• 検索結果がありません。

原街道(原方道)における物資輸送と附子の実態

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "原街道(原方道)における物資輸送と附子の実態"

Copied!
30
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

果が盛り込まれ、廻米輸送の観点から執筆された点で評価される 3 。   平成三年 ︵一九九一︶には 、﹃那須野ヶ原の道﹄が発刊され 、東小屋のあたり で分岐する槻沢を経由する路線と石林を経由する路線があったことや、原街道に 関わる複雑な物資輸送経路が示され、原街道の路線を検証する上で大きな転機と なった。平成五年︵一九九三︶に﹃西那須野町の交通通信史﹄が発刊され、西那 須野地区の廻米問屋の位置や路線の解明が進んだ。路線は﹃那須野ヶ原の道﹄の 成果を受け、槻沢を経由し西那須野市街地を通り南下して薄葉︵大田原市︶で旧 日光北街道に合流する路線 、 石林を経由し下永田を通り南下して平沢 ︵大田原 市︶に至る路線が示された。西那須野を通る原街道の路線の骨格をなすものとし て評価できる。平成二十六年︵二〇一四︶に那須塩原市内の一部の路線を考察し た﹁那須塩原市東那須野地区から西那須野地区を通る﹃原方街道﹄ ﹂が発表され、 翌二十七年 ︵二〇一五︶ には ﹃栃木県歴史の道調査報告書﹄ 第三集が発表された。 特に後者は、今までの研究の総括と新たな史料で解明された史実を盛り込んだも ので、原街道の複雑な路線についても整理され全容が示されている。最新の原街 道の総合的な研究として評価できよう 4 。   かねがね、原街道を扱った文献をみたときに、根拠とした史料が特定できない 箇所があり、史料を確認しながら記述内容に検討を加えていく必要性を感じてい た。根拠となる史料や関連する史料を確認し、それらの史料を検証していく作業 から明らかになったものをまとめれば、新たな見地を示すことができるのではな いかと考え、本稿を執筆するに至った次第である。   第一章では、会津藩の廻米輸送量を正確に把握するとともに、廻米経路の変化    

はじめに

  原街道 ︵原方道 。以下 ﹁原街道﹂という︶は 、正保二∼三年 ︵一六四五∼ 四六︶に会津藩等によって整備された白河︵福島県白河市︶と氏家︵栃木県さく ら市︶を結ぶ街道で、その距離は路線によって異なるが約六五キロメートルであ る。白河∼氏家間の奥州道中の西側を並行して走り、廻米を中心にその他の物資 の輸送を専門とし、街道沿いには原則として本陣・脇本陣・旅籠などの宿泊施設 はなかった 1 。原街道に関する研究は、 昭和三十八年︵一九六三︶以降に進められ、 近年になってその路線が解明されるに至った 2 。そこで、原街道の交通に関わる栃 木県内の研究を 、主要な論考を取り上げ整理しておきたい 。先駆となったのは 、 歴史地理学的な観点から、夕狩・小嶋・高久の廻米問屋の文書を分析し、原街道 の盛衰について解明した高崎寿の論考である。昭和三十八年﹁原街道の歴史地理 的研究﹂として発表され、以後は原街道の研究の基礎的文献となった。   昭和五十年︵一九七五︶発行の﹃黒磯市誌﹄では、高崎氏の論考を基礎に黒磯 市に残る史料で補足をするといった形で原街道が執筆され、自治体史誌で最初に 取り上げられた点で評価される 。﹃栃木県史﹄では 、昭和五十年に史料編 ・近世 四で原街道に関わる史料が掲載され、同五十九年︵一九八四︶通史編 5 ・近世二 で原街道の荷物輸送や附子の問題ついて触れられ、奥州道中と原街道・関街道の 争論について検討がなされた点で評価できる。 昭和五十八年 ︵一九八三︶ 発行の ﹃氏 家町史﹄上巻は、阿久津河岸に集まる会津廻米全体の中から原街道の廻米輸送を 取り上げており、原街道の様々な輸送経路が示されている。福島県での研究の成 那須野が原博物館紀要   第十六号   二〇二〇

原街道︵原方道︶における物資輸送と附子の実態

松 

本 

裕 

(2)

が廻米輸送量に及ぼした影響について触れる。第二章では、会津藩・諸藩・商人 荷物の廻米問屋での継立状況から、時期は限定されるが輸送量を把握するととも に、黒磯村での継立の状況を把握したい。第三章では、運送にあたる附子の実態 について黒川の廻米問屋を事例に検討するとともに、馬の所有や荷付けへの出動 状況についても把握する。そして、必ずしも明らかとは言い難い原街道の物資輸 送や附子の実態を検証することとする。

    

一 

会津藩の廻米輸送

   ︵一︶米の輸送量   会津藩の廻米をはじめとする原街道の物資輸送量は、廻米問屋の物資の請け払 いを分析して輸送量を把握されたものがないのが現状である。また、現在示され ている原街道の物資輸送量は、七∼八万駄あるいは四∼七万五〇〇〇駄といった ように漠然とした数量で、時期的な差を考慮しても大きな隔たりがあり、その数 量には疑問も示されている 5 。そこで、主要な廻米輸送路として原街道を使ってい た会津藩の廻米輸送量を、輸送経路別に文献や史料に基づき整理し、廻米総量に 対する原街道の物資輸送量の割合を明らかにしたい。   会津藩の廻米量については、 表 1 に整理をしたが、 江戸に運ばれる江戸廻米は、 会津西街道を運ばれる南山通り廻米、白河街道などを経由し奥州街道や原街道を 使って運ばれる白河通り廻米がある。南山通り廻米と白河通り廻米は、阿久津河 岸まで陸送され、そこから水運によって江戸まで輸送されるので、この二つの廻 米を江戸廻米と称している。一方、阿賀野川水運を利用して新潟まで運ばれそこ から西廻航路を使って上方に運ばれたものは上方廻米と称している。   ﹃家世実紀﹄元禄八年︵一六九五︶十月九日の条に、 ﹁会津米他方江一年中ニ拾 壱弐万俵程繰出不相成候而者御手支ニ候得共、白川通計ニ而者六七万俵ならてハ 江戸廻ニ不罷成﹂とある 6 。これによると、会津藩の廻米は一一∼一二万俵で、駄 数に換算︵一俵二駄で計算。以下同じ︶すると五万五〇〇〇∼六万駄、会津若松 から白河に出て奥州道中や原街道に至る白河通りを使っての廻米輸送量は六∼ 七万俵で、駄数に換算すると三万∼三万五〇〇〇駄ほどとなり、廻米総量の約五 ・『会津藩家世実紀』、『会津若松史』第3巻、『西郷村史資料補遺』第2集、『栃木県史』史料編・近世四、『下郷町史』第一巻、『田島町史』第 6 巻下、  渡辺一郎 「近世における北関東の流通商品」(『歴史評論』5 巻 1 号)により作成。 ・( )は、享保 10 年の原街道廻米量から算出した推定量。 表1 会津藩の廻米量

(3)

会津若松 福永 面川 香塩 赤井 猪苗代湖 三代 勢至堂峠 黒川 勢至堂 江花 長沼 牧ノ内 小屋 後藤 白河 白坂 野 夕狩 迯室 小嶋 高久 練貫 石林 山田 矢板 川崎 乙畑 大宮 高徳 大原 藤原 五十里 高原新田 塩原 上三依 中三依 小滝 尾頭峠 大桑 玉生 船生 大沢 今市 鉢石 ︵日光︶ 徳次郎 氏家 阿久津河岸 白沢 宇都宮 沢 大田原 佐久山 喜連川 薄葉 東小屋 槻沢 平沢 石上 鷲宿 幸岡 横林 関谷 高林 百村 板室 三斗小屋 大峠 田島 川島 糸沢 山王峠 横川 落合 越堀 鍋掛 黒羽 野際新田 福良 舟津 中地 馬入 大平 羽鳥 馬入峠 滝沢峠 小塩 桑原 小出 弥五島 塩生 松川 関山 大内峠 大内 中山 倉谷 原

白 河 街 道

尾 頭 道

旧日光北街道

会津中街道

西

羽鳥街道

図1 会津若松より阿久津河岸に至る江戸廻米路線 (『会津若松史』第三巻の第 93 図を修正・加筆して作成)

(4)

  ところで、 ﹃会津若松史﹄第三巻には、会津藩の江戸廻米量は、平均して年五、 六万俵で、藩の蔵から直接陸路南山通りを経て鬼怒川の阿久津河岸へ送られるも のが半分、その他は猪苗代湖上を通漕し、白河街道、その他の街道を利用して江 戸に運ばれたとある 10 。南山通りと白河通りで各五割としているので、会津西街道 を通る会津廻米の駄数は約二万五〇〇〇∼三万駄となり、天保九年六月付﹁仲附 駑者一件六ヶ駅問屋訴状﹂の輸送した荷物二万という数字に近い。しかし、宝暦 四年五月﹁糸沢問屋治郎兵衛口上書﹂と合わせて考えると、享保年間︵一七一六 ∼三六︶の五〇〇〇∼二万駄、 会津藩の江戸廻米の一∼三割程度が妥当な数字で、 二∼三万駄という数字は、最大運送量に近い数字であったと思われる。   ﹃氏家町史﹄上巻では 、﹁会津藩の鬼怒川水運による江戸廻米は平均 二万五〇〇〇 ∼三万俵であった﹂と記されている 11 。また、年不詳﹁板戸河岸申立書﹂に板戸河 岸で取り扱った会津廻米は ﹁年々四万俵程も相懸可申候﹂ 12 と駄数換算で二万駄 あり 、板戸河岸においても会津藩の廻米を扱っていた 13 。会津藩の江戸廻米量は 、 二万二〇〇〇∼四万七〇〇〇駄で、白河通りの江戸廻米と南山通りの江戸廻米の 多くは阿久津河岸や板戸河岸に運ばれたので二つの河岸を合わせると会津藩の廻 米量は多くても三 、 四万駄程度と推測される 。この数字は 、江戸廻米が廻米総量 に占める割合の五∼六割、駄数にしておよそ三万∼三万五〇〇〇駄で、阿久津河 岸・板戸河岸での会津廻米量と同程度であった。   原街道の会津藩廻米については、後述するように享保十年︵一七二五︶に黒川 の廻米問屋が一年間に扱った廻米量を基本とするが、享保十年の原街道の里道出 入の訴状では、正徳五年∼享保九年︵一七一五∼二四︶まで年平均約四万駄、最 大年間輸送量五万九〇〇〇駄と記されているという 14 。輸送量が多いようであるが、 この時期は江戸時代の原街道の物資輸送の最盛期で多くの荷駄があったことや諸 藩の廻米・商人荷を含んでいることを考慮すると、会津藩の廻米量は黒川の廻米 問屋が一年間に扱った廻米量に近い数字となるのではないかと考える。   そこで、会津藩の廻米総量に対する経路ごとの割合について、おおまかに整理 をしておきたい。上方廻米は概ね四割、江戸廻米については概ね六割となる。こ の内、南山通り廻米がおよそ二割、白河通り廻米が四割で内訳は奥州道中ほかで ∼六割程度を占めていた。元禄八年は、通行不能であった南山通りの会津西街道 にかわり、会津中街道が開通した年で、白河通りの廻米量には南山通りで運搬さ れていた量も含んでいたので、 廻米総量の六割近い数字となっていたのであろう。   さらに 、﹃会津若松史﹄第三巻には 、﹁秘説統総録﹂に記載されている享保八 ∼十七年 ︵一七二三∼三二︶の会津藩の江戸廻米量を一覧表で整理している 7 。 その量は 、最少が四万四二四〇俵で駄数に換算すると二万二一二〇駄 、最多が 九万三六二〇俵で駄数に換算すると四万六八一〇駄で 、会津中街道の開通後で あったので、南山通り︵会津中街道は松川通りと呼ばれ区別されるが、本稿では 南山通りに含むこととする︶の廻米量も含んでの量である 。江戸廻米の割合は 、 廻米総量も変化していたと思われるので正確に把握はできないが、上方廻米を除 いた五∼六割程度ではないかと推測する。会津西街道の宿場継送りによる物資輸 送量については 、宝暦四年 ︵一七五四︶五月付 ﹁糸沢問屋治郎兵衛口上書﹂に 、 ﹁会津米沢越後奥筋 ・江戸日光上方凡而他国より往来諸荷物 、前々は不残拙者請 払、三拾年以前迄は六七千駄より壱万駄ニ押懸り請払致来候処﹂ 8 とある。時期は 享保九年︵一七二四︶以前頃で、会津藩の物資だけではなく米沢や越後の物資を 含めての荷物取扱量は、六〇〇〇∼一万駄であったことが分かる。先述の享保八 ∼十七年の会津藩の江戸廻米輸送量に対し、 二∼三割程度であったと考えられる。   また、 天保九年︵一八三八︶六月付﹁仲附駑者一件六ヶ駅問屋訴状﹂には、 ﹁ 先 年者諸商荷年中押上ケ、弐万駄余も継送り候故、其駄賃之潤を以御伝馬継御用之 費相補候処﹂とあり、以前は商人荷だけで二万駄余も継立てていたと記す。さら に﹁一、上郷酒造米まさしく八千駄余宛、年毎駅々ニ而継送候処、当時ニ至り此 分皆以仲附之通、駅継壱駄も無御座候﹂とあり、商人荷も含まれていたと思われ るが、かつては八千駄の酒造米の輸送があったことを記している。一時期は会津 西街道を二万駄を超える物資が問屋から問屋へと継送りされていたが、天保九年 頃では 、﹁諸商荷先年之拾ヶ一も駅継無之﹂とあり 、その十分の一にも及ばない 状況で、上郷酒造米の輸送に至っては、仲附駑者にその役目を奪われてしまうと いった状況にあった 9 。このことから天保年間 ︵一八三〇∼四四︶ の南山通りでは、 宿場継送りで運ばれる廻米量は、二千駄程度まで減少していたと考えられる。

(5)

   ︵二︶米輸送経路の変化と米輸送   会津藩の廻米輸送経路は、先に大まかに触れたが、会津藩では江戸時代を通じ て新たな廻米輸送経路の開発を行っていた。会津藩の当初の江戸廻米は、会津西 街道と、 白河街道を経由して白河から奥州街道を運ぶ経路を使っていた。そして、 正保二∼三年にかけて原街道が整備されると、白河通り廻米は奥州街道と原街道 を利用するようになった 16 。会津西街道は、 天和三年 ︵一六八三︶ に通行不能となり、 その代替えとして会津中街道が開削されるのは元禄八年のことである 17 。この間の 江戸廻米は、白河通りが担うこととなり、その廻米量は約二万五〇〇〇∼三万駄 およそ二 ・ 五割、原街道がおよそ一 ・ 五割と考えられる。   最初の論述に戻るが原街道の物資輸送量は、宝暦四年五月付﹁原方道米問屋訴 状﹂に﹁奥州御大名様方江戸御登米 䮒 商人米相通、年中都合七八万駄つゝ運送仕 来り﹂としている 15 。この数量は会津藩以外の藩や商人荷も含んではいるが、会津 藩の年間の廻米総量を超える膨大な数字であった。そして、阿久津河岸と板戸河 岸で扱った会津藩の廻米量は多くても四万駄程度と推測されること、この文書は 訴訟関係の文書で、輸送量を誇張して記している可能性があることから、妥当性 のない数字と判断したい。 年 享 保 5 〃 6 〃 7 〃 8 〃 9 〃 1 0 〃 1 1 〃 1 2 〃 1 3 〃 1 4 〃 1 5 〃 1 6 〃 1 7 〃 1 8 〃 1 9 〃 2 0 元 文 元 〃 2 〃 3 〃 4 〃 5 寛 保 元 〃 2 〃 3 延 享 元 〃 2 〃 3 〃 4 寛 延 元 〃 2 〃 3 宝 暦 元 〃 2 〃 3 〃 4 〃 5 〃 6 〃 7 〃 8 〃 9 〃 1 0 〃 1 1 〃 1 2 〃 1 3 明 和 元 〃 2 〃 3 〃 4 〃 5 〃 6 〃 7 〃 8 安 永 元 〃 2 〃 3 〃 4 〃 5 〃 6 〃 7 〃 8 〃 9 天 明 元 〃 2 〃 3 〃 4 〃 5 〃 6 〃 7 〃 8 寛 政 元 〃 2 〃 3 西暦 1 7 2 0 1 7 2 1 1 7 2 2 1 7 2 3 1 7 2 4 1 7 2 5 1 7 2 6 1 7 2 7 1 7 2 8 1 7 2 9 1 7 3 0 1 7 3 1 1 7 3 2 1 7 3 3 1 7 3 4 1 7 3 5 1 7 3 6 1 7 3 7 1 7 3 8 1 7 3 9 1 7 4 0 1 7 4 1 1 7 4 2 1 7 4 3 1 7 4 4 1 7 4 5 1 7 4 6 1 7 4 7 1 7 4 8 1 7 4 9 1 7 5 0 1 7 5 1 1 7 5 2 1 7 5 3 1 7 5 4 1 7 5 5 1 7 5 6 1 7 5 7 1 7 5 8 1 7 5 9 1 7 6 0 1 7 6 1 1 7 6 2 1 7 6 3 1 7 6 4 1 7 6 5 1 7 6 6 1 7 6 7 1 7 6 8 1 7 6 9 1 7 7 0 1 7 7 1 1 7 7 2 1 7 7 3 1 7 7 4 1 7 7 5 1 7 7 6 1 7 7 7 1 7 7 8 1 7 7 9 1 7 8 0 1 7 8 1 1 7 8 2 1 7 8 3 1 7 8 4 1 7 8 5 1 7 8 6 1 7 8 7 1 7 8 8 1 7 8 9 1 7 9 0 1 7 9 1 1 3 6 , 3 1 5 1 1 4 , 3 7 0 1 2 1 , 4 7 5 1 0 9 , 9 5 4 1 2 3 , 3 4 8 1 2 2 , 4 1 8 1 2 3 , 9 6 9 1 2 2 , 7 4 2 1 2 0 , 8 3 7 1 2 2 , 6 5 3 1 2 4 , 1 0 5 1 1 9 , 1 7 9 1 2 1 , 0 5 3 1 2 0 , 1 9 0 1 2 1 , 1 2 5 1 2 1 , 6 7 4 1 2 1 , 7 3 3 9 7 , 3 2 6 1 1 5 , 0 6 7 1 1 6 , 9 4 7 1 1 9 , 5 9 3 1 2 1 , 3 9 7 1 2 2 , 6 1 0 1 2 8 , 6 3 1 1 3 1 , 3 4 8 1 1 3 , 6 5 5 1 2 2 , 8 4 8 1 1 5 , 9 4 8 1 0 1 , 8 5 6 1 0 2 , 3 1 3 1 1 1 , 4 4 4 1 1 1 , 3 3 5 1 1 0 , 9 4 2 1 1 4 , 3 0 9 1 0 2 , 2 7 3 6 8 , 2 9 6 7 8 , 3 0 1 7 2 , 3 2 8 1 0 8 , 2 7 5 1 0 7 , 7 0 0 1 0 5 , 0 0 2 9 8 , 5 4 4 1 1 1 , 9 3 6 1 1 3 , 2 4 1 1 0 9 , 4 0 9 1 0 9 , 8 5 2 1 0 9 , 7 0 0 1 0 6 , 9 5 1 1 0 8 , 1 4 7 1 0 8 , 8 0 7 1 1 1 , 3 2 4 9 9 , 8 0 3 1 0 3 , 8 6 5 1 0 0 , 1 9 2 1 0 4 , 7 4 7 9 4 , 3 7 5 1 0 0 , 8 8 4 1 0 1 , 7 7 4 9 1 , 7 0 9 1 0 5 , 3 9 8 1 0 5 , 4 1 1 1 0 4 , 3 1 4 9 2 , 9 6 7 6 1 , 2 3 0 9 4 , 8 1 2 8 9 , 3 8 8 8 5 , 3 8 0 9 8 , 5 2 3 1 0 2 , 2 4 4 1 0 1 , 2 1 7 1 0 4 , 4 8 1 9 8 , 6 7 3 3 4 0 , 7 8 8 2 8 5 , 9 2 5 3 0 3 , 6 8 8 2 7 4 , 8 8 5 3 0 8 , 3 7 0 3 0 6 , 0 4 5 3 0 9 , 9 2 3 3 0 6 , 8 5 5 3 0 2 , 0 9 3 3 0 6 , 6 3 3 3 1 0 , 2 6 3 2 9 7 , 9 4 8 3 0 2 , 6 3 3 3 0 0 , 4 7 5 3 0 2 , 8 1 3 3 0 4 , 1 8 5 3 0 4 , 3 3 3 2 4 3 , 3 1 5 2 8 7 , 6 6 8 2 9 2 , 3 6 8 2 9 8 , 9 8 3 3 0 3 , 4 9 3 3 0 6 , 5 2 5 3 2 1 , 5 7 8 3 2 8 , 3 7 0 2 8 4 , 1 3 8 3 0 7 , 1 2 0 2 8 9 , 8 7 0 2 5 4 , 6 4 0 2 5 5 , 7 8 3 2 7 8 , 6 1 0 2 7 8 , 3 3 8 2 7 7 , 3 5 5 2 8 5 , 7 7 3 2 5 5 , 6 8 3 1 7 0 , 7 4 0 1 9 5 , 7 5 3 1 8 0 , 8 2 0 2 7 0 , 6 8 8 2 6 9 , 2 5 0 2 6 2 , 5 0 5 2 4 6 , 3 6 0 2 7 9 , 8 4 0 2 8 3 , 1 0 3 2 7 3 , 5 2 3 2 7 4 , 6 3 0 2 7 4 , 2 5 0 2 6 7 , 3 7 8 2 7 0 , 3 6 8 2 7 2 , 0 1 8 2 7 8 , 3 1 0 2 4 9 , 5 0 8 2 5 9 , 6 6 3 2 5 0 , 4 8 0 2 6 1 , 8 6 8 2 3 5 , 9 3 8 2 5 2 , 2 1 0 2 5 4 , 4 3 5 2 2 9 , 2 7 3 2 6 3 , 4 9 5 2 6 3 , 5 2 8 2 6 0 , 7 8 5 2 3 2 , 4 1 8 1 5 3 , 0 7 5 2 3 7 , 0 3 0 2 2 3 , 4 7 0 2 1 3 , 4 5 0 2 4 6 , 3 0 8 2 5 5 , 6 1 0 2 5 3 , 0 4 3 2 6 1 , 2 0 3 2 4 6 , 6 8 3 1 6 5 , 7 8 5 1 6 5 , 4 8 6 1 6 5 , 3 7 5 1 6 5 , 8 5 9 1 6 6 , 2 2 4 1 6 3 , 9 1 4 1 6 3 , 1 7 4 1 6 3 , 0 4 4 1 6 3 , 1 1 9 1 6 3 , 2 9 3 1 6 2 , 9 1 7 1 6 1 , 2 8 2 1 5 9 , 8 4 9 1 6 0 , 4 2 2 1 6 0 , 1 8 7 1 5 9 , 2 9 7 1 5 9 , 0 5 5 -1 5 7 , 7 2 -1 1 5 6 , 2 5 8 1 5 6 , 7 1 8 1 5 4 , 8 0 6 1 5 3 , 4 4 8 1 5 3 , 4 7 2 1 5 3 , 4 6 1 1 5 3 , 6 1 6 1 5 3 , 6 3 4 1 5 2 , 8 0 5 1 5 0 , 9 9 6 1 5 0 , 2 2 0 1 5 0 , 2 5 3 1 5 0 , 0 6 6 1 5 0 , 0 2 7 1 5 0 , 0 1 3 1 4 8 , 2 8 1 1 4 7 , 0 4 6 1 4 6 , 5 4 6 1 4 2 , 1 6 5 1 3 9 , 4 1 8 1 3 5 , 9 4 0 1 3 1 , 8 0 8 1 3 3 , 1 3 8 1 3 3 , 3 1 9 1 3 3 , 4 8 9 1 3 2 , 8 3 9 1 3 3 , 2 3 2 1 3 3 , 8 6 4 1 3 4 , 1 8 9 1 3 4 , 7 3 0 1 3 5 , 0 7 3 1 3 5 , 2 6 7 1 3 5 , 4 1 3 1 3 4 , 3 7 5 1 3 4 , 5 6 7 1 3 4 , 8 0 3 1 3 4 , 7 4 5 1 3 4 , 5 3 8 1 3 1 , 1 8 0 1 3 0 , 7 6 8 1 3 0 , 5 7 5 1 3 0 , 5 7 0 1 2 9 , 1 2 3 1 2 8 , 0 3 4 1 2 7 , 8 6 8 1 2 6 , 9 9 8 1 1 7 , 9 3 7 1 1 6 , 9 9 3 1 1 6 , 4 2 1 1 1 6 , 4 2 1 1 1 6 , 9 2 4 1 1 8 , 3 2 5 1 1 7 , 4 9 8 米方年貢 住民数(人) 石数(石) 俵数(俵) ・『会津藩家世実紀』第6巻∼第 13 巻により作成。 ・金納及び貫納は省略した。 ・1 石は 2.5 俵で換算した。 表 2 会津藩の年貢量の変化

(6)

  原街道を輸送される物資の減少は、十九世紀に入ると顕著になってくる。その 要因として、高崎寿氏は、武士階級の緊縮政策と天明天保期の大飢饉が及ぼした 社会経済の不安定化を指摘している 25 。一方、その要因を会津藩の年貢米の総量の 減少に求める考え方もある 。﹃江戸時代の流通路│米のゆく道 、塩のくる道﹄に おいて 、会津藩の年貢米は 、安永年間 ︵一七七二∼八一︶頃から減少したとし 、 享保二十年∼延享元年︵一七三五∼四四︶の平均が三〇万二〇〇〇俵余であった のが、明和八年∼安永九年︵一七七一∼八〇︶の平均が二五万俵に落ち込んだと 指摘している。また、天明元∼六年︵一七八一∼八六︶の会津藩の年貢米の平均 は約二二万俵で、安永年間頃より三万俵落ち込んでいるという 26 。   そこで、会津藩の廻米輸送の最盛期にあたる享保十五年︵一七三〇︶から、輸 送量が減少する寛政三年 ︵一七九一︶までの米の年貢量を整理したのが表 2 で 、 参考に人口の変化も整理しておいた。米の年貢量が減少傾向となるのは、延享年 間︵一七四四∼四八︶頃で、以降三〇万俵を超えることはなくなる。さらに宝暦 年間︵一七五一∼六四︶には人口が一三〇万人台に落ち込み、以降は減少傾向と なる。 宝暦四年五月付 ﹁原方道米問屋訴状﹂ には、 ﹁尤此節少々間荷薄ニ相成候得共、 全体之米高不足ニて、本道原方一統之荷切レニ御座候処﹂ 27 とあるように、米の収 穫量不足により廻米が減少したのであった。宝暦年間には年貢米が三〇万俵を切 り、人口も一三〇万人台に減少、年貢米・人口ともに減少傾向となった。この時 期を境に廻米輸送量が減少していったと考えられ、幕末まで減少傾向が続くので あった。

    

二 

原街道の廻米輸送

   ︵一︶会津藩と諸藩の米輸送 ①会津藩の輸送量と物資   本項においては 、享保十年正月付け ﹁会津藩御米仕切帳﹂ ︵以下 ﹁仕切帳﹂と いう︶ 28 から、黒川廻米問屋が一年間に扱った会津藩の廻米等の輸送量を見ていく こととする。黒川の廻米問屋は、福島県西白河郡西郷村小田倉にあった原街道の 問屋場で、 夕狩と白河の間に位置し、 二∼三軒で廻米問屋を勤めていた。 ﹁仕切帳﹂ であった。享保八年会津西街道が再び使用できるようになると 18 、主要な廻米経路 として使用されるようになった 19 。   貞享二年︵一六八五︶には、阿賀野川水運が開かれ、廻米は新潟まで運ばれそ こから西廻航路で上方まで運ばれたため 、この廻米は ﹁上方廻米﹂と呼ばれた 。 その廻米量は元禄十年 ︵一六九七︶から享保年間 ︵一七一六∼三六︶にかけて 、 概ね五万俵、駄数換算で二万五〇〇〇駄前後、会津藩の廻米総量の概ね四割を占 めていた。阿賀野川水運の開発が原街道の物資輸送量減少の原因とするものがみ られるが 20 、開発された時期とその量が減少する時期に隔たりがあること、安永年 間にその量が大きく変化する要因が見当たらないことから、大きな影響があった とは考えられない。   正徳元年 ︵一七一一︶ 、白河街道の福良から馬入峠 ︵以上郡山市︶ を越えて、 大平、 羽鳥︵天栄村︶を経て黒川︵西郷村︶で原街道に合流する羽鳥通りができた。白 河街道を経由するより六里も近く、南山通りに比べ米一万俵につき三五〇∼六〇 両の利益があるといわれた 21 。輸送量については、後に検討するが白河通りの物資 輸送量に変化を及ぼすものではなかった。   那珂川水運の利用は、享保五年︵一七二〇︶から行われた 22 。この路線は、関街 道を利用したものと推測され、伊王野︵那須町︶から黒羽河岸へ物資を陸送した ものと考える。物資輸送量は不明であるが、白河通りの廻米あるいは原街道を通 る廻米輸送量の減少に結びついたものと考える 。さらに 、明和五年 ︵一七六八︶ には、廻米を原街道の高久︵那須町︶から黒羽︵大田原市︶まで陸送し、黒羽河 岸から那珂川水運を利用して江戸まで運ぶ経路が開発された。しかし、天保年間 頃になると、黒羽河岸からの那珂川水運は利用されなくなっていった 23 。   幕末の弘化元年︵一八四四︶頃になると、岩城まで廻米を陸送し中ノ作︵いわ き市︶から東廻航路で江戸へ運ぶという経路が開発された 。廻米輸送量は五∼ 六〇〇〇駄と推測され、江戸廻米に大きな影響があった。また、この頃かと思わ れるが、会津から矢吹を経て平潟︵北茨城市︶まで廻米を陸送し、そこから東廻 航路で江戸へ運ぶという経路があたったことが確認されている 24 。東廻航路を利用 した経路の開発によって、会津藩の廻米量の減少は避けられない状況となった。

(7)

を占めていた。南山通りの廻米が江戸廻米の約三割であったので、原街道の廻米 量とあわせておよそ六割を占めていた 。そのため残りの四割程度の江戸廻米は 、 白河街道を経由し白河に至り、奥州街道を輸送された分と関街道を経由し那珂川 水運を利用して輸送された分であると考えられる。白河街道を経由する会津廻米 は、そのほとんどが原街道を使って阿久津河岸まで運ばれたといったように記し ている文献があるが 29 、先述の検証からかなり無理があるようで、やはり当時主要 な街道で、物資輸送体制も整った奥州道中も活用したと考える方が自然である。   仕切帳の表題に﹁会津藩御米﹂とあることから、駄送していた物資は米のみか には表 3 にあるように、享保九年十二月二十九日から享保十一年︵一七二六︶三 月十九日までの仕切日が記され、 九二〇九駄の物資、 俵数換算︵一駄二俵で計算。 以下同じ︶すると一万八四一八俵、一六四貫七八〇文の駄賃を記している。享保 十年の一年間の期間に限ると物資量は八五六六駄 、俵数換算で一万七一三二俵 、 駄賃一五五貫八六七文となっていた。   享保十年の廻米量を基礎とし、会津藩の江戸廻米量から享保八∼十七年の原街 道の廻米量を算出し、表 1 に 記しておいた。この時期は、会津藩廻米の最盛期に あたり、原街道廻米は一万五〇〇〇∼三万俵程度と推測され、江戸廻米の約三割 № 1 2 3 4 5 6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16 17 18 19 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 38 39 40 41 42 43 44 物資 米 米 大豆 米 大豆 米 米 大豆 米 (米) 米 米 米 米 米 大豆 米 米 米 米 米 米 米 米 米 (米) 蝋 (米) (米) 糯米 米 (米) (米) (米) (米) (米) (米) (米) 大豆 (米) (米) (米) (米) (米) 経路 白河通り 新道 羽鳥通り 白河通り 白河通り 新道 白河通り 白河通り 白河通り 白河通り 羽鳥通り 白河通り 白河通り 白河通り 白河通り 仕切日 12 月 29 日 1 月 10 日 1 月 ? 3 月 2 日 3 月 12 日 3 月 28 日 4 月 4 日 4 月 11 日 4 月 5 日 4 月 18 日 4 月 26 日 4 月 30 日 5 月 2 日 6 月 14 日 6 月 17 日 6 月 19 日 6 月 27 日 7 月 4 日 7 月 5 日 7 月 25 日 8 月 2 日 8 月 3 日 8 月 4 日 8 月 18 日 9 月 15 日 10 月 1 日 10 月 1 日 10 月 17 日 10 月 18 日 10 月 18 日 10 月 23 日 10 月 24 日 10 月 27 日 10 月 30 日 11 月 4 日 11 月 4 日 11 月 8 日 11 月 19 日 11 月 19 日 11 月 21 日 11 月 29 日 12 月 12 日 12 月 17 日 3 月 19 日 白川→夕狩 103 8 25 160 21 134 178 134 211 13 173 147 168 136 167 1,778 1,508 黒川→夕狩 290 292 156 71 29 250 15 153 250 250 296 250 100 250 250 250 200 300 250 250 182 250 245 250 22 225 25 225 250 184 90 229 116 72 250 116 39 77 103 132 114 83 7,431 7,058 計 393 300 156 71 29 250 15 153 250 250 296 250 100 250 250 250 200 300 250 250 182 250 245 250 22 225 25 225 250 184 25 250 250 250 250 250 250 250 13 250 250 300 250 250 9,209 8,566 6 貫 6 貫 3 貫 1 貫 貫 5 貫 貫 3 貫 5 貫 5 貫 6 貫 5 貫 2 貫 5 貫 5 貫 5 貫 4 貫 6 貫 5 貫 5 貫 3 貫 5 貫 5 貫 5 貫 貫 4 貫 貫 4 貫 5 貫 3 貫 貫 2 貫 4 貫 2 貫 2 貫 5 貫 3 貫 1 貫 貫 2 貫 2 貫 3 貫 2 貫 2 貫 164 貫 155 貫 502 文 164 文 432 文 491 文 638 文 250 文 315 文 366 文 250 文 330 文 304 文 346 文 100 文 570 文 250 文 500 文 208 文 396 文 250 文 250 文 902 文 250 文 145 文 258 文 542 文 757 文 825 文 805 文 250 文 864 文 100 文 53 文 893 文 972 文 224 文 250 文 52 文 663 文 52 文 309 文 751 文 524 文 938 文 411 文 780 文 867 文 駄数 駄賃 ・「享保十年正月会津御米仕切帳」(『西郷村史補遺』第2集)により作成。 ・( )は推定、史料上経路の記載のないものは白河通りと推定した。 合計 享保 10 年(1/1 ∼ 12/31)合計 表 3 享保 10 年 (1725) 正月黒川問屋会津御米等輸送量

(8)

  ﹁白川御米﹂ と記載のあるのが白河藩の廻米で、 嘉永三年 ︵一八五〇︶ が二〇〇駄、 同四年︵一八五一︶が六四六駄、同五 ・ 六年︵一八五二 ・ 五三︶が八〇〇駄となっ ている 。嘉永三年の運搬に関しては 、駄賃の仕切日が二月六日とあることから 、 一回分の運搬量と思われ、嘉永四年については仕切日の記載がないことから一年 分の運搬量と考えられる。   そこで、寛永十一年︵一六三四︶十一月付﹁白河御米江戸廻米につき請書﹂を みてみると、二月までに運搬する廻米として﹁千弐百三拾三石三斗弐升五合﹂と ある 32 。一石を二 ・ 五俵で換算すると約三〇八二俵、駄数換算で一五四一駄となる。 と思われるが、大豆や会津特産の蝋なども運ばれ、米の輸送量は最も多く全体の 輸送量の九三パーセントを占めていた。月別の輸送量をみると、四月が一二一四 駄、十月が一六八四駄、十一月が一五一三駄で、十∼十二月の間に年間輸送量の 四割以上を輸送しており、 米の収穫後に廻米輸送量が増大していることが分かる。 会津蝋については、 弘化二年 ︵一八四五︶ 三月付け ﹁会津御蝋駄賃仕切﹂ によると、 三月十八∼二十一日の三日間に一五九駄を運送していることが確認できる 30 。多い 時で百駄を超える会津蝋が運ばれたと考えられる。   白河街道の福良 ︵郡山市︶ から馬入峠を越え羽鳥 ︵以上天栄村︶ を経て黒川 ︵西 郷村︶に至り原街道に合流する羽鳥通りが開通するのは、正徳元年であった。仕 切帳には 、経由した街道も記されており 、﹁羽鳥通り﹂ 、﹁新道﹂と記されている ものが羽鳥通りに該当するもので、享保十年で四件、駄数で一〇〇〇駄、全輸送 量の約一二パーセントであった。一年だけの状況で判断することは難しいが、会 津若松から白河に至る主要な物資輸送経路は 、白河街道であったと考えられる 。 羽鳥通りは、南山通りに比べ米一万俵につき三五〇∼六〇両の利益があるといわ れた割には、あまり使われなかったのではないだろうか。   輸送先についてみてみると、白河から黒川の廻米問屋を附通して夕狩の問屋へ 運んだ廻米と、白河から黒川廻米問屋に運ばれそこから夕狩の廻米問屋へ運んだ 荷物があった。輸送量全体の約八割が白河から黒川に運ばれたもの、約二割が黒 川を附通し夕狩に運ばれたものであった。概ね一日の輸送量が二五〇駄を超える ものについては、一部が黒川を附通したものであったことから、物資を一時保管 するスペースの確保や運搬する附子の人数など、荷物の管理や輸送体制の問題か ら、附通しといった措置をとったものではないかと推測する。 ②諸藩の廻米輸送   原街道は、寛文七年︵一六六七︶奥州道中の脇街道としての利用が道中奉行に 認められたことにより、会津藩の他に白河藩、二本松藩、三春藩、長沼藩、守山 藩、高田藩分領等の廻米輸送にも利用されたという 31 。ここでは、会津藩以外の諸 藩の廻米輸送について検討を加えることとする。そこで、 嘉永二∼六年 ︵一八四九 ∼五三︶の間に黒川廻米問屋が扱った諸藩の廻米量を整理したのが表 4 である。 請求月日 嘉永 2 年 5 月 嘉永 3 年 2 月 2 日 嘉永 3 年 2 月 6 日 嘉永 3 年 5 月 26 日 計 嘉永 4 年 嘉永 4 年 計 嘉永 5 年 3 月 嘉永 6 年 3 月 請求先 佐藤忠右衛門 川作兵衛 佐藤庄三郎 川作兵衛 根本兵助 柳沼新蔵 根本兵助 根本兵助 物資 今泉御米 長沼御米 白川御米 長沼御米 白川御米 長沼御米 白川御米 白川御米 駄数(駄) 300 250 200 60 510 646 280 926 800 800 3,336 667 15 貫 12 貫 8 貫 3 貫 24 貫 28 貫 15 貫 44 貫 32 貫 33 貫 149 貫 29 貫 文 文 400 文 690 文 90 文 650 文 633 文 283 文 800 文 600 文 773 文 955 文 合計 嘉永 2 ∼ 6 年平均 「嘉永二年五月から嘉永五年三月諸々御米駄賃仕切」、「嘉永六年三月白川御米駄賃仕切」 (『西郷村史資料補遺』第 3 集)により作成。 駄賃 表 4 嘉永 2 ∼ 6 年 (1849 ∼ 53) 黒川廻米問屋の諸藩廻米輸送量

(9)

は、元禄十六年︵一七〇三︶で八八一八俵、享保二十年で七三二八俵、安永六年 ︵一七七七︶で八八六九俵 、さらに文化十二年 ︵一八一五︶の ﹁守山陣屋御用留 帳﹂で江戸廻米は年平均七〇〇〇俵余と言われていた。守山陣屋の年間廻米総量 は七∼八〇〇〇俵、駄数換算で三五〇〇∼四〇〇〇駄程度であった。しかしなが ら、守山藩の江戸廻米が原街道を利用して運ばれたのかは、史料上確認すること はできなかった。   二本松藩であるが、正徳四年︵一七一四︶の江戸廻米は七〇〇〇石で、俵数換 算で一万七五〇〇俵、駄数換算で八七五〇駄であった。当時の二本松藩は、藩主 が丹羽氏、一〇万石を領有していた 41 。廻米経路としては、奥州道中と那珂川水運 が主であったが、原街道を利用しての廻米輸送も行われていたようである。そこ で史料 1 を見ていただきたい。 ︿史料 1 ﹀         乍恐以書付奉願上候     一、御家様御廻米先年ハ、本道原奉両道江御廻し被遊候所、       近年ハ本道筋斗リニ而、原方江ハ一向ニ不遊御廻シ候而、原       方宿々問屋附子一統難渋仕、依之、此度問屋附子申合御家       様御廻米御廻し被下度奉願上候、猶又、当年高田様御廻米       御運送一向ニ無御座、原方荷物相減申候間、当年より先       年之通リ御廻米御廻し被遊被下度奉願上候、右願之通リ       被仰付被下置候ハゝ、御運送之義ハ無滞出精仕、一統ニ有難       仕合ニ奉存候、以上        文化六年巳十月        黒川問屋           佐藤大 吉        真船甚右衛門        真船藤右衛門        夕狩        高久助右衛門 時期による量の変化もあると思われるが、一回に一〇〇〇駄くらいの量を輸送し ていたのではないだろうか。また、白河藩は、関街道を利用し板戸河岸まで廻米 を輸送する経路や奥州道中を利用して廻米を輸送する経路などがあり 33 、廻米輸送 においては、複数の経路を使ったと考えられ、経路ごとに廻米が分散して運搬さ れたことにより、一〇〇〇駄を下回ることもあったのではないかと思われる。い ずれにしても、嘉永年間︵一八四八∼五四︶の廻米輸送量は、かなり少なくなっ てきたことを物語っている。   嘉永二年の ﹁今泉御米﹂ について見てみたい。 今泉は江戸時代の岩瀬郡今泉村 ︵須 賀川市︶のことで、幕末は旗本の三枝氏の知行地で、陣屋が置かれていた 34 。この 御米は、 今泉陣屋から江戸に輸送された三〇〇駄の年貢米であったと考える。 ﹁長 沼御米﹂は、福島県岩瀬郡に領地を有していた岩瀬長沼藩の廻米である。岩瀬長 沼藩は、岩瀬郡長沼村︵長沼町︶に陣屋を置き、郡内一万六〇〇〇石の地を支配 していた 35 。嘉永三年二月に二五〇駄、同年五月に六〇駄、嘉永四年に二八〇駄を 輸送していた。このことから、一年間の廻米輸送量は三〇〇駄程と推測する。   小嶋の廻米問屋が扱った﹁高田御米﹂について見てみたい。高田は、越後高田 藩のことで、江戸時代後期には越後国頸城郡や陸奥国の白河郡、石川郡、岩瀬郡 などに十五万石の領地を有し 36 、石川郡浅川村 ︵浅川町︶に浅川陣屋を置いてい た 37 。文化四年︵一八〇七︶頃には、年貢の金納制を始めたので原街道の廻米は激 減したと言われている 38 。そこで幕末の廻米取扱いをみると、嘉永五年二月付﹁高 田御米駄賃仕切之事﹂に一八〇駄の廻米、嘉永五年と推定される二月付﹁高田御 米仕切之事﹂ 39 に、二七六駄の廻米を扱ったことが記載されており、廻米輸送が続 いていたことがわかる。この二通の文書は宛所が異なることから、二月中に合計 四五六駄の廻米を二回に分けて小嶋の廻米問屋から高久の廻米問屋までの運搬を 依頼したものであった。   守山藩は 、常陸国や陸奥国田村郡に二万石を領有する藩で 、 藩主は水戸家の 血筋を引き 、 江戸に定住し藩庁は江戸上屋敷にあったため 、常陸国松川 ︵茨城 県東茨城郡大洗町︶と陸奥国守山 ︵福島県郡山市︶に陣屋が置かれていた 40 。守 山陣屋支配下の村々から納められた年貢米はほとんどが江戸に運ばれ 、その量

(10)

た 。 しかし 、享保十六年 ︵一七三一︶には 、﹁高久村之者荷物附方ニ付 、近年我 儘之致方御座候﹂ 47 といった状況であったので、附子村一三か村と高久村で争いと なった。高久村の附子は、村内に問屋場があり有利であったばかりではなく、運 送に有利な物資を選んで運ぶといった横暴が目立ってきたという 48 。このような状 況であったので、史料 2 から窺えるように、黒磯村では問屋設置に動き出したも のと推測する。 ︿史料 2 ﹀        乍恐書付を以奉願上候    一、此度、新道御見分上、御米荷物御通シ被遊候      様ニ承及候處ニ、黒羽御知行所野間村ニ問屋場被      仰付候、依之、黒磯村之儀前ゝ 中川端ニ罷有      殿様御米方衆、其外昼夜ニ不限諸事御用      相達シ、罷有候得者、新道御米問屋野間村ト黒磯村      両村ニ問屋場壱ヶ所之積リニ御了見被遊、十五日昏ク      尓被為仰付候ハゝ、難有奉存候御事、    一、黒磯村之儀ハ、先年高久村同前ニ殿様 馬金御      拝借被仰付、御金頂戴仕候、ヶ様成御救被遊候得ハ、      此度之儀幾重ニ茂御願申上候、御慈悲之御了見      を以て御米問屋被仰付被下候ハゝ、難有奉存候、以上、        下野国那須郡黒磯村         享保十七年子七月         願人     藤左衛門    会津中将様        同断           御米方御役人衆中          年寄     小右衛門        惣百姓代   久右衛門 49 新道とあるのは、黒磯村から野間村を経由して黒羽までいたる廻米街道のこと で、 結局、 問屋場は野間村に設置されたのである。野間村の問屋設置に関しては、 ﹁大野家系図﹂ に﹁宝永二酉年、 会津様御廻米御掛被成候ニ付、 私問屋願上奉被仰付、        高久弥治衛        迯室        佐藤次右衛門        渡部文蔵        高久        高久覚左衛門       二本松   御役所 42     文化六年︵一八〇九︶頃になると、二本松藩の廻米輸送が本道=奥州道中のみ となり、 原街道筋への廻米輸送はなくなったとある。そこで原街道の黒川、 夕狩、 迯室 ︵渡部文蔵は小嶋の問屋︶ 、高久の各問屋が 、二本松藩に対し 、廻米がなく なり難渋しているので、原街道にも以前のとおり廻米を回してほしいと訴えてい た。そして、文政四年︵一八二一︶六月付け﹁二本松藩廻米輸送につき原方道諸 宿問屋請書﹂ 43 が、原街道筋の一一の問屋と阿久津河岸・久保田河岸二河岸から二 本松藩御米方に対し提出され、再び原街道を使っての二本松藩の廻米が再開され たのであった。また、この時期は二本松藩ばかりではなく、高田藩の原街道廻し の廻米も滞るなど、原街道を通る諸藩の廻米は減少傾向にあったと考えられるの である。    ︵二︶商人荷物の輸送 ①享保年間の黒磯村の動向と問屋   江戸時代の黒磯村は、那珂川上流右岸に位置し、台地部と那珂川沿いの低地部 からなり、集落は上黒磯︵村︶と下黒磯︵村︶に分かれていた。村の中央を原街 道が横断し 44 、那珂川の渡河地点に立地していたことから、橋の管理や橋銭の徴収 に当たっていた 45 。さらに、 原街道は黒磯村で練貫に至る枝道が分岐するとともに、 黒羽方面へ物資を輸送するための道が分岐する要衝の地であった 46 。   また、黒磯村は原街道の高久村の廻米問屋の物資の運搬にあたる附子村でもあ り、稼いだ駄賃は貢租納入の手段であり、村民にとって貴重な収入源となってい

(11)

道筋に位置しており、物資輸送量は野間村に比べ多かったのである。その上、那 珂川端に位置していたことから、会津藩の諸事御用については、昼夜を限らず黒 磯村が対応しており 、那珂川が増水した際であっても 、﹁川増之節ハ御米方御用 ニ付 、上下之往来河越等相働 、満水ニ而通路罷成不申候節茂 、御状箱等相送リ﹂ 53 とあるように、会津藩の御用を勤めなければならなかったのである。他の附子村 に比べ負担は大きかったようで、会津藩から高久村同様に黒磯村に対し馬金が貸 与されている。馬金拝借は、附子等が馬を購入する際の資金援助で、廻米問屋に 貸与されるのが通常で 54 、高久問屋の附子村の黒磯村が馬金を拝借することは、異 例の待遇と言える。 ②黒磯村の物資継立   黒磯村は、先述のように問屋となることはできなかったが 55 、物資の継立を行っ ていたことが分かる史料がある 。 明治期のものではあるが 、交通制度は江戸時 代とほとんど変化がなかったことからかなり参考になる 。それは 、明治二年 ︵一八六九︶八月付 ﹁諸国商人荷物登下請払帳﹂ 56 で 、 原街道の商人荷の運送が解 明できるとともに 、﹁〆三拾貫四百五拾六文 、黒磯 迯室迠 、右之通慥ニ受取申 候﹂ 、﹁東小屋 着﹂ 、﹁迯室行﹂のような廻米問屋所在地等の記載が見られ、黒磯 村で原街道を通る物資の継立を行っていたことが分かる。   そこで、史料の内容を整理したのが表 5 で、その特色は次のようになる。 ⑴  時期としては、二月、三月、七∼十月の六か月間で、特に二月、八月、九月 に集中していた。 ⑵  荷主としては、日光・今市・宇都宮・会津・福島・三春・須賀川・仙台・山 形の商人であった。 ⑶  取扱い荷物数は、一部推定を含むが約九〇〇駄近くなっていた。 ⑷  黒磯村は、駄賃ほか川越賃、蔵敷、宿泊料などの諸経費を含み五〇〇貫文近 い収入があった。 ⑸  下り荷物は、東小屋・槻沢から黒磯へ運ばれたもの、黒磯から迯室・小嶋へ 運ばれたものが確認できる。 其外先年賃銭割合之御書付、御渡被下置、道麁絵図等茂所持仕﹂ 50 とあり、野間村 への廻米問屋設置は、二十年以上さかのぼった宝永二年︵一七〇五︶と記してお り 、 開設の年数に大きな開きがある 。さらに 、﹁大野家系図﹂には ﹁宝永年中会 津御廻米相掛候といへ共、 数年之間ニ茂無之、 少之内ニ而相止候趣ニ相聞候﹂ 51 と、 数年で荷物の継立がなくなったことを記している。 このような状況であったため、 黒磯村では廻米問屋の設置に動き出したのではないかと推測する。野間村は原街 道から分岐する脇道に位置し、諸藩の廻米輸送経路として使われなくなると輸送 量は急減することから 52 、原街道の本道に比べると輸送量は安定せず、物資輸送は 断続的であったと思われる。   一方、黒磯村は、結果的には廻米問屋となることはできなかったが、原街道本 写真1 高久村附子との訴訟に関わる古文書(一部)

(12)

月 日 2月27日 2月28日 2月28日 2月28日 2月28日 2月28日 2月28日 2月29日 2月29日 2月 日 2月 日 3月10・12日 7月5日 8月2日 8月2日 8月5日 8月5日 8月5日 8月14日 8月15日 8月15日 8月15・16日 8月19・20日 8月21日 8月21日 8月21日 8月24∼26日 8月26日 8月27日∼9月1日 9月1日 9月1日 9月3日 9月3日 9月4∼16日 9月8・10日 9月11∼15日 9月11・12日 9月11・12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12日 9月12・13日 9月15日 9月15日 9月15∼17日 9月17日 9月19日 9月19日 9月20日 9月22・23日 10月3日 荷物 塗物 白米 白米 白米 白米 白米 酒 大豆ほか 塗物 酒 ぬりほか 日光産物 砂糖ほか 日光産物 高沢産物 高沢産物 日光産物 駄送先 小嶋 小嶋 小嶋 小嶋彦十 高久町分 小嶋彦十 小嶋彦十 迯室 迯室 迯室 (小嶋おろし) 白川 黒磯より迯室迠 迯室 東小屋より着 黒磯着 黒磯着 会津行き 槻沢 東小屋 数量 − 85俵 − − − − − − − − − 8本 4俵 20俵 − 30俵 7貫 − 48本 − 159俵 125俵 14本 2俵 110俵 132俵 56俵 92俵 129俵 54俵 105俵 128俵 56俵 159俵 35俵 91俵 34貫 25貫 47本 9俵 17俵 9俵 30俵 42俵 − − 28俵 3貫 40俵 35俵 6本 6俵 16本 4俵 17俵 8俵 85貫 12本 11俵 − 貫 4 2 5 10 7 4 32 10 13 11 1 30 27 40 34 23 2 20 13 15 6 19 7 21 29 17 31 13 10 6 7 4 11 4 9 1 3 1 − 文 224 764 700 648 400 932 74 784 212 450 200 400 456 548 954 872 450 750 48 950 20 500 464 24 928 686 227 968 550 70 750 90 64 332 駄数 2 85 2 2 10.58 9 6 4 21 7 7 4 2 7 10 15 1 23.75 12 55 80 30.25 2 1 38 33.16 19 23 37.75 12 34.5 40.91 21.1 45.25 7.25 22.81 10.75 7.33 10 6 3 10 10.5 7 25 7 1 40 12 2 4 6 3 35 − * * * * * * * * * * * * * * * * * * 荷 主 どうじょう町商人 日光入町・舛本屋徳太郎 友吉 北條村幸蔵 白川大工町・丸屋 白川大工町・丸屋 川原町・宇兵衛 川原町・宇兵衛 日光産物掛・升本屋徳太郎 高内村・助四郎 高内村・助四郎 会津・山形屋常次郎 福島・小野屋吉助 祐介分 白川・大坂屋 日光 産 物 捌 方・舛 本 屋 徳 太 郎、山田屋栄左衛門 今市・伊勢屋賢兵衛 会津・松屋徳兵衛、大貫忠 之助 福島舛屋太助 仙台・熊谷屋喜蔵 山形・近江屋喜太郎 一小印、駒橋屋和助 三春・大文字屋藤兵衛 玉屋佐吉 須賀川・金木屋秋吉 仙台・佐藤屋貞吉 宇都宮・佐野屋瀧蔵 会津・水国屋藤吉 会津・満田屋軽吉 赤キ印 :印、鹿嶋屋太吉 ÷印(小野屋) 三春・駒橋屋和助 小野屋清兵衛 小野屋清兵衛、鹿嶋屋吉太 赤十印 赤一印 一小印 鹿嶋屋太吉 ÷印小野屋 日光亀屋吉助 会津・鈴木屋利兵衛 才料皆川屋宮吉 駒橋屋和助 宇都宮・佐野屋瀧蔵 駒橋屋和助 升本屋徳太郎 吉川屋孫四郎 :一印 福島・鱗屋新六 会津・松もと屋金三郎 運送量 駄賃 ・明治 2 年「諸国商人荷物登下請払帳」により作成。 ・輸送量の*は、推定量で適宜駄数換算を行った。 合 計 932.89 518 489 表 5 明治 2 年 (1869) 黒磯村における原街道の商人荷輸送量

(13)

  時期の偏りについてであるが、享保十年正月付﹁会津御米仕切帳﹂ 57 と比較して みると、二月、八月、九月には会津藩御米の原街道輸送量は、大きく減少してい る時期にあたる。各藩の廻米輸送と時期が重ならないようにして、商人荷の輸送 を行っていたことが窺えるのである。   原街道を輸送された物資については 、﹁大部分の物資は会津藩の物資で 、内容 的には御用米が中心で 、その他に蝋 ・生糸 ・麻 ・漆器等の商品類﹂と言われた り 58 、﹁商人荷については上りが米を主に会津産の蝋 、下りは塩を主として木綿 、 小間物、茶、砂糖などが運ばれた﹂とも言われている 59 。本稿で取り上げたのは黒 磯村の一例のみであるので全容は把握できないが、東北方面に運ばれたものとし て日光からの塗物 、今市の酒があり 、白米や大豆 、砂糖も運ばれていた 。また 、 先述のように会津からは御用米の他に蝋も輸送されていたことが確認できる。      ︵三︶駄賃と附通し ①駄賃及び諸費用   駄賃の金額については、 先行研究によりかなり解明されているが 60 、 高崎寿氏は、 御定賃銭と御雇賃銭について﹁原街道は脇街道であったが、 準官道であったから、 ︵中略︶ 、準お定賃銭を用いた。公用以外の商人荷物に対しては、お雇賃銭︵相対 賃銭︶が行われたが、これも大体お定賃銭を基準に何割増という形で、一般にお 定賃銭より高額であったが、附通しという便利があった﹂と指摘している 61 。   まず、駄賃の全体像について触れておきたい。文政十二年︵一八二九︶におけ る原街道全体の継立区間とその駄賃を整理したのが表 6 である。 駄賃は会津御米、 処々廻米 ︵諸家廻米︶ 、商人米の順で高額になっており 、会津御米が金額から判 断するに御定賃銭であり、 商人米は会津廻米の約三∼五割増しで、 御雇賃銭であっ たと考えられる。処々廻米︵諸家廻米︶については、会津廻米の約二∼三割増し となっているので、 推察するに御雇賃銭と思われる。また、 会津御米については、 高久から石林の間、安沢・岡・平沢・薄葉・木幡から阿久津の間で金額の記載が ないが、 商人米についてはほぼ全区間において金額が定められていた。 相対によっ て同じ区間の金額が毎回異ならないように、相対賃銭でも金額を定めていたので 「文政十二年三月白川より宿々駄賃付」(『西郷村史資料補遺』第2集)により作成。 ၟே⡿ 㻡㻜 ᩥ 㻝㻜 ᩥ 㻠㻜 ᩥ ఍ὠᚚ⡿ 㻟㻤 ᩥ 㻤 ᩥ 㻟㻜 ᩥ ฎ䚻ᘔ⡿ 㻠㻣 ᩥ 㻥 ᩥ 㻟㻤 ᩥ ၟே⡿ 㻢㻜 ᩥ 㻝㻜 ᩥ 㻡㻜 ᩥ ఍ὠᚚ⡿ 㻠㻢 ᩥ 㻤 ᩥ 㻟㻤 ᩥ ၟே⡿ 㻥㻞 ᩥ 㻝㻞 ᩥ 㻤㻜 ᩥ ఍ὠᚚ⡿ 㻢㻠 ᩥ 㻝㻜 ᩥ 㻡㻠 ᩥ 㻞 ᩥ 㻞 ᩥ ฎ䚻ᘔ⡿ 㻤㻤 ᩥ 㻝㻞 ᩥ 㻣㻢 ᩥ ၟே⡿ 㻤㻞 ᩥ 㻝㻞 ᩥ 㻣㻜 ᩥ ఍ὠᚚ⡿ 㻡㻢 ᩥ 㻝㻜 ᩥ 㻠㻤 ᩥ ௜ᏊΏᘔ⡿ 㻤㻜 ᩥ 㻝㻞 ᩥ 㻢㻤 ᩥ ኱⏣ཎ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻢㻝 ᩥ ⦎㈏ 㯮⩚ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻢㻝 ᩥ ᮾᑠᒇ 䜈 ၟே⡿ 㻥㻜 ᩥ ▼ᯘ ㏻ ၟே⡿ 㻝㻢㻜 ᩥ ᮾᑠᒇ ▼ᯘ 䜈 ၟே⡿ 㻢㻠 ᩥ 㻝㻣 ᩥ 㻠㻤 ᩥ ⷧⴥ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻟㻜 ᩥ 㻝㻣 ᩥ 㻝㻝㻤 ᩥ ἑ 䜈 ⓑἙᘔ⡿ 㻝㻡㻢 ᩥ எ⏿ 䜈 ⓑἙᘔ⡿ 㻝㻡㻢 ᩥ Ᏻἑ 䜈 ⓑἙᘔ⡿ 㻝㻜㻜 ᩥ Ᏻἑ 䜈 ၟே䞉እᘔ⡿ 㻝㻥㻤 ᩥ 㻝㻣 ᩥ 㻝㻣㻡 ᩥ ᮌᖭ 䜈 ၟே䞉እᘔ⡿ 㻝㻥㻠 ᩥ ▮ᯈ 䜈 ၟே䞉እᘔ⡿ 㻝㻥㻠 ᩥ 㮖ᐟ 䜈 ၟே䞉እᘔ⡿ 㻞㻟㻤 ᩥ Ᏻἑ 䜈 ఍ὠᚚ⡿ 㻝㻡㻠 ᩥ 㻢 ᩥ 㻝 ᩥ ᒸ 䜈 ఍ὠᚚ⡿ 㻝㻢㻡 ᩥ 㻢 ᩥ 㻝 ᩥ ᖹἑ 䜈 ఍ὠᚚ⡿ 㻡㻤 ᩥ 㻢 ᩥ 㻝 ᩥ ⷧⴥ 䜈 ఍ὠᚚ⡿ 㻠㻡 ᩥ 㻢 ᩥ 㻝 ᩥ ᮌᖭ 䜈 ఍ὠᚚ⡿ 㻝㻠㻢 ᩥ 㻢 ᩥ 㻝 ᩥ ၟே⡿ 㻞㻝㻢 ᩥ ἑ䞉Ἑᡞ ၟே⡿ 㻟㻣㻠 ᩥ ἑ䞉Ἑᡞ 㜿ஂὠ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻢㻢 ᩥ 㻝㻢 ᩥ ᯇᔱ ▼ᮎ 䜈 ၟே⡿ 㻞㻜㻜 ᩥ ᯇᔱ Ặᐙ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻠㻠 ᩥ ᯇᔱ 㜿ஂὠ 䜈 ฎ䚻ᘔ⡿ 㻝㻢㻜 ᩥ ᯇᔱ 㻠 ᩥ 㤿ሙ 䜈 ฎ䚻ᘔ⡿ 㻥㻠 ᩥ 㻝㻜 ᩥ 㻤㻞 ᩥ 㻞 ᩥ Ặᐙ䜈䠐ᩥቑ䛧 எ⏿ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻝㻢 ᩥ 㻝㻢 ᩥ 㜿ஂὠ 䜈 ၟே⡿ 㻞㻞㻢 ᩥ 㻝㻢 ᩥ 㜿ஂὠ 䜈 ၟே⡿ 㻝㻟㻢 ᩥ ▼ᮎ 䜈 ၟே⡿ 㻞㻟㻢 ᩥ ▼ᮎ 䜘䜚 ᯈᡞ 䜈 ၟே⡿ 㻥㻡 ᩥ 㤿ሙ 䜘䜚 㜿ஂὠ 䜈 ၟே⡿ 㻢㻠 ᩥ எ⏿ 䜘䜚 ▼ᮎ 䜈 ၟே⡿ 㻞㻞㻢 ᩥ ణ䛧ቑඹ䚸䠍㥏㻝㻜ᩥቑ䛧 ኱⏣ཎ 䜘䜚 ▮ᯈ 䜈 ၟே⡿ 㻞㻣㻞 ᩥ ణ䛧ቑඹ ༊㛫 Ⲵ䛾༊ศ 㐠㈤ ഛ⪃ 㥏㈤ ၥᒇ䞉ⶶᩜ䞉 ୖ⣡ ௜ᏊΏ䛧 Ⲵཱྀ㖹 ௚㈝⏝ ኤ⊁ 䜘䜚 ㏘ᐊ 䜈 ㏘ᐊ 䜘䜚 ᑠᔱ 䜈 ㏘ᐊ 䜘䜚 㧗ஂ 䜈 ᑠᔱ 䜘䜚 㧗ஂ 䜈 㧗ஂ 䜘䜚 ᮾᑠᒇ 䜘䜚 ἑᮧ 䜘䜚 ▼ᯘ 䜘䜚 ▼ᯘ 䜘䜚 ඵᮌἑ 䜘䜚 எ⏿ 䜘䜚 㮖ᐟ 䜈 㮖ᐟ 䜘䜚 Ᏻἑ 䜘䜚 表 6 文政 12 年(1829)における原街道の宿駅間の駄賃

(14)

あろう 。そこで 、迯室 、小嶋の廻米問屋の協議での例について触れておきたい 。 万延元年︵一八六〇︶と推測される﹁此度大用御継立度迯室小嶋両村談口上﹂ 62 に は、表 7 に 整理したように、先触れがない場合と前日ないし前々日までに先触れ があり、馬金を拝借 63 して購入した馬を使って継立をする場合は御定賃銭、前日な いし前々日までに先触れがある前記以外の継立ては御雇賃銭と区分している。こ ちらは、輸送する荷物による区分ではなく、先触の有無や馬の状況のような輸送 体制に基づく区分であったようである。輸送荷物だけで賃銭区分がなされていた わけではないことが分かる。   輸送に関わる駄賃や諸経費については、表 8 に 整理をしておいた。諸経費にお いては 、明治二年八月付 ﹁諸国商人荷物登下請払帳﹂では 、昼食代が二〇〇文 、 宿泊代が一泊一貫文ほど 64 と万延元年頃に比べ高額となっていた。 ②附通しについて   原街道における物資輸送は、 継立が基本であったと思われるが、 高崎寿氏は、 ﹁商 人荷物などは、一般に宿場毎に積換えをせず、白河阿久津間を二泊三日位で附通 享保 10 年正月付「会津御米仕切帳」、文政 12 年 3 月付「白川より宿々駄賃付」、「此度 大用御継立度迯室小嶋両村談口上」、明治 2 年 8 月付「諸国商人荷物登下請払帳」によ り作成。 すこともあった﹂と記し、高久の廻米問屋の史料﹁宰領荷物運賃表﹂に﹁継立と 附通の両形式で、両者共同額で一里一駄三〇〇文の相対賃銭である﹂と記してい る 65 。原街道で附通しが行われていたことが指摘されてはいるが、その実態につい ては、解明されていなかった。そこで、まず附通しについて検証を加えることと する。 表 7 迯室・小嶋における継立の取決め 表 8 原街道における駄賃及び諸経費

(15)

言っている。この文書は廻米方御役所に提出されたものなので、会津藩などの廻 米輸送では、 状況によってはこのような附通しも行っていたと考えられる。また、 ﹁白河阿久津間を二泊三日位で附通す﹂とあると 、多くの宿駅を附通し早急な物 資輸送ができるように感じられるが、附通しの実態としては一つ程度の宿駅を附 通し 、附通しをする区間もほぼ決まっていたと考えるのが妥当である 。まして 、 運送する物資の量が多い場合は、白河阿久津間を二泊三日位で輸送することは困 難であったと言わざるを得ない。

    

三 

附子制度と継立の実態

   ︵一︶原街道における附子制度 ①附子村の指定   当初、会津藩の廻米は、宿駅周辺の村々に適宜輸送を依頼する揚馬制であった が、農民間の駄送荷の争奪や妨害などの支障が出たため、宿駅ごとに附属する附 子村を指定し 、附子に対する米荷の割当てを 、藩が任命した問屋の業務とする ことで米荷輸送の安定を図ったと言われている 72 。原街道においては 、 承応二年 ︵一六五三︶に宿駅ごとに附子村の指定を行ったとされる 73 。   しかし、享保九年十二月付﹁会津廻米運送定附子ニ仰付請書﹂には 74 、白河宿で は揚馬を行っていたが、享保九年に一七か村が定附子に指定され、馬二〇〇疋の 勤めを請けるというもので、定附子として一七か村の村名が記されていた。原街 道の附子村の指定の時期は、このように差があることから、一時期に行われたも のではなく、宿駅によりその時期は異なっていたものと考えられる。   白河宿の附子として、黒川宿の附子が入っている点は疑問が残るが、正徳二年 ︵一七一二︶ ﹁羽鳥街道開発 ・地馬運送附子村々 ﹂に 、この一七か村が 、﹁白川地 場御運送定附子村々﹂とあることから 75 、白河宿の附子と考えて問題なさそうであ る。また、 黒川宿の附子一八か村の内、 上新田︵小田倉新田︶ 、下新田︵小田新田︶ 、 小田倉村、皮籠村、夏梨子村、十文字村、長坂村、米村が、白河宿の附子と重複 していた。これは、松倉村、黒田村、針生村の附子が白河と会津の廻米輸送にあ たり、夕狩と寄居に附属する附子として認められた例 76 から、附子は複数の宿駅に   享保十年正月付﹁会津御米仕切帳﹂を見ると、 継立の場合は﹁黒川より夕狩へ﹂ と表記され 、附通しの場合は ﹁百三駄 、白川より夕狩通し﹂と表記されている 。 このことから、白川︵河︶から黒川を飛ばして夕狩へ附通しを行っていた 66 ことが わかる。また、文政十二年三月付﹁白川より宿々駄賃付﹂は、継立を基本に各宿 駅間の駄賃を体系化しているが、附通しについて﹁高久より石林通し、但し東小 屋口銭共ニ﹂と記されており、高久から東小屋を飛ばして石林の廻米問屋へ附通 しを行っていた 。このように 、原街道の廻米問屋が附通しを行っていたことは 、 史料上確認できるのである。   附通しをする際には、通過する問屋に対し通行料として二文程度の口銭を支払 うが、そのことが記載されている個所がある。それは、迯室から高久への附通し の際の小嶋への口銭支払 、高久より大田原への附通しの際の練貫への口銭支払 、 八木沢より鷲宿への附通しの際の滝沢・河戸への口銭支払、鷲宿より阿久津への 附通しの際の松嶋への口銭支払が確認されるので 67 、これらの所でも附通しを行っ ていたことが確認できるのである。   また 、明治四年 ︵一八七一︶正月付 ﹁白河県御廻米賃金取調帳﹂には 、﹁ 同 迯 室 所 練貫通し﹂あるいは﹁同 槻 沢 所より安沢へ、四里、但シ四拾八文増﹂ 68 とあり、迯室か ら高久を飛ばして練貫の廻米問屋へ附通しを行っていた例、槻沢から薄葉を飛ば して安沢の廻米問屋へ附通しを行っていた例が確認できる。注目されるのは、増 銭が取られていた点で、金額からして通行料として支払う口銭ではないと思われ る 。先述のように高崎氏は 、﹁継立と附通の両形式で 、両者共同額﹂と指摘され ているが 69 、継立と附通の間で金額が異なる例も窺えるのである。さらに、鷲宿の 問屋と安沢の問屋から白川県に提出された、明治四年三月付﹁御登米賃銭奉書上 御受之事﹂に﹁鷲宿より阿久津通﹂ 、﹁安沢より阿久津通﹂と記されており 70 、鷲宿 より阿久津へ附通しを行っていた例、安沢より阿久津へ附通しを行っていた例が 確認できる。   ところで、 享和三年︵一八〇三︶三月付﹁拝借仕馬相調小前人別書上帳﹂には、 ﹁御廻米指支之節者 、 迯室高久江茂附通シ御運送可仕候﹂ 71 とあり 、 黒川の廻米問 屋は、支障があった場合に夕狩の廻米問屋を飛ばして、迯室や高久まで附通すと

(16)

所属することもあったと考えられる。   原街道の附子村は 、表 9 のとおりで 、﹃栃木県歴史の道調査報告書﹄第三集に おいて、那珂川以北は明確になってきたが、那珂川以南については不明な点が多 い。また、時期による附子村の異動もあったようで、必ずしも一定ではないこと が指摘されている 77 。そして 、附子村を特定できる史料も多くはないのが現状で 、 このことが、附子村を特定する際の妨げとなっている。 ②附子の区分と階層   高久の例をみると附子村には区分けがあったことがわかる。まず、宿駅のあっ た高久村の附子は、 元文二年 ︵一七三七︶ 十一月付 ﹁高久村および附子村々へ申渡、 ならびに村々請書﹂に、 ﹁高久町附子﹂ 、それ以外の那珂川以東の村の附子は﹁在 附子﹂ 、那珂川以西の村の附子は ﹁下黒磯村附子﹂ 、﹁上黒磯村附子﹂ 、﹁鳥野目村附子﹂ と記されている。那珂川以東の村々は黒羽藩領であるが、以西の三つの村は、上 下黒磯村が幕府領、鳥野目村が大田原藩領と支配領域が異なることからこのよう な表記になったものと思われるので、この三か村を含めて在附子と捉えることと する。また、那珂川に架かっていた橋の普請は高久村が行っていたが、その手伝 普請の負担区分も記されていた。橋手伝普請は那珂川以東の在附子と高久の附子 村ではない松子村、菱喰内村、山梨子村、桜久保村、武士沢村、後藤橋村の六か 村があった 78 。   史料にみる ﹁ 町﹂ ・﹁ 在﹂の使用であるが 、﹁町在順番を以附送リ可申付候﹂と あるように 、町附子 、在附子を区分けして使用している 。さらには 、﹁依之 、 諸 荷物附方町馬へ出払候迄ハ、 在馬附出候儀無之様ニ可致下知候事﹂とあるように、 附子の馬も﹁町馬﹂ 、﹁在馬﹂と区分けされていた 79 。ここで注目したいのは、宿駅 のある村の附子が、荷附けの優先権を有していたということである。廻米問屋に おいて、緊急の継立があった場合や継立てる馬が不足したときに使用する馬を確 保するなどの理由で、町附子に荷附けの優先権を認めていたものと推測する。こ のことは恒例となっていたようで、後述するように高久宿の町附子と在附子の間 に荷附けに関して訴訟が起きていた。   先にあげた資料に、 ﹁高久町附子長﹂として、久左衛門、伊左衛門、庄左衛門、 ・『栃木県歴史の道調査報告書』第三集、『那須野ヶ原の道』、『西郷村史資料補遺』第1集により作成。 ・宿駅のある村は、史料に記載がない場合でも附子村に入れた。 ・一部推測もある。 ᐟ㥐 ୖ᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅㯮ᕝᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ኤ⊁ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᑠᔱᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅㧗ஂᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ᵳἑᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ୗ᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅ᑠ⏣಴᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅஧ᯛᶫ 䠄㑣㡲⏫䠅㏘ᐊᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⟄ᆅᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ᮾ㛵᰿ᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ᑠ⏣಴ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ᑠ⏣᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅▮㔝┠ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅㔪⏕ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᒸᐊᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 す㛵᰿ᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 㯮ᕝᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ᑠ⏣಴ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ᯇ಴ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅㯮⏣ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⱴ἟ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ᮾ㐜ἑᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ⓶⡲ᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅᯽㔝ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ᯇ἟ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᡞ⬟ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⷧᐊᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 す㐜ἑᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ୗ㯮ᕝᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅⓶⡲ᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅㧗ὠᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⴠྜᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅୸ᒣᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ୖ஭ཱྀᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ኟ᲍Ꮚᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅┿ྡᏊᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅኱ᓥᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᶓ㐨ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᘪⴠᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ୗ஭ཱྀᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ༑ᩥᏐᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅ኟ᲍Ꮚᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅⸨ሷᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᒣ᲍Ꮚᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅Ώஂಖᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ᐩᒣᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ཮▼ᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅༑ᩥᏐᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅໭ᲄᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⁽ሯᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅๓⸨ᶫᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 㧗ᰗᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ኱ᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅ୗ⩚ኴᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅㛗༡ᑎᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ୖᕝᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᘔ䜚ᒇᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ༡㒓ᒇᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ⓑᕝ᪂⏫ 䠄ⓑἙᕷ䠅ୖ⩚ኴᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅ᑠᒇᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⩚ཎᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ୖ℩⦭ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 㛗ᆏᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅ᢡཱྀ᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅୍䝒ᵻᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⳻႞ෆᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ୗ℩⦭ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ⡿ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅㛗ᆏᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅ᑠ῝ᇼᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⊇ஂಖᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⰱ㔝ཪᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ୐᭤ᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅⡿ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅኱῝ᇼᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ᱜஂಖᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⷧᮌᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 㯮ᮌᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅┿⯪ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅኱ἑᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 㫽㔝┠ᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ⥘Ꮚᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅ⓑᆏᮧ 䠄ⓑἙᕷ䠅⚄ᮌᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅 ୖ㯮☾ᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ⴗஂಖᮧ 䠄㑣㡲⏫䠅㭯⏕ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅 ୗ㯮☾ᮧ 䠄㑣㡲ሷཎᕷ䠅 ⇃಴ᮧ 䠄す㒓ᮧ䠅 ⇃಴᪂⏣ 䠄す㒓ᮧ䠅 ᮧྡ ᫬ᮇ ⓑᕝ 㯮ᕝ ኤ⊁ ṇᚨ㻞ᖺ䠄㻝㻣㻝㻞䠅 ாಖ㻥ᖺ䠄㻝㻣㻞㻠䠅 ᖺ୙ヲ ඖᩥ㻠ᖺ㡭䠄㻝㻣㻟㻥䠅 ㏘ᐊ䞉ᑠᔱ ᏳỌ㻞ᖺ㡭 䠄㻝㻣㻣㻟䠅 㧗ஂ ඖᩥ㻞ᖺ 䠄㻝㻣㻟㻣䠅 ᵳἑ ாಖᖺ㛫 䠄㻝㻣㻝㻢䡚㻝㻣㻟㻢䠅 表 9 原街道の附子村 白川(河)

(17)

概ね一戸あたり二∼四頭の馬を飼っていたと考えられる。黒川の馬拝借金で購入 した馬の数は、 村が所有する馬の七割以上と考えられ、 かなり高い比率であった。   一方、黒磯村では、文化五年︵一八〇八︶三月付﹁父附女馬小前帳﹂に﹁都合 三拾壱疋、内弐拾弐疋、会津様 馬金拝借分、是ハ会津様御拝借馬ニ御座候﹂と あり 88 、黒磯村の馬数の約七割が会津藩からの馬金拝借で購入した馬であった。こ の頃の戸数は二四戸 89 、一戸平均の馬数は約一 ・ 三頭となるので 、多くの家で馬金 を拝借していた。   黒川宿や黒磯村の例では 、馬拝借金で購入した馬の割合は高くなっていたが 、 夕狩宿の例では金額は黒川宿より低い割に拝借金で購入した馬の数は一〇〇頭を 超えていた。事例は少ないので断定はできないが、馬購入代金の全額や一部に馬 拝借金があてられ、多くの馬が購入されていたと推測できることから、附子を廻 米輸送に拘束する効果は十分にあったと考えられる。    ︵二︶米問屋での継立と附子の稼働 ①黒川の廻米問屋における継立と附子の稼働│請入の例│   白河県では 、明治三年 ︵一八七〇︶十二月に東京まで廻米を輸送するために 、 十三日から翌四年一月七日にかけての九日間で、七〇六駄の廻米を黒川まで輸送 した。この時の黒川の廻米問屋の白河廻米請入を例に、継立と附子の人馬勤めに ついて考察することとする 。輸送にあたった村は三二か村で 、白河宿の附子村 一七か村の内一〇か村と 、それ以外の村二二か村という構成であった 。これは 、 ﹁黒川駅之儀ハ馬不足ニ而差支相成候間、 其村々馬数ニ応シ、 拾疋成 或 ハ弐拾疋ツツ、 毎朝五ツ時小田倉端合 郷 黒川問屋ヘ可差出もの也﹂と回章 90 が出ていたことから、当 初から黒川の附子村以外の馬子も動員して運送にあたる予定でいたことによるも のである。輸送にあたった者の延べ人数は三四三人、稼働した日数は一∼四日で 一日平均約三八人が出動、一人あたり平均約二駄の廻米を運んでいた。   村別の廻米輸送の数量を整理したのが表 10である。日ごとの人馬の出動状況を 見ると、一日当たりに出動する村数は少なくて三か村、多くて一三か村で、一村 一回あたりの輸送量は出動した人馬数の差によるが 、十二月十五日の本沼村の 新八 、平八 、武右衛門 、五兵衛の七人が記されていた 80 。﹁附子長﹂というのは 、 附子のとりまとめや継立の順番などの管理を行っていた役で、数人の附子に対し 一人の割合で付けられていたようである。高久の廻米問屋高久善左衛門に提出さ れた、荷物の附送りに関する元文二年︵一七三七︶十一月付﹁証文﹂には、高久 町附子と思われる二四人が書名、押印していた 81 。高久町附子の数が二十四戸とす ると、附子長は、三∼四人に一人が任命されていたことがわかる。   さらに 、享和三年三月付 、﹁拝借仕馬相調小前人別書上帳﹂ 82 の文末には 、黒川 の附子二四人と組頭一人、廻米問屋二人の名が記されていた。そして、附子の五 人には 、名前の上に ﹁頭﹂の字が記されており 、概ね五人に一人の割合で ﹁頭﹂ の附子がいた。これについても、先述のように高久町附子長のような役割を担っ た附子ではないかと推測する。附子の人馬稼働においては、先触などの情報を伝 達したり、出動の時期・人数などを調整するために、その取りまとめ役は必要で あったのではないだろうか。それが、高久の﹁附子長﹂や黒川の﹁頭﹂であった と考える。 ③附子と馬金拝借   ﹁附子をして廻米輸送に必ず従事させるよう拘束したのが 、 馬代金前借制度で ある﹂と言われ、附子が困窮で馬を買えない場合の援助で、拝借金で購入した馬 を使って勝手に駄賃稼ぎをすることは禁止されていた。拝借金の返済は駄賃から の天引きで、返済にあたっては一分につき二〇文の利息を付けることになってい た 83 。そこで、馬代金の拝借金額や拝借金で購入した馬の数から、附子に対する拘 束力がどの程度あったかを考察することとする。   享和三年三月付 ﹁拝借仕馬相調小前人別書上帳﹂ 84 には 、附子二六人で合計 一五八両二分を拝借していたことが記されている。一人あたり平均六両二朱を借 りて二 ・ 六頭の馬を購入していた 。拝借金は 、馬は一頭につき二両一分二朱で 、 元文四年︵一七三九︶夕狩の廻米問屋の例では、一頭あたり二分の拝借金であっ た 85 。このことから、黒川の場合はほぼ馬一頭分の拝借金額、夕狩の場合は自己負 担で不足する分の拝借金額であったと考える。また、幕末頃の附子村の馬数をみ ると 、黒川宿の附子村では 、一戸平均三 ・ 五 頭 86 、同時期の白河宿では二 ・ 四 頭 87 と、

表 11 黒川へ輸送する白河県廻米の人別輸送量

参照

関連したドキュメント

 (リース資産を除く) ただし、1998年4月1日以降に取得した建物(建物附

一方、介護保険法においては、各市町村に設置される地域包括支援センターにおけ

東北地方太平洋沖地震により被災した福島第一原子力発電所の事故等に関する原

一方で、平成 24 年(2014)年 11

り減少( -1.0% )する一方で、代替フロンは、冷媒分野におけるオ ゾン層破壊物質からの代替に伴い、前年度比 7.6 %増、 2013 年度比

[r]

モノーは一八六七年一 0 月から翌年の六月までの二学期を︑ ドイツで過ごした︒ ドイツに留学することは︑

十四 スチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法 十五 エチレン 日本工業規格K〇一一四又は日本工業規格K〇一二三に定める方法