「水利共同体」論に対する中国からの批判と提言
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(2) の基礎を提供してきた旧水利論の克服という課題を担い、それに先鞭をつけたものであっ た。その意味で氏の論文は、端的にいえば中国の水利組織を「世界史的法則」のゲルマン 共同体に比定するという手法を適用したのは当然であった。 豊島氏は出頭の水利組織=農圃社のメンバーは、水利権(水垢)の所有者であったから、. 社の共有を根拠に水利組織を共同体と規定した。また、水利施設の私有化は共同体の解体 と考えた。それに対し江原正昭氏は、「中国西北部の水利共同体に関する疑点」(『歴史学研. 究』第237号)において、理論面から豊島説を全面的に否定した。即ち、ゲルマン共同体 の場合、形式的平等を意味するが、豊島氏の水股に応じて水の配分を受け、水利費を負担 するのは形式的平等とは言えず、水争に官が裁断を下すので、水の所有者が国家であると するのは理解し難いという。氏のゲルマン的共同体は農民が私有地をもち、共有地も共同 体的規則によって私有的性格をもっと考えていた。. 続いて宮坂宏氏は、「華北における水利共同体の実態」上、下(『歴史学研究』第240号・. 第241号)において、『中国農村慣行調査』第6巻水編により水利組織の分析を行った。そ の論点は「鎌」を使水戸の用水権と規定し、引水権をもつ晶出=土地所有者の団体こそが 村落とは別に間毎に形成された水利団体であるとして、その共同体としての性格を否定し た。. これに対し好並隆司氏は、「水利共同体における鎌の歴史的意義」(『歴史学研究』第244 号)において、血忌が水利組織の基礎であるとする宮坂説を批判し、鎌の算:出方法を通じ. て、水系読め村落を基底とする水利権とした。これに続いて宮坂、好並両氏の見解を批判 したのが、前田勝太郎氏の「旧中国における水利団体の共同体的性格について」(『歴史学. 研究』第271号)である。氏は好並説の鎌の単位=「張」を50畝に灌水する権利とするの に対し、10畝の水地を灌話する単位量:とするとともに、宮坂説に対しても基本的に否定レ. ている。即ち、村組織と水利組織(聞)は一致していないが、両者の関係を個別化するこ とは、それぞれの役員の兼務や、水利費の村公所から支出等の事例から困難としている。. 同時に聞を利益団体としてその聞の対立が生じた場合、自治能力が機能せず、公権力に依 らざるを得ないとするのに対し、自治的裁定を行った事例から利益団体と断定することに 難色を示している。. 以上の水利共同体をめぐるいわゆる「歴研論争」は、その主たる対象を中国西北部から. 河北省刑台県に移行したが、他の地域についても関連論文が発表された。その1つとして 筆者も「福建省における水利共同体について」(『歴史学研究』第261号)において、水は 地主集団による農民支配の手段であり、水利共同体と国家の関係は、実質的支配権は共同 体にあり、官の支配は行政上の外的性格であるとした。これについて好並氏は、「農業水利 における公権力と農民」(『歴史学研究』第271号)において、筆者の「破田」解釈に対し、. それは「官田」として定置されたもので、そこから施設、労賃な、どが支出されている意味. で、官による水利支配が行われており、水利組織は他律的共同体であるとの見解を提示し た。. 一116一.
(3) 紙幅の関係で「二三論争」の概略を紹介したに過ぎないが、その論点は多岐にわたって いる。それらを要約整理して以下の4点に大別されている。. (1)水利組織と水利権 水利組織における水の所有権(水利権)のあり方、位置づけの問題である。水利組織は 水系と、それに付随する水利施設を共同利用する集団である。水そのものは明らかに共同 体の所有、つまり公水と規定され、一定の規約の下に、個別の使水戸に割りあてられる。. 水利組織における使水権としての鎌は、共同体的規制によって、明確に位置づけられてい たのである。. (2)水利施設の管理・運営 水利組織は一定の水利施設を共通の基盤とした機能集団であった。その具体的な管理・ 運営には、それぞれの用水地域から選出された、河正、二三、渠長などの責任者を公挙す ることを原則としていた。即ち、外見上は平等を謳いながら、事実上は土地所有に基づく 階級支配が行われていたのである。好並氏は水地施設への官の介入を否定できない.として、. その財源である堰山や破田が官の設定によることや、間門の鍵を官があずかるなどの事例 を指摘している。. (3)水利組織と村落 「回忌論争」のなかで中心的テーマはこれであった。両者の関係については関連説(豊. 島、森田、前田)と、切断説(宮坂)とに分けていて未解決の問題である。好並氏はこれ に関連して、水利組織を水地の所有者の組織ではなく、水地利用者を単位とする組織では ないかという仮説を提示している。また、石田氏は水利組織はダイレクトに村落を基盤と していないが、村落の諸機能を媒介としており、村落と離れ難い関係にあるとし、筆者の 理解に極めて近い。. (4)水利組織と国家(公権力). 水利組織を巡る公権力の位置づけについても、それを内在的なものとする説と、外在的 な存在とする説とがあり、それによって水利組織の共同体的性格の是非が決せられること になる。前者は水利施設の管理への官の介入、あるいは水争は内部的解決が原則であるが、. 不調に終った場合は官に委ねること、内部的秩序の違反に対する罰則の権威を官に求めて いる点などを挙げている。一方、後者は前者の諸点も農民の自主的管理を必ずしも否定す るものでなく、組織の主体性を外部的、形式上支援するものに過ぎず、共同体的性格に変 わりはないとするものである(1)。. 以上の「山回論争」の概要からわかるように、その内容は各論二間による見解への批判、. つまり相互批判や反批判は見られず、一方通行に終ったままである。したがって、論争の. 一117一.
(4) 進展は今後の課題として残されている。そうしたなかで、論者の1人であり論議の交錯に 対し、その整理と解決の方向づけをリードした好並氏は、自らの「仮説から論争の各説を 検討してみなければならないが、・… 清水盛光氏が村落と水利組織を癒着させ、米田賢. 次郎氏がゲマインシャフトリッヒなものでないと考えられたが、この両極の見解は右の仮 説から考えるならば、必ずしも矛盾しない」と論争前の旧水利論に遡って、一つの提言を 行っている(2)。なお、論争の当事者でなないが、石田氏は論争を整理した上での結論とし て、水利組織をゲマインシャフトであるとの断定的な見解を下している(3)。. 3。「灌概、環境と水利共同体」の概要 砂氏の論文に入るに先だって、先ず冒頭の要旨を通じて、その概要を知ることにしたい。. 明清の水利社会とその変遷に関し、学界ではかっていわゆる水利共同体、並びにその解体 理論について熱心な討論が行われた。そのなかで明末清初の地権集中が、水利共同体の解 体の基本要因とされている。本文はフィールド研究と発掘した民間文献を利用し、関中中 部の渠堰灌概および水利社会を分析することによって、該理論の展開に対して若干の是非 を検討し、反論を加えたいと思う。土地集中の相対的分散は共同体内部の権利と義務の分 離をもたらすとすることと共に、水利共同体の解体期を明末清初に統一的に理解すること は、必ずしも正しいとはいえない、と述べている。. さて本文に入るが、論者の対象は畠中(陳西省)中部の滑河北岸の支流、浬河、治河、. 濁河などの地域である。浬河を引水する三二史は古く、その範囲は広大で戦国から唐代に かけ、関中は全国的に大きな影響を与えた。しかし、その後、心素には引浬の洞口が堵塞、. 温品灌概の衰退にかわって泉水灌概に移行した。当時の灌概面積は600∼700頃程度であっ たが、温品によって相異があった。. 砂氏は上述の灌概地域の考察において貴重な民間文献を発掘したが、その一つの清恵渠 管理局所蔵の《真俗河各誌記事簿》は、当地の水利の歴史と現代の資料集である。これが 編写されて現在は標点が付され『二三侠聞雑録』(4)に収載され、利用が便利となっている。. (1)学術史及び水利共同体理論. 中国では近年民間文献を利用した関中に関する基層水利社会研究が活発であり、論著も. 多い。それらの研究動向は、大別して3っに分けられる。第1は水資源環境と河流水文の 特徴に関するもので、二念海らの系列研究である。第2は関中の水利開発史の研究で、二 二璋はその発展の重点と分布の特色を考察している。第3は通論的な水利史の論著である。. 二三水利はその一部であるが、その研究には当地の新修の水利志、ならびに民間文献によ る水権、水利社会史研究が重視されている。二三洪は主に山中の水権に注目しており、明 清における用水権の売買および地権の分離の検討を特徴としている。魏 信は三代の二二 工事の自然社会環境と、官僚の意識変化と共に二二二二の形成にも関心を持っている。. ところでそもそも共同体の概念は多様であるが、当面のそれは農村が備えている高度な. 一118一.
(5) コンセンサスをもつ、強固な内部的結合集団を指す。その具体的な形態は種々であるが、. 水利共同体はその1つである。大陸では近年漸く討論が盛んになってきたが、海外では日 本の中国史研究が最も活発である。半世紀以来続いてきたテーマである。日本の水利組織 研究の元祖は清水盛光であるが、活発な討論が見られるようになったのは、1956年の豊島 静英からである。彼は三遠、山西などを対象として水利共同体論を展開した。即ち、水利 施設は共同体の共有財産であり、農地は成員の私有である。灌潮i用水は成員の土地面積に 応じて平等に分配された。費用と労役は受水に応じた分担が必要であった。各自の田地・ 用水・負担の問には密接な関係があったのである。つまり、地罵水=夫・費の有機的統一 が成立していたという。氏の論文を端緒とする一連の論争が行われたのは、日本の『歴史 学研究』誌上であったが、大方の研究者は水利共同体に関して共通の概念をもっていた。. これに対する大陸の学界の水利共同体についての研究は非常に少ない。かつて二三洪は 関中中部の水利共同体について検討したが、その重点は運用や機能ではなく、農民の環境 資源の利用における富有効率の論証にあった。. ともかく、日本の研究者の論議する水利共同体と関連の諸問題は、論理がはっきりして おり、自ら体系化されており、具体的な説得力をもっている。そのうち、明末清初の大土 地所有の進展は、水利共同体の解体論の基礎を提供している。この理論に対し根本的な反 論を提出するためには、水利社会の土地所有(地権)状況に対する詳細な考察が不可欠で ある。. (2)一中部分地区の地権状況. 本節での考察の中心は、忌中(陳西省)の浬河、石川河支流の諸河一治河、二河を二流 地とする浬陽、三原、富平などの諸県である。これらの地域は明清当時、農業経営にはあ まり関心が高くなく、概ね商業によって富を成し、大土地所有者の存在は見当らない。ち なみに、清人によれば「こうした現象は山中では普遍的で、関中の二二はすべて二三によ って起家し、その多く’の心地の者は然らず、富民の雷鳥は百畝を超える者はない」(5)と。. その通り富戸の所有地は多くなく、関中全体の土地所有も比較的平均化している。これを 清代道光年間の高門渠の二戸(土地所有者)の土地所有統計について見ると、次頁(表1) (6)の通りである。この分析によれば最大の所有面積は383.2畝で、劉体乾と劉昌宗の共有. 地であり、一方、土地所有が特に分散しているとも言えない。要するに大土地集中は見ら れないと言える。その意味では統計結果と、先の水利共同体の崩壊説とは矛盾していない。. しかし、水利共同体の崩壊の核心は、用水権と負担義務との分離にあり、田地の多い者 の灌概時間が長いのは当然であるが、灌水地を根拠に相応の費用や労力の負担も当然であ った。この原理的な相関関係の維持が共同体存立の前提であった。逆に言えば地・水・夫 (費)の有機的統一がある限り、その瓦解はあり得ない。問題は田畝の給水が、その面積 に相応な水量を確保し得ているか否かである。それには単位面積の用水時間を計算する必 要がある。. 一119一.
(6) 三河の天津渠の場合、直接資料は示されていないが、呂家村め二三賓家は水地に対し用 水時間が超過していることを指摘し、用水の占有と田地量とが適合していない。こうした 呂福二家は後に“悪覇地主”として抑圧されている。清代の当地では水地をもって累とな し、土地の保有に対して積極的ではなく、自然災害を機に遂に農民は田地を牽回している (7)。. そのため1934年以後、灌概条件が改善され、自作農の数は増加して8割を越えた。この ように土地の集中は見られず、むしろ分散の傾向を辿っている。要するに各種資料は、関 中の土地所有は相対的に分散しており、最高でも千畝を越える大土地所有者は全く見当ら ない。’. 概区においても同様である。. く表1)道光年間における治河高門渠の利戸および田地統計分析 田地区間 0∼25r「げ…岬げギ’ 罰 ’“ヒ 網一肝灯ド. 利 戸 戸数. %. 227. 田 地 田地総量. 375∼400隔竹甲脚丁”r 門 ’晶冊¶「一「一ド. 合計/平均. 上水地. 中水地 63,300. 26,000 丁 げ げ ” げ 」 」「r m. ゴ’ゴゴ卍ドドド’汀占 ’ “…【げドゴゴκド 「 門ヒ. 85’…岬押P7馬…”…r…戸. @ 22.11…”F畠…戸” 「…F丹w脚戸階’. …糖w酬P一 竪’FVF胡”…訓v此. … 階”F甜” … ” 「脚 ……. 下永地. 15.06. 2158.800rド 一 π ● 丁 ドm r「 ドド r b ドゴゴ. 旺 ド ド ド 汀 ド … ド」 丁 π ’ 丁 丁 厚 π. 25∼50 T0∼75 75∼100 100∼125 125∼150 150∼175 175∼200 Q00∼225 225∼250 250∼275 275∼300 R00∼325 325∼350 350∼375. 水田類別数量 %. 3081,003 1584,630. @ 21.49躍A甘”肝 W 「一「“■…■肝” 「’” 「押n「 、 ’評. 89,260. 5,000. 1117,360 792,100. 12,000. 0,000. 143.200. 208.500. @ 87.000ドドドド r 内「 臼 ド 「亨 “ bげF肝 耳ド 牌ドドゴ…. @ 10.000…ヒ柄 ゴ厚ゴゴゴ’ゴ山…曲ヒ ドr ド耐 ”ゴ 」. P129,360. @ 7.88. 10. 2.60. 1143,800. 7.98. T31,710 ゴ 汀 ゴ. O.26. 2. @ 0.52. 1. 0.26. 7 1 1. @ U5.400干 什’FF ㍉ 酎醒FFF サ 戸”戸閏剛} 、 ” 「躍’…「’ 「”’ 「「’. P.82. 0.26軸「甲 「「「順 Lρ F F画γ Lρr rrρ 闇’ρ馬 m 献[、マr. 戸 昂 戸 精 w w’戸F 凸w” T ’岬P 壁「「’. @ 369.400. @ 2.58. @ 369.400. @ O,000. 0.000. @ 1.53. @ 220.000. @ 0.000號LFn玉f」冊 愉■冊 愉 w w’」冒F」冊耐焔 削. @ 0.000κ酬… F」鴇 酬崩 …”静”躍. 岸畠㍉π κ’… WF吊. @ 1491.110 253,080mドπ 亨内”ド ド 「甲κド”ド丁厚ド 「 ドド’.可r「. P1.79 1.76ド■●胆げ” 旧「げド 内 ド内亨 w 冊田.寸ド凹ド「“自“ド. Q85,000. 1.99rr f甲へ㍉℃㍗ L FWA干”「丁[ザκr rザ. @ O.00. 」、 「航、冊腎」刷. 1681,010 253.080「ド「刷「 ’卍 「ゴ」吟 ド’ げ’ 寵,「「F「 「ぬ 「丁Lm「」」「LTn Lπ」 」丁丁汀m 印・ 丁丁 πm・亨丁 ・ ∬ド「. @ 285:000. @ 0.00. 0.000. 1. 384. @ 0.78. X91,880. @ 6ピ92. 896,980. 0.26. 354.100. @ 2.47. R04,000. O,000. @ 0.000 rr 嚇アh ’. 0,000愉 v ¥ 特 …. 0,000. 1430,173. 100.00. 0,000’Lr’’”37,300 「 mL . 57,600 「 「μ……. @ 0.000. 2.67. 0.26 「 ド π 胸 亨 酊 ド ド ∬. 100.00. 5,500. @ 0.000. @ 0.000 噛㍉ 昂…μ w 耀Aw 占冒 い. 1. @ 4,600. FrAf吊㍉サF戸 ㍉㍉ 冊.’げF” 、 戸 唱「…”戸’ F’ ”■一■㌔■「「■W 「’ ㌔■F. 」F Lκr r 「■rFA、 π「 .7 Afぼ[L℃■■. 03. 3.000rrFP 駒「’ ■、 ア ”F1 ■甲 Fn 隔 ρ nL’FF酬酬 …. 220.000rm“rm醐 冊ザκFA 酬F’什… r 下F’卍’ …. 」}解」噛猫 . 0.26. 33,500. @ 1490.370. 3.39. 1. 104,080. @ 11.05. 13 4. 2943,423 竪押陥㍉ソ’擢F陥粘躍曜PPF’戸摺F W }脚 叩摺戸P戸’甜…”P. ’甜 胃 戸 吊 脚 7 … 唱 「躍”評 「’ ■P 昂 ’’ ” 「 ㌔W. @ 27 @ 7.03. 50.100 @ 0.000π一”内「 丁 ● ド丁ドπド肝m一 ドドドド厚丁丁ド削【. 13356,533. @ 604.740. @ 378.900. (注)表の”戸”は所有者の略称。幾つかの戸数の共有が含まれている。田地面積の単位は 畝(ムー)である。受水の時間単位はもとの表のデータによる。・10進位の時間、刻、. 分などによる。本表は時間を単位とする。筆者の推計によると田地面積は14340.173 畝で、作者の劉練如氏は12096.273畝としている。 受水時間と原水冊と一致(261。656 時間)。. (3)水利共同体理論と関中中部の実証分析. ①史実と論理一水利共同体理論に対する反論. その第1は上述の灌区では、根本的に地・水・二間に有機的関連は存在しない。そのた めに、解体も問題にならない。しかし、資料によれば当地には、その種の有機的関係は確 かに存在した。少なくとも形式上は存在している。例えば宋代には“計田出丁”によって、. 一120一.
(7) 堰渠が造成されたこと(8)や、元代の規定では、二戸は用水に応じた分担の義務が前提とさ れている(9)。明代にも費用は用水面積を根拠に均擁することが義務となっている。. 第2は既述のように地権の分散が共同体の安定の根拠であるから、解体の証明は当地に おける地・水・夫(費)間の統一性の喪失である。地と水のアンバランスに関しては、龍 洞渠では“地は自ら地であり、水は自ら水である。故に土地を売買する時には土地と水は 分かれていた”という。源澄渠でも“龍洞渠の規則に倣って売買はかくの如し”とある。 乾隆年間の八復渠でも三水が行われており、時に人は怨みをもって、“毎月の水尽く首人に. より上流で売られ、利夫の三田する者はどれだけであろうか”と、地・水の分離は明らか に各地で進行しっっあった(10)。. 第3は水利共同体理論および関連する実証研究の結びつきによって、土地集中は共同体 解体の必要条件ではなく、地権の相対的分散によって、いまだかって地・水・夫のアンバ ランスの出現はあり得ないことを証明している。少なくとも関中中部においてはそうであ る。. (表2)道光年間における治河高門渠の大田地・小田地所有者単位面積の受水時間 田地所有が最も少ない10世 利器氏名. 田地所有が最も多い10世帯 単位面積あ. 単位面積あ. 田地総量 受水時間 スり受水時. 利戸氏名. 田地総量 受水時間 スり受水時 問. 問. 王家揖 勲臣堂 楊九有 白子簡 趙邦泰 鄭 法 韓光裕 劉文貴 魏逢至 郡元偉. 0.80 0.80 0.90 1.00 1.20 1.20 1.30 1.40 1.40 1.65. 0,017 0,O17 0,019. 0,022 0,026 0,026 0,023 0,030 0,030 0,036. 0.0213 0.0213 0.0211 0.0220 0.0217 0.0217 0.0217 0.0177 0.0214 0.0218. 張純仁 王翼忠 劉白寿 董白下・董継子 張承得 劉文義 文十三 董洪義 馬 徐 三体乾・劉三二. 246.40 246.50 249.75 253.08 285.00 328.00 328.68 335.20 354.10 383.20. 3,220 2,930 3,294 3,145 4,070 3,392 7,229 4,704 5,590 5,664. 0.0131 0.0119 0.0132 0.0124 0.0143 0.0103 0.0220 0.O140 0.0158 0.0148. (注)単位面積の受水時間の単位は「時/畝」。もとのデータの精度が統一していないこと. は、原資料による。. 表1を参照。董山回の田地335.2畝のうち水地57.6畝、上水地37.3畝。三三の田 地354.1畝のうち上水地50.1畝、残りは下水地。. 最大の誤りは土地集中が、水利共同体の解体の途径とする点である。この問題を論証す る方法として、前回の治水高門渠水回による単位面積当りの、受水時間が最多と最少の各. 10塊の田地を抽出し、両者の比較を試みた。その結果は、最多の面積は2畝から50畝の間 であり、受水時間は0.0264から0.0526時間の間に介在し、最少の面積は20畝から328畝 の間にあり、三二の受水時間は0.0091から0,0104の間にあることが解った。そして、単. 位面積当りの受水時間が最多の10塊の田畝は、最多の田塊には見当らず、逆に50畝のな. 一121一.
(8) かに見られる。そのなかで10畝に足らないものが4戸あり、受水時間が最も少ない10塊 の田畝でも最少の面積のなかには見られない。かえってすべて20畝を越えており、甚だし. いのは328畝を所有する1戸も含まれている事実である。これによって現実の灌概水量の 享用は、各自の田畝面積の多少によって決定されるものでないことが明らかである。以上 のことを統計的に分析したのが前頁(表2)である(11)。. この表によって田地量の多少と受水時間の差異は十分明らかであり、多いものに少なく、. 少ないものは反対に多い。要するに所有地の多少と、その単位面積の受水量の多少との間 には、有機的関係が存在しないことが明白である。. これらを総括すれば、当地の用水の占有、掌握はそれに応じた田地量によって比例的に 変動するものではなかった。土地売買は水利組織の原有関係に、いかなる影響も与えない とはいえないが、しかし、大土地所有が地・水・夫・費関係の弛緩、崩壊の必要条件とい えないことは確実である。そのため水利共同体の解体を解明するためには、土地所有以外 の原因を探究しなければならないであろう。. ②水利共同体の解体一沐醸渠を中心に 水利共同体の変遷過程は、渠堰の創設および用水分配の進行などから説明しなければな らない。それに最も重要なのは、該当渠堰に関する早期の水冊を発見し、更にそれに続く 資料を根拠にその発展変化を考察することである。例えば清俗河の沐瀬渠では、明代に二 二、王承裕父子が唱導し、衆人が共同して堰を移乱した“開新渠”に関する記載がある。. 修回した新しい二道については原有の地・夫・費・水の二者間の対応関係が保持されてき た6王恕が移堰後の湘張渠では、修渠における工の多寡を計って用水を分配している。ま た、田地の多少に応じて、労力と銭物の拠出が義務づけられていたのは当然で、日常的な 補修や疏凌においてもその延長線上に、地・水・夫の有機的統一が保持されていた。. ではこうした水利共同体の有機的関係がどのようにして崩壊に至ったのであろうか。灌 概用水が各三戸を満足せしめている限り問題はなかったが、ひとたび水不足となった場合、. 三戸相互間に用水を巡る要求が激化した。水量がわずかな時は、一部の二戸の要望に応え 得るのみであったので、“くじ引き”によってくじに当たった者だけが灌記することができ. たのである。この方法は一見公平に見えるが、実は不公平であった。つまり、これは有力 者に用水を享受せしめるためのバクチのような方法で、一部の人に利益を与えるものであ った。この時点で既に地・水・夫の関係は解体に向かっており、事実上、用水の売買が出 現していたのである。ここにおいて森田らがいう水利共同体は既に崩壊に直面していると 言わざるを得ない。この変化の原因は用水の不足が、基本的、客観的要因にほかならない。. 一方、もう1つ注目すべきは人的要因で具体的に言えば、弓長の不公正な行為である。. 沐濾渠において事実上、最終的な売水回は三戸ではなく、渠長であった。二三は1日につ き銀3両で水を売りだし、一般の三戸にくじを引かせた後、二水を行っていた。くじを当 てた者は一定の銀を支払い、渠長はこれを公用に使用した。くじに当たっても金の無い者. 一122一.
(9) は金のある者に譲ることにしている。結局、利戸は安定した用水を受けられなかったので、. 維持、修築などの義務を負担することも望まなかった。渠長は売工、売水を通じてすべて の必要経費と修治などを解決してきた。しかし、彼の行為は妥当なものと見えるが、機会 を窺って“工”を売るのは、事実上の用水権の売却であり、現実に本来の36工は後には138 工に増加している。これは共有である筈の二道の渠長による私物化にほかならなかった。. 即ち、民衆の生命は渠長の手に握られており、銭は彼の手中に帰し二戸は無権利の状態に 置かれていた(12)。このような水利組織に混乱をもたらす灌概不周や、占國採派などの現 象は、遅くとも清代乾隆時に既に出現していたことが資料によって明らかである。. ところで、自然地理と渠系分布とを通じて、我々は水利共同体の崩壊は、必ずしも同一 時期とは限らないことを発見した。これは日本の研究者の主張する明言清初とは異なって いる。清河上の多首制の引水二道では、河水に限度があるため引水口が接近している場合、. 各町道の水源の保証率は自ら異ならざるを得ない。沐瀕渠の上には源澄渠など多くの引水 口があったので、該渠の引水はその影響を受けより困難であった(13)。こうした状況は三. 道灌慨の安定性と水利組織の存続に重要な影響を与えるものであった。治河灌概において も、下流の海西、海河渠では渇水時に常に上流の各渠が水を阻止したので、下流の用水に 大きな障害を及ぼした。多くはただ洪水を利用する灌概のみであった。 総じて言えば、土地の所有状態によって水利共同体の解体を解釈することはできないし、. また解体時期についても必ずしも、三叉丁半と統一的に理解することはできない。それら の考察には必ず各地の自然、技術、社会環境などを含む総合的分析が不可欠である。 (4)環境、用水分配と水利共同体. ①丁丁中部の自然環境、水利二二及び水利共同体 気候、地勢、地形、地質、植被、河流など、水文上の特質は、水利灌概の自然地理的基 礎である。』 激しく、』. ヨ中は大陸性の半弓旱気候地域でその特隊は顕著である。春夏間の連旱が特に. ト季の多い降水は屡々暴風雨となって現れた。1930年代と清代では時期が異なる. が、気候のパターンや特徴が前後で一ケ日ている前提の下に、データーを参考に考察が可 能である。砂氏の分析(14)によれば、当地の降水量は一般的に・500ミリ以上であるが、 蒸発量がそれを上まわっている(両者の比を干旱指数という)。丁年の干旱指数は、1933年、. 1935年は1.6、1.7で、1934年は2.1、1932年は4.1に達していた。三三指数が高いこと は乾燥を示しているので、作物の生長には灌概による水分の補給が重要であった。 水源の安定、充足は灌概の客観的条件の基本であった。しかし、当地の降水量は不安定、. 年間分布も夏秋に集中しており、季節風の強弱、雨期の早晩、長短などと種々の条件によ って左右された。また、旱・湧災害が特に多く、全般的には湧よりも旱に偏していたと言 える(15)。こうした状況が水利灌概を脅かし、水利組織に深刻な影響を与えたことは言う までもない。. かかる三下状態の下で、清・治河の各下道では水資源の争奪が激化し、上下各渠の対立. 一123一.
(10) と同時に、下流の劣位は否定できなかった。また丸一方では集中的な多雨の結果、河流が 濫溢して山山の暴発とともに、二二量の増大によって、渠堰の破壊も免れなかろた。二道 が激塞したので龍洞渠では、“二二引泉”へと水源の乾燥を余儀なくされている。また、清・. 治各渠では二二の再建や維持修築の経費、労力の問題も軽視できなかった。更に引水口を 移動させようとすれば、渠二間の利害関係の軋礫が不可避であった。. 地勢、地質や水文条件によるより良い条件を求めて、二道め変遷とその社会的影響の分 析が重要である。地勢は河道の走向と二二を規定すると共に、河道の比島と地質条件は河. 流の侵蝕に大きな影響を与えた6二河など流域の石質山体の岩山は、石灰岩、砂頁岩、石 英岩が主で風化し易かった。地勢が低下し、二二地域に進入した時点は、黄土質で弛緩し ており、河床の侵蝕への抵抗力が弱く被害が生じ易かったのである。その結果は当然、渠 首工事の受ける脅威は極めて大であった。. こうした状況のなかでの渠堰の再建を巡って、本来の権利義務関係には必然的に一定の 変化が発生せざるを得なかった。ちなみに明代洪武年間、源澄渠では、用水路が壊れたの で土堤を第五山村北に移したので、渠首が第五氏の土地を占有した。そのためやむを得ず “初九日の行程水を五家に割いた”という.。この事態は渠水の売買を導くことになり、第 五氏の用水に余剰があったのである。“水が余っているのに売らないでどうするのか”とい. うわけで、それ以後、用水秩序の混乱は避けられなくなった。乾隆中後期には該渠ではま た、土地を売って修理したが、僅かに3∼5年で沖殿されたので、利戸はより多くの負担を 受けなければならなかった(16)。. 以上は利払の用水権利と義務の調整、部分的な売水行為、渠道間の関係変化などに及ん でいるが、その直接的な原因は渠堰の移動と再建にある。特に後者は各河流の自然環境と、 土地開発と密接に関連しているのである。. ②上流人口、用水と下流の渠堰灌慨 明代中期の清河、高温の河谷は、“清心燗雨”、“秀抜蒼翠”などと景観、環境に秀れ植被. も良好であった。しかし、清代に入ると上流の耀州では道光初年の記録に、“山後一帯の大. 部分は三民で占められ、耕田で麦を収穫し、閑人を探して雇傭し《塘匠》とよんでいる” とあり、多くの移民が二二、山地を開墾し、糧食を種植していた。耀州と接する同官でも 本地人は耕作を行わず、多くは客民によって小作されて、既に開墾の余地はなかった。当 地一帯の移民二言は道光以前から行われていたと見られている(17)。. 本来、黄土質はやわらかくて侵蝕され易かった。植被を保護するには水土の流出抑制が 唯一の課題であった。当面の緊急に対応すべき問題は、山:岐二段における大規模な開墾で. あった。上流の植被の破壊後は必ず河流の二二量の増加と、暴風後の山津波を招き下流の 施設に大きな被害を与えた。同時に、上流での客民の開墾は、それに伴う用水量の増加を きたして下流に深刻な影響を与えたことも言うまでもない。乾隆期の岳旧記によれば、“三. 河一帯の上、下流に私渠を開くこと十余道を下らず、灌慨の田畝は二、三十頃を下らず”. 一124一.
(11) とあり、もし三三に遭えば上流が用水を三二、欄註したので、下流は点滴も得られなかっ た(18)。. 水冊(二二)には各二戸の用水時間、開始時と閉止時などが明記されていた。しかし、 上流の開墾、用水の覇占は既成の水利秩序を混乱、形骸化せしめ、下流は尽く水回旧地と なった(19)。つまり、上流の私渠の三二用地は水地としての日賦は負担せず、旱二二糧で. あるのに、下流の受水不能の地が多くの田賦を負わねばならないという矛盾を免れなかっ た。こうした状態の下で地・水・夫・費の統一的関係を維持できるだろうか。灌概のない 利戸がどうして田賦を負担できるだろうか。. 治河流域の上王公渠以北は淳化県の地界であったが、ここでも“三河両岸には多くの稲 田があり、相沿うこと既に久しい”(20)とあり、清河上流でもほしいままに渠道が開かれ、. 水稲が植えられていて、限られた現象ではなかったという。これらから水利組織の規範で あるべき水回はもはや有名無実の存在であった。. ③基層灌概用水の登記管理と水利共同体 渠堰の管理運営の責任者は二二である。二道の維持修築、用水の分配、水冊の管掌など の重要事項に当った。二二の下には分渠長のほか、督工、小甲、夫頭の名目があってそれ らは殆ど世襲制であった(21)。二二は本来各二戸の水程を登録した文書であるが、水程は. 三戸の用水権益及びその数量を反映しており、二二の多少は各戸の維持修築の義務と対応 したものである。したがって、二二はまさに地・夫・水・費の統一関係の愚証にほかなら ない。しかし、農民は水回の編成原則やその方法など内容についてどれだけ知っていただ ろうか。模範的な源澄渠の場合でも、水冊は定期的に編造されず、乾隆16年の造冊後は嘉. 慶年間に再造され、道光20年に三たび編造されたが、その後、100年近く新冊は造られて いない(22)。旧冊の内容は現実と適合せず、客観的な根拠となり得なかった。一方、新編 の水冊も必ずしも事実と符合してはいなかった。. 二三による水工の作成や処理に公正が求められたことは言うまでもないが、管理の比較 的良好な源澄渠でさえ、嘉慶年間、二三の張碗は二世興に借金があったので、“31目の公水 をもって、堰口の伍家麦二三に質入れした”(23)という。この行為は明らかに正長が公水. をもって私産と見なしていたことを示している。本来一条の渠道の総水程は、各三戸の水 程(行程を含む)の和に等しいが、水回中には屡々一致しないものがあった。一例をあげ れば、“進香”或いは“三三”といわれる用水の時間を測る香の長さを短縮することにより、. 恣意的に利回の受水を減少し、権益を犠牲にした。しかし、形式上は水冊の内容を操作す ることによって用水の公平を偽装した。これらの行為は主として弓長によって行われ、二 王の適切な執行が行われたとは信じ難い。. 渠長と同時に豪強、二三が水資源を把持し、事実上、渠道を管理して私利を食っていた のも見逃せない。引二三区の高三三での無法な灌概や夫役も勢豪や好猜の妨害が主要な原 因であった。特に夫役の取り消しは官による、地・夫・費・水関係の分裂の容認にほかな. 一125一.
(12) らず、水利共同体の受けた大きな打撃であった。清河灌区の三三渠でも弓長が三水を売り 出し、源澄渠の渠長も三水を売り出しており、八復渠の管理者はグルになって弊害をもた らしていた。甚だしいのは水利を主管する三原県の県丞の二三が、自ら水を売って銭もう けをしていたとある(24)。. 要するに当地の用水は、地病、流眠、四丁豪紳らの掌握し操縦する所に任され、思うま まに覇水や売水が行われていた。農民は普遍的に彼らの弊害と圧力にさらされていたので あった(25)。. 以前の学界では多くの経済面より土地所有の分析が行われてきた。しかし、水不足の関 中から見る限り、水資源の掌握が恐らく土地所有よりも、より有利な手段であったと考え られる。そのため地域環境の特色と地域的伝統との結合によって、はじめて水利三三、組 織及びその変遷の合理的解釈が可能になるであろう。. 5.余論 日本の水利共同体論者らは、二二謡初にかける中小地主の没落と、二二二大土地集中の 進展(26)によって、本来の水利施設の荒廃と水利組織の解体、即ち地・夫・費・水の分 離をもたらした。したがって、水利共同体の崩壊は大土地所有の発展の帰結であるとする。. 本研究の認識では土地売買が、その分離に対し或いは一定の促進作用を果たすかも知れな いが、ただ土地所有の分散がいまだかって、この種の分離に果たすことはあり得なかった。. また、水利共同体の解体も必ずしも明記清初に統一されるわけではない。水利組織には水 利共同体の変化と、その背後にある若干の、根本的なシステム上の問題が含まれる。. ①灌概施設の要求は、水源の相対的安定と河水経流量の不安定性にある。関中の降水分布 は極めて不均等であった。降水量が多すぎると浬流量が増え、水源は充足するが含砂量が 増加し、侵蝕が増強され、水利施設が破壊を被ることが多くなった。そのため、当地の渠 三三概では、修凌と再建が直面する重大な問題であった。単に施設に止まらず共同体内の 権利と義務、或いは維持調整にまで波及する。それが不可能ならば組織は解体が不可避で ある。. 反対に降水が過少ならば、水不足となり、渠道内部及び各渠道下の用水を巡る対立は激 化せざるを得ない。その結果、共同体内部の権利と義務関係の遊離が最も生じ易かった。 長期にわたって灌概不能となれば、当然水利共同体の維持は困難であった。 ②水資源の所有権は公共性と曖昧性、使用権は排他性と明確性に特色があった(27)。河流. は公共資源であるから、流域の人々はすべてその使用権を主張することができた。水源が 十分あり、濯概の需要を満たしている場合は問題がなかったが、いったん水資源が不足す ると、特に上流の移民の開発や、降水が極端に少ないと、用水を巡る緊張は一段と深刻さ が増大した。不足の程度はそれに相応する水利共同体の変化と影響を引き起こすと同時に、. 一126一.
(13) 種々の連鎖反応をもたらした。. ③各渠道における用水の論理には、均衡性と上・下流の渠道上の位置の差異性がある。歴 史的に見ると、近隣の学道間を通過する場合、いろいろな方法で妥協を行って用水のバラ ンスと、利益の均沽をはかる。一般的に上流は下流に比べて、用水面で優位を占め、相対 的な保障がある。しかし、下流は反対に劣位にあり、水源の欠乏に敏感である。こうした 情況下において、上、下流の学道問の争水の衝突は避けられず激化した。その結果、下流 の水利共同体の解体は上流よりも早かった。また、組織の存続期間も短かった。水利組織 の位置上の優劣は、伝統的な一首制の引水方式においては、その中の各支渠間に体現され ている。. ④共同体はその1つの系統の内外より分析しなければならない。先ず、共同体内部におい て、個々の成員の責任を明確にすることと、全体的な系統の総体上のそれとが混交してい てはっきり‘. オない。即ち、各門戸の田地、用水は共に水下上に登録されており、それを根. 拠に負担すべき義務も明白であった。しかし、全体の水冊の田畝、用水は、往々にしてバ ラバラで一致していない。共同体内部の交易の即時性と、水冊登録の滞後性などのため、. 一般利戸は自分の田畝の水程について知っているだけで、全体の三道に関しては漠然とし ていた。その上に、水冊の作成方法や計算方式についても無知のため、そこに管理者の乗 ずべき機会があった。渠長らの権限は本来ただ管理権の行使のみに限られていた。しかし、 現実には管理権をもって処分権と混同し、更に所有権にも及んでいる。. 一方、共同体の結合系統の外部を見ると、共同体内部の責任と権利の関係は、論理上は 経済的に各利戸の田地、用水と分担の経費、人力とは、同一性、共通性が相互扶助的に発 展する。その意味では多くの用水権をもつと、より多くの維持義務を負担しなければなら ない。同時に、国家により多くの日賦(水糧)を納入する必要がある。そのため、より少 ない負担でより多くの利益を得たいのなら、そのようなルール、つまり経済方式によらな いで、水資源を占有するのが利益の近道である。. 明末浬陽の人、王徴によれば、当地では水源を覇占し、管水者は売水によって私益を漁 り、富家も搾取の対象となっているという(28)。明らかに重要な丁半水の支配は、現実に. 土地所有よりも一段目有利なキー・ポイントであった。また、有名有姓の三人の渠長、邪 玉肥、羅居昇、李大新はそれぞれ渠道を管理していたが、所有地は最:も多い者でも50畝に. すぎない。これを見ても、彼らの水利管理者あるいは水資源の支配下となったのは、大量 の土地所有を前提としたものではない。. 日本の研究者の結論は、山西などの地域的実証研究から得られたものである。したがっ て、本論はそれらを全面的に否定することはできないし、更に論者もその実証的研究を否 定するつもりはない。本論はあくまで紛河などの流域の実証研究を試みたものであり、こ の関中水利に対する実証研究が、水利共同体論への反論に足るためには、郷紳支配や郷紳. 一127一.
(14) 二大土地所有制などの重要な問題、或いは中国の伝統的な社会構造に対する、新たな解釈 の端緒と分析の事例を提供しなければならない。. 6.おわりに 以上で日本の「水利共同体」論争に対する砂真面氏の批判と提言の大要を紹介した。氏 の関中中部の渠堰灌概に関する実証的研究を通じてく独自の見解を提示し、水利共同体に ついての日本の論争に一定の批判的提言を行ったものである。. 日本の論争は水利組織の構造的、機能的性格を、水権、管理、機能、村落、公権との関 係などを通じて検討分析し、そこにおける共同体としての性格の有無を論じたものであっ た。これに対し砂湯の論稿は、水権と土地所有との関係、ならびに鼠戸の権利義務関係の 分析が中心であった。その結果は必ずしも日本の論争と全面的な論点の合致は見られない が、砂氏は土地所有の変化=大土地所有の形成をもって、共同体の崩壊とする見解に対し、. 具体的な統計分析によってそれを否定している。それは同時に、共同体の解体時期を漏出 清初とする日本の一般的認識に対して同意し難いという見解を最も強調している。つまり 紗氏の重点は水利共同体の解体要因と、その時期に置かれていたといえる。. 一方、方法論から言えば日本の研究が、地面などを中心とする公的文献の限界内による 現象的研究に止まらざるを得なかったに対し、画竜の研究は最近山膚地方で進みつつある 民間文献の発掘と田野調査による基層社会の実証研究に依拠している点に注目すべきであ る。なお更に従来の日本の研究に欠如していた部分として、地域の自然地理や、環境的実 態や視野からのアプローチが、当地の水利共同体を論ずる場合、いかに重要であるかを認 識させてくれる。つまり、水利史と環境史との緊密な結合が研究の進展に不可欠であるこ とを意味している。. ともあれ、中国からの批判と提言を受けてこれに有効に対応するためには、一定の検討 と分析を経て、機会を改めて適切なコメントをしなければならない。しかし、当面は紗氏 の論稿を紹介することにより、今後これを手がかりに、水利共同体論を巡る論争が日中間 において活発に交され、中国水利史研究が、両国の学術交流を通じて発展深化することを、 切に期待したいと思う。. (注). (1)好並隆司『中国水利史研究論政』(岡山大学文学部、1993年)第1章第3節、第4節参 照。拙稿「明清時代の水利団体一その共同体的性格について一」(『歴史教育』第13巻 第9号)。 (2)注(1)好並、第1章第3節。. (3)石田浩『中国農村社会経済構造の研究』(晃陽書房、1986年)、第4章、第5章参照。 (4)白爾恒、藍克利、‘魏 三編『溝i心志聞雑録』(中華高湿、2003年)、49∼140頁。劉屏山. の「清裕河各渠記事簿」稿本は“再稿”と簡称されるが、実は再稿に付されている別の. 一128{.
(15) 一文は再稿の“初声”と考えられている。本稿は編写されて『算勘侠聞雑録』に収載さ れているが、本資料集は中仏合作の『陵西地区水資源与民間社会調査資料集』(全4巻) の第3集である(本資料集については拙文嘩北水利史研究の進展に新資料」、『東方』 281号参照)。 (5)田津飛『関中水区議』(不乱巻)、口中叢書本、12頁。. (6)劉綜如『劉氏家蔵高門通寺田冊』(道光26年)、利夫とは水門中に登録されている灌概. 成員である。龍洞渠では葦戸としている。 (7)『溝i泣秩聞雑録』161頁。. (8)蒋湘南『後浬渠志』巻1「浬渠原始」。. (9)李好文『長安志図』巻下、山岨閣四庫全書本、18頁。 (10)岳翰屏「群俗河各渠始末記」、劉遍歴「初稿」19頁。同「再稿・沐溢渠始末記」291頁。. (11)「乾隆四十二年正月重訂地畝清冊」、抄件、三原水利協会抄録本、現存清恵渠管理局。 (12)以上、いずれも劉原野「再稿・沐濾渠始末記」291∼292頁。 (13)周心安「沐瀕渠記」、劉屏山「再稿」、291頁。. (14)『陳西省水利灌概』27∼36頁をもとに論者が計算したものである。 (15)中央気象局気象科学研究院主編『中国近代五百年旱湧分布図集』(地図出版社)、326∼ 331頁。. (16)岳翰屏「源澄渠始末考証記事」、劉戸山「初稿」61∼70頁。 (17)盧坤「北洋治略・耀州」、「秦彊治略・判官」、清刻本、18頁、17頁。. (18)岳翰屏「卑俗河各署始末記」、劉屏山「初等」及び劉岬山題記、23∼25頁。 (19)岳翰屏「源澄渠各日所澆村墨行程定例」、劉戸山「愚稿」51頁。 (20)岳翰屏「源澄渠始末考証記事」、劉砂山「初稿」60頁。 (21)「治今世小型水利調査報告」、『溝泣侠聞雑録』159∼161頁。. (22)劉屏山「再稿・半俗河源澄渠水冊序」劉屏山題記、204頁。 (23)岳翰屏「源澄渠始末考証記事」、劉屏山「初稿」60頁。 (24)岳翰屏「清裕河各渠始末記」、劉屏山「初稿」、20∼21頁。 (25)「治四苦小型水利調査報告」、『注油秩聞雑録』159∼161頁。. (26)日本の学界で広く知られている見方で、明断清初の大土地所有を、郷紳的土地所有制 と規定されている。山根幸夫編『中国史研究入門』(田人隆等訳、社会科学文献出版社)、. 494頁、508∼509頁。 (27)趙世鍮「分水阿蘇:公共資源与郷土社会的権力和象徴一塩明清山西紛糾流域的若干案 例為中心」(『中国社会科学』2005年第2期〉にも、よく似た観点が述べられている。 (28)了一道人(王徴)「河渠嘆」、「三原県志・文献輯存」(陵西人民出版社、2000年)、1122 頁。. (付記)引用資料は紙幅の関係上、主要なものに限り、他は省略したことを断っておきた. いQ 一129一.
(16)
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政事要略、巻八四、糺弾雑事(告言三審趣告等) 法曹類林、巻二○○、公務八 平安遺文、三四五号 平安逝文、三三四号 平安遺文、三三二号
︵抄 鋒︶ 第二十一巻 第十一號 三八一 第颪三十號 二七.. ︵抄 簸︶ 第二十一巻 第十一號 三八二
後立山ノ蓮二二劉峙シ頗ル回忌ヲ極ムレドモ西方ハ廣
約13ケ月前突然顔面二急
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入 犬 猫 牛 馬 甲 山 羊 緬 羊 兎 海 三 十日三 白 鼠 家 鼠. 蛇 蛙 鮒
長尾氏は『通俗三国志』の訳文について、俗語をどのように訳しているか
(1)経済特別区による法の継受戦略