• 検索結果がありません。

昭和21年の国語科教育についての考察: 『國語創造』誌を資料として

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "昭和21年の国語科教育についての考察: 『國語創造』誌を資料として"

Copied!
10
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

-F国語創造』誌を資料として-A Study of S2i-s Japanese Language Education referring to Kokugo Sozo

河野智文(兵庫教育大学言語系教育講座)

TOmofumi KAWANO (Hyogo University of Teacher Education Department of Language Studies)

ThepurposeofthispaperistoclarifythestateofJapaneselanguageeducationfromAug. 1945toMar. 1947 referringtoKokugoSozo. KokugoSozodiscussedthefollowingpoints:(l)theimprovementofJapaneselanguage. anditseducationbasedona criticalattitudeagainstthoseofbefore,(2)theimportanceofspeechinstructionandchildren'sinterests.However thesewerenotfocusedinclassroom. Viewedinthislight,thisperiodcanberegardedastheformativeyearsofpostwarneweducation.

戦後新教育国語科教育国語科教育史『国語創造』

1はじめに 1945年8月15日の終戦から、1947年4月1 日の新制小学校および中学校発足までの約1年9 か月は、いわゆる「戦後新教育」の基礎が形成され た時期、また、戦前教育から戦後教育-の転換の時 期である。1947年3月20日の『学習指導要領一 般編(試案)昭和二十二年度』の発行、1947年3 月31日の教育基本法および学校教育法の公布によ り、1947年度からは戦後新教育が本格的に開始さ れた、とみることもできるが、その後1947年5月 23日に学校教育法施行規則が公布され、1947年12 月20日になって『学習指導要領国語科編(試案) 昭和二十二年度』が発行されていることを考えると、 戦後新教育-のいわば「助走」の期間はさらに広げ てとらえられるべきかもしれない。 しかしながら、その「助走」期間にも、学校教育 はおこなわれていた0教科書としては、「すみぬり 教科書」や「暫定教科書」が使用された時期である。 前田一男氏は、当時の次のような新聞記事を紹介し ている。 戦争が終結して学徒は一部をのぞいて、全部帰校 し、晴耕雨読の教育をつゞけ、女学校のみ授業を停 止という応急の措置を講じた。ところが学徒をはじ め世間では学校がどうなるかと心痛し、このま、学 校は止めになるのではないかと取り沙汰されていた が、文部省では学校授業は休止せず、おそくも九月 中旬から国民学校から大学、高専まで戦前の教科教 授を再開すること(省略)0なお授業再開と同時に 教科書、教材などの中には戦争中のみ適用されるも のが多いので、教授の際は十分な注意を払うよう、 場合によっては一部の授業を省略するなどの適宜の 措置をとるよう要請している。1) 前田氏は「この記事には、事実の修正と補足とが いくつか必要であろう」と、次のように述べている。 第一に、学校の再開そのものは、実際には9月1 日の新学期からはじまっていたことである。そこに は、これまでの軍国主義的錬成教育から解放された 自由な空気と学業の遅れをとりかえそうという「燃 える向学の瞳」があった。ただし、学童集団疎開児 童については、東京都の「約四十万が縁故、二十万 がそれぞれ地方疎開を行っているが親達の都内-の 転入停止、集団疎開の地方における学寮授業は当分 の間これを継続する方針」(8月30日)とか、横 浜市の「進駐軍を迎える横浜市内の国民学校は従前 通りの授業を再開することが困難のため当分の間は 現在の集団疎開教育を継続し、残留学童に対しては 適当な建物を利用して寺子屋教育を強化充実して行 く方針」(8月31日)とかいう記事にあるように、

(2)

10月の中旬から下旬に帰校することになった。 2) また、授業の実態についても、前田氏が次のよう な新聞記事を紹介している。 品川区立合校(ママ)は去る五月の空襲で炎上、学童 約四百名は八王子郊外その他に散って行った。戦争 がすんで約三百名が帰京した。塀のみ空しく残る廃 堰とて彼等にはやはり懐しい母校の庭に違いなかっ た。資材獲得に先生たちは奔走したが、塀の側に小 部屋二つの壕舎を作ったにすぎない。こ,に先づ虚 弱児童六十名を収容、他は午前午後と二部授業とし て『青空学校』を開始した。男の子も女の子も六年 生も一年生も一緒になってのバラバラ授業、教科も 読本と算術の二科、先生は僅か三人、自習程度にな るのも無理はない。青空学校であってみれば雨ふれ ば自宅で自習せねばならぬ。(中略)だが、子供た ちの表情は意外なほど明るい。3) この、終戦から1947年3月までの期間の国語科 教育の実情を示す資料は、多くはない。渋谷孝氏は、 「一九四六一一九五〇年頃の昭和二十年代の前半期 の実践の実態を知ることは、非常に大事であるが、 公表されている資料は非常に少ない」41と述べてい <?o 本稿は従来、資料が少なく、先行研究がじゅうぶ んな考察対象としえなかった、1947年3月以前の 戦後国語教育(本稿題目の「昭和21年」は、終戦 から1947年3月ごろまでを指すものとする)につ いて、資料に基づき、その実態を明らかにしようと 試みるものである。対象資料としては、『図譜創造』 誌を用いた。.

2対象資料

『国語創造』誌は、1946年11月1日付で創刊 され、11号から誌名を『国語創造』とあらため、 第13号まで現物が確認されている。 5) 1999年5月15日に発行された『図譜創造』復 刻版の監修にあたった梶村光郎氏は、『図譜創造』 誌の創刊に至るまでの状況について、次のように解 説している。 第一次米国教育使節団の報告書が、漢字の読み書 きに負担がかかることを指摘し、カナよりもローマ 字を使用することがよいとか、「話しことばをもっ と民主的な形にもっていく方法を研究すること」な どを「国語の改革」として提案すると、戦前の国語 教育を反省し、国語の改良を進め、民主的な国語教 育を建設しなければならないとの機運がいっそう高 まっていった。 『明るい学校』創刊号(一九四六年七月)に、「こ とばと文字の民主化のために」(アオキ・ソウイチ ロウ)、「帝国主義的教材の残津」(野口茂夫)、「初 一・二の実際指導」(今井誉次郎)が掲載され、F生 活学校』の復刊第一号(一九四六年一〇月)に「囲 語国字問題の動向」(滑川道夫)が掲載されるなど、 国語教育の民主化に関する記事や論塙が、国語教育 の専門雑誌でない教育雑誌の創刊号に掲載されるよ うな状況が生まれてきたのもその影響の一つである。 また、国語教育関係者を中心とする研究集会など が各地で開催されるようになってきた。 たとえば、 一九四六年八月二三日から三日間、東京都芝の日本 赤十字本社で開催された「文化集会」は、「新国語 教科書の構想」(文部事務官石森延男)や「児童 劇について」(日本大挙講師栗原-壁)などの講 演を組織し、新しい国語教育-の関心に応えたので ある。 さらに、こうした機. 連や動向の中で、国語教育の 専門雑誌の創刊も計画されてきたのである。 一九四 六年一〇月五日に結成された東京都図譜教育協議会 を母胎とする国語教育協会は、同年一二月一九日に 第一回の研究会を滝野川囲民学校で開催した後、 『囲諸文化』を一九四七年一月三〇日に創刊した0 また、これより先、志垣寛主宰、寒川道夫編集によ る『国語創造』が、一九四六年一一月一日付で創刊 された。その名称や創刊号の「編輯後記」の寒川の 文章からもうかがえるように、日本の民主化の一翼 を担う国語や国語教育の創造を目指して創刊された のである。6) また、創刊号発行時の状況について、次のように 解説している。 「文化集会は最後の日に協議を持ちその結果本社 が近く発刊する雑誌囲語創造をその機関誌とする事 に決定した。」と、志垣が「週録」(F教育新聞』一 九四六年九月七日号)で報告しているように、「文 化集会」と関係を取り結んだことも、『圃語創造』 の創刊に拍車を掛けたように思われる。これにより、

(3)

一定程度の読者が確保され、雑誌を安定的に発行で きる経済的な基盤を固めることが期待できるからで ある。 こうして、『図譜創造』は創刊される運びとなっ たo創刊予定日は、一九四六年一〇月一日。 創刊を 記念して第-回の国語創造研究協議会が、一〇月一 四、-五、-六日に教育会館で開催されることとな った。 しかし、印刷の都合や用紙の手当の問題などで、 -〇月一日に創刊号を発行することができなかった。 そのため、創刊を記念しての研究協議会の開催であ ったが、創刊号を展示することができなかった。 創 刊号の六四頁に掲載された記事によると、「特に全 図から研究心にとめる百数十の篤志家が参集され現 代日本の囲語教育に関するあらゆる問題が提出され 中々の収穫であった。」という。 結局、創刊号は一 九四六年一一月一日付で、実際は一一月一四日に発 売され、翌日全国に向けて発送されたのである。 大 きさはA5判で、頁数が六五頁。 定価五円で、発行 元は志垣寛が社長である教育新聞社であった。 7) 『囲語創造』誌は、たとえば『国語教育史資料第 六巻年表』8)などの資料には創刊・発行の事実が 記録されているものの、現物を目にすることが困難 であったことなどの事情によるものと思われるが、 これを資料とした国語教育史の先行研究は、管見で あるが多くはなかったのではないかと思われる。 本稿では、復刻版の発行を機に閲覧が容易になっ たF図譜創造』誌を、「昭和21年の国語科教育」 の実態を伝える価値ある資料と判断し、1946年11 月発行の創刊号を対象として考察を進めていくこと にする。 以下に、創刊号の目次を掲げる。 扉「明るい灯を」(寒川道夫) 国語学習新論(志垣寛) 国語の心理(1)(波多野完治) 新しい国語教育のために1--請(石森延男) 演劇の小径(1)栗原-壁) 児童文化の新方向(寒川道夫) 国語創造ノート(猪股辰禰) 新しい読本教材を検討する(松永恵美子・花田暫 幸・神山光・久米井束) 児童文合評(吉田瑞穂・栃木正雄・高野寛順・大 木徳翁・富川利三郎・寒川道夫) -二年生の学習部屋(野村芳兵衛) 子供図書館国語教室の為の 国語のゆめ(中村高三) マストブック 『生活技術と教育文化』(城戸幡太郎、高里 閣)『共産主義』(永田贋志、伊藤書店) 『ゲイテとトルストイ』(トーマス・マン、 高橋義孝訳、山水社) 『日本歴史』(佐野撃) 国語学習室参観記-××校-(花田智幸) 新編次郎物語1(寒川とみ子) 繍輯後記(サガワ・ミチオ)

3考察の観点

紙幅の関係で、所収記事を十分に検討する余裕を もたないが、以下の二点について、対象資料をもと に考察したい。 第-に、戦前の教育・国語教育をどのようにとら え、評価していたか、という観点。 第二に、戦後の「新しい」教育・国語教育を、 どのようなものとして展望していたか、という観点。 あわせて、1946年当時の実践がどのようなもの であったのか、検討することとしたい。 4考察1-戦前教育の評価-第一に、F国語創造』誌が、それまでの戦前国語 教育にどのような評価を与えていたか、という点に ついて考察してみたい。 『囲語創造』誌の巻頭言にあたる「扉」は、「明 るい灯を」と落された寒川道夫氏による、以下のよ うな文章である。 先生は『言葉』によって子供を育てる。 「文字』 によって子供を育てる。子供はF言葉』で考-、『文 字』で文化を摂取する。先生も伸び、子供も伸びる。 そして社会は大きく伸びて行く。 伸びて行くといふ目的を立派に果す為には、その 手段はなるべく手数のか、らぬ簡単なものでありた い。文字を覚え、文を解釈する事が目的ではない筈 だ。所がどこの教室をのぞいても国語教育といふと 先づその五〇%以上の精力を之に注いでゐる。 さう せずにはおれぬ程我々の文字と言葉には大きなマイ

(4)

ナスがある。 長い長い封建的支配とその不徹底な精 算が我が国の諸方面に二重性三重性の殻をくっつけ てゐると同様に、国語に於てもその階級性不合理性 は執勅に存在し、煩雑と混乱を重ねてゐるのである。 言葉は創造生産を進めるための道具であり、社会 連帯の動脈である。 然るに我が国に於ては之が大き な動脈痛となり、国語教育は此の動脈痛の治療に、 その精力の大部分を費してゐたのである。 あの幼い 子供達のリユマチスに悩む青白い閏を見よ。 それが 国語教室であった。 今我々が歴史的にも国際的にも真の民主々義国家 -発足すべき至上命令下にある時、今までの民族精 神に片寄った形而上学的国語論、ことだま精神に懸 かれたトーテミズムを清算して、平明、確実、真に 民衆の力となれる国語の創造をする事は、最も慎重 に又最も急速にやらねばならぬ課蓮である。 我々の 民主々義遂行の意志は先づ此の課題達成の為に結束 されねばならない。 その結束によってす、けた貧し い封建主義の灯をふき消し、明るい良心の灯をか、 げよう。皆の手元を、皆の行方を、等しく明るく照 す灯を。9) 寒川氏は、「我々の文字と言葉」の「大きなマイ ナス」として、「階級性不合理性」が存在し、「煩雑 と混乱を重ねてゐる」ことを挙げている。 これはた とえば、次に引用する『米国教育使節団報告書(第 一次)』にみられるような国語改革に関する藩論と 同一のものを有している0 日本の国字は学習の恐るべき障害になってゐる。 広く日本語を書くに用ひる漢字の暗記が、生徒に過 重の負担をかけてゐることは、ほとんどすべての有 識者の意見の一致するところである0 小学校時代を 通じて、生徒はただ国字の読方と書き方を学ぶだけ の仕事に、大部分の勉強時間を割かなくてはならな い。この初期数年の間、広範囲の有用な語学的及び 数学的熟練と、自然界及び人類社会に関する主要な る知識の修得に充てられるべき時間が、この国字習 熟の苦しい戦ひのために空費されてゐるのであるO 漢字の読み書きに過大の時間をかけて達成された成 績には失望する。 (中略-河野) 国語改良の必要は、日本においてすでに長い間認 められてゐた。 著名な学者達がこの間蓮に多大の注 意をはらひ、政論家や新聞雑誌の主幹をふくむ有力 者の中には、実行可能な方法を種々研究したものが 多い。約二十に上る日本人の団体が、今日この間轟 に関係してゐるといふことである。 大体において、 三つの国字改良案が討議されつつある。 第-は漠字 数の制限を求め、第二は全然漢字を廃止して、ある 種の仮名を採用することを要求し、第三は漢字も仮 名も完全に廃棄して、一種のローマ字を採用するこ とを要望する。 これらの諸案の中何れを採るべきかは、容易に決 定することができぬ0 然し、史実と教育と言語分析 とを考-あほせて、使節閲は、早晩普通一般の国字 においては漠字は全廃され、そしてある音標式表現 法が採用されるべきものと倍ずる。 かやうな表現法 は比較的修得に容易であり、また全学習過程を大い に簡便にするであらう。 この表現法によって、辞書、 カタログ、タイプライター、ライノタイプ機、及び その他の言語補助の用法が、簡単になるであらう。 更に大切なことには、この表現法によって日本の大 衆は、芸術、哲学、科学、及び技術学上の自国の文 書中に存在する知識と知恵に、一層親しみ易くなる であらう。 それはまた日本人の外国文学研究を容易 ならしめるであらう10) 。 また、志垣寛氏も、「国語学習新論」において次 のように述べている。 同じ国の国民であり乍ら文字や言葉が共通でない といふことは誠に不仕合な事である。 言葉が違-ば 臼から人々の思想感情が違ってくる。 お国靴りがな づかしいのは、ことばから来る思想感情の共通性を 感得するからである。 ことばに階級があるのは国民 に階級があったからで、国民の階級がなくなれば必 然それもなくならなくてはならぬものだ。 ところで 日本は明治維新で階級が亡びた等だけれども実はさ うでなく、閥族とか資本家とかいふいろんな階級が 出来て、依然として国民は分割され、ことばの階級 性が保存されてゐる。 この階級性をなくして了ふこ とが国語を民主化することである。 それでは具体的にいってどうすることであるかと いふと、凡そ次の事を断行することである。 -、漢字をだんだんへして仮名かローマ字か、或は 別にやさしい文字を作るかすること。 二、仮名達を発音通りにすること。 三、着しことばと文章語とを同じものにすること。 ちい

(5)

また、寒川氏は戦前の言語観を「ことだま精神に 懸かれたトーテミズム」と評しており、これは、波 多野完治氏の以下のような主張とも重なる。 国語については戦争中ずゐぶんひどい学説が行は れたo所謂コトダマ配である。 国語には日本精神が やどって居るので従ってそれは日本精神と同じやう に神聖にして犯すべからざるものであるO国語の欠 陥を云為し、又はこれにいささかでも変更を加-や うとするがごときものはもはや日本人とは言はれな い。云々。 (中略一河野) とに角このやうな考-が戦争中に横行した所のも のである。 これに対してコトバの道具性といふのは どういふのかと言へば、国語改良論者は全て道具説 といふことにされてゐるが、最もはっきりとこれを 主張したのは城戸幡太郎氏で、その文章は今手元に ないが、もし日本語に日本精神がやどるといふなら 日本精神論者の最もいやがる共産党宣言が日本語で 充分表現されるのはどうしたわけか。 共産党宣言は それでは日本精神なのか。 言葉は道具だからこそ極 左の共産主義思想もあらはされるし、極右の思想も あらはされるのだ。 既に道具である以上それを不便 でなくするのは当然であり、たえず改良されて行く ことは文化国民の神聖なる義務でなければならない。 と。大体以上のような筋道であったと記憶する。 当時このやうな形で道具説を主張することは非常 な勇気の要ることであった。 諸君も知って居られる だらうが、議論の一方が他方を「赤」と呼べばもう その他方は負けであった。 何んと弁解してみたとこ ろで警視庁からしらべに来るし、来れば一冊や二冊 のマルクス主義の本は出て来るLでもういけない。 たちまち留置場行きである。 だから我々は何とかし て赤といはれないやうに気を配って行かなければな らなかった。 このやうな時代に、唯物論のにほひの つよい言葉の道具説をとなへることは城戸さんのや うな勇気のある人にして始めて出来たことなのであ った。 はたして右翼からの攻勢はものすごかった。 右翼 陣営はこれによって蜂の巣をつついたやうにわき立 った。名前を言-ば誰でも知って居る図書監修官(現 職)の諸君などが城戸打倒のためにどれだけ暗躍し たか。我々などはそれを傍から見ききして舌をまい たものだった。 我々は城戸さん程はっきりした道具 説をとっても居ないし、又勇気もないのでこの論争 には加はらなかった。 (中略一河野) さうして日本中の全ての国語教師たちはこのコト ダマ説で教育され又、国語を教-るべき指示された 5E* だから今でも日本中の数多い国語教師のうちには 戦争中の国語観を真理と思ひ込んで居るものもある ことだらう。 主張及思想の自由な今日、教師がどん なことを考-て居ようとかまふことはない、といへ ばそれまでだが、それが日本の進歩、日本の民主化 を阻害する原因となる場合には放っておかれない0 で我々はいやな仕事であり積極的な意味の多くない 仕事だが、コトダマ説の批判をやりながら進んで行 かなければならないのである12) このように、『国語創造』誌創刊号の、戦前国語 教育に対する評価は徹底して否定的である。 これは、 当時の世論すべてに共通するものであったといえる。 特に批判の対象となったのが、日本語、とくに漢 字の学習・習得の困難さと非能率性、および国語を 精神的、思想的な教育に利用しようとした、いわゆ る「ことだま精神」に基づく教育であった。 当時の世論に沿っていたと思われるが、従来の国 語教育のこのような点を『囲語創造j誌創刊号は批 判し、次節で検討するような主張を展開しているの である。

5考察2-「新しい」国語教育の展望-第二に、『国語創造』誌が、戦後の新しい国語教 育をどのようなものとして措こうとしていたか、と いうことについて考察してみたい。

5.1話しことば指導・話し合い学習の重視

志垣寛氏は「国語学習新論」において「間蓮にな ってくるのはまず『話しことば』である。 日常生活 に必須な『話しことば』を十分に使ひこなすことの 出来るやうにしてやらなければならぬ。 そのために は方言のやうな地域性のある言葉を斥け、早く国民 一般に通用する標準語をつかいならす事が大切であ る。そのために教材として先生自身のよき言葉が要 求され、それを禰ふものとして音盤やラジオなどが 採用さるべきであhJ13)と述べ、まず、学習者の 日常生活の必要、という観点から、話しことば指導 を重視することを主張している。 必要性、実用性という観点からは、扉の「明るい

(6)

灯を」で寒川道夫氏が、「平明、確実、真に民衆の 力となれる国語の創造」を主張しており、志垣氏も、 次のように述べている。 子供は何のために国語を学び、吾々は何のために 国語を教ふるか、これは教育の目的から考-ればす ぐわかる問題であるo教育が忠良なる国民の養成で あった時代は、国語で愛国心を養ふといつたやうな 仕事も一応は考へられたらうが、教育は個々人の生 活を幸福にするために行ほれなくてはならぬといふ 今日になると、国語の学習も亦当然子供が社会生活 をして行く上に事欠かないやうな教へ方をしなけれ ばならぬ。即ち生活のために、生産のために能率の 高い効果の多い国語教育でなくてはならぬ。 六年も 八年もか、つて教へても録々手紙もかけず、広告ビ ラも読めないやうな国語教育では仕方がない、日常 生活の要をたし、自分の生活を楽しくする事の出来 るやうな国語の学ばせ方をしなくてはならぬ。 その ためには第-にまず何を国語教材とすべきかを考 なくてはならない14) さらに志垣氏は、次のように続けている。 話によって人を納得せしむる技術は社会生活上最 も重要な事であり、民主宵に於ては特にさうである。 従来日本には沈黙は金なり、雄弁は銀なりといつ たやうな戒が多く、極度に話す事を抑制したもので あるが、必要な時には大胆に自由に自己を表現しう る能力の修練は絶対に必要な事で、此後の国語学習 上大きな役割をもつものである。 近頃大に叫ばれてゐるデスカツシヨンのもつ意義 はこの点で特に大きい。 デスカツシヨンは言語学習 の方法としては最上のものである。 之によって他人 の主張を正しく理解する訓練が行はれ、又自分の意 見を正しく、力強く表現する習練が行はれる。 さう してその結果みんなの意見が総合整理されて協同の 意見を生み出して行く事になる。 これは民主教育の 行き方として絶対に必要なことであり、いろいろな 場合に用ひらるべき方法である15) ここでは、戦後の「民主化」、「民主教育」にとっ て、話しことば指導、とりわけ「デスカツシヨン」 が意義をもつことが主張されている。 また、記事欄外にある無署名のコラムでは、以下 のように述べられ、この「デスカツシヨン」の導入 にあたって、受けとめが多様であったことがうかが える。 ▼六三三式の学校制度が実現して全国各町村に下 級中学が設けられると中学入試はやる必要がなくな る▼入試がなくなれば国民学校の国語教育が本質 的に立ちなほって来る事は必定だ▼そして六三制 の実施が来年四月を期して一斉に行はる、事も必至 であらう▼全く天日を仰ぐ恩である▼デスカツ シヨンだけが新しい教育の様式であり何でもかでも デスカツシヨンでなくてほならぬなど、思っては大 変である。まさかそんな人もあるまいとは思ふが念 のため▼ところでデスカツシヨンなどどうでも い、など,うそぶくのは以ての外だ16} 実践的にはどうだったのだろうか。 野村芳兵衛氏 「-二年生の学習部屋」は、当時岐阜師範附属国民 学校長であった野村氏が、低学年の教室で、いわゆ る「飛び入り」の形で行ったいくつかの体験が、随 想風に記されたものである。 ここでは、児童とのや りとりのエピソードを碍介した後、話し合いの指導 について次のように述べられている。 Descussionmethod(ママ)と言ふことが、此頃しきり に言はれる。討議法とか、話合法とか言ふ意味であ らうが、学習の最もよき方法の一つとしての話合法 は、先づ、最も自然に、そして本当に語りあいたい こと.を語ると言ふ根本的な態度が培ほれなかったら、 思ったほどよい効果は得られないのではないかと思 ふ。 「あなたのやうな老人になれば、孫と祖父のやう に、自然な話合ひも出来ませうが、私達のやうな女 学校を出たばかりの娘には、無理ではないでせう か」と言はれる若い先生もあるかと思ふが、決して さうではないと思ふ。 お祖父さんはお祖父さんらし いやうに、姉ちゃんは姉ちゃんらしくすればよい。 そして、お父さんはお父さんらしく、お母さんはお 母さんらしくである。 さう言ふ意味で、女学校出の若い娘さん達が、子 供達を姉さんらしく可愛がって下さることを私は望 んでゐる。つい三日程前にも、私は、K町で開かれ た初訓の講習に出かけたのであるが、其処で、会員 の一人-Tさんと言ふ女学校出の若い先生-の実 地指導で、一年生の読方を見たのであるが、-教 材はユウダチのところであった-その子供達と語

(7)

られる態度が、如何にも姉さんらしくて嬉しかった。 総じて、此頃、先生方の態度に先生臭いところが なくなって、お姉さんらしく、お兄さんらしく、お 父さんらしく、お母さんらしくなって来たことを、 私は最も根本的な民主教育の動向であるとして、喜 ぶ者である17) 同様に実践面での実態として、四年生の授業を参 観して記された、花田智幸氏「国語学習室参観記 -××校-」では、花田氏が二つの授業を参観し ての印象として、次のように述べられている。 教育転向が叫ばれてゐる現在、この二つの授業形 態にさうした色彩が採られてゐるかと考へてみます と、ほとんど昔のままの問答法中心の授業であるや うに思ひました。 (新しい傾向といふのは討議法の 開蓮ですOこの問答法と討議法の関係は極めて重大 なことであって、十分甲論乙駁の研究が為されてよ いものだと思ひます18) ここからは、「討議法」の重要性は認識されてい るものの、実践の現状は「ほとんど昔のままの問答 法中心の授業」であり、具体的な変化はまだ起こっ ていないことがうかがえる。 ところで、こうした話しことばの指導の重視、特 に話し合いや討譲を学習の重要な活動として位置づ ける考え方は、国語科の授業にとどまるものではな かった。 以下に引用するのは、文部省が発行した教科書『民 主主義」の一部である。 この教科書は、最初高等学 校一年生で使用されたが、のちに中学校三年生でも 使用されている。 われわれは、日本人をこれまで支配してきた「縦 の道徳」の代わりに、責任と信頼とによって人々を 結ぶ「横の道徳」を確立していかなければならないO ところで、このような民主的な「横の道徳」の原 理を実際に身につけるのに、いちばん適しているの は、学校での生活である。 学校では、先生の指導の もとに、同年配の青少年が共同生活を営んでいる。 したがって、学校の中でみんなが共同の目的のため に仕事を分担し、自治的にいろいろな活動をやって いけば、おのずからにして今いうような「横の道徳」 を体得することができる。 みんなで委月を選挙した り、自分が委員になって学校や学級を代表したり、 クラスの会合でいろいろな間蓮について自由に討論 したり、討論した結果を多数決で決めたりしている 間に、民主主義と-いうものはどういうように行われ るものであるかが、しぜんにわかってくる19) ここからは、討論することなどにより「民主主義 というものはどういうように行われるものであるか が、しぜんにわかってくる。」と述べられているよ うに、社会科を中心とした当時の教育全体の中で、 話すこと、話し合うことが、その技術のみならず、 方法や、話し合う経験そのものが価値をもつものと して重視されていたことがうかがえる。

5.2学習者の興味・関心の重視

次に、学習者の主体性や興味・関心を重視する、 という主張について検討してみたい。 『米国教育使節団報告書(第一次)」で「先づ生 徒の興味から出発して、生徒にその意味がわかる内 容によって、その興味を拡大充実するものでなけれ ばならない」20)と述べられたことと、「国語創造』 誌の主張は、軌を一にしている。 志垣寛氏は、教科 書・教材について、次のように変化すべきであるこ とを主張している。 一体人は必要か興味か、その何れかゞなければ他 人の文章を読まないものである。 読本を与えて読む ことを強いたところで真の学習には発展せぬ。 子供 に読ませるためには、その文章が面白いか、何か直 接に必要をみたすものであるかでなくてほならぬ。 本をほしいと思ってゐない人には、本の広告が目に つかぬのはそのためだ。 心に一つの要求があってこ そ初めて読む気にもなり、読んで意味の把握ができ る。吾々が読書するにしても何か課題をとく必要に あってよむ場合と、たゞ漫然と読む場合とでは読ん だ結果に大きなへだたりがあるものである。 だから若し教科書を作るならば子供にとって必要 性をもつものか興味多い教材かを以て充たすべきで ある。子供が現在の生活上必要とする教材を選ぶこ とは中々むづかしいので結局読本といふものは興味 の多い文学的な教材を中心として縮まる、事になら う。そして必要上読む教材といふものは之を一般の 実生活から求むるがい、、例へば日々の新聞を初め として、雑誌や各種の掲示、広告、手紙等々子供た ちの身辺にころがってゐる文章を拾ってこれを教育

(8)

的に活用することである。 少し注意ぶかい熱心な教 師ならば国語教材の採集には決して事欠かないであ らう21] 続けて、学習の方法については、次のように述べ てい<1。 ところで従来の国語学習では何の必要感もなく、 又子供にとって何の興味もない教材の押しうりがい かに多かつだであらう。 少し教師に努力と工夫があ れば、必要感か興味をわき起らせる事が出来たらう と思はる、教材すらもが、押売に終ってゐた。 新し い国語学習はそれではならぬ。 ではどうすればよい か。問題法や、構乗法などの学習様式の採用がそれ に答-るであらう。 間農法といふのは、協同の作業によって一つの閉 塞を構成する。 問題が決定したら、その間是の解決 のために学習(即ち仕事)が初めらる、。 その間蓮 解決に必要な参考書として読本が役だって来るとい ったやり方である。 つまり子供たちが作った問題を とくための必要に迫られて読本のある文章を読む事 になる。そしてそれを読む事によって問題に対する 答をかくのである。 この場合二字や三字漢字の読めぬものがあっても 差支ない。どうしても読めない字があり、それが読 めねば全体の意味が分らぬといった場合は、教師な り辞書なりについてその字を学べばよい。 目的はそ んな一字一字の末にはなく、全文を読解して所与の 間に答へるのである。 ところがこれまでの読方学習 は教科書についてそこに出てくる文字や語句の取扱 に大半以上を費し然もそれすら十分に獲得しえない 内に内容のせんさくに入るといったものが多かった。 吾々には必要あって本をよむとき二字や三字読めな い字があっても全体の読解にはさして関係がない事 が多いのをよく知ってる。 早い話が雑誌に誤植があ ってそこの意味が不明でも全体の意味をつかむには さして困らないやうなものだ22] ・学習の方法という点では、寒川道夫氏は、「児童 文化の新方向」で、「創造活動」「表現活動」を重視 すべきであると、以下のように述べている。 児童自らの創造活動の尊重さるべきは当然の事で ある。遊戯、美術、音楽、文学、それ等を生み育て る社会的環境一児童は児童なりに表現し創作する。 創作しつ、生長して行く。 これは児童の表現活動の 指導と相侯って発展して行くものである。 然し乍ら それは従来の温室的な学校教育の轍を踏むことは好 ましくない。 従来の学校教育とゆうものは、いつも 意図が指導者側にあった。 先生の意図が子供をとほ して表出されたものであるo子供は唯一つの漣過器 に過ぎなかった。 更に学校に於ける表現活動は、そ れ自らに於て目的充足性をもっていず、いつも一つ の手段化されておった。 従ってそれは温室的なもの となり、日常生活現実生活にとけこみ、それを強め 昂める力としては甚だ頼りないものであった。 之は 学校組織が改革され、更に大きく社会的に進出した 時、本当の力を備えた新しい装いをして登場してく るであろう。 学校も子供達の合議の上に運営されて 行く一つの自治体としての機能を発揮して来なけれ ばならない。 体育会が催ほされる。 それは注意深い 日常の体力増進計画と並行して行はれる。 お話会と いふ名で子供達の研究発表会がもたれる。 文芸雑誌 が発刊される。 展覧会・音楽会が開かれる。 こうゆ う発表・交流の機関をとおして児童の表現活動は常 に自主的に進められて行くのである。 こ、では表現 する事それ自身に目的性がある。 指図され命令され るからやる、表現そのもの、価値評価にはか、わり なく唯自己の、極めて利己的なプライドの為にやる、 という様な従来の形骸的な匂いはどこにもない。 之は更に学校内とは限らず、その地域と連合し、 地方と共同し、遠くは他の地方、更に国際的にまで 文化の交流がなされる事になれば、児童の創作活動 は一段と高まるであろう。 又そうした創作活動を刺戟し導くものとして、大 人の更に先人の多くの尊い文化的遺産の研究と継承 もなされて来よう。 そうした施設も附属されてくる。 之等は全て児童等の企画と実践に基いで進んでい くのである。 それによってこそ児童の表現活動は極 めて自発的、自主的な力の寵ったものとなるであろ う。つまり子供達による文化活動を盛にし、優秀な 文化財を生み出させる様な組織を与えてやる事が、 我々の仕事として重大な意義をもってくるのである。 23) また、中村高三氏も、「国語のゆめ」で、以下の ように、表現重視の主張を展開している。 国語を、表現の面に立たせてわからせることが大 切である。国語教育の民主化がそれである。 表現の

(9)

なかでわからせるときは、かならず子どもは、自分 の国語生活のなかにおいてそれをたのしむのである。 これまでの国語指導では、たと-、生活ことばとか 子どもの主観とかをわすれない教師があったとして も、それは教材の鑑賞や理解の中に加味されたてい どに過ぎなかったのではなからうか。 すなはち、そ の教材の内容を、いかにうまくとりいれさせるかと いふ手だてとして、それが工夫されたにすぎなかっ たとも言ほれると思ふ0 これではけっして国語をたのしませることにはな らない。教材を、ほんたうに子どものものとして十 分たのしませるには、むしろぎゃくに、表現のなか において鐙賞させるといふ、あたらしい指導のめや すがたてられなくてはならない。 これまでにも熱心な教師のあひだで、読みとつづ り、鑑賞と表現の問題がいろいろに考-られてきた。 これらは国語学習の両面であるといふ一体観も叫ば れてゐた。まことに結構である。 しかし、そのこと がじつさいの子どもの心にどうはたらいたらいいか を、つつこんで考へてゐた教師はまれであったらう と思ふ。大ていの国語指導には表現の問題がかくさ れてしまってゐる。 私は、今後の国語教育に、つづり方(表現)がも つと表面にあらはれてこなくてはならないと思ふ。 むしろ、綴り方が主体となって教材の鐘賞がふかめ られなくてはならないと思ふのである24) 戦後新教育が、学習者の興味・関心に根ざし、学 習者を尊重する方向に立つことは、当時のいわば共 通見解とでもいうべき認識であり、F図譜創造』誌 の論調も例外ではない。 『図譜創造』誌では、その 具体化のために、教材論の面からは、学習者の必要 感あるいは興味を喚起しやすいものを教材とするこ と、方法論の面からは、表現活動を重視することを 捷言している、とまとめることができよう。 6おわりに 本稿で考察の対象とした『囲語創造』誌創刊号は、 たとえば『米国教育使節団報告書(第一次)』にみ られるような、基本的な理念をふまえつつ、それを 国語・国語教育の観点からより具体化していこうと する方向性がうかがえる。 しかしながら、終戦後一年あまりという、昭和21 年のこの時期にあっては、そのような理念の実践化 にまでは末だ至っておらず、より具体的な捷言、と いう段階にある、と特徴づけられる。それは、教室 での実践を資料とした論考からもうかがえることで ^^m とはいえ、昭和22年4月以降の資料にみられる 諸実践の特徴となる、その原型あるいは萌芽的要素 とでもいうべきものは、『図譜創造j誌の随所に確 認することができる。 このことからも、昭和21年は、単なる混乱の期 間ではなく、理念的に提言された戦後新教育の枠組 みを、教科教育の実践的方法-と適用しようとして いく準備、あるいは基盤形成の時期としてとらえる ことが可能であろう。 きわめて限定された資料での考察にとどまらた が、戦後新教育の基盤形成期にあたる時期の実情を、 具体的な資料から検討することは、ある程度果たせ たのではないかと考えている。 紙幅の都合もあり、『図譜創造j誌創刊号の中で も、限られた論考を資料としての考察にとどまった ため、同誌所収の、教材解釈や児童の文章を対象に しての討論などの興味深い記事について、見送らざ るをえなかった。また、第二号以降の考察も課題と して残っている。 さらに対象を拡大しての考察を課題とする続稿を 期しつつ、上記のことを、ひとまずの結論としてお きたい。 i主 1)『朝日新聞』1945.8.29引用は前田一男「学 校授業の再開」(藤原彰他編「最新資料をもと に徹底検証する昭和20年/194S年』小学館、 1995.6.10)347頁。 2)前田一男「学校授業の再開」、347-348頁。 3)『朝日新聞』1945」Ll. 6引用は前田一男「学 校授業の再開」、348頁。 4)渋谷孝『国語科単元学習は成立するか」「明治 図書、1993.9、13頁。 5)梶村光郎氏の解説では、寒川道夫氏が『生活 綴方事典』(一九五八年、明治図書)に「一九 四八(昭和二三)年一〇月、一四号をもって廃 刊のやむなきにいたった」と述べていることに ついて、寒川氏の所蔵していたF国語創造』誌 の調査や、関係者-の取材をふまえて「第-四 号は発行されなかったという耗論になる。

(10)

第-四号が実際に発見されたり、他の教育雑誌など で発行が確認されない限り、第一三号で『囲語 創造』は終刊したとみるのが妥当なところであ ろう」(12頁)と述べられている。 6)梶村光郎「解説『国語創造』について」8頁。 7)梶村光郎「解説『囲語創造』について」lo貰o 8)野地潤家縮、東京法令出版、1981.4.1 9)寒川道夫「明るい灯を」1頁。 10)『米国教育使節団報告書(第一次)-連合国 最高司令官に提出せられたる-』1946.3.31 (引用は『資料日本現代教育史1』三省堂、 1974,3.10、による57-58頁。 ll)志垣寛「国語学習新論」3頁。 12)波多野完治「国語の心理(1)J-10頁。 13)志垣寛「国語学習新論」5頁。 14)志垣寛「国語学習新論」5頁。 15)志垣寛「国語学習新論」5頁。 16)16頁。 17)野村芳兵衛「-二年生の学習部屋」44頁。 18)花田暫幸「国語学習室参観記-××校-」57 頁。 19)文部省著作教科書『民主主義』下巻、1949.8.26、 287頁。 20)『米国教育使節団報告書(第一次)-連合国 最高司令官に提出せられたる-』1946.3.31 (引用は『資料日本現代教育史1』三省堂、 1974.3.10、による50-51頁。 21)志垣寛「国語学習新論」6-7頁。 22)志垣寛「国語学習新論」7頁。 23)寒川道夫「児童文化の新方向」20頁。 24)中村高三「国語のゆめ」49-50頁。 対象資料 梶村光郎監修『囲語創造』復刻版、緑蔭書房、 1999.5.15 引用文中の漢字は、回有名詞等を除き、原則として 新字体にあらため、かなづかいは原文のままとした。

参照

関連したドキュメント

では,この言語産出の過程でリズムはどこに保持されているのか。もし語彙と一緒に保

Aの語り手の立場の語りは、状況説明や大まかな進行を語るときに有効に用いられてい

 さて,日本語として定着しつつある「ポスト真実」の原語は,英語の 'post- truth' である。この語が英語で市民権を得ることになったのは,2016年

られてきている力:,その距離としての性質につ

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

この 文書 はコンピューターによって 英語 から 自動的 に 翻訳 されているため、 言語 が 不明瞭 になる 可能性 があります。.. このドキュメントは、 元 のドキュメントに 比 べて

明治33年8月,小学校令が改正され,それま で,国語科関係では,読書,作文,習字の三教

それでは資料 2 ご覧いただきまして、1 の要旨でございます。前回皆様にお集まりいただ きました、昨年 11