• 検索結果がありません。

「C作戦」20年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "「C作戦」20年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する"

Copied!
47
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

=「C作戦」20 年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する=

日顕書写の本尊は消え失せ、日寛上人書写の本尊が世界に流布。これこそ、日顕の完全敗北の実証である。

平成 22 年 10 月 2 日

青年僧侶改革同盟一同

(2)

=「C作戦」20 年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する=

日顕書写の本尊は消え失せ、日寛上人書写の御 本 尊が世界に流布 。 これこそ、日顕の完全敗北の実証である。 はじ めに -1 一、 「C作戦」は日顕の昔からの考え -2 ●日顕が名付けた「C作戦」 ●末寺住 職の時から、 寺 院中心の体制 を考えていた日顕 ●檀 徒作りをして 、戸田会長に叱責された日顕 ●先師 に 面従 腹背していた日顕 二、登 座 した 時から「檀 家 制 度」の 復 活を目 論 んでいた日顕 -4 ●「祖道の 恢 復」とは「檀家 制 度」の復活 ●現宗門の実態は「 檀 家 制 度」そのも の ●創価学会の法 人 取得に反対していた日顕 ●「 二十 万人が つ け ば よい」の「 二 十 万 」は僧侶が生活 す るため に 必要な信徒 の 数 三、創価学会を 賛 嘆しなが ら、裏で学会 攻撃を謀議して い た日 顕の二面性 -6 ●「 河辺 メモ 」が 明か す二回 の 秘密 会議 ●「御 前 会議」で日顕が「C作戦」と命名 ●〃僧侶の遊 興問題に対処しないと作戦は失敗する〃と河 辺が慎重 論 を唱える ●「C作戦」実行のために徹底された、偽りの「綱紀自粛」 ●「綱紀 自粛」を発表した当日、一人十五万円の高 級 温泉旅館に泊まっ た 日顕夫妻 ●遊 興に溺れることを恥と思わない日顕ファミリー ●早瀬ファミリーも阿部ファミリーと同じ ●「C作戦」を謀議しながら、開創七百年慶讃大法要で学会を賛嘆していた日顕 ●「C作戦」実行直前にも池田名誉会長を賛嘆する原稿を書いていた日顕 ●〃創価学会を切る〃という前 提で話をし 始 めた日顕 ●姑息な手段で池田名誉会長の総講頭の地位を罷免 ●わざわざ年末に総講頭解任を行なったのは、聖教新聞が休刊になるから 四、 はじ めに「処 分 」 あり き。 「お 尋ね」 文 書で破 た ん し た池田名 誉 会 長批判 -12 ●す べて が一方的であっ た 宗門事件の 始 まり ●宗門がテ ー プの〃 改 ざん〃認める ●伝聞による決 め つけも撤回 ●処分を前 提 にして作ら れ た「 お尋ね」文書 ●宗門の策動は「C作戦」に 見 事に符合 五、 「C作戦」 の 動機とな った二つの感 情 ―「逆 恨 み」と「 嫉妬」 -15 ●自 分の考えを否定し、相承しなか っ た先師への「逆恨み」 ●「劣等感 」 から池田 名誉会長を「嫉妬」 ●「コンプレックス 」 から、常に権威を 見 せ つけようと す る日顕 ●池田 名 誉会長が自分よりも上であることが「許されるのか!」と激怒した日顕 六、宗門の根深い僧俗差別 義を肥大化させた日顕 -18 ●教学部長時代か ら池田会 長の功績を否定して い た日顕 ●江 戸時代か ら時 間が止まって いる宗門 ●学 会員は住 職の 家族 やペ ット よりも下 ●出 家し ても、 在 家出 身者は 差 別される ●小僧で も、池田名誉会長より上と教えていた本山 ●信心にも僧俗差別。 「三十分以上の唱 題は弊害がある」と指導した日顕

(3)

=「C作戦」20 年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する=

七、僧俗差別は人 間の可能性を矮 小 化し、僧侶 の 堕落の原因となっ た -20 ●〃信徒をかましてやれ〃と言い、 民衆を「ボンクラ」と 見下 す日顕 ●「 有智は僧侶、無智は在家である」と説法 する日顕 ●「凡夫即極」の教えに背き、衆生の「仏界」を踏みにじる日顕 ●僧侶の堕落の温床となった「僧俗差別」 ●宗門の折 伏 は供養させる信 徒を増やす た め。 だか ら成果 が 出な い ●「創価学会の折伏はワシが許可してやったんだ」と言 っ た日顕 八、仏 法 史 上、類 のな い日 顕の 大 罪 -23 ●創価学会の破門は、世界的規模の暴 挙 ●多額 な 経 済 的損害をもたらし、会社役員を自殺に追い込んだ「月例登山の廃止」 ●本山の観光地化を阻止 す るために 始 ま った「登山会」 ●創価学会破門は、 「 破 和 合」の大罪、堕地獄の因 ●正本堂破壊は、供養した人々の真心を抹 殺 する蛮行 ●日顕のシアトル裁判 出廷時期と符合する正本堂解体の発表 ●自 分の都合で簡単 に 前言 を翻 す、無責任な日顕 ●池田 名 誉会長の「慢心 」 をでっち上げた 正 本堂説法は 訂 正 ●日達法主の時代を象徴 する正本堂が 目障りだ った日顕 ●世界が驚いた正本堂破壊 。「 寺 院破壊」はテロ行為 ●正本堂の解体を モニターで 見 て 、 喜んでいた日顕の異常性 九、 法主の座を 盗 み、宗門 衰 退 の 原 因を作っ た日 顕 -28 ●自 分の野望 を実現 す るために、 名 乗り出 て 法主になった日顕 ●日達 法 主から信用されていないことに腹をたて、法主批判と大御本尊否定 ●いまだに相承の証 拠 を出せない日顕 ●相承疑 惑により不安定な自 分 の立 場を、 「 法主 絶対」という己義 で守ろうとした ●法主に対する合 掌 を 徹底。 権威で 尊敬を 強 要した日顕 ●日達 法 主時代の建物を破 壊 す ることによって、相承疑惑を封じ込めようした日顕 ●歴代会長を賛嘆して いた先 師 に違背 し 、宗門の歴史を否定 ●歴史に残る宗門の 汚 点。 大聖人 、 日 興 上人の精神に違背。 信 徒の供養で遊 興し、 供養された建物を壊 す 宗派など、誰からも信用されない ●未来がない宗門。大坊の荒廃と「法教院」の失敗 十、 < 結論 > 日顕の完 全敗 北 -37 ●日顕の打つ 手はすべて失敗 ●日寛 上 人書写の 御本 尊に対する難癖はす べ て 崩 壊。 ニセ本 尊 でな いことを 一番 、 わか ってい る のは、 日 顕 ●日顕書写の本尊は 消 え、 日寛上人書写の御 本尊が世界 に 流布 ●最 高裁で も 敗北 続きの日顕は必ず 、除歴 さ れるであ ろう ●破門以降、宗門は衰退するばかり ●破門以降、学会は大発展。三百になろうとしている池田名誉会長への名誉 学術称号 ●日顕の怨念から生まれた今の宗門は「日顕宗」 ●実行部隊の中心者であったことを告白していた早瀬日如 ●永遠に創価学会に依存する日顕宗 ●も は や 日蓮 正宗は 存 在し ない ●今、宗門 が やって い ることは、全部、創価学会のサル真似 ●創価学会こそ、世界の民衆を救う「法師 」 の教団

(4)

1

=「C作戦」

20

年目にあたり、日顕の完全敗北を宣言する=

書写

の本尊

消え

失せ

寛上人書写の御

世界

これこそ、

顕の

の実証

ある。

はじめに

平成二年七 月 十八日 、 大石寺で 秘密裏に行なわれ た御前会議で、日顕 自 ら 〃池 田 名 誉会長 追 放 〃 の作戦名 に対して 、 「 C( CUTの略)だよ」と命名した 。 「創価学会分 離 作 戦」 、通称「C作戦」の目的は、在家信徒組織である創価学会を解体し、 寺 院中心の教団、すなわち僧侶 優 位の体 制 を再編成することにあった 。 そ して、日顕は創価学会員 を完全な 支配下に置き、その僧侶中心の教団 の頂点に君臨しようとしたのである。 「C作戦」の内容は以 下 の 通りである。 (福田毅道が 清書した『創価学 会分離 作 戦(C作戦) 』よ り抜粋) < 目 的 > この計画作戦の目的と するところは、池田 名 誉会長を総講頭から解任し、日蓮正宗は創価学 会 と は無縁の宗教団体であることを一般世間 に公表し、 創価学会組織の徹底壊滅を図り、 も って純粋 なる信 仰 に 基 づく金甌無欠の組織の再編成を目的とする。 < 作戦次第 > 第一 段 階 (平成 2年 8(ママ) 月 28日、臨 時 宗会に お い て 議 決 する。 ) 必要なる宗規の改 正。 [ 第 158条、 第 223条、 第 226条、 第 227条、 第 228条等 ] 第二段階 (平成 2年 8月 13日、連絡会議の席上で 通告する。同日、 宗務 院の指 示 に よ り、 全国 末寺 御 講 にお いて 、三 宝の権威の称揚と信徒の三 宝帰依の 義務を 内 容とする 統一法話の実施。 ) 池田 名誉会長の総講頭から の解任なら び に創価学 会最高幹部への通告。 日顕の 〃信徒 を 完全に支配 す る〃 とい う 野 望 を 実現 するた め に、 最大 の 障 害と な る のは、 池 田 名誉会長の存在であった 。 普通に考えれば、多 くの会員から尊敬され、 また、世界の トッ プクラ スの要人や識者から信頼を得ている池田 名誉会長は、 宗門にとって 誇 る べき存在である。 しかし、 宗門最高位の法主として権勢を 誇示したい日顕は、その偉大な人 格 が目障りとなり、 池田名誉会 長を追放するため、 つ いには「C作戦」実行の愚挙に出た 。 そして平成二年十二 月 二十七日、創価学会には何 の連絡もなく、 「 宗規改 正 」を理由に池 田 名 誉会長は 総講頭の地位より実質的に罷免された 。 このような謀略が宗門中枢で画策されていたこと を、 一般 僧侶はま ったく知ら な か っ た 。 故 に 、 末寺住職はかなり困惑し、中には宗門中枢の不当 なやり方に不信を持つ者もいた。 し かし、日顕 と宗門中枢は、このような宗内 僧侶 の意見 を 一 切 封殺 するだけでは なく、学 会から の 再三の「対 話」の求めも 拒否したうえ一方的な処分を次々と発動した 。

(5)

2 平成三 年 七 月 に は 学会 運営の 登 山会を 一 方的に 廃 止し 、 檀 徒作 りを 進めるよ う大号令を か けた。 そして、遂に平成三年十一月 二 十八日、創価学会を「破門」したのである。 日 顕 がこの 仏 法史に残る破 和合 の 逆 罪・ 「C作戦」を画 策 して 、今年で二 十 年目 となる。この 節目にあたり、我々はこの日顕の蛮行を歴史に留 め、そして同時に日顕の完全敗北を宣言 するた め に 、も う一度、ここで「C 作 戦」を検証 す る。

一、

「C作戦」は

日顕の昔

から

の考え

● 日顕 が名 付け た 「 C作戦 」 「C 作戦」 を 協 議 した 様子 を 記 録 し た 河 辺 慈 篤の メモ ( 通 称「 河辺 メモ 」 ) には、 平 成 二 年 七 月十八日に大石寺大書院で行なわれた「御 前 会議 」の内容について、以 下 の ような記述がある。 早瀬部長よりの連絡会議報告の後、池田追放の線で進られ、 河辺 =そ れでは、 こ の 作戦は G作戦だ 。 猊下 =それは違う、Cだ よ 河辺 は 〃 池 田 名誉会長 追 放 の 作 戦 〃 を創価学 会の 「学会」 の頭文字をとって 「G作戦」と呼ぼ うとしたが、日顕自ら「C作戦」と命名したのだ った 。 このことを裏付ける証言がある。 平 成三年三 月五 日、工藤玄英住職と大橋正淳住職が本山の大 奥 で 日顕と会 見 し た。 その際に、大橋住職が 「C作戦」の存在を日顕に質問すると、日顕 は憎々 しげに答えた 。 「じゃ言ってやるか、あれはだな、あの 野郎 の 首 をカ ット すると い う 意 味だ 」 そう言いながら、日顕は指を突き出し、宙に「C、U 、T」と書 い て 見 せた。日顕が言う「あ の野 郎」とは、池田名誉会長のことである。 大橋住職はその宙に書いた字を読みながら、確認した 。 「カッ ト という意味ですか?」 すると日顕は間 髪 いれずに答えた 。 「そうだ、そのカットの頭文 字 を取ってのC作戦だ」 そして 言 い訳をするように付け加えた。 「とっ さ に 思 いつ いてやっ たことじ ゃな い。 五、六 年 も前 か ら 考えに考え抜 いて きたん だ 」 日顕は 「 C 作 戦」 を 〃五、 六 年まえから 考 えていた 〃 と言 っ て い る が 、 こ れ は 〃C 作戦実行 の タイ ミ ン グ 〃 につ いて のことである。 ● 末 寺 住 職 の 時から、 寺 院中心の体制 を考えていた日顕 〃信徒 を 完全に支配 す る〃 と い う 「 C作戦」の原型につ い ては、日 顕は末寺住職の時から、す でに持 論 として心に秘めていた 。 そ れを証明する日顕の発言がある。 平 成四年八月 二 十八日、本 山で行なわれた全国教師 講 習会での発言だ 。

(6)

3 「終戦後、私は 寺 院におい て法 華講を作って広布への御 奉 公を志しました 。 しかし、当時はまさ に創価学会の 興隆期で 、色々な意味でぶつ か っ た のです。 ぶつ かりぶつ かり、ぶつ か っ た 上で 、 『これからの宗門にお いては創価学会を外して考 えるべきではない』 と 言われ、そこで私は、寺 院における僧俗 和 合 と いう、 自 分の広布推進の考えは一時、 見 合わ せ、 創価学会が広宣流布の団 体なんだ、 僧 侶として学会の発展のためにできる 限りの援助をしなければな らないというところ に到達したのであります。 」 ま ず 、 日 顕は 「終戦後、 私 は寺院において 法 華講を作って 広布への 御 奉 公を 志しました」 と述べ ている が 、 こ れは真っ 赤なウソである。 実際には、 日 顕は学会員を 脱会させ て 、 檀 徒 作り をし てい た。 日顕は 昭 和 二 十 二 年 に 東 京・向島 の本 行 寺 住 職 に任命さ れた 。 し か し 、本 行 寺 は 戦 争で焼 失 し ており、日顕は周りの者に 「なんでオ レ がこんな 所に来なければ い けないんだ」 と嘆いて いたと いう。 日顕はこの頃から、 創価学会に偏 見 を 抱いていた。 たとえば、日顕は戸田会長について以 下 の ように述べていたという 。 「明 治時代や 徳川時代に も す ご い信者 が 出て 盛んになっ た ことがあっ た 。 し かし 、 途 中 か ら自己 中 心 的になっ た。 戸田先生もみんなのためにやって い るけど 、 やがて は 、 そ うした人と同じよう に、自 分 のため に やるんじゃ な い で すか」 そして日顕は深川のある会員を脱会させて 法 華講の講頭に据え、 檀 徒 作 りを画策した 。 学会幹部が本行寺に抗議に行くと 「 創価学会員である前に日蓮正宗の信徒であります」 と、檀 徒作 りを正 当 化しよ う とした。 ●檀 徒作 り を して 、 戸 田会 長 に 叱 責 さ れ た 日 顕 やが て、 日顕の 檀 徒 作 りは戸田 会長の知れるとこ ろとなり、 日 顕はある日、 戸田会長から直接、 叱責された。 そのことを日顕は、 『 大日蓮』 昭 和 三十三年五月号に寄せた 「 戸田会長先生の 御 逝去に対して」 と題する 一文の中で、こう述べている。 「私の罪障と云はうか、 ( 戸田)先生の云ういは ゆる 坊主根性の 為 か、昭 和 二十四年頃の私は、 自らの心にある垣根を作り、 そ れ が 円融 闊達にして 師 厳道尊なる先生の精神に半ば通じない事が あっ たのは、今更遺憾慙愧此の上もないのである。 」 日顕は戦後間もない頃から、檀徒作りという破和 合の悪行を積極的に行なっていた 。 その日顕 の卑しい心根を戸田会長は「坊主根性」と厳しく弾呵したのだ 。 ●先 師に 面従 腹 背 して いた日 顕 その日顕の不穏な動きを知 った日達法主はも ちろん、 黙 っ てはいなか っ た 。 日顕に、 「これから の宗 門 に お い て は 創 価 学会 を 外 して考 え る べ きで はな い 」 と言 ったのは、 日 達 法 主 であ る 。 日顕は 「 寺院にお ける僧俗 和 合 という、 自分の広布推進の考え」 を 先 師 から否定され、 そ の 場 ではその指南に従っ た ように 見 せたが、 それは決して 、 自 分の考えを 改 めたのではなく、 「一時 、 見合 わ せ 」 た と 述 べ て い る 。 これでは、 〃自 分は先師 に面従 腹 背し ていた 〃 と告 白 し て い るような ものである。

(7)

4 この日顕の発言の裏を返すと、こうなる。 〃これ か らの宗門にお い て は、創価学会を 外 し て 、寺 院 に お け る 僧 俗和合 を 考える べ きである〃 これが、日顕の 一 念の 奥底にあっ た 、元々の考えである。 日顕は「 寺院における僧俗和 合 」という言葉を使 っているが、この「和 合」 とは、僧侶と信徒 が協力 し 合うという意味ではなく、信徒が僧侶 に 服従 することである。 その基底には僧俗の差別 がある。 その証拠に、 今の宗門の姿がそうである。 儀 式の執行はもとより、 御書講 義 、信心指導は僧侶 にしか許されない 。 信徒はただ、僧侶に従うだけであり、幹部は連絡係でしかない 。 そして、この 〃創価学 会を外して〃 という日顕の考え こそ、 「 創価 学会分 離 作 戦 」 、 通 称 「 C 作 戦」の原型である。 すなわ ち 、 「 C作戦」は二 十年前に突如 、日顕が思いつ い た作戦で はな い。 日顕が元 々抱いて いた、宗門のあるべき姿なのである。 では、なぜ、日顕はこのような考えを持 つようになったのか 。 日顕が 目 指していたも のは何な のか 。 引 き続い て 検証 する。

二、登座

した時か

ら「檀家

制度」の

を目

論んでいた日顕

● 「祖道 の 恢 復 」 と は 「 檀家 制度」の復 活 日顕は登 座した際に、 「祖道の 恢 復 」を唱えた。 「恢 復(回復) 」 とは、辞書によれば、 「① 一 度悪い 状 態になったも のが、 元 の状態になること 。 ② 一度失 っ たも のを取り戻すこと 。」(大辞林) とある。 では、日顕にとって「元の状態」 「 失ったもの」とは何か。それは今の宗門の主張を 見 れば明 らかだ。 「僧 侶の 引導 がな ければ 成 仏しな い 」 「 戒名 がな ければ 成 仏しな い 」等々、僧 侶 抜きで は 信 徒 は 成仏できないというのが今の宗門の 論法である。 これはどこから来ているか。 そ れは 「檀家 制 度」 である。 「檀家 制 度」 は江戸幕府がキリスト教禁 制を 徹底させるために 始 め た制度である。 人 々は所属 する宗派 や 寺 院を 決め、その 所 属 す る寺院が 檀家であること を 証 明 する 「 寺 請証 明書」を発 行 し た。 この証文がなければ、檀家 は就職も旅行もできなかった。 初めは、家 族 各自が寺を変えることを許していたが、のちに家ごとに菩 提 寺 を定めさせ、 離 檀 を禁止した。 そこから、家ごとに仏壇をおく風習が生まれたと言われている。 そ して寺は、そ の 檀家 の家 族全員の名前を記 した「人別 帳 」を管理した。 その結果 、檀家 は 出生から死 亡 、移 転や婚 姻 などす べて寺に 届け出なければな らないことにな った 。 法 要・ 墓地・位牌・過去帳などはも ち ろんのこと、 寺は 檀家 の生活全般 に わた って管理 し ていた の である 。 ●現宗門の実態は「檀家制度」そのもの このように、仏教寺院は戸籍事務等を扱い、幕府 の庶民 支 配の出先機 関 として 重 要な役割を果 たしたことになる。 そして 、 その 見返りに、 法 要の際には僧侶を 招くという慣習が定まり、寺院に 一 定の信徒と収

(8)

5 入が保証される形となった 。 同 時 に 、 僧侶に は 、 檀 徒の死 後 、 死 相を 見届 け、 檀 徒 である こ とを確認して 、 戒 名を 授け、 引 導 を渡す こ と が 義務づ け ら れ た。 檀 徒 は 、 僧侶を 呼 ばな ければ 、 キリシ タ ンの疑いを か けられ 、 極 刑 に処 さ れ る と い う 恐怖 から 、必 ず 葬 儀 に は 僧 侶を 招 い た。 今、宗門 が主張して い る 「 葬儀に僧侶を呼び、 引 導を渡して も らう」 と いう慣習は、この江戸 時代の檀家 制 度の名残でしかない 。 すなわち、日顕が回復しようしたものは、今の宗門の現状から 分かるように、決して 「日蓮 大 聖人の時代の僧俗和 合 の姿」 で はなく、 創価学会 が出現する以前の体 制 、 江 戸時代から続いた 「檀 家 制 度」とそれに付随 する僧侶の権力――信徒の生殺権をも握 る 権力──だ っ たのである。 ●創 価学会 の 法人 取得に反 対して い た日 顕 創価学会 が昭 和二 十七年に 法人を取得しようとした際に真っ 先 に反対したのが日顕だっ た 。 日 顕は平成四年八 月 、本山の教 師 指導会で次のように述べた。 「私 は、 はっ きり申 し 上げて反対の 立場でした。 ですから、あの当時、堀米日淳上人が常泉寺の 住職をしてお られて、私はその前の本行寺の住職でしたから、別の宗教法人を作ることを認める ことについては反対である旨を率直に申し上げた」 日顕の持論 か ら言 えば、信徒が法 人 として宗門と 同格の資 格を持つことなど、絶対にあっては なら ない ことだ っ た の だ 。 このことか ら も、 日 顕 の 言 う 「 祖道の 恢 復 」 とは、 信 徒が無 力 で僧 侶に依存 し 、 常に僧 侶 が 優 位な立 場 にある状態に戻すことであることは明確だ 。 それこそ、檀家 制 度そのものである。 日顕 が「 祖道 の恢 復」と い う建 前で 復活させた 〃現代の 檀家制 度 〃 とも言うべき、今の宗門 の 体 制 で、信徒は何 と教 え ら れ て い る か 。 ── 「葬儀に僧 侶 を呼んで 、 戒 名をつ け てもらい、 引 導 を渡してもら わ な いと成仏で き な い 」 と、成 仏 するかどうかは、生前の信心ではなく、僧侶次第 であると徹底されている。 ● 「 二 十万人がつ け ばよい」の「二十万」は僧侶が生活するために必要な信徒の数 もう一 つ 、日顕が檀家 制度を復活させようとしていたことを裏付ける傍証がある。 平成二年十二 月 二 十五日、日顕は反学会勢力 の面々と懇談し、次のように発言してい る。 「学会員のうち二十万人が本山につけばよい」 この 「二十万人」 という数字はどこから出てきたものなのか? 実は、仏教界の裏話の一 つ と して 、 〃末寺は二百人 か ら 三 百人 の檀家がいれば、生活できる〃 とい うものがあ る 。宗 門の 約 六 百箇寺にそれぞれ三百名前 後のの檀家 と して 計算して 、「 二 十 万人」 と したのだろう。 す なわ ち 、 日顕が 示 した「 二 十万人」とは、 末 寺と本山 を食 わせ るための信徒の数ということだ 。 日顕は創価学会の全会員を教導しようとしていた のではない。 ましてや、 広 宣流布のために何 かをしようとして いたわ け で も な い 。 自 分 た ち僧 侶が食って い ける体 制 を作 ろうとしたのだ。 ま さに、これこそが「檀家 制 度」なのである。

(9)

6

学会

を賛

嘆しな

ら、

学会

攻撃

を謀

議し

た日

顕の

● 「河 辺メ モ」 が明 かす二 回 の 秘 密会 議 河辺の会議メモによれば、平成二年七 月 、日蓮正宗首脳の七人の僧侶によって二回にわたり学 会破 壊のための 秘 密会 議が 開かれ た 。 参加者は、阿部日顕、藤本日潤(当時は総 監 ) 、 早瀬 義寛(現法主の日如、当時は庶務部長) 、 秋元広学 (当時の渉外部長) 、 八木信瑩 (当時の大石寺主任理事) 、 関 快道 (当時の海外部主任) 、 河辺慈篤(当時の日蓮正宗参議)である。 特に河 辺 は宗 内で 「戦略家」 と して有名であっ た ため、〃指南役〃としてこの会議に参加して いた。 ま ず 、 第 一回 会議( 通 称「 西片 会議」 ) は七月 十 六日夕刻、当時、 東京の文 京区西片 にあ った 大石寺東京出張所で秘密裏に行なわれた。 この 「西 片会 議」で 、 日 顕 が 池 田名誉 会 長の 「追放 」 を 叫 び 、 周到に 学 会破 壊の作 戦 が練 られ ていたことがはっきりと記されている。そのこと を河辺は「注」として次のように書いている。 注=以上の方向 で 会議が進めら れていたが、特に 、猊 下は「池田追放」 「 特財 ・財 務中 止」と激 しい口調で強調されていたが、河 辺 が 「 こんな事を現状の宗門でやったら両刃の剣となる。 や る なら、先づ宗門の綱紀を糾し、その上でやるべきだ」と、又、藤本 も 「投書は伝聞(本人に電話 で問い 合 わせ伝聞と分る) であるので、根拠に問題がある」 と 諫めた結果、猊下及 び 全員のト ー ンが下 る 。 結局 、 18日午前9 時、 総本山大奥 に 於 て 、 今 日の メンバー が 集 合し、 再 会議という事で結論 を 持 ち越し 西 片 会 議終 る。 当時 、 僧 侶の贅沢や遊 興が問題となって いた。 昼 間はパチンコやゴル フ に精を 出 し、 夜は酒場 に繰り出していた住職の姿が、多くの信徒に目撃され、顰蹙を買 っ ていた。 いくら日顕が 「池田追放」 を 主張して も、 住職の遊 興問題を追 及 されると、 学 会を 攻撃でき な いと、河 辺は訴えた。 この住職の遊興 問 題は、言 わば 「宗門のアキレス腱 」 であり、 引き続き、 二 回 目 の会議でも 焦 点となっ た。 ● 「御 前会議 」 で日顕が 「C作戦」と命名 その二回目の会議は、平成二年七 月 十八日午前九 時、大石 寺の大書 院で行な われ、通称 「 御 前 会議」と呼ばれてい る 。 前 回 の継続会 議とし て 開かれ た この会 議 では、学会破壊 の 謀略の作戦名 とし て日顕の 口か ら 「C」 と いう言葉が飛び出し、 「C作 戦 」 の 命名者が日顕であることがはっきりと記されている。 〈河辺 慈 篤「会議メモ」より〉 御前 会 議 の流 れ 早瀬部長よりの連絡会議報告の後、池田追放の線で進られ、 河辺 =そ れでは、 こ の 作戦は G作戦だ 。 猊下 =それは違う、Cだ よ 。 ともかく( 7月) 21日の池田の目通り(が)山だ 。 もう少し池田の証拠を集 め て 、 C作戦の時を待つ。

(10)

7 ● 〃僧侶の遊興 問題に対 処しないと 作 戦は失敗 する〃と河辺が慎重論 を唱える 日顕は 「 池田追放」 を 断行しようとする が、 前回の 時 と同じように、 河 辺が 僧侶の 「 綱紀 自 粛 」 の必 要性を 説 いた。 は じめは、日顕は納得しない が、他の者たちが河辺に同調し、結果として、 創価学会 攻撃の体 制を 整える た めに 、 八 月末の宗門の 「教 師指導会」 で 「綱紀自粛」を 打 ち 出 す ことが 合 意された 。そのことが「河辺 メ モ」に克明に記されている。 〈河辺 慈 篤「会議メモ」より〉 河辺=C作戦というが、い ずれはやら な く て はなら な い問題としても、今この問題をやる事は両 刃の 剣を持つ 事になる。 や る と して も、 もっ と分 析が必 要 。 そ れよ り も 大事な事 は、 僧 侶 の綱紀 自粛が必要。 この作戦を実行して も 、返す 刀 で、この綱紀問題で学会にや ら れる。 猊下 = お 前は 分析、 分 析というが、 分析し て 何が でき ると 云うんだ 。 =激しく怒ったように河辺を叱責= 河辺 =い え、綱 紀 を糺さ な く て は 必 ず学 会から や られる。 綱紀 自粛の指導を教師指導会でやるべ きだ 。それから学会問題をやるべきだ 。 藤本=私も河辺の云う通りと思う。今この問題をやれば両刃の剣となる。 河 辺 =学会 相 手に戦う時 は 、 日 刊の聖教を 相 手に戦う事になる。 宗 門 は 此れに対 抗する も のはな い。 猊下 =皆んなは、この河辺の意 見 に 対しどう思う。 =全員無言で河辺に賛成の表顔= 早瀬=私も河辺の意 見 の方がいいと思う。 以上の意 見 の やりとりが昼食 を はさんで続き、結局、池田追放の件は当 分 見 合せ、僧侶の綱紀自 粛という事になり、来る八月 末 の教師 講 習会で綱紀自粛に 関 す る指導会を 開 く事になる。 そのための会議を 開く事に決し御 前 会議終る。 ●「C作戦」実行のために 徹底された、偽りの「綱紀 自粛」 平成 二年八月 二十九 日 、三十 日 、大石 寺 で教師 指 導会が開 か れ 、そこ で 二十一項 目の「 綱 紀自 粛」が徹底された。 そ の内容を 一部抜粋する。 「 少 欲知 足 を 旨 と し て 、行住 座 臥 に 身 を 慎 む こ と 。妄り に 遊興 に 耽 り 僧 侶 と し て 信徒 や一 般 か ら 非難・顰蹙を 買うような 言 動 は 厳に慎む こと」 「僧侶としての品位を 汚 す ものは禁 止する。 また、華 美・贅沢な も のは慎む こと。 寺 族の場合も これに準ずる」 「価格・車 種 などそれぞれの分を弁え 、 決して贅沢な ものは選ばないようにすること。 ま た、僧 侶として 相応しくない形や 、 赤 い車など 、派手な 色は禁止 する。 寺 族の場合 も、僧侶に準じて自 粛する こ と」 どれも、僧侶であれば、当然、守るべき 徳目である。 これは裏を 返 せば 、 〃遊 興に 耽って 、 信 徒 や一般 か ら非難 ・ 顰蹙 を買うよ うな住職 が多 くい た〃 〃 華 美・贅沢 なもので身 を 包んでい た住職、寺族(住職の 家 族 )が多 く いた〃 〃高価な車、 派手な色の 車 に乗っていた住職、 寺 族が多くいた〃 ということになり、多くの住職が堕落していたという事実の証明である。

(11)

8 一番の問題は、この 「 綱紀自粛」 の 目的である。 本来であれば、これを契機に宗門の僧侶 が 信 心の姿勢を 改 めて 、 僧 侶として 恥ず かしくな い言動につ と めようという ものでなければな らな い。 ところが、 実 際にはそうではなかっ た。 「河 辺メ モ」 にある よ うに 、 〃創価学会を攻撃する ため には 、 こ れ以上、 弱みを見 せ て はなら な い 。 体制 を整 えて、 「 C 作 戦」 実 行 の 準 備 を する 〃 という 謀略のための体裁でしかなか っ た 。 ●「綱紀 自粛 」を発表した当日、一 人十五万 円の高 級 温泉旅館 に 泊 ま っ た日 顕夫妻 この 「綱紀 自 粛」 が、あくまで も創価学会からの追 及 を逃れるための 見 せ掛けであっ たという ことを証明したのが、他ならぬ、日顕であった 。 平成 二年八月 三十 日、日顕は 綱 紀自 粛 を 発 表 した教師 講習 会が終 わ るやい な や、伊豆長岡へと 出かけ、有名な高 級 旅館に泊まった。 当時の従業員の証言によれば 、 このとき泊まりに来 た のは、日顕夫婦 、 息子の阿部信 彰夫 婦、 石井 信 量 夫婦 の六 人であっ た。 日顕夫婦が泊ま っ た部屋は一 人 十五 万円の最高級 の部屋 。 五十坪の 部屋に七百坪の庭がついて い る 。そ の部屋 で 日顕は十 万円も す る特 別懐石料 理 に 舌 鼓 を打 った 。 日顕は八月 三 十日の教師 講 習会閉講式で再度、綱紀に言及 し、 「昨日の指導会における自粛の意味をよく考えていただき、 そ の根 本はやはり我 々の不 断 の信心 と行学にある」 と指導して い た。 ところが、 自 分 は その 「綱紀 自 粛」 を完 全に無視して高 級 旅館で豪遊する。 日顕にとって は 「 綱 紀自 粛 」 な ど 、は じめ から 創価学 会 を欺 くため の ポーズでしかないから、こういうことが平然と できたのだ 。 すなわち、日顕は「 C 作戦」という謀略のために、 宗 内 の 僧侶までも欺い て いた の である。 ● 遊興 に溺れ る ことを恥 と思わない 日 顕ファミ リー 日顕の豪遊は、かなり以前から 続い ていた 。 前述の高級 旅 館の元従業員は次のように証言して いる。 「日顕さんは 奥さんや 、息子の信彰さん、娘の百 合 子 さん夫婦と毎 月のように来ていましたよ。 日顕さんの運転手に聞い て み れ ば一番よく分かりま す よ。 当時、旅館には、十五 万円の部屋が 二 つあっ た んです が 、日顕さんは必ず そのどち らかに泊まりました。 予 約 は いつ も石井 信 量さんが して 、総 監の藤本さんや八木信瑩さん、早瀬 義寛さん、大村 寿 顕さんらもよく来ていました。 多 い時で二 十二 、三人 、 いつ もは十六 、七人で 、 運 転手もいれると十数部屋は借り切っていました ね」 また、この元従業員によると、日顕らが散財した金額は、平均すると宿泊費と食 費で、 一 人 二 〇 万 円だという。 そして、日顕ファミリーが来ると一回で三 ~ 四百万円は使い、日顕らは、そ の 豪遊を月 に一 回程度 お こ な っ ていたという 。 日顕らが異常なのは、遊 興 に溺れることを恥と思 わないことである。 そ の日顕が散財している お 金 はすべて信徒の浄財である。 信 徒の浄財で己の欲 望を満たす。 日顕のこの姿はまるで大聖人 在世の極 楽寺良観 である。

(12)

9 ● 早 瀬 ファミ リ ーも阿部ファミリー と 同じ 早瀬 一族の贅沢も阿部一族と同じである。 早 瀬日如が住職であった新宿の大願 寺 は昭 和 六 十三 年に 改築 され た。 改築 費 は 約 十 億 円 。 早 瀬 は 「 学 会 の 世話 に は なっ て い な い 。 全 部 、 俺 が キ ャッ シ ュ で払 った」と自慢したが、そも そも、その お 金は すべ て学 会員の浄財である。 贅を 尽くしたその造りは、 見かけはまるで高 級料亭である。 玄 関の表札だけで二百万円、本堂 の柱一 つ をとって も、 巨大なケヤキの無垢材。 庫 裏に も、秋田杉やケヤキ 、 ヒノキなどを、 ふ ん だんに 使 い、 台所に は 女 房 の背 丈に合わ せてオ ー ダ ー メ イ ドした七百万円以 上 も する ドイツ製の システムキッチン、住職家 族専用のエレベーターも備え ら れて いた。 早瀬日如の弟は日顕の娘・百合子と結婚したが、 その弟が住職をしていた板橋区の妙 国寺も 、 〃 末 寺 き っ て の 贅 沢 建 築〃 と宗 内で有 名 だっ た。 台所には三千万円も す る厨房設備に、 五 百万円 の焼き肉テ ー ブル、 一 部屋がまるまる貯蔵庫とい う豪華な造りに〃やりすぎでは〃という住職が いたほどだ 。 また、早瀬日如の長 女 の 結婚披露宴は、都内の超一 流のホテルで盛大に行なわれた 。まるで、 大物財界人の子息か芸能人のようであっ た。 このように早瀬 フ ァミリーも日顕ファミリーと同じように、 信 徒の浄財で贅沢することに、 ま っ た く後ろめたさを 感 じて いな いのだ。 ●「C作戦」 を謀議しながら、開創 七百年慶讃 大 法要で学 会を賛嘆し て いた日顕 今回の事件の特筆すべき点は、その謀略性である。 ま ず 、 日 顕らは「 西片 会議」 「 御 前 会議」で「池田 名 誉会長追放」を謀議し、 体 制 を 整 え るた めに 「綱紀 自 粛」を 徹 底した。 そして そ の 間 も、 日 顕 は表 面で は池田名誉 会 長と創価学会を 賛 嘆 し 、 自 分 た ちの謀略を 創 価学 会に覚 ら れないようにしていた。 十月七日、 開 創七百年慶讃大法要の初会 が大石寺にお いて 開催され 、 そ の席 上、日顕は池田名 誉 会 長を 讃える 「 慶讃文」を 読 み上げて いる。 「近 年ニ至リ信徒団体創価学会ノ興 ルヤ折伏 弘通大イニ 進ミ正法受 持 ノ信徒マタ數ウルヲ知ラ ズ 故 ニ 本 仏 出世ノ本 懐タ ル本門 戒 壇ノ大御 本尊ハ御宝 蔵 ヨリ 奉安 殿ヘ 更ニ先師 日達上人ノ代 池田總講頭 發 願ノ正本 堂ニ安置セ ラ ル尓来正本堂ハ有縁 信 徒千万ノ 懺悔滅罪ノ 大 堂タリ洵ニソ ノ功徳重且 ツ 大ナリト 云フ ヘシ 其ノ他ノ 總本山 境 域マタ種々ノ綜 合 整備時ヲ逐テ進捗ス ル 半 面 末 寺ノ建立寄進相継キ未曾有ノ 正 法興 隆ノ相 ヲ 現出ス」 ( 『 大日蓮』 平成二年十一月 号 ) 日顕は池 田 名 誉会長 を 中心とし た創価学 会 の 正本堂の建立寄進や本山整備の功績を最大 に讃 えた 。 その一方で、十一月 二 十日、二十一 日に大石寺で御 大 会大法要が お こなわれたが、このとき出 仕した僧侶たちとの「 目通り」の席で、 「 百 姓覚悟の時がく る かも しれない」 と発言をしている。その真意は、 「 C作戦」が発 動されれば、 最悪の場合、 信徒数が激減 するか もしれな いという意味であっ た に違いな い。

(13)

10 ● 「 C 作 戦」 実行直前にも池田 名誉 会長を賛嘆 す る原稿 を 書い ていた 日 顕 この同じ十一月 二 十日、日顕は『大白蓮華』 (平成三年一月号)掲載の「新年の辞」の原稿を 創価学会に渡している。 この原稿の中で日顕は、創価学会 及 び池田名誉会長に対して 、 次のように賛嘆している。 「創価学会創立 六 十一年の出発に当たり、私ど も 宗門にお いて も、 心からその功績を賛嘆いたし ます。 戸田先生の逝去後、 間 もなく、第三代会長の任に 就かれた池田先生は、鉄 桶 の組織と当千の人 材を 見 事 に活用され、 且 つ 、信心根本の巧みな指導を も っ て 国 内広布の大前進を図り、 十 倍とも いうべき多大の増加を来したことは、 耳 目に新しいところ でありま す。 特に、 池 田先生の指揮において大書すべきは、戦 後の世界的な移動交流のなかで、 各 国に広ま った信徒の方々を組織化した、世界広布への大前進が図られたことであります。 今日、地球的規 模による広布の着々たる進 展がみら れることは、撰時抄の御金言のごとく、実に広布史上 すばら しいことと思います。 また、 戸 田先生のころより 始 ま った総本山への諸供養や末寺寄進は、 池 田先生によって本格的 に行われ、先師 日 達上人の数々の賞辞が残っております」 ( 『 大白蓮華 』平成三年一月 号 ) ここでも、 日 顕は池田名誉会長の世界広布の実績と本山外護の功績を称賛している。 すなわち、 日顕は「C作戦」遂行を容 易 に するため、自分の 意図 を覚ら れ ない ように、 「綺 語、両舌 」を用 いて 、信 徒を 欺いて い たの だ。 ● 〃創価学会を切る〃 と いう前 提 で話をし 始 め た日顕 十一月 二 十八日、富士学林研究 科閉講式で日顕は、広宣流布が進展したことについて次のよう に発言し てい る。 「我々僧侶の面から見 たときに、果たしてこれでいいのか」 「開 創七百年 を過ぎ て 、その初めの一 年 に当た っ てすべての問題をもう一遍、 我 々が考え直し」 「今までとは色々な面で多少違ってくる」 「我 々僧 侶の 面か ら 見 たときに 」 「 す べ て の 問 題 を も う 一 遍 、 我 々 が考え 直 し」 と 言 っ て いる ように、 すでに日顕の頭の中では、 「僧侶主体の広宣流布」が 始 ま っていたのだ 。 そうした中で、 十 一月十六日の創価学会第三十五回本部幹部会での池田名誉会長のスピーチの 内 容 が、日顕に伝えら れ た 。 日顕は、このスピー チ が創価学会を 攻撃するための 口 実になると飛 びつ いた。 十二 月十二日 、日顕らは池田名誉会長の スピーチの反訳を もとにした 「 お 尋 ね」 文書につ いて 伊豆長岡の高 級温泉旅館で、午前五時から〃 従 業員 立入禁止〃にして 、謀議して い た。 そして 翌 日の 十二 月十三日 、創価学会 と の 「 連絡 協議会」で宗門 は 、学会に 「お 尋ね」 文 書を 渡そうとした 。しかし、創価学会側は、 「改竄されたテ ー プ で あったり、不確かなものであった 場合 、それを根拠に公式文書としたのでは、総 監の重大な責任問題になる」 と指摘し、話し合い による解決を要望した。この日、宗門側 は、仕方なく、同文書を引 っ込めた 。 この翌日、日顕は自分の誕生祝賀会で、伝聞を根拠に書いた 「 お 尋 ね」 文書の内容をそのまま しゃべ っ てい る。

(14)

11 日顕は、学会の名前を 出しはしな か っ た が、 「親鸞と大聖人とを比較 し て 、 大聖人は強す ぎるイ メージがある。 そ ういう強 いイメ ージ ではこれからの広宣流布はできないというような考え方 が あ る」と 暗 に 学 会批判 し 、「 これ か ら いろいろと難 しい問題が ま すます出 てくる」と 話 している 。 そして、十 二 月 十 六日、 宗 門は創価学 会 側が「連絡協 議会」で受 け 取ら なか った「 お 尋ね」 文 書を創価学会に送付する。 十 二 月 二 十一 日、日顕は創価学 会から の 二百カ 寺 建立寄進の百十一 番 目 と な る三重・仏徳 寺の 入仏式を 執り行なっ た 。 創 価学会を切 ろ うとしてお き な が ら、そ知 らぬ顔で 寄進をうける。 〃も らえ る も の は 何 で も も らう 〃 という、実に意地汚い姿だ 。 その法要の挨拶で日顕は波木井の謗法を通して話し 始 めた。 「今まで存在しておっ た 間 違いを 一 切打ち破り、誤りは誤りとした上で、あくまで正しいものを 立 て ようというところ に正応 三 年の大石 寺の建立 の意義があったのでございま す 。」 これは、身延 離山の意 義になぞ らえて 、 暗に 学会処分 の意 義づ けを して いたの だ 。 また、 法 要後の住職たちとの目通りで、 日顕は 「来年から厳しくなるぞ」 と ほのめかしていた 。 日顕は 「 お 尋 ね」 文書に対して 、 創 価学会側が謝罪して く る も のと思って い たようだ。 だ から、 強 気 で学 会批判をしていたのだ 。 ところが、十二 月 二十三日、創価学会より、藤本 総監宛に「 お 伺い」文書が送付された 。 内容 は、宗門の権威主義的体質を九項 目 にわたって指 摘し、話し合 いによる解決を要望したものであ った 。 ● 姑息な 手 段で 池田名誉会 長 の総 講頭の地位を罷 免 この創価学会から の 「 お伺い」 文書によって、日顕の 「 C 作戦」実行の計算が狂 ったに違い な い 。 日顕は 「 お尋ね」 文書で創価学 会に謝罪させ、 池 田 名 誉会長を切るつもりだ ったのだろうが、 それが不可能になっ た のだ。 十 二 月 二 十五 日、 日顕は高橋公純、段勲ら五 名と創価学 会 を解 体するための密 談 をし てい る 。 その場で日顕は、次のような発言 を してい る 。 「学会員のうち二十万人が本山につけばよい」 「創価学会との裁判になることが充分に考え られる。その時は証人になってくれ」 日顕はこの時点でも創価学 会 を切ることを前提 に話してい る 。 も うそのことしか、日顕の頭に はな かっ たの だ ろ う。 創 価 学会 と 池 田名誉 会 長を切る 理由など 、 ど うで も良 かっ たの だ。 とに か く、自分 が頂点に 立ちたいという欲 望にとりつ か れて いたのだ。 創価学会は、話し合いによる解決を求めたが、十 二月 二十 六日、宗 門は 〃誠 意 あ る回 答 な し 〃 と決 め付けた「書 面」を 創 価学会に送付した。 そして、日顕は、暮れも押し詰まった十二 月 二十 七日、臨時宗会を 開いて、 池田名誉会長の法 華講総講頭の資格 喪失を決め、その通知書を学 会 本部宛 に 送り つけたのだ っ た 。 この池田名誉会長の総講頭解任は、表 向 きは、 単 に日蓮正宗の規則である 「 宗規」 改 正にとも なう措置として発表された。 宗 門は マス コミ にも 「解 任でも 処 分でも な い 」 と コ メント し ていた 。

(15)

12 現法主の早瀬は当時、庶務部長で大 願 寺 の住職であったが、在勤者に 「池田 名 誉会長の総講頭解任は 処分じゃないから な。 必ず 、 そ う説明するんだ」 と徹底して い た。 ところが、 そ の十日後、 平 成三年一月 六 日に本山で行なわれた教師 指導会で日顕は、 学会が 「 お 尋ね」に対する回答をせずに九項 目 の質問をしてきたことに触れ、 「このような形は、 全 く反省の色もなければ、 誠 意も ないという上から、かね て の懸 案の法 華 講 本部役員の問題に 関 す る『宗規』の改 正 にも踏み切ったのであります」 と述べ、この翌日の本山の従業員の勤行会でも 「信 仰の念がほ と んど 認められない姿で宗門に対して はっ きりと反 抗して く る 、 文書を送 りつ け てくるというような形が、現総講頭、現大講頭の姿の中にありましたので、やむをえずここで 緊 急の宗会を 招集し」 と、総講頭解任は明 らかに学会に対する 制裁であると述べて い る。 このように、日顕は池田 名 誉会長に対する嫉妬の怨念を隠 すために、信徒だけでなく、マス コ ミ を 通して社会をも欺い て いたのだ 。 第 二次宗門事件はこの日顕の謀略の大嘘から始 ま ったのだ 。 ● わ ざわざ年 末に総講頭解任を行な ったのは、 聖 教新聞が 休刊になるから 日顕が わ ざわざ年末を狙って、池田 名誉会長の総講頭解任を発 表したことにも理由がある。 日 顕は聖教新聞が休刊になる時期を選んだのである。 聖教新聞が休刊になれば 、 学会の対応が遅れる は ず だ と日 顕は考え たの だ。 『法華 経 勧 持 品』 に 「 悪世の中の比丘は邪智にして」 とある。 まさに、日顕は邪智を振り絞って 学 会切り崩しの謀 略を練って い たのである。

四、はじめに「

分」ありき。

「お尋ね」文書で破たんした池田名誉

会長

批判

●す べ て が 一 方 的 で あ っ た 宗 門 事 件 の 始 ま り 今回の宗門事件は、 す べてが一方的であった 。突 然の「お尋ね」と題する詰問書。そして、事 前 に 何の連 絡 もな く通 知して き た 池 田名誉 会 長の 法華 講総 講 頭 の罷 免。 そ れ でも 、創価学 会は 話し 合い による解 決を求め て、当 時 の秋谷会長と 森田 理 事 長が 本山 に出 向いたが、日 顕は 〃目通り適わ ぬ 〃 と対面を拒否した。 そして、一月 六日、日顕は 末寺住 職 ・ 寺 族 初 登山の会合で 「結句は一 人 になり て 日本国 に 流浪 すべきみ にて候 」 と御 書を引 き 、 「 一 人 にな って も法を護ってまいります」と涙を流して訴えて みせるなど、精一杯の演出をした。 だが、 こ の時点では多くの末寺住職は事情がよく 分から ず 、 戸 惑 っ てい る者も 少 なく なか った 。 日顕は一月十日の「教師 指導会」でも、 「 粥をすす るようなことがあって も」正義 を立 て て い くと、悲壮な決意を披露する。 しかし、末寺住職の反応は鈍く、日顕は 「広宣流布したらドイツで も『歓喜の 歌 』は 歌 え なく なる」と支離滅裂なことを言い出したり、 「 たんなる 御本尊書写係で終 わっていいのか!」と怒 り出 す場面も あった 。

(16)

13 日顕一 人が感 情的になり、創価学 会 批判の旗 を振 ってい る という感 じであったが、それは仕方 な い こ と だっ た。 日 顕 は 「 C作 戦 」 と い う謀 略を 誰に も気 付 か れな いよ うに 、 宗 内僧 侶 も 欺いて いたのだから 。 ● 宗 門が テー プ の 〃改 ざ ん 〃認 め る 宗門が入手 し た平成 二 年十一月 十 六 日に行 な われた創価 学 会の本部 幹部会での池田名誉会長 のスピー チのテープ の 反訳をもとに作成された「 お尋ね 」 文 書 の内 容は、池田 名 誉会長が法 主 や 宗門僧侶を批判する発言があったとして 、釈明の回答を求 める ものだっ た。 創価学会側は、この文書の前提 になっているテ ー プ の 出所が不明で、 改 ざんされた恐 れも ある と、納得のいく話し 合 いを要望した 。 と ころが、宗門側は話し 合いを拒否して、文書による回 答 を執 拗に迫 っ た 。 結局、 同 文書のなかには、名誉会長の話のテ ープ の反訳を、意図的に 改 ざんした箇所が含まれ ていた 。 この点 を 学 会 から 指摘された宗門は、平成三年一月 十 二日、 謝 罪と撤回 を余儀なくされた 。 以下 、 宗 門が テー プ の 反 訳 の間 違 い を認 め た 文 書 と そ の 主 な 箇 所 で あ る 。 (宗門 か らの 返答) 宗務 院として、この回答( 「 『 お尋ね 』 に対 する回答」 ) を一読し、改め て 池田 名誉会長のスピー チを聞き直 し ましたと ころ、確か に 当方のテープの反訳 に 、下 記のとおり相違がありました。 (中 略) 故意による も のではなく、テ ー プが聞き取りがたかっ たことによる ものであります。 ともかく相違していた点、及びそれに基づいてお 尋ねした件に 関 し てはお詫びし、撤回します。 ( 「 『 お 尋 ね 』 に 対 す る 回 答 」 に つ い て の 指 摘 ) (宗門側の反訳) 「工夫して折伏するのがないでしょう、ね 。 日蓮正宗で、いなか っ たんですよ」 (実際の スピーチ) 「工夫して折伏する以外ないでしょう。 ね、 日淳上人が一番よく分かっていますよ」 (宗門側の反訳) 「ただ…… 、 真言亡国・禅天魔、法を 下げるだけでしょう」 (実際の スピーチ) 「ただ朝起 き て 『 真言亡国・禅天魔』 。( 笑) 法を 下げる だ けで しょう」 他にも創価学会側より次の指摘があっ た ので、付記しておく。 (宗門側の反訳) 「 あ と、 ちゃ んと日淳上 人 、 そ れから 堀 猊下 、 全 部 日 達 上 人、 き ち ー っ と学 会を守 っ てま すよ ね 」 (実際の スピーチ) 「 あ と、 ちゃ んと日淳上 人 、 堀 猊下 、全部 日 達上 人、き ち っと学 会 を守 って下 さ る、ね、方軌は できあが ってるんです。不思議なことです、御仏 智というも の は」

(17)

14 ● 伝聞による決 めつ け も 撤 回 また、宗門は 総監 名で出した公式文書であるにもかか わ ら ず、根拠のない伝聞をもとにして、 池田名誉会長を批判していた。 非常に悪意のある行 為 である。 そしてそのことを以 下 のように、 学会に指 摘され 、 結局 、宗門 は 撤 回 したのである。 (宗門側の主張) 「一一・一 六 以後の池田 名 誉会長の発言として、 大聖人と親鸞のイメ ー ジを比較し、 『親鸞は親 しみ やすく、大聖人は強いイメ ー ジ があり、これ ではこれから の折伏が できない 』とし て 、 『 親 鸞のイメ ージのごとき親しみが、これ か らの折伏 の条件』のように言われ、 『大聖人の慈悲深い 面を もっ と表 面に 出したり 、 法 門 の 中に もよ いこ とが あるので、そ れを 判り や す く説く 私 のス ピ ーチを元にするよう』に、と言 われたそうです。 」 (「 お尋ね」 ) (創価学会側の主張) 「親鸞の件については、 名 誉会長が、い つ、どこで、誰に、 ど ういう内 容で言 っ たのか 。 この点 につ いて 、 総 監より、 是非とも責任ある 回答をお示しいただきたい。 」( 「 『お 尋ね』 に 対する 回 答」 ) (宗門側の 返 答) 「確かな 筋から聞いたことではありますが、 これを 提 出した人を証人にすることは現時点では困 難であり、 出 処を明かせませんので、 今 回はこの件につ い て 『 お 尋 ね』 を撤回いたします」 ( 「 『 お 尋ね』に対する回答」についての指摘) ● 処分 を前 提 に して 作 ら れ た 「お 尋ね」 文 書 日顕は本山 に 持ち込まれた池田 名誉会長のスピー チのテープ を 契機に、 公然と創価学 会批判を 始め 、 創 価 学 会 か らの 〃 テ ー プ の 反 訳 が 改ざ ん さ れ て いる か も し れ な い 〃 と い う 指 摘 を 無 視 し て 、 池田名誉会長の法 華講総講頭の地位の実質的な罷免を行った。 その後も、宗内 僧 侶 を 前にして 「一 人になっても法 を 護ってまいりま す 」と、まるで創価学 会 に宣戦布告するようなことを言い 始 めた 。 この日顕の行動はすべて 、 池田名 誉 会長がスピー チで自分を批判して い るということが前 提に なっていた。ところが、宗門は「お 尋ね」の重大 な 質 問部 分を撤回 し て しま った 。そ の結 果、 総 講頭罷免の根拠 も 崩れたことになり、 日 顕の 一連の創価学会批判 は すべて日顕の早とちりという ことになる。 何 よ りも、宗門は、テープ の反訳の意図的な改 ざんという、僧侶とし て絶対に許 さ れない行為 をしたのである。 本来であれば、それだけで重大な問題となり、責任者である日顕の公式謝罪が あ っ ても おかしく ない 。 し かし、宗門は簡単 な文 書での謝罪と 撤回 をしただけ で あ っ た 。 も ち ろ ん、 総講頭 罷 免の撤回も な か っ た 。 結局 、 こ の 「 お 尋 ね」 文 書 は何だっ たのか。 今、 振り返れば 、 この 文書を 出 した日顕の真意は、 回答を求めるというより、 はじめから何とか池田 名誉会長に謝罪させようという悪意のうえに作 ら れ たものである。この文書こそ「C作戦」という陰謀があったことを裏付けるものである。 ● 宗門 の 策 動は 「 C 作 戦 」 に 見事 に符合 平成二年十二 月の池田名誉会長の総講頭罷免以来、 一 連の宗門の行動は、以 下 の ように 「 C作 戦」 と符合 し て い る。 これこそ日顕らが 「C作戦」 を 念頭にお いて行動して きたことを証明し て いる と言える。

(18)

15

五、

「C作戦」の動機となった二つの感情

―「逆恨

み」と「

嫉妬」

今まで述べてきたように、僧俗差別の意識が強い日顕は、末寺住職の頃から、 心 の 奥 に信徒組 織の解体という野望 を 秘め ていた 。 すなわち、 「 C作戦」という弾丸は すでに込めら れていたの だ。 あ と は 、 いつ その弾 丸 が込 め ら れ た 拳銃 の弾 き金を 引 くか 、 そ の チ ャ ン スを 日 顕 は 心 待ちに して いたのである。 日顕が弾き金を引き、 「C作戦」を発 動 した動機は何か? それは「逆恨み」と「嫉妬」とい う二つの 感情である。 「C 作戦」 臨時宗会で宗規の改正。池田名誉会長を総講頭解任 末寺で「三宝の権威」を称賛する統一法話を実施 「緊急時局対策本部」を設置 作戦指示の権限を委譲 海外組織は宗務院海外部の指示に従うよう命じる 全国紙への広告で大量の学会員が末寺に殺到 管長名で「学会は正宗と無関係の団体」と宣言。記者 会見し、テレビ・ラジオで宗門の正当性を訴える 寺院に所属する元学会員信徒を組織化し、日本全土に 連合会組織を作る 実際に宗門が行ったこと 臨時宗会で宗規改正し総講頭・大講頭を解任(平成 2年 12 月 27 日) 全国末寺で「学会は三宝破壊」と中傷(平成 3 年 1 月 1 日) 宗務院「時局協議会」を設置 以後、宗門文書は同会が作成(平成3年 1 月 24 日) 「海外布教の方針変更」を通告。 海外で檀徒作り(平成 3 年 3 月 5 日) 一般紙に添書登山の広告を掲載(平成 3 年 6 月 5 日) 「解散勧告書」(平成 3 年 11 月 7 日) 「破門通告書」(平成 3 年 11 月 28 日) 記者会見を行い、「学会は正宗とは無関係」とテレ ビ・ラジオで宣言 脱会者を集め、全国末寺に法華講支部を結成。檀徒 作りを画策する

(19)

16 ● 自 分 の考えを否定し、相承しなか っ た先 師へ の「逆恨み 」 まず 、 「 逆恨み」は、日達 法主へ 向 け ら れたものである。 何に対して日顕は逆恨みをして いた か。 一つ に は 、 日 達 法 主 が 「寺 院 に お け る 僧 俗 和 合」という自 分の考えを否定し、創価学会 を擁 護したことである。 在 家を 見下 す日顕は、日達 法 主が在家である池田名誉会長の活躍を認めたこ とが気に食 わ なか ったに違いない 。 しかし、日顕が一番、許せなか ったことは、日達 法主が自分を次期法主に指名 し な か っ た こと である。 日達 法主は亡くなる直前 、 相承をするために 、 対 面所 に 床 を 敷 く こ と を 命じ た 。 そ し て 、 そこに 娘婿 の 東 京 国 立 ・ 大 宣 寺 の 菅 野 慈 雲 と当 時 の 御 仲 居 ・ 光 久 諦 顕 を 呼 ぶ よ うに 奥番 に 命 じ た 。 す なわ ち、これから 相承をしようという場に日顕は呼 ば れて いなかっ たのである。 これほど 、 日 顕にとって 屈 辱 的 なことはなかっ た 。 日 顕には自分 は 法主の子だ、 特別 だという、 エリート 意識がある。また、教学は自 分 が宗内 で 一番だと日達 法主を 見 下して い た面もあっ た 。 だから、日達 法主が自分以外の者を後継者に指名するということは、絶対にあってはな ら ない ことだと思ったのだ 。 そして、日顕はその報復として、 「 C作戦」を実 行し、創価学会を解体することにより、日達 法主と創価学会が築いた功績を帳消しにしようとした。 そ して、 日 顕は 「祖道の 恢 復 」 と 謳って、 創価学会が誕生する前の時代に、宗門を戻そうとしたのだ 。 日顕は法主の座を手に入れ、大奥 に 移り住んだ時に、こう 吐き捨てた 。 「日達 上 人の匂 い のする も のはいや だ」 この 一言に 、 自分 の考えを 否定 し 、 自分を 次 期法主に指名 しな かっ た日達 法 主 へ の根 深い 「 逆 恨み」の 感 情 が込められている。 ● 「劣等 感 」か ら池田名誉 会 長を 「嫉 妬」 日顕に「C作戦」実行の弾き金を引かせた、もう一 つの感 情 は池田名誉会長に対する「嫉妬」 である。 法主になる前の日顕は池田名誉会長に会うと、 「 池田先生のお かげです 」 と ペコ ペコ 、頭を 下 げて いた。 と こ ろ が、法主の座を 手 に入れ た 瞬 間 、態度を 豹変させた。 日顕が 昭 和五十四年七月 に 登 座 した直後、東京・ 西 片 の 大 石寺出張所 ( 当時)で、後に正 信 会 となる 若 手僧侶の日顕への反 発 を 池 田名誉会長の責任になす り つ け 、 開 口一番、 挨拶の言葉もな く 、 こう 言っ た。 「だいたい、あんたが 偉すぎるんですな」 当時、 若 手僧侶たちが 「僧俗差別」を唱えて、創価 学会 、な かん ず く 池田名誉 会 長 を批判して いた。彼 らの主張は自分たちの立場を守ろうとする 論 理でしかない。 この 「偉すぎる」 という言葉が出てきた理由は何か? 要するに日顕も同じように 「信徒差別」 の考えを持っていたということだ。 この言葉こそ、日顕の本音であり、僧侶の自分よりも信徒の 池田名誉会長が内外から尊敬を集 め ていることに対してのやっ かみなのだ。

(20)

17 ● 「 コ ンプレ ッ クス」から、常に権 威 を 見 せ つ けようと す る 日顕 日顕はそれ以降も、何度も池田 名誉会長に自 分の権威を 見 せ つ けようとした 。 昭 和 五十七年三 月 、大阪で行なわれた関 西青年平 和文化祭に、日顕は招待されて出席した。 そ して 文化祭終了後、 本 山に戻るやいなや、 日 顕は、 関 西でまだ会員を激励中の名誉会長を 「すぐ、 登山せよ」と呼び付けた。 池田 名誉会長は、すべての予定を変更して、本山に 向か った 。 日 顕が突然、 池 田 名 誉会長を呼 びつけた理由は何か? それは、 文化祭の参加者に 向か って、 池 田 名 誉会長が「日顕上人猊下も 終 始 、 拍 手を送ってくださいました。 ありがとうございました」 と挨拶したことに対してだった。 日顕は鬼のような形相で怒り出した 。 「どうして 『 御法主上人』と言わないのだ!」 一体 、 「 上人 猊 下 」と「 御 法主上人」にどれ だけの違いがあるのか。 そ れまで 、 日昇 法主も 日 淳法 主も、そし て 先代の日達法 主も「上 人猊下 」 と紹介されて怒ったことなど 一 度もなかった。 日亨法主に至っては「 『じい』でいい」と言っていたほどである。 歴代法主の中で 、 日顕だけが異常であっ たということだ。 しかも、 それ だけのことで 、 大 阪で 会員を激励中だ っ た池田 名 誉会長を本山にまで呼びつけるとは、 非 常識以外のなにも のでも な い 。 つまり、日顕は わ ざと池田 名誉会長を本山に呼び つけ て、 〃自 分の ほうが上 である〃と、 「 優 越感 」に浸ろうとしたのだ 。これは日顕が池田 名 誉会長に「劣等感 」を抱い てい る証 拠である。 「劣等感 」 と 「嫉妬」 は同根である。 「 劣等感」 があるため、 自分より優れた人 間 に 対して 「 嫉 妬」するのである。 だから、日顕は、池田名誉会長の海外での活躍を聞くと、決まって機 嫌が悪くなった。 昭 和 六 十 一年九 月 、 池 田名誉会長が元 ・ 米 国 務長 官のキッシンジャー博士に会うことを、日顕 に報告をした際、 「キッ シ ンジャ ー とは誰です か 」 と 嫌 味を 言っ た。 そこに も 、 俗 の人 間よ り も 自分 のほ う が 偉 い と い う 思 い上 がり か ら 、 優 越 感 に 浸ろうとする 歪んだ日顕の性 格 を 見 ることができる。 ● 池 田 名誉会長が自分よりも上であ る ことが「許されるのか!」と激 怒した日顕 宗門は今回の宗門事件の原因につ い て 、 あ た かも創価学会側に問題があるかのように宣伝して いるが、誰よりも日顕自身が、自分の「嫉妬」が 、宗門事件の原因である こ とを白状 して いる。 平成三年十一月 二 日、岡崎雄毅住 職 が本山・大奥 で日顕と対面した 。 そ の際 に、日顕は、右 手 の拳骨を 出して 「 いいか、 こ れ が 池田だ」 、 左 手の拳骨を 出 して 「これ が ワシだ」 と言いな がら、 右手を上にして次のように怒鳴り散らした。 「今、こういう状態 ( 筆者注 自分よ り も池田名誉 会 長 が 上) になって いる の だ 。 こ れで いい のか! これが許されるのか!」 日顕自ら、池田名誉会長に対する醜い嫉妬の姿をさらけ出した瞬間 であった。 日顕はただただ、 「自分よりも池田名誉会長が上」 と いうことが許せないだけなのだ 。 だ から、 「C作戦」を行い、自分が頂点となる組織を再構築しようとしたのである。

(21)

18

六、

の根深い僧俗

差別

せた日顕

● 教学部長時代か ら 池田会 長 の 功 績を 否定 していた日 顕 昭 和 三 十 五年、 「 富士年表作成委員会」が発足し、日顕は委員に選ばれた。 当時 、同じく委員 であった改 革 同盟の渡辺 慈 済住 職の証言 によると、日顕は、池田 会 長(当 時 )の功 績 を残 すこと を拒 んでいたという。 日顕は翌 昭和 三十 六年 には 教学部長 に任命さ れ、同 委 員会で幅 を利かせ るよう に な っ ていた 。 ある 日 、 下巻を 検 討 し てい た と き の こ と で あ る。 渡辺慈済氏が 「池田先生の 名前を 『 池田 会長○○寺を建立寄進』 と いうように 、 年表に残 すべき だ」 と主張 した。 すると、日顕が急に不機嫌になり、 「 い や、そん な必要はない」と理由もなく反対したという 。 そ し て 日 顕は 「 学 会 事 項に 関して は そんな に 力 を 入れ な く て い いん だ」 と言 い 、 その 結果 、 草 稿 の段階では 「 池田会長」 と 記載されて い た個所 が 、 昭 和四十四年 に 刊行された完成本では、 「 学 会 」 と変え ら れてしまってい た のである 。 日顕の信徒 蔑 視の考え方は一貫してい る 。 ど んな 立派な 功 績で も、 在家 というだけで 認めよ う としない 。だから、 在 家の池田 会長の 名 前を宗史に残 す ことなど許せ なか ったのだ 。 ● 江戸時代から時 間 が止まって い る宗門 日顕は学 会を破門した後に次のように述べてい る 。 「 近 年にお い て 創 価学会 が 現れ 、信 者 だ けの 組織 による 仏 法流 布 が 試 み られ まし た」 (平成 五 年 一月 西 九 州親教) この日顕の「信者だけの組織」という表現に、信徒 蔑 視・嫌悪が如実に現れてい る。 また、 日 顕は平成三年一月 二日、 秋 谷会長 ( 当時) が 会 見 を申し出た時に、 「お目通 り適わ ぬ 身」 という表現を使 っ ている。 「目通り」 と は 「 身分が高い人に会うこと。 謁見 」を意味する。た とえば江戸時代に大名や旗 本が将 軍 に謁見 す る際に使 われた言葉でも あ る。 また、江戸時代の武士には、どの藩でも藩主に 目通り す るのに資格 が 必要 であ った 。そ れが「上 士」と「下 士 」の区 別 であ った 。 宗門が今でもこのような言葉を 使 っ ているのは、 まさに檀家 制 度の弊害である僧俗差別が身に 染み 付い てい るから で あ る 。大聖 人 が 、 どん な立 場・ 地位 の弟 子 に 対 し ても 、全 魂込め て 激 励 さ れた姿とは 正 反対である。 ● 学会 員 は 住職 の 家 族や ペッ トよ り も 下 「檀家 制 度」の一番の弊害は、僧俗差別が制度化されてしまっ たことである。 檀家 制度では、檀家は 寺請証文の発行を拒否され ると、人別帳に記載されない 「 帳外れ」と差 別される。 こ れは 村八 分よりも過酷 な処罰 で 、社会的な抹殺 を 意味した 。 ゆ えに、住 職の権限 は 絶大となり、檀徒はひ た す ら隷 属するしか な か っ た。 たとえ檀家総代であって も 、 も し寺の行事 に参加しなければ 、戸籍を抹消されることもあっ た。 檀家 制度の中で、僧侶は絶大な権力を手に入れ、 信徒を 支 配 下 に置 いた。 そ して 同時に 、 僧 俗 の主従関 係は制 度 とし て定着し てしま っ た 。

参照

関連したドキュメント

全国の宿泊旅行実施者を抽出することに加え、性・年代別の宿泊旅行実施率を知るために実施した。

燃料取り出しを安全・着実に進めるための準備・作業に取り組んでいます。 【燃料取り出しに向けての主な作業】

・マネジメントモデルを導入して1 年半が経過したが、安全改革プランを遂行するという本来の目的に対して、「現在のCFAM

「海洋の管理」を主たる目的として、海洋に関する人間の活動を律する原則へ転換したと

LF/HF の変化である。本研究で はキャンプの日数が経過するほど 快眠度指数が上昇し、1日目と4 日目を比較すると 9.3 点の差があ った。

光を完全に吸収する理論上の黒が 明度0,光を完全に反射する理論上の 白を 10

日本遠洋施網漁業協同組合、日本かつお・まぐろ漁業協同組合、 (公 財)日本海事広報協会、 (公社)日本海難防止協会、

●協力 :国民の祝日「海の日」海事関係団体連絡会、各地方小型船安全協会、日本