蝦夷と俘囚
-古代の秋田人
-古代の秋田人
-蝦夷と俘囚
え
み
し
ふ
しゅう
こ
だい
あ
き
た
び
と
会
期
/
平成二十五
年
七月六日
~
平成二十六
年
三月三十一日
会
場
/
秋田県埋
蔵
文化財セ
ン
タ
ー
特別展示室
平成二十五年度企画展パンフレット
秋田県埋蔵文化財センター
ごあいさつ 平成二十五年度企画展 「 蝦 え み 夷 し と 俘 ふ 囚 しゅう -古代の 秋 あ き 田 た 人 び と -」を開催いたします。 東北古代史の主役、蝦夷。 秋 田 で は、 『 日 本 書 紀 』 斉 明 天 皇 四 年 紀( 西 暦 六五八年) の記事に初めて 「 齶 あ ぎ 田 た (秋田) 渟 ぬ 代 し ろ (能 代)二郡蝦夷」が登場します。このとき、 齶田蝦 夷 の「 恩 お 荷 が 」 は、 手 に 弓 矢 を 持 ち、 「 奴 やっこ 等 ら 性 ひととなり 肉 し し を 食 く ら う」と語っています。 展示の前半では、 米作りが伝わった弥生時代か ら、 狩猟民の蝦夷「恩荷」に至る七世紀まで、 「蝦 夷前史」を考古資料でたどります。 七世紀なかば、 定住し始めた秋田の蝦夷は、 奈 良時代末(八世紀後葉)からの約一〇〇年間、 律 令国家と安定した関係を保ち続け、 服属して俘囚 身分となった者も多くなりました。 と こ ろ が、 元 慶 二 年( 西 暦 八 七 八 年 )、 蜂 起 し て 官 軍 に 勝 利 し た 俘 囚 は、 「 秋 あ き 田 た 河 が わ ( 雄 物 川 ) 以 い 北 ほ く を 己 おのれ が 地 ち と 為 な さ ん 」( 『 日 本 三 代 実 録 』 元 慶 二 年六月七日条)と、独立を求めています。 展示の後半は、 厳しい社会環境の中で、 したた かに生き抜く蝦夷 ・ 俘囚の姿を考古資料でご覧い ただきます。 この展示は、 古代城柵官衙や窯業などを最少に とどめ、秋田の蝦夷 ・ 俘囚に焦点を当てて構成し ま し た。 考 古 資 料 な ど を 通 し て、 古 代 の「 秋 あ き 田 た 人 び と 」の姿を具体的にご覧いただきたいと思います。 秋田県埋蔵文化財センター所長 高 橋 忠 彦
西
暦
紀
元
前
三
〇
〇
年
ご
ろ
、
秋
田
に
米
作
り
が
伝
わ
り
ま
す
。
弥
やよ生
い時
じ代
だいの幕開けです。
し
か
し
、
小
坂
町
の
は
り
ま
館
だて遺
跡
の
集
落
跡
を
最
後
に
、
弥
やよ生
い後
こう期
き(
西
暦
一
〇
〇
年
ご
ろ
)
以
降
の
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょ跡
あとは
、
県
内
で
は
ま
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一
棟
も
見
つ
か
っ
て
い
ま
せ
ん。
その後の人たちの生活は、能
代
市
の
寒
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かわⅡ
に遺
跡
、
横
手
市
の
田
た久
く保
ぼ下
した遺
跡
で
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見
さ
れ
た
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
土
ど坑
こう墓
ぼ群
ぐんか
ら
推
測
されます。
四
世
紀
~
六
世
紀
ご
ろ
の
日
本
列
島
は
、
気
候
が
寒
冷
化
し
て
い
た
こ
と
が
知
ら
れ
て
い
ま
す
。
寒
冷
化
で
秋
田
の
米
作
り
は
困
難
に
な
っ
た
の
で
し
ょ
う
。
秋
田
の
人
々
は
、
狩
しゅ猟
りょうや
漁
ぎょ労
ろうを
行
い
な
が
ら
移
動
を
繰
り
返
す
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
遊
ゆう動
どう生
せい活
かつを
選
択
し
た
のです。
五
世
紀
後
半
か
ら
六
世
紀
初
頭
に
は、
岩
手
県
奥
おう州
しゅう市
しの
角
つの塚
づか古
こ墳
ふんや
山
形
県
鶴
つる岡
おか市
しの
菱
りょう津
つ古
こ墳
ふんが
築
ちく造
ぞうさ
れ
て
い
ま
す。
古
こ墳
ふん文
ぶん化
か圏
けんの
人
々
が
北
に
移
動
し、
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
範
囲
に
も
到
来
し
た
のです。
秋
田
で
も、
由
利
本
荘
市
の
宮
みや崎
ざき遺
跡、
横
手
市
の
オ
ホ
ン
清
し水
みずB
遺
跡、
小
こ出
いで遺
跡
で
こ
の
時
期
の
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょ跡
あとが
発
見
さ
れ
て
い
ま
す。
ま
た、
男
鹿
市
の
小
こ谷
や地
ち遺
跡、
潟
上
市
の
北
きた野
の遺
跡、
横
手
市
の
会
あい塚
づか田
た中
なかB
遺
跡、
羽
後
町
の
大
おお久
く保
ぼ郡
こおり山
やま遺
跡
な
ど
で
は、
こ
の
時
期
の
土
は師
じ器
きが
出
土
し
て
います。
し
か
し、
稲
いな作
さく農
のう耕
こうを
基
盤
と
す
る
古
こ墳
ふん文
ぶん化
かの
生
活
ス
タ
イ
ル
は
秋
田
に
は
定
着
せ
ず、
六
世
紀
後
半
以
降
に
は
継
続
し
ま
せ
ん
で
した。
由
利
本
荘
市
の
宮
みや崎
ざき遺
跡
で
は、
五
世
紀
後
半
の
古
こ墳
ふん文
ぶん化
かの
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょ跡
あとか
ら、
同
年
代
の
続
ぞく縄
じょう文
もん土
ど器
きで
あ
る
北
ほく大
だいⅠ
いち式
しき土
器
の
破
片が出土しました。
ま
た、
横
手
市
の
田
た久
く保
ぼ下
した遺
跡
で
は、
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
土
ど坑
こう墓
ぼに
古
こ墳
ふん文
ぶん化
かの
土
器
で
あ
る
須
す恵
え器
きや
土
は師
じ器
きが
副
ふく葬
そうさ
れ
て
い
ま
し
た。
こ
れ
と
ほ
ぼ
同
時
期
の
須
す恵
え器
きは、
宮
みや崎
ざき遺
跡
か
ら
も
出
土
しています。
こ
の
よ
う
な
例
か
ら、
五
世
紀
後
半
か
ら
六
世
紀
前
半
の
秋
田
県
南
部
で
は、
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょに
定
てい住
じゅうす
る
古
こ墳
ふん文
ぶん化
かの
人
々
と、
狩
しゅ猟
りょうや
漁
ぎょ労
ろうを
し
な
が
ら
遊
ゆう動
どう生
せい活
かつを
送
る
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
人
々
が
共
存
し
ている姿が想像されます。
お
互
い
に
、交
こう易
えき(
物
々
交
換
)に
よ
っ
て
、
相
手
の
土
器
を
入
手
し
て
い
た
の
で
は
な
い
で
し
ょ
うか。
謝 辞 今 回 の 企 画 展 を 開 催 す る に 当 た り、 次 の 各 位 よ り 御 協 力 を い た だ き ま し た。 厚 く 御 礼 申 し上げます。 小坂町教育委員会 鹿角市教育委員会 五城目町教育委員会 男鹿市教育委員会 潟上市教育委員会 潟上市立出戸小学校 秋田市教育委員会 由利本荘市教育委員会 横手市教育委員会 羽後町教育委員会 秋田県立博物館 秋田市大森山動物園定住から遊動生活へ
寒川Ⅱ遺跡(能代市) 続縄文文化の土坑墓に副葬されていた土器 秋田県埋蔵文化財センター蔵 オホン清水B遺跡(横手市) 古墳時代の竪穴住居跡から出土した土器 横手市教育委員会蔵 左 :田久保下遺跡(横手市) 中・右:宮崎遺跡(由利本荘市) 6世紀前半の須恵器蓋坏 左 :秋田県埋蔵文化財センター蔵 中・右:由利本荘市教育委員会蔵古墳文化の到来
続縄文文化と古墳文化の接触寒川Ⅱ遺跡(能代市) 続縄文文化の土坑墓
続縄文文化
本 州 に 稲 作 農 耕 が 伝 わ っ て 縄 文 時 代 が 終 わ り、 穀 物 の 貯 蔵 と 再 生 産 が 可 能 な 弥 生 時 代 に 変 わ っ た 後 も、 寒 冷 な 北 海 道 で は 稲 作 農 耕 が 行 わ れ ま せ ん で し た。 北 海 道 で は、 縄 文 時 代 と 同 様 に 自 然 環 境 に 依 存 す る 狩 猟 や 漁 労 を 生 業 と す る 続 縄 文 文 化 の 時 代 と な り、 七世紀まで続きます。 続 縄 文 文 化 の 人 々 は、 一 か 所 に 長 期 定 住 を せ ず、 季 節 に よ っ て 狩 猟 や 漁 労 に 適 し た 自 然 環 境 を 求 め て、 あ ち こ ち に 短 期 間 の 居 住 を し な が ら 広 範 囲 を 移 動 す る生活(遊動生活)を送っていたと推測されます。 続 縄 文 文 化 の 墓 は、 楕 円 形 土 坑 の 一 端 に 袋 状 の 小 穴 を 設 け、 そ の 中 に 土 器 を 副 葬 し て い ま す。 遺 体 を 埋 め る 際 に 鉄 器 を 副 葬 し た り、 黒 曜 石 の 剥 片 を 振 り 撒 い た り し ま す。 土 坑 の 両 端 に 柱 穴 が あ る こ と か ら、 す ぐ に 土 で 埋 め 立 て ず、 覆 い を 掛 け て 一 定 期 間 開 放 していたと推定される墓もあります。 続 縄 文 土 器 は、 北 陸 に も 出 土 例 が あ り、 四 世 紀 の 後 北 C 2 ・ D 式 期 に 本 州 に も 南 下 し て 分 布 し ま す。 秋 田 県 内 で も こ の 時 期 に は 県 北 を 中 心 に 各 地 で 出 土 し ていますが、住居跡は未発見です。古墳文化と秋田
西 日 本 や 東 日 本 の 四 ~ 六 世 紀 は、 前 方 後 円 墳 に 象 徴 さ れ る 古 墳 時 代 で す。 古 墳 は、 単 な る 墳 墓 に と ど まらず、権力の継承儀礼の場でもありました。 古墳には、 埴輪が立て並べられ、 勾玉、 武具、 馬具、 須 恵 器 等 が 副 葬 さ れ ま し た。 土 器 は、 弥 生 土 器 か ら 変 化 し た 土 師 器 と、 五 世 紀 に 朝 鮮 半 島 か ら 製 法 が 伝 来した須恵器が使用されました。 日 本 列 島 最 北 の 前 方 後 円 墳 は、 岩 手 県 奥 州 市 胆 沢 区 に あ る 全 長 四 五 メ ー ト ル の 角 塚 古 墳 で、 五 世 紀 後 半 か ら 六 世 紀 初 頭 の 古 墳 で す。 角 塚 古 墳 か ら 北 方 約 四 キ ロ メ ー ト ル に は、 同 時 期 の 豪 族 居 館 と 推 定 さ れ る 中 半 入 遺 跡 が あ り、 周 辺 に は 四 世 紀 末 か ら 六 世 紀 の集落跡が点在します。 日 本 海 側 で は、 五 世 紀 後 半 の 石 棺 が 出 土 し た 鶴 岡 市 菱 津 の 菱 津 古 墳、 円 墳 が 集 ま る 鶴 岡 市 添 川 の 添 川 古 墳 群 が 最 北 の 古 墳 で す。 鶴 岡 市 一 帯 に は 四 世 紀 代 以 降 の 古 墳 時 代 集 落 跡 も 点 在 し、 五 世 紀 に は 庄 内 平 野までが古墳文化の範囲であったことが分かります。 秋田県に、古墳はないのでしょうか。 由 利 本 荘 市 の 宮 崎 遺 跡 で は、 四 世 紀 後 半 ご ろ の 器 台 が 採 集 さ れ て い ま す。 器 台 は、 そ の 上 に 壺 を の せ、 供 物 を 供 献 す る た め に 使 用 さ れ ま す。 墳 墓 と の 関 係 が 強 い 器 種 で す。 宮 崎 遺 跡 に 近 い 由 利 本 荘 市 西 目 町 井 岡 で は、 古 墳 時 代 の 祭 祀 遺 物 で あ る 子 持 勾 玉 が 発 見されています。 竪 穴 住 居 跡 が 発 掘 さ れ て い る 横 手 盆 地 南 部 や、 古 墳 時 代 の 土 器 が 出 土 す る 遺 跡 が 複 数 あ る 八 郎 潟 南 部 地域は、集落跡が点在することが予想されます。 こ の よ う な 地 域 は、 遺 跡 分 布 の 点 で は 古 墳 が 存 在 す る 可 能 性 が あ ります。ただ、 古墳は、 首 長 制 社 会 が 生 み 出 し た も の で す。 秋 田 県 域 が こ の 時 代 に ど の よ う な 社 会 で あ っ た の か、 多 方 面 か ら 研 究 し、 古 墳 の 存 否 を 考 え て い く 必要があります。蝦夷と俘囚
『 日 本 書 紀 』斉 さい 明 めい 天 皇 四 年 紀 の「 齶 田 の 蝦 夷 恩 荷 」は 、 古代 の 秋 田 人 を 蝦夷 と 表現 し た 初出例 で す 。 こ の と き 以 降 、古 代 律 令 国 家 の 記 録 に は 、古 代 の 秋 田 人 が 蝦 夷 、蝦 狄 、狄 な ど と 表 記 さ れ る こ と に な り ま す 。 さ ら に 、後 に は 、国 家 に 服 属 し た 蝦 夷 に 対 し 、公 民 ・ 奴 婢 ・ 蝦 夷 の い ず れ と も 異 な る 俘 囚 と い う 身 分 が 創 出 さ れ ま す 。ま た 、蝦 夷 と 俘 囚 を 表 す 夷 俘 と い う 新 語 が 現 れ 、そ し て 次 第 に 夷 俘 と 俘 囚 の 区 別 が あ い ま い に な っ て い き ま す 。 蝦 夷 と い う 言 葉 は 、律 令 国 家 に 服 属 し た 蝦 夷 身 分 の 人 々 以 外 に 、津 軽 蝦 夷 、渡 嶋 蝦 夷 の よ う に 、そ も そ も 律 令 国 家 に 服 属 し て い な い 北 方 の 住 人 の 一 部 を 指 す 言 葉 と し て も 使 わ れ ま し た 。さ ら に 、律 令 国 家 へ の 服 属 に か か わ ら ず 、東 北 か ら 北 海 道 南 部 の 元 か ら の 現 地 住 民 全 体 を 指 す 場合 も あ り ま す 。 ま た 、出羽国 な ど 日本海側 の 住人 を 狄 、陸奥国 な ど 太 平洋側 の 住人 を 蝦夷 、夷 と 区別 し て 表現 し て い ま し た 。 こ の よ う に 、古 代 の 蝦 夷 と い う 語 に は 、様々 な 意 味 が あ り ま す 。 時 代 が 下 る と、 中 世 に は 蝦 夷( え み し 、え び す )か ら 蝦 夷( え ぞ )に な り 、近 世 に は 蝦 夷( え ぞ )が ア イ ヌ 民 族 を 指 す 言葉 と な っ て い き ま す 。 宮崎遺跡(由利本荘市) 器台 由利本荘市教育委員会蔵斉
さい明
めい天
皇
四
年(
西
暦
六
五
八
年
)、
越
こしの国
くにの守
かみ阿
あ倍
べの比
ひ羅
ら夫
ふが
船
団
を
率
い
て
齶
あぎ田
たの(
秋
田
)浦
うらに
来
航
し
、齶
あぎ田
たと
渟
ぬ代
しろ(能代)
の
蝦
えみ夷
しを
朝廷
に
服属
さ
せ
ま
し
た
。
こ
の
と
き
、齶
あぎ田
たの蝦
えみ夷
しの「
恩
お荷
が」は
、手
に
持
つ
弓
矢
に
つ
い
て
、「
私
た
ち
は
狩
しゅ猟
りょうで
食
料
を
得
て
い
る
。」
と
言
っ
て
い
ま
す
。狩
しゅ猟
りょうや
漁
ぎょ労
ろうを
し
な
が
ら
遊
ゆう動
どう生
せい活
かつを
送
る
続
ぞく縄
じょう文
もん文
ぶん化
かの
人
々
で
あ
る
こ
と
が
分
か
り
ま
す
。
『
日
本
書
紀
』に
よ
る
と
、阿
あ倍
べの比
ひ羅
ら夫
ふは
船
団
を
率
い
て
三
回
な
い
し
四
回
の
北
征
を
行
い
、齶
あぎ田
た、渟
ぬ代
しろ、津
つ軽
がる、渡
わたり嶋
しま、後
し方
り羊
べ蹄
しな
ど
に
到
達
し
、現
地
の
蝦
えみ夷
しを
服
属
さ
せ
て
い
ま
す
。そ
の
際
、服
属
し
た
蝦
えみ夷
しを
集
め
、
大
い
に
飲
食
を
振
る
舞
う「
大
おお饗
あえ」を
行
い
、位
い階
かいや
官
かん職
しょくを
授
さずけ
、禄
ろく物
ぶつを
与
え
て
い
ま
す
。
齶田の蝦夷「恩荷」
七
世
紀
の
中
ご
ろ、
県
内
各
地
で
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょを
作
っ
て
定
てい住
じゅうす
る
人
々
が現れます。
鹿
角
市
の
鹿
かづ角
の沢
ざわⅡ
に遺
跡・
物
もの見
み坂
ざかⅢ
さん遺
跡
の
竪
たて穴
あな住
じゅう居
きょ跡
あとに
は
カ
マ
ド
が
あ
り、
土
は師
じ器
きの
ほ
か、
土
製
の
紡
ぼう錘
すい車
しゃも出土しました。
秋
田
平
野
北
部
の
五
城
目
町
開
かい防
ぼう遺
跡、
本
荘
平
野
の
由
利
本
荘
市
宮
みや崎
ざき遺
跡、
横
手
盆
地
南
部
の
横
手
市
下
しも藤
ふじ根
ね遺
跡、
釘
くぎ貫
ぬき遺
跡
な
ど
で
も
集落跡が発見されています。
七
世
紀
代
に
県
内
各
地
で
一
いっ斉
せいに
定
てい住
じゅう生
せい活
かつが
始
ま
る
要
よう因
いんと
し
て、
日
本
列
島
の
気
候
が
温
おん暖
だんに
な
っ
た
こ
と
が
考
え
ら
れ
ま
す。
秋
田
で
も
稲
いな作
さく農
のう耕
こうに
適
てきし
た
気
候
に
な
り、
植
しょく生
せいや
動
どう物
ぶつ相
そうも
変
化
し
て、
人
々
の
生
せい業
ぎょうを
大
き
く
変
化
さ
せ
る
こ
と
になったのでしょう。
天
てん平
ぴょう九
年(
西
暦
七
三
七
年
)、
鎮
ちん守
じゅ将
しょう軍
ぐん大
おお野
の東
あずま人
んどが
率
ひきい
る
六
千
人
の
大
軍
が
雄
勝
村
に
進
軍
し
よ
う
と
し
ま
し
た。
そ
の
と
き、
雄
勝
村
の三人の
俘
ふ長
ちょう(
俘
ふ囚
しゅうの
首
しゅ領
りょう)
が、
出
で羽
わの守
かみ田
た辺
なべの難
なに波
わに
対
し
て
中
止
を
訴え、進軍を
阻
そ止
ししています。
天
てん平
ぴょう宝
ほう字
じ三
年(
西
暦
七
五
九
年
)、
雄
勝
村
に
雄
勝
城
が
造
営
さ
れ
ま
し
た。
雄
勝
城
に
は、
関
東
や
北
陸
か
ら
二
千
五
百
人
以
上
の
移
民
(
柵
さっ戸
こ)が送り込まれています。
横
手
盆
地
南
部
の
釘
くぎ貫
ぬき遺
跡
や
八
はっ卦
け遺
跡
は、
こ
の
こ
ろ
の
集
落
跡
で
す。
住
人
の
蝦
えみ夷
し・
俘
ふ囚
しゅうは、
大
おお野
の東
あずま人
んどの
進
軍
計
画、
雄
勝
城
造
営、
柵
さっ戸
この
大
量
移
配
な
ど、
雄
勝
村
の
激
動
の
時
代
を
リ
ア
ル
タ
イ
ム
で
体
験
し
た
こ
と
で
し
ょ
う。
雄
勝
城
造
営
に
徴
ちょう発
はつさ
れ
て
働
き、
禄
ろく物
ぶつを
支
給
さ
れ
た
者
も
い
た
か
も
知
れ
ま
せん。
定住する蝦夷
雄勝村の蝦夷
鹿角沢Ⅱ遺跡(鹿角市) 7世紀の竪穴住居跡から出土した遺物 【高坏、坏、甕、小甕、紡錘車】 鹿角市教育委員会蔵カマドと紡錘車
カ マ ド が 設 置 さ れ た 竪 穴 住 居 は、 県 内 で は 七 世 紀 代 以 降 に 一 般 化 し ま す。 カ マ ド の 天 井 部 に は 甕 を 差 し 込 む 穴 が あ り、 こ の 甕 で 煮 炊 き を し ま す。 カ マ ド は 食 物 を 煮 た り 蒸 し た り す る 調 理 に 適 し て い ま す。食材を直接焼く調理には炉 (囲炉裏) のほうが適しています。 横 手 市 の 釘 貫 遺 跡 や 宮 東 遺 跡 で は 、 食 器 の 坏 、 煮 沸 具 の 甕 、 貯 蔵 器 の 壺 、 供 献 具 の 高 坏 に 加 え 、 蒸 し 器 の 甑 も 出 土 し て い ま す 。 米 な ど 穀 物 を 煮 た り 蒸 し た り し て 食 べ て い た こ と が 分 か り ま す 。 甑 は 、 八 世 紀 後 半 に な る と 見 ら れ な く な り ま す 。 米 の 調 理 方 法 が 「 蒸 す 」 か ら 「 煮 る ( 炊く )」 に変わるのでしょう。 麻 糸 を 紡 ぐ 道 具 で あ る 土 製 の 紡 錘 車 も 多 く の 遺 跡 か ら 出 土 し て い ま す。 麻 糸 を 紡 ぎ、 さ ら に 織 機 で 麻 布 を 織 り、 衣 服 を 縫 っ た り 交 易 に 用 い た り し た の で し ょ う。 紡 錘 車 の 存 在 は、 麻 の 栽 培( 麻 畑 ) の存在も示しています。 こ の よ う な、 カ マ ド、 甑、 紡 錘 車 な ど が 出 土 す る 七 世 紀 代 以 降 の 集 落 跡 で は、 稲 作 や 麻 畑 な ど の 農 耕 を 前 提 と し た 定 住 生 活 を 行 っ て い た こ と が 分 か り ま す。 狩 猟 や 漁 労 を し て 遊 動 生 活 を す る 蝦 夷 の 中 か ら、 農 耕 を 生 業 と し て 竪 穴 住 居 に 定 住 する人々も登場し始めたのです。 下藤根遺跡(横手市) 7世紀の竪穴住居跡から出土した遺物 【高坏、坏、甕、小甕、蓋、甑、壺、紡錘車】 秋田県立博物館蔵 古代の雄勝村遠景 (横手市雄物川町付近) 大野東人の陸奥出羽直路開削計画 天 平 九 年( 西 暦 七 三 七 年 ) 二 月 二 五 日、 陸 奥 出 羽 按 察 使 鎮 守 将 軍 大 野 東 人 は、 陸 奥 国 府 多 賀 城 を 出 発 し、 約 六 千 人 の 大 軍 を 率 い て、 四 年 前 に 秋 田 高 清 水 岡 に 移 転 し た ば か り の 出 羽 柵 に 至 る 直 路 を 開 こ う と し ま し た。 出 羽 柵 は、 後 に 秋 田 城 と 改 称 さ れ ま す が、 こ の 時 点ではまだ出羽柵のままです。 大 野 東 人 の 計 画 し た 行 軍 ル ー ト は、 現 在 の 山 形 県 最 上 地 方 か ら 山 地 を 越 え て 横 手 盆 地 南 部 に 入 り、 雄 物 川 に 沿 っ て 秋 田 の 出 羽 柵 に 到 達 す る、 と い う も の で し た。 実 は、 こ の 行 軍 の 真 の 目 的 は、 途 中 の 雄 勝 村( 横 手 盆 地 南 部 ) を 制 圧 し、 城 を 設 置 し て 移 民 を 送 り 込 む ことにありました。 大 軍 の 移 動 な ど が で き る よ う な 大 規 模 な 規 格 の 道 路 を 作 る た め に、 岩 を 砕 き、 森 を 伐 り 開 き、 峯 を 切 り 通 し、 谷 を 埋 め る な ど の 土 木 工 事 を し な が ら 進 軍 し、 三 月 一 日、 大 室 駅 で 六 百 四 十 人 の 兵 を 率 い た 出 羽 守 田 辺 難 波 と 合 流 し ました。 四 月 四 日、 軍 は 山 形・ 秋 田 県 境 の 比 羅 保 許 山 ま で 進 み ま し た が、 そ こ で、 雄 勝 村 の 俘 長( 俘 囚 の 首 領 ) 三 人 が 田 辺 難 波 の 所 に 来 て、 「 国 家 の 大 軍 が 我 が 雄 勝 村 に 入 ろ う と し て い る と 聞 い た。 ど ん な 事 態 と な る か 想 像 も つ か ず 誠 に 不 安 で あ る。 国 家 に 反 逆 す る つ も り は な い の で、 雄 勝 村 に 入 ら な い で ほ しい。 」と訴えました。 田 辺 難 波 は、 大 野 東 人 に 対 し、 雄 勝 村 進 軍 の デ メ リ ッ ト や 雄 勝 村 に 城 柵 を 設 置 す る た め の 方 策 な ど を 具 体 的 に 説 明 し、 今 回 は 雄 勝 村 進 軍 を 止 め る よ う に 進 言 し ま し た。 つ い に 大 野 東 人 は 雄 勝 村 へ の 進 軍 を 中 止 し、 軍 を 多 賀 城 に 引き上げました。八
世
紀
末
~
九
世
紀
前
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出羽国の開拓
小谷地遺跡(男鹿市) 鐙 秋田県埋蔵文化財センター蔵末期古墳
秋 田 県 内 の 末 期 古 墳 で は、 七 世 紀 の 古 墳 は 発 見 さ れ て い ま せ ん。 ほ と ん ど が 八 世 紀 中 葉 か ら 九 世 紀 後 葉 の 古 墳 で あると推定されています。 五 城 目 町 の 岩 野 山 古 墳 群 一 号 墳 で は、 竪穴式の主体部が残り、 毛抜太刀、 蕨 手 刀、 腰 帯 具、 勾 玉 な ど が 出 土 し ま し た。 八 世 紀 中 葉 の 古 墳 と 推 定 さ れ て います。 羽 後 町 の 柏 原 古 墳 群 で は、 六 四 基 の 古 墳 を 確 認 し ま し た。 一 基 だ け 長 方 形 土 坑 の 主 体 部 が 残 り、 木 棺 の 痕 跡 が 認 め ら れ ま し た。 副 葬 品 は、 直 刀、 蕨 手 刀、 鉄 鏃、 腰 帯 具、 鉄 斧 な ど で す。 八 世 紀 末 か ら 九 世 紀 後 葉 の 古 墳 群 と 推 定 されています。 横 手 市 雄 物 川 町 の 蝦 夷 塚 古 墳 群 も 発 掘 調 査 に よ り 十 七 基 の 周 濠 が 検 出 さ れ、 勾 玉 等 が 出 土 し ま し た。 墳 丘 や 主 体 部 が す で に 失 わ れ て い る た め か、 鉄 刀 な ど は 出 土 し ま せ ん で し た。 八 世 紀 中 葉 か ら 九 世 紀 代 の 古 墳 群 と 推 定 さ れ ています。 鹿 角 市 の 物 見 坂 Ⅰ 遺 跡 は、 四 基 の 周 濠 を 検 出 し、 蕨 手 刀 二 振、 腰 帯 具 の 銅 製 巡 方 等 が 出 土 し ま し た。 九 世 紀 中 葉 の 古 墳 で す。 近 く に は、 枯 草 坂 古 墳、 直 刀 が 出 土 し た 泉 森 が あ り、 こ の 一 帯 が古墳群であったと推定されます。 隣 接 す る 鹿 角 沢 Ⅱ 遺 跡 で は、 同 時 期 の 竪 穴 住 居 跡 が 発 見 さ れ、 集 落 に 近 接 し た 場 所 に 古 墳 が 築 か れ る 場 合 が あ る ことが分かりました。末
まっ期
き古
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ふんは
、
七
世
紀
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北
東
北
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築
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内
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中
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紀
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地
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築
ちく造
ぞうされています。
多
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径
五
~
十
メ
ー
ト
ル
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裾
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ぐ
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体
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埋
葬
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れ
た
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ふん丘
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あ
り
、
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ふん丘
きゅうが
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合
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か
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。
主
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たい部
ぶや
周
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ごうに
は
、
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鉄
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ぐ、
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ど
が
副
ふく葬
そうされています。
被
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、
国
家
に
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属
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ぎ仗
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ほう袴
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朝
服
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よう帯
たいな
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下
か賜
しさ
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、
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ふ囚
しゅう・
蝦
えみ夷
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有
力
者
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推
測
さ
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ま
す
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文
献
史
料
に
は
、「
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ふ長
ちょう」、「
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ふ魁
かい」、「
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登
場
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ま
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。
末
まっ期
き古
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、
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う
な
俘
ふ囚
しゅうの
首
しゅ長
ちょうの墓と考えられます。
俘囚の墓
岩野山古墳群(五城目町) 1号墳から出土した勾玉(上) 腰帯具の石銙丸鞆(下) 五城目町文化の館蔵 蝦夷塚古墳群(横手市) 7号墳から出土したと推定され る勾玉、水晶切子玉、ガラス玉 雄物川郷土資料館蔵 蝦夷塚古墳群(横手市)3号墳大平遺跡(秋田市) 水瓶 秋田県埋蔵文化財センター蔵 天長7年(830年) 1月3日 秋田で大地震。秋田城の屋舎のほとんどが倒壊。 4月26日 疫病流行。 天長9年(832年) 7月27日 人々は苦しみ疲れており、食料を支給。 承和8年(841年) 2月13日 飢饉により税を免除。 承和13年(846年) 5月29日 飢饉により食料支給。 嘉祥3年(850年) 10月16日 出羽国大地震。国府倒壊。城柵傾き崩れる。 斉衡2年(855年) 10月19日 困窮した民1万9千人の税を免除。 貞観元年(859年) 4月7日 霜、雹被害を受けた者に食料を支給。 貞観11年(869年) 5月26日 陸奥国で大地震〈貞観地震〉。出羽国にも被害あり? 貞観13年(871年) 4月8日 鳥海山が噴火。 貞観17年(875年) 11月16日 渡嶋蝦夷が秋田郡、飽海郡を襲撃。 元慶元年(877年) 出羽国凶作。飢饉。調庸の徴収もできず。 元慶2年(878年) 3月15日 元慶の乱勃発。秋田城、秋田郡衙、秋田城下の民家焼損。