次の文章は、和歌に詠まれた難解な語句や表現について考究する、顕昭著の歌学書『袖中抄』の一節である(途中、省略し た部分がある←注:入試問題そのままです) 。これを読んで、後の問いに答えよ。 秋風にほころびぬらし 藤 ふぢ 袴 ばかま つづりさせてふきりぎりす鳴く (古今和歌集・雑体・一〇二〇・在原 棟 むね 梁 やな ) 顕昭いはく、 「つづりさせてふきりぎりす鳴く」とは、 世俗に、 きりぎりすは「つづりさせ、 かかはひろはむ」と鳴くといへ り。 「かかは」とは、 衣 きぬ 布の 破 や れて、 何にもすべくもなきをいふなり。さればこの歌は、 1 秋風の吹くに藤袴のほころびぬる は、 すなはち破れぬる心なり、 「つづり」は、 おほやう破れたるものを取り集めて刺せば、 その藤袴や秋風に破れぬらむ、 「つづりさ せ、 か か は ひ ろ は む 」 と き り ぎ り す の 鳴 く は、 と 詠 め る な り。 「 つ づ り 」 刺 す に は、 そ の「 か か は 」 の 多 く 出 で 来 る な り。 ま た古き髄脳に、きりぎりすの名をば「させ」といふといへり。そのゆゑに、 「させ」といふきりぎりすとはいふを、 「つづりさ せ」とは 2 添へたるなり 。きりぎりすの「つづりさせ」と鳴くにはあらざるか。されば、 後拾遺の序に、 「秋の虫のさせる節な く」と書かれたるは、 きりぎりすを「させ」といへば、 それに添へて続けたるなりと、 通俊卿の注したるよし 3 はべり 。この両
第四講
実践演習④
説、いづれにつくべしといふ事、定め難し。 4 世俗説も事ふりたり。また通俊説も心にくし 。 私に案ずるに、きりぎりすを「させ」といふ事、もしこの「つづりさせてふきりぎりす鳴く」といふ歌につきていふにもや あ ら む。 た だ、 そ の ゆ ゑ も な く、 き り ぎ り す を「 さ せ 」 と い ふ べ き に あ ら ざ る か。 ま た、 こ の 歌 も、 「 つ づ り さ せ 」 と き り り す の 鳴 け ば こ そ、 か く も 詠 み 5 は べ り け め。 「 さ せ 」 と い は む か ら に、 6 あ な が ち に「 つ づ り 」 を 思 ふ べ き に あ ら ず 。 通 俊 は「きりぎりすを、させといふ」と書きたる書につきて、書けるなるべし。 家 やか 持 もち 集にいはく、 きりぎりすつづりさせとは鳴きをれど 群 むら 衣 ぎぬ 持たぬ我は聞き入れず この歌の心も、前義にかなへり。今の古今の歌に「つづりさせといふ」と詠める詞に、両義の意は変はりて見ゆるなり。前義 にては、 「つづりさせといふ」と詠めるは、 A と詠めるなり。次義にては、 B といふなり。それを、 「つづりさせ」と は添へたるなり。 また、ある義にいはく、 「秋の虫のさせる節なく」とは、鶯は春鶯囀とて楽に通ひ、鶴は五絃弾に通ひて「第三第四絃冷冷、
夜 鶴 憶 子 籠 中 鳴 」 と い へ り。 し か う し て 虫 叢 は か く の ご と き 事 な け れ ば、 「 さ せ る 節 な く 」 と は 書 け る か と 申 せ ど、 古 今 序 に いはく、 「春鶯之囀花中、秋蝉之吟樹上、雖無曲折、各発歌謡」云々。すでに鶯をも曲折無しといへり。 7 そのいはれ無きか 。況や序者通俊卿のきりぎりすと注しつれば、別義入るべからざるか。 (注) 髄脳…和歌に関する知識や理論などを記した歌学書。 後拾遺…後拾遺和歌集。第四代の勅撰和歌集。撰者は藤原通俊で、仮名序を具備する。 春鶯囀…雅楽の曲名。 五絃弾…白居易作の詩。 古今序…ここでは、古今和歌集の真名序(漢文の序)のこと。
問一 傍線部1「秋風の吹くに藤袴のほころびぬる」とは、実際にはどのような状態を表現していると考えられるか。最も適 当なものを次のイ~ホの中から一つ選べ。 イ 秋の深まりにつれて藤袴もだんだんしおれていく状態。 ロ 秋の暴風雨のため藤袴の葉が無残に吹き破られた状態。 ハ 秋風を感じて藤袴も人間のように冬支度を始めた状態。 ニ 秋の季節が到来して七草のひとつ藤袴が花開いた状態。 ホ 秋の寂しさに藤袴も露の涙を流したように見える状態。 問二 傍線部2「添へたるなり」の意味として最も適当なものを次のイ~ホの中から一つ選べ。 イ 端正な掛詞としたのである。 ロ 意味を言い加えたのである。 ハ 素材をほめ讃えたのである。 ニ 両義を調和させたのである。 ホ 語に注解を施したのである。 問三 傍 線 部 3 ・ 5 の 敬 語「 は べ り 」 は、 同 じ 対 象 に 敬 意 を 払 っ て い る。 そ の 対 象 と し て 最 も 適 当 な 人 物 を 次 の イ ~ ホ の 中 ら一つ選べ。 イ 棟梁 ロ 顕昭 ハ 通俊 ニ 家持 ホ 読者
問四 傍線部4「世俗説も事ふりたり。また、通俊説も心にくし」とは、どのような意味か。最も適当なものを次のイ~ホの 中から一つ選べ。 イ 世俗の鳴き声説にも然るべき典拠がある。また通俊の説にも同じように由緒がある。 ロ 世俗の鳴き声説は陳腐で従う価値はない。いっぽう通俊の説は理解するのが難しい。 ハ 世俗の鳴き声説も古くからよく知られている。通俊の説にもまた奥深いものがある。 ニ 世俗の鳴き声説は旧来の定説である。それに対し通俊の説もよく吟味され魅力的だ。 ホ 世俗の鳴き声説はいかにも大げさである。その分通俊の説のほうがやや納得できる。 問五 傍線部6「あながちに「つづり」を思ふべきにあらず」の意味として最も適当なものを次のイ~ホの中から一つ選べ。 イ 無理に継ぎはぎの衣を縫い合せようとするのも乱暴だ。 ロ どうしても継ぎはぎの衣を連想する必然性などは無い。 ハ 敢えて継ぎはぎの衣をすばらしいと思うのも変である。 ニ しいて継ぎはぎの衣を持ち出さずとも事足りるはずだ。 ホ 絶対に継ぎはぎの衣が必要だと考えるのは強引過ぎる。
問六 次のイ~ホは、本文中に引用された家持集の和歌に用いられる付属語についての文法的説明だが、この歌の中に見出さ れないものが一つある。それを選べ。 イ 打消の助動詞の終止形 ロ 係助詞 ハ 使役の助動詞の命令形 ニ 接続助詞 ホ 打消の助動詞の連体形 問七 空欄 A ・ B に入る最も適当なものを、それぞれ次のイ~ホの中から一つずつ選べ。 イ させと名を人にいはるるきりぎりす ロ 節もなききりぎりすの鳴く音なるべし ハ 人ならぬきりぎりすも袴破れたるごとく ニ かかはも無ければきりぎりすも刺すべからず ホ きりぎりすのつづりさせと鳴くといふ詞をいふ A= B=
問八 傍線部7「そのいはれ無きか」と筆者が述べる理由として最も適当なものを次のイ~ホの中から一つ選べ。 イ 虫と鳥とを安易に比較することなど、まったく荒唐無稽な試みであるから。 ロ 鳥の鳴き声も虫の鳴く音も、ともに優れた節は無いという典拠があるから。 ハ 鶯や鶴など鳴き声の美しい鳥に対して、叢の中の虫には見所などないから。 ニ きりぎりすが虫の中でも格別美しく鳴くなどとは、誰も思っていないから。 ホ 音楽や詩歌の題材になったのは、あくまでも鶯や鶴など鳥に限られるから。 問九 本文の内容と合致するものを次のイ~ホの中から一つ選べ。 イ 棟梁歌の解釈については、世俗の説、古髄脳の説、通俊の説の三つが鋭く対立している。 ロ きりぎりすを擬人化した棟梁歌の表現技法は、後世にさまざまな誤解を生む原因となった。 ハ 古今集の歌について諸説を検討した結果、顕昭は新たに独自の説を打ち立てることができた。 ニ 顕昭は、古髄脳が記すきりぎりすの異名は、実は棟梁歌から生じたのではないかと疑っている。 ホ 白居易の詩や古今集の真名序といった漢文の文献こそが究極の権威をもつと、顕昭は考えてきた。
第四講 〔模範解答〕 問 一 ニ 問 二 ロ 問 三 ホ 問 四 ハ 問 五 ロ 問 六 ハ 問 七 A ホ B イ 問 八 ロ 問 九 ニ 〔現代語訳〕 秋風に…= 秋 風 に( 吹 か れ て ) 藤 袴( の 花 が ) ほ こ ろ び た ら し い。 「 継 ぎ は ぎ の 衣〔 = ほ こ ろ ん だ 藤 袴 〕 を 糸 で 綴 っ て で刺せ」と言ってコオロギが鳴いている。 私、顕昭が言うには、 「つづりさせてふきりぎりす〔=コオロギ〕鳴く」とは、世間一般の説に、コオロギは「つづりさせ、 か か は ひ ろ は む 」 と 鳴 く と 言 っ て い る。 「 か か は 」 と は、 衣 服 の 布 が 破 れ て、 ど う し よ う も な い も の を い う の で あ る。 そ う る と こ の 歌 は、 秋 風 が 吹 い て 藤 袴 の 花 が 開 い て し ま っ た と は、 つ ま り 破 れ て し ま っ た と い う 意 味 で あ り、 「 つ づ り 」 は、 お かた破れたものを取り集めて糸で縫うので、その藤袴(の花が)が秋風にきっと破れてしまうだろうか(と喩えているのか) 「継ぎはぎの衣を糸で綴って刺せ、破れた布を拾おう」とコオロギが鳴くよ、と詠んだのである。 「つづり〔=継ぎはぎの衣〕 を( 針 で 縫 っ て ) 刺 す と き に は、 そ の「 か か は〔 = 破 れ た 衣 服 の 布 〕」 が 多 く で き る の で あ る。 ま た 古 い 歌 学 書 に、 コ オ ロ の 名 を「 さ せ 」 と 言 う と い っ て い る。 だ か ら、 「 さ せ 」 と い う コ オ ロ ギ と 言 う の に、 「 つ づ り さ せ 」 と( 「 つ づ り 」 を 付 け 足 て「 つ づ り〔 継 ぎ は ぎ の 衣 〕」 を「 刺 せ 」 と「 さ せ 」 の 同 じ 音 を 使 っ て ) 意 味 を 言 い 加 え た の で あ る。 ( こ ち ら の 説 に 従 う と コ オ ロ ギ が「 つ づ り さ せ 」 と 鳴 く の で は な い と 思 わ れ る。 そ う す る と、 後 拾 遺 和 歌 集 の 序 に、 「 秋 の 虫 の さ せ る 節 な く〔 = の 虫 は た い し た 点 は な い 〕」 と 書 か れ て い る の は、 コ オ ロ ギ を「 さ せ 」 と 言 う の で、 そ れ に 意 味 を 加 え て 続 け た の で あ る と、 通俊〔=後拾遺和歌集の撰者、藤原通俊。仮名序を具備した〕が注をつけた事情がございます。この二つの説、どちらに味方 するべきというのは、決めがたい。世俗の鳴き声説も古くからよく知られている。また、通俊の説にも奥深いものがある。
私が思案するに、 コオロギを「させ」ということは、 もしかしたらこの「つづりさせてふきちぎりす鳴く」という(棟梁の) 歌に従って言うのではないか。ただ、 その理由もなく、 コオロギを「させ」と言うべきではないと考える。また、 この歌も、 「つ づりさせ」とコオロギが鳴くから、このように詠んだのでしょう。 (コオロギを) 「させ」と言うからといって、どうしても継 ぎはぎの衣を連想する必然性などは無い。通俊卿は「コオロギを、 『させ』と言う」と書いた書物に従って、書いたのだろう。 家持集にあるのは、 きりぎりす…= コ オ ロ ギ が「 つ づ り さ せ〔 = 継 ぎ は ぎ の 衣 を 糸 で 綴 っ て 針 を 刺 せ 〕」 と は 鳴 い て い る け れ ど、 い く つ も 衣 を持たない私は聞き入れることはない。 この歌の意味も、前の説〔コオロギが「つづりさせ」と鳴く〕に合っている。今の古今和歌集の歌に「つづりさせといふ」と 詠 ん だ 言 葉 に、 二 つ の 説 の 意 味 は 違 っ て 見 え る の で あ る。 前 の 説 に お い て は、 「 つ づ り さ せ と い ふ 」 と 詠 ん だ の は、 コ オ ロ ギ が「 つ づ り さ せ 」 と 鳴 く と い う 言 葉 を 言 う と 詠 ん で い る の で あ る。 次 の 説 に お い て は、 「 さ せ 」 と い う 異 名 を 人 に 言 わ れ て い るコオロギと言うのである。それを、 「つづりさせ」と意味を言い加えたのである。 ま た、 あ る 説 に い う に は、 「 秋 の 虫 の さ せ る 節 な く 」 と は、 鶯 は 春 鶯 囀 と い っ て 雅 楽 の 曲 名 に 通 じ、 鶴 は 五 絃 弾 と い う 白 居 易作の詩に通じて「第三第四絃冷冷、夜鶴憶子籠中鳴〔=第三第四の絃は寒々とした音を立てて、夜の鶴が我が子を思って籠 の中で鳴く〕 」と言った。そして草むらの中の虫はこのようなこと〔=雅楽や詩に引用されること〕がないので、 「させる節な く〔=たいしてすぐれた点は無く〕 」とは書いたのかと申しますが、古今和歌集の真名序にいうことには、 「春鶯之…〔=春の 鶯 が 花 の 間 に さ え ず り、 秋 の 蝉 が 樹 の 上 で 鳴 く、 変 化 に は 乏 し い も の の、 そ れ ぞ れ 歌 を う た っ て い る 〕」 う ん ぬ ん。 ま さ し く 鶯もすぐれた点はないと言っている。そのような(虫にはすぐれた点がないという説に)理由はないかと思われる〔=鳥の鳴 き 声 も 虫 の 鳴 く 音 も、 と も に 優 れ た 節 は 無 い と い う 典 拠 が あ る か ら 〕。 ま し て や 後 拾 遺 和 歌 集 の 仮 名 序 の 筆 者 の 通 俊 卿 が コ オ ロギと注をつけたので、別の説の入る余地はないのではないか、と思われる。