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演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察

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(1)Title. 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察. Author(s). 木村, 貴紀. Citation. 北海道教育大学紀要. 教育科学編, 70(1): 295-303. Issue Date. 2019-08. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/10559. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第70巻 第1号 Journal of Hokkaido University of Education(Education)Vol. 70, No.1. 令 和 元 年 8 月 August, 2019. 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察 木 村 貴 紀 北海道教育大学旭川校 芸術・保健体育専攻 音楽分野. A Study on the Viewpoint of Music from Both Performance and Musical Criticism KIMURA Takanori Department of Music, Asahikawa Campus, Hokkaido University of Education. 概 要 ある楽曲に対する音楽批評は,広角性,価値基準,楽曲との距離感などが自ずとそこには反 映される。また,作品そのものの批評と同時にその作品を演奏するという営為についても論じ ることがあり,その意味で演劇などの芸術批評と同様に,重層性を包含していることが明らか である。従ってそこでは,楽曲とその演奏との整合性がとれているか否かがそれぞれの価値を 再認識する尺度になり得る状況なども発生する。しかしそこには線引きできるような明確な価 値基準があるわけではないために,音楽批評とは,多岐にわたる様々な要因を勘案しながらも そこにあるたったひとつの見解を述べるに過ぎない。一方の演奏もその一回性ゆえにひとつの 型しか提示することができないことから,演奏とその批評という両方の営為とは,非常に危う く,また決定的な齟齬の上に成り立っている。 ここでは,実演をとおして見える楽曲の姿と,それを捉える音楽批評のあり方を追う。. はじめに. 作曲家であっても,実体としての音楽を持たない と言える。よって,記譜された紙の上にある音符. ある作品を生み出すにあたって,楽曲の創作者. を実際に音化して聴き手に届ける役割を担うとい. としての「作曲家」という存在が筆頭に挙げられ. う「演奏家」が,ヒエラルキー的に作曲家に次い. るといえるのは論を俟たない。これを音楽シーン. で位置するということについても,特段の異論を. に於いての序列と言い切ってしまうのには語弊が. 生じさせないだろう。そのように,最初に作品が. あるかもしれないが,まず然るべき作品があり,. あり,それを演奏することで楽曲はひとつの完結. それが中核的な対象にもなり,また媒体ともなる. に至るわけだが,音楽批評はここまでのプロセス. ことなどから,総じて認識できるものでもある。. が出揃ったところで初めて,音楽批評としての姿. とはいえ,音楽はその音が現れたそばから霧消し. をまとって現れることはいうまでもない。そして. てしまうことから,いくらその産み手の立場たる. そのひとつの括り方として, 「送り手」と「受け手」. 295.

(3) 木 村 貴 紀. という二項立てが考えられる。これは,「作曲家」. うとする。そのような条件下での演奏を比較して. と「演奏家」をひと括りにしたのが「送り手」で. みた時,当然,その10人の中には類似性の高い演. あり,一方これに対して音楽批評もが属するとこ. 奏も現れる可能性は決して低くはない。それどこ. ろの,聴き手である「受け手」があるという棲み. ろか,もし部分的な比較でもした時には,一聴し. 分けによることで,ひとつの線引きは明確にでき. ただけではほぼ区別がつかない部分を持つ演奏す. るところである。しかし,そのような括り方以外. らもが現れることも,想像に難くないところであ. の視座による切り口からのアプローチは考えられ. る。しかしそのような状況がありつつも,そこに. ないだろうか。. は10通りの演奏が生まれ,そのどれひとつとして. 先述したように,手に取って差し出すことので. まったく同一の演奏になることはあり得ない。そ. きない音楽を対象とするばかりに,それを表現す. して同様なことは音楽批評にも言えることであ. る演奏は,演奏が終わってしまえば何もなかった. り,あるひとつの演奏に対しての10人による音楽. 状態に帰する。それは音楽批評も同様で,それが. 批評は,ここでも類似した方向性などを含みつつ. 書かれた時には,既にその対象としている当該演. も,やはり内容的には異なった文言やニュアンス. 奏を確認しようもない。つまり前者が「音楽言語」. となって現れる。そこでは,例えばミスがあった. を用い,後者は日常的な「言語」を以て表現する. などという実際にあった客観的事実についてであ. というこの両者は,楽曲に対してのアプローチす. れば,指摘する内容が違っていたのでは,逆に聴. る方向性こそ違うものの,その楽曲がどのような. き落としや聴き違いなどの信憑性に関わる問題が. ものであるかを語る「言葉」であるという点に於. 問われかねないことから,どのような演奏であっ. いては,そこに確たる共通項を見出すことができ. ても,聴き手の耳にも同等の印象として届くとは. るのである。その意味から,然るべき音楽作品で. 考えにくい。その意味からも,部分的には同じよ. ある楽曲がまず存在し,演奏と音楽批評とを同列. うな傾向を持つ部分を共有しながらも,全体とし. に置くという見方も,ひとつの側面としては考え. ては同じひとつの演奏に対して,時にニュアンス. られるところでもある。演奏の後追いの形で音楽. 的にはかなりの差異を感じさせるほどの異なる印. 批評が存在するという多少のタイムラグは含むも. 象をもつこともあるのは必然とも言えることでも. のの,楽曲に対するアプローチに於いて,切り口. ある。. の違いに起因する,いわば「質」の違いが認めら. そしてこのような点は,音楽批評に於いて顕著. れる。よって,以上のふたつの例は,この三者間. に表れるのだが,そこには受け手側に於ける「正. での複合性や多層性を示していると言える。. 誤」の問題が絡むことにも一因が認められる。. いずれにしても共通しているのは,音楽という. 演奏に於いては,その演奏が存在する数だけ解. 儚いものを対象としているだけに,それを聴き手. 釈も存在するということに,聴き手は特段の疑い. に差し出す手段の上で,そこには今の例に見られ. を挟むことがない。それはひとえに,演奏が「正. るような多様なアプローチや捉え方が生じるとい. 誤」で捉えられていないことの証左と思われる。. うことである。よってここでは,そのような状況. 勿論,主体的な音楽聴取をしている以上,そこに. で生じる多義性や可能性を,演奏と音楽批評の両. は個人的な好き嫌いの違いとか,技術の優劣など. 面から追う。 . による,自分としての序列をそこに与えるという ことはあるだろう。だがそれでも,それらの自分. 1.聴き手側の受け止め方. なりの価値基準は,演奏を「正誤」と捉えること とは異なる認識によるものと見られる。. あるひとつの楽曲を,技術的な力量が同等の10. しかし一方の音楽批評では,そこに「正誤」が. 人の奏者に全員同じ楽譜を配布して演奏してもら. 適用されていると思わされることが決して少なく. 296.

(4) 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察. ない。. て表れているようにも思われる点でもある。つま. 一例を引くと,ひとつの演奏に対して10件の音. り,音楽批評に客観性が求められているのは,読. 楽批評があったとする。. み手の根底に,批評とは公正であるべきという考. その10件中,7件の音楽批評にほぼ同じ傾向が. えがあるからに他ならない。つまり音楽批評には. 見られる中で,残りの3件がそれぞれ異なる見解. ひとつの規範が求められているということが,理. を示したとする。この時の読み手が,7件の音楽. 由としてある。音楽批評に於ける主観と客観は,. 批評に正しさを感じることは往々にして起こり得. それぞれが然るべき位置で適材適所たる役割を果. ることである。一方で3件の音楽批評には否定的. たしてこそ,音楽批評が健全に機能できるものと. とまでは思わないとしても,例えば斜に構えてい. 考えられる。ところが,そこでの読み手が音楽批. るとか,うがった書き方をするなどという,そこ. 評に対して,バランスを崩した,つまり,公正性. に信用をあまり置いていないネガティブな方向で. を求めるがゆえに客観へのバイアスがかかってい. の感想に傾きがちになることがないとは,決して. る音楽批評像の希求が過ぎると,その固定した価. 言えない。. 値基準ゆえに,書き手のスタンスを歪めて受け止. ある楽曲を演奏し,その演奏を批評するという. めかねない状況が生起する。. そのいずれの場合に於いても,そこに演奏者ある. 音楽はいうまでもなく,現れたその場で姿をな. いは書き手の価値観やスタンスが当然反映される. くしてしまうという音によっているものであるこ. ところである。そしてそこでは,多数決のような. とから,芸術の中でもとりわけ抽象性が高いこと. 数の原理が働くことによってその演奏の評価が決. は言うまでもない。そしてその抽象性ゆえに合理. まるものではないことは,言うまでもない。よっ. 的な判断基準や価値基準を設けることが困難であ. て,ここでは聴き手の音楽聴取がどのような土壌. り,よって必然的にというか,自ずと主観的にな. の上に立っているのかという,把握と自覚が実は. らざるを得ず,いきおい,この主観の表明が必然. 聴き手に投げかけられているのである。当然読み. 的に,客観的なアプローチとは互いに相容れない. 手は書き手に対して,何らかの価値判断を求めて. という見方がひとつとしてある。. いることだろう。だからそのように「正誤」の状 況が生まれるのは,そのある楽曲の演奏の批評と しての,あるべき姿が果たして示されているのか. 2.音響メディアが音楽批評にもたらす影響. を問うていることが考えられる。そしてそれは,. ある主体性の強い演奏を引用する。. 読み手が音楽批評をどのように受け止めているか. それは聴き手を鼓舞するようなエネルギーに満. の表れであると換言できるのではないだろうか。. ちていた反面,技術的な面に於いては演奏上では. よってそこでは,その「あるべき姿」という,い. 見逃せないほどの,小さくない傷が多かった演奏. かなる価値基準による価値判断なのかが問われる. 会だったとする。確かにひとつの演奏としては,. ことになるのである。. 表面的に整えられて仕上げられた演奏をひとつの. しかしそれは例えば,時代考証などの学術的な. 指標として設定することに異論があるはずもな. 裏付けがあれば納得させられるものだろうか。ま. い。具体的には,あるべき音があるべき姿で表さ. たは,いわゆる同曲異演といわれるような,比較. れ,難易度の高い箇所であっても的確に処理され. の上での結果を待っているのだろうか。あるいは,. ている演奏が目指されるということである。そし. 客観的なデータに基づいていれば,それで説得力. てそれは,楽曲を尊重して扱うということでもあ. が強まるものだろうか。. り,それでこそその楽曲の全貌が曇りなく明らか. 今挙げたこれらの要素は,音楽批評に対しての. になることでもある。しかし,それでもこの方向. 受け手によるある種の権威が,あたかも形を変え. にのみ傾き過ぎるのは,演奏の歴史を塗り替えか. 297.

(5) 木 村 貴 紀. ねないほどの大きな問題を伴いかねない。. といえるだろう。. それは,聴き手の意識に端を発する,演奏のレ. そして,演奏をするのにリスクを背負うことも. ベルの基準に対する変化であり,とりわけ,現代. また,今も昔も変わるものではない。聴き手の要. という時代特有の状況でもある。. 求が高くなってきている昨今であるのは先にも述. CDの価格が暴落し,Youtubeなどの動画サイ. べたことだが,これは換言すれば,技術的なミス. トが普及している現代は,これまでにないほど. をすることに対しての,聴き手側による寛大さが. 様々な音源が手軽に入手しやすい時代でもある。. 著しく欠けているとも言える。そのような時代で. そこには投稿型というサイトの性格もあり,玉石. ある現代に於いてだからこそ,そのリスクを極力. 混交の演奏が存在する中で極めて質の高い演奏も. 最小限に留めようとするという奏者側の心情は,. 存在し,日を追うごとにその数を増やし続けてい. 理解するに難くない。そうなると,どの演奏もが. る。これは言い換えれば,傷のない演奏が当然の. 一定程度の水準を満たそうとすべく努め,結果,. ように,日常的に身の回りにある生活でもあると. 演奏は守りに入る。そこでは自衛しようとの本能. いえる。そしてそのような傷のない演奏に慣れ親. が働くのか,良くいえば逸脱に至らないが,悪く. しんでしまうと,演奏会に行った折であっても,. いえば無難という枠を越えることがなくなる傾向. そこで何の疑いも挟まずにそのレベルを基準とし. が強まる。翻って,往年の演奏は,少々荒っぽく. て演奏会での演奏を聴くことになりかねない。つ. ても安全圏に滞留することのみを良しとせずに,. まり,聴き手が演奏を聴く際にその根幹をなして. リスクと隣り合わせた場所にも踏み込んでいく演. いるのが,何度も録り直しを繰り返してひとつの. 奏が多く,聴き手を魅了し沸かせることは少なく. 体裁を作ったスタジオでの録音によるCDの演奏. なかったとは,巷間語り継がれているとおりであ. レベルなのである。このことから,一回性を身上. る。そのような往年の演奏に比して,現代の演奏. とする演奏会に対しても,意識的にも無意識的に. は小粒になったと言われるのは,音響の発達が功. もその演奏レベルを求めるのである。よってそれ. 罪半ばしていることを物語っている。現代の演奏. は, 「音楽」を聴くよりも,いわば「音響」とし. は往々にして,中庸から外れることのない,安全. ての「音」を聴くという行為とも理解できるとこ. を担保した演奏の留保を第一義にしているように. ろである。. 見受けられる。それがたとえバイアスのかかった. しかし一方で,この風潮がもたらしたものに. 見方であるにしても,少なくとも演奏する上での. は,実はメリットもあることは看過できない。. 安全性を優先順位的に上位に位置付けさせている. ひとくちにいえば,演奏の技術的レベルの向上. とは言えるだろう。それゆえに,前述したような. と,その継承が認められるという点である。それ. 現代特有の状況に鑑みた時,またそのリスクに対. は,そのような高いレベルを要求する聴き手の意. する捉え方を考慮した時,演奏の一回性に賭けよ. 識が,演奏する側にも伝播したことによるもので. うとする士気に変化が見られてもうなずけるもの. ある。つまり,奏者側が聴き手側のニーズに応え. がある。. るというやり取りの中でもたらされたことである. よって,そのようなリスクをとらない演奏を目. とも言い換えられる関係性である。もし,演奏す. 指すというタイプの演奏が増えることは,一面的. る側の意向のみで,果たしてここまでのレベル向. には当然の趨勢とも言える。敢えて楽曲に分け入. 上の後押しになったかは疑わしい。これまでも聴. らず,また深く踏み込んでいくことばかりを良し. き手があり,その要求に応えるべく奏者側が努め. としない,いわば表面的に過ぎないスタンスを. ることによって音楽が永らえてきたのは,歴史が. とったとしても,これまで述べてきた状況を踏ま. 物語っているとおりだが,時代が変わってもその. えれば,否定できるものでは決してない。そして. 図式は今なお不変であることが,改めて示された. それは,一方の聴き手の側に於いても,一定程度. 298.

(6) 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察. の支持を獲得している。そのような整った演奏を. 辞泉)とあることから,批評とはどうしても活字. 支持する声として,安心して聴くことができるこ. を用いた上で表現するものと考えがちである。し. とに演奏に於ける最大の価値観と認識するという. かし音楽の場合,対象は音楽作品である楽曲であ. 価値観があることも,理由の一端を形成している. ることから,活字の代わりに音を用いた「演奏」. ということである。そしてその価値観こそが,先. こそが,先の「作品に対する批評」をする立場と. から述べている音響メディアの影響による産物で. して充当させられることになる。よって,その演. あることも,改めていうまでもない。. 奏までの過程を経ることを以て初めて,音楽作品 が完結するのであり,音楽に於ける批評活動はそ のあとに続くことになる。. 3.音楽批評の位置付け. それでは,演奏が「作品に対して批評する」行. 批評の書き手はどのような立場にあるのかと問. 為たらしめる演奏であるには,どのような価値基. われれば,まず聴き手であることを出自としてい. 準や認識の上で成り立てばいいのだろうか。また,. るために「受け手」であることに他ならない。し. 演奏と音楽批評という両者は,楽曲という作品に. かしそれでいて,一方では書いた批評を発信する. 対して批評的な認識を共有できるものだろうか。. という「送り手」の機能も併せもっている。つま. 次に,いくつかの側面からの視座により,音楽. り,このようにそれぞれの領域にまたがって立っ. 批評の照射を試みる。. ている,あるいはその軸足がどこに重きが置かれ ているかは,書き手のスタンスに委ねられている. 3-1 音楽批評に於ける客観. のである。そしてそのような立場的な危うさが,. 物理的な条件下にあれば,そこでは技術的な. どちらにも明確に帰属していないという特異な位. データや数値によって客観的事実を示すことが可. 置付けを形作っている。そればかりか,ひいては. 能である。音楽はいうまでもなく「音」によって. 音楽というカテゴリーの中での,音楽批評という. 形成されているが,その「音」とは,儚い空気の. ものの立ち位置の微妙さまでもを象徴的に表すこ. 振動に過ぎないものであり,現われるそばから消. とにもつながっている。. えていってしまうために実体がなく,現物として. その立場的な脆弱性ゆえだろうか,音楽に限ら. 差し出すことができない。音楽には,規定の単位. ずどの分野でも,批評それ自体は単独では自立で. を使って計測できる「音量」や「速さ」などの要. きていないという見解がある。それは,対象とな. 素があり,確かにそのような音響的項目が客観的. るべき作品がまずあって,そこではじめて成立す. 事実には該当するものの,数値化できない要素の. ることに起因しているからだが,批評が常に二次. 方が圧倒的に多い。それではそのような状況下. 的な立場にあることがひとつの理由として挙げら. で,量的な内容はどう表されるだろうか。. れる。それは音楽批評に於いても同様であり,. ここでの例として,「抒情的」「緊張感がある」. 1. 「演奏とは作品に対する批評である」という遠山. 「フレーズのとり方が大きい」などを挙げる。こ. 一行の言に従えば,演奏会評やCD評などは「『作. れらは客観の対極にある主観としてでは括りきれ. 品に対して批評する行為である演奏』を批評す. ない,いわば音楽的状況の表明とでもいうべき,. る」ことになり,この見地からもやはり二次的な. 音楽に特有としてある,感覚面に依拠している表. 立場にあることが確認される。. 現という行為の上に生成される要素である。特に. ところが批評という行為は,ある作品やその演. 「フレーズのとり方が大きい」などという表現は,. 奏を後追いで記述するにとどまるものではない。. ある分量が示されているという見方ができなくは. 辞書的な字義としては,「物事の是非・善悪・正. ないが,それでもやはり数値で表すことは不可能. 邪などを指摘して,自分の評価を述べること」(大. な項目である。. 299.

(7) 木 村 貴 紀. この例からも,音楽は純粋に客観的事実のみを. 成り立つものでは当然ない。よってそこは程度の. 取り出して示すことが困難な分野であることが認. 問題としか言いようがない部分も含んでいるもの. められる。. の,それでもそこに居合わせた聴き手同士が共有. しかしそれでも,音楽に於いて客観的な評価を. できる程度の感想にはなり得る。しかし,そこで. 示すことができるという意見はあるだろう。教育. の音楽批評が単にミスタッチの言及にとどまった. 現場で行われている評価であるふたつの「きじゅ. のでは,それは事実をあるがままに伝えるという. ん」 ,いわゆる「のりじゅん(規準)」と「もとじゅ. 報告に過ぎず,その先の展望へと至らない。また. ん(基準) 」が,差し当たって該当すると思われ. なによりも,そのような客観のみに傾斜した指摘. る。この評価方法では,予め決められたいくつか. に終始してしまうと,どうしても主体性や説得性. の項目や観点である「のりじゅん」と,この各の. を欠いてしまうことになりかねない。よってここ. りじゅんをどれだけ達成できたかを測定する「も. では,ミスタッチが演奏にどのような影響を及ぼ. とじゅん」によっている。ここでは前者に於いて. したのか,あるいはそれほどのミスタッチであっ. は音楽を類型で測り,また後者に於いては音楽に. ても影響を及ぼさなかったのかなどという点にま. 数値化を絡めている。確かにそこでは客観的な項. で分け入っていくことで,ミスタッチが多かった. 目をもとにして音楽を扱っている。だが,段階に. という状況を,生きた客観的事実を踏まえた上で. よる評価や,数値化や記号化によって程度を明ら. の展望にし得るものと考えられる。この例からも,. かにする手法をとるため,客観的な価値基準の明. 先に触れた説得性に富んだ音楽批評とは,客観的. 示が困難な,こと音楽を批評するという行為に於. 事実が書き手の主観とどう刷り合わせられて,あ. いてでは,そこで必要な音楽的要因をこの評価方. るひとつの価値判断へと至るのかという過程が示. 法では十分に満たすことができない。よってこれ. されているといえる。小林秀雄は「批評とは自分. らは,本稿での趣旨とは異なるものと認識するも. 2 と言ったが,書き手の主観に基づ を語ることだ」. のである。. いた価値観が客観的な視座と相俟ってそこに示さ. 今の例にもあったとおり,音楽批評では,客観. れることで,その書き手ならではの見方が現れる. 的な基準というものをデータとして予め用意して. ものと思われる。. おいて,それに基づいて批評するとした時,その. それでは,これまで述べてきた「活字による音. 体をなさなくなる。それは,音楽のみならず,芸. 楽へのアプローチである『音楽批評』」に加えて,. 術活動は客観的な尺度だけでは測りきれないとい. 「音による音楽へのアプローチである『批評的演. う理由が挙げられるところである。そしてその客. 奏』」を対比し,その両者の共通点と相違点につ. 観的な尺度がないからこそ,様々な演奏が現れ,. いて,以下に続ける。. ひいては多角的な視座による音楽批評もが可能に. 尚,今後は分類上,前者の批評活動をこれまで. なるものと思われる。. どおり「音楽批評」と呼び,後者の演奏上での批 評的な取り組みを 「批評的演奏」 と呼ぶことにする。. 3-2 「客観的な事実」をとらえる視座 例えばミスタッチの多い演奏があり,これを音 楽批評で取り上げるとした時, 「ミスタッチが多. 4.音楽批評と批評的演奏. い」ことに触れるのは,事実としてあったことに. ここでは「批評」を共通項とする,音楽批評と. 対して言及しているがゆえに,確かに客観的な事. 演奏について,3つの観点から俯瞰する。. 実の指摘と言えるだろう。しかし,「ミスタッチ が多い」という言い回しを使う時に, 「ミスタッ. 4-1 ガイドとしての音楽批評と批評的演奏. チがいくつあったから多いと言う」という定義が. 「批評する」という行為が啓蒙的であったり解. 300.

(8) 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察. 説的であるということは,これまでの歴史が示し. あることに違いない。いずれの場合にしても,そ. ているとおりである。その具体的なひとつの例と. こには奏者が作曲家や作品の案内役となるべく,. して,ガイド的な役割を担っていることが挙げら. 作品に対する奏者個々のスタンスによる様々な案. れる。ガイドというと,客観的事実を正確に伝え. 内の仕方が提供される。よってここでも受け手. るコンテンツと思われがちだが,音楽ことに演奏. は,それが奏者によるどのような角度からの切り. にあっては,ガイドの色が濃厚であっても,やは. 口とフィルターであったとしても,その楽曲を一. り書き手の音楽的な体験や蓄積された知識がそこ. 定程度には理解することになるのである。. には色濃く表れる。それは,その演奏をどう捉え. それでは音楽批評に於いてではどうか。. たのかという見識や,自身の持つ音楽観などと相. あるオペラ歌手が他のオペラ歌手を,自身も. 俟って,文章上に反映されることになるからであ. 歌ったことのある作品に於いて批評するという機. る。つまり,ガイドであっても,当然書き手とい. 会を例にとる。. うフィルターをとおして受け手へと渡るプロセス. そこでは,書き手が作品を熟知していることも. を踏むことになるということである。だがその際. あり,発声についてのこと細かい指摘が内容的に. にある一側面のみへの偏重が過ぎると,ガイド本. 大きな比重を占めていた。作品を演奏した当事者. 来の機能を狭めてしまいかねない。よってガイド. という立場からの指摘は,それ自体作品を理解す. であれば,そこでは受け手が案内として受け取る. る手掛かりとしては大きくもあり,確かな情報と. ことを前提としている以上,その書き手という. しての重要な側面がある。しかしそれでは,実は. フィルターのあり方が,より問われるところでも. ガイドとしては一面的であるとの論難は免れない. ある。. ところでもある。音楽批評が専門的な知識に立脚. それでは,そのようなケースを音楽批評のひと. することについては,これも先に触れたとおりだ. つの定義として位置付け,またそれに倣って演奏. が,だからといって原理性のみでガイドの内容を. に向き合うこととする。その時,それでは批評的. 網羅できるとは考えにくい。つまり,ガイドとい. 演奏とは,その楽曲に必ずしも精通しているわけ. う内容を満たすためには,原理性を踏まえながら. ではない聴き手に解説するように奏する,つまり. も,その専門性の高い内容をある程度一般化して. 音楽批評の場合と同様のガイド的な行為であると. いく作業もが求められているということである。. 言えるだろうか。. その作業が不十分であった時,そこでのガイドと. 結論から言うと,ガイドというひとつの側面は,. しての役割は,そこでは一面的・限定的にしか担. 期せずして表されていると言える。それは,演奏. えないであろうことは言うまでもない。. には,奏者の意向に関わらず奏者の音楽観や学究. そしてこれは,演奏を批評的に捉えるひとつの. 性が投影させられざるを得ないからである。ガイ. あり方としても言えるところである。つまり,今. ドという体裁をとるのであれば,その性格上,何. 触れた音楽批評での一般化が,演奏に於いても同. らかの形を以て作品の姿を明らかにするという使. 様に表れ得るということである。それは,分析的. 命が当然生じる。その場合,往々にして奏者が作. なアプローチなのか,あるいは聴き手の感覚面に. 品に奉仕する姿勢をとることが,その方向性を明. 訴えるべく感覚美で作品をとらえようとする取り. らかにする。それに比して,奏者が奏者の色を前. 組みなのかなどという,作品に対しての視座の違. 面に出すという演奏であった時,作曲家や作品の. いの表れかもしれない。また,楽曲に対する思い. あるべき姿よりも,作品の可能性の幅を示すとい. 入れなどという作品との距離に起因する,作品に. う方向性がとられる。だが,演奏という行為が個. 対する温度差や鮮度の違いなどであるのかもしれ. 人の価値基準の発露という側面も包含している以. ない。しかしいずれの場合にしても,様々なアプ. 上,それもひとつの作品のあるべき姿の示し方で. ローチによって「その作品を,どの切り口からど. 301.

(9) 木 村 貴 紀. う解きほぐし,聴き手に理解させるか」という命. がある現実を踏まえて,そこで当時と現代とをど. 題が明らかにされた時,ガイドとしての役割が明. う折り合わせるかという点の忖度こそが問われる. らかになるのではないだろうか。楽曲のガイドと. のではないだろうか。奏者のもつ美学が反映され. いうと,楽曲の全景を眺めることができるバラン. ることは,むしろそれがないと音楽に主軸を欠く. スのとれた演奏がイメージされるかもしれない。. ことになるために,必要であることに違いない。. しかしそれだけでなく,ある切り口によるアプ. しかし反面,奏者のカラーが作曲家や作品を遮蔽. ローチに特化し,それが明瞭に示された演奏で. するほどに主張することは,作曲家の意向や作品. あっても,それが楽曲の魅力を物語っているとい. のあり方を歪めかねない。よって,これもやはり. う点に於いて,それはやはり十分にその楽曲のガ. 先ほど述べた主観と客観のバランスの問題がここ. イド足り得るものと思われる。. でも厳然としてあるがゆえに考慮されることは, いわば現代的な音楽的コンプライアンスの勘案で. 4-2 固定された,あるいは自己の尺度. もある。. 特に現代音楽の音楽批評に於いていえることだ が,現代音楽での刻々と変化する手法の中で,音 の価値観や扱い方や,いわば音のデザインのよう. おわりに. なものなどは,多様な変化を遂げていると言われ. 演奏は,ある作品に対する奏者のひとつの回答. る。しかし,もしそこに一定の価値基準を設けた. あるいは結論である。そしてそれをどう扱うかと. 上で音楽批評がなされたとしたら,そのような著. いうのが音楽批評のあり方として問われるわけだ. しい変化への順応は今後益々困難を極めるであろ. が,それは,その演奏に至るまでの過程を,一回. うことは想像に難くない。ただでさえ音楽界をは. のみ行われる演奏から読み取る作業とも換言でき. じめとする現代が多層的であったり多元的であっ. るものでもある。そこでは,結果としてその演奏. たりする中で,自己の固定された尺度のみで,そ. に対する評価は求められるものの,その演奏の今. のような特に変化の激しい現代音楽などの作品の. 後に良くも悪くも影響を及ぼすのは,なぜその判. もつ価値やあり方を推し量ることができるとは考. 断に至ったかを示すという点である。これを批評. えにくい。. 的演奏に重ね合わせてみると,なぜそのアプロー. それは演奏を批評的にとらえる場合でも同様. チに至ったのかを,作品と演奏をとおして示すこ. で,特に先ほどの「4-1 ガイドとしての音楽. となのではないかという点が浮かび上がる。それ. 批評と批評的演奏」の項でも触れた,奏者のカラー. は「なぜその曲を演奏するのか」とか「いかにそ. があまりにも色濃く前に出された演奏などに於い. の曲を演奏するのか」という問いに対しての回答. てでは,それがどの時代の作曲家の作品であって. を明確にすることであるとも換言できると思われ. も,そこでの作曲家本位という勘案を欠くことで. る。しかし,そこで「何を演奏するのか」にとど. は,時代様式が損なわれかねない。. まってしまったのでは,単に好みの反映であった. 例えば,ロマン派に対するのと同じ姿勢を以て. り,「その曲を演奏する」というテーマについて. バロック音楽を扱うというケースを挙げる。この. の明確なヴィジョンがあいまいになりかねない。. ような取り組みは,現代では前時代的なスタイル. 従って,どのような楽曲であってもそこで何を指. として認識されているが,これは偏重したアプ. 標として演奏するのかということが,批評的演奏. ローチの一例といえる。バロック音楽であるのだ. での本来的な趣旨であり意義でもあるといえる。. から,古楽器演奏に象徴される学究性によるべき. 奏者には,対象となる作品に対して,なんらか. だという取り組みを推奨しているわけでは当然な. の理想像であったり立脚点があるものと思われ. い。しかし,モダン楽器で演奏するという大前提. る。よって音楽批評では,その作品に対しての奏. 302.

(10) 演奏と音楽批評の双方からの楽曲に対する視座についての一考察. 者による回答である「演奏」の目指したものや立 ち位置を言語化して明らかにしてこそ,表面的で ない音楽批評となり得るものと考えられる。しか し一方の演奏に於いてでは,作品に対する回答で もあり結果でもある「演奏」という行為上で,そ の作品にどの角度からアプローチするのかという 姿勢を明らかにすることで,批評的演奏の体を一 定程度にはなすことができるのではないだろうか。 そこでの両者が,判断そのものは主体性を軸と しながらも,それを自己検証の上で客体化するこ とで, 音楽批評と演奏のいずれの場合に於いても, 「批評」という形を明らかにできるものと考えら れる。. 引用文献 1.遠山一行『考える耳考える目』 青土社 1990 2.小林秀雄「読書について」 中央公論新社 2013. . (旭川校准教授). 303.

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参照

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