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1 ごあいさつ平成二十五年度企画展 蝦えみ夷しと俘ふ囚しゅう-古代の秋あき田た人びと- を開催いたします 東北古代史の主役 蝦夷 秋田では 日本書紀 斉明天皇四年紀(西暦六五八年)の記事に初めて 齶あぎ田た(秋田)渟ぬ代しろ(能代)二郡蝦夷 が登場します このとき 齶田蝦夷の 恩お荷が は 手に弓矢

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(1)

蝦夷と俘囚

-古代の秋田人

-古代の秋田人

-蝦夷と俘囚

  しゅう

だい

平成二十五

七月六日

平成二十六

三月三十一日

秋田県埋

文化財セ

特別展示室

平成二十五年度企画展パンフレット

秋田県埋蔵文化財センター

(2)

    ごあいさつ   平成二十五年度企画展 「 蝦 え み 夷 し と 俘 ふ 囚 しゅう -古代の 秋 あ き 田 た 人 び と -」を開催いたします。   東北古代史の主役、蝦夷。   秋 田 で は、 『 日 本 書 紀 』 斉 明 天 皇 四 年 紀( 西 暦 六五八年) の記事に初めて 「 齶 あ ぎ 田 た (秋田) 渟 ぬ 代 し ろ (能 代)二郡蝦夷」が登場します。このとき、 齶田蝦 夷 の「 恩 お 荷 が 」 は、 手 に 弓 矢 を 持 ち、 「 奴 やっこ 等 ら 性 ひととなり 肉 し し を 食 く ら う」と語っています。   展示の前半では、 米作りが伝わった弥生時代か ら、 狩猟民の蝦夷「恩荷」に至る七世紀まで、 「蝦 夷前史」を考古資料でたどります。   七世紀なかば、 定住し始めた秋田の蝦夷は、 奈 良時代末(八世紀後葉)からの約一〇〇年間、 律 令国家と安定した関係を保ち続け、 服属して俘囚 身分となった者も多くなりました。   と こ ろ が、 元 慶 二 年( 西 暦 八 七 八 年 )、 蜂 起 し て 官 軍 に 勝 利 し た 俘 囚 は、 「 秋 あ き 田 た 河 が わ ( 雄 物 川 ) 以 い 北 ほ く を 己 おのれ が 地 と 為 な さ ん 」( 『 日 本 三 代 実 録 』 元 慶 二 年六月七日条)と、独立を求めています。   展示の後半は、 厳しい社会環境の中で、 したた かに生き抜く蝦夷 ・ 俘囚の姿を考古資料でご覧い ただきます。   この展示は、 古代城柵官衙や窯業などを最少に とどめ、秋田の蝦夷 ・ 俘囚に焦点を当てて構成し ま し た。 考 古 資 料 な ど を 通 し て、 古 代 の「 秋 あ き 田 た 人 び と 」の姿を具体的にご覧いただきたいと思います。   秋田県埋蔵文化財センター所長    高   橋   忠   彦

 

西

やよ

だい

の幕開けです。

 

だて

やよ

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西

たて

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その後の人たちの生活は、能

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ぶん

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ざき

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しき

片が出土しました。

 

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もん

ぶん

ている姿が想像されます。

 

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うか。

      今 回 の 企 画 展 を 開 催 す る に 当 た り、 次 の 各 位 よ り 御 協 力 を い た だ き ま し た。 厚 く 御 礼 申 し上げます。 小坂町教育委員会    鹿角市教育委員会 五城目町教育委員会   男鹿市教育委員会 潟上市教育委員会    潟上市立出戸小学校 秋田市教育委員会    由利本荘市教育委員会 横手市教育委員会    羽後町教育委員会 秋田県立博物館     秋田市大森山動物園

定住から遊動生活へ

寒川Ⅱ遺跡(能代市) 続縄文文化の土坑墓に副葬されていた土器 秋田県埋蔵文化財センター蔵 オホン清水B遺跡(横手市) 古墳時代の竪穴住居跡から出土した土器 横手市教育委員会蔵 左 :田久保下遺跡(横手市) 中・右:宮崎遺跡(由利本荘市) 6世紀前半の須恵器蓋坏 左 :秋田県埋蔵文化財センター蔵 中・右:由利本荘市教育委員会蔵

古墳文化の到来

続縄文文化と古墳文化の接触

(3)

寒川Ⅱ遺跡(能代市) 続縄文文化の土坑墓

 

続縄文文化

  本 州 に 稲 作 農 耕 が 伝 わ っ て 縄 文 時 代 が 終 わ り、 穀 物 の 貯 蔵 と 再 生 産 が 可 能 な 弥 生 時 代 に 変 わ っ た 後 も、 寒 冷 な 北 海 道 で は 稲 作 農 耕 が 行 わ れ ま せ ん で し た。 北 海 道 で は、 縄 文 時 代 と 同 様 に 自 然 環 境 に 依 存 す る 狩 猟 や 漁 労 を 生 業 と す る 続 縄 文 文 化 の 時 代 と な り、 七世紀まで続きます。   続 縄 文 文 化 の 人 々 は、 一 か 所 に 長 期 定 住 を せ ず、 季 節 に よ っ て 狩 猟 や 漁 労 に 適 し た 自 然 環 境 を 求 め て、 あ ち こ ち に 短 期 間 の 居 住 を し な が ら 広 範 囲 を 移 動 す る生活(遊動生活)を送っていたと推測されます。   続 縄 文 文 化 の 墓 は、 楕 円 形 土 坑 の 一 端 に 袋 状 の 小 穴 を 設 け、 そ の 中 に 土 器 を 副 葬 し て い ま す。 遺 体 を 埋 め る 際 に 鉄 器 を 副 葬 し た り、 黒 曜 石 の 剥 片 を 振 り 撒 い た り し ま す。 土 坑 の 両 端 に 柱 穴 が あ る こ と か ら、 す ぐ に 土 で 埋 め 立 て ず、 覆 い を 掛 け て 一 定 期 間 開 放 していたと推定される墓もあります。   続 縄 文 土 器 は、 北 陸 に も 出 土 例 が あ り、 四 世 紀 の 後 北 C 2 ・ D 式 期 に 本 州 に も 南 下 し て 分 布 し ま す。 秋 田 県 内 で も こ の 時 期 に は 県 北 を 中 心 に 各 地 で 出 土 し ていますが、住居跡は未発見です。

 

古墳文化と秋田

  西 日 本 や 東 日 本 の 四 ~ 六 世 紀 は、 前 方 後 円 墳 に 象 徴 さ れ る 古 墳 時 代 で す。 古 墳 は、 単 な る 墳 墓 に と ど まらず、権力の継承儀礼の場でもありました。   古墳には、 埴輪が立て並べられ、 勾玉、 武具、 馬具、 須 恵 器 等 が 副 葬 さ れ ま し た。 土 器 は、 弥 生 土 器 か ら 変 化 し た 土 師 器 と、 五 世 紀 に 朝 鮮 半 島 か ら 製 法 が 伝 来した須恵器が使用されました。   日 本 列 島 最 北 の 前 方 後 円 墳 は、 岩 手 県 奥 州 市 胆 沢 区 に あ る 全 長 四 五 メ ー ト ル の 角 塚 古 墳 で、 五 世 紀 後 半 か ら 六 世 紀 初 頭 の 古 墳 で す。 角 塚 古 墳 か ら 北 方 約 四 キ ロ メ ー ト ル に は、 同 時 期 の 豪 族 居 館 と 推 定 さ れ る 中 半 入 遺 跡 が あ り、 周 辺 に は 四 世 紀 末 か ら 六 世 紀 の集落跡が点在します。   日 本 海 側 で は、 五 世 紀 後 半 の 石 棺 が 出 土 し た 鶴 岡 市 菱 津 の 菱 津 古 墳、 円 墳 が 集 ま る 鶴 岡 市 添 川 の 添 川 古 墳 群 が 最 北 の 古 墳 で す。 鶴 岡 市 一 帯 に は 四 世 紀 代 以 降 の 古 墳 時 代 集 落 跡 も 点 在 し、 五 世 紀 に は 庄 内 平 野までが古墳文化の範囲であったことが分かります。   秋田県に、古墳はないのでしょうか。   由 利 本 荘 市 の 宮 崎 遺 跡 で は、 四 世 紀 後 半 ご ろ の 器 台 が 採 集 さ れ て い ま す。 器 台 は、 そ の 上 に 壺 を の せ、 供 物 を 供 献 す る た め に 使 用 さ れ ま す。 墳 墓 と の 関 係 が 強 い 器 種 で す。 宮 崎 遺 跡 に 近 い 由 利 本 荘 市 西 目 町 井 岡 で は、 古 墳 時 代 の 祭 祀 遺 物 で あ る 子 持 勾 玉 が 発 見されています。   竪 穴 住 居 跡 が 発 掘 さ れ て い る 横 手 盆 地 南 部 や、 古 墳 時 代 の 土 器 が 出 土 す る 遺 跡 が 複 数 あ る 八 郎 潟 南 部 地域は、集落跡が点在することが予想されます。   こ の よ う な 地 域 は、 遺 跡 分 布 の 点 で は 古 墳 が 存 在 す る 可 能 性 が あ ります。ただ、 古墳は、 首 長 制 社 会 が 生 み 出 し た も の で す。 秋 田 県 域 が こ の 時 代 に ど の よ う な 社 会 で あ っ た の か、 多 方 面 か ら 研 究 し、 古 墳 の 存 否 を 考 え て い く 必要があります。

蝦夷と俘囚

  『 日 本 書 紀 』斉 さい 明 めい 天 皇 四 年 紀 の「 齶 田 の 蝦 夷 恩 荷 」は 、 古代 の 秋 田 人 を 蝦夷 と 表現 し た 初出例 で す 。   こ の と き 以 降 、古 代 律 令 国 家 の 記 録 に は 、古 代 の 秋 田 人 が 、蝦 、狄 な ど と 表 記 さ れ る こ と に な り ま す 。 さ ら に 、後 に は 、国 家 に 服 属 し た 蝦 夷 に 対 し 、公 民 ・ 奴 婢 ・ 蝦 夷 の い ず れ と も 異 な る と い う 身 分 が 創 出 さ れ ま す 。ま た 、蝦 夷 と 俘 囚 を 表 す と い う 新 語 が 現 れ 、そ し て 次 第 に 夷 俘 と 俘 囚 の 区 別 が あ い ま い に な っ て い き ま す 。   蝦 夷 と い う 言 葉 は 、律 令 国 家 に 服 属 し た 蝦 夷 身 分 の 人 々 以 外 に 、津 、渡 の よ う に 、そ も そ も 律 令 国 家 に 服 属 し て い な い 北 方 の 住 人 の 一 部 を 指 す 言 葉 と し て も 使 わ れ ま し た 。さ ら に 、律 令 国 家 へ の 服 属 に か か わ ら ず 、東 北 か ら 北 海 道 南 部 の 元 か ら の 現 地 住 民 全 体 を 指 す 場合 も あ り ま す 。   ま た 、出羽国 な ど 日本海側 の 住人 を 、陸奥国 な ど 太 平洋側 の 住人 を 蝦夷 、夷 と 区別 し て 表現 し て い ま し た 。   こ の よ う に 、古 代 の 蝦 夷 と い う 語 に は 、様々 な 意 味 が あ り ま す 。   時 代 が 下 る と、 中 世 に は 夷( 、え )か ら 夷( )に な り 、近 世 に は 蝦 夷( え ぞ )が ア イ ヌ 民 族 を 指 す 言葉 と な っ て い き ま す 。 宮崎遺跡(由利本荘市) 器台 由利本荘市教育委員会蔵

 

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齶田の蝦夷「恩荷」

(4)

 

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定住する蝦夷

雄勝村の蝦夷

鹿角沢Ⅱ遺跡(鹿角市) 7世紀の竪穴住居跡から出土した遺物 【高坏、坏、甕、小甕、紡錘車】 鹿角市教育委員会蔵

カマドと紡錘車

  カ マ ド が 設 置 さ れ た 竪 穴 住 居 は、 県 内 で は 七 世 紀 代 以 降 に 一 般 化 し ま す。 カ マ ド の 天 井 部 に は 甕 を 差 し 込 む 穴 が あ り、 こ の 甕 で 煮 炊 き を し ま す。 カ マ ド は 食 物 を 煮 た り 蒸 し た り す る 調 理 に 適 し て い ま す。食材を直接焼く調理には炉 (囲炉裏) のほうが適しています。   横 手 市 の 釘 貫 遺 跡 や 宮 東 遺 跡 で は 、 食 器 の 坏 、 煮 沸 具 の 甕 、 貯 蔵 器 の 壺 、 供 献 具 の 高 坏 に 加 え 、 蒸 し 器 の 甑 も 出 土 し て い ま す 。 米 な ど 穀 物 を 煮 た り 蒸 し た り し て 食 べ て い た こ と が 分 か り ま す 。 甑 は 、 八 世 紀 後 半 に な る と 見 ら れ な く な り ま す 。 米 の 調 理 方 法 が 「 蒸 す 」 か ら 「 煮 る ( 炊く )」 に変わるのでしょう。   麻 糸 を 紡 ぐ 道 具 で あ る 土 製 の 紡 錘 車 も 多 く の 遺 跡 か ら 出 土 し て い ま す。 麻 糸 を 紡 ぎ、 さ ら に 織 機 で 麻 布 を 織 り、 衣 服 を 縫 っ た り 交 易 に 用 い た り し た の で し ょ う。 紡 錘 車 の 存 在 は、 麻 の 栽 培( 麻 畑 ) の存在も示しています。   こ の よ う な、 カ マ ド、 甑、 紡 錘 車 な ど が 出 土 す る 七 世 紀 代 以 降 の 集 落 跡 で は、 稲 作 や 麻 畑 な ど の 農 耕 を 前 提 と し た 定 住 生 活 を 行 っ て い た こ と が 分 か り ま す。 狩 猟 や 漁 労 を し て 遊 動 生 活 を す る 蝦 夷 の 中 か ら、 農 耕 を 生 業 と し て 竪 穴 住 居 に 定 住 する人々も登場し始めたのです。 下藤根遺跡(横手市) 7世紀の竪穴住居跡から出土した遺物 【高坏、坏、甕、小甕、蓋、甑、壺、紡錘車】 秋田県立博物館蔵 古代の雄勝村遠景 (横手市雄物川町付近) 大野東人の陸奥出羽直路開削計画   天 平 九 年( 西 暦 七 三 七 年 ) 二 月 二 五 日、 陸 奥 出 羽 按 察 使 鎮 守 将 軍 大 野 東 人 は、 陸 奥 国 府 多 賀 城 を 出 発 し、 約 六 千 人 の 大 軍 を 率 い て、 四 年 前 に 秋 田 高 清 水 岡 に 移 転 し た ば か り の 出 羽 柵 に 至 る 直 路 を 開 こ う と し ま し た。 出 羽 柵 は、 後 に 秋 田 城 と 改 称 さ れ ま す が、 こ の 時 点ではまだ出羽柵のままです。   大 野 東 人 の 計 画 し た 行 軍 ル ー ト は、 現 在 の 山 形 県 最 上 地 方 か ら 山 地 を 越 え て 横 手 盆 地 南 部 に 入 り、 雄 物 川 に 沿 っ て 秋 田 の 出 羽 柵 に 到 達 す る、 と い う も の で し た。 実 は、 こ の 行 軍 の 真 の 目 的 は、 途 中 の 雄 勝 村( 横 手 盆 地 南 部 ) を 制 圧 し、 城 を 設 置 し て 移 民 を 送 り 込 む ことにありました。   大 軍 の 移 動 な ど が で き る よ う な 大 規 模 な 規 格 の 道 路 を 作 る た め に、 岩 を 砕 き、 森 を 伐 り 開 き、 峯 を 切 り 通 し、 谷 を 埋 め る な ど の 土 木 工 事 を し な が ら 進 軍 し、 三 月 一 日、 大 室 駅 で 六 百 四 十 人 の 兵 を 率 い た 出 羽 守 田 辺 難 波 と 合 流 し ました。   四 月 四 日、 軍 は 山 形・ 秋 田 県 境 の 比 羅 保 許 山 ま で 進 み ま し た が、 そ こ で、 雄 勝 村 の 俘 長( 俘 囚 の 首 領 ) 三 人 が 田 辺 難 波 の 所 に 来 て、 「 国 家 の 大 軍 が 我 が 雄 勝 村 に 入 ろ う と し て い る と 聞 い た。 ど ん な 事 態 と な る か 想 像 も つ か ず 誠 に 不 安 で あ る。 国 家 に 反 逆 す る つ も り は な い の で、 雄 勝 村 に 入 ら な い で ほ しい。 」と訴えました。   田 辺 難 波 は、 大 野 東 人 に 対 し、 雄 勝 村 進 軍 の デ メ リ ッ ト や 雄 勝 村 に 城 柵 を 設 置 す る た め の 方 策 な ど を 具 体 的 に 説 明 し、 今 回 は 雄 勝 村 進 軍 を 止 め る よ う に 進 言 し ま し た。 つ い に 大 野 東 人 は 雄 勝 村 へ の 進 軍 を 中 止 し、 軍 を 多 賀 城 に 引き上げました。

(5)

 

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も考えられます。

出羽国の開拓

小谷地遺跡(男鹿市) 鐙 秋田県埋蔵文化財センター蔵

末期古墳

  秋 田 県 内 の 末 期 古 墳 で は、 七 世 紀 の 古 墳 は 発 見 さ れ て い ま せ ん。 ほ と ん ど が 八 世 紀 中 葉 か ら 九 世 紀 後 葉 の 古 墳 で あると推定されています。   五 城 目 町 の 岩 野 山 古 墳 群 一 号 墳 で は、 竪穴式の主体部が残り、 毛抜太刀、 蕨 手 刀、 腰 帯 具、 勾 玉 な ど が 出 土 し ま し た。 八 世 紀 中 葉 の 古 墳 と 推 定 さ れ て います。   羽 後 町 の 柏 原 古 墳 群 で は、 六 四 基 の 古 墳 を 確 認 し ま し た。 一 基 だ け 長 方 形 土 坑 の 主 体 部 が 残 り、 木 棺 の 痕 跡 が 認 め ら れ ま し た。 副 葬 品 は、 直 刀、 蕨 手 刀、 鉄 鏃、 腰 帯 具、 鉄 斧 な ど で す。 八 世 紀 末 か ら 九 世 紀 後 葉 の 古 墳 群 と 推 定 されています。   横 手 市 雄 物 川 町 の 蝦 夷 塚 古 墳 群 も 発 掘 調 査 に よ り 十 七 基 の 周 濠 が 検 出 さ れ、 勾 玉 等 が 出 土 し ま し た。 墳 丘 や 主 体 部 が す で に 失 わ れ て い る た め か、 鉄 刀 な ど は 出 土 し ま せ ん で し た。 八 世 紀 中 葉 か ら 九 世 紀 代 の 古 墳 群 と 推 定 さ れ ています。   鹿 角 市 の 物 見 坂 Ⅰ 遺 跡 は、 四 基 の 周 濠 を 検 出 し、 蕨 手 刀 二 振、 腰 帯 具 の 銅 製 巡 方 等 が 出 土 し ま し た。 九 世 紀 中 葉 の 古 墳 で す。 近 く に は、 枯 草 坂 古 墳、 直 刀 が 出 土 し た 泉 森 が あ り、 こ の 一 帯 が古墳群であったと推定されます。   隣 接 す る 鹿 角 沢 Ⅱ 遺 跡 で は、 同 時 期 の 竪 穴 住 居 跡 が 発 見 さ れ、 集 落 に 近 接 し た 場 所 に 古 墳 が 築 か れ る 場 合 が あ る ことが分かりました。

 

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の墓と考えられます。

俘囚の墓

岩野山古墳群(五城目町) 1号墳から出土した勾玉(上) 腰帯具の石銙丸鞆(下) 五城目町文化の館蔵 蝦夷塚古墳群(横手市) 7号墳から出土したと推定され る勾玉、水晶切子玉、ガラス玉 雄物川郷土資料館蔵 蝦夷塚古墳群(横手市)3号墳

(6)

大平遺跡(秋田市) 水瓶 秋田県埋蔵文化財センター蔵 天長7年(830年) 1月3日 秋田で大地震。秋田城の屋舎のほとんどが倒壊。 4月26日 疫病流行。 天長9年(832年) 7月27日 人々は苦しみ疲れており、食料を支給。 承和8年(841年) 2月13日 飢饉により税を免除。 承和13年(846年) 5月29日 飢饉により食料支給。 嘉祥3年(850年) 10月16日 出羽国大地震。国府倒壊。城柵傾き崩れる。 斉衡2年(855年) 10月19日 困窮した民1万9千人の税を免除。 貞観元年(859年) 4月7日 霜、雹被害を受けた者に食料を支給。 貞観11年(869年) 5月26日 陸奥国で大地震〈貞観地震〉。出羽国にも被害あり? 貞観13年(871年) 4月8日 鳥海山が噴火。 貞観17年(875年) 11月16日 渡嶋蝦夷が秋田郡、飽海郡を襲撃。 元慶元年(877年) 出羽国凶作。飢饉。調庸の徴収もできず。 元慶2年(878年) 3月15日 元慶の乱勃発。秋田城、秋田郡衙、秋田城下の民家焼損。

出羽国の9世紀中葉年表

 

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武具、食料、

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おか

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す。

しゅう

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の三村で、

秋田平野東部、

南部に位置します(図・表)

 

てい

は、

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かみ

鹿

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落の可能性があります。

 

ふじ

わらの

やす

のり

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郡、

鹿

郡、

しゅう

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後、

しゅう

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はん

らん

しゅう

い、

がん

ぎょう

は、

はん

らん

がわ

ことが分かります。

せん

きょう

は逆転し、

はん

らん

しゅう

とう

こう

ぎ、

結しました。

 

は、

は「

せい

り、

しゅう

が敵味方に分かれて戦いました。

 

しゅう

は、

ぐん

こう

じょ

しゅう

ふか

えの

たま

つくりの

つき

麿

まろ

おお

さきの

ほう

てん

かい

しゅう

たま

つくりの

麿

まろ

の名前が記録に残っています。

元慶の乱

俘囚村の位置図 上津野 火内 椙淵 野代 河北 方口 腋本 大河 姉刀 方上 焼岡 堤 添河 覇別 助河 叛乱側 律令政府側 池内遺跡(大館市) 9世紀後葉の竪穴住居跡出土遺物 【甕、長頸壺、広口壺、坏】 秋田県埋蔵文化財センター蔵 区分 俘囚村 擬定地 主な9世紀代の遺跡(太字は展示遺跡) 叛   乱   十   二   村 上津野 鹿角盆地 鹿角沢Ⅱ、小平、下乳牛、大湯環状列石 火 内 大館盆地 池内 椙 淵 鷹巣盆地 野 代 能代平野 中田面、大館、小友Ⅲ 河 北 八郎潟北東部 扇田谷地、福田、寒川Ⅱ 腋 本 男鹿市脇本 小谷地 方 口 男鹿市五里合 三十刈Ⅱ 大 河 馬場目川下流域 開防、貝保、中谷地 堤 井川流域 越雄 姉 刀 妹川流域 古開Ⅱ 方 上 豊川流域 後山、西野 焼 岡 馬踏川流域、新城川流域 大平、長岡、山崎、毘沙門、元木山根Ⅱ 政府側 三   村 添 川 旭川流域 手形山南 覇 別 大平川流域 助 川 猿田川流域、岩見川流域 下夕野、下堤C、秋大農場南、松木台Ⅲ 神田和彦「元慶の乱と古代地域社会」『考古学談叢』2007 などを参考に作成

(7)

しゅう

えみ

には、毎年国家から

ろく

ぶつ

れ、

ゆう

しゅう

は、

かい

ろく

ありました(表)

 

ほう

年(

西

降、

しゅう

かい

わの

かみ

と、

かい

ゆう

しゅう

た。

め、

しゅう

ろく

ばく

だい

た。

に、

しゅう

は、

じょう

)、

ほう

)、

よう

たい

が、

まっ

ふん

ふく

そう

ひん

から分かります。

 

しゅう

えみ

に、

よう

調

ちょう

ず、

こう

のう

と、

じょう

さく

しゅう

ぞう

ど、

供(

ました。

えみ

ちょう

こう

りつ

りょう

こっ

きょう

ごう

は、

と、

えみ

りつ

りょう

こっ

との物々交換(交易)です。

 

わの

くに

は、

えみ

た。

さけ

が、

ほっ

たの

さく

あと

出土

もっ

かん

から推測されます。

 

それ以上に、

わたり

しまの

えみ

(北海道の

さつ

もん

文化人)が秋田城や

わの

こく

にも

たらす北方の産品は、

すい

ぜん

まと

でした。主に、

ひぐま

の毛皮、

アザラシの毛皮、

ラッコの毛皮などの毛皮類です。

 

わたり

しまの

えみ

は、

わの

こく

や都の有力者に対

し、交易の対価として、安定し

た食料である米、布、

、鉄器、

綿

わた

などを求めたと推測されます。

俘囚の経済環境

朝貢・饗給と交易

朝貢と饗給

  律 令 国 家 は、 中 華 思 想 を 顕 現 す る 手 段 と し て 蝦 夷 を 位 置 付 け ま し た。 日 本 の 北 に は 狄、 東 に は 夷 と い う 未 開 民 族 が い て、 教 化 し つ つ 支 配 す る こ と に よ り、 日 本 自 体 は 文 明 の 進 ん だ 中 華 で あ る こ と を 示 す、というものです。   し た が っ て、 蝦 夷 と 律 令 国 家 と の 接 触 は 対 等 で は な く、 蝦 夷 が 律 令 国 家 の 文 明 を 慕 っ て 服 属 を 願 い、 律 令 国 家 は 蝦 夷 の 未 開 な 習 俗 を 教 化 し、 次 第 に 文 明 の 民 と し て い く と い う 形 を 取 り ま し た。 蝦 夷 は、 天 皇 に 服 属 す る 証 と し て 貢 ぎ 物 を 差 し 出 し ま す ( 朝 ちょう 貢 こう )。 天 皇 は 朝 貢 す る 蝦 夷 に 対 し て 大 い に 飲 食 を 振 る 舞 い、 文 明 的 な 品 物 を 下 賜 し ま す( 饗 きょう 給 ごう )。 文 明 の 象 徴 で あ る 位 階 や 官 職、 氏 姓 を 授 け る こ ともありました。   こ の よ う な 服 属 儀 礼 は、 毎 年 正 月 に 蝦 夷 を 奈 良 の 都 ま で 連 れ て 行 き、 天 皇 が 出 御 す る 大 極 殿 の 前 で 行 っ て い ま し た。 宝 亀 六 年( 西 暦 七 七 五 年 ) 以 降 は こ れ を 止 め、 ミ ニ 朝 堂 院 の 構 造 を も つ 各 城 柵 の 政 庁 が そ の 主 要 な 舞 台 と な り ま し た。   払 田 柵 跡 で 出 土 し た 調 米 付 札 木 簡 は、 調 米 を 城 柵 に 運 び 入 れ、 城 柵 の 政 庁 で 服 属 儀 礼 を 行 っ て、 俘 囚・ 蝦 夷 に 下 賜 し た こ と を 示 す も のでしょう。 俘囚 蝦夷 賜禄規定 現代の単位に換算した規格 外五位 絹3疋、綿10屯 絹布 幅66㎝×長46m、真綿(絹)12㎏ 第一等 布16端 麻布 幅53㎝×長176m 外六位 第二等 布15端 麻布 幅53㎝×長165m 外七位 第三等 布13端 麻布 幅53㎝×長143m 外八位 第四等 布10端 麻布 幅53㎝×長110m 外初位 第五等 布8端 麻布 幅53㎝×長88m 第六等 布8端 麻布 幅53㎝×長88m 「延喜式 大蔵省 賜客例」より 史跡払田柵跡(大仙市・美郷町) 調米付札木簡(左)と絵馬(上) 秋田県教育庁払田柵跡調査事務所蔵

(8)

平成25年度企画展パンフレット

蝦夷と俘囚

ー古代の秋田人ーあき た えみ し ふ しゅう びと

発行日 平成 25 年7月

編集・発行 秋田県埋蔵文化財センター

所在地 秋田県大仙市払田字牛嶋 20 番地

電 話 0187-69-3331

FAX 0187-69-3330

http://www.pref.akita.jp/gakusyu/maibun_hp/index2.htm

3 1 6 8 7 5 4 9 11 10 12 15 21 32 16 17 18 20 19 22 23 24 34 35 25 26 29 28 27 30 31 38 39 40 36 33 13 14 37

展示品出土遺跡

●定住から遊動生活へ   はりま館遺跡   寒川Ⅱ遺跡   物見坂Ⅲ遺跡 ●古墳文化の到来   井岡   宮崎遺跡   小谷地遺跡   北野遺跡   乱橋遺跡   オホン清水B遺跡   会塚田中B遺跡 ●続縄文文化と古墳文化の接触   田久保下遺跡 ●定住する蝦夷   下藤根遺跡   鹿角沢Ⅱ遺跡   開防遺跡   狙半内 ●雄勝村の蝦夷   釘貫遺跡   大見内遺跡   八掛遺跡   宮東遺跡 ●出羽国の開拓   横山遺跡 ●元慶の乱   物見坂Ⅱ遺跡   池内遺跡   福田遺跡   越雄遺跡   古開Ⅱ遺跡   毘沙門遺跡   後山遺跡   元木山根Ⅱ遺跡   大平遺跡   山崎遺跡   松木台Ⅲ遺跡 ●俘囚の墓−末期古墳−   物見坂Ⅰ遺跡   枯草坂古墳   岩野山古墳群   脇本飯の町遺跡    蝦夷塚古墳群   柏原古墳群 ●湯ノ沢F遺跡の集団墓   湯ノ沢F遺跡 ●朝貢・響給と交易   史跡払田柵跡 ●古代秋田人名鑑   手取清水遺跡 20 21 22 23 24 25 26 27 28 29 30 31 32 33 34 35 36 37 40 39 38 1 2 3 4 5 6 7 8 9 16 17 18 19 12 13 14 15 10 11 2

参照

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