企業体理論の可能性
和
田
博
志
要約 本稿では,会計主体論の一つとして提唱されてきた「企業体理論」を俎上に載せてい る。「企業体理論」は企業を取り巻くステークホルダーの利害調整を主目的として展開され てきた会計理論であるという点で,営利性の指標たる利益計算を唯一の目的として展開され てきた主流派会計理論とは一線を画するものであり,その特徴として「分配志向的期間損益 計算」とでもいうべき損益計算構造を有していることが指摘できる。こうした損益計算構造 は,今日喧伝されているステークホルダーを重視した経営のあり方とも親和性が高く,多様 化しすぎたきらいのある投資家への情報提供に代わる新たな会計目的として,ステークホル ダーへの分配の公正性を評価する際に有用となる情報の提供を措定すべきであることを主張 している。Abstract In this paper, I would like to discuss the nature of“enterprise theo - ry”advocated by Ysuichi SAKAMOTO and Kazuo TAKAMATSU. The“enterprise theory”, which is an accounting theory developed for the purpose of adjusting the interests of stakeholders surrounding enterprises, contrasts with the mainstream accounting theory developed for the sole purpose of profit calculation as an indicator of profitability. It is pointed out that it has a profit and loss calculation structure which can be called“distribution oriented period profit and loss calculation”as its feature. This profit and loss calculation structure is also highly compatible with the manner of management that emphasizes the stakeholders, and as a new account- ing objective, we should replace information provision to investors who are likely to be diversified too much, with providing useful information when stakeholders evaluate fairness of distribution.
キーワード 会計主体,企業体理論,ステークホルダー,分配志向的期間損益計算 原稿受理日 2018年5月31日
Ⅰ
「三方よし」の会計学は可能か?
人間とは実に都合よくできた生き物のようで,同じ本が並んでいる書棚を見ても,その 時々の問題意識や関心事によって目に入ってくる本のタイトルもまた異なってくるようで ある。すなわち,その日の問題意識や関心事に合致した本のタイトルは,あたかも本の側 から目に飛び込んでくる一方,そうでない本のタイトルは自動的に視界から排除されるか のごとくである。 そのような選別機能が本当に組み込まれているかの真偽はさておき,ここ数年来,会計 主体論の一つである「企業体理論(enterprise theory)」に関心をもっている筆者の目に 飛び込んできた経営関連書籍を開いてみると,不思議と似たような記述がみられることに 気づく。そのキーワードを一言で表すとすれば,近江商人の商業道徳ともいわれている 「三方よし」の精神(およびその拡張版としての「五方良し」と「八方よし」)ということ になろうか。いくつか引用しよう。 「この古の知恵〔三方よしを指す―和田注〕が, 二十一世紀の世にも立派に通用するのである。す なわち『売り手よし』は本社への利益貢献であり,『買い手よし』は産業成立のための顧客満足で ある。そして『世間』は現代ならば,地域社会と言い換えることができる。したがってこの文脈で 『世間よし』は,地域に埋め込まれた現場が長期安定雇用によって地域の人々の豊かな暮らしに寄 与することと考えてよい。」(藤本[2017],86頁) 「人を大切にする経営学において, 企業が幸せを追求・実現すべき人は誰であろうか。 答えは『企 業に関係するすべての人々』である。しかしながら,これでは正直広すぎる。あえて絞るなら,と りわけ重要な人は,以下の五人である。/一人目は,社員とその家族。/二人目は,社外社員とそ の家族。/三人目は,現在顧客と未来顧客。/四人目は,地域住民,とりわけ障がい者や高齢者な ど社会的弱者。/そして五人目は,出資者ならびに関係機関である。/人を大切にする経営学では, 企業経営の目的・使命は,この五人の永遠の幸せの追求・実現となる。まさに“五方良し”の経営 学,“まん丸”の経営学,“誰をも犠牲にしない”経営学である。」(坂本[2017],41頁) 「結局,CSR も CSV も,外からのプレッシャーを動機にすれば,いずれ形骸化してしまう。だか らこそ,日本は草の根から自発的に生まれた『三方よし』を,より今日の時代に合ったものにアップデートし,世界に示していくべきではないでしょうか。/そこで私は近年の CSV 重視の動向な どもふまえて,よりよい資本主義をつくるための『合言葉』を思い切って提案することにしました。 /それが『八方よし』の経営です。」(新井[2017],8586頁) ちなみに新井[2017]にいう「八方よし」の八とは,①社員,②取引先・債権者,③株 主,④顧客,⑤地域(住民・地方自治体など),⑥社会(地球・環境など),⑦国(政府・ 国際機関など),⑧経営者を指す。これらの主張の根底には,「株主利益至上主義」に偏り すぎた企業経営のあり方に対する反省と,「持続可能な社会」を実現するためには,ステー クホルダーとの良好な関係を維持することが重要であるとの共通認識があるように思われ る。「三方よし」が,わが国の CSR 経営の源流とみる主張 もあることなども考え合わせ ると,このような記述が多くみられることは取り立てて驚くに値しないものなのかもしれ ない。以下,これらの言説をまとめて「『三方よし』の経営学」 ということにしよう。 ところが,これらの書籍を読み進めていくと,会計研究者にとって看過しえないコトバ に遭遇することになる。すなわち,「強い赤字企業」「弱い黒字企業」(藤本[2017],59 頁), あるいは「健全な赤字」「不健全な黒字」(坂本[2017],169頁)といったコトバが これである。 「強い赤字企業」とは, 不況や円高で業績が落ち込んでいるものの, 正社員を解雇する ことなく,現場の能力構築をあきらめず,高い生産性をさらに向上させつづけている企業 のことを指す一方,「弱い黒字企業」とは,規制や保護の対象として一定の利益を上げら れる競争不全の構図に組み込まれた企業であり,能力構築よりも,補償や既得権益を守る ことで存続しているようなケースを指すものとして用いられている(藤本[2017],6061 頁)。 また,「健全な赤字」とは,経済環境の激変が発生し,一般的にはリストラに走るが, 逆に社員やその家族の命と生活を守ることを最優先した結果としての赤字であり,企業の 最大コストである人件費のカットなくして黒字経営の持続は困難と,社員に対し希望退職 を募り,帳尻を合わせをするのは「不健全な黒字」であるとされている(坂本[2017], たとえば末永[2017]は,「三方よし」と CSR 経営の関係について次のように述べている。 「『三方よし』という,営業活動における社会認識の重要性を強調した近江商人の経営理念は,日 本の歴史と伝統のなかで培われてきた生え抜きの CSR 思想そのものである。『三方よし』は,経 済学的見地に立てば,持続可能な成長のための資源利用と地球環境の関係に思いをめぐらせ,現 代経営においては顧客満足を重視しつつ,企業の社会的責任と社会貢献を全うするような方策の 案出を要請しているという意味で,まさに現代につながる普遍性をもった経営の原点であるとい える。」(25頁) この言い回しは廣池[2017]を参考にした。
169170頁)。 これらの叙述に遭遇したとき,筆者は軽い目眩に襲われた。なぜなら,「財務会計は法 律で義務づけられている最低限のディスクロージャーだけ形式的にこなしておけば十分。 我々は,会計上の利益には何も期待していませんから」というようなメッセージを突きつ けられたかのように感じたからである。 いうまでもなく,現行会計の損益計算構造においては,他人資本コストにあたる支払利 息は費用処理され,純利益の減少要因とされている一方で,自己資本コストにあたる配当 は利益分配項目の一つとされている。つまり,配当は費用とみなされない。我々はごく自 然にこうした会計処理を受け入れ,それに対して何の疑問も抱かずに過ごしているが,配 当が費用ではなく利益分配として処理されるのは,あくまでも会計主体論として資本主理 論が採用されているからにほかならない。 資本主理論とは,企業を資本主の所有物とみなし,資本主の観点からあらゆる会計処理 を規定していこうとする考え方である。それによると,債権者は企業にとって外部者とい う扱いになるので,他人資本コストである支払利息は費用とされる。その一方で,株主は 会社にとって内部者という扱いになるので,自己資本コストである配当は利益分配とされ るのである。 しかしながら,企業を資本主の所有物とみる資本主理論は,所有と経営が分離した大規 模株式会社の実態を適切に捉えたものとはいいがたい。 また,「三方よし」の精神を実践 しようとする企業の本質を無視することにもなりかねない。ここに,資本主理論に代わる 会計主体論にもとづいた会計理論を構築する必要性があるといえる。 そこで本稿では,ステークホルダーの利害調整を重視して展開された会計主体論である 「企業体理論」に着目し,その論理構成を改めて分析することにより,「三方良し」の精神 を実践するために有用となりうる業績指標としての利益概念と損益計算構造について,議 論の方向性を示すことにしたい。 いわば,「弱い黒字企業」ではなく「黒字企業は強い」 あるいは「不健全な黒字」ではなく「黒字は健全」といえるような利益概念と,そうした 利益概念を算出する損益計算構造を構築するための準備作業を進めることが本稿の目的で ある。 もっとも G. H. Sorter により提唱された「事象アプローチ」のように,企業の経済活動の結 果を利益という単一数値に集約していくことにより生じる情報価値の破壊を回避するためにも, 「生のデータ(raw data)」を提供し,情報の加工は投資者などの情報利用者の手に委ねたほうが 良しとする見解もあるが,本稿ではステークホルダーへの分配の公正性を評価する際に有用とな る利益概念を愚直に模索していきたい。 なお,「事象アプローチ」については, 竹島[2007]や 坂上[2016]を参照のこと。
なお,本稿の構成は以下のとおりである。つぎのⅡ節では,企業体理論を提唱した代表 的な文献である阪本[1966]と高松[1966]を取り上げ,それらに共通する基本思考を抽 出し,その本質を明らかにする。つづいてⅢ節では,「三方よし」の経営学が経営資源と して人間を重視し,その会計処理についても言及していることを受けて,会計学の視点か らの応答を試みる。そして最後のⅣ節において,本稿における議論をまとめ,新たな会計 目的を提示している。
Ⅱ 企業体理論のエッセンス
「企業体理論」を提唱した代表的な文献としては, 阪本[1966]と高松[1966]をあげ ることができる。以下では,両者の論理展開を辿ることにより共通する基本思考を抽出し, 企業体理論の本質がいかなるところにあるかを明らかにする。 1.企業体理論提唱の背景 阪本[1966]は,企業体理論が資本主理論に代わり提唱された背景として,以下のよう な社会環境の変化をあげている。まず第一に,株式会社の大規模化が進み,資本主の私的 所有物として企業をみる企業観が破られ,社会的公器としての企業観がとられるに至った こと。第二に,企業の所有主たる個々の株主の地位が後退し,債権者,従業員,消費者, 徴税当局などの利害関係者の影響力が大きくなったこと。そして第三に,企業それ自体の 支配する資金量が漸増し,所有主の支配権が後退することにより,株主の持分とはいいえ ないような企業体持分が生まれてきたことである(164165頁)。 高松[1966]においても,同様の背景が述べられている。まず第一の点については,「株 式会社企業が大規模化し,所有と経営の分離がすすむにつれて,株式会社を普通株主の集 合体として,彼らの代理人的な組織として理解する資本主理論は,その妥当性に限界がみ られるにいたった。とくに現実の会計的判断が,資本主の立ち場からだけ行なわれるとい う態度は,制度化された株式会社の場合には,まったく不適当である」(45頁)とされる。 つぎに第二の点については,「現代の企業は, それをとりまく種々の利害者集団,たとえ ば株主・従業員・顧客・政府などとの,いわゆる『社会関係』において存在するところの, 一つの社会的存在である」(48頁)と述べられている。そして第三の点については,「企業 体理論における利潤とは,企業体自身が生みだした付加価値の部分をさすものであってい かなる利害者集団にも直接に帰属することなく,いわば,企業体が自由に利用しうる部分である。このような利潤部分は,企業体持分(主体持分)といわれて,いわゆる利益剰余 金としてとして理解されてるところのものである」(158頁)との記述がみられる。 時は流れ,21世紀となった今日においても,これらの背景は前時代的なものとはなって いない。企業を社会的公器とみる見方も,ごく自然に受け入れることができるものである し,ステークホルダーを重視する経営も支持を得られている考え方であると思われる。そ して企業体持分についても,内部留保課税が選挙の争点になり,賃上げの原資として内部 留保を活用せよといった議論(その妥当性については本稿では触れないが)もみられるく らいであるから,それなりのリアリティをもった概念として市民権を得ているのではない か。そのように考えると,今日の社会が企業体理論を受け入れる土壌は十分にできている といえる。 2.企業体理論の企業観 では次に,企業体理論が想定している企業観について明らかにしていくことにしたい。 まず阪本[1966]では,「今日われわれが企業体理論として主張する中に取り上げる会計 主体としての企業体は,社会的な生産機能および分配機能を営むところの制度としての企 業体である」(67頁)と述べたうえで,次のような企業観が語られている。 「いうまでもなく今日の企業は二つの大きな目的をもっている。 それは経済的利益を獲得すること によって利害関係者に所得を得させるという目的と,社会的生産を営むことによって社会に有用な 給付を提供するという目的との二つである。時として社会的生産を営むことは,利益獲得の目的の ための手段として理解せられる。しかし,社会的生産を営むという事実を無視しては利害関係者に 所得を与えることができない。また企業はこのような所得を分配する機能を営むものである。かく て今日の企業は,営利性と社会性との二目的―それは相矛盾する目的のようではあるが―を相互に 調整しながら,その活動を営んでいるのである。」(阪本[1966],191頁) 一方, 高松[1966]では,「企業体を社会関係を無視した『真空』の状態においてみた り,あるいは会計を利害者集団の利害をすべて捨象した,無色透明のものと考えることは 正当な見方ではない」(49頁)と述べたうえで,次のような企業観が語られている。 「企業体はたんに給付価値の生産実現をつうじて社会的に貢献するだけでなく, さらに重要な『価 値配分』としての役割をも果たすものであることに注意しなければならない。いいかえれば,企業
体は生産の面だけでなく,分配の面でも社会的に貢献するのである。」(高松[1966],6566頁) さらに,価値分配の具体的な態様について次のような説明が続く。 「生産要素の流入の対流としての貨幣の流出は,取引の相手方すなわち利害者集団の側からみれば, 彼らの所得ないし収益を形成する。たとえば雇用取引についてみれば,従業員集団は賃金給料を彼 らの所得としてうけとり,また原材料購入取引についてみれば,その提供者集団は提供した財貨用 役の価格を収益としてうけとる。明らかに,企業体は,各々の利害者集団からみれば,彼らの所得・ 収益の源泉であることになる。」(高松[1966],66頁) 企業目的の一つとして,社会的に有用な財やサービスの生産と提供をあげることに異論 を唱える向きは少ないと思われる。さらに,財やサービスを提供するためのコストを最小 化し,利益最大化を行動原理とする一般的なミクロ経済学(新古典派経済学)が説くよう な企業観もまた比較的受け入れやすいものであるといえる。このような企業観のもとでは, 「営利性」こそが企業評価の指標となることは言を俟たない。「期間損益計算偏重の会計理 論」(杉本[1981],39頁)とも称される在来の主流派会計理論は,こうした企業観に立脚 し,企業の生産機能にのみ焦点を合わせて展開されてきたものといえよう。 しかしながら,企業目的はそれだけではないとするのが企業体理論の企業観である。企 業が財やサービスを生産するためには,人間を雇用して労働力を提供してもらわなければ ならない。それだけでなく,原材料の供給者などのステークホルダーと継続的に良好な関 係を維持することも必要不可欠である。そのためには,これらのステークホルダーから提 供された財貨用役に対して, それに見合う対価が支払われなければならない。企業に期 青柳[1991]は,会計理論を生産経済的志向の会計理論と分配経済的志向の会計理論とに大別 し,前者を代表する学者として W. A. Paton と E. Schmalenbach をあげている。彼らがわが 国の会計学に与えた影響を考えると,こうした特徴づけもあながち的外れなものとはいえないで あろう。ちなみに,後者を代表する学者としては,G. O. May と H. Ruchti があげられている (317355頁)。 この点については,岩田[1956]における Nicklisch 学説について言及した次の記述が参考に なる。これまで会計学界では,貸借対照表等式の提唱者にして静態論者として位置づけられてき たが,別の視点からの研究が必要であることを示唆する内容となっている。「経営給付の費用価 値の決定は,経営協同体の内部関係からみても重要である。販売収入から外来価値の原価を控除 して算定せる経営収益は,経営で働く人間の給付に対して報酬として支払われる資金を示すもの である。企業家の資本効用に対しては利子として,企業家の労働給付に対しては企業家賃金およ び賞与として,労働者の労働給付に対しては賃金,手当,福利費として分配される資金である。 すなわち経営収益に相当する貨幣は,結局経営から払い出されて,協同体構成員の所得となるの である。そこでこの所得分配は, 如何なる割合で行わるべきかが問題となるであろう。 ニック リッシュは,この分配の基準をかれらの給付の大いさに求めようとする。経営給付の大小に比例 して,経営収益を配分せんとするのである。」(387頁)
待されるこうした役割が分配機能であり,在来の主流派会計理論が見落とすか,あるいは 意図的に無視してきたものということになろう。 3.企業体理論の損益計算構造と利益概念 こうした企業観のもと,企業体理論ではどのような利益概念と損益計算構造が展開され ているのだろうか。最後にこの点を明らかにしていきたい。 まずは阪本[1966]のいうところに耳を傾けることにしよう。 「企業体理論は, 所有主とは離れた別個の存在としての企業体をもって企業会計の主体と考えるも のである。したがって所有主のように企業を営利の手段と考えることなく,また企業の解散を前提 とする財産計算による純財産の増加高をもって,そのまま利益とは考えない。むしろ企業の長期的 存続を計ることを目的とし,企業の活動を維持するに足る資本の維持を計った上で,その活動の結 果として生ずる費用と収益の差額をもって利益と考える。すなわち企業の活動の継続的維持を前提 として,企業の利益が算定せられるのである。」(阪本[1966],194頁) ここでは,資本主理論と対比することにより企業体理論の特長が描かれている。 まず もって指摘しておくべきは,企業の長期的存続を前提としたうえで,企業活動の継続的維 持を計るために必要な資本額が確定され,その後に収益費用差額として利益が計算される ということである。収益費用差額として計算された利益が振り替えられることにより資本 の大きさも確定するという損益計算構造に慣れた我々の視点からみると,いささか奇異な ものにみえるかもしれない。しかし,この記述は損益計算書が当期業績主義を採っており, 今日いうところの特別損益項目が剰余金計算書に表示されていた時代においてなされたも のであることに留意する必要がある。換言すれば,損益計算とは別個の計算領域として, 剰余金計算が確立していたのである。 こうした時代背景を押さえておけば,資本計算と利益計算が同時平行的に行われるとす る次のような記述も腑に落ちるものとなる。 「企業体理論においては,企業が一定の規模を前提として社会的生産機能を継続実施する上に必要 な資本の額および社会的分配機能を継続するために算定せられる利益の額が同時平行的に計算せら れる。資本の確定計算なくして利益の確定計算なしとする見解が支配する。」(阪本[1966],201頁)
筆者の能力不足もあり,阪本[1966]において展開されている損益計算構造をこれ以上 詳細に分析し,論評することは難しい。しかし現段階でも,ここで計算される利益の範囲 内であれば,そのすべてを配当等の形で社外流出させたとしても,企業の生産能力は維持 されるような利益概念が想定されているということまではいうことができる。 一方,高松[1966]においては,どのような利益概念と損益計算構造が想定されている のであろうか。次の記述を手がかりとして考察してみよう。 「会計は現実の利害者集団の利害の競合および調整の姿を,ありのままに測定するという職能をもっ ている。したがって会計が行う測定は,けっして利害者集団とは無関係に行われるものではなく, まったく無色透明なものでもない。/こうした経済的測定の中心にあるものは,いうまでもなく企 業の損益計算,とくに期間損益計算である。すなわち,期間収益は,生産を目的とする企業体が, その職能の遂行をつうじてどれほど社会に貢献したかを示すものであり,期間費用および期間利益 は,生産活動に参与した利害者集団への成果の配分の姿を表す。このため企業体の損益計算は,企 業体の社会的貢献の度合いを, 生産の面と分配の面との二つの面から表現しようとするものであ る。」(高松[1966],55頁) ここから読み取れることは,利益概念に対して「営利性」の指標としての役割が課され ていないということである。また損益計算構造も,期間収益を生産活動によって産み出し た価値をステークホルダーに分配するプロセスとして描かれていることも指摘しておかな ければならない。さらに詳しくみていこう。 「企業体は,公共社会にたいする責任を遂行するための機構としてみられるから, 生産を目的とす る企業体が,給付価値の生産実現をつうじてどれほど社会に貢献したかを収益の面からながめ,ま た,その貢献に参与した利害者集団への成果の配分(価値分配)の姿を費用の面からとらえ,もっ て企業体の社会的責任の度合いを測定するのである。〔中略〕ただし, ここでいう期間費用とはま こうした見解は,低成長時代を迎えた今日の資本主義経済下において企業が目指す方向性と軌 を一にするものといえる。この点については,水野[2017]における次の記述を参照のこと。「政 府も企業も,定常状態を目指さず,成長教にとらわれてしまっているため,結果的にマイナス成 長をもたらしてしまっています。『閉じた』空間においては成長(インフレ)自らが,反成長(デ フレ)を生むようになっているのです。〔中略〕したがって私たちは, 自覚的に定常状態を目指 していかなければなりません。/すでに日本の設備は過剰になっているのですから,これ以上, 新設投資の必要はありません。〔中略〕新設投資の必要がなければ,企業が生み出す付加価値の 分配は,資本の維持費である固定資本減耗と雇用者に支払う雇用者報酬のふたつで十分です。」 (210211頁)
えにのべたように配当・税金などの利害者集団への価値分配をふくんだものであるから,期間収益 との差額としての利潤は,企業体自身が純粋に生みだしたところの付加価値であり,企業体自体に 帰属するものである。ゆえに,会計における利潤の本質は,企業体自身にたいして配分され留保さ れた価値であると規定することができよう。」(高松[1966],89頁) 以上より,高松[1966]における利益概念は,最大化を志向することが「善」となるよ うな性質のものではないことがわかる。なぜなら,利益額が大きいということは,ステー クホルダーへの分配が十分に行われていない状態を意味することになるからである。あえ ていうならば,分配の原資たる期間収益 の最大化を志向し,ステークホルダーへの分配が 行われた結果として算定されることになる期間利益 は限りなくゼロに近いほうが好ましい ともいえる。 ここまで企業体理論において想定されている損益計算構造と利益概念について考察して きたが,そこから得られた知見は以下のとおりである。すなわち,企業体理論も在来の主 流派会計理論も,「収益-費用=利益」という損益法計算式に依拠しているにもかかわら ず,どこに重きを置くかによりまったく毛色の異なる解釈が可能になるということである。 在来の主流派会計理論においては,損益法計算式の右辺である利益を最大化することが 「善」とされ,そのために収益の最大化と費用の最小化は無差別なものとなる。 一方,企業体理論においては,収益 の最大化と利益 の最小化こそが「善」とされる。た だし,ステークホルダーへの分配の結果である費用をやみくもに最大化すれば「善」とい うわけではなく,ステークホルダー間の分配に対する「公正性」という観点から改めて評 価されなければならない。形式的で無味乾燥なものにすぎない損益法計算式に対し,いか にして倫理的要素を組み込めばよいのか。今後,さらなる研究が必要とされる。以下,本 稿ではこうした特徴をもつ損益計算構造を「分配志向的期間損益計算」と称し,企業体理 論の中核を占める損益計算構造と位置づけることにする。
Ⅲ 人件費をコストとしない会計
1.人間を大切にする「三方よし」の経営学 ここで,「三方よし」の経営学に戻ることにしよう。これらの言説は,ステークホルダー を重視するという点において共通した特徴をもつものであり,特に従業員を大切にするこ との重要性を説いている。すなわち,次のごとくである。「企業が利益確保とともに雇用安定 を暗黙の努力目標とし, もって現場と経営者の信頼関係を確立 しなければ,従業員の主体的かつ持続的な改善努力の形成は難しい。逆にこの信頼関係があれば, 会社の業績,現場の存続発展,自分自身の生活とやりがい,これらが連動するようになる。」(藤本 [2017],187頁, 傍点筆者) 「ヒトをモノやカネと並立概念で評価・位置づけると, 人財 をモノやカネ, あるいは情報などと同 様の『経営の手段』と捉えてしまう。そして他の経営資源・手段と並ぶ『選択肢の一つ』と考えて しまうのである。/結果は膨張経営や業績第一義経営に陥り,都合が悪くなるとリストラや理不尽 な取引の強要に走るのである。こんなことを繰り返していたら,その企業の存続が危うくなるのは 当然である。」(坂本[2017],199頁,傍点筆者) 「日本の場合, そもそも企業文化が欧米, とりわけアメリカとは異なります。 /アメリカのように 転職が当たり前で労働力の流動性が高い国では,『企業に必要な人材はその都度市場から調達すれ ばいい』という発想になるのもうなずけます。一方日本は,自社の中で新入社員を一人前に育て上 げる文化を培ってきました。そこに突然,早期退職を促すようなリストラや非正規雇用を持ち込ん でしまう のですから,企業が機能不全を起こす のも当然です。」(新井[2017],7374頁,傍点筆者) 本来であれば,「人材」と表記すべき語句を「人財」としている点に, 坂本[2017]の 思い入れの強さを感じることができるし,また藤本[2017]や新井[2017]においても, 従業員を大切にすることの重要性を言外に読み取ることができる。そしてさらに指摘すべ きは,これらの言説の中には,人件費の会計処理についても踏み込んだ提言がなされてい るものがあるということである。ここでは坂本[2017]を取り上げることにしよう。 2.提言された人件費の会計処理 坂本[2017]は,人件費をどんな時代においても削減してはいけない経費としたうえで, その適正な水準について次のように述べる。 「『適正』とは,地域や業界の人件費を参考にしつつ,中小企業にとっては少し高い傾向にあるが, 地域の公務員の人件費並みが妥当と思われる。〔中略〕そのための基本的前提となるのは,支払能 力の確保である。そう考えたとき『売上高-人件費』という経営計画ではいつまで経っても難しい。 求められるのは,『適正人件費+その他の経費+適正利益=必要売上高あるいは必要付加価値』と
する計画づくりである。つまり売上高のために人件費があるのではなく,人件費のために売上高が あるという考え方である。」(坂本[2017],166167頁) 上記引用文中にみられる「人件費のために売上高があるという考え方」などは,従業員 への分配を意識したものであり,「分配志向的期間損益計算」との親和性も高いといえる。 そのうえで,人件費の具体的な会計処理方法についても次のような提言がなされている。 「人件費をコストと見るのは,企業経営の三要素『ヒト・モノ・カネ』のうちモノとカネは貸借対 照表上の資産の科目に計上されるのに,ヒトは貸借対照表上にまったく計上されないからである。 〔中略〕ではどうすれば,企業経営の最大経費である『人件費』をコスト・経費ではなく,『資産』 と評価する経営学を確立することができるのであろうか。/その一つは,社員を『人的経営資産』 と価値評価し,貸借対照表の資産の部,例えば固定資産の欄に計上する方法である。/その金額は, 社員一人一人に支払う予定の生涯賃金の総和である。もとより,その中には福利厚生の企業負担分 や,支払われる予定の退職金も合計することは当然である。/周知のように貸借対照表は借方・貸 方一致の原則があるので,負債の部にも同様の金額を計上しなければならない。〔中略〕つまり負 債の欄に計上することにより『人への債務』,『人は社会からの預かりもの』という理解・認識を高 めるためでもある。」(坂本[2017],167168頁) ここで述べられている会計処理を仕訳形式で表現すれば,以下のようなものを可能性の 一つとして考えることができる。 ① 従業員採用時 (借) 人的経営資産 ××× (貸) 未払給料 ××× ② 給料支払時 (借) 未払給料 ××× (貸) 現金預金 ××× ③ 従業員退職時 (借) 人的経営資産償却 ××× (貸) 人的経営資産 ××× 資産勘定である「人的経営資産」は,坂本[2017]で示されている用語を使用し,それ と同時に同額が計上される貸方勘定は「人への債務」とされているので,「未払給料」と した。上記仕訳例では,従業員退職時に一括して「人的経営資産」を「人的経営資産償却」
として費用化する会計処理を示したが,こうした会計処理が必然的に導出されるわけでは ない。従業員の在職期間にわたり,随時償却して費用化する処理も可能性としては考えら れる。 上記会計処理のポイントは,現金支払額と費用計上額の直接的なつながりを切り離した 点にある。従業員が企業に対して提供した労働給付の対価としての意味を「人的経営資産 償却」にもたせれば,その額が現金支払額を上回るケース(支給された給料以上の働きを したとみなされるケース)もありうるし,反対にその額が現金支払額を下回るケース(支 給された給料に見合った働きをしていないケース)もありうる。もちろん,給料支払額と 同額の償却が行われれば,支出額を全額費用計上する現行の会計処理と費用計上額は等し くなる。 もっとも,こうした会計処理に対しては,次のような批判が予想される。まずは,費用 計上額を現金支出額という制約から解き放つことによる利益操作の可能性である。利益が 当初の予想額に届かない可能性が高まった場合,従業員による労働給付の対価という視点 を無視して,意図的に「人的経営資産償却」の計上額を低く抑える誘因が働く可能性があ る。 しかしながら,こうした批判は経営者の倫理観の欠如という論点へと還元することがで きる。いわば,会計処理自体に内在する問題点ではなく,そうした会計処理を行う人間の 資質の問題へと押し戻すことができるはずである。減価償却による利益平準化が一般に公 正妥当と認められた会計処理とされるのであれば,「人的経営資産」の償却(費用化)を 拒絶する理由は見当たらないと思われる。 もう一つ予想される批判は,実行コストの問題である。「人的経営資産」の額が,「社員 一人一人に支払う予定の生涯賃金の総和」であり,「その中には福利厚生の企業負担分や, 支払われる予定の退職金も合計」とされていることからも明らかなように,上記会計処理 は些か手間がかかりすぎる。それでいて,そのコストを上回る便益が得られるかどうかも 甚だ不透明でもある。 この点についての批判は甘んじて受け入れることにしよう。 それにもかかわらず,「人 的経営資産」の計上と償却に拘る理由は,会計にどこまで社会を変革する力があるかを見 極めてみたいからである。筆者の知的好奇心を満足させるべく,こうした会計処理今後の 研究課題としていきたい。 以上,坂本[2017]において提唱された会計処理について,その紹介と論評を試みてみ た。結論として,こうした会計処理は,企業の分配機能を明示的に取り入れたものであり,
「分配志向的期間損益計算」に立脚したものということができ,企業体理論と整合的な会 計処理ということができる。換言すれば,会計主体論として企業体理論を採用すれば,受 容される可能性の高い会計処理ということである。
Ⅳ
「ボトムライン」から「トップライン」へ
本稿では,企業体理論を考察主題として取り上げ,その論理構成を分析した結果,そこ では「分配志向的期間損益計算」なる損益計算構造が展開されていることを明らかにした。 「分配志向的期間損益計算」は,今日喧伝されている「ステークホルダーを重視する経営」 や「CSR 経営」等とも親和性の高いものであり,財務会計研究が目指すべき今後の方向性 の一端を示すことができたのではないかと思われる。 「分配志向的期間損益計算」とはいえども, その形式的構造は損益法計算式に立脚して おり,在来の主流派会計理論が想定していた損益計算構造と大きく異なるものではない。 ほんの少し,それを使う人間の考え方を変えるだけで,在来の主流派会計理論が想定して いた損益計算構造は,「分配志向的期間損益計算」へと転換することができる。 現行の損 益計算書の構造について述べた次の引用は,このことを明瞭に示すものである。 「トップラインには,わが社の製品・サービスがどれだけ社会に受け入れてもらったかを売上高と して示し,その製品・サービスを作り出す素を提供してくれた取引先に対して適切な対価を支払っ たかどうか(売上原価)が示される。企業の外部者である顧客と取引先に対する責任を果たして初 めて,企業内部者である従業員に対する責任(給与等)が出番となる。株主に対する責任(当期純 利益)は最後の最後にくる。企業が他のすべてのステークホルダーに対する責任を果たした結果, 当期純利益がマイナスになるときは株主がその損失を負担する。株主が,他のステークホルダーよ りも先に報酬を享受するということはない。損益計算書は,企業経営とは,かくあるものだという ことを教えてくれる。」(田中[2016],61頁) このように,人間の考え方を少し変えるだけでも,現行の損益計算書を「分配志向的期 ちなみに新井[2017]においても,人件費をコストとしない会計が提言されている。次の引用 を参照すればわかるように,企業体理論と整合的な会計処理が提言されている。「売り手である 経営者,社員, 取引先・債権者,株主は, みな『コストの発生源』ではなく,『付加価値を分配 する対象』と考える。/たとえば社員に対しては,決算書のなかの『人件費』を費用項目から外 して収益額を出し,その分配先として人件費を定義すればいいのです。そうすると,経営者と社 員は『収益を分配する対象』として同じ方向を向くことができます。」(9293頁)間損益計算」の結果を示すものとして読み替えることができる。「ボトムライン」から, 「トップライン」へと焦点を移行するだけで別の世界が現前するかのようである。 最後に,「なぜ人件費はコストのか?」という根源的な問いに立ち戻ってみよう。考え られる回答としては,「人件費はコストでしかありえない」あるいは「人件費がコストで あることは当然である」というタイプのものがあろう。いわば,「強烈なる思い込み」に 端を発する回答である。こうした回答を突き崩すためには,やはり理論的な側面から攻め る以外にない。 そうすると,人件費がコストとして処理されるのは,現行の財務会計が資本主理論に立 脚しているからだという回答に行き着かざるをえない。だが,これまでに述べたように, 現実の大規模株式会社の特徴を帰納して形成された企業観に合致するのは企業体理論であ る。そうした帰納により,資本主理論における企業を資本主の私的用具とみなす企業観が 導き出されるとは思えない。それにもかかわらず,資本主理論は現行会計において今なお 強い影響力を維持し続けている。なぜか。 結局のところ,それは現行の財務会計が投資家の意思決定に有用な情報を提供すること を第一の目的としているからだと答える以外にない。しかし,現行の財務会計は投資家に 対して本当に有用な情報を提供することができているのだろうか。 改めていうまでもなく,投資家といっても千差万別である。短期的な株式の売買をくり 返すタイプの投資家もいれば,比較的長期間にわたり株式を保有しようとする投資家もい る。これが証券市場の現実であるはずである。おそらく投資行動パターンを異にするであ ろう彼らすべての投資意思決定に対して有用な会計情報なるものが存在するのか,筆者は 懐疑的にならざるを得ない。 投資家が会計情報を参考にして投資意思決定を行うこと自体は否定しない。それは投資 家の自由である。ただ,「投資家のために」という大義名分を掲げて,会計基準の新設・改 廃をすることはそろそろ断念すべき時期に来ているのではないか。財務会計はステークホ ルダーへの分配の公正性を評価する際に有用となる情報の提供へと舵を切るべきである。 そして,その原動力となりうるのは,財務会計に携わる人々の気の持ちようであることを 指摘して本稿を終えることにしたい。 原[2017]で述べられている「ROC(Return on Company)」(193頁)の算定に役立つ情報 の提供なども,十分にその候補となりうる資格を有していると思われる。
参 考 文 献 青柳文司[1991]『会計学の基礎』中央経済社 新井和宏[2017]『持続可能な資本主義』ディスカヴァー・トゥエンティワン 岩田巌[1956]『利潤計算原理』同文舘 坂上学[2016]『事象アプローチによる会計ディスクロージャーの拡張』中央経済社 阪本安一[1966]『近代会計と企業体理論〈改訂版〉』森山書店 坂本光司[2017]『人を大切にする経営学講義』PHP 研究所 末永國紀[2017]『近江商人学入門―CSR の源流「三方よし」―〈改訂版〉』サンライズ出版 杉本典之[1981]『引当経理と繰延経理』同文舘 高松和男[1966]『〈増補版〉現代会計の原理』財経詳報社 竹島貞治[2007]『会計理論の再構築』森山書店 田中弘[2016]『GDP も純利益も悪徳で栄える―「賢者の会計学」と「愚者の会計学」』税務経理協 会 原丈人[2017]『「公益」資本主義―英米型資本主義の終焉―』文春新書 廣池千九郎[2017]廣池幹堂編『「三方よし」の経営学―廣池千九郎の教え99選―』PHP 研究所 藤本隆宏[2017]『現場から見上げる企業戦略論』角川新書 水野和夫[2017]『閉じてゆく帝国と逆説の21世紀経済』集英社新書