. 63. ばれている地域であ る。. アルハンブラはシェラ・ネヴァダ 山脈に続く丘陵で、 全体は王宮のあ る砦の町であ った。 兵も職 人も内部に住んだ 0 工房も商店も 住家も共同浴場もあ った 0 名門一族の館も 二つあ ったことが確認 されている. 0. モスクもあ った 0 現在、 サンタ・マリア・. ド. ・. ラ. ・アルハンプラ 教会になっていると. ころであ る。 ちょうどカール 三世宮殿の正面右手になる。 アルハンプラの 水は、 シエラ・ネヴァダ の水を集めて 流れる. ダ ロ河の上流から. 水路で引いた。 水路はまず へネ ラリーフェを 潤し、 次に. ブル. ハンプラ へ 導かれた。 アルハンプラ 全体はあ たかも巨大な 軍艦のように 下の平野に臨んでいる。 アルハンプラは 赤い砦の意味で、 それ以前は サビカ の丘と呼ばれた。 ローマ時代以前から 人家が あ. ったと推定されている。 居住が証明されるのは、 九世紀から。 グラナダはイスラムの 分裂国家 時. 代 (1031-1090) にグラナダ・イスラム 教国の首都になる。 宮廷はアルバイシンの 丘の麓にあ. った. 砦の中に置かれた。 その時周辺はユダヤ 人街であ った。 アルバイシンはアルハンプラ 以前の中心で、 古く、 11世紀に城塞の 町として生まれた。 アルバイシンは 丘の町を意味した。 今でもそうだが、 丘 の斜面に小さい 家が並んでいた。 砦の町としての 機能はやがて 夕陽に赤く輝く Jl@ こうのアルハン ブラに取って 代わられる。 まず、 宰相 ナバノ ラが サビカ の丘の住家を 再開発し、 自らもそこに 館を 設けた。 十二世紀、 ともに 北 アフリカを本拠とするべルベル 族の フ ル モ ラビデス (1090-1146) ア. ルモアデス (1146-1224)の面イスラム 教目時代、 サビ. カ. と. の丘は居住と 戦闘の舞台となった。 両 王朝. がス ベインから 北 アフリカに退いた 後もスペインではイスラム 勢力とキリスト 教国側との戦いは 続 いた 0 武勲著しかったアル・アマル. (1237-12730 別名 ュ スフ・. の 住民によってスルタンと 宣言される。 近くのハエ アマルはグラナダも 支配しそこに. イ. プン・ナサル ) はアルホーナの 町. ン がこれに加わり、. コルドバも加わった。 アル・. 王宮を置く。 この時もまずアルバイシンの 砦を利用した。. 次に ア. ルハンプラの 丘の砦を整備し、 今日に残る姿を 築いた。 アルハンプラ へ 移った当初、 王宮は砦の オ メナ. への塔の中に 置かれた。 そこを出て丘の 奥手に最初に 建てられた宮殿はイスマイル 宮 だが、 い. まは跡形もない。 アルモアデス・イスラム 教国の軍が、 カスティーリャ デ ・トロ サ で敗れるのが 1212 年。 ナヴァ. ス. ・. アラゴン・ナヴァ. ラ の連合軍にナヴァ. ス. ・. デ ・トロ サ はトレドの南方、 アンダルシアの 門 といわ. れる地であ った。 この敗戦でイスラム 勢力の衰退は 加速された。 レコンキスタが 進む中でアル・ ア. マルがナサル 朝を興こすことが 出来たのは、 ひとつはシエラ・ネヴァダ 山脈のおかげ、 ひとっはア ル・アマルの 外交手腕だといわれる。 アル・アマルはフェルナンド 三世に対し支配と 引き替えに 貢 納を約した。 ナサル朝はイベリア 半島に残る最後のイスラムの 王朝としてそれからおよそ. 2 5 0. 年. (1238-1492)、 23人のスルタンが 王位を継いだ。 文学、 芸術、 商業、 手工業、 農牧畜と栄えたが、 王宮では、 内紛や陰謀、 権 力争い、 太守の反乱と 下克上が頻発した。 キリスト教国側との 戦いも繰 り返された。 ナスル朝に止めを 刺したことが、 ふたつあ ったとされる。 ひとつは、 増え続ける貢納。 もうひとつはジブラルタル 陥落 ヘネ. (1462) によりマグレブ. (北. アフリカ北西部 ). と切り離されたこと。. ラリーフェの 意味は、 庭 あ るいは建築家の 庭」らしい。 ヘネ ラリーフュ離宮とはいうが、 「. 斜面を成す農園の 中の別荘で、 華麗さや 賀 沢を求めたものではなかったといわれる。 丘の斜面は何段かのテラスに. 離宮の周辺の. 造られ、 野菜や果物が 作られた実用園であ った。 離宮の下方の 斜面で. は 今でもそれが 確認できる。 そのまた周辺が 放牧地で、 羊 、 牛 、 馬が草をはんだ。 スルタン達は 丘 陵の上方へ出掛けて. 狩猟を楽しんだ。 野菜園や果樹園に 水を供給したのは、 シェラ・ネヴァダ 山脈.

(14) 64. 岩切. から流れてくる グ ロ川であ. 正介. る。 1492年にグラナダを 奪ったキリスト 教画工はへ. ネ. ラリーフェを 城代. に委ねた。 1631年、 それがグラナダ 一 ベネガス家の 手に渡る。 長 い 裁判を経て 1921 年に国有化され た。. 新庭園が造られたのは、 国民の公園を 標 拷 してのことであ った。. 4. アルカサル. [王宮 ]. ( セヴィリア ). イスラムの古庄を 偲ぶ ここは一見、 イスラムの残した 迫産 のように思えるが、 今ここで見るのは 主にスペインをイスラ ムの支配から 取り戻したキリスト 教 国 の王建 が イスラムの王宮を 増改修して住んだ 王宮と庭であ る。 建築はイスラムの 造りを継承して、 それに西欧のゴシック 、 ルネサンス、 バロックを加味したもの。 色彩豊かな中庭や 小庭も数多く. 見られて堪能するが、 ニ, 三を除きイスラム 時代のものはない。. 中. 庭あ るいは王宮に 直接接するいく っ かの小庭は十六,十七世紀に造られたもの。 イスラムの庭の 面 影を残し、 イタリアの庭園に 学び、 スペインの素材を 用いて造られたといえばよ い のであ ろうか。 多くの観光客がここに 賑わいを与える。 この敷地に初めてイスラム 風の館が建てられたのは、 913 年。 セヴィリアの 行政官 であ った。 分裂国家時代 (1031-1090) にこの地を治めていたコルドバ・イスラム にそれを拡張。 王宮はアル・ムフラク. ( 祝福された王宮 ). ( 代官 ). の館. 教 国 の三連が次. と呼ばれた。 この時代の庭でひとつ 残っ. ているのは、 現在の貿易 府 Cas 曲 deContratatlon に残る中庭であ る。 貿易府は十六世紀に 王宮 の 敷地の端に、 スペインの全植民地の 行政を司るものとして 建てられ、 1503 年から 1717 年までスペ インの植民地支配に 係わる業務を. 担った。 この中庭は 12.25Xllメートルで美しい 装飾が施されて. いた。 十字の苑 路 が庭を四分する 四分庭園で、 花垣はニメートルの 深さの沈床になっており、 オレ. 植えられていたとされる。 花壇の壁面には 浅いアーチが 彫り込まれて 並び彩色 された漆喰化粧で 仕上げられていた。 中庭を囲む壁の 一方には装飾に 富んだ柱廊が 設けられていた。 ンジやジャスミンが. なお、 この美しい中庭は 十二世紀、 北アフリカに 起こってスペイン 南部を支配したべルベル 人の ァ ルモ ラビデス・イスラム 教 国 (1090-1146) 時代に造られたとする 研究家もいる. 0. あ. るいは ア ルモアデス・イスラム 教 国 (1146-1224) の. 現在、 復元されて精妙な 工芸品口 とも見紛 う 姿を見ることがで. きる。 王宮がふたたび 拡張されるのは、 アルモアデス・イスラム 教目時代 1146-1224) の終末期であ る。 この時の庭で 今の残るのが、. 四つわりの 庭. PatiodelCrucero ( 四分 庭 ). と PatiodelYeso. ( 漆喰. の中庭 ) であ る。 PatiodelCrucero は十二世紀に 造られた、 上下二段重ねの 中庭で、 上段の中庭 は下段の中庭の 丸天井と柱に. 支えられ、 十字の苑 路 と四周を巡る. 苑 路も持っていた。 下段の中庭に. は 四隅にオレンジの 樹 、 中央に噴水盤が 設けられていた。 オレンジの樹は 上段の庭の苑 路 にこずえ. をのぞかせた。 上段と下段の 差はおよそ五メートルあ った。 ただ現状は当時の 姿を偲ばせる 程度。 十六世紀と十八世紀の 改修で姿を大きく 変えた。 十六社 * 己の改修はとりわけ 下段の中庭をルネサン ス風に変えた。 十八世紀の改修はリスポン 大地震後の祷強的改修であ る。. セヴィリアのイスラム 教 国 にとって運命の 年は 1248 年。 この年カスティーリャ 王国のフェルナン ド姉世がセヴィリアを 占領支配する。 以後イスラムの 王宮はキリスト 教国の玉の住まいとなる。 王 達は何度か増設や. 改修を施した。. いま我々が見る 王宮の庭のほとんどは、 王宮の裏 手. (南). にあ る。 このうち、 王宮に接するいく. つかの庭は十六,十七世 * 己のもの。 「王子の庭」、 「花の庭」、. 「ガレー船の. 庭」、 「トロイヤの. 庭 」、.

(15) スペイン・イスラム. 「舞踏の庭」、. 庭園探訪. 65. 「メルクリウスの 池庭 」。 これらの庭は 王宮のそれぞれの 部屋の前庭であ る。 これらの. 庭の外側に十七世紀に 造られた「貴婦人の 庭」があ る。 さらに十六世紀の「十字の 庭」. 紀に 「迷路の庭」と 改称。 ただしほんの 一部残すだけ. ). ( 後 十七 世. とやはり十六世紀に 由来する「カール 三世. の国事の 庭 」があ る。 ここまでが 旧 庭園。 その外側に置かれているのが、 十九世紀末から 二十世紀 に 造られた新庭園. 0. 円庭園も新庭園も、 あ る研究家は「スペイン・イスラム 様式」と呼ぶ. 0. そこで. はスペイン、 そしてイスラムを 強く感じる 0 イタリア庭園の 影 岳が 強く感じられるのは 旧 庭園。 新. 庭園の一部は、 イギリス風景 式 庭園を模している。 「王子の庭」の 名の由来は 、 庭に面する部屋で フヱ ルナンド. と. イサベラの第一王子ホアンが 生ま. れた事による。 ただ、 庭は全面的に 改修されている。 「花の庭」には 四角い水盤があ り、 美しい彩色タイルが 貼られている。 ただしイタリアから 取り 入れた技術で 焼いたものだという。 その前に崖のようなグロット。 苑 路の真ん中にイスラム 風の水 盤と噴水。 西側にはかって 手の込んだグロットがあ った。 貝 、 蝸牛、 煉餌、 種々の 像 、 その他海の もので飾り付けた。 海の物とは、 近くのカディス 港 付近の海岸から 持って来て彩色を 施したもの。 かってひとびとの 目を楽しませたこのバロットの 残りはいま門を 模した建造物の 中に納まっている。 テンニン カ の生け垣が植物と 花を仕切る。. 「ガレー船の 庭」は四つわりの 庭で、 十セ 世紀にはテンニン (. カ. を刈 り込んで造形したガレー 船. が噴水を浴び、 模擬海戦の場面を 見せていた。 いま王宮の壁に 沿って花で覆われた. ト一ピアリ ). 美しい歩廊があ る。 「トロイヤの 庭 」の名双の由来は、 もと十六世紀に 庭を覆う敷石が 迷路になっていたから。 ネプ. チュー. ン の噴水が置かれていたことから、. 「舞踏の庭」にはかってテンニン. カ. この庭は「ネプチューンの 庭 」とも呼ばれた。. を刈 り込んで造形した. (. ト一ピアリ. ). サテコ ロスと妖精がた. くさんあ ってあ たかも輪舞しているように 見えたという。 十六,十七世紀のこと、これが名前の 由 来であ る。 十九世紀にもなお、 青銅に鋳られたそれら 二つの像が大理石の 柱の上に飾られていたと い う。. ここでは彩色タイルで 彩られた水盤やべンチを 目にする。 苑路 近くではユーモラスな 噴水の. 動きをみせる。 「メルクリウスの 池庭 」は正方形の 池の中央にギリシャ 神話のメルクリウス. の像を載せた. ( 使者や商業の. 神). 噴水を配している。 北側 ( 王宮 側 ) に凱旋門に似せた 門も設けられている。 凱旋門の. 上部は歩廊の 造りで庭を見下ろすによい。 ここには、 十六世紀のセヴィリアの 富を語るフレスコ 画 が描かれていた。 「西インド諸島の 港にして 門 」として新大陸との 貿易を一手に 占有したセヴィリ アの 空前の豊かさを 神話の像を用いて 寓意的に表現したフレスコ 画であ った。 今世紀初めに 修復さ れたが、 改悪になったという。 「貴婦人の庭」は、 イタリアの建築家 ヴエ ルモンド・レスタ VermondoResta. たのは 1606-16240 当時八一. フ. が設計 0 造られ. スプルク家の 支配するスペインでもっとも 先端をいくもっとも 美し. い庭 との誉れが高かった。 完成は フヱリペ四 世のセヴィリア 訪問の年。 四周を囲 壁 が取り囲んでいた。 四壁には門と 窓が造られていた。 四壁にはバロットもしつらえて あ った。 グロットにはギリシャ・ローマ 神話の様々な 神などの姿が 粘土と鉄で造られ 飾られていた。 この庭の第一の 呼び物は水オルガンだった。 それで「トランペットの 庭 」の異名も生まれた。 苑路 には小さな煉瓦と 彩色タイルが 貼られた。 縁に噴水。 苑 路の噴水は眺めて 楽しむものでもあ ったが、 びっくり噴水としても. 使われた。 庭の趣向や美しさに 見とれている 者を不意打ちする。. 中央 苑路に.

(16) 66. 岩切正介. は 三つの噴水が. 横の苑 路 との交点に置かれた。 中央の噴水が 高いネプチューンの 噴水。 他の二つは. 低く静かなイスラムの. 噴水。 庭の東側には 一段と高い眺望の. 歩廊が造られ 歩く者は庭を. 歩廊には神話の 場面がフレスコ 画で色彩豊かに 描かれ金メッキも は往時の色彩はともかく. 一望できた。. 施された。 いま「貴婦人の 庭」に. 姿はよく残されている。. このような 旧 庭園に共通して 言えるのは、 次のようなこと。 王室庭園 師 であ った. で、 「庭は正方形で、. り. オス. GregoriodelosRios はⅠ 庭 造りⅠ Ag hCulturadeJardines 「 (1592). つ囲壁 に囲われ、 果樹を用いず、 もっぱら花の 香りと麗しい 眺 めを持っもの」 ( 要約 ) と定義しているという。 正方形であ るのはシンメトリーを 守るため、 果樹 を用いないのは 農地や実用園と 区別するため、 と理由を述べた。 このような庭の 造り方は次の 十 セ シンメトリ. 世紀にも受け 継がれ、 もとのイスラムの 庭の区割りも 維持されることになった。 時代の趣向として. が用いられた。 当時の庭を形造っていたものすべて が 残っているのではないが、 それでも現在の 庭は当時の華麗さを 十分に偲ばせる、 という。 旧 庭園の外側に 設けられた新庭園は「憩いの 国 Jard㎞ delRetiro と呼ばれる。 当初の名は そこにイタリアのマニエリスムの 趣向. ( 美学 ). 」. 「自然 風 庭園」 HuertadelParque. であ った。. 新庭園も旧庭園もイスラムの 王建が住んだ. セヴィリアは 分裂国家時代. 時代には、 琉 菜園、 果樹園があ ったところであ る。. (1031- 090) 以降、 グアダル キ ヴィル川の商港を 擁しコルドバに 代. わってイスラム 圏 最大の都市として. Ⅰ. 栄えた。 西 ウマイア朝の 時代に築かれた 豊かな農業と 高い文化. は 分裂した国家それぞれに 分散されて引き 継がれた。. 限らない。 いま は消失してしまったが、 市の内覚、 とりわけ郊覚には 多くの王宮と 庭が宮なまれた。 分裂国家時代 このセヴィリアでイスラムの 支配者達が営んだ 王宮と庭はいまみたアルカサルに. には、 たとえば四キロの 郊覚にあ って 、 グアダル キ ヴィル河に臨んで 王宮と庭が造られている。 ア. ルカサルのすぐ 外側、 面壁外に 庭 と果樹園と 園 亭を造った王もいる。 これらの王宮と 庭に共通する. のは、 川や風景を見下ろす 高さが重視されたことであ った。 これらの王宮と 庭を称える詩がいくつ も 残されており、. モネ、 ジャス. モアデス. ミ. そのひとっは 庭の植物・ 花 として「テンニンカ、 ヤシ、 バラ 、 水仙、 ユリ 、 アネ. ン、. スミレ、 アプラ 々 」を挙げている。 アル モ ラビデス. (1146-1224)の 両 イスラム教国の. (1090-1146) および フ ル. 時代にはグアダル キ ヴィル川の両岸に 庭 と果樹園と 葡. 荷田が並び、 イチジク、 綿、 オリーヴ、 そしてサトウキビが 育てられていたという。 アルモアデス. のカリフ、 アプー・ヤク 一ヴ ・ユースフは 華麗な王宮をいくつか ファュラ Buhay a の地に造営、 「. 庭 に植える特別種の ナシ 、 プラム、 リンゴをグラナダ やカデス から取り寄せた。 ファュラ に 営 まれ. る王宮と庭はさらに 増え、 郊覚の中心地に 成長したが、 これらの王宮は 1248 年、 キリスト教徒の. セ. ヴィリア征服で 焼け落とされ、 庭もやがて都市の 膨張に飲み込まれて 消えていった。 末尾に、 メディナ・アサー うと アルハンプル 宮殿の図版を 参考に掲げるので 見ていただきたい。. いずれも参考文献 12から借用したものであ る。.

(17) スペイン・イスラム. 67. 庭園探訪. @aiX@t 1@ Spanische@Garten,@ Consuelo@Correcher/Michael@George,@DVA(Stuttgart),@ 2@ Einfacher@Reisefiihrer. ・. Cordoba@gestern@und@heute,@. 3@ Einfacher@Reisefiihrer . Granada@gestern@und@heute 4@ Ganz@Cordob8deutsch),@Editorial@Escudo@de@oro,@. 1997.. Ediciones@ ustres . Ⅰ. ,. Edici nes@I. S , A , (Barcelona). stres. Ⅰ. ,. 5@ Offizieller@Fuhrer@:@Die@Alhambra@und@der@Generalife,@Jesus@Bermudez@Lopez@/Pedro@Galera Andreu. , Patronato@de@la@Alhambra@y@Generalife@Editorial@Comares. 6@ Die@Alhambra@aus@der@N8he@betrachtet. .. 7@ Die@Alhambra@von@Granada,@Lluis@Casals/@Felix@Bayon. .L. , a , , Edilux@S. , Aurelio@Cid@Acedo@u. , Patronato@de@. Ⅰ. Alhambra@y. Gener8ife 8@ Islamic@Spain , Architectural@Guides@for@Travelers. , Godfrey@Goodwin,@Penguin@Books,@1990.. 9@ Re8@ Alcazar@von@SevilⅠ. Fiihrer@fur@den@Besuch,@Ana@Marin@F* 10@The@oxford@Companion@to@Gardens. , P . Goode@&@M. . Lancaster. 8go,@Aldeasa,@1999. , Oxford@University@Press. ,. 1991. 11@Gardens,@ Landscape. , and@Vi. ion@in@the@Palaces@of@Islam@@. Pensivania@State@University@Press,@. Sp8n,@D. , Fairchild@Rugg. s,. 2000. 12 『楽園のデザイン 一 イスラムの庭園女 ィ Ⅱ、 ジョン・プル・ ソク スノ神谷武夫 訳. 13 『西ゴート王国の 遺産』鈴木康久. Ⅰ. 中分新書. 鹿島出版会. 1996. 14 Ⅰレコンキスタの 歴史ロフィリップ・コンラ 著 / 有田忠良日訳. 文庫 クセ ジュ. 白水仕. 2000. 1989.

(18) Cto bo. 岩切正介. 痔桶円. Ⅰ. Ⅱ| @@. @. ・のⅠ. 1@.

(19) スペイン・イスラム 庭園探訪. 69. ⅠⅠ O... ﹂Ⅰ 垂 0ト 下目Ⅰコ %宝く. Ⅰ. 目. 9上け宙苦0 ロづ后 8︶ おUの る︶ 0穏宙パひ. r. oQ. Ⅱ㎏. Ⅰ 0 亡 Ⅰ りⅠ ⅠⅠⅠ. cJの O 巾. 圭ご 0 手工.

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参照

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