Author(s)
與座, 隆
Citation
沖縄史料編集紀要 = BULLETIN OF THE
HISTORIOGRAPHICAL INSTITUTE(40): 73-86
Issue Date
2017-03
URL
http://hdl.handle.net/20.500.12001/22072
戦後沖縄の米軍内での人種問題と地元住民の関係について
與座 隆 はじめに 沖縄市照屋-嘉手納米空軍基地の第二ゲートから3km ほどしか離れていないそこは、戦 後間もない頃から 1970 年代初頭を通して米軍相手の商業区として栄えた街である。米兵 の客は殆ど例外なく黒人兵であったため、この区域は地元住民からは「黒人街」、米軍か らは「ブッシュ」と呼ばれていた。現在となっては、その大部分が住宅街となっており、 人通りもまばらで、侘しい雰囲気が漂う。通りには古びたコンクリート造りの建物が無機 質に並ぶ。それらの建物の内の幾つかは、その外壁に未だに横文字の塗装の跡を残してお り、当時の繁栄の面影を微かながら止めている。戦後の沖縄の歴史は、米軍基地の存在抜 きには語れない。 米軍内での人種問題とりわけ黒人・白人間の人種対立は戦後の米軍統治下の沖縄の歴史 において特異な要素であった。米軍内での人種差別・対立に起因する諸問題は米軍内には 止まらず、基地周辺の住民の生活に大きな影響を与えている(1)。加えて、沖縄の米軍内の 人種問題を取り巻く動きは、米本国での人種政策、社会的事情や政治運動とも連動し、米 軍統治下の住民の政治活動もその動きに少なからず影響を受けている。このことから、米 軍内での人種問題と米軍統治下の沖縄県民との関わりに焦点を当てることは、当時の県民 の生活、社会意識、経済活動などを把握する上で極めて重要だと考えられる。かつてコザ 市(現沖縄市)照屋にあった「ブッシュ」と呼ばれた「黒人街」は数ある基地周辺の商業 区の中のほんの一部に過ぎないが、これがどのように出現し衰退していったのかを認識す る事は、米軍統治下の県民の置かれた状況と、それらを取り巻く米軍内または米本国での 状況を認識し、これらがどのような形で当時の出来事に影響したのかを推測するカギにな ると考える。本稿を通じて、「ブッシュ」は、その出現、発展そして衰退において、米軍 の政策などの構造的要因、黒人・白人・沖縄人の相互感情面に起因する社会的要因の二つYOZA Takashi: Racial Discontent in the U.S. Forces and its Associations with the Socio-political Realities of
Post-War Okinawa
(1) そのことを裏付ける研究の一例として、本文中でも後述する高嶺朝一氏の著書、『知られざる沖縄の米 兵-米軍基地 15 年の取材メモから』(高文研 1984 年)がある。
が一貫して影響している事が確認された。 1.人種隔離政策と黒の街・白の街 黒人街の出現は沖縄占領初期の米軍内での構造的差別がその大きな要因となっている。 1945 年の沖縄戦の終結以降、米軍の駐屯地、基地が沖縄に多数存在するようになったが、 これら施設に隣接する地区では、戦後間もない頃から米兵へ商品やサービスを提供する商 業地区が出現していった。その頃は、これら商業地区が白人兵のみを顧客とするいわゆる 「白人街」と、黒人兵のみを顧客とする「黒人街」に分かれて発展していたことが大きな 特徴である。この事には米軍の沖縄占領初期の人種政策が強く影響していた。1945 年当時 はまだ、米本国でも人種隔離政策が残っており、米軍内での人種統合は行われていなかっ た。駐屯地も黒人・白人間で完全に隔離されており、米軍人にサービスを提供するバーや 飲食店その他の施設の集まる米兵用の商業地区も必然的に白人専用、黒人専用のものに個 別に発展した(2)。こういった背景から、照屋の「ブッシュ」は、ゲート通り、センター地 区の通称「白人街」と共に、基地に隣接するコザ市(当時)の米軍相手の商業地区の一つ として戦後程なくして出現し、黒人兵へのサービスや商品の提供に特化した地区として発 展していった。 米軍内での構造的差別は少なくとも名目上は 1950 年代初頭には廃止されている。1948 (昭和 23)年に トルーマン大統領により、大統領特令第 9981 号が出された。この特例で、 合衆国の国防に従事する人々が「人種、肌の色、宗教、出生国に関わらず(3)」平等な待遇
を受ける事の重要性が認められ、米軍内での「待遇と機会の平等(equality of treatment and
opportunity)」の早期実現のための委員会設立が発表された(4)。これにより「米軍における
待遇と機会の平等のための大統領特設委員会(President’s Committee on Equality of Treatment
and Opportunity in the Armed Services)」が設置され、その結果、1951(昭和 26)年に軍隊 内での人種統合が名目上では実現した。この時点で米軍内での隔離政策は廃止された事に なるが、その後も白人兵の黒人に対する差別、また黒人兵の白人に対する敵意も根強く存 在していた。その事が要因となり、照屋地区を「縄張り」としていた黒人兵達から白人兵 が暴力によって排除される状況が続き、同地区には黒人以外の米兵が立ち入る事がなくな
(2)U.S. Air Force Office of Special Investigations. 1972. “Racial Tensions in Off-Base Bar Areas on Okinawa”. p. 6. 沖縄県公文書館蔵<資料コード 0000111467 >
(3) <原文>“all persons in the armed services without regard to race, color, religion or national origin”. Truman Library. “Executive Order 9981”. https://www.trumanlibrary.org/9981.htm
り、「黒人街」が確立されていった(5)。 2.黒人兵達と住民の関わり 照屋「ブッシュ」は米軍内での人種隔離という構造的な要因によって生み出され、白人 兵・黒人兵双方の感情的しがらみによってその「黒人街」としての傾向が強まっていった。 この事実と同時に、当時の地元住民の黒人兵との関わり合いについて記す必要がある。当 時の事情を知る人々のほとんどが、現在は照屋には住んでいない。そのような中、筆者 は 2016 年 9 月 26 日、現在も照屋の一角で刺繍店を経営する 70 歳代のK 氏に当時の様子 を聞く事ができた。K 氏は那覇市出身で、照屋に移り住み刺繍店を営むようになったのは 1970 年前後だと言う。その頃は既に黒人街も最盛期を過ぎ、照屋から黒人兵の姿が減り始 めた頃であるが、彼は黒人兵で賑わっていた頃の様子を鮮明に憶えているという。K 氏は 顧客の黒人兵とのやりとりの流れを次のように説明してくれた。「彼ら(黒人兵達)とは 言葉の壁があるから、身振り手振りと、知っている英単語を交えてコミュニケーションを とっていた。黒人の顧客が、こういうデザインの仕立てをしてほしいと、鉛筆で大まかな 図面を描き、その図面に、自らのアイディアでアレンジを加えて、完成したものを買って もらっていた。ほとんどの場合、黒人兵達とは友好的に接していた。彼らの何人かとは幾 度か取引を重ねる内に仲良くなり、軍の支給品の缶詰や日用品、毛布やシーツなどをプレ ゼントしてもらったこともあった」。照屋には当時、刺繍店の他にも、バー、クラブ、床屋、 飲食店、レコード店など、多くの商店が存在していた。それらの店舗でも、上記と似たよ うなやりとりが行われていたことは容易に想像できる。このようにして、照屋では地元住 民たちが、黒人兵達のニーズに応えていくなかで、次第に黒人文化を受け入れる環境が整っ ていった。 照屋の「ブッシュ」は、黒人兵たちが、黒人同士の連帯感と娯楽を得ることのできる場 所として発展した。しかし、その一方で、軍隊内で差別を受けた不満のはけ口として犯罪 行為に走り、軍務で蓄積した性的欲求を満たすだけの場所と認識する黒人兵たちも多くい たことも事実である。高嶺朝一氏はその著書、『知られざる沖縄の米兵』の中で、照屋の 黒人街は、多くの黒人兵達にとって、「軍隊内での差別で鬱憤した感情と抑圧された性衝 動を爆発させる唯一の場所」だったと説明する。この地区では、知らずに侵入した白人兵 への暴行、沖縄人女性への性犯罪、強盗、窃盗などが頻発していたという(6)。 (5) 廣山洋一「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」沖縄市総務部総務課(市史編集担当)編『KOZA BUNKA BOX』第3号 沖縄市役所 2007 年 66 頁 (6) 注1同書 203 頁
3.照屋「黒人街」の衰退とランパート・キング体制下の沖縄 1950 年代から 60 年代にかけて黒人の客で賑わった「ブッシュ」も、1970 年頃になると 客離れが顕著になる。「ブッシュ」の衰退には主に二つの要因がある。一つは人種対立問 題の解消のため積極的政策がとられた事で、そしてもう一つは黒人兵たちの人種問題への 意識の変化である。 衰退の要因① 人種問題への積極的改善政策 米軍の人種問題に対する政策面での取り組みは 1960 年代後半に大きな転換期を迎える こととなる。隔離政策に代表される米軍内での構造的差別の骨子はそれ以前に撤廃され ていたが、人種問題の解決には至らず、白人・黒人の対立は依然として根強く残ってい た。1960 年代は、米本国で黒人の政治運動が活発化した時代でもあった。キング牧師の非 暴力を掲げる公民権運動と、ブラックパンサー党等に代表される過激派の台頭、双方とも 黒人差別の解消を求める運動を展開していた。これらの動きは、沖縄に駐留する黒人兵た ちにも伝わっていき、照屋の黒人街でも特に後者の過激派に触発されたグループが組織さ れた (7) 。これらのグループの多くは、反権力を標榜し、黒人としてのアイデンティティを 鼓舞する運動を展開するようになっていた。また、ベトナム戦争が泥沼化していくなかで、 軍隊内での人種対立問題が表面化し、黒人兵達の上官への反抗が相次ぎ、これが暴動に発 展することもしばしばあったという(8)。兵士達の士気は著しく低下し、軍務にも支障をき たすようになっていた。米軍は人種対立が軍隊内の風紀や規律の乱れなどの原因となって いた事態を重く見ており、この問題の解決の必要性に迫られていた。そのような中、1968 年にルイス・キング氏が沖縄最後の高等弁務官ランパート中将のヒューマンリレイション のアドバイザーとして就任する。キング氏はマーチン・ルーサー・キング牧師の非暴力に よる黒人の地位向上を目指す運動に感化された人物で、人種融和の平和的実現を訴えてい た(9)。上記の米軍側の思惑とキング氏自身の政治信条が合致し、米国民政府は人種問題の 解消のために積極的対策に乗り出すこととなる。 基地周辺の商業区が白人専用の地区と黒人専用の地区に分かれている状況は米軍内での 人種問題の象徴であり、米軍にとって悩みの種であった。基地周辺施設での人種隔離は過 去の隔離政策自体がその発生の契機になったものの、軍の人種間隔離が廃止された 1951 年以降、それを定めた法律も存在しておらず、白人街と黒人街を隔てる最も大きな要因は、 (7) 注1同書 204 頁 (8) 注1同書 213 頁 (9) 注1同書 212 頁
白人・黒人双方の感情的しがらみであった。白人街とされてきた地区への黒人の出入りは 禁じられてはいなかったが、米軍内に根強く残る人種対立が原因で、「ブッシュ」に侵入 する白人兵が力ずくで排除されるのと同様に、「白人街」の店舗を利用しようとする黒人 兵も、利用を拒まれる状態が続いていた。 ランパート・キング体制に入り、黒人兵達の白人街での店舗の利用が事実上解禁されて いくこととなる。米空軍特別調査局の報告書によると、1968 年から、琉球列島高等弁務官 府は基地周辺の商業区および米兵対象の娯楽施設での個別の差別行為に対し厳しい罰則を 設けるようになっていた。当時の沖縄において飲食店やバー、風俗店などが米兵相手にサー ビスを提供する際には、米軍から許可証いわゆる「A サイン」を取得し、それを店頭に掲 示する必要があった。当初は衛生面での安全性や米兵の性病感染の予防といった観点から その許可証が発行されていたが、許可証の内容や基準は米軍統治期間を通して若干の変遷 があった (10) 。1968 年以降はどの人種の顧客も平等に扱うという事もその項目に加えられた。 以降、来客に対して差別的な対応をしたと苦情がでた店からは、A サインが取り上げられ、 米兵が立ち入る事の許されないオフ・リミッツ施設となり、米兵相手の商売が出来なくな る状況を強いられるようになる。経済制裁という強硬手段を用いての差別解消への取り組 みは目に見える効果を生んだ。ゲート・センター地区において、少なくともおおっぴらに 黒人客に対し差別的な対応をする店舗も急速に減少し、多くの黒人兵がこれらの地区の店 舗を利用するようになった。 ランパート・キング体制に入り、米軍当局と黒人兵によって組織される過激派のグルー プとの対話も図られた。これには、対話を通じて彼らを交渉のテーブルにつかせ、その要 求に沿う形で差別問題に対処する事で、黒人兵たちの不満を慰撫し、彼らの態度を軟化さ せることによって、軍隊内の風紀を取り戻そうとする米軍側の意向が働いていた (11) 。1970 年ごろから、照屋で黒人大討論会が開かれるようになった。当初、反権力を標榜する過激 派グループは、彼らにとって権力の象徴であった基地司令官や高等弁務官主導の政策に協 力する事や、ルイス・キング氏の非暴力路線に対し抵抗を感じていたが、同じ黒人同士が 立場の違いを超えて、差別解消に向け討論する事には異論の余地は無く、何度も討論が重 ねられた(12)。これらの討論会では、基地内だけではなく、民間区域での黒人に対する差別 (10)A サイン制度が初めて実施された 1953 年以来、その発行の基準や内容は米軍統治の全期間を通じて 変遷していたが、衛生面での安全性や米兵の性病感染の予防は、A サイン制度の一貫した目的となっ ていた。山崎孝史氏は A サイン制度が米兵の性病感染の予防にどれほどの効果をあげたかについて調 査している。(参考資料:山崎孝史「USCAR 文書からみた A サイン制度と売春・性病規制- 1970 年 前後の米軍風紀取締委員会議事録の検討から-」『沖縄県公文書館研究紀要』第 10 号 沖縄県文化振 興会 2008 年) (11) 注1同書 213 頁 (12) 注1同書 212 頁
も議題に上り、これらの問題への対処の枠組みが決められた(13)。討論に参加した黒人兵達 は積極的に「白人街」と「黒人街」を隔たりの解消を求めるようになった。彼らは、この 頃から、これまで「白人街」とされてきたセンター・ゲート地区へ出かけていくようになる。 衰退の要因② 黒人兵達自身の黒人街の閉鎖性への疲労 照屋から多くの黒人が離れていった第二の要因として、黒人と白人間の相互感情の世代 間の移り変わりが挙げられる。1971 年2月、ランタンプロジェクトと呼ばれるプロジェク トが在沖米陸軍によって立ち上げられる。このプロジェクトは、「米兵・地元住民間およ
び米兵同士の友好的交流の促進(Encouraging friendly associations among US Army personnel,
and between US Army personnel and the local populace)」を目指して立ち上げられたものであ る (14) 。同プロジェクトの活動は幾つかに分かれているが、その一環として、黒人・白人間 の相互感情をアンケート形式で調査しており、その結果は、米兵の黒人と白人の共存に対 する意識の変化を明らかにするものとなっている(15)。調査対象となった米兵の 91.5%が公 務内での人種間の交流を好意的に捉えており、また、公務外での異人種間の交流が良い結 果をもたらすと考える人々の割合も全体の 81.3%に上った(16)。同報告書には、米兵の、異 なる人種間の交流・交際に対する意識の改善があると記している。このことから、白人街 と黒人街とを隔てる感情面での対立が和らいでいたことがわかる。 また、ランタンプロジェクトでは、新たに沖縄に配属された米兵に対し、異人種間の融 和促進に向けてのセッションも行われ、その効果の分析も行われている。それによると、 それまで白人全体に向けられていた黒人兵達の敵意は、1972 年の調査時には、白人の中の 一部の差別主義者へとその対象が狭まっており、セッションを受講した黒人兵の間ではそ の傾向が更に顕著に表れていると報告している (17) 。また、米空軍特別調査局も沖縄におけ る黒人兵たちの人種問題に対する意識の移り変わりを報告しており、これを黒人の「新た
な自己主張(New Found Assertiveness)」と定義している
(18)
。また、それに呼応して彼らの 多くが黒人街の閉鎖性に嫌気がさすようになる。加えて、白人街とされてきた商業区にあ るバーや飲食店などの施設は、照屋のそれらと比べ、豪華な設備を備えており、より充実
(13) 注1同書 213 頁
(14)“Administrative Files, 1971: Human Relations (‘Project Lantern’)”. 沖縄県立公文書館蔵<資料コード 0000044907 >
(15) ただし、ランタンプロジェクトでは、調査対象の人数が黒人の場合は白人のそれと比べて圧倒的に少 なかったことも認めている。
(16)Korotkin & Herlong, 1972, “Research on Cross-Cultural and Race Relations on Okinawa”. p. 61. 沖縄県公文書 館蔵<資料コード 0000029686 >
(17) 注 16 同書 59頁 (18) 注2同書 20 頁
したサービスを提供していた(19)。この点が、更なる吸引要因となり、より多くの黒人兵が「白 人街」で娯楽を求めるようになっていった (20) 。結果、多くの黒人兵たちが照屋を離れていき、 「ブッシュ」の衰退に繋がっていく。 4.沖縄人と反差別運動の結びつき 「ブッシュ」は、米軍の中の構造的差別によって生み出され、黒人・白人間の感情的な しがらみによってその「黒人街」としての傾向が強まったのだが、人種差別という当時を 特色づける問題は沖縄の人々の目にどのように映ったのか。ウェルズリー・ウエウンテン 氏は、米軍統治下の沖縄人と黒人兵との間には、共に「抑圧される立場」にいる者として のある種のシンパシーが存在していたと述べる。同氏は、米軍統治下の沖縄には、黒人兵 たちは、支配する側に居ながらも、白人の上官から差別的処遇を受けるという、権力の二 重構造が存在していたと論じる。そのため一部の沖縄人は彼らを支配者層の中の「被抑圧 者」と位置づけ、黒人兵たちと連帯を深めようとしていた。ウエウンテン氏は、 米軍施政 下の琉球大学で刊行されていた『琉大文学』に、新川明氏による「『有色人種』抄(その一)」 というタイトルの詩が掲載された事例を挙げている。ウエウンテン氏は、その詩の内容を 黒人と黄色人種が白人の支配者の抑圧へ対抗すべく連帯を強めるよう訴えるものだと解釈 する(21)。新川氏は「『有色人種』抄(その一)」のなかで、白人を「黄色いボクら」すなわ ち沖縄人にとっては「主人面をして島をのし歩く」存在として、また黒人に対して「冷酷 な御主人」として振舞う存在として描いている。その詩の結びの一部を引用する。 黒真珠のように輝く肌 エネルギッシュなキミたちの口 クチビル 唇 兄弟よ。 鉄板のようなその肌を磨き。 親たちの口唇から洩れた底知れぬ悲しみと怒りの歌を たくましいキミらの口唇に再びのせ。 溶けた鉄塊のように燃え。 キミたちの上におゝいかぶさり キミたちを圧しつぶそうとする全べてを (19) 注2同資料 20 頁 (20) 注2同資料 20 頁
(21)Ueunten, Welsley Iwao. 2010, “Rising up from a Sea of Discontent: The 1970 Koza Uprising in U.S.-Occupied Okinawa”. p. 103.
焼きつくせ!(22) 上記の部分から、「『有色人種』抄(その一)」は、新川氏が黒人達に、同じ有色人種と しての連帯と白人支配の打破を呼びかけるだけでなく、彼等の肌の色、そして苦境を耐え 抜く姿勢を賞賛し、彼等自身が黒人であることに誇りを持つことを促す内容も含んでいる ことが読み取れる。また、この詩が『琉大文学』に掲載されたのは 1956(昭和 31)年 3 月で、 米軍内の人種差別を糾弾し、黒人兵たちとの連帯を呼びかける動きが、黒人兵たちによる 組織的な政治活動が活発化する 1960 年代以前から沖縄に存在していた事実は興味深い。 また、1960 年代、沖縄でも多くの黒人兵で組織される政治運動が活発化していた頃、米 本国では人種差別反対とベトナム反戦運動の結びつきが強まり、影響力を増していた (23) 。 この動きは沖縄の政治運動にも影響を与えている。ウエウンテン氏によると、1970 年 12 月に起きたコザ暴動の際は、暴動に参加した沖縄人は皆黒人兵に危害を加えないよう注意 を喚起し、実際にこの事件では黒人の車両は襲われることはなかったという(24)。また、こ の事件の直後、黒人兵の活動家によりビラが配布された。そのビラには、黒人兵達の多くが、 暴動の元凶が沖縄人ではなく、沖縄を支配する米軍側にあることを理解し、彼らと沖縄人 がともに共通の問題を打破できるよう手を携えることを呼びかけるメッセージが日本語と 英語で書かれていた(25)。これらの出来事が示すように、当時の沖縄の人々、とりわけ政治 的関心の高い人々と黒人兵達の間には、ある種のシンパシーが存在し、そのことが沖縄で の運動に影響を与えていたことがうかがえる。 5.基地周辺住民の対黒人感情 では当時の沖縄で最も黒人兵と接する機会が多かった基地周辺地域の住民達は、人種問 題についてどのような感情を抱いていたのだろうか。この点を把握するには、黒人兵によ る差別解消運動と地元住民との関わり合いを見ることが重要だと考える。1960 年代に入り、 沖縄の黒人兵たちによって様々なグループが組織されたことはすでに述べたが、ブッシュ・ マスターズと呼ばれた組織がその中で最も顕著な例である。米空軍特別調査局は、この組 織の来歴について詳しいことは明らかではないとしながらも、1965 年にはすでに同名の組 織が存在しており、当初は犯罪行為を働くストリート・ギャングのような存在であったが、 次第に黒人優越主義のような漠然とした政治思想を持つようになり、イデオロギーに触発 (22) 新川明「『有色人種』抄(その一)」『琉大文学』11 号 琉球大学文芸部 1956 年 43 頁 (23) 注1同書 204 頁 (24) 注 21 同書 95-96 頁 (25) 注 21 同書 115 頁
された活動を展開するようになったと報告する(26)。高嶺氏による調査によると、1968 年頃、 「ベニー」と呼ばれた正義感の強い黒人兵が新たなリーダーとなった頃から、ブッシュ・ マスターズが政治的な運動を展開するようになったという(27)。彼の指導のもと、軍務と基 地内での差別で荒んだ黒人兵達への啓蒙活動などが行われ、照屋で徘徊する黒人兵が地元 住民に迷惑をかけるのを防いだり、事情を知らず同地区へ迷い込んできた白人兵を同地区 の外へ暴力を加えることなく退去させるよう努めたり、暴力が横行していた照屋黒人街で ある程度の秩序を維持する役割を果たしたという(28)。また彼らは、地元社会へ貢献する事 によって、その組織の地位を高め、黒人の地位向上を目指したという。その代表的なエピ ソードとして、住民の誰かが、怪我や病気のために手術を受ける必要があった場合、組織 をあげて献血をしたり、米軍基地内の病院での治療が受けられるよう手配したりしたとい う (29) 。 ブッシュ・マスターズが地元の住民たちから信頼を得る目的は、ある程度達成されたが、 照屋の住民たちが、米軍内の人種問題に関して積極的な行動を起こしたり、進んで黒人兵 たちの活動や集会を支援したりする事はなかったと思われる。筆者は、2016 年 8 月 19 日、 米軍内の黒人兵の政治運動と地元住民との関わりについて当時の照屋を取材した高嶺朝一 氏に話を伺うことができた。高嶺氏によると、米兵相手に生業を営む人々が米軍内での人 種問題に関連する政治的な活動に積極的に加担する事はなかったという。照屋の一角で刺 繍店を営むK 氏は、当時、ブッシュ・マスターズのメンバーの黒人兵達からの依頼でブッ シュ・マスターズのロゴマークをデザインし、その刺繍を彼らのジャンパーに施したとい う。同氏は当時を振り返って次のように説明する。「顧客の黒人兵達が軍隊内で差別的な 待遇を受けていたことは知っていた。とても気の毒に思っていたが、ブッシュ・マスター ズの集会に参加したり、彼らの運動そのものに加担したりというようなことはしなかっ た。」当時米軍は人種問題についてかなり神経質になっており、基地内での問題に関して 積極的に行動を起こす事は経済活動に影響を及ぼす事になりかねないので、地元住民が積 極的に加担することはなかったと推察される。このような理由から、照屋の黒人兵達の運 動が地元住民からの支持を得て、彼らの間に政治的な連帯感が生まれることには繋がらな かった。 「白人街」とされた地区の住民たちの黒人兵に対して抱いた感情は、照屋の住民のそれ とは対照的であった。1968 年以降、基地の隣接区域の商業区での人種対立問題へ積極的 (26) 注2同資料 11 頁 (27) 注1同書 205 頁 (28) 注1同書 206 頁 (29) 注1同書 207 頁
対策に乗り出してから、多くの黒人兵が、これまで顧客の殆どが白人であったゲート通り、 およびセンター地区の施設を利用するようになった。しかし、その後直ぐに人種融和が実 現された訳ではなく、これらの地区でも人種対立を発端とする事件が発生するようになる。 これらの事件には地元のバーの経営者や従業員など、沖縄人も関与する事態になることも あった。同地区での黒人兵への差別的対応が罰せられるようになってからは、飲食店やバー の従業員がおおっぴらに彼らを差別することは稀になったものの、彼らの多くの黒人に対 する敵意や反感は解消されることには繋がらなかった。そんな中、1971 年 8 月 17 日深夜 にセンター通りで、地元住民と黒人との間に大規模な人種暴動が起こる。通りの一角のと あるA サインバーに入ってきた複数の黒人兵が、そのバーのボーイやホステスからサービ スを拒否されたと怒り、暴れ出し、乱闘になった (30) 。その黒人兵達は結局バーから叩き出 されたが、 その後間もなくして、大勢の黒人兵がそのバーの周りを取り囲んで抗議の声を あげ、これが大規模な乱闘騒ぎに発展した。乱闘の中、日頃からの黒人に対する反感を爆 発させた一部の地元住民達が暴徒化し、黒人兵たちは無差別に殴打され、また彼らの車両 は無差別な投石にあい、その多くが破壊された (31) 。この事件は、地元警察や米軍の憲兵隊 が駆けつけようやく収束したが、結果として多数が負傷する大惨事となった(32)。この事件は、 基地周辺住民の黒人に対する感情について以下の疑問点を投げかけている。黒人兵たちは 照屋では容易に顧客として受け入れられたが、彼らはセンター地区やゲート通りでは拒ま れた。照屋とゲート通りおよびセンター地区それぞれの住民の黒人に対する感情の差異は、 何によって生み出されたものなのか。以上の疑問点から、米軍内での白黒対立が地元住民 の感情にどのように影響を与えていたのかを考察する必要がある。 ランタンプロジェクトの報告書は、沖縄人に対して好意的な感情を抱く黒人の割合が、 白人のそれと比べて低いというアンケート結果に基づき、沖縄人・黒人双方に互いに対す る偏見がある可能性を示唆している。同報告書は、その要因として考えられる次の3点を 挙げている:1)文化的要素(沖縄では伝統的に肌の白い者が好まれている事)2)米軍 内での白人の黒人に対する差別を沖縄人が模倣している事 3)黒人が沖縄人を見下す対 象と見ている事 (33) 。以上の3点が挙げられているが、「白人街」における地元住民の黒人に 向けられた憎悪は、経済的要因が大きく働いていると考えられる。1968 年に「白人街」が 事実上解禁されたが、その後直ぐにこれらの地区でも黒人と白人の衝突を発端とする事件 が発生するようになる。米空軍特別調査局の報告によると当時のゲート・センター地区で (30) 注2同資料 22 頁 (31) 注1同書 217 − 218 頁 (32) 注1同書 217 − 218 頁 (33) 注 16 同書 95-96 頁
の白人・黒人間の衝突の多数が黒人兵から白人兵への暴行、恐喝などの行為を発端とする ものであったという (34) 。これらの地区の商店主、とりわけバーの経営者は、馴染みの店で 安心してサービスを受ける事が出来なくなった白人客が店に寄り付かなくなることで顧客 を失い、経済的な打撃を受ける事を何よりも危惧していた。また、全体的に、黒人の客は、 白人客と比べて、決して羽振りの良い客とは言えず、顧客が白人から黒人に変わった場合、 その損失を埋め合わせるだけの利益は望めなかった (35) 。それ故に、彼らは同地区が黒人に 解放される事を歓迎しなかったという。 加えて、米空軍特別調査局は沖縄人の黒人観について、歴史的経緯および照屋黒人街で は黒人文化、黒人兵たちが比較的容易に受け入れられた事実を考慮して、以下のように分 析している。 黒人と沖縄人の接触は、第二次大戦後の沖縄における米軍の存在の産物であるから、 地元の人々の黒人に対する偏見の歴史は存在しない。歴史的に沖縄社会において外国 人が隔離されてきた経緯から、一般的に外国人を避ける傾向が見られる。それゆえに ブッシュは沖縄人にとって容易に受け入れられる現象であった。しかしながら、沖縄 人がしばしば露わにする黒人に対する激しい敵意には二つの要因がある。一つは経済 的要因である。多くの白人が黒人を忌避する様子を捉え、地元の商店主が少数派の黒 人ではなく多数派の白人の顧客に対応するようになった。二つ目に、ある場面におい て、沖縄に暮らす白人が自らの黒人に対する差別観を沖縄社会の一部に植え付ける事 にある意味成功した事も事実である。これら要因は、度々沖縄人と黒人との間の衝突 を引き起こし、対立を深める結果となった。沖縄人が白人による黒人に対する偏見に 晒されていない場所では、沖縄人と黒人たちとの間のトラブルの報告は稀であり、ブ ッシュがその最たる例である(36)。 上記の文から、照屋においては、黒人が差別的に扱われるといった事件は皆無とまでは 言えなくとも、他の地区に比べると圧倒的に少なかったことがわかる。しかし皮肉な事に、 米軍内、また基地に隣接するこれまで「白人街」とされてきた商業地区での黒人差別の大 (34) 注2同資料 21 頁 (35) 注2同資料 21 頁
(36) < 原 文 >There is no history of long-standing anti-black prejudice among the local populace, inasmuch as contacts between blacks and Okinawans are by-product of the American presence since World War II. There is a general aversion to foreign elements, who historically have always maintained separate communities within Okinawan society. Thus the Bush was a phenomenon easily accepted by the Okinawans. Nevertheless, the virulent anti-black sentiment occasionally expressed by Okinawans springs from two main sources. The first of these is economic. Quick to grasp the aversion of many whites to blacks, especially in large numbers, the local businessmen often have opted to remain available to the white majority rather than the black minority. It is also true that whites have in some part succeeded in transferring their own anti-black prejudices to elements of the Okinawan society in which they reside. These factors have in turn led to occasional friction between blacks and Okinawans which has furthered the division. Where Okinawans have not been exposed to the prejudice of whites, there are seldom reports of trouble between Okinawans and blacks, such as in the Bush itself.( 注2同書 38 頁 )
幅な減少が、これまで黒人文化を受け入れながら発展してきた照屋地区の「黒人街」の衰 退に繋がっていく。 6.照屋黒人街の衰退と一部で根強く残る白人への憎悪 1968 年以降とられた積極的政策と感情的な敵対の大幅な減少によって、それまで「白人 街」とされてきた地区の店舗を黒人が利用する事が増えた。一方、それまで黒人街とされ ていた照屋の施設の白人兵の利用は増えなかった。1970 年代初頭、いまだ反白人感情を抱 く黒人兵も一定数存在し、照屋を徘徊しており、同地区から白人が排除される状況は相変 わらず続いていた(37)。照屋の商業地区が「排他的な黒人街」として存在することは、米軍 にとっては大きな問題であった。ゲート通り・センター地区での黒人に対する差別を取り 締まる事に心血を注ぐ一方で、照屋地区には白人が入ることが許されず、白人が黒人兵達 によって暴力でもって排除される現状が存在するとなると、今度は白人側からの不満が爆 発してしまう事になりかねないからだ。米空軍特別調査局の報告書にもこう書かれている。 ブッシュは長期的に、機会平等の実現に向けての、人員の努力を台無しにする結果を もたらすことになりかねない。平等の実現への取り組みは、通常白人の側から疑念の 目を向けられる傾向があり、最も一般的なものとして、白人を犠牲にして黒人の権利 が優先され、白人の所業のみが批判、矯正される一方で黒人の行為にはそのような措 置は取られないという二重基準があるとの批判があるからだ (38) 。 照屋での人種対立がゲート通りおよびセンター地区と決定的に違っていた点は、白人を 排除していたのは商店主ではなく一部の黒人兵であったことだ。しかし、この差別行為の 主犯が商店主でない限り、米軍側がオフ・リミッツを発令するなどして効果的な対策を打 つことができない。結局、米軍側も効果的な対策ができず、ほとんど取り締まる事ができ なかった。照屋で刺繍店を営むK 氏も当時、黒人による白人に対する暴力による制裁を幾 度となく目撃したそうだ。同氏はその時の様子をこう証言する。「稀に配属されて日が浅 い白人兵が友人の黒人兵に連れられてここ(照屋)に夕方やってくる。すると何処からと もなく黒人兵の集団がやってきて、あっという間にその白人兵を取り囲み、袋叩きにする。 その白人兵を連れてきた黒人はというと、知らん顔をして去って行く。それどころか、別 (37) 注2同資料 38 頁
(38) <原文>In the long run, the most damaging effect of the Bush is probably the manner in which it is able to discredit efforts of the Equal Opportunity personnel on Okinawa. Such efforts usually encounter substantial white suspicion anywhere, and the most common charge is that Equal Opportunity employs a double standard in which blacks are favoured at the expense of whites, and in which whites are criticized or disciplined for actions in which blacks are not . (1972, p. 36). (注2同資料 36 頁)
の黒人兵と一緒に友人の白人兵を殴ることすらあった。黒人兵たちは一通り殴り終えると、 決まって何処かへさっさと退散し、MP が来るまでには誰も残らない。」結局、同地区の商 業施設は「排他的な黒人街」としてのイメージを払拭することができず、白人兵の顧客を 獲得することが最後までできなかった。加えて黒人兵の顧客離れも顕著となり、ゲート通 り・センター地区に黒人の顧客を奪われたバーなどが次々に閉じていった。また、ニクソン・ ショックの影響でドルの価値が下がり、米兵相手の商業が更に困難になっていき、照屋の 店舗の多くが地元の客のニーズに合わせたサービスへシフトしていく(39)。K 氏も、1972 年 の本土復帰を境にして、米兵相手の商売から地元の顧客を対象に、学生服、ユニフォーム や鞄などの仕立てを中心とした洋裁業に転換したという。 結論 米軍統治下の沖縄での人種差別・対立の問題は、単に白人・黒人との間だけに生じた問 題ではなく、これには沖縄人も大きく関わっていた。「ブッシュ」は米軍内での構造的差 別の産物として出現し、黒人兵たちの白人に対する憎悪から同地区の閉鎖性が高まり、そ の「黒人街」としての傾向が強まった。その過程で地元の住民が黒人兵相手のビジネスに 特化していくなかで、黒人の嗜好や文化を受け入れる土壌が生まれた。刺繍店を営む K 氏 の証言、米空軍特別調査局の資料から、同地区は基地周辺施設の中で、黒人に対する偏見 が最も少なかった地区であったと言える。皮肉なことに、黒人に対する偏見が最も少なかっ た照屋の黒人街において、米軍内での「差別解消」のための措置と白人・黒人の相互間の 敵対感情の大幅な減少が、その衰退を早める要因の一つとなった。また、多くの黒人兵が「白 人街」を出歩くようになると、同地区の人々の黒人に対する偏見が露呈することとなった。 照屋の黒人街は多くの基地周辺の商業地区の中のほんの一例に過ぎないが、沖縄全体に点 在していた基地近隣の商業地区でもその発展と衰退の過程において同様の現象があったこ とが推測される。 参考文献 新川明「『有色人種』抄(その一)」『琉大文学』11 号 琉球大学文芸部 1956 年 高嶺朝一『知られざる沖縄の米兵-米軍基地 15 年の取材メモから』高文研 1984 年 廣山洋一「コザ十字路一帯における黒の街と白の街」沖縄市総務部総務課(市史編集担当)編『KOZA BUNKA BOX』第3号 沖縄市役所 2007 年 (39) 注5同書 77 頁
山崎孝史「USCAR 文書からみた A サイン制度と売春・性病規制- 1970 年前後の米軍風紀取締委員
会議事録の検討から-」『沖縄県公文書館研究紀要』第 10 号 沖縄県文化振興会 2008 年
“Executive Order 9981”. https://www.trumanlibrary.org/9981.htm
Korotkin & Herlong, 1972, “Research on Cross-Cultural and Race Relations on Okinawa”. 沖縄県公文書館 蔵<資料コード 0000029686 >
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Ueunten, Welsley Iwao. 2010, “Rising up from a Sea of Discontent: The 1970 Koza Uprising in U.S.-Occupied Okinawa”. Militarized Currents: Toward a Decolonized Future in Asia and the Pacific. Camacho, Keith L., Shigematsu, Setsu. Eds. University of Minnesota Press. Minneapolis. pp. 91-124.