日
蓮
聖
人
戒
壇
に
就
て
の
事E 同 国 繍 言 本 裁 第 一 日 蓮 宴 人 の 偽 法 の 濁 立 一 濁 立 の 意 味 二 佐 渡 流 罪 乙 翠 人 白 内 省 一 一 一 一 一 一 大 料 法 の 官 一 告 第 二 翠 人 の 戒 壇 に 就 ℃ 一 戎 壊 建 立 の 意 義 一一俸敬大師の戒壇建立に訴する翠人の思場 一一一翼人の戎壊建立に訴する深慮 第 一 一 一 基 人 の 戎 律 一 翼 人 の 働 法 一一嬰人の戒律 詩 給 日蓮田器入の戒壇に就℃林
Et ヌe
恭
一 六 九間 不 備 敬 皐 協 曾 日 時 報 ハ 第 十 一 一 年 ︶ 一 七 O 2
緒
言
日蓮聖人の戒壇に闘しては先師に諸種白意見があって、未だ其議が謹されたといふのでない。私は今先師。所 見に就て、,共是非を説かんとするものではない。私は、私の考へてゐる裂人の戒壇に就て、端見を披露し、以て 大方の叱王宝乞はんとするものである。私は又聖人の戒壇を考ふるに就いて、殆ど凡てを聖人の迭されたといふ 文書によった。とれもとより営然である。然し聖人の遺文なるもの、特に今日世に流布されてゐる高祖遺文録に 掲載されてゐるもの約四百篇それを凡てそのま L 聖人むものとして取り入れたのではない。聖人の遺文中には、E
筆と然らざるものとのあることは、既に先師のいふ所であづて、今日猶各種の観動から研買が準められつ L あ るのである。私は今、聖人の文書中元も確賓と思はる L 文書を中心とする様にした。 +引に私は本研買の範園を、聖人の戒壇に闘する総ての問題に渉らうとするのではない。告示門古来の戒壇問題に は、戒律の問題としての戒憧論、戒相等があり、戒壇それ白樫に就ての叡山戒壇と聖人の戒壇との問題、聖人。 戒壇中の事理介満等の問題もあるが、それ等は今私の問題ではない。私は聖人のいはる L 戒壇が、いかなる意味 のものであワもんか。聖人は戒壇白文字だけを示して、他に何等の説明を加へられぬは何故かそ、尋ねゃうと思ふ D である。そして聖人のいはる L 戒律は、之を聖人の悌敬白立場からすれば、いかなる性質むものであったかを 研究しゃうと思ふのである。換﹂言すれば、第一の問題は聖人の戒壇は聖人の悌法から観て、いかなる意義を有し てゐるかの慕であり、第二の問題は、何故に聖人は唯戒壇の文字だけを捜して、共れに就いての説明もなく、従 っ て 其 貫 現 む 運 動 も な か っ た の か と い ふ 事 に 就 て 、 第 一 一 一 C 問題は、聖人。戒律とは、畢寛いかなる意味のもむであったかを考へたいのである。故に私の表題とした聖人の戒壇は、私の今岡の研坑からは頗る限定されたるもの である。この事を先づ断っておく ︵ 一 υ 共に、聖人の戒壇に就いて読越する場合、聖人の遺中にある大秘法抄むことが、論議されるであらうと思 ふ。何となれば聖人の遺文数百篇中、戒壇に闘して、比較的明瞭に市かも梢と群しく設かれてゐるものは、一二大 秘法抄だからである。此の害は古来多くの撃者が、之を聖人の警としたぽかりでなく、聖人の戒壇を論やる者は 一様に之の警によって共所論を進めてゐるといってよい程重閥されてゐるからである、然し私は、今之白書を資 ︵ 一 一 ︶ 糧とする事を遠慮した D それは之の警が先師。間にも亦近時の我が︷一万感界にも問題となって猶論議。中にあると ︵ 一 一 一 ︶ 思ふからであるo叉聖人の遺文中には戒律に闘するものが数篇あるが、中には既に先帥によって種 K 論議されて ゐる。然し今叉それ等に鯛れゃうとは思はね。要は前にいふ如く、確貫と思はれる文書を中心として他の諸文篇 をも思考しつ L 私の研究を進めゃうと思ふ。 以上概略私の態度なり立場なりを強ベて御諒解を願ふと共に、更に私の矯めによりよき指導を興へられん事を 望 む も の で あ る 。 縮 排 出 遺 文 鎌 一 一 、 O 五 一 一 良 山川智藤氏の﹁一一一大秘法抄の真偽問題 H 農宗教と異閤家所掲、盛岡義遜氏の﹁=一大秘法抄の研究 H 大崎挙報第七十九時仙 等 ︵ 一 一 己 縮 品 川 遺 文 録 一 、 八 八 一 頁 鴎 ︵ 問 ︶ 同 上 第 一 頁 ハ 五 ︶ 同 上 一 六 頁 ︵ 一 ︶ ハ 一 一 ︶ 3 白蓮雲人 D 戒壇に就℃ 七
関 本 併 敬 調 停 世 間 曾 年 報 ハ 策 十 二 年 ︾
− 七
ニ
4本
設
第
日蓮連人の備法の濁立
調立の意味 聖人が、建長五年四月廿八日房州清澄山で、初めて聖人白身 D 働法、それは異質糟隼の悌法たる南無妙法蓮華 経を、大轄に公稿されたとは、世人の皆知る蕗である。是の事は、裂人が今日迄 D 悌敦諸宗に依り得なかったが 魚めに、自ら信やる所の悌法、然してそれは法華経に説かれた樟傘の震の悌法と認められた伸法、それを宣布 せん翁めであったとは、古来かちむ所説である。聖人の立教開宗は、聖人の悌法 φ 猫立、換言すれば聖人濁自白 併法の宣告であるが、然しこ D 事を考ふるには、開宗の常時と、共後の聖人の思想信仰の展開といふ附酷から、 観察されねぽならぬであらう。何となれぽ、開宗の営時には事費、聖人の悌法の全面が宣越されたのではないか らである。即ち開宗の常時は、唯だ法華経の題目を高聾され市も其の法華経の観方の謬りを札すとL
、蛇に法華 粧 h q−無闘した思想信仰を評破することが、主であったといはれてゐる。絶って聖人の法華経とはいかなるもので あり、聖人の唱題とはいかなる性質のものであっ売か、現在遺文を中心とする限h v
、開宗常時のそれ等に就ては 甚だ明瞭を快くのである。故に聖人のいはる L 唱題、それは常時迄何人も之を働法憧現の要法として賓践しなか ったといふ意味に於いて、それは明に聖人輔自の思想信仰であった。然し其唱題なるものム敬理に至つては、明に 夫古教壌の範圏を出でなかったか否か。若し出てゐなかったとすれば、聖人 D 悌法行としての唱題は、明に天台 宗と異るものがあったとしても、其敬盟に於ては、天台の思想そむものであって、これを以て聖人調自の僻怯む展開公表だとは認め難い。事貴闘宗の常時は聖人 D 悌法は未だ全面的に明にされてゐないのである。とれは聖人 の締法が、単に思想の例法、思策の教法ではなく聖人の所潤色韻を要したものであるからである。聖人は法華経 行者を以て任ぜられたのであって、其れは聖人の健験を槽控として示さる L 境地であったのである。即ち聖人自 身か、.自己か呆しで法華経行者なるか否かを貫験される事によワて、聖人の思想も信仰も、其異貫性役輿ふるか 杏かであった D である。而も其賞験場は衆人の生活する質枇舎であって、山林白堂塔ゃ、止観む誼場ではなかっ たのである。いは Y 聖人が異に生命を堵して、闘家岡民を封乎として、自らの信やる法を宣布する時、それによ って頴る L 反響こそ、聖人自身法華経行者であるか否かを質控するものであった。故に其反響のない時、聖人は 法華経行者としての賓がない事になり、聖人の有し給ふ思想信仰も、民貫性を有たね事になる。故に聖人として は、共反響に就て至深 D 注意が掛はれなけれぽならや J、共反響が樟傘によって設かれたるものに会合するもので な け れ ぽ な ら ぬ 、 聖 人 に よ れ ば 、 聖 人 の 場 合 は 全 く 牒 骨 格 の 所 設 を 如 質 に 賀 行 し 、 而 も 緯 骨 悼 の 弓 一 一 説 。 如 を 反 響 で あ ったのである。かく観察された時、聖人の信仰と思想は、捕手県貫性を加へると共に、深化注れ、組織化され統 制化された D である。故に聖人む思想は、常に進展し常に展開してゐるのであって、決して一所に止まってゐな いのである。乙の意味に於て、立教開宗の営時に比して、後のものは著しを進展註示してゐる o されぽ立教関宗 の営時は、未だ異の組側立とは認め難いが、後になるに従って其意識も、共内容たる敬理も明確になったのであ る。即ち立教関宗の頃は、其悌法行としての唱題に聖人潤得のものを認め得らる与が、後世に至つては共内容が 明になって、異に聖人濁自のものが示されたむである。この様に聖んの立教開宗は、之を後世のいは W A 完成した 思想信仰からすれぽ、其外形に於てはともかく、内容としては胎内にはあったらうか猫明確でなかった。それが 5 百 蓮 m E 人 の 戒 壇 に 就 ℃ 一 七 一 一 一
民本傍敬事協曾年報ハ第十二年一 v − 七 四 6 明確となった白は後世で特に佐渡流罪以後である。故に吾等は聖人 D 思想信仰佐考ふる時、いかにし℃も佐渡四 ヶ年の時代た逸してはならや、寧ろそれ左中心として思考すべきであることは明である o この事は、先師の既に 道破するところであるか、私はそれ h q a聖人の各種。思想面に就いていふのではなく、聖人の僻法の根本から観て そふいふのである。 さて聖人の悌法白調立とは、今日迄飴り使用されない用語の様であるか、聖人の悌法が開宗営時既に天台宗以 外の悌法からは明に滴自のものである乙とはいふ誌もない。が聖人は、天台、停教には特殊の私淑を有ってゐら れたのであって、それからも分離して、聖人自身の悌法を唱導すること、それがいふ調立である。然し私のいふ 意味は我か闘の法華経思想史上から、外形的に観てかくいふのであって、聖人の民意からすれば、韓骨格の、天台 の、停教の悌法の民の完成であり、額現であるといふにあるのである。聖人は、聖人の唱題が、本舎が、武壌が天台 ハ 一 ︶ ︵ 一 一 一 ︶ 偉教の﹁・未弘﹂のものだ﹁残した﹂ものだといはれた。乙の﹁未弘﹂とは寸未知﹂ではない 0 ﹁捜す﹂とは﹁忘 ︵ 一 − 一 ︶ 残﹂﹁忘失﹂ではない。税等はこの訟を知ってゐた D だ、それを内懐してゐたのだ。然し彼等はその法を俳から 謹られたのではない。又彼等は共を弘むべき時機でなかったからだといふのであって、いはピ彼等は共介限を守 ったのだ、といふのである。然し税等が此等の法に就いて知らなかったのではない。彼等はかつて襲王亜日躍とし て、韓骨格から其等の大法常聴いたのである。でめるが彼等は稗傘 D 意志に従ひ、税等の責任の分限を守るが故に ︵ 四 ︶ 之左弘めなかったのである。然し今は其の時機であり、共の法を語られた人
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現すべき時だ。日蓮は其責任に あたる者だといふのである、乙れ聖人の俳法は、韓常によって明示された教法であるが、市も其法は悌の滅後、 ︵ 五 ︶ 都分的には天親、龍樹、天台、停教によりて弘められはしたが、未だ異に完成され、否完全に顕現されたかったものだ、今我はそれをなす D だといふのである。之の意味に於ては、聖人の悌法は滴立ではなく、質に樺傘の働 法をそのま L 今の世に頴現するも D で、それは又天台、侍敬等の毘意を表現するもむだといふのである、故に聖 人の悌法は、額れた事賓の上では天台体敬からの満立であるが、之 b t聖人の内省からすれば、天台、停敬等む意 志の完全表現であって、之は誠に稗峰崎の民の悌法の額現そのものだといふのである。されぽ私は今聖人の悌法む 調立といったが、それは所調文字通りの意味ではなく、賃に前記の意味を合むものであることを断っておく。 さて聖人の僻法の民の調立は佐渡時代だといった。そふだ。それは聖人の伸法の内容たる本傘が明にされ、題 自の意山味が明示され、而も戒壇。事がいはれた意味に於て宝ある。即ち聖人の僻法の内容が明となったといふ意 味 で あ る 。 ハ 一 ︶
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υ ハ 一 一 一 ︶ ハ 凶 ︶ ハ 五 ︶ 報 田 品 抄 H 縮加遺文録一、五 O 八 頁 法華玖要抄 H 同 上 一 、 O 四三頁 法華行者償難事u
同 上 総 鋤 遺 文 品 部 本館抄 H 同 上 九 四 七 報恩抄日向上−、五 O 八 一 、 O ニ 六ー
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佐渡流罪と聖人の内省 聖人の佐渡流罪は聖人に頗る深刻な内省をなさしめた。而もそれは聖人註して共信仰に、共教義に明確な組織 と統制とを輿ふるものであった。然しそふしたるもむは佐渡で突然喚起したものではない。佐渡流罪前から、聖 人の内懐に往来してゐたものである。或は其一部を早く既に弟子遣に説かれてゐたのであらう。然し佐渡流罪と ︵ 一 ︶ いふ事責は、弟子檀那には一大溝博であって、彼等は昨日記承った事に、叉自らもそふ信じてゐた事に、非常な 7 日蓮禦人倍戒壇に就て 一 七 五日 本 悌 教 問 争 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 一 v − 七 六 8 動指を衆したのである。その主たるものは、第一に聖人は果して日頃いはる L 法華経の行者なりやといふことであ っ た u 第二は聖人の悌法は果して異なりゃといふのであった。第一の問題に答へられたものが関白抄で、第二の問 題へのものが甑心本偉抄である。乙れ等は何れも佐渡での御著撞で、関白抄は着佐後四ヶ月自のものであり、本 金抄は在佐渡一二年自のものである。開目抄は聖人乙そ民の法華経の行者であり、韓傘の所設に契ふ行者であるこ とを中心として其の行者の法と併とに及ぼれたものである。法華経行者。信やる法と悌とが何であるかを示すこ とによって、自らが其の法の弘通に、その悌に忠貴なるで者ある乙とを示すことになるからである。然し其中心 ︵ 一 一 ν は全く聖人自身が、農の法華経行者なりとの説越にある。惟ふに佐渡流罪起は、聖人の所謂一コ類。強敵か明瞭で たい。換言すれば佐渡前は聖人の主張に劃しての反響、即ち人白、及び天のそれが今一段。明確さ左依く断があ る。そふした時、之を聖人の立場からすれぽ、五口一は果して法華経の所設に令するやを決すべく猶少しの問障なきを 得たい。そ D 時、聖人の思想信仰に猫完全を期し得ないものがあるは常然である。然るに佐渡では、其等に就℃ の撰射が残らなかった白であり、結って聖人の思策をして、行く所担行かしめたのである。とれは叉佐渡の流罪 ︵ = 一 ﹀ ︵ 四 ︶ ︵ 五 ︶ が生還を期し特ぬといふ覚悟にもより、併渡での生活が頗る困難でもあり、而も反射 4AD 乎はこの上にも加はら うとする白を観取された結果、聖人の思策もいよ/\深刻を加へ、かつ組織だって来たのだと思ふ。開目抄が佐 渡到着後間もなく書かれたのは、伎の龍口難後引次いで佐渡流罪となった矯めに、弟子信徒等の聖人に針する疑 惑、即ち聖人は民の法華経行者なりやといふ疑念が強くなって、動揺しつ L ある質蹴を御承知になってゐたが故 に‘先づ線等の疑念を散やる意志をも加へてかくは早く書かれたのであらう。嵐で本傘抄が更に一年齢も後になっ たのは、聖人自身が各種む角度から、営時の僻法に就いて、叉聖人自身。教法に就いて検討された詩めに其附に
相常の時を要し、叉聖人D周閣を観察し給ふべき矯めにも年飴の時が費されたDであらう。かくて殻表された O が観心本館抄である。が此の警には聖人の題目がいかなるものであり、聖人の本傘が何であるかを明示されたの ︵ 六 ︶ である。それによると、聖人の岡目と位騨低の悶行果徳なるものであって、聴金の理念の法ゃ、思排白法なるも のではない。牒砕悼の血であり肉であり骨髄である鹿のものであって、いはピ特待それ自身をいふのである。此の 法は、恰も父母白血肉が共愛児にそのま L 停へらる L 如くに、吾等が此の法を受持する時、綿傘はそのま L 自ら の肉と血と骨髄とを謹興
L
給ふのだといはれた。きれば聖人の題目は、天台大師が妙怯蓮華艇を以て法華経の名 宝義とした様なものでも、中古天台のものが宇宙の法としたり,、或は凡夫の到性に本具するといった様な営慨無 作の理訟でもないのである。,宍に聖人の本隼は、具樫的にはかの大長茶羅がそれであって、共は絹傘の大精榊を 示すものとも、或は稗傘自身を示すのだともいはれるのである。何となれば聖人の法とはそのま与の牒傘である ︵ 七 ︶ からである。本写として示された長茶羅は円少時法華経の静堂品白説相を表現したものであり,、本隼抄の説明も 亦本門八口聞の説相とし℃設かれてゐるのであるが、其は貨に本師牒隼の大精神が、いかなる献態に於て表現され てゐるかを示され売のであって、税の長茶羅はそのま L 騨得。表現であり、騨傘自開であるのである。もっと皐 ハ 入 ︶ 的にいへば、木骨悼の中舎は吾等白拝する民の絹傘であり騨傘の精神である。聖人によれば、この様な本偉の出現 段悌在世では唯だ法華経本門八品の時と、末法の今日とである。との意味に於て聖人は騨骨格の民の法と、韓待自 らが、自己の民相を示された本傘とを末法の今日に説くものであるといふにある。されば吾等は之の本傘に蹄依 し、之の訟を受持する時、鰐詳の大法、大精一紳はそのま L 吾等に附典されて、吾等は民の悌子となるのである。 ハ 九 ︶ との梯子は、恰も幼稚の王子が、左右の臣下に市もそれは賢明な良臣に衛穫さる L 如くに、本化の菩薩に守られ 9 日 蓮 田 華 人 の 戒 壇 に 就 ℃ − 七 七日 本 保 殺 事 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 一 v 一 七 人 10 て 異 質 の 伸 闘 病 b q E 得といふのである。か︿て聖人の悌法に於て、其受持 D 法と蹄伎の悌とが明示された。聖人 O 悌 治はこれだけでも既に完成だといへ得る。何となればこの悌に蹄依し、とり法を受持する、其所に伸徒としての 菩等の行動が自然に考へられるからである。即ち吾等はとの本傘に蹄依し、との法主受持する事によって、吾等 の信仰も安心も定まるのであり、市も一にその教の貫践にいそしむべきものであるとなるべきだからである。而 も聖人位、との題目も、之 D 本命も、共に天台博敬未弘であるとされた。その未弘なるものを今之を明にし弘布 するoされぽ日蓮こそ明に彼等の真意を顕彰するものであり、満足せしむるものであるといふにあるo佐渡時代 は、木曾抄の制時過で格ヲたのではない o 佐渡の末期には、頗る簡単な文書ではあるが、﹁法華行者値難事﹂なる文 ハ 十 ︶ 警が記された。それには題目、本傘が天台体敬米弘であるばかりでなく E 戒壇も亦然りといはれた。とれが民障 の確存する御脅中、戒壊の文字、それは聖人自身の意味し給ふ戒壌の文字の初見である。との警は文永十一年正 月十四日附であるから、佐波赦免出後二ヶ月前のもので、聖人五十一二歳の時である。戒壇とは、戒法の授受の道 場の事であるが、これは鼠に聖人一門白岩の持戒宣寄といふ意味ではなく、買に会悌敬徒の否金岡民白持戒宣誓 といふ意味をもつのである。との戒壊のことは、然しこの文書では単にその文字が示され、市も天台体教が残す 所のものといはれたのみで、前に本傘、題目のことが本傘抄に明示された様な説明はない。天台等の未弘といふ のであるから、聖人の戒壇が侍敬大師によって創設された叡山の戒痕に簡ぶものであることは想像されるが、然 しそれ以上いかなるものか明でない。その事は猶後に鯛る L として、聖人は何故に本悠抄の時に戒壇に就て何等 網るLなくして、本骨格抄欄筆後約十ヶ月後の之の警に初めて之をいはれたのであらう。との疑は然し現存遺文を 唯一の槽能とし、而も聖人には未停の文容があったか否かを思考外とするからであって、聖人には木骨格抄直後に
或は戒壇のことか也記されたも O があった D かもしれいない。然じ今はそれ等 D 事は明でないから、組て現存文書を そのま L 聖人の思想信仰の稜表過程’として進めて行く。そこで前にもいふ如く、聖人は何故に本敏抄の後約十ヶ 月も経て戒抽恨の事をいはれたのであらう o それは聖人の内省と外的保件とから考へられねぽならぬだらう。この 観察は、開局抄の場合でも E 木曾抄の時でも同様であるが、特に今の場合は乙れ佐より一閉店に捕感するのであ る。其所で外的傑件とは、伎の寸行者値難事 L に、文永十年十二月七日附の武蔵前司の下文なるものが示されてゐ る。それは 佐 渡 間 流 入 借 日 蓮 引 − 一 率 弟 子 等 − 巧 コ 悪 行 − 之 由 有 コ 共 聞 − 所 行 之 企 甚 以 奇 怪 也 、 可 ν令 v加 ユ 附 誠 づ 猪 以 令 ユ 違 犯 − 者 可 レ 被 ν注 二 進 交 名 − 之 所 ν候也伯執達如レ件 といふものである o 之の肢を脱られた聖人は、別に驚さ給ふととはなかった。否乙れあるが故にこそ我は異に法 華経の行者だといはれてゐる o 乙れは賓に聖人の内服であるが、然し外的には聖人の身謹は貫に風前の燈といふ ベ告である。遠く聖人を訪ねて来た弟子連も安住を許さねのである。かくては佐渡の赦菟などはもとより、いよ 自 ν今以後於 τ相 − 一 随 彼 働 T 之 輩 £ 者 いよ骨を佐渡に埋めねぽならぬと思はれもんであらう。かくて聖人は自身の抱懐し給ふ魔のものを記し止めゃうと された事と思ふ。されぽこそ、今話内懐されたと思はれる戒壇の事に鯛れ給ふたのであらう。即ち戒壇の文字は 聖組。生活佐離れて考へられないのであって、との事は他の木傘又は題自に於ても同様であるが、特に戒壇心事 は、一唐の注意を要すると思ふのである。 11 抑も戒壇。文字は、﹁行者値難事 L が初見であるが、共以前に於ては全くそ O 思想なり意味なりのものが示され ︵ 十 一 一 ︶ なかったか。私はそう思はたい。文永斗年む仰童日中に編入され、市も七月六日の目附のある−宮木殿抑返事 L に 白蓮箆人目戎直に銑で 一 七 九
−
入
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12 同 本 備 品 帆 拳 咽 励 金 胃 年 報 ハ 第 十 一 一 年 一 v a d 内 − − a ﹁ 儒 教 大 師 御 本 意 固 宗 潟 ν 弘 − 一 日 本 ﹁ 但 定 慧 存 生 弘 ν 之 固 戒 苑 後 頴 ν 之 潟 = 事 相 崎 故 一 重 大 難 有 ν 之 欺 、 悌 誠 後 二 千 二 百 = 十 齢 年 子 ν 今 欝 量 品 悌 興 コ 肝 要 五 字 − 不 ユ 流 布 − 営 時 論 ニ 果 報 − 者 恐 超 ニ 倖 敦 夫 台 一 勝 ニ 龍 樹 天 親 こ と い ふ 文 が あ る 。 と の文は停敬大師の弘められた戒定慧の三撃に於て、其の弘通上前後した事が、何故であったかといふ乙とと、今 聖人 D 弘め給ふものがいかなるものであるかを説かれたも D で、偉教大師。固定国慧に相営するものは、聖人白 木等と題目であると見る時、聖人は自身の国戒をいかにされるのかといふ事が考へられねぽならない。聖人が此 所で停敬大師の場合に於て、固戒が事相の故に蒋易に弘め難く、死後漸く流布する事になったといはる主事は、 そのま L 聖人白閏戒に考へ及ぶことではないかと思ふ。との国戒賞現の困難のことは後世の御警にも見ゆる事で、 聖人が偉教大師の国戒に就ていかに観てい給ふたかは、質にそのま L 聖人の場合に営てはめて思考されてゐる D である。との観賄からすれば、聖人は此の時既に聖人御自身の戒壇を思考してゐられたのだと認めることは、決 して無理な事ではな︿、寧ろそう考ふる事が、との書が本傘抄執筆後約一二ヶ月であり、而して伎の行者値難事が それから更に約七ヶ月を経てはゐるがそれよりは約一ヶ月前に下った武蔵の前司白文書によって、いよ/\聖人 の身謹の告を感ぜらる L 事から、迭に内懐の思想を筆端にされたのだと考へられるのである o そう考ふる専がカ も自然の様に息はれるのであって、聖人は戒壇白文字を記しながら、而も猶何等む説明乞加へられぬのは、矢張 侍敬大師の場合に就ての聖人の観察から来るととで、市も聖人。時はそれがより一一盾重大性を帯びてゐた矯めに 還に何等の説越がなかったのだと思ふ。猶本傘抄には侍敬大師の戒壇にも鯛る L 所がないから、常時聖人には戒 捜の考がなかったかといふに、私は定慧たる題目、本得。ニが説かれ、而もそれが皆天台博敬未弘のも D だ、と いはれてゐる@であるから、聖人む内位には戒壇の事が既に考へられてゐた D だと息ム。だが附開時にあらす D故に何も油べられなかったのだと思ふのである。 以上の私の観察からすれば、佐渡は貴に聖人の悌法 D 大成され組織された時で、其始めが関目抄で、其中軸が 木愈抄で共の格りが行者値難事だといふことが出来る。市して前にもいふ如く開目抄は聖人自身が誠の法華経行 者であることを中心題目として、共所弘の悌法に及ぼれ、木傘抄は共の悌法の容明を植軸として、其訟を弘むる 者は誰れであり、何時であるかを説かれ、行者値難事は本食抄では猫内懐した戒壇に鮪れて聖人の悌法が何であ るかを指示されたものと息ふ。此の間宮木監官は本愈抄より行者値難事に渉る過程として、情敬大師の戒壊の事に 托して聖人の意志を暗示されたものであらう。要するに戒壇だけに就て観れぽ、木魚抄では深く之註内にし、宮 本書では倖教大師の事に托して之を暗示し、行者値難事で初めて之を文字にされたのだ。然し猫その内容は説か れなかった。聖人の脱出表が、かくの如くであったのは、後にも説く如くに、深く、内外の情勢を察し給ふたから ではあるが、同時に佐渡の聖人の生活、聖人への塵起といふ事と考へ合せねばならない D である。かくしてこそ 初めて聖人の意志が了解されると思ふ。 との様に考へられる事には、聖人の佐渡流罪なるものが、聖人の内省にいかなる資糧となってゐるかた見遁し 得たいのである o b J 時いふことそ許さる L ならば、若し聖人に佐渡流罪といふ事賓がなかったなら、又佐渡白生 活が常に聖人の生命に不安を奥ふるものでなかったなら、聖人には開目抄も本曾抄もなく、本隼の開頴もなかっ ︵ 十 一 一 ︶ たかもしれない。関目抄に﹁誰 D 借か数え見揖出と度 k ながさる与、日蓮より外に日本闘に取出んとするに人な し﹂といはれゐる事は、之の佐渡流罪が聖人に﹁我は法華経の行者なり﹂との確固不動の信念と基礎とを興へた むであり、績いて来充、いくたの犀組、生命の不安、それが更に聖人む思想に、信仰にいよ/\大事む鯨世に韮 13 日 蓮 曇 人 の 戎 柑 慢 に 就 ℃ I¥.
一 二 大 秘 法 白 宣 告 聖人は佐渡に於て題自の民の意味も、本傘の事も、戒挫の事もいはれた。然し狛共所には聖人の悌法が、本傘‘ 周目、戒壇のコ一であるかに就ては明でなかった。何となれば、戒壇の文字を初めて見る行者値難事には、天台州国 教の漣せるものとして ハ 一 ︶ ト ト ﹁ 木 門 本 企 興 − 一 四 菩 薩 戒 壇 南 無 妙 法 蓮 華 経 五 字 − 残 レ 之 ﹂ とあって、木傘、題目、戒壊の一一一が未弘だとはないのである。乙の一二が未弘だとは身延入山後の第一警と息はれ 法華取要抄﹂であって、この警は文永十一年五月白書であるから、行者値難事よりは約五ヶ月後のも D で あ る る。それには天台侍教の残せる秘法とは ハ 一 一 ︶ ﹁ 本 門 本 骨 格 興 ニ 戒 壇 輿 コ 題 目 五 字 − 也 ﹂ ︵ 一 一 一 u とあって、明瞭に一一一の秘法といふことになってゐるのである o ζ の書以後の蓄は皆本命題目戒壇のコ一が天台侍敬 桂 一 寸 未 弘 の 法 と な っ て ゐ る o そこで、行者値難事では狛一一一の秘法に謹むべき過程にあると想はねばならぬ。が、そ れは外形上さう考へらる t A のであって、内容的には、四菩薩は本傘題目戒壇の三を弘むべき人であり、他。三一は 弘めらる L 法であるから、営然分離されべきであるといふ考も生歩るが、聖人白木得。中には、四菩薩も勧請さ れてゐるから、四菩薩を後にはいはれなかったのだとも考へられる。乙の事は猶他日私の所見を趨べる時があら うが、ともかく、コ一大秘法が明確に指示されたのは、身延時代である事は鳴かである。そこで聖人は.この本得、 ︵ 同 ︶ 題目、戒壇を綿括的には、いかに呼稽されたであらうか。現存遺文には﹁三大秘法﹂の名があるが、御員蹟侍承 ︵ 五 ︶ む害中にはその名がないので、
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本所存の寄には皐に秘法又は正法 D 語を以て一部されてゐる。而して此等む語が 15 白蓮聖一人の戎穫に就℃ 日 入 一 一 一日本傍教事協曾年報ハ第十二年 u ﹃ 入 鴎 16 本隼等 D 一一一を一固持して正法と稿し、又は秘法と呼ばることは自明であるが、唯だ聖人自らが之危三大秘法と縮補 されたかは明でない。路質な文献による限り、その名がないといふべきである o 然し其の意味むあることは確か であるから、一般に本食等の三を三大秘法といはる L 事に、何等の異義があるべきでなく、寧るそれが聖人の意 を元もよく示すと考へてよいであらう。猶秘法とは一船密の法といふ意ではなく、最勝甚深の法微妙最大の法む意 であって、天台大師の﹁木地甚深之奥蔵しの法 D 意 で あ る 。 さて聖人 D コ一大秘法が何であるかは、既にいふ所であり、共れがいかなるものであるかも概説する如くであ る。其所で、之の一二大秘法は、聖人の僻法に於℃は宗旨の敬義として方も重組されたもので、乙れあってとそ聖 人の悌法は、異に其の面白を明にするとされてゐる。それは本傘は定に、題目は慧に、戒壇は戒に配せらるべき 意味をもワのであって、戒定慧の一二皐こそ、悌法の具備せねばならぬ不可快白、而も絶封的。要素であることは 凡ての悌教徒の承認する所である。されぽ聖人の悌法に於ても亦然りで、一一一撃。一をも快く事は、直に聖人の備 法の不具足を意味し、不完全といふととになるのである。故に聖人が、本傘、題目、戒壇に就て、それが自ら白 弘むるものであると宣一吉一目される事は、聖人の悌法が樺傘以来の伸法白根本僚件左具備してゐる事 D 告示であって 而も其の一コ法が、天台博教の米弘であったととは、聖人のそれが直に想
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一エ法そのもので、市も天台博敬の民 の法を弘布することを宣告するものである。かくの如く、聖人の一一一大幅法の宣言は、事質史的観貼からは、聖人 D 悌法の猫立であるが、聖人白内省からすれぽ、天台体敬等の民意を顕彰するものであり、又それは、騨傘の毘 の法を宜揚額彰するものである。然し天台体敬は未弘の故に、其白悌法は未叫ん樺傘の民﹃援を謹してゐない。 ζ の 円 十 六 ︶ 意味から、根等は聖人の僻法から時に簡去さる L ものを持 AJ てゐる。杏紋等の巳弘なる訟に針L
て、其未弘なる法乙そ今の=一大秘法であって、とれとそ毘貫の悌法であり、未弘の唯一一無二 D 法であって、其を聖人は弘布する のだとされてゐる。かく見て来ると、聖人の一二大秘法は、聖人の僻法の最重貼であることが解るのである。 ハ 一 一 ﹀ ハ 一 一 一 ﹀ ハ 一 一 一 ︶ハ凶︶ ハ 五 ︶ 縮 品 川 遺 文 品 開 一 、 O 二六頁 関 ム 一 、 O 間二頁 報 恩 抄 H 縮加遺文録一、五 O 入 頁 三大勝抄の如曹、叉英文中に一ユ大総法の名あり H 縮 品 川 遺 文 鋒 秘法の文字は持法務取要抄 H 縮品川遺文鋒て. 0 四二頁 定法の文字は報恩抄 H 同 上 一 、 五 O 入 頁 親心本館抄 H 関 上 九 四 七 頁 一 一 、 O 五 一 真 ハ 六 ﹀ 第二
連人の戒壇に就℃
戒壇建立の意義 我が園へ悌法が侍来されて後、出家者のあるに至って戒律の要求された事や、それが漸共に戒壇。要求となっ た事は、此所に説く起もない。戒壇が我が岡の悌法にいかに重要な役目を持ったかは、人の皆知る所であって、 戒壇を踏まざる者は、結極正しき比丘としての資格を得なかったのである。されぽ、我闘の出家者が、異に悌敬 徒として、而も比丘として、堂 k 其位置と資格とを確保する潟めには、又比丘としての民債依を盟揮する痛めの ものとしては、是非とも戒壇を要したのである。この射に於ては、博敬大師の場合も同様であって、大師白国頓 戒壇は、其意義、性質等に於て、南部の戒壇に異るもむがあるとはいへ、とれによワて民む大借たらしめ、以℃ 17 日蓮田甚人の戎壇に就℃ 一 入 五四 本 傍 敬 準 協 曾 年 報 ︵ 第 十 二 年 一 v 一 八 六 18 問責たらしめんとした事は確かであって、其門徒も亦そうあらんとしたのである。故に、戒壇は精神的に把持し得 る戒律を今一段と強化する錆めにも、出家制何度脊が民の大俄であることを自覚え他せしむる矯めにも、是非必要 たのであって、唯に授戒作法の道場といふ意味だけのものではなかった。特に我闘の併法が、早くから闘家と至 深の関係を有って世達し来った事情から見るも、併訟は民に閑寂の精一柳として存在すべきものであり、傍法者は 其精一脚色昂揚につとめ、又以て岡家を鎮護せねばならぬとしたのである。従って朝起の御思考も、韓舎が悌法主 闘王に附せられたとの精一脚に於て、之を保護し之な弘布せねばならぬとされた。かうした思粗から戒壇の賓現が ハ 一 ︶ 考へられたのであって、之の戒壇を踏み、其所で受戒したものは、貫に閲覧であヲたのである。停教大仰が、園 賓とは菩薩借@事だと誼破されたのは誠にこの見地にたっ至営の語であったのである。爾来我が岡の僻法は、共 宗のいかん左聞は歩、南部に叡山に夫 A D 闘係に於て受戒したのであるが、共後種々の思想の興起、特に末法観 念白隆なるにヲれて、戒壇白事が飴り考へられなかったばかりか、迭に戒位。受持その事起が問題一刺さる L 棋 に たワたのである。かうした時の流れに生れられた日蓮聖人は、自己の俳法の不可般の一要素として、戒壇の事が いはれた。これは私共の克も注意すべき一事でなけれぽならぬ。 思ふに、聖人に於ても、戒壇む意義が停敬大師 0 .所見の如くであった事は時かである。杏侍敬大師。それを未 弘といはれた事は、体教大師の戒壇以上のものを認めてゐられた事は、明かである o 停 歌 大 仰 の 戒 壇 が 、 岡 山 家 。 許可のもとに建てられた事は、之の戒壇を踏む菩薩併は、同家の認めたる岡賢である。故に共戒坊は誠に深大の 意味をもつものであって、聖人白戒壇も亦其れであった事は確かだと息ふ。かうして見ると、戒檀む建立といふ とと位、貴に軍大む意麓を持つもむでたければならぬ。
日本偽敬挙協曾年報ハ第十二年一 v 一八八 笥】 華 巌 の 一 一 コ 畢 で は な い と の 意 を 明 に し て ゐ る o 大師は又乙のさ串は、費に桓武帝の御願を果すものだとされた D で ある。即ち大師の額戒論に ハ − v j
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a ヲ ル レ ラ 先 帝 新 加 年 − K 雨口也、其折加旨者其専詩 ν偉 = 持 園 頓 戒 定 慧 − 也 、 不 三 但 怖 コ 求 出 家 功 徳 − : : : 誠 願 雨 制 度 者 勘 ユ 山 修 於 多 年 − 誠 3 文 義 於 中 使 ↓ 然 則 固 宗 三 撃 不 ν 結 ユ 本 朝 − 先 帝 御 願 永 博 コ 後 際 v ハ 一 一 ︶ とある。かくの如く大師 D 天台宗は−登駕桓武皇帝錆レ園所 ν建﹂のも白で、共の夫妻宗左完全ならしむるものは、 先にいふ固定国慧の外に、之の国頓戒壇の設立である o 乙白国頓戒壇の設立あってこそ、天台法華宗はコ一撃具備 の宗旨として官民に鎮韓国家の役目を呆し得るものであり、それを果すべき閤賓を養成し得るものだといふので ある。市して其の園頓の三撃とは、貴に法韮二乗。一一石畢である。特に英国頓戒は、法華一飛を棋底とするもので、 犬師が共戒相を党網経に求め、其停戒法を普賢経に求められたにせよ、其戒髄む思想は全く法華一乗にあるので あって、園頓戒を金剛賓器戒とする所以も‘質に法華一飛にありとするからである。乙れが聖人の観方であるか、, 犬師自身に於ても全く然りであったと思ふ。大師が額戒論に於て、度 A 国頓 D 一 一 一 畢 と い ひ 或 は 固 宗 の 一 一 一 撃 と い ふ もむは、明にその根本思想が、法華一飛にあった事を示すのだと息ふ。との意味に於て、大師の僻法は、聖人。 いはれた如く、法華中心のものであって、決して願密一致的のものでないといふべきだと思ふ。然し吾等として 此所に考へて見ねぽならぬ乙とは、偉敬大師のいふ法華一一飛とは、思想としての一一架であって、一乗思想そのも のとしての法華思想なりやといふ事である。私は大師の場合は、一一飛思想としての傾が強かったのではないかと 思ふ。即ち大師 D 思想は、之を・史的に甑て来ると、.大仰が法華経といはれても、それは一乗思想を盛った経典と しての法華経といふ乙とで、又一乗思想とはニ乗作俳乞説錯するもむとしてむものである o 大 師 が 修 簡 単 と し て ではあるが、止観業と遮那業とそ故修し、而も共の問何等の勝劣をいはれなかった事は、犬師の思想が雨業共に一 乗思想に於て一たりとする故ではたかったかと息ふ。之を要するに大師は法華経から抽象した一一束思想を認め℃ ゐたのではないかと思ふ。無論一一架思想の
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確に教示されたものは、法華経であると認めてはゐられたが。大師 のとの事は、.聖人の場合と比較すると明に相違するのであって、聖人に於ては法華艇を離れて一乗思想を思考す ることが不可なのであって、聖人はいは立法華経の文字其所に直に特骨悼の民意があるのであって、法華経から抽 象された一衆思想は、稗愈のものではないといふのである。いは三大台大師が静量口聞の久遠貫成を五百億慶賄と ︵ 一 一 一 ︶ 見た事は、質は不徹底であって、薄金品は直に稗傘の久謹無始詮説いたものである。それは、天台大師のいふ五 ︵ 問 ︶ 百億塵駄の文それが、そのま L 無始久速の説明である。この様に、無始久還は、書量品。文意に躍動してるので あって、薄量品の文堂、有限的に観ることが蒔量品の意を得ざる如くに、需量口聞から抽象して無始を考ふること も謬りである。即ち法華経を離れて牒写の思想を考ふることは不可であって、法華経白文字に緯傘の精神が示さ れてゐるのである。これこそ貫に最も確な、而も最も具煙的な緯傘自身の教示表現だといふのである。こうした 観方からすれば、侍教大師の法華経は、未だ至るべきに至らや、市も其一一束思想は、聖人のそれの具盤的なるに 及ばない。然し大師。一一来は、密教の一一飛でも、華巌むそれでもない。との意味に於て、矢張大師は法華中心だ といはれ得る。市も其国頓戒はそふで、其の国頓戒が大師の畢世の事業であり、而も大師のいふ岡賢なるもむ は、此の国頓戒によってのみ完全に養成され、かつ所期の如くなるといふに於ておぞである。 ハ 五 ︶ 共に大師は、この国頓戒を単に天台宗の者。魚めにされたか否か、といふ問題を考へぞう。大師。意によれば 大師の園頓戒は天台法華宗の者の詩めにするむであって、あいて宵郡白者む認めでたいといはれる様である。若 21 白書世塞人目戎穫に就て − 八 九日 本 偽 敬 車 中 協 曾 年 報 ハ 第 十 二 年 ︾ 一 角 。 22 し天台一宗の者の矯めだといふのであったら‘甫都の者が何故に之に絶封反封をなしたか。其れに就ては一は‘戒 壇そのものに劃する思想上の事と、一は政治的闘係とから観察せねばならぬと思ふ。然しそれを論究することは 今の問題ではない。が少しく之に胸る L ならぽ、先づ政治的方面からすれば、南都白者は大師。主張乞以て自己 の擢限の侵害と考へたのである。探然が侍通縁起にいふ様に、甫都の戒壇は其戒相としては小乗の二百五十戒で あっても、之を受持する人によって、或は華厳 D 戒となり、或は法相、一一一論の戒となるのであって、我闘の出家 者としては、是 D 戒壇以外に大借たる気めの戒壇を要せぬといふ主張を、南都の者は堅持したのである o 然るに ハ ム ハ ︶ 偉教大師は之を小栗戒壇とし℃庇したばかりか.天台法華宗の煮は化他 D 清めには或は之そ受くる事はあっても、 闘賓としての菩薩借たる天台の 4 4は、之を踏むを一安せぬとしたのである。されぽ南都方からすれば、それは明に 実構限の侵害であり、今日趨の構成。失墜であって、往いては侍敬大師への屈伏である。故に之を政治的には貰 に侍敬大師の主張は、結極南都戒壇の全面的否定であり園立戒壊は、唯だ叡山む国類戒壇のみであらねぽならぬ といふことになる。然し彼等が其所迄考へての反封か否かは明瞭でない。が大師の戒摺が彼等の槽限、伶制と ︵ 七 ︶ しての職槽に影響することには相営考慮する鼠があったらう。何となれば、叡山の年分接生が、南都借綱の直接 指揮を受けぬ様にとは、大師のいふ所である。而も更に戒壇への登壇を不可とするに至つては、叡山の者は南都 の配下から完全に滴立する事になる。かくなっては、今日迄日本に弘められた伸散の総括的指揮統督の位置を持 った借綱等としては E と℃もたいられぬことでなければならぬ。彼等からすれば俗制は我が闘の会僻敬徒を統制官 するものでなければならぬ。然るに共れが不可能になる事は、引いては今日の槽限む崩壊への道行でなければな 色ね。かくては彼等として今日及将来の矯めに、大師の主張に反針せねばならない。然るに大師としては必歩し
も彼等白樺限を無脱するものではなく、彼等 D それは己然認むる O で あ る o 何となれば大師は南部六宗 D 者 が 奈 良の戒壇で戒律佐授受することを否定するものでない。杏天台 D 畢徒と睡も久修業の者が利他の故に南郡戒壇に 登るととを担否してはゐない。乙の事は寧ろ南郡戒壊の骨格震でなければならぬ o 故に商都の者が其槽限の失墜と 考へたり、将来の事に思危姐らしたりすることは彼等自身の杷憂であって、大師に於ては全く思考せざる事であ る。故に甫都の僧制等が英政治的指間観から、大師。事に反封するものは目標を誤ったものである。 雨者の主張は大偶有様であるが、.結果からすれぽ、借制等の憂が事質となって顕れたのである。即ち後世奈良 の 律 宗 が 滅 亡 献 態 に な っ た の は 、 大 師 の 園 頓 戒 の 故 だ と は い は れ な い が 。 一 要 は 天 台 、 民 ・ 一 白 雨 宗 の 隆 盛 と な ワ た 事 、 南部の人遣をして殆ど凡て奇異言余撃に導いた事、.それが既に械等の思想信仰に、前とは呉ったものを奥へもん 事は確で、それが叉戒律思想にも重大た艶化を興へたのである。律宗の戒和向。系肱が、平安朝の中葉なら守 して、断絶蹴態であったのに比して、叡山の固類戒肱が永く後に停はる所以は、観方によっては、叡山戒壇のみ ︵ 入 ︶ が闘立戒壇として認められることになったのだといはれやう。聖人が、日本一州の者は凡て侍敬の弟子だといは れたのは賓に此等の意味を含むのであらう。故に大師の戒壇は大師の営時にあっては、あいて之によって南都諸 宗を統一しゃうとのものではなかったらうが、其後の進展は、そうなるものを有ってゐたといへるのである。 右は主として倖教大師の戒壇のもつ政治的方面の事に就て Y あるか、更に大師の戒壇の思想的方面を小観しゃ う口大師の戒壇が法華一一飛によるとは既にいふ如くである。そ乙で法華経はその教理が統一的、綜合的 D も の で あるとは一犬台大師。既にいふ所である。大師が法華経は伸意開額の教だとは誠に法華経の意を克もよく一部すも@ である。此の法華の意による戒壇から、商都む夫を観る時、そのもむは未だ震なるものでなく、俳意に契ふたも 2S 白蓮箆入。戎壌に就て ホι
日本働敬挙協曾年報︵第十ニ年︶ ;ft, 24 のではない。異質なるものは噌だ国頓戒壇あるのみである。故に根等が民の大借たり、異質の菩薩たり、誠 D 園 費たらんと希求するなら、今日記の聾聞戒を棄拾するはもとより、今起の戒壇へ行く事を止めて、唯だ叡山の戒 揮を踏むぺをである。これ法華思想からする営然の蹄結である。南都の 4 4 が此の思想に反封であるは営然であ る。然し大師が英主張に於て前記の如くにいはれなかった事は確である。私は唯だ其結果と法華経中心の思想の もつ遁程とからかくいったのである。大師に於ては南都の戒壇の外に国頓戒の存在すべき事を敬理からも、文置 からも事貫からも立読されて、未だ、故に南部戒壇を否定して、別に国頓戒壇釈一建立するのだ。然して国頓戒壇 以外の何ものをも承認せぬのだとはいはれない。寧ろ南都戒壇の存立役承認された事は前記の如くである。だが それにもか L わらす、大師の思想をグツと突き進めて行くと、特に法華中心、統一綜合といふ思想を推進めて行 ︿と私のいふ如くなると忠ふ。ムんも同し法華経であり、其の思想である法華開頴といふことに就ても、天台宗の 人 K の意と、日蓮聖人の考とは具ってゐる。天台宗の人 k には、開顧とは、法華の立場から他のもの左観ると、, 夫 K のものは皆そのま L 異質を開制してゐるであって、そのものを失って法華になってしまうといふことではない としてゐる。故に訟華といふ思想友逸せぬものなら、何でもそのま L でよいといふに闘する。だが聖人に於ては 異る。聖人に於ては凡てが法華に蹄したとは、法華の精一脚に復活した事で、根等の従来の観念が改められた事 だ。故に彼等は昨日起の滴存的な考を止めて、凡て法華といふ精榊に更生し、其の精榊に統制され、組織された 存在たる事を認むる事である。故に法革曾中にあって、彼等が狛替態を持値することは、彼等自身が無意味。存 在を唯だ持続するに遁ぎない。といふのである。然し乙の時 D 意は椛等を凡で破壊し否定して凡てを平面化しゃ うとするのではない。彼等に新しき存立の意我を見え出さしめて、民の立樫的、統制的、組織盟としてのもむた
ちしめゃうといふりである。かくの如く聖人の、開頴思想は、天台皐徒 D 一 部 の も の と は 非 常 な 差 師 事 、 を な し て ゐ るのである、共所で、聖人のこの立場に於て、博教大師の決議思想左考へ、かつ闘頓戒壇佐観る時、共は常然南 都の人 k の戒摺思想と王面的衝突とならざるを得示、叉との思想は常然南都の戒律を棄拾する乙とを要求する。 尤も侍教大師の韓関戒たる南部の戒律棄拾がこの考へからであったといふのではない。犬師の場合は狛別個の観 勲そ持たねばならぬだらう。今は唯だ素人の観られたる偉教大師の国戒設立の思想は、かくあらねばならぬとい ふのであり、かくあるといふのである。 以上の如く、大師の戒情況は共の思想からも、.政治上からも.南都のそれと割立せざるを得なかったのであって、 との様な戒壇を設立しゃうとするのであるから、大師のそれが容易でなかったのである。叉大師の事業は、事貫 非常な困難に遭遇したのであって、大師は生存中途に其勅許を件給はなかったのである。以上は大樫聖人の大師 の戒壇の貴現が困難であった事の観察でるったと息ふ。聖人が、事相の故に一章一困難であったといはる L の は 、 戒壇建立といふ事貫、戒壌が現賓の存在物だといふ事ばかりでなく、共れには前記の如き重大な思想的及政治的 意味が含まれてゐると岡山ふのである。要するに聖人の、大師白国戒観は全面的に南都のそれと樹立するもので途 には共の存立を否定することに詮る。其所に抗争さる L べきものがあった。放に大師の営時容易に質現しなかっ たのだ。さて然らぼ聖人はいかに。それは共に説くであらうが、大師に於て既に困難であった事は、聖人の場合 には更に/\困難である。だが大師に於て、戒壇建立によって固の一ニ附晶子が具備した如くに、聖人の場合にも亦具 所に考へられねばならぬものがあるのである。 25 ハ 一 一 ﹀ 願戒論下目簿敬会館情 一 、 一 五 O 頁 日蓮聖人の戒壌に就℃ 一 九 三
日本働教事協曾年報ハ第十二牛﹀ 一 九 回 26 ︵ 一 一 ︶ ハ 一 一 一 ︶ ハ 四 ︶ ︵ 五 ﹀ ハ ム パ ︶ ハ 七 ︶ A U 入 V 上 問 棚 戎 論 表 H 向 上 一 一 一 五 五 頁 関 目 抄 H 納品川遺女鋒七八九頁 問 主 目 同 上 七 六 六 頁 天台宗年分度者向心肉大式 H 俸敬全集 向 上 惇越一心戎文中日楠昨秋全集一ノ五六七及五六九頁 撰 時 抄 H 縮加泣女録一、ご O 二 一 氏 一ノ一六頁 聖人の戒壇建立に劃する深慮 聖人は侍教大師の戒壇建立が貫に容易からぬものであった事を説かれた。而も其戒壇 D もつ重要義に就ても説 かれた。それは貫にそのま L 聖人の場合に常てはまるのである口否聖人に於ては、.より一一暦の重大性が加わるので ある。それが聖人をして、戒壇に頗る慎重を期せしめたのだと思ふ。既にいふ如く、聖人は、聖人の文書中に、 戒壇一白文字を明記し、それが天台倖教の未弘であることを確言しながら、戒壇と同一位置をもった他白木骨格越国 に就ては、韓 K 説明を加へながら戒撹に至つては殆ど説明がない。之は全く問調事相の放に、一重難多き震めで あらう。聖人は侍敬大師に比して、其批合的位置も低く、政権者との闘係も非常の呉りがわツた。又聖人と諸宗 との閥係は停教大師がもったそれとは、及びもつかぬ程の踊りであった。加之聖人の戒揮は侍敬大師。戒壇をも 否定するものである、それは聖人のど木弘﹂の話中にそれを示してゐるからである。此所で吾等は考へて見ねば ならぬ。それはこむ侍歌大師の戒壇も猶騨傘白民窓を殺揮してゐないとむ意が、聖人に依って弟子闘部等にいは
る L 時、枕等はいかに之を受け入れたか。税等は之を今日の吾等が聖人 D 御文章を拝讃する様な気持で受け入れ はしなかったらう。何となれぽ彼等は今日誼聖人の教に導かれて来たが、然し根等の歩んだ道は坦々ではなかっ た。聖人に連類して流罪に又は死罪に行はれやうと起はしなかったが、身を迫はれ或は打たれて来た。即ち彼等 とても常に安穏ではなかっ−
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。然しそれは常に聖人から教へられて来た事だから、彼等としてはそれ位の発情は あったらう。でも聖人の佐渡流罪については根等は惑耳潜心して、聖人の日頃の教訓を忘れたものがあったでは ないか。乙の事は開目抄に明示されてゐる事だ。と白様に聖人 D 弟子問那の凡ては決して聖人の民意を理解して ゐる者連だけではなかった。乙うし売者に本傘題目戒壇のみが天台体教は未弘であり、それを今弘泊するのだと い は る L 時、彼等む聞にいかなる心理が動くだらう。題目のことは永い問教へられた事で、税等は常日頃唱へて ゐた事だから、それに就ての聖人の教示は素直に取入れたであらう。叉木持悼の事も、それが法華経の設相として 苔法華経の異精一脚として示されたのであるから、停歌大師の木魚、即ち叡山の薬師如来と臭ってゐても、聖人の 御教が 4 んの事と受取れたであらう。だが戒壇の建立も今行はねばならぬといはる L 場合、彼等は前両者の如くで はなかったらう。何となれば木傘が聖人によって閏額される様に、戒壊の貴現は聖人一人によってのみはなされ ない。故にこれは杢門下の一致圏結のカによら紅ばなら歩、而も潟政者との交渉もなければならぬ。然るに現賞。 献は前にも少しく説く如くに、誠に容易のものではなかった o 然も戒壇の貫現となれば困難は今日以上であり、迫 害は更に/\加はるであらう。此の事を思へぽ弟子信徒等は齢りの大事に全くなす鹿を知らぬといふ欣態であら うと思ふ。猶彼等の今日迄の感情。一面を思ひぽ、聖人の日頃の法衣が天台併のものであった。されぽ聖人は外 27 利からは天台の者に等しい。だのに戒壇白調立その設立となっては全く今日迄の忠ひを全然改めれ恥ばならない。 白蓮恥詩人の戎穫に就℃ 一 九 五筒本偽秋場協曾年同開︵第十二年﹀ 一 九 六 28 この様に杭等の瀧心は貫に想像に蝕りあるものがある。乙の事を思ふと、凡てに深を観察を有たる L 聖人が、是 非ともなければならぬ戒壇であり、貫現せねばならぬ戒壇ではあるが、内外の情勢は到底それを許さない。然る にもか L わらやノ、戒壇の事に闘する凡ての事そ設き一部し.かつ其寅現に突進することは誠に暴といはねばならぬ。 さればとそ聖人はその賓現の諾動はされなかったのであり、設越もいたされなかったむだと思ふ。然し戒場はな ければならぬものであり、聖人の悌法からは営然共れに到るものなるが故に、戒壇の文字を示し市も天台博敬未 弘白話に於て聖人む金意をこめられたものであらうと思ふ。之を要するに聖人は一一向にはあ子檀那等の心情、英 貴際を熟知し給ふが故に、而も未だ時にあらや Jと思召すが故に、凡て左﹁未弘﹂の一語に止め置き給ふたのであ pり 弓 ノ 。 又前にも少しく記した様に、聖人の遺境は倖教大師に比して飴りに語い。聖人は凡借であって、官借でも、翠 伶でもなかった事は明で、この貼は親臨時、法然等 D 諸聖と一である。従ってその批合的の位置の低い事は自明で ある。聖人が政権活と閥係の滞かづた事は明で、聖人の場合は寧ろ政権者から迫害されたのであって、侍秋大師が 朝臣中に有カな後援者そ有ったこと L は雲泥の差でるる。宗門の侍では、北俊氏側泣の士たる宿屋光則が後に聖 人に蹄依したといふか、体教大師に劃する和乗員網や弘世のそれとは臭ってゐた。税等は大師を高雄に請じて議 設を乞ふたぽかりでなく、大師。事業には、常に歪深
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尿意をよせてゐたのである。聖人白遺文中には、北僚揃 源太なるものが、聖人に蹄依した事を示してゐるが、それが呆してどの程度のものであったかは、狛十分の検討 を要するのである。聖人と北保氏、蛇ぴに其周囲の構勢者との闘係は、停敬大師が国戒を奏上し得た様なもので はたく、そんた事は夢想定もし斜たいもむであった。聖人と営時 U 朝廷の植医との問には何等む縁がなかったとA げ 4U 思ふのである。叉聖人と諸宗とD事はいふ趨もなからう。傭敬大師が蹄朝後の翌年上奏した年分由民者の制は、南 都諸宗の歓迎する廃であったが、聖人にはそふした事が片鱗だもない。との様に聖人の営時は、弟子槽那に向っ て戒壇の事そ示苫る L 事はともかく、之を公にし、市もその貫現を望むなぞ到底考へ得られぬものであった。而 も聖人の戒壊は、叡山の戒壇をも否定するものであつがト。その事ば聖人か米弘の名に於て聖人自身白木符と題目 ︵ 一 一 ︶ とを弘められた事に伎でも明で、市も聖人は大師の法華思想は、控面本裏の義であり、其妙法は名玄義の介域を 問でぬとされてゐる。乙の思想による国頓戒壌が、聖人の寛に満たね事は営然である。されば聖人は延暦寺 D 戒 壇の外に、聖人自身の戒壇を思考し給ふてゐたのである。而して其戒壇を建立する事は、私立であってはならな い。必守閣立でたければならぬ。それは停敬大師の時に、奈良戒壇の時に然りであったか如くである。然るに、そ れは聖人に於てはみ一くの絶望である。之れ聖人が戒壇に就ての貫現活動むない理由でなければならぬ。以上は主 として聖人の弟子壇那以外の事に就て考へたのである。此の内外面白貫情を観察する時、聖人に戒壇賞現 D 運動 のなかった事が首肯されやう。然らぽ聖人は聖人の戒壇はいかなる時に賓現するとされたであらう。それは侍教 大師が先づ国慧固定左弘めて最後に、いは Y 機漸く熟せりと認められた時に、固戒運動をされたが、而も猶容易 に達しなかった事であるから、自身に於ても、先づ本写題自のととを弘めて、民の戒壇の事は、後に之を期さふ とされたものであらう。その事は、本曾抄に、.本化の菩薩が出現した時と其教法弘布の態度とを記して ︵ 一 一 一 ︶ 、 テ 営 ν知 此 四 菩 醸 現 = 折 伏 − 時 成 コ 賢 玉 − 誠 司 一 資 悪 玉 ・ 行 コ 揖 受 ﹃ 時 成 レ 借 弘 コ 持 王 法 − といはる L 所に、其意を汲む事が出来る様である。即ち騨傘む正法が弘布された時にとそ、異質の戒壇は建立さ れるのであって、その時を諮るベく不断の精建が耀績されねばならぬといふにある。侍敬大師の俳誌は、桓武 29 日 蓮 説 一 人 の 戒 壇 に 就 で − 九 七
日本働教事協曾年報ハ第十二牛﹀ 一 九 八 30 帯。御蹄依により、闘家的意義に於て成立したのである。厄武帝崩御の後も朝廷の御臨依は績いたのでるるか ら、大師の時には固戒の運動がなされ得たのだ。然し聖人の場合は、事情乞具にし、営時の朝廷には未だ聖人 の存在が知られてゐない。とふして来れば、聖人に戒壇賞現の運動なく、叉其説症のないのが営然でなけれぽな ら ぬ o といふと、貴現運動その事はそうであったとしても、英の戒壇の意味、共受戒壮一寸の思想的方面の事は弟子 逮に倖承されてよいであらう、といふであらう。いかにもそふ考へられ得る。そうした意味のものが、弟子建 に設かれ、或は文書として授興されたかも知れぬか、今日そふしたものが倖へられてゐない様である。本門戒盤 抄や、一一一大秘法抄は、そふした意味の考に答ふるものである様だが、私は伎の文書を直に然りとする事に使越す る 。 然し、棋の一一一大秘法抄に、玉医の蹄伎を得、霜山の如き勝地にこそ、聖人の大戒壇は建てられねばならぬとあ ることは聖人の意を倖ふるものだらうと思ふ。然し其時仕いつか、もとより計り難い。無論聖人の教法の弘布。 時である。土地が鰻山の如き勝地であるとは、之を抽象的なものとしてのみ異質であって、それは法華経を読き 給ふた騨傘の佐蕗の如を意味である。然しそれがより具偶化される時、勝地とは身延が宵士か中山か何れか明で ない。何となれば、伎の一一一大秘法抄の戒檀の場所の説明は、全く抽象的だからである。 之友要するに、聖人の戒壇は、法草木門静量 D 戒壇であって、体教大師の戒壌はそれからすれば法華遮門の戒 唱である o 述の戒壇の質現にすらあの困難があったのであるから、裂人の時は無論である。市も其の戒壇のもヴ 性質意識共に一軍の深さにあるに於ておや。されば、聖人は唯だ戒壇白文字と E 天台体教の来弘なる含示して、 仰を後に教示されなかった c それは全く質際問顕であり賢現さるべきものであるからである。
ハ 一 ﹀ 門 一 一 ︶ ︿ 一 一 一 ﹀ ︵ 四 υ ハ 五 ︶ 天台法載中宗年分縁起 H 惇 教 会 集 一 ノ 五 貰 親心本館抄 H 縮般遺文録九四五頁 問 ’ A H 関 上 九 四 人 頁 締 法 誼 文 鎌 一 一 、 O 五 三 一 良 惇燈抄抗日蓮宗々準金集ハ史偉帯前記部︶ l's!
頁
第
三
聖
人
の
戒
律
聖 人 D 悌 法 聖人の戒壇に就ては大略師連の如くである。然らば聖人には戒律なるものが、いかに考へられてゐたであらう か。其事 b t 思考する前に、今一度聖人の悌法、特に聖人の題目に就て考へねばならぬ。何となれぽ聖人の働法は 草的には唱題そのものであって、唱題白外に聖人の宗教意識がないといへるからである。聖人は唱題の矯めに絡 始されたのであって、これを受持すること、との信仰を賃践すること、それが聖人D伸法意識であり、信仰観念 であったのである。直司一目すれば聖人に於ては、唱題することそれが正しく本骨格を拝することであり、戒律を受持 することであって、本傘の御前で、至信に受持唱題すること、それが受戒であり、其所が自誓持戒の道場とし℃ の戒壇であるのである。されぽ聖人に於ては、南無妙法蓮華経以外に法はなかったので、それが吾等の受持信仰 怒る意に於いて、唱題としての悌法行であり d 、 一 一 工 事 の 所 謂 慧 に 相 営 す る も の で あ る o 市して南無妙法蓮華経が、 樫 傘 D 因行果徳そのまのであって、吾等に糟骨骨 O 金慢を墾げて譲興L
、開度し敬導し給ふ意味に於て本傘であり 定である o 更に南無妙法蓮華経が、吾壮一寸の信仰によって受持せられ、市も稗隼の因行来徳が譲興されて吾等が民 31 日蓮翠入。戒壇に就て − 九 九日 本 崩 御 秋 場 協 曾 年 報 ︵ 第 十 二 年 V
一
OO 82 の伸子として、普等の信仰生活を乙の現賞。世舎に費践する、それが戒律であり、共戒律。詩興を菓くる所それ が戒壇である D 縫って聖人の戒樫が妙法蓮華経であることはもとよりである。 聖人。悌法は賓にかくの如くであって、聖人が之の悌法ぞ昂揚せらる L 限夕、聖人の事貫上白戒壇が少時たい としても、聖人の戒は現存するのであり、戒壇の意義も存するのである o この故に、聖人。僻法は、伸法として の 絶 待 係 件 ・ 売 る 一 一 工 事 に 於 ℃ 何 等 献 く る 魔 な い の で あ っ ℃ 、 唯 だ こ D 悌法が金岡民。、全人類の働法としてのカが 承認せらる L 時にとそ、戒壇が成立するので、その質現に精進する事が、聖人の門下に建された責任でなければ た ら ぬ 聖 人 の 戒 律 聖人 D 伸法に就ては師越する如くであるか、聖人は、聖人の戒壇がいかなる慢相組織等のものであるかを示さ れなかったばかりでなく、聖人の戒律が何であるかに就ても一 k 指示し給はなかった。然し吾等の先師壮、深く 聖人の意を探ぐって、予が既挫する如くに、聖人の意を説明した。予も亦共れを信じて前述。如くいったのであ る。其所で考ふベを事は、聖人に戒律の事が戒法の事がないから、聖人に戒律受持の意がなかったと、いへるか 苔かといふ乙とである。聖人の警なるもの L 中には、侍敬大師の著といはる﹁末法燈明記 L D 、末法に持戒ある は市の中に虎あるが如しとの意の文が引かれてゐる庖がある。然してそれによってあいて末法は無戒だと起は明 骨一目してないか、文意にそれ左合むものがある。例せぽ﹁前橋抄に 円 一 ︶ 宣後既に描ぬれば持戒は市の中の虎む如し智者は麟角よりも希ならんと。乙れ明に宋法無戒を意味するものである。若し末法無戒を真に認めらる L 聖人マあるなら、戒壇をいふ要は ない。それあることは明に矛盾である。戒壇を主張する以上、市も其れが天台情歌未弘のものであることをいふ からは、明に末法無戒ではない。市も聖人の確質なる警には、皆一様に末法無戒を意味する様なものがない。其 所で聖人には明に戒律があったのだと考ふべきである。然らぽ聖人の戒律とは何であらぅ。 との事を思考するに、戒律とは同家者として D 特殊律法であるとの考の吟味から初められねばならぬ。何とな れば、初期 D 戒律は、明に出家者としての特殊律法であったからである。然るに、聖人の頃には、其考が縫って 寧ろ世間遺徳を、より高き悌法信仰に於て把持する事が、戒律であると考へられて来た。即之は一千安期末から盛 になった凡伶型の撃徒に於て持せられた思想で、市も入遣の盛であった事は、この思想を益 k 隆品ならしめたと 思ふのである。僧衣を着した妻帯者が、印度伸教から考へられ得るか、支那悌教から思考され得るか。それは組 待に不可能である o 税等から観た日本の営時の僻教は、明に所謂皐悌法の外道でなければならぬ。然るに日本。 僧侶からすれば、かくて乙そ真に悌法が、民衆 O 中に生きるのであって、悌法が単に山林白、比丘むものである たらともかく、大衆詮済度し敦化し、而も大衆と共に成僻するものであるなら、大衆のもつ遺徳意識、それがよ り高い観念に於て把持されることによって D み、悌法の戒律なるものが民生命を持つのだと思ふたのである。震 に信仰に生きて信仰を中心としての普等の現賓の生活を経ること、それが僻者の姿であって、法華経にいふ治生 産業皆質相と違背せすとの意に合するものである。聖人も亦質に乙の思想を有し給ふたのでおる。 聖人には戒壇賞現の運動のなかった事は既にいった。然らぽ聖人の身延九ヶ年は、所謂隠栖であって、何等@ 運動がなかったのであるが。聖人には停敬大師のぞうた億山の制定はない、止観遮那む梼な製業む制定もない。 33 白蓮婆人の戒壇に就℃