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南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開

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(1)南カリフオルニアにおける日本人移民農業の展開 矢ケ崎 Evolution. of Japanese. Agriculture. Noritaka. Ⅰ Ⅱ Ⅱ. 隆. 典. in Southern. California. YAGASAI(Ⅰ. はじめに. Ⅳ. 日本人の農業労働期. Ⅴ. 日本人農業の安定成熟期. 日本人農業の形成期. Ⅵ. おわりに. l. 日本人農業の発展期. はじめに. 南カリフォルニアは,ゴールドラッシュを契機として発展の始まった北部と比較す 19世紀末から急速な発 ると,経済発展の初期の段階では遅れをとったにもかかわらず, 展を経験し,カリフオルエアのなかでも独特の地域性を有する地域として知られてきた (McWilliams1946)。このような南カリフォルニアの発展において農業が重要な役割を 果たしたことは,改めて繰り返すまでもないであろう(Raup1959)。スペインによる 植民地時代から長い間この地域の経済の中心をなしたのは粗放的な牧畜業であったが, 1870年代にはロサンジェルス近郊地域においてロサンジェルス市場向けの果物や野菜の 生産が盛んになった。南カリフォルニア経済の中心をなすロサンジェルス地域は,恵ま れた気候のもとで土地ブームや石油ブームなどに助長されて経済活動が活発化し,今日 アメリカ合衆国で最も都市化した地域の-づとなったが,かつては肥沃な農業地帯とし て知られていたわけである。この地域では早くから土地の分割が進み,小規模経営に基 づく近郊農業の性格が当初から強く存在した。今世紀初頭までロサンジェルスで消費さ れる野菜類の大部分を供給したのは中国人の小規模生産者たちであった(Cban1986)0 一方, 19世紀末から今世紀初頭にかけて,内陸の乾燥地域を含めて南カリフォルニアの 各地では潅概事業の進展,輸送手段の改善,出荷組織の整備などが進み,ロサンジェル ス市場あるいは東部の大都市市場向けの野菜や果物の生産地域が形成された。 カリフォルニアの農業地域において日本人移民が重要な役割を演じたことはよく知ら れているが(Iwata. 1962),南カリフォルニアにおいても多くの日本人が農業に従事し. た。日本人移民が南カリフォルニアに流入しはじめた今世紀初頭には,南カリフォルニ アの各農業地域は多量の農業労働力を必要としていたし,また,ロサンジェルス地域に おいては日本人が独立した農業経営を開始することを比較的容易にする条件が整ってい.

(2) 2. 矢ケ崎. 典隆. た。南カリフォルニアに引きつけられた多くの人々と同様に,日本人移民にとってもこ の地域は無限の可能性を秘めていたわけである。こうして第二次大戦前においてロサン ジェルス地域はハワイを除いたアメリカ合衆国で日本人人口の最も集積した地域であっ たが(Mason and McKinstry1969),ここでは日本人が集約的な果菜類の栽培に支配 的な影響力をもち,南カリフォルニアの日系農業社会において求心的役割をはたすこと になった(第1図)0 筆者はこれまでに南カリフォルニアにおける日本人移民の農業と農業社会のいくつか の側面に関して検討を行ってきた(矢ケ崎1983a,. 1983b,. 1988,. 1989,. 1991)。本稿 では,ロサンジェルス地域を中心とした南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展 開について,全般的な考察を試みてみたい。日本人移民が南かノフォルニアで労働を開 始した19世紀末から太平洋戦争の勃発時までの約半世紀期は,. 1890年代から1900年代中. 頃までの農業労働期, 1900年代中頃から1910年代中頃までの形成期,. 1910年代中頃から. 1920年代中頃までの発展期, 1920年代中頃から1941年までの安定成熟期という4つの時 期に区分できよう。以下ではそれぞれの時期に関して日本人移民の農業活動と農業地域 について検討を行ってみたい。. Il日本人の農業労働期 ロサンジェルス市に日本人が最初に定着したのは1885年頃と一般に理解されている が(Uono1927:3-4),南カリフォルニアに日本人が増加するのは今世紀に入ってから のことである。当初,日本人は農業労働者あるいは鉄道工夫として南カリフォルニアに 流入した。. -ワイがアメリカ合衆国領となってしばらくたっと-ワイ官約移民が多量に カリフォルニアに転住したが, 1906年のサンフランシスコ大地震を契機に,日本人の初 期の集中地域であったサンフランシスコから,多くの日本人がロサンジェルス市および その周辺地域に移動した。こうした流入人口を吸収したのは,ロサンジェルス市内にお. 第1図. 太平洋戦争前における南カリフォルニアの日本人農業地域.

(3) 3. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. ける就業よりはむしろ,南カリフオルエアの温暖な気候のもとで集約化が進展しつつあっ た農業であった。日本人移民にとって,農業労働は最も容易に得られる仕事でもあったo 日本人は,季節移動労働者として収穫などの農業労働に従事するものが多かったo彼 camp)と呼 らのほとんどは単身の男子で,日本人親方のもとで労働キャンプ(labor 1907年の調査(外務省通商 ばれた飯場に居住し,農業労働を求めて季節的に移動した。 局1908‥. 19)によれば,南カリフォルニア8郡に居留していた日本人は19,986人で・. そのうち92%が男性であった。ロサンジェルス市を除いた場合,農業労働者は5千8百 人を数える最大の集団であり,このはか農業専業者1千6百人がおり,また鉄道工夫 (2千6百人),家屋掃除庭園家庭労働(2千3百人)などが主要な職業セあったo 19世紀末から今世紀はじめにかてけてのこの時期に日本人季節労働者の集積が最も顕 著にみられたのは,ロサンジェルスの東方にある7)パーサイドの柑橘類生産地域と・ベ ンチエラ郡オックスナ-ドの甜菜生産地域であった.アメリカ中西部からの移住者a)コ ロニーとして1870年に設立されたリバーサイドは柑橘類の生産地域として早くから知ら れていたが,ここでは1890年代中頃に日本人農業労働者がオレンジの収穫に従事するよ ぅになった。 1900年以降日本人労働者はさらに増加し, 1900年代末から1910年代中頃ま で収穫期には約3千人の日本人労働者が集まり,南カリフオルエアにおいて日本人農業 労働者が最も集積した地域であったoまた北に接するサンバナディノ地域の柑橘農場や ブドウ園においても,日本人は1900年以前から収穫労働に従事していたoしかし,この ようなリバーサイドやサンバナディノの果樹栽培地域においては,日本人は農業経営者 104)o としては大きな発展をみせることばなかった(南加日系人商業会議所1960:101, 1897年にオックス 一方,太平洋に臨むオックスナード平野は甜菜栽培で知られたが, T. Oxnard)がここに甜菜糖製糖工場を建設し ナード兄弟(Robert OxnardとHenry. 1903年には日本人およぴメキシコ ている。日本人労働者は1900年以降急速に増加した。 人の甜菜農場労働者約1千名が協力してストライキに入り賃上げと労働条件の改善を獲 得したことば,カリフォルニアの農業労働運動史において有名なエピソードとなってい る(F。ner 1964‥ 276)0 1900年代中頃には日本人労働者数はピークの1千人に達した という.また,オックスナード平野の北側を凍れるサンタクララ川に添って上流のサン タポウラには果樹栽培地域が形成されたが,ここにおいても日本人は収穫労働に従事し た(南加日系人商業会議所1960:105)0 このような日本人農業労働者の一次的集中地域に加えて,ロサンジェルス近郊地域, サンタマリアバレー,サンディエゴ近郊地域においてもかなりの数の日本人が農業労働 に従事している。ロサンジェルス市の周辺地域においてはストロベリーの収穫が主要な 労働であった.また東方のサンゲイプリエルバレーのオレンジ固やクルミ囲もまた多く の日本人労働者を引きつけた。オレンジ郡のスメルザ一地域は19世紀末から甜菜・セロ リ・豆類の生産で知られ,中国人が主要な労働力であったが,彼らにかわって1900年頃 から日本人が農業労働に従事するようになった。サンタアナやアナハイムにおいても, オレンジや甜菜の収穫に従事した.サンタバーバラ郡北西部のサンタマリアバレーでは, ォックスナードと同様,甜菜農場とユニオン製糖会社の存在が1900年以降多くの日本人.

(4) 4. 矢ケ崎. 典隆. を吸収した。ロンポーク地域においても1905年頃から甜菜栽培が発達し,この時期に日 本人が流入している。一方,サンディエゴ市近郊にも1900年頃から日本人が農場労働に 従事するようになった。いずれの農業地域においても農業労働は季節性に富んでおり,. 日本人労働者の増減と移動はそうした季節性を大きく反映したもので串った。 日本人農業労働者は,他の農業地域の場合と同様,南カリフォルニアにおいても白人 農業者の間で高い評価を受けていた。 『移民調査報告』(外務省通商局1908:20)は, その理由として「膝ノ屈伸並二腰ノ動作自由ナルコト」, 少キコト」,. 「果物摘採等二器用ニシテ傷果 「葡萄的努働ヲ厭-ザルコト(本件-到底外国人ノ模スル能-ザル所)」,. 「一気-珂成二事業ヲ速成セントスルノ気象ヲ有スルコト」,. 「他外国人こ比較シテ定住. ノ風アルト且ツ農業二経験を有スルモノ多キコト」をあげている。 このように農業労働者として歓迎された日本人移民ではあったが,彼らのなかには, 分益小作あるいは現金借地により農業経営を開始する者も現れた。ロサンジェルス市中 J山部の北に隣接し,ロサンジェルス川に沿った当時トロピコと呼ばれた地域(今日のエ リジァン公園の北側の地区)において, 1900年頃に日本人がストロベリー栽培を開始し ている(『南加日本人年鑑1』 :71)。また,その後間もなく,ロサンジェルス市南部の モネタ・ガーデナ地域においても,借地によってストロベリー栽培が始められた(南加 日系人商業会議所1960:710)。オレンジ郡海岸部のスメルザ一地域では,歩合耕作や現 金借地によって,同じく1900年頃にセロリ耕作を始めた日本人もあった(『南加日本人 年鑑1』 :72-73)0 日本人移民によるこうした農業活動は,次章で述べる形成期に入って飛躍的に発展し, 彼らが農業階梯を上昇するにつれて農業労働力としての重要性は次第に低下し,逆にメ キシコ人労働者を雇用する立場へと変化していくわけである。 1918年の統計によれば, 南カリフォルニアの日本人農業労働者はまだ5,000人近くにおよび(このうち男性は93 %),これはカリフォルニア州全体における日本人農業労働者の28%を占めていた計算 になるが,. 1929年には1千5百人足らずに減少している(在米日本人会1940:180,. 195)0 これは前述の1907年の農業労働者数(5千8百人)と比較すると大幅な減少であり,ま た南カリフォルニアにおける日本人人口および農業者数の顕著な増加に照らし合せてみ ると,日本人移民社会における農業労働の意義は著しく低下したと理解できる。 ‖. 日本人農業の形成期. 1900年代中頃から1910年中頃までの10年間は,南カリフォルニアにおける日本人農 業の形成期であった。各農業地域で季節移動労働に従事した日本人の中には,定着して 分益あるいは借地により小作農業を始める日本人が現れ,こうして日本人移民は除々に 農業階梯を上昇しはじめた。これと同時に,ロサンジェルス市とその近郊へ日本人が流 入し,日本人農業人口が急激に増加するとともに空間的にも日本人農業地域が拡大した。 また,農業組合による組織化の萌芽がみられた。農産物はロサンジェルス市の青果物市 場で販売され,そうした市場はロサンジェルスの日系農業社会の中JL、的存在となった。 このように日系農業は順調に発展を開始したが,この時期の末期にはカリフォルニア州.

(5) 5. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. 外国人土地法が施行され,日本人の農業活動に対する法的境制が始まった. ‖-1日本人人口の増加. 1906年のサンフランシスコ大地震の後,日本人人口は南カリフォルニアで著しい増加 をみせたが,そのなかでも日本人移民社会の*,Llをなしたのはロサンジェルスであった. 農業労働に対する需要は拡大の一途をたどっており,ロサンジェルスの日本人実業会は, 1909年初頭に「南加労働案内,労働者への福音」という広告を,当時日本人の上陸拠点 であり日本人人口の集中地域であったサンフランシスコの邦字新聞に掲載している。こ 「労働 のなかで, 「南加州は何故に多数の労働者を要するか」について作物別に説明し, を以て成功せんとする同胞は南加州に来る可し」と結んでいる(矢ケ崎1983:76を参照)0 人口センサスによれば,ロサンジェルス郡の日本人人口は1890年には36,. 1900年には. 204を数えるのみであったが, 1910年には8,461に膨脹しており,その後も増加傾向が続 き, 1920年には19,911, 1930年には35,399に達する。とくにロサンジェルス市の日本人 人口の増加は急激であり, 1906年の4,050人, 1910年の6,080人, 1915年の9,500人, 1920 年の11,618人,そして1925年の22,021人へと,. 1920年代中頃まで増加し続けた。. 1940年. までにはロサンジェルス郡は合衆国で最大の日本人人口を有する地域となり,カリフォ ルニアの日本人人口の39%を占めるようになった。戟前を通じてこのようなロサンジェ ルス郡の日本人人口の6-7割はロサンジェルス市に在住していたわけである。 川-2 農業経営と農作物 外務省通商局(1908:21)によれば,. 1907年10月に南カリフォルニア8郡において農. 業経営を行っていた日本人は1千6百人におよび,第1表はそうした日本人の耕作状況 を示している.新開地を含めて農業経営総面積は1万9千エーカー近くに達し,野菜類 (21%),メロン(14%)やストロベリー(13%)などの果物,そして甜菜(9%)が 大きな比率を占めていた。借地形態をみると,現金借地と収穫分配の合計が総面積の86 %に達し,所有耕地における農業はごくわずかに限られていた。 さらに『日米年鑑8』 (1912:109)によると,. 1912年の南カリフォルニア8郡におけ. るE]本人耕作面積は合計25,620エーカーで,前述の1907年の数値と比較すると37%の増 加がみられたことになる。このなかで野菜面積は27%を占め,次いで甜菜(23%). ,メ. ロン(12%),干し草・穀類(11%),セロリ(7%),ストロベリー(6%)の順で, 1907年と比較すると,野菜は8 これらの作物が当時の日本人農業の中心をなしていた。 割程度増加し,またセロリは8倍,甜菜は3倍となった。また同じ統計で土地所有・耕 作形態をみると,全体では所有地は4%足らずの999エーカーのみであり,現金借地が 全耕作面積の82%を占めていた。野菜,ストロベリー,メロン,セロリはいずれも簸て 現金借地による耕作であった。次いで分益小作12%,契約耕作2. %強の順であったが,. 1907年と比較すると分益小作に減少がみられた。現金借地を中心とする日本人農業の形 態は,この時期に確立されたとみてよいであろう。さらに1910年代中頃になると,南カ リフォルニアで8万エーカーが日本人の支配下におかれており,日本人農家世帯数は2 『南加日本人年鑑1』 :775-776)0 千2百,その人口は1万1千に達した( 当時の日本人農業の中心をなしたロサンジェルス地域では,家族労働に基づいた小規.

(6) 6. 矢ケ崎. 典隆. 模な野菜園の経営が日本人移民の典型的な農業形態であったoストロベリーのような投 機的作物と比較すると野菜栽培による純利益は多くはなかったが,多種類の作物を組み 合わせることにより農家の収入は安定していたo彼らは生産物を自らロサンジェルス市 の青果物市場へ運搬して販売したり・仲買人や中国人野菜行商人に販売したりした。今 世紀初頭までロサンジェルス市で消費される野菜類の大部分を供給した中国人野菜生産 者にかわ-て・日本人生産者の役割は急速に大きくなっていった。 野菜とは対照的に投機的性格を有したストロベリーもまた,ロサンジェルス地域の日 本人農業を特徴づける代表的作物であったo南カリフォルニアではストロベリー栽培面 積は今世紀に入って急激に増加したが,日本人による栽培面積も1904年の665エーカー から1907年の2,458エーカーへと拡大したo. 1エーカーから500ドルの純利益をあげるこ ともまれではなかったといわれ・他業種を創業するための事業資金を短期間に蓄積した り,一儲けして帰国するつもりの人々が・先を競ってストロベリー栽培に従事したとい うoストロベリー栽培ほ技術的に容易であり,販売業者による経営資金の前貸し(ディー. ラークレジット)も行われていたために,日本人移民は容易にこの生産を開始すること ができたo南加中央日本人会の農業技師であった古田の概算(羅府新報1914年8月16日) によると・. 1914年当時,夫婦が3エーカーのイチゴ園経営を開始するための諸経費は, キャンプ建設費200ドル・自動車150ドル,馬150ドル・飼料80ドル,食料品150ドル,家 具50ドル・農具50ドル,借地料75ドル,漕概用水120ドル,耕地の準備75ドル,除草90 ドル,苗150ドル・植え付け150ドルで・合計して1,500ドル足らずであった。ストロベ リーは連作を嫌うため,一般に3年契約で土地を借地し,この契約期間を-単位として. 第1真. 南カリフォルニアにおける日本人の耕作状況(1907年) (単位:エーカー). 作物等. 現金借地. 収穫分配 2. ー. 合計. o533-0300竺ー0 3-3.脱'諾S'ー7・5.. ンゴ. 菜ロチ菜草物口鶏園開の 野メイ甜牧果七養花新そ. 1,482. 1,354. 請負耕作. 3,908. ク. 2,664. ー. 1,977. 2,458 1. 1,755. 514. 530. 125. 436. リ. 地他. 合計. 土地所有. 212. 97. 97. 64. 81.5. l. ー 3 52. I. 4,675. 571. 2,356・5. 10, 288. 5, 795. 外務省通商局(1908:22)による。 明らかに誤りとみられる数値を補正した。. 5 24 6 300. 18.739.5.

(7) 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. 7. 栽培が行われ,契約期間の終了後は別の土地へ移動して同様の栽培が繰り返された。非 「手先が器用でしゃがんだ姿勢での労働に強い日本人にとってストロ 日本人の間には, ベリーは最適な作物である」といった評価が一般的に存在していた.こうして後述する トロピコやモネタ・ガ-ディナ地域を中心として,ストロベリー栽培は「日本人一手耕 作トモ謂フベキ状況」 (外務省通商局1908:23)にあったという。 日本人農業の形成期にはセロリ栽培もまた飛躍的に増加したが,これは土壌条件に恵 まれたオレンジ郡海岸部における栽培の成功によるものであった。前述した外務省通商 局の報告(第1表)ではセロリ面積は極端に少ないが,後述するように,生産者を地域 別にリストした『羅府年鑑1』によれば,これは他のいかなる作物をもしのぐ存在となっ ていた。野菜やストロベリーとは異なり,セロリの出荷はニューヨークやシカゴなどの. 大都市市場にまでおよんでいた。日本人は最初は労働者としてセロリ栽培た従事したが, 自ら土地を購入して自作農となる者も現れた。その後セロリ耕作は現金借地による耕作 面積が著しく拡大し,日本人によるセロリ生産者組合の組織も早くから存在した。 キャンタロープメロンもまた重要な作物であった。形成期には日本人のメロン栽培面 積は3千エーカー程度におよんだが,その中心をなしたのはインペT)アルバレ-であり, ブローレー,インペリアル,ヒーバー地域に40人余りの日本人が集中していた.ここで は大手3社が開墾耕作事業にあたっていたが,これらの会社が取り扱うキャンタロープ の3分の2が日本人によって生産されたものであったという。このような日本人の進出 のひとつの要因は,インペリアルバレーでは開発の歴史が浅く輸送に不便なため,借地 料が安かったことがあげられる。鉄道路線に近い地区では1エーカーあたり7-18ドル, 鉄道から離れた輸送に不便な地区では2ドル程度であったという(外務省通商局1908: 29)0. 農業労働期に多くの日本人が甜菜農場で収穫労働に従事したベンチエラ郡オックスナー ド地域では,日本人は収穫高の25%を収める分益方式によって甜菜栽培を始めるように なった.一般に彼らは一人100エーカー以上を耕作し,単純計算では1エーカーあたり の純収入が30ドル近くであったので,年間の収益は3千ドルに達するものであったとい う(外務省通商局1908:26, 28-29)。南カリフォルニア全体では日本人の甜菜面積は, 1907年の1,755エーカーから1912年の6千エーカーへと増加し,後者のうち57%が現金 借地による耕作であった。 一方,南カリフォルニア農業を代表する存在である柑橘類の生産に携わった日本人は ごく少数であった。これは,果樹園経営を行うためには土地の所有が不可欠であり,多 額の営農資金が必要であり,さらに多くの白人農業者がすでにこの分野に進出していた ためであった。. 1912年にはわずかに90エーカーの柑橘類が所有地で栽培されたのみであっ. た.また,ブドウに関しても柑橘類とはほぼ同数の所有地と現金借地面積を加えて,戟 培面積は190エーカーのみであった。 このように日本人は果菜類の生産に活発に従事しはじめたこの時期には,日本人によ る農業組合の萌芽がみられた。日本人農業者はロサンジェルス地域に集中していたので, 彼らの多くは自ら生産物をロサンジェルス市中JL、部の農産物市場へ運搬し販売していた。.

(8) 8. 矢ケ崎. 典隆. こうした日本人卸売生産者は1907年に南加農業組合, 1909年に日加農業組合を設立し, 前者はロサンジェルスシティマーケットにおいて,また後者は第三街市場において重要 な役割を果すようになった(矢ケ崎1991).また,一部d)農業地域では,共同出荷・購 買を目的として農業組合が設立された。これらの初期の農業組合は経済的機能よりも社 交の場としての性格が強かったり,短命に終わったものが多かった。 Ilト3. 日系農業地域. 1907年出版の『羅府年鑑第1巻』には地域別に日本人耕作者の氏名と耕作状況が記さ れており,当時の状況を知る重要な手掛かりとなる。また,南加日系人商業会議所 (1960:79-. 113)は郡別地方別に日本人農業の諸相を記述している。これらによると,. 日本人の農業経営はロサンジェルスとその近郊地域で始められたが,その中心をなした のはロサンジェルス市街地隣接地域,北部地域,サンゲイプリエルバレー地域,ガ-ディ ナ平野,南部沿岸地域,南東部地域,そしてオレンジ郡の内陸地域と海岸地域の8地域 であったと理解できる(第2図)。以下では,上記の文献資料に基づいて,形成期にお ける日本人農業の地域的特徴を述べてみたい。 今世紀に入って間もなくの間は,第3図に示されるように,ロサンジェルス市街地は 空間的にかなり限定されており,日本人農業は市街地に隣接した地域で始められた。こ のような地域の一つに前述したトロピコがあった。ロサンジェルス川に沿ったこの地域 には,. 1900年頓に日本人が入植してストロペリー栽培を開始した. 1907年には61戸の農 家が425エーカーを耕作し,その90%がイチゴであった。トロピコはしばらくストロベ リーの第一次生産地域として繁栄したが,港概用水の不足,土壌条件の悪化 そして農 地の不足や都市化の影響などによって, -この形成期の末までにはこの地域における日本 人農業は衰退してしまった。ストロベリー栽培はその後サンフェルナンドバレー,サン ゲイプリエルバレー,ガ-ディナ地域で新たな発展をみせることになる。また,ウェス トアダムズをはじめとして,. 1907年頃にはロサンジェル市街地に隣接した地域で40戸あ まりの日本人が約8百エーカーを耕作しており,いずれも野菜栽培が経営の中心となっ ていた。. ロサンジェルス市中心部から北方では,グレンデールやバーバンクへ日本人農業が拡 大した。バーバンクには1907年に31戸の農家があり, 344エーカーが耕作されており, その88%をイチゴが占めていた。耕作面積の67%が現金借地によるものであり,所有地 はみられなかった。この地域では, 1910年代に入ると徐々にイチゴから野菜へと作物の 転換がみられた。また,グレンデール地域には1907年に7戸の農家が野菜を中心として 135エーカーを耕作していた。バーノミンクに近いダンデーには,日本村開拓会社のイニ シアチブのもとで1905年に26戸の農家が合計340エーカーを購入して日本人村を作って 入植し, 4-23エーカーの土地を所有してイチゴや野菜の生産にあたった。しかし,こ の集団入植地は1910年頃までには失敗に終わっている。さらに,形成期の末期までには, サンフェルナンドバレー北東部のパコイマやフットヒル地区にも日本人野菜栽培がみら れるようになった。. ロサンジェルス市の東方では,サンゲイプリエルバレー中央の平坦部のモンロビア,.

(9) 9. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. ''''・J,′-.. 「.i・人・・_.... サンフエルナンドバレ∴.. '',.. 5. サンゲイブ,)ェノ lいIIJ・′J. \し.. バーバン. ヽ-一・ --ヽ.. バ"イス0 JI町-I. ・・・・,.、さパサデナL'・L7=,-.1j,・J: ディア●モンロ ′J…=lいい\. ■いIlll■■′■. グレンデイル. ll==-11▼、、、. ウッド トq. サンタモニカ山脈_、、、:t、リ. 0 アルハンプ. A. い●・1.L1'・t、. 0. コサンゲイプリエル. C. oコピナ. ヽ、ヽ. エルモンテ. ltHI1..1l+.. サンタモニカ. lり′′.. ロサンジェ o カルバーンティ. 0. 1:::与ソ左右車 ′′I,",=い、い、、ヽ. 、、I. rl-l,llll. 、、ヽ. イングルウッド. ベ.ニス '・1 ::・. 0. \ ン. ビ」 I.. マンハッタ. ワッツ 0. ホ_ソン. ′. ー. ー. ■′-. l1..f=…い、、‥′′-●1-.,/. ダウ. -I. 「■. ・--. ■-. ・. ■■--./,-. ・. --、. 妻. オレンジ郡 oノーウォーク. チ溝. .」 .」. ワープェナパーク J ●. アナハイム. レドンドビ パロスベルデスエス. プエンテ丘陵. ア. ホイチイ. oトランス. _t、l、-1いいt、. ティツ ‥f・.P ○ロミタ. ′..-..I,..I. オレンジ ●. シグナルヒル. 太. ガーデングローブ. ち...I.riょ:1'L)L': ロングビーチ. ○. ●-t. サンタアナ. サンぺドロ,. 5000. ハンチントンビーチ ㌔、tt、いIIII.一.1、、ナ. --I-. ・-・. 2000 1000 エーカー 0. 第2図. 10. ロサンジェルス地域における日本人の耕作面積(1907年) (『羅府年鑑第1巻』より作成). ア-ケイディア,サンタアニタからエルモンテにかけての地域がこの時期の日本人農業 の中心地であった。 1905年頃にモンロビア,ア-ケイディア,サンタ′ァニタ地域でスト ロベリー耕作が始められ,これは次第に周辺地域へ拡大していった。ストロベリー栽培 が始まった当初は,独身の男性が3エーカー程度を耕作する形態が一般的であったとい う。 1907年頃には,この地域に82戸の日本人農家が744エーカーを耕作しでおり,その. 74%がイチゴ,その他が野菜類であった。また,これらの耕作面積の75%が現金借地に.

(10) 10. 矢ケ崎. ■■市街地 第3図. 典隆. -・-郡境界線. ロサンジェルス地域における市街地の拡大過程 (M・W・. Donley. et. al・. (1979). :. Atlas. of California,. p.. 20による). よる経営であり,所有地はみられなかった。エルモンテでは, 1910年代に入るとセロリ 栽培が盛んになった.これは生産が低下したオレンジ郡のスメルザー地域の生産者が移 動してきたためで,徐々にイチゴからセロリへの転換がはかられていった。この形成期 の末期には,サンゲイプリエルやエルモンテで農業組合が設立されている。 南部地域についてみると,農業労働期にはすでにモネタ地域では日本人がトロピコ地 域よりも早くイチゴ栽培を開始していたが,他の生産地域と比較して2-3週間早く収 穫の可能なこの地域には1900年代中頃以降日本人農家が急増した0. 1906年には,短命に は終わったもののモネタ茸耕作者組合が組織されている。この頃モネタ・ガ-ディナ地. 域には133戸の日本人農家が999エーカーを耕作しており,その85%を占めキのが現金借 地によるイチゴ栽培であり,補助的に野菜も栽培されていた。形成期を通じて,この地 域はイチゴの代表的生産地域となり,. 1912年には新たに日本人葛耕作者組合の設立がみ. られた。. さらに南部の沿岸地域では,シグナルヒル地域においても日本人野菜栽培がみられ, 1907年には23戸の農家が601エーカーを耕作し,その81%が野菜であった。パロスベル デスヒルズ地域には, 1910年代に入って日本人が増加し野菜耕作にあたった。 南東部地域で日本人の入植が早かったのは,ロサンジェルス市中心部に距離的に近い モンテベロやピコ、リベラなどの地域であった。 1907年には日本人農家は78戸,耕作面積 は1,195エーカー(その96%が借地による)に達し,その56%が野菜, 38%がイチゴで.

(11) ll. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. あった。ここでは市場への近接性を反映して,作物の種類は豊富であった。さらに南東 のホイティア地域にも13農家があり, 343エーカーのうち野菜が115エーカー,イチゴ85 エーカー,柑橘類110エーカーであり,現金借地と分益小作がほぼ半々であった.彼ら のはかに,この地区には百人以上の日本人が白人経営の農場に雇用さ・れていたo オレンジ郡の海岸地域では,スメルザ一地域で前述の農園労働期にすでにセロリ耕作 が発達し始めたが, 1907年には農家数は102,耕作面積は5,169エーカーにおよんだo. こ. のうちセロリ面積が4,990エーカー(97%)を占めており,借地関係をみると,分益耕 1907年頃がこの地域におけるセロリ栽培の最盛期 作が51%,現金借地が46%であったo で,その後は病気の流行などにより次第に減少し,形成期の末期までには甜菜へと転換 がはかられた。. オレンジ郡内陸部のガーデングローブ,アナハイム,オレンジ,サンタアナの地域に 1907年の状況をみ ち,野菜とストロベリーを中心とした日本人農業の展開がみられた。 386エーカーを耕作していた。この地 ると,ガーデングローブには24戸の農場があり, 域ではチリペパーの栽培も盛んとなり,. 1912年にはガーデングローブ農業組合が設立さ. れている.また,アナ-イムには17戸が存在し,. 757エーカーそのうち96%が野菜であっ. たoオレンジでは7戸が248エーカーを経営し,野菜とストロベリーが組み合わされて いた。このほか,ロサンジェルスよりのプエナパークにも6戸(397)が野菜を耕作し ていた。 IV. 日本人農業の発展期. 1910年代中頃からの10年間は日本人農業の発展期として位置づけることができるo この時期に南カリフォルニアにおける日本人農業の中心をなしたのは依然としてロサン ジェルス地域であり,ここでは日本人農業者数と耕作面積が増大した。さらに,北はサ ンタバーバラ郡から南はインペリアル郡にかけて港就農業地域が発達するにつれて,日. 本人移民もこれらの新しい農業地域に進出して重要な役割を演ずるようになった。一方, ロサンジェルス市の卸売市場を*'bとした青果物の流通体系が確立された。また,各地 に日本人農業者が増加するにつれて日本人農業組合が相次いで設立された.外国人土地 法の施行は,従来からの日本人の農業形態に修正の必要性をもたらすことになったが, 破壊的なマイナス要因とはならなかった。このように,日本人移民農業の全体的枠組が 確立したのが1910年代中頃から1920年代中頃にかけての時期であったo lV-1ロサンジェルス地域 ロサンジェルス地域では経済の発展と人口の増加につれて,日本人移民も急速に増加 した。前述したように,ロサンジェルス市の日本人人口は1915年から1925年にかけて2・3 倍に増加しており,これに伴って,今世紀に入ってロサンジェルス市とその周辺地域で 始まった日本人農業はさらに発展を続けることになったo 乾燥の激しいこの地域においては集約的農業生産には港慨が不可欠であるo. 1917年の. 調査によれば,ロサンジェルス郡には農業可能地は217万エーカー存在したが,このう 1920年には港概面積は27万エーカー ちの約10%にあたる22万エーカーが濯離されていた..

(12) 12. 矢ケ崎. 典隆. に増加しており,作物種類別にみると,柑橘類23%,その他の果物18%,豆19%,甜菜 14%,ジャガイモ11%,クルミ9%となっており,日本人農業者が主に栽培していたト マト,レタス,セロリ・キャベツは合計して5%を占めていた(Burnigbt 1920‥6-7)。 発展期の初期における日本人農業の状況は, 1916年の耕作面積を郡別に示した第2表 から明らかとなろう。ロサンジェルス郡では野菜栽培面積は1万エーカーにおよび,こ のはかストロベリーや甜菜が重要であった。また隣接するオレンジ郡では,野菜は1千 5百エーカーであったが,甜菜は6千エーカーを占めていた。さらに,ロサンジェルス 日本領事館調べによると,. 1919年におけるロサンジェルス郡内の日本人耕作面積は40,804. エ カーであったが,その中心は野菜栽培(63%)で,次いで甜菜(16%),穀類・干 し草(8%),イチゴ(3%)・落葉果樹(2%)の順となっていた(Burnight. 1920:9)。 1920年にロサンジェルス商業会議所が行った調査では,ロサンジェルス郡の総農業生産 において日本人生産が占める比率は,ストロベリーのはとんど総て,セロリの85%,カ リフラワーの60%,イモの40%,キャベツの40%であり,この郡の総野菜類生産の68%. ・第2衰. 南カリフォルニア8郡における日本人の耕作面積(1916年) (単位:エーカー). 作物. ロサン. オレ. ベン. サンタ. サンバナ. サンデリバー. ジェルス. ンジ. チエラ. バーバラ. ディノ. ィエゴ. 6. 00一. 0. -. I. 18,000. 18,000. 11,793. 12,093. ○. ロ. ‥フ. 2. グリーンピース. ー. キャベツ. 1. セロリ. 1. 1. 2。。諾Jl.-0300400350. I. 1. f. l I. タマネギ. 干し草. 12007040F. イモ. I. キュウリ. 9,400 73. スイートコーン カリフラワー. oO. 米 その他 18・826. 9,655. 2,972 2,770 2,000 1. -. 1,340. 337. 1,120. 600. 1,000. 100. 450. 550 400 350. I. 200. 4,100. ,900 1,840. i I. ニンジン. 7100280780-. トマト. 100. 一3090i.50:5:5・. 2. J. 120-1. ストロベリー. l. I. f糊fSF.600-0-I. 3. -ooo. 5. 7=l. レタス. J70I25040150050020r4004〇I. ー. -002002-35。。0。。諾.. 豆. 合計. 合計. 21,885. I. =F.100-51. カンタ. 6 0. 00一. 甜菜 綿花. インペ. サイドリアル. 80 ll,087. 100 9,270. 『南加日本人年鑑1』 (1917-1918:75-76)による。. 50. 300. 100. 70. 725. 540,. 300. 300. 250. 1,鵬0. 33,377. 83,550.

(13) 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. が日本人の手によるものであったという(Burnight. 13. 1920:18).. 日本人農業の発展期においては,形成期でみたロサンジェルス地域の8つの農業地域 のうち,市街地の拡大に伴ってロサンジェルス市街地に隣接した地域では農業生産が縮 小した。しかし,他の農業地域は空間的に拡大し,日系農家数とその耕作面積は増加し た.いずれの地区においても借地による多種類の野菜の小規模生産が⊥一般的であったが, ストロベリー,レタス,セロリなどの産地には大きな移動もみられた。 北部地域では,早くから農業の行われたバーバンクに加えて,バンヌイスやサンフエ ルナンドなど,サンフェルナンドバレーの各地で耕作面積が拡大した。とくにサンフェ 1920年代中頃 ルナンドバレーはレタスの主要な生産地域として知られるようになった. からレタスは減少するが,これにかわって重要になったのはキャンタロープであった。 ロサンジェルス市中心部の西郊では,パームス,ソ-テル,カルバーシティ,サンタモ ニカ,そしてベニスに日系農場が増加した.東郊のサンゲイプリエルバレー地域では, アルハンブラからエルモンテにかけて日系農場が増加した。エルモンテ地域を中心とし たセ■ロリ栽培は1920年頃に最盛期を迎え,南加セロリ耕作者組合が設立され七東部-の 出荷が促進された.しかし,州北部のデルタ地域のセロリとの競合に放れ,セワリから カリフラワーへと転換がはかられることになる(南加日系人商業会議所1960:8ト82)0 ガ-ディナ平野では,モネタ・ガ-ディナで繁栄したストロベリー栽培は他の地区へ 移動するとともに,イングルウッドやワッツから南に向かってコンプトン,ガ-ディナ, ドミンゲスにかけて,平野全体にわたってロサンジェルス市場向けの多種類の野菜の小 規模生産が中心に行われるようになった。さらに南の沿岸部では,早くから日系農場の 進出したシグナルヒルに加えて,ロングビーチとサンペドロで野菜生産が増加し,とく にパロスベルデスヒルズや,西のサンタモニカ湾に望むレドンドビーチで野菜栽培がみ. られるようになった。また,モンテベロからホイティアにかけての南東部地域に率いて も日系農家が増加した。モンテベロは野菜と花再栽培が中心となったし,またノーウォー クではこの時期に入って日本人野菜生産者が増加した。さらに南東のオレンジ郡では, アナ-イムとガーデングローブを中心とした地域と海岸部が依然として重要な日系農業 地域であった。海岸部では,形成期にセロリから甜菜へと主要作物に変化がみられたが, 1910年代末までには甜菜も減少し,ガーデングローブ地域からチリペパー産地が移動し た。 IV-2. 農業地域の拡大. 日本人農業の発展期は,南カリフォルニアに果菜類の生産地域が発達した時期でもあっ た.第3表は,センサスに基づいて8種類の作物に関して郡別の栽培面積を示したもの である。. 1919年の面積をみると,南カリフォルニアはこの時点でカリフォルニア州にお. いて重要な果菜類生産地域となっていたことが理解できる。南カリフォルニアのカリフ ラワーおよびレタスの栽培面積は州総計のそれぞれ84%と80%を占めており,また,キャ ベツでは67%,メロンでは60%であったほか,トマト,キュウリ,セロリについても20. -40%の占有率をもっていた。南カリフォルニアのなかではロサンジェルス郡の占める 比率が極めて高く,カリフラワーの98%,セロリの87%,キュウリの78%,キャベツの.

(14) 14. 矢ケ崎 第3表. 典隆. 南カリフォルニア8郡における果菜類栽培面積 (単位:エーカー) カリ. 南 作物. 年次. ロサン ジェルス. フ. ル. ォ. ア. ニ. 郡. 8. オレ. ベン. サンタ. サンデ. ンジ. チエラ. バーバラ. ィエゴリアル. カリフオ. ィンペリパー. サンバ. サイド. ナディノ. 合計 ルエア州 総計. 1919. 3,396. 25. 1929. 1,760. 164. 201. 3,613. 1939. 738. 156. 157. 5,891. 1919. 983. 110. 2. 5. 25. 1929. 1,917. 48. 1. 28. 419. 1939. 1,499. 336. 1919. 1,971. 113. 5. 17. 106. 10,449. 115. 1929. 1,250. 12. 15. 7. 139. 30,935. 694. 1939. 1,264. 3. 87. 19,134. キャ. 1919. 2,789. 522. 115. 14. 107. 3. 15. 60. 3,625. 5,422. ベツ. 1929. 1,909. 483. 56. 130. 141. 216. 16. 51. 3,002. 5,070. レタス. セロリ. メロン. 24. 22. 1,563. 75. 1,386. 4. 8. 4,918. 6,121. 472. 25,194. 65. 25. 31,494. 60,564. 162. 16,380. 27. 17. 23,528. 80,286. 2. 1,127. 5,351. 672. 2. 4 37 474 48. 2,413. 9,336. 4,098. 10,082. 12,813. 21,470. 33,526. 46,365. 21,573. 1939. 2,281. 567. 38. 504. 110. 811. 19. 4,397. 5,959. 1919. 8,021. 1,331. 128. 13. 609. 270. 1,109. 710. 12,191. 31,410. 1929. 4,151. 1,830. 2,562. 382. 2,023. 1,055. 1,675. 453. 14,131. 41,249. 1929. 1,448. 120. 19. 41. 66. キュ. 1919. 437. 40. 12. 3. 54. ー. ウリ. 1929. 637. 117. 14. 27. 151. 3. トマト. ストロ. 13. 41. 67. 87. ペリー. 1. 5,001. ,835 563. 1 , 786. 1,244. 3,170 2,506. 1939. 757. 118. 37. 38. 183. 5. 1,195. カリフ. 1919. 2,999. 32. 1. 3. 22. 22. 3,079. 3,668. ラワ-. 1929. 3,062. 70. 19. 691. 251. 101. 50. 4,244. 10,146. 1939. 2,175. 175. 112. 4,068. 210. 4. 23. 6,677. 11,736. of the. United. Census. States. (Agriculture),. 1930,. -. 1940によるo. 77%,レタスの69%,トマトの66%がロサンジェルス市とその近郊地域で生産されてい たことになる。. こうしたロサンジェルスの優位性にもかかわらず,. 1910年代中頃から1920年代中頃に. かけての発展期には,ベンチエラ郡のオックスナード地域,サンタバーバラ郡のサンタ マリアバレーとロンポク地域,サンディエゴ郡のサンディエゴ市近郊地域,インペリア ル郡のインペリアルバレーで農業生産が拡大し,日本人による果菜類の生産が増加した。 第2表から1916年における日本人の耕作面積をみると,面積的には甜菜栽培が日本人 農業の中心をなしており,オレンジ,ベンチュラ,サンタバーバラ,ロサンジェルスの 各部でその重要性がとくに大きかった.このうちサンタバーバラ郡とベンチエラ郡にお いては,製糖工場向けの甜菜栽培と豆類の生産に専門化しており,青果物市場向けの果 菜類の生産はいまだに未発達であったことがわかる。しかし,これらの地域では第一次 大戦後の不況時を迎えると甜菜需要が減少し,日本人移民農業の中心は甜菜から野菜類 へと移行した。とくにサンタマリアバレーでは1920年代に入ってレタスをはじめセロリ.

(15) 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. 15. やカリフラワーの栽培が盛んになった. 開発以前はコロラド砂漠として知られたインペリアルバレーでは,コロラド川からの 港概水路の建設によって港就農業が可能となり,日本人も今世紀に入って間もなくこの 地域に入って農業を始めたが,その人口が急速に増加したのは1910年代後半に入ってか らのことであった。第2表からも明らかなように,インペリアル郡の1916年の状況をサ ンタバーバラ郡やベンチエラ郡と比較すれば,レタスやグリーンピースを含めて生産物 1920年代 の多様性は幾分大きかったが,キャンタロープへの専門化が顕著にみられた。 中頃には日本人人口は2千8百人に増加し,しかもキャンタロ-プ収穫期の6月頃には その3倍の日系労働者が集まったという(南日系人商業会議所1960:99)。一方,リバー サイド郡における日系農業の中心はソールトンシーの北に位置するコーチェラバレ-で, なかでもタマネギが重要な作物であった。またサンディエゴ郡では,サンディエゴ市周 辺で形成期において日本人移民がすでに野菜やストロベリーの栽培を開始していたが, 発展期には南のチエラピスタがセロリの産地として重要になり,北部のビスタやオーシャ ンサイドでも日本人農業が始まった。 1910年代末から1920年代 ロサンジェルスから遠隔に位置するこれらの農業地域では, に入って日本人による果菜類の生産が増加し,日系農業地域の空間的範囲と農業形態の 骨格が確立されるようになった。農業組合も徐々に設立され,また青果物市場への出荷 1920年代中頃以降の安定成熟期に 体系の整備も進んだ。これらの新しい農業地域では, 入って,さらに農業生産が拡大し,こうした発展に伴って,ロサンジェルス地域におけ る農業生産の相対的地位は徐々に低下することになる。 IV-3 居住環境 このように発展の著しい日本人農業ではあったが,彼らの居住環境は必ずしも恵まれ たものではなかったようで,こうした点にも移民農業の一つの特色を認めることができ る。たとえば日本人が重要な役割を果たしていたロサンジェルスの農業地域においても, 日本人農民のペンキも塗られていない粗末な小屋が郡の至るところに散在していたとう (1920:30131)は次 う. 1920年にロサンジェルス郡の農業地域を調査したBurnight のような観察を行っている.. 「10エーカーから40エーカーの広さを持ち,どこからみて. も繁栄しているように見える豊かな農場に出くわして奇妙に思えるのは,農場の片すみ 馬小屋をなしていることである。 に掘っ立て小屋が群がり,それらが農民の住宅,納鼠 納屋の中やまた住宅のそばには高価な自動車があることもしばしばあり,これは経営者 の経済的水準を示すものである。 」 それでも日本人農業者の居住環境は入植当初と比べれば徐々に改善されていたようで, 同じくBurnight (1920:31)によれば,ロサンジェルス郡の建築物検査官は同じ年に 次のように述べている。. 「10年前には日本人の掘っ立て小屋には一部屋しかなく,床は. 土間であり,部屋の中央に設けられた粗末な石造りのかまどで料理が行われ,それをこは 煙突もなかった。また,部屋の一方の側に全体にわたって低い棚状のものが作られ,そ れが家族全員のためのベッドであった。今日,状況は随分よくなっている。間仕切りに ょijて寝室は居間とわかれており,床も板張りになり,家具も利用されはじめている.」.

(16) 16. 矢ケ崎. 典隆. しかし, 1919年の夏にロサンジェルス郡では総ての住宅に水洗便所を設置するよう決め. た条例が施行されたが,翌年2月の時点でこの条例に従った.日本人は皆無であり,・逮捕 者もでたという状況であった(Burnigbt 1920:31)0 こうした不十分な住宅環境は, 1920年代中頃からの安定成熟期においても大きく変化 してはいなかったようである。ロサンジェルス市近郊に位置し,野菜生産者36家族,花 再生産者16家族,農業労働者4名,そして日本人学校教師1名を有するある日本人集落 を1930年頃に調査したSvensrⅦd. (1931:21, 28)によると,トラックを所有する家族 は全体の81%,また自動車を所有する家族は85%に達していた。しかし,家屋は修理を 必要とする掘っ立て小屋のようにみえたとしており,電話はなく,また街路には歩道や 街灯もっいていなかった。 IV-4. 外国人土地法と農業経営. 1913年に施行されたカリフォルニア州外国人土地法は,非アメリカ市民による土地の 所有を禁止するとともに借地を3年以内に制限し,また市民権を持たない者が過半数の 株式を有する法人組織の土地所有を禁止するものであった。この土地法は1920年にさら に強化され,これによって非市民による土地の所有と借地が全面的に禁止され,また彼 らによる土地会社の株式の所有も禁止された。このように日本人移民の農業活動は法律 的に大きなハンディキャップを背負うことになり,それまで主として現金借地によって 行われてきた南カリフォルニアの農業は変化を余儀なくされた。 この外国人土地法の施行直前には,土地所有を目的としてアメリカ市民である日系二 世を過半数とする株式会社が数多く設立された。在米日本人会(1940:184 186)によ れば, 1920年には日本人によって組織されていた土地会社は州全体で416社あり,その 資本金総額は970万ドル,総所有面積は65,628エーカーに達していた。これらの多くは -. フレズノ郡を*,bにカリフォルニア中部にみられた.南カリフォルニアにおいては会社 数は14,その土地所有面積は合計3,653エーカーであり,この地域に特徴的であった借 地による農業の伝統を繁栄して,日系土地会社は比較的限られた存在であったといえよ う.郡別にみると,ロサンジェルス郡においては9社,その所有面積は3,450エーカー であり,一方,インペリアル郡とオレンジ郡にはそれぞれ2社,ベンチエラ郡には1社 が存在した。これらの会社は土地を所有するばかりでなく,アメリカ人地主と土地に関 する借地契約や収穫契約を結び,日本人農業者のなかにはそうした農地の耕作管理者と なって従来からの農業活動を続ける者もいた。また,アメリカ人農場にフォアマンと呼 ばれた農場監督者として雇用されて農業に従事する日本人も多くみられた。 また,アメリカ生まれの日系二世め名義によって借地をすることが可能であった。セ 1920年にはカリフォルニアの日本人人口は71,952であり,そのうち二 世は29%を占めていたが, 1930年になると日系アメリカ人人口がわずかではあるが一世 ンサスによると,. 人口を上回るようになった。後述するように,南カリフォルニアにおいても192′9年の農 家人口は男女のバランスが比較的良くとれ,子供数は成人数を大幅に上回っていた(第 6表参照)0. 1918年の農家人口では男女の比は3対1,成人と子供の比も3対1であっ. たことと比較すると(在米日本人会1940:180),. 1920年代には日本人の農業社会は移民.

(17) 17. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開. 社会から日系アメリカ人社会へと徐々に変容しつつあったことがわかる。こうした日系 二世の増加は,農業生産の担い手というよりはむしろ耕作する土地の確保という・点にお いて,日本人移民農業を支える重要な基盤となったわけである。 外国人土地法のもとで農地の所有や借地に関して日本人移民は大きなハンディキャッ プを背負ったにもかかわらず,農業生産における日本人の重要性は低下すること-なく, 実質的な農業経営には大きな変化はみられなかった。南カリフォルニアの日本人の耕作 状況を1918年の統計でみると,農場経営者は2,350戸で,これはカリフォルニア州全体 1907年の農業専従者は1千6百 の38%を占めるにいたっていた。先にも述べたように, 人であったわけであるから, 10年あまりの間に著しい増加がみられたことがわかる。総 耕作面積84,600エーカーのうち土地所有面積は3%,借地面積は97%を占め,作物別の 内訳をみると,野菜類14%,豆13%,甜菜27%,綿花21%,キャンタロープ9%,トマ ト4%,ストロベリー3%,イモ3%,セロリ2%,タマネギ2%となっていた.借地 を基盤としたこのような農業形態は, 1923年の統計をみても大きく変化しではいなかっ た(在米日本人会1940:175-176, v. 187)0 日本人農業の安定成熟期. 1920年代中頃から太平洋戦争の始まった1941年までは,日本人農業の安定成熟期で あった。. 1924年の新移民法により日本からの移民の流れは事実上停止し,一方,アメリ. カ生まれの日系二世が増加し成長するにつれて,日系社会の成熟がみられた。こうして 南カリフォルニアの各農業地域で日本人の農業が活発化した。経済恐慌後,農業生産や 流通の合理化がはかられるなかで,日本人は彼らの民族的な農業組合を充実し,ロサン. ジェルス市の卸売市場を拠点とした流通体系の強化に大きく貢献するとともに,果物野 菜スタンドを中心とした小売業にも進出した。こうして青果物の生産から流通にいたる まで,日本人は支配的な影響力をおよぼすこととなった。 V-1農業生産の拡大 南カリフォルニアにおける農業生産は1920年代,さらに1930年代に大幅に拡大したこ とは,主要な果菜類の栽培面積を示した第3表から明らかである。レタス生産について みると,. 1919年から1929年にかけて州の総栽培面積は10倍の増加をみせたが,南カリフオ. ルニ.アにおいても6倍強増加した。生産の中心はロサンジェルス郡からインペリアル郡 やサンタバーバラ郡へと移動しており, 1929年にはインペリアル郡のレタス面積は州総 1939年においては州の総レ 計の42%,サンタバーバラ郡は6%を占めるようになった。 タス面積に占める南カリフォルニアの比率は29%に低下してはいるが,インペリアル郡 (州面積の20%)とサンタバーバラ郡(同7%)は依然として重要な生産地域であった. インペリアル郡はメロン類についても3年次を通じて圧倒的優位を保?ており,. 1929年. 1939年においても66%を占めていた。ロサンジェルス郡は南 においては州総計の67%, カリフォルニアで第2位のメロン生産地域であり,その作付面積には大きな変動はみら れなかった。. 一方,ストロベリー栽培ではロサンジェルス郡は圧倒的優位を保っており,. 1929年に.

(18) 18. 矢ケ崎. 典隆. は,南カリフォルニアの合計の79%,州総計の29%を占めていた.キャベツとキュウリ についてみると,ロサンジェルス郡の耕作面積は, 1919年, 1929年, 1939年のいずれの 年次においても若干の変動はあるものの,南カリフォルニアで最大の耕作面積を有して いた。. 1939年にはロサンジェルス郡のキャベツ面積は州総計の38%,キュウリ面積は30 %を占めていた。トマトについては,ロサンジェルス郡は最大の産地ではあったが, 1929年の時点でベンチュラ,サンディエゴ,リバーサイドの各郡でも重要な作物となっ ていたことがわかる。カリフラワーとセロリの生産では,. 1929年までみられたロサンジェ ルス郡の優位性は1939年までには低下しており,これにかわってサンタバーバラ郡が南 カリフォルニアで最大の面積を有するようになった。州総面積に占めるその比率は,カ リフラワーでは35%,セロリでは16%であった。. 以上のように,若干の作物について,南カリフォルニアにおける生産状況を検討した 結果,ロサンジェルス郡は第二次世界大戦前を通じて南カリフォルニアで最も重要な青 果物生産地域であったことは確かであるが,一方,インペリアル郡やサンタバーバラ郡 などのロサンジェルスから遠隔な農業地域で生産が拡大したことが明らかとなる。こう した発展の背景には交通輸送条件の改善,濯概事業の進展,農業人口の増大などの要因 があったが,各農業地域における日本人農業者の貢献も重要であった。 V-2. 日本人の農業経営. それでは,日本人は南カリフォルニアの農業生産にどの程度の寄与をしたのであろう か。第4表は南カリフォルニアにおける1929年の日本人の耕作状況を示したものである。 最大の面積を占めたのはレタスであり,これは合計面積の95%を占めていた。さらに種々 の野菜,メロン,トマト,カリフラワー,セロリ,イチゴが代表的な農作物で,なかで も野菜,カラフラワー,セロリ,イチゴでは日本人の占有率は90%を越えていた。さら に,太平洋戦争直前の1941年に関してロサンジェルス郡における日本人の耕作面積と郡 の合計耕作面積に占める比率を示したのが第5表である。日本人の総耕作面積は約3万 7千エーカーで,これはロサンジェルス郡の耕作面積の68%にあたった。作物別にみる と,. 19作物において日本人は90%以上の面積占有率を有しており,園芸農業における日 本人の実力を充分に示している。 次に, 1929年における日本人の農家人口と土地の所有・借地関係を示したのが第6表 である。農家人口は合計すると約2万5千人に達していたが,男女数の差はごくわずか に縮小し,子供数が62%を占めるまでになっていた。こうした日系農家人口の75%がロ サンジェルス郡に居住していた。土地の所有・借地関係をみると,全体では借地が60% を占め,続いて管理地,所有地の噸たなっていたが,管理地と所有地はインペリアル郡 に集中していた。ロサンジェルス郡では3万4千エーカーにおよぶ耕作面積の実に98% が借地であった。このように借地に依存した農業経営は,日本人耕作面積の大きかった サンタバーバラ,オレンジ,ベンチエラの各郡においても-般的な傾向であった. 日系農業の地域的範囲は形成期にほぼ確立されたが,農家数や作物に変化のみられた 地域もあった。日系農家が最も集積していたのはロサンジェルス郡のガーディナ平野で, 1千戸が1ゝ万エーカーを耕作しており,多様な野菜類と花再を中心とした近郊農業の性.

(19) 19. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開 第4表. 南カリフォルニアにおける日本人耕作面積(1929年) 日本人耕作状況 面積(エーカー) 日本人耕作 比率(%) 35,618. 野菜 メロン輯. 27,695. 9. 25,611. トマト. 12,736. カリフラワー. 7,839. セロリ. 2,950. 59 75 183969293399oo807. レタス. 4 3 0 5 2 2 00. イチゴ賛. 2,550. イモ. 2,020. グリーンピース. 1,452. 1. 牧草 柑橘類 豆類 果物輯. 950. 2. 890. 5. 650. 5. 410. 3. タマネギ. 352. 9. 2. 在米日本人会(1940:193)による。 第5表 品目. 口`サンジェルス郡における日本人の耕作面積(1941年) 品目. 日本人耕作 日本人耕作 面積(エーカー)比率(%). 3. ニンジン. 2一. セロリ. 2. -. キャベツ. 2. I. イチゴ輯. 1. ホウレンソウ. ユタ. レタス. ー. キュウリ. 1 一 -8. 一. 87mo. 一. シ. テープルビート エンドウ カブ ブロッコリー カンタロープ チコリー. 4 05. ネギ. 302. タマネギ. ウ山 90. メロン. 2 60. 伊スクワッシュ. 599999599407599. グリーントゥモロコ. 990795743693689678600525505. トウガラシ. 夏スタワッシュ イモ頬. 581999085991. 79 22. 一. 4 12. 18. -3. アスパラガス. Agricultural による. Commissioner. of. Lo告. Angeles. 93. マスタード アメリカボウフウ. 16 1. ピーマン. 1 OU 5. パセリ. 13 5. ダイオウ. 1 ー3. 66. 冬スタワッシュ. 73. カブハボタン. 63. ナス. 39. スイカ. 20. 合計. ダイコン. 3 ー6. 590502510259010. カリフラワー. l. 4 73. 59040鮒90957. 3. タチチシヤ. 9025901. マメ輯. 一. ウ一l. 4 50079578096392. 60939075997. 加工用トマト. 日本人耕作 日本人耕作 面積(エーカー)比率(%). 36,592. Countyの推計(Nishi. 68 1955:40. -. 41).

(20) 20. 矢ケ崎 第6表. 一典隆. 南カリフォルニアの日本人農家人口と土地の所有・借地関係(王929年). 男性 3. 子供. 3 2 16. 12,035. 4 82. 883. 4,520. 45. 108. 430. 305. 653. オレンジ リバーサイド サンディエゴ サンバナディノ サンタバーバラ. 6718879375. 5215-55-75-82-. ロサンジェルス. 農家人口 女性. 524. 4 907. 4 4 83. 33, 730. -. 4,835 680 905. 1,325. 15. 2 0 一1 501421. 20,562. 3 1 ●′. 12 3 タ. 44. 一一55. 3. 315. 2-21-. -. 合計. 260. ーn-. インペリアル. 6053-5250252260433, 125. 65. -1054- 1. ベンチエラ. 土地の所有・借地関係(エーカー) 所有面積 小作面積 管理面積. 15,560. 3,235 0. 59,986. 124,193. (100.0) 在米日本人会(1940:192,. 195)によるo. 格が強くみられた。太平洋に臨むベニスの農業はセロリ栽培へかなり専門化していた。 一方,サンゲイプリエルバレーの農業地域は東方に向かってポモナ周辺にまで拡大して おり,農家数は450戸,耕作面積は6千2百エーカー余りに達したという。また,サン フェルナンドバレーはレタスやキャンタロープなどの産地であり,. 1941年には134戸, 3千6百エーカーが耕作されていた。南東方向にはモンテベロ,ホイチイア,ノーウォー クから郡墳を越えてオレンジ郡へと農業地域が広がっていた。ガーデングローブやハン チントンビ-チには約200戸の農家によって7千エーカー余りが耕作されており,ペパー, ストロベリーをはじめとして多種類の農業生産が行われており,ロサンジェルス市の近 郊農業地域の延長的性格を有していたとみてよいであろう(Nodera 1936:94;南加日系 人商業会議所1960:82. -. 83)0. ロサンジェルス郡に次いで重要であった農業地域はインペリアルバレーであり,その 農家数は600,耕作面積は2万5千エーカーにおよび,平均耕作面積は南カリフォルニ アの日系農業地域のなかで最大の43エーカーであった・ (Nodera 1936:94).ここでは日 本人農業はキャンタロープとレタスに専門化しており,耕作面積はそれぞれ1万5千エー カ-と7千5百エーカーであり,その他野菜類が2千5百エーカーを占めていた。 ロサンジェルスから北西の沿岸の農業地域であるサンタバーバラ,サンタマリアバレー, ロンポクには約100家族の日系農家があった。ここでは多種類の農作物生産が行われ,. その耕作面積は合計9千エーカーにおよんでいた.農業の中心をJi-したのは, 4千エー カーを占めたレタスであり,とくにサンタマリアバレーでその生産面積が大きかった。 このはか,ニンジン,グリーンピース,カリフラワー,トマトなどの生産も盛んで,ロ. サンジェルス市場向けの多様な農業が展開されていたといえよう。サンタバーバラは花 井を中心としており,これらの沿岸の農業地域の中では特異な存在であったといえるo.

(21) 21. 南カリフォルニアにおける日本人移民農業の展開 v-3. 農業組合と農産物流通. このような野菜果物生産の増加と生産地域め拡大・遠隔化は,必然的に日本人農業社 会の組織や流通体系に変化をもたちす結果となった。したがって,農業生産の拡大とと もに,日本人による生産者組合の整備や青果物流通の系統化が,この安定成熟期の重要 な特徴となった。. 筆者は以前に民族的組織としての日本人農業組合の展開いっいて論じキことがある (矢ケ崎1983)。ロサンジェルス市の青果物市場には1900年代に青果物の卸売をおこなっ た生産者の組合が組織されているし,. 1910年代に入ると,各農業地域に共同出荷や共同. 購買を目的とした産業組合が組織されるようになった。ストロベリーやセロリなど,作 物別の生産者組合の設立もみられた。しかし,こうした日系の農業組合が大きく発展し たのは1930年代のことであった。世界恐慌に続くニューディール政策は協同活動を促進 した。さらに,. 1930年代に展開された労働運動は,農業階梯を上昇して農場経営者となっ. ていた多くの日本人農業者を悩ますことになり,メキシコ人農業労働者を中心としたス 1930 トライキと労働組合運動に対して農業組合を基盤として団結する必要性が生じた。 年代後半にはロサンジェルス郡野菜生産者調査が行われているが,これは日本人生産者 Pro-. とメキシコ人労働者との争議の結果として実施されたものであった(USノwork jects. Administration,. California,. n.d.).また,日本からの移民の停止や日系二世の 成長に伴って日系移民社会には成熟がみられたので,組合活動のための基盤が移民社会 のなかに生まれていた。遠隔の農業地域から青果物市場へ市況に応じて出荷するために 系統的な出荷体系の整備が不可欠となり,農業組合による共同出荷の意義はますます重 要となった。こうして,各地に設立された日本人の農業組合はロサンジェルスの卸売市 場などへの流通径路の末端部をなす存在として重要な役割を果した。それらは社会的文 化的にも各地の日系社会における中心的存在であった。 さらに,別稿でも詳しく論じているが(矢ケ崎1991),南カリフォルニアでは,ロサ ンジェルス市のロサンジェルスシティマーケットとユニオンホールセールターミナルマー ケットという二大青果物市場を中心とした流通休系がすでに1910年代に確立しており, 日本人生産者や青果物取り扱い業者は重要な役割を果すようになっていた。また,日本 人は青果物の小売業にも進出が目覚ましかった。 1920年代中頃からの安定成熟期に入る と,ロサンジェルスの人口増加に伴って青果物需要が拡大し,青果物市場の取り扱い量 が著しく拡大する一方,日本人農業地域が遠隔化し,各地の農業組合からの系統的な共 同出荷が増加し,青果物取り扱い業者の重要性がさらに増した。就業年齢に達し始めて いた二世は,ロサンジェルス地域の簡易の果物野菜スタンドで,青果物の小売に多く従 事するようになった。こうして,この時期には,日本人は青果物の生産・卸売・小売に 圧倒的な影響力を有するようになり,いわゆる垂直的支配構造を確立することになった。.

(22) 22. 矢ケ崎. 典隆. VJおわLJに 本稿では,日本人人口の著しい集積がみられたロサンジェルスと他の南カリフォル ニアの農業地域において,太平洋戦争前に日本人移民の農業活動がどのように展開され たかについて総括的に論じてみた。この検討の枠組として, 19世紀末から1940年代初頭 にかけてのほぼ半世紀間について農業労働期,形成期,発展期,そして安定成熟期とい う4つの時期を設定し,それぞれについて農業経営と農業地域の特徴を考察した。日本 人移民農業の成功の背景として,今世紀初頭まで活躍した中国人野菜生産者が減少する 一方,ロサンジェルスの人口増加にともなって青果物需要は拡大し続けていたことがあ げられる。日本人は発展を開始しはじめていたロサンジェルス経済の空隙を埋めるよう な形でこの業種に進出していったわけである。日本人の進出の目覚ましかった青果物の. 小売業に関しても同様のこt- 如、える.さらに,中国人は優秀な野菜生産者であるとい うイメージがすでに確立していたため,同じアジア系移民である日本人が同様の認識と 信頼を獲得するためには時間がかからなかった。こうして日本人は農業労働から借地に よる農業経営者へと農業階梯を上昇し,ロサンジェルス地域を中心として徐々に生産地 域を拡大していった。そうした過程で農業組合の組織化や流通体系の整備にも貢献し, また,青果物の卸売や小売においても重要な役割を演じるようになった。このように, 日本人が青果物の生産・卸売・小売に大きな影響力を有したことば,太平洋戦争前にお ける南カリフォルニアの農業と農業地域を特徴づける重要な要素の一つであった。 本稿の作成にあたり,文部省科学研究費補助金(03680202)の一部を使用した。 献. 文. 外務省通商局(1908) :北米南加州移民事情報告書,移民調査報告. : 『在米日本人史』サンフランシスコ,在米日本人会. 在米日本人会(1940) 南加日系人商業会議所(1960) : 『南加州日本人七十年史』ロサンジェルス,南加日系人商業会 議所. 矢ケ崎典隆(1983a) :南カリフォルニアにおける日本人花井栽培業の発達と変貌.人文地理35, 1-22.. 矢ケ崎典隆(1983b) ‥南カリフォルニアにおける第二次大戦前の日本人農業と民族的組合組織. 地学雑誌92, 73-90.. 矢ケ崎典隆(19?8) :カT)フォルニアの日本人移民社会における金融の諸問題.横浜国立大学人. 文紀要(第一類) 34, 101-121. 矢ケ崎典隆(1989) :カリフォルニアにおける日本人の強制収用と移民農業.横浜国立大学人文 紀要(第一類) 35, 51-70. 矢ケ崎典陸(1991) ‥太平洋戦争前におけるロサンジェルスの青果物流通と日本人.歴史地理学 156.(印刷中). F・ (1920) : The Burnight, Relph Japanese in the agricultural districts problem Los °han,. Angeles・. M・A・. Sucheng. (1986). 1860-1910・ Foner, York: Iwata,. Philip. thesis,. University. This. bluer-sweet. :. Berkeley: S.. (1964). University :. mstoT・y. international. Masakazu. (1962) The. Japanese. of. Of. of Southern soil, the California. the. California, Chinese Press,. labol・・ mOUeTnent. immigrants. in. 70p.. California. agriczLlture. 503p in the. in California・. United. Bates.. Agricultural. New mstory. of.

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