NII-Electronic Library Service 『
真
州
長
蘆
了
禅
師
劫
外
録
抄
』の
研
究
(下
)禅
籍
抄
物
研
究
会
代
表
石
川
力
山
N工 工一Eleotronlo Llbrary Servloe は じ め に
太
田 瑞 岩 寺 ・桐
生 鳳仙
寺 等 の 開 山 で 、竜
ヶ崎
金 竜 寺 七世
貫
之梵
鶴
( 一 五 〇 五 〜 一 五 九 〇 ) に よ る 、真
歇清
了 ( 一 〇 入 入 〜 一 一 五 一 ) の 語録
の 抄 で あ る 『 劫 外録
抄
』 ( 以 下 「 梵 鶴 抄 」 ) に つ い て 、 研 究 会 ゼ ミ に よ る輪
読
を 開始
し て す で に 三年
目 に 入 っ た 。 こ の 間 、 二 回 に わ た り 、輪
読 参加
者
の 共同
作
業
に な る 『梵
鶴
抄 』 本 文 の 翻 刻 、 お よ び 『劫
外
録 』 本 文 に つ い て 、寛
永 刊本
( 寛 本 ) ・ 面 山 本 ( 面 本 ) ・ 万安
抄
本
( 万 本 ) ・ 大 乗 開 山徹
通 和尚
註
本 ( 大 本 ) の 異 本 四 本 に よ る 異本
校
合 を 行 い 、 さ ら に 『劫
外 録 』 や 『 梵 鶴抄
』 に 関 す る基
本
的
な 考察
を 行 っ た も の と 、 そ の間
に 行 っ た 『梵
鶴
抄
』原
本
の 所 蔵者
岸 沢 文 庫 の 資料
調査
の 中間
報
告 も併
せ て 掲載
し て き た 。 か く し て 『梵
鶴抄
』 の 三 分 の 二 の 翻 刻 が成
り 、 本 号掲
載
の 残 り 三 分 の 一 と 合 わ せ て 、 翻刻
の 作 業 は完
了 す る こ と に な る 。 駒 澤 大 學 佛 致 學 部 論 集 第 二 十 七 號 罕 成 八 年 十 冖 月今
回 は 、輪
読 参 加者
の 中 の 、博
士 課 程 一年
道
津綾
乃 氏 に よ る 「真
歇清
了伝
に つ い て 」 と 、筆
者 の 「 『劫
外 録 大 乗 開 山徹
通 和尚
之 註 』 に つ い て 」 と 題 す る 各 稿 を 収録
し た 。 い ず れ こ れ ま で の 三 回掲
載 文 の 翻 刻部
分
、 な ら び に そ れ ぞ れ の 稿 を改
め て 一本
に ま と め た い と 念願
し て い る が 、研
究 管 … で ま だ論
じ 残 し て い る 部 分 も多
い 。 た と え ば 、 『梵
鶴
抄
』 の 抄( 1 )
者
貫 之梵
鶴
の 伝 記 に関
す る 詳 し い 老 証 も ま だ 不 十分
で あ り 、 な に よ り も 『 梵 鶴 抄 』 そ れ自
体
の 思 想 的特
質 に つ い て は ほ と ん ど 手 が付
け ら れ て い な い 。 さ ら に こ の抄
の も と に な っ た( 2 ) 『 劫 外
録
』 そ の も の の宋
代 曹洞
宗 旨 と し て の 思想
と 、抄
に 見 ら れ る 日本
中 世 曹 洞宗
に お け る 宗 旨 理 解 と の 比 較論
的 な特
質
、 語 録抄
の 歴 史 に お け る 『梵
鶴
抄 』 の位
置
付 け 、年
代 的 に 『 劫 外 録 』 と 『 梵鶴
抄 』 の 両書
の 中 間 に位
置
し 、梵
鶴
も 抄 で し ば し ば 引 用 す る 、 『 大 乗開
山 徹 通 和 尚 之 註 』 の宗
旨
の 捉 え 方 と の微
妙
な 差 異 や落
差
な ど 、多
く の 問 題 ・ 課 題 を残
し た ま 七 五『 真 州 長 萱 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) ま に な っ て い る 。 こ う し た 多
岐
に わ た る課
題究
明 に は 、 や は り共
同 研 究 と い う方
法 が有
効 で あ ろ う と考
え ら れ る の で 、 今 後 と も 中 国 ・ 日本
の禅
宗
史 や 国 語 学 等 の 衆 知 を結
集
し て 取 り組
ん で い く こ と が 必 要 で あ ろ う 。 な お 、 本 年度
の 研 究 会 参加
者
は 、 曹 洞 宗宗
学
研究
所 主任
熊本
英
人 ・ 同 研 究 所員
尾崎
正善
・ 同 飯 塚 大 展 ・ 駒 沢 大 学 大 学 院博
士課
程道
津綾
乃 ・ 同修
士 課程
石 附 正 賢 の 各 氏 、 お よ び都
留文
科
大 学教
授樋
渡
登 ・駒
沢女
子 短期
大 学助
教 授安
藤
嘉
則 の 両先
生 に も 、適
宜御
出席
い た だ き 御助
言 を 頂 戴 し て い る 。 各 位 に 記 し て 謝 意 を表
し て お き た い 。 ま た 特 に 、抄
物
研 究 の 趣 旨 に 御賛
同 賜 り 、岸
沢 文庫
の 関 係典
籍
の 閲覧
を御
快
諾 さ れ 、 資料
調 査 の 要 請 に快
く 応 じ て い た だ い た 、 焼 津市
旭
伝
院住
職
田中
慶
道 老師
に 対 し 、 深 甚 の 謝 意 を 表 し た い 。 註 ( 1 ) 梵 鶴 の 伝 記 に つ い て は 、 金 田 弘 「 天 真 派 貫 之 梵 鶴 の 抄 」 ( 『 浅 野 信 博 士 古 稀 記 念、 国 語 学 論 集 』 所 収 、 一 九 七 七 年 十 月 、 桜 楓 社 刊 ) が こ れ ま で の と こ ろ 唯 】 の も の で あ る 。 ( 2 ) 石 井 修 道 『 宋 代 禅 宗 史 の 研 究 』 ( 】 九 八 七 年 十 月 、 大 東 出 版 社 刊 ) 第 三 章 「 第 三 節 芙 蓉 道 楷 の 三 賢 孫 」 参 照 。 ( 以 上 文 責 、 石 川 力 山 ) 七 六 真 歇清
了 伝 に つ い て ー は じ め にー
真 歇清
了 の 生 涯 を 述 べ る う え で の 根本
資料
は 、 『 明 州 天 童景
徳禅
寺
宏 智覚
禅 師 語 録 』 に 収 め ら れ た 、 「崇
先真
歇 了 禅 師 塔 銘 」 ( 以 下 、 「 塔 銘 」 ) で あ る 。 「 塔 銘 」 は 、 『劫
外録
』 自体
に は付
さ れ て い な か っ た が 、面
山瑞
方
( = ハ 八 三 〜 一 七 六 九 ) に よ っ て編
集
さ れ た 同書
に 付 加 さ れ る こ と に な っ た 。 本論
文 ( 1 ) で は 、 石井
修
道
氏 『 宋代
禅 宗 史 の 研 究 』 資料
一 一 、 及 び 同 氏 「 慧 照慶
預 と 真 歇 清 了 と 宏智
正覚
と 」 に 所 収 さ れ る 塔 銘 を 、 主 に 参 照 す る こ と を 始 め に 記 し て お く 。 「 塔銘
」 は 、 実 に 興味
深 い 記事
で満
ち て い る 。 そ の お も し ろ さ は 、 「 禅 者真
歇 」 を 捉 え る方
向
で 同書
を読
み進
め て も 表 れ て は こ な い 。 思想
家 と し て の彼
を知
ろ う と す る な ら ば 、 そ れ こ そ 『劫
外 録 』 等 を読
む べ き で あ る 。 で は 、 筆者
が 興味
を 引 か れ た 「塔
銘
」 の 真歇
は、 ど ん な顔
を し て い る の か 。 そ れ は 、 政 財界
に 強 力 な コ ネ ク シ ョ ン を 持 つ や り 手 と し て の真
歇 な の で あ る 。 筆 者 は 、 真 歇清
了 の 禅 を 「黙
照
邪 禅 」 と痛
烈 に 批 判 し た と ( 3 ) さ れ る 大 慧宗
呆 ( 一 〇 八 九 〜 一 一 六 三 ) の 『 大 慧普
覚
禅
師
年 譜 』 を演
習 で読
ん だ こ と が あ る が 、同
書
に 見 え る 、 大 慧 と 政 界 と の 堅 固 な結
び つ き は、 宗 教 人 と い う イ メ ー ジ に ほ ど 遠 い 。 あ ま り に政
治 家 に 近 付 き 過 ぎ た 大慧
へ の 見 返 り は 、 「僧
籍 剥 奪 」NII-Electronic Library Service と 「
遠
流 」 で あ っ た 。 こ の よ う な 大 慧 の波
瀾 万 丈 な 人 生 は 、 た だ の 不 運 で は な く 、彼
の ” 負 け ん気
の 強 さ ” よ り端
を 発 す る 、 い わ ば 「身
か ら 出 た サ ビ 」 で も あ っ た 。 大 慧 の 激 し さ を 、 い く つ か の真
歇
批
判 の 中 か ら 一 つ を例
に し て み て み た い 。 只 だ 真 歇 の 如 き は 尋 常 、 学 者 の 、 多 く 目 前 の 鑑 覚 を 認 め て 、 知 見 を 求 め 解 会 を 覓 め 、 歇 時 有 る こ と 無 き を 見 て、 巳 む を 得 ず 、 人 を し て 劫 外 に 承 当 せ し む 。 ( 中 略 ) 黒 山 下 鬼 窟 裏 に 動 ぜ ず 、 坐 得 し て 骨 臀 に 胝 を 生 ず 。 口 裏 に 水 漉 々 地、 肚 裏 依 前 と し て 黒 漫 々 地 な り 。 驢 年 に 夢 に も 見 ん や 。 『 大 慧 普 覚 禅 師 普 説 』 ( 大 正 蔵 四 七 入 六 四 a 〜b
) こ の 文 章 で 、大
慧
の 激 し さ と と も に 、真
歇 が ど う接
化 し、修
行
し て い た か も看
取 す る こ と が で き る と い う こ と は 、 石 井 氏 の 明 ら か に し て い る 通 り で あ る 。 真 歇 清 了 は 、 「劫
外 」 を 説 き 、 尻 に タ コ が で き る ほ ど 坐 る こ と を 修 行 の 手 段 と し た 。 大 慧 の 言 う 「黙
照
邪 禅 」 の姿
で あ る 。 そ れ に し て も 、 大 慧 の 口 調 に 激 し さ を感
じ な い 人 は い な い だ ろ う 。 当 然 な が ら 、 大 慧 に と っ て真
歇 の思
想 は 、敵
対 視 す る べ き で あ っ た か ら こ そ の 文章
で あ る 。 思想
に つ い て は 、筆
者 は 浅 学 で あ る の で 、 記述
を 控 え た い 。 し か し 、批
判
は 、 全 く 異 な っ た 何 か に 対 し て 行 わ れ る の で は な く 、 似 て い る か ら こ そ 、 違 い を 出 す た め に、 後続
者 が先
人 に 対 し て起
こ す行
為 で あ る と 、筆
者
は 認 識 し て い る 。 筆者
は 、 こ の 類 似部
分
が 、思
想
の み な らず
、禅
僧
『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) と し て の 環 境 ・境
遇 に も 及 ん で い た の で は な い か と考
え る の で あ る 。前
述 の “ 負 け ん 気 の 強 さ ” と は 、 こ の 「 環境
」 を 考 え た 上 で出
て く る 言 葉 な の で あ る 。 鴫 、 修 行 時 代 「塔
銘
」 は、真
歇 の 人 物 評 の後
か ら、 伝 記 を 綴 っ て い る 。 師 、 諱 は 清 了 、 道 号 は 真 歇 。 姓 は 雍 、 左 綿 安 昌 の 人 な り 。 ( 4 ) ( 5 ) 宇井
伯
寿 氏 の指
摘
に よ れ ば 、 「 左綿
安
昌 」 は 四 川省
、 石 井 氏 は 『補
続
高
僧 伝 』 よ り 、 蜀 の 文字
を 検 索 し て い る 。 つ ま り 、 真歇
は 、 蜀 人 な の で あ る 。 彼 は 元祐
三 年 ( 一 〇 八 八 ) に 出 生 し て い る が 、 こ の 当時
、 政 治 を動
か し 、 ま た 混 乱 さ せ て い っ た の は、洛
陽 出 身 者 の集
団
で あ る洛
党 と 、 蜀 出身
の 蜀党
の 二 大 勢 力 で あ っ た 。 蜀 は 、 文 化 人 や 宗教
者
を 多 く輩
出 し て い る 、 文 化 水準
の高
い 国 だ っ た の で あ る 。 そ ん な 周 囲 の 環境
に 、真
歇
の 禅僧
へ の道
を 妨 げ る も の は 何 も な か っ た ら し い 。 十 一才
で 出 家 し、 十 八 才 ( も し く は + 九 才 ) で得
度 、 成 都 の 大慈
寺
で 円覚
経
・ 金 剛経
・ 起 信 論 等 の講
義
を聞
く 。 や が て 蜀 を 出 て遊
行 生 活 を は じ め、 諸 寺 を 転 々 と す る 。 真 歇 の気
分 と し て は 、 丹霞
山 も 、 そ の 諸 寺 の 一 つ だ っ た ろ う 。 丹 霞 子 淳 ( 一 〇 六 四 〜 一 一 一 七 ) に接
見 す る 寸 前 ま で は で あ る 。 真 歇 に と っ て の 決 定 打 は 、 「 作 麼 生 是 空 劫 已 前自
己 ? 」 と い う、 丹霞
の質
問 と、 一 発 の 平 手 打 ち ( ? ) だ っ た と 、 『 劫 外 七 七 N工 工一Eleotronlo Llbrary『 真 州 長 薩 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) 録 』 は 言 っ て い る 。 こ れ に よ っ て 真
歇
は 、 「 何 か 」 を 悟 っ た の で あ る 。 「何
か 」 が 何 で あ る の か 、筆
者
に は察
す る こ と が で き な い が 、 禅僧
の問
で 設定
さ れ る 、 最高
の 地 点 に 到 達 し た と考
え ら れ た の だ ろ う と 、 詮 索 す る 。 こ れ が 、 政 和 二年
( 一 一 = 一 ) 以 前 、真
歇 二 十 四才
頃 の こ と で あ る 。 丹 霞 子 淳 に 出 会 っ た こ と を 第 一 の転
機
と す る な ら ば 、 長 蘆 山 を 訪 れ た 政 和 三 年2
一 一 三 ) は 第 二 の転
機
と い え る だ ろ う 。 滞在
す る こ と 、 お よ そ 十 五 年 。 こ こ で真
歇 は 、寺 院
経
営 の 知識
、 も し く は そ の 知識
を持
つ ブ レ ー ン 、 そ し て経
営
に 見 合 っ た財
源
、 つ ま り パ ト ロ ン を 確 保 し た の で は な い か と仮
説 す る の で あ る 。 こ の仮
説 のの
根
拠
は 、 時 に、 祖 照 禅 師、 儀 真 長 蘆 に 住 す 。 ( 中 略 ) 師 、 其 の 中 に 投 ず 。 英 俊 相 親 し く す る こ と 駸 駸 た り。 殆 ど 半 ば に 延 い て 侍 者 と す 。 年 を 踰 え て 罷 め 、 転 物 寮 を 以 て 之 を 待 し、 挙 し て 分 座 入 室 せ し む 。 の 傍 線部
に あ る 。転
物寮
は 、 筆者
の 知 る 限 り の 資 料 ・辞
書
等 を 探 し た が 、 ど こ に も 見 当 た ら な い 。 た だ 、 「 転物
」 は 、 物 を 売 買 す る こ と で あ る か ら、 転物
寮
は、 寺 の 事 務、 中 で も 金銭
に 関 わ る 部署
で は な か っ た か と 思 わ れ る の で あ る 。の 根 拠 は 、 宣 和 三 年、 祖 照 病 む 。 復 た 命 じ て 師 を 第 一 坐 と す 。 病 甚 だ し く 、 七 八 退 院 す 。 四 年 秋 七 月 、 経 制 使 陳 公 、 師 を 請 う て 補 処 せ し む 。 の
傍
線 部 に あ る 。経
制使
と は 、 宣 和年
間
に 始 め ら れ た 、 経 制 銭制
度
を 司 る役
人 で あ る 。同
制
度
は 、 日 に 日 に 進 む経
済
破 綻 と 、 外 国 の脅
威
に よ る 軍備
拡 張 の た め の資
金確
保 を そ の 原 因 と す る 、 増税
政 策 の 一 で あ る 。 同 制度
の総
責任
者
が経
制
使 で あ り 、 宣 和 二 年 以降
、 こ れ に 当 た っ た の が 、随
軍転
運 使陳
亨 ( 6 )伯
で あ る 。経
制
銭 以 前 の経
済 政 策 と し て 行 わ れ て い た も の の 一 つ に 、 方 田 均税
法 が あ る 。 こ れ は 宣 和 二 年 十 二 月 に 廃 止 さ れ る 。 そ の と き の 詔 は次
の よ う だ っ た 。 方 田 均 税 法 で は 賄 賂 が 公 然 と 行 わ れ て、 豪 右 形 勢 の 家 は 租 税 を 減 免 さ れ、 そ の 租 税 が 下 戸 に 移 る た め、 民 戸 は 困 窮 し て 他 郷 に 流 亡 し、 租 税 の 額 も 減 少 し 議. 凡 の で、 不 均 の 所 は み な 、 方 田 均 税 ( 7 ) 法 を 行 う 前 の 税 額 に よ っ て 納 め さ せ る 。 こ れ に よ っ て 収 入 が 減 っ て し ま っ た た め に 、 朝 廷 は 塩 や酒
等 に経
制
銭等
の問
税
を か け た り 、兵
糧
の確
保 の た め に 均 糴 法 を 施 行 し た の で あ っ た 。 つ ま り 、 「 塔銘
」 の陳
公 は 、経
済 再建
の た め に 白 羽 の 矢 を 立 て ら れ た、 エ リ ー ト 官僚
だ っ た の で あ る 。 当 然、 裕福
だ っ た に 相 違 な い 。真
歇 は、 長蘆
寺 の 重 役 に指
名 さ れ る度
に 逃 げ 腰 に な っ て い ( 8 ) た 。 宇 井 氏 の指
摘
に よ れ ば 、 『叢
林 盛 事 』巻
下 に 、 祖 照道
和
禅 師 の 病 に よ っ て 指 名 を う け た第
一 座 の 位 を 、 「 私 は 丹霞
の 法 を 嗣 い で い る 」 と い っ て 拒 み 、 祖 照 を怒
ら せ て い る様
子 がNII-Electronic Library Service
書
か れ て い る と い う 。 そ ん な真
歇 が 、陳
公 に 後 押 し さ れ る や 、 翌年
に は 開 堂 説 法 を す る と い う 、変
身 を 遂 げ て い る 。 こ の変
わ り 身 を 、 思 想 面 を 原 因 と し て 論 ず る こ と も で き よ う し 、単
な る 心境
の変
化
と 言 っ て し ま う こ と も で き る だ ろ う が 、筆
者
は 、の 仮 説 よ り 、 寺
院
経
営
に 、 そ れ な り の 準備
が 整 っ た か ら だ と 考 え る の で あ る 。 二 、 寺 院 復 興 の達
人 へ さ て 、 宣和
五 年 ( 一 一 二 三 )夏
の長
蘆 寺 開 堂 に際
し て、修
行
僧
は 千 七 百人
と い う 、真
歇
教 団 は大
集
団
で あ っ た 。 そ し て ほ ど な く 、 最初
の 試 練 が訪
れ た の で あ る 。 六 月 、 江 風 、 潮 に 駕 り 、 田 に 漫 ち て 殆 ど 穫 る こ と 無 し 。 つ ま り 、 水害
で 収 穫 が難
し く な っ て し ま っ た の で あ る 。椎
名
宏 雄 氏 の 指摘
に よ れ ば 、 「宋
元代
の 寺 院 の 多 く は 広 大 な寺
田 を持
ち 、 地 主 と し て多
大
の 収 入 を え て 寺院
経済
の 相当
部 分 を 支 え て い る が 、 長 蘆寺
の 場 合 も 例外
で は な か っ た 。 」 と あ る 。 し か し 、 そ の 寺 田 も 収穫
の 見 込 み が薄
い 。 が 、真
歇 は こ う言
っ た 。 師、 陞 堂 し て 衆 に 告 ぐ 、 安 坐 し て 憂 う こ と 勿 か れ と 。 そ し て 、 と っ た 手 段 は 「 乞 食 」 だ っ た 。 し か し 、周
辺 の 田 畑 は 収 穫 が な い と す れ ば 、 い っ た い 誰 に 乞 食 し た の だ ろ う か 。真
歇 が帰
っ て き た の は 五 ヶ 月 後 の 宣 和 六 年 二 月 だ っ た 。 こ の 『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) 様 子 は 「塔
銘 」 に こ う あ る 。 六 年 二 月 、 還 る を 告 ぐ る に 鼓 を 褪 つ 。 所 得 を 出 す に 、 供、 須 ら く 羨 有 る べ し 。 っ ま り 、 収 入 は莫
大
だ っ た の だ 。 こ の 三 年 ほ ど前
に は、 宋 江 の 乱 ・ 方 臘 の 乱 が相
次 い で 起 こ っ て い る 。 特 に 方 臘 の 乱 に お い て は 、 両 浙 東 西 ・ 江東
路 の 六 州 五 十 二 県 が 兵 火 を受
け 、 二 百 万以
上 の 人 が被
害
に あ っ た 。 朝 廷 は 、 こ の年
こ れ ら の 地方
の税
金 等 を 免 除 し た 。前
述 の経
制銭
の よ う な 経済
政
策
は 、 こ の 乱 後 に 施 行 さ れ た わ け で あ る 。 二 つ の乱
は 、単
に 、 朝 廷 に 対 す る個
人 の起
こ し た ク ー デ タ ー と す る に は 、 少 し 短 絡 的 な よ う だ 。 こ れ ら の 反 乱 に は多
く の農
民 が 参 加 し て い る 。農
民 の朝
廷 へ の 不満
は 、 こ れ 以 上 な い も の に 達 し て い た と 言 え る 。 つ ま り、 反 乱 以 前、農
民 は 、 我慢
で き な い ほ ど の搾
取 を 余儀
な く さ れ て い た の で あ る 。 そ し て 追 い打
ち を か け る よ う な 水害
で あ る 。話
を真
歇 に 戻 そ う 。 真 歇 が 乞 食 し た相
手 は 、 誰 か 。 疲弊
し き っ た農
民 か ら だ っ た の だ ろ う か 。筆
者
は、資
産 の あ る 人 々 か ら供
養
を 受 け た と 考 え た方
が 自 然 だ と 思 う の で あ る 。資
産 家 と し て 思 い つ く の は 、 や は り 士 大夫
の ほ か な い の で あ る が 、真
実 は ど う な の だ ろ う か 。建
炎
二年
(=
二 八 )、 長 蘆 寺 を 退院
し た真
歇 は 、補
怛 洛 迦 山 へ 不肯
去観
音 を 詣 で 、 そ の ま ま 住 み着
い た 。 八 月 、 銭 塘 を 絶 り て 、 明 の 梅 岑 に 如 き て 、 観 音 大 士 を 礼 す 。 海 七 九 N工 工一Eleotronlo Llbrary『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 〔 下 ) ( 石 川 ) 山 七 百 余 家、 一 た び 教 音 を 聞 き て、 倶 に 漁 業 を 棄 て 、 計 る に 日 に 千 万 億 の 命 を 活 か す 。 つ ま り 、 補 怛 洛 迦 山 の
僧
侶 の数
は 一気
に 増 え、 真歇
は そ の 手 ( 9 )腕
で彼
ら を養
う こ と に な る の で あ る。 石 井 氏 の論
文 で は 、 『 補 怛洛
迦 山 志 』 に 、 そ れ ま で律
寺
で あ っ た こ の寺
を 、 真歇
が 禅寺
に 改 め た の で 、真
歇 を 禅寺
の 一 世 と し て い る こ と が 明 ら か に さ れ て い る 。 寺院
再興
と は 言 わ な い か も し れ な い が、真
歇
清 了 に よ っ て 、 補 怛洛
迦 山 の規
模 が 拡 大 し た こ と は 事 実 で あ る 。 山 を 出 た 真 歇 は 、 ま た も 遊 行 生 活 を始
め る の で あ る が 、 長 蘆 山 で の 成 果 、補
怛
洛 迦 山 の 再 興 に よ る名
声 は 、彼
を 放 っ て お か な か っ た 。建
炎
五 年 (=
三 〇 ) 五 月 、 天 台 国清
寺 か ら 住 持 の誘
い が か か っ た 。 し か し 、真
歇
は 三度
請 わ れ て 、 三度
断 る と い う 「 三 顧 の 礼 」 を も 固 辞 し て し ま う 。 国清
寺 が 天 台教
学
の 中 心 だ っ た か ら な の だ ろ う か 。 筆 者 は 、 こ の 事 柄 に 対 し て も 、 「 真 歇 の能
力 」 を勘
繰 っ て し ま う の だ 。 つ ま り 、 寺 院 復 興 の 才 能 で あ る 。 こ の 二 年 前 、国
清 寺 は 重 修 、寺
院
の 拡 張 工 事 が 行 わ れ て い る 。復
興 の 必要
性
は 全 く 無 い の で あ る 。 真歇
の 遊 行 は 一年
足 ら ず で あ っ た 。 雪峰
山 に 請 わ れ た 彼 は 、 建炎
四 年 ( 一 ] 三 〇 ) の 十 一 月 に 入院
す る 。 雲 水 は た ち ま ち 長 蘆 山 の と き の数
を 越 え 、 檀信
徒
は 、 わ れ さ き に布
施 し 、 寺 の 財政
は 、 少 し ず つ で は あ ろ う が、 確 実 に 好転
し て い っ 八 〇 た 。真
歇 は 雪 峰 山 に 七 年 も し く は 六 年 住持
し た 。 こ の 間 、雪
峰
山 の由
来
で あ る 雪峰
義 存 ・ 閠 王 王 審 知 の こ ろ の繁
栄
を 再現
し よ う と努
力 し て い た こ と は 、 「塔
銘 」 よ り 伺 う こ と が で き ( 10 ) る 。 紹興
五 年 (=
三 五 )、 雪 峰 の 東 庵 に 退 居 し た と き 、 真歇
清
了 は 四 十 九 才 だ っ た 。 当 時 の中
国
で 、 人 生何
年 と 考 え ら れ て い た か は知
ら な い が 、 恐 ら く 、真
歇 も そ ろ そ ろ と 思 っ て い た か も し れ な い 。 し か し 、 真 歇 を 取 り 巻 く 環境
は、 そ う さ せ て く れ な か っ た 。 真 歇 の 名 声 が 、 よ り 大 き く な っ た こ と で 、 少 な く と も 二 つ の 効 果 が現
れ た 。 } つ は 、 大 慧 宗 呆 の 真 歇 批 判 が 紹 興 四年
(=
三 四 ) 三 月 か ら 、 雪峰
山 上 に お い て 始 ま っ た こ と 、 も う 一 つ は 、 阿育
王 山 再 興 と い う仕
事 の依
頼 で あ る 。 三 、 復 興 二 大事
業紹
興 六 年 ( 一 一 三 六 ) 十 月 に 、真
歇
は 阿育
王 山 広 利 寺 ( 五 山 第 五 位 ) へ 入 寺 し た 。 そ れ ま で の 阿育
王 山 の有
り 様 は 、 「 塔 銘 」 に よ れ ば 、 こ う だ っ た 。 寺 の 曠 敗 、 未 だ 料 理 す る に 易 か ら ず 。 斎 の 鼓、 伐 た ず、 昼 の 突 、 黔 ま ず。 逋 、 幾 ん ど 二 十 万 を 負 う 。 人 、 悉 く 憂 い を 為 す。 餓 死 寸 前 の借
金 地 獄 、 ま さ に こ う い っ た 表 現 が ぴ っ た り な ほ ど の 凋 落 ぶ り で あ る 。 し か し 、 わ ず か数
ヶ 月 の う ち に 、真
歇 は 滞 納 し て い た 税 金 の 八割
か ら 九割
を 償 っ て し ま っ た 。 こ のNII-Electronic Library Service こ ろ の 社
会
の情
勢 は 、 遷都
し て成
っ た南
宋政
府
が 、 金 と の和
解
工 作 を 画策
し 始 め た こ ろ だ っ た 。 戦 争 の 終息
は 、 民 衆 の 生産
意
欲 を う な が し 、 土 地 開 発 、技
術
開 発 が 行 わ れ る き っ か け に な る 。 そ れ と と も に 、貨
幣経
済
が い よ い よ浸
透
し 始 め た の で あ っ た 。活
気 づ い た世
の 中 が 、 真 歇 の借
金 返 済 の 不 可 能 を 、 可 能 に し た の か も し れ な い 。 そ し て 、 井 邑 林 埜 、 師 の 来 た る を 聞 く を 喜 び 、 遠 親 近 隣、 老 を 扶 け 幼 を 携 て 、 肩 踵 相 い 摩 り、 舳 艫 相 い 銜 む 。 と あ る よ う に 、真
歇
清
了 が 、救
世 主 の よ う に考
え ら れ て い た様
子 が 描 か れ て い る こ と も無
視 で き な い 。 し か し 、 続 く 「 逋 の 十 が 八 、九
を 償 う 。 」 と い う 文 章 が 、筆
者
に は ど う も引
っ か か る 。 ど う し て も 上 記 の 文 に い う 人 々 、 つ ま り 生 産 階級
層
だ け だ と は思
え な い の で あ る 。 彼 ら は 真 歇 を 慕 っ て 来 る が 、実
は 、経
済
援
助
の 大 方 は 、先
ほ ど か ら 述 べ て い る 、強
力 な援
助
者
に 依 っ て い る の で は な い か と 考 え る の で あ る 。 こ う し て 立 て 直 し た 阿 育 王 山 を 、真
歇 は 一年
足 ら ず で 離 れ 、 蒋 山 に住
す 。 七 年、 建 康 に 駐 驛 す 。 師 に 韶 ( 面 山 本 『 劫 外 録 』 に 詔 ) し て 、 師 を し て 蒋 山 に 住 せ し む 。 蒋 山 は、 十刹
第
三 の 蒋 山 太 平 興 国 寺 で あ る 。筆
者
は 上 記 の 文 の 「 韶 」 は面
山 本 「 詔 」 の 方 が 文 意 に 適 う と考
え る 。 つ ま り 、 高宗
(=
〇 七 〜 一 一 八 七 ) の 詔 勅 に よ り蒋
山 を ま か さ れ 『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) た の で あ る 。 し か し、 蒋 山住
持 は 一年
で 、 す ぐ さ ま 温州
( 浙 江 省 ) へ 行 く こ と を 詔 さ れ る 。紹
興 八年
( 一 一 三 八 ) 、 真歇
五 十 一才
の 時 で あ る 。 八 年 、 温 の 竜 翔 ・ 興 慶 二 院 合 額 の 禅 居 、 師 に 詔 し て 之 を 主 ら し む 。 四 月 、 入 院 し、 陞 堂 小 参 し て、 来 衆 を 安 集 す 。合
併 さ れ た こ の 寺院
は 、 江 心 山 竜 翔寺
と な り 、 十 刹 の 第 六 と な る 。 こ こ に 到 る ま で の 真歇
清
了 の 事業
を 、 「 塔銘
」 を も と に探
っ て み る 。東
西 の 両 址 に 堤 を築
く 。南
北 に、 三 門 ・ 大 殿 ・ 法 堂 ・ 方 丈 を 建 て る 。金 ・ 穀
物
・ 竹 木 を 乞 食 し て得
る 。双 塔 を 建 て る 。
寺
田 、 千畝
を 賜 う 。 こ う し て 、 「 法・ 食 厭 満 し て 、 乃 ち 仏 祖 の職
事 専 ら に す 」 の状
態
ま で 向 上 さ せ た の で あ る 。 全 て の 事業
に お い て 必 要 だ っ た の は 、 言 い 方 は 悪 い がヨ
ネ と 金 L で あ る 。 そ し て 考 え ら れ た の は 、 強 力 な 援助
者
で 、 し か も 皇帝
に 近 い と こ ろ に あ っ た 人 物 で あ る 。 こ こ で 、 注意
す る べ き こ と が あ る 。 真 歇 が 、 い わ ば 地固
め を コ ツ コ ツ や っ て い た 時 期 に 、 思 想界
に華
々 し く 登 場 し た 人 物 の こ と だ 。 大慧
宗 呆、彼
が 五 山 第 一位
の 径 山 に 住 し た の は 、 紹 興 七年
( 一 = 二 七 ) か ら 四 年 間 で あ る 。 大慧
は 紹 興 十 一年
(二
四 一 ) に 神 臂 弓 事 件 を 起 こ し 、衡
州 ( 湖 南 省 ) 八 一 N工 工一Eleotronlo Llbrary『 真 州 長 萱 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) そ し て
梅
州
( 広 東 省 ) へ と 流 さ れ る 。 事 件 の 発 端 は 、 大 慧 の 作 っ た 偈 が 、 皇帝
に 対 す る 言 葉遣
い と し て ふ さ わ し く な か っ た こ と に 依 る よ う だ が 、 十 五 年 も の 長 い 間 、都
に 帰 っ て来
る こ と が で き な か っ た の は 、 尋常
で は な い 。 こ の 長 期 の流
刑
は 、 大 慧 と時
の政
治家
と の 親 密 な交
際 が 原 因 で あ り 、 そ の 政 治家
の 失脚
が 、 大慧
の 運命
を 狂 わ せ て し ま っ た の で あ っ た 。話
を 元 に 戻 す と 、 真歇
の援
助
者 は 、 竜 翔 寺 住 持 の と き に は 、大
慧
の そ れ よ り 下 位 で あ り 、 同 事件
以降
、 そ の人
に 取 っ て替
わ っ た 人物
と考
え ら れ る の で あ る 。大
慧
が衡
州 で不
遇 な 生 活 を 強 い ら れ た 四年
目 に 、 真 歇清
了 に 径 山住
持 の 詔 が 下 さ れ る 。真
歇 五 十 八 才 の 春 だ っ た 。 『 大 慧普
覚
禅
師
年譜
』 を み る と 、大
慧 が径
山 に 入 っ た 翌 年 の 大衆
の数
は 千 人 に 到 っ た と あ る 。 し か し、 真歇
の 場 合 、 ( 「 塔 銘 」 に よ れ ば ) ど う も 入 院 し た当
時 で 、僧
千 人 を 超 え て い た と思
わ れ る の で あ る 。 こ の 比 較 だ け で は 、 「真
歇 は 大 慧 よ り 人 気 が あ っ た 」 と し か書
け な い の で あ る が 、 し か し 、 何故
人 気 が 出 た の か を も考
え て み れ ば 、次
の よ う な推
測 が 出 来 る 。真
歇 住持
の と き は 、大
慧
の と き の 「憧
憧 と し て 往 来 し 、其
の 門 、市
の如
し 」 と い っ た 派 手 さ で は な く 、 「 常 住 に し て 素薄
な り 。行
丐 す る に供
を以
っ て す 。 」 と い う質
素 さ が う け た の で は な い か と 。折
し も交
戦 中 の 金 と の 和 議 が成
立 し 、社
会 ・ 経済
が動
き 始 め た こ ろ で あ る 。 「 塔 銘 」 に今
ま で の よ う な 金 銭 の後
八 二押
し を 伺 う こ と が で き る 記事
が な い の は 、 「 コ ネ と 金 」 が 身 を助
け る 時 期 が終
わ り 、 静 か な 修 行 生 活 を送
る こ と が 、 人 気 を高
め る時
代
が や っ て き た の か と考
え て し ま う の で あ る 。 四 、 最 晩 年紹
興 二 十 年 ( 一 一 五 〇 ) 、真
歇 六 十 三 才 の冬
に ひ い た 風邪
は 、 彼 を 気 弱 に さ せ た 。 「 長 蘆 に 帰 り た い 。 」 前 に 見 て き た よ う に 、真
歇 の 生 ま れ 故 郷 は 蜀 の 国 だ が 、 長 蘆 は 第 二 の ふ る さ と だ っ た の だ ろ う 。 だ が 、 帰 れ な か っ た 。 病 気 の彼
に 下 っ た 勅 ( 11 )命
は 、崇
先
顕 孝 禅 院 の 住持
だ っ た 。 翌 年 の夏
の暑
さ の中
で の旅
は 、体
に 酷 く 応 え た よ う だ 。 九 月 十 五 目 の 慈寧
太
后 訪問
に 、 病 を お し て 開 堂 す る 。 こ の 無 理 が た た っ て 、 十 二 日後
に 医者
に 見 せ る こ と と な る 。 し か し 努 力 の甲
斐
な く 、 十 月 一 日 、 と う と う 示 寂 す る の で あ る 。真
歇 の 遷 化 の様
子 は 、 と て も 静 か で あ る 。 首 座 を 呼 び 、 一 言 「 吾 、今
行 か ん 」 と 言 う と 、結
跏
趺 坐 し て 逝 く 。 話 は 逸 れ る が 、 こ こ で ま た 、 筆・者
の 悪 い癖
を 出 し て み る 。 大 慧 は 、 ど ん な 示寂
の様
子 だ っ た の か 、 比 べ て み た い の で あ る 。 大 慧 は 、真
歇 の 亡 く な っ た 十 二年
後 の隆
興
元 年 (二
六 三 ) に逝
く 。 ま ず 、 七 月 十 四 日夜
、 隕 石 が寝
室 の後
ろ に音
を 立 て て降
っ て き た の を 聞 い て 、 「 吾将
に行
か ん と す 。 」 と 言 っ た と い う 。 八 月 九 日 に意
識
不 明 に な っ て い る 大 慧 を 弟 子 が 見 つ け て 、 寝 室NII-Electronic Library Service の 周 り を ぐ る っ と
取
り囲
ん で し ま っ た 。 お そ ら く 、悲
し み に 泣 き叫
ん で い た り し た の だ ろ う 。 す る と 、 大慧
は や お ら 目 を 開 け て 、 「 明 日行
こ う 」 と 言 っ た と い う の で あ る 。意
識
を 取 り 戻 し た 大 慧 は 、世
話 に な っ た 丞 相 達 や友
人 に 、 手 紙 や 形 見 分 け を始
め た 。 こ れ を 見 て い た 弟 子 の 中 に は 、 遣偈
を請
う 者 も い た 。 大 慧 は 、 そ の 者 達 に 「 生 も 也 た 只 だ 恁 麼 な る の み 、 死 も 也 た 只 だ 恁麼
な る の み 。偈
有 る と 偈 無 し と 、是
れ 甚 麼 の 熱 大 な る 。 」 こ う 言 っ て 、 床 に就
き 、 そ の ま ま逝
っ た の で あ る 。 『 大 慧 年譜
』 は 、 こ こ ま で書
く と、 延 々 と 弟 子 の 名 を 列 記 し て い る 。 そ の 宗 風 盛 ん な り し こ と を 誇 示 す る た め で あ ろ う 。 し か し 、残
念 な こ と に 、真
歇 清 了 の 「 塔銘
」 に は 、 弟 子 と し て 出 て く る 名前
は 、 ほ ん の 少 し で あ る 。 し か も 、 真 歇 の 経済
援 助 の で き そ う な 士 大夫
ら し き 名 は 、皆
無
で あ る 。 宇井
氏 の指
摘 し て い る弟
子 の 中 に も 、 役 名 の付
さ れ た名
前
を 見 出 し得
な い 。 た だ 「塔
銘
」 に 、 こ ん な 「 文 が あ る 。 一 時 、 賢 士 大 夫 、 之 に 遊 ぶ こ と を 楽 う 。 諸 方 の 名 徳 尊 宿 、 其 の 盛 ん な る に 偉 し く す る こ と 難 し 。 倅 は 「 ひ と し い 、 ひ と し く す る 」 の 意 味 が あ り 、 そ の 主 語 か ら考
え る と 、 真 歇教
団 の 盛 ん な さ ま は 、 あ ら ゆ る 地方
の 立 派 な 僧侶
も 及 ば な か っ た と 、解
釈
で き る よ う に思
う 。 ま た 、何
よ り も筆
者
が 気 に か か る と こ ろ は 、 ま ず』
時 L の 言 い 方 で 『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) あ る 。 一 時 は 「 あ る 時 、 一 時期
」 で あ る 。 も し か し た ら 、 長蘆
開
堂 か ら 径 山 住持
以
前
ま で を指
し て い る の で は な い か と 考 え る の は 、 行 き 過 ぎ だ ろ う か 。 そ れ か ら 「 士 大夫
」 は単
数
な の か 複数
な の か 、 何故
名
前 が 出 せ な い の か 、 出 さ な か っ た の か疑
閙 な の で あ る 。前
出
の 経 制 使 陳 公 の こ と な の だ ろ う か 。 こ の 一文
に は 想 像 を た く ま し く さ せ る 要 素 が 多分
に あ る の で あ る 。 お わ り に真
歇清
了 は 、 晩年
の 様 子 か ら か 、 大 慧 の派
手 さ と た え ず 比 較 す る か ら か 、 「黙
照 邪 禅 」 と い う 激 し い批
判 に 対 し て 一 言 も 口 を 開 か な か っ た た め な の か 、 そ れ と も 、著
作
に 抽象
的
で韻
文 調 の 表現
が 多 い か ら か 、 世俗
に ま み れ て い な い 、 孤高
の 宗教
教
団 を 形成
し て い っ た、 と い う イ メ ー ジ が 、筆
者
に は色
濃
か っ た 。 し か し 、 「 塔銘
」 を よ く 読 ん で み る と 、 ど う も そ う で は な か っ た よ う な気
が し て な ら な い 。 そ の 証 拠 に 、 寺院
復
興 の 手腕
が 、 大 し た も の で あ る こ と は、前
に み て き た と お り で あ る 。 つ ま り 、世
俗
と の 距離
が 近 く 、 多 大 な経
済
援
助
を受
け て い た と 考 え ら れ る 。 こ れ は 、 大 慧 宗 呆 と も 共 通 す る点
だ と考
え る 。 は じ め に触
れ た 、 大慧
が 真 歇 に 敵 意 と も思
え る感
情
を 持 っ て 批 判 し た の に は 、真
歇
へ の援
助
の多
さ と 、 そ の繁
栄
に負
け た く な い と い う 、 思 想 面以
外 の 背 景 も あ っ た と 、 入 三 N工 工一Eleotronlo Llbrary『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 )
筆
者 は考
察 す る の で あ る 。筆
者
は真
歇 の 思 想 面 に 疎 い た め 、 「禅
者
真
歇 」 の 伝 記 と い う よ り は む し ろ 、 激動
の 時 代 を 、禅
僧 と い う 職 業 を 営 み と す る 人物
と し て の 真 歇 を追
う こ と に な っ て し ま っ た 。 「禅
者
真 歇 」 を知
ろ う と す る な ら ば 、 『 劫 外 録 』他
の 著 作 と 、多
く の先
行 論 文 を参
照 す る べ き だ と 考 え る 。 し か し 、 そ れ 以 外 の 面 も 、真
歇 そ の 人 な の で あ る 。 筆者
の 力 及 ばず
、 今 論 文 は仮
定 推 論 の域
を 出 な い が 、 「 塔銘
」 の 再検
討 、当
時 の叢
論
等 の検
証 と 、社
会 背 景 と 思 想 の 関 連 を考
察
す る 必 要性
を 提案
し て 、終
わ ろ う と 思 う 。 註 ( 1 ) 石 井 修 道 氏 『 宋 代 禅 宗 史 の 研 究 』 ( 昭 和 六 十 二 年 、 大 東 出 版 社 ) 四 九 八 頁 〜 五 〇 八 頁 。 ( 2 ) 同 論 文 は 、 『 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要 』 第 三 十 六 号 ( 昭 和 五 十 三 年 三 月 ) に 掲 載 さ れ て い る 。 (3
) 寛 永 二 十 年 、 沢 田 庄 左 右 衛 門 刊 行 の 、 駒 澤 大 学 国 書 館 所 蔵 本 。 参 考 と し て 、 『 駒 澤 大 学 仏 教 学 部 研 究 紀 要 』 第 三 十 七 ・ 三 十 八 ・ 四 十 号 ( 昭 和 五 十 四 ・ 五 十 五 ・ 五 十 七 年 ) の 石 井 氏 論 文 「 大 慧 普 覚 禅 師 年 譜 の 研 究 」 ( 上 ) ( 中 ) ( 下 ) を 参 照 し た 。 (4
) 宇 井 伯 寿 氏 『 第 三 禅 宗 史 研 究 』 ( } 九 四 三 年、 岩 波 書 店 ) 四 四 五 頁 参 照 。 (5
) 石 井 氏 前 掲 論 文 、 一 四 九 頁 参 照 。 (6
) 『 東 洋 歴 史 大 辞 典 』 ( 昭 和 十 二 年 、 平 凡 社 ) 「 ケ イ セ イ セ ン 」 八 四 の 項 に 陳 亨 伯 及 び 、 経 制 銭 等 の く わ し い 説 明 が な さ れ て い る 。 (7
) 周 藤 吉 之 ・ 中 嶋 敏 共 著 『 中 国 の 歴 史5
』 五 代 ・ 宋 ( 昭 和 四 十 九 年 、 講 談 社 ) 二 六 〇 頁 参 照 。 以 下 、 宋 代 の 社 会 及 び 経 済 情 勢 に 関 す る 記 事 は、 多 く 同 書 を 参 照 し て い る 。 (8
) 前 掲 書 、 四 四 六 〜 四 四 七 頁 参 照 。 (9
) 前 掲 論 文 、 → 五 一 〜 一 五 二 頁 参 照。 ( 10 ) 「 塔 銘 」 に、 「 閾 中 仏 刹 、 自 古 禅 居 、 深 林 遠 壑 、 楼 観 相 望 。 主 盟 之 人 、 悉 挙 江「 湖。 有 道 尊 宿 、 一 洗 故 習 。 」 の 文 が あ る 。 (11
) 崇 先 顕 孝 禅 院 は、 慈 寧 太 后、 つ ま り 顕 仁 皇 太 后 ( 】 〇 八 〇 〜=
五 九 ) の 建 立 で あ る 。 徽 宗 の 后 で、 高 宗 の 母 で あ る 顕 仁 皇 太 后 は 、 靖 康 の 変 ( 一 一 二 六 〜 二 七 ) で 徽 宗 と と も に 金 に 捕 ら え ら れ た 韋 皇 后 と 同 「 人 物 で あ る。 徽 宗 は 紹 興 五 年 ( 一 = 二 五 ) 、 捕 虜 の ま ま 没 す る が 、 彼 女 は 同 十 二 年 ( . … 四 二 )、 徽 宗 ・ 鄭 后 ・ 邪 后 の 梓 宮 ( 棺 ) と と も に 帰 っ て く る の で あ る 。( 以 上 文 責、 博 士 課 程 一 年 道 津 綾 乃 ) 『 大 乗 開 山 徹 通 和 尚 註 』 に つ い て
宋
代
曹
洞宗
を代
表 す る 真 歇清
了 ( 一 〇 八 八 〜=
五 一 ) の前
半
生 の 語 録 『 劫 外 録 』 に 対 し て 、 す で に鎌
倉 末期
に お い て 、 永平
寺道
元 よ り 三 代 目 の 法 孫 に 当 た る 大乗
寺 開 山徹
通義
介 ( = 一 一 九 〜 一 三 〇 九 ) に 、弟
子 の 瑩 山紹
瑾 の た め に な し た 「 著語
」 や 「 解釈
」 か ら な る 「 註 」 が あ っ た と い う 伝 承 に つ い て ( 1 ) は ( 以 下 『大
乗
註 』 ) 、 す で に岸
沢惟
安
師
の指
摘 が あ る 。 そ れNII-Electronic Library Service は 、
師
の 所蔵
す る 『劫
外録
』 の 『梵
鶴
抄
』 の諸
処 に 、 「 大乗
開 山 ハ 、 … … ト 被 仰 タ ゾ 」 あ る い は 「 大 乗 云 」 と し て 、 主 に 徹 通 の 「 著 語 」 「 代 語 」 「 下語
」 と も い う べ き も の が多
数 引用
さ れ て い る こ と を 根 拠 と し た も の で あ る が、 さ ら に 同 じ く岸
沢 文庫
に 所蔵
さ れ る 、 面 山 が 明 和 四 年 ( 一 七 六 七 ) に 校 訂 刊行
し た 『 劫 外録
』 の 行 間 や欄
外 に は 、 こ の 徹 通 の註
が 全 文 に わ た っ て 引 用 さ れ て お り ( 以 下 『 面 山本
所
引 大 乗註
』 ) 、 あ る い は テ キ ス ト と し て も 所持
さ れ て い た可
能
性 も あ る 。 こ の 『 大乗
註 』 の 存在
に つ い て は 、愛
知県
豊 川 市 西 明寺
所
蔵 の 『 劫 外 録 大 乗 開 山徹
通 和尚
之註
』 が 、単
独 の テ キ ス ト と ( 2 ) し て は今
日知
ら れ る 唯 一 の伝
本
で あ る が 、 こ の 西 明寺
本 に は 見 ら れ な い註
が 『 面 山 本 所 引 大 乗 註 』 の (92
) (93
) (94
) (95
) の各
段 に は存
す る と い っ た 大 き な違
い や ( 今 回翻
刻 の 『梵
鶴
抄 』 の 該 当個
所 に は 、 『 面 山 本 所引
大 乗 註 』 か ら 引 用 し て お い た ) 、明
ら か な 文 言 の 異 同等
も あ り 、 こ の意
味 か ら も 『 面 山本
所 引 大乗
註 』 を 『大
乗
註 』 の 一異
本
と し て位
置 付 け る こ と は 可 能 と 思 わ れ る 。 た だ し 、岸
沢 文 庫 所 蔵面
山本
『劫
外
録
』 の 序文
の 欄外
に は 、 『 面 山 本 所 引 大 乗註
』 の存
在
に 関 す る 記述
と し て 、 朱 書 及 墨 書 加 朱 圏 着 語 、 大 乗 開 山 徹 通 和 尚 為 瑾 首 座 註 也 。 一 本 者 、 指 享 保 四 亥 年 天 橋 山 周 徳 精 舎 冬 安 居 龍 光 求 焉 之 本 。 此 本 蔵 在 但 州 養 父 郡 伊 佐 村 大 江 養 泉 寺 室 中 焉 。 『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) と い う朱
書 き の書
き 込 み が あ り 、 行 間 に書
写 さ れ た 『 大乗
註
』 の 外 に 、 岸 沢師
は こ の 『 大乗
開 山 徹 通 和尚
為 瑾 首 座註
』 と い う テ キ ス ト も実
見 し 、 全体
に わ た り 「 一本
云 」 と断
り書
き し て欄
外 や 行 間 に 引 用 し て い る 。 そ し て 、 別紙
の 岸 沢師
の メ モ に よ れ ば 、 大 乗 開 山 、 師 乃 云 、 挿 眼 争 芳 混 秀 ノ 下 二 、 ソ ノ 他 ハ 、 大 乗 云、 大 乗 開 山 徹 通 和 尚 為 瑾 首 座 註 也 と あ り 、 享 保 四 亥 年 天 橋 山 周 徳 精 舎 冬 安 居 龍 光 求 焉 之 本 大 乗 著 語 あ り 、 み て 相 違 あ り 、 明 和 丁 亥 ( 一 七 六 七 ) 孟 春 較 正 の 真 州 長 芦 了 禅 師 劫 外 録 、 拙 僧 蔵 本 に も 大 乗 著 語 あ り 。 と あ り 、 こ れ ら の メ モ を 合 わ せ判
断 す る な ら、 岸 沢師
入 手 の 面 山本
『 劫 外 録 』 に は 、 も と も と 一 本 の 『 大 乗 註 』 が書
写 さ れ て い た (A
本 ) 。 そ し て、 た と え ば 序 文 の 中 の』
葦
江
L と い う 語 に 対 す る 註 と し て は、 「 ○ 説 法 処 也 、 又 指長
長
萱 也 」 と い う 語 と は 別 に 、 重 ね て 「 又指
長芦
也 」 と い う 註 も引
用 さ れ て お り 、 こ れ は 恐 ら くA
本
と は 別 行 の 『 大 乗 註 』 の引
用 、 も し く は 異 本 校合
の形
跡 と 認 め ら れ 、 こ の 時 用 い た校
合
用 の テ キ ス ト をB
本 と呼
ん で お く 。 さ ら に 、 序 文欄
外朱
書 に 見 ら れ る 『 大 乗 開 山 徹 通和
尚
為 瑾 首 座註
』 と は 、享
保 四年
( 一 七 一 九 ) に 天橋
山 周 徳寺
( 京 都府
中 郡 大 宮 町 周 枳 ) で龍
光 に よ り書
写 さ れ た テ キ ス ト で 、 こ れ 八 五 N工 工一Eleotronlo Llbrary『 真 州 長 蘆 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 下 ) ( 石 川 ) が 丹
州
伊
佐村
大 字 大江
(兵
庫 県養
父 郡 八 鹿 町大
江 )養
泉
寺
の 室 中 に襲
蔵 さ れ て お り 、 岸 沢師
は こ れ を実
際 に 閲覧
さ れ て 、 面 山 本 の 行 間 や 欄 外 に 、 朱書
も し く は 墨 書 で 「 } 本 云 」等
と し て 引用
さ れ た も の と思
わ れ る (C
本 ) 。 こ の ほ か に 、 『 面 山 本 所 引大
乗
註 』 に は多
く の朱
墨 に よ る 「 見 セ 消 チ 」 が 見 ら れ る が 、 こ れ はC
本 に よ る 異本
校
合 の 様 子 を伝
え る 痕 跡 と思
わ れ る 。 と も か く も こ の 『 面 山 本所
引
大乗
註 』 と 、 豊 川 市 西 明寺
所 蔵 の 『劫
外 録 大 乗 開 山徹
通 之註
』 を 比 較 し て 見 る な ら 、徹
通 義 介 の も の と し て伝
え ら れ て来
た 同 系 統 の註
で あ る こ と が 知 ら れ る と 同 時 に 、 西明
寺 本 が 天 下 の 孤本
で は な か っ た こ と が 確 認 さ れ た 。 そ し て こ れ ら の内
、岸
沢師
が実
際
に 見 ら れ て異
本
校合
を さ れ たC
本 、 す な わ ち養
泉 寺 本 『大
乗
開
山徹
通 和尚
為 瑾首
座 註 』 は 、 あ る い は 岸 沢 文 庫 に 所 蔵 さ れ て い る か と推
測
さ れ た が 、 今 の所
、架
蔵 本中
に は 見当
た ら な い 。最
後 に 、養
泉 寺本
と想
定 さ れ る テ キ ス ト が伝
え る 『 為 瑾首
座 註 』 と い う書
名 に つ い て は 、 西 明 寺 本 の表
題 に は. 『劫
外 録 大 乗 開 山徹
通 和 尚 之 註 堙 首 座 書 之 』 と あ り 、 細字
の 記載
に よ れ ば 、 瑩 山 が 書 写 し た こ と を伝
え て お り 、 こ の 註 の 成 立 事情
を 反 映 し て い る と も見
ら れ る 。 た だ し 、 こ の 註 を 果 た し て 徹 通 義 介 の も の と し て そ の ま ま 認 め ら れ る か ど う か に つ い て は 、 書 誌的
に も多
く の 問 題 を 残 し た ま ま で あ る 。 八 六 い ず れ に し て も 『 劫外
録 』 に 対 す る 『大
乗 註 』 に は 、 系 統 の異
な る 複数
の 伝本
が存
し た こ と を物
語 っ て お り 、 『梵
鶴 抄 』 が部
分的
に伝
え る 「 大 乗 云 」 と し て 引 用 さ れ た も の も そ の 」本
で あ っ た こ と に な る 。 註 (1
) 岸 沢 惟 安 『 信 心 銘 葛 藤 集 』 ( } 九 四 七 年 九 、 要 書 房 刊 ) 二 頁 。 (2
) 西 明 寺 本 『 劫 外 録 大 乗 註 』 に つ い て 、 最 初 に そ の 所 在 を 指 摘 し た の は 、 「 西 明 寺 」 ( 『 禅 宗 地 方 史 調 査 会 年 報 』 第 四 集 、 一 九 八 八 年 三 月 ) で あ り 、 内 容 の 紹 介 に つ い て は、 石 川 力 山 「 洞 門 抄 物 の 発 生 と そ の 性 格 」 ( 『 財 団 法 人 松 ケ 岡 文 庫 研 究 年 報 』 第 二 号 、 一 九 八 八 年 二 月 ) 、 及 び 前 稿 「 『 真 州 長 蔵 了 禅 師 劫 外 録 抄 』 の 研 究 ( 上 ) 」 ( 『 駒 澤 大 學 佛 教 学 部 論 集 』 二 十 五 号 、 一 九 九 四 年 十 月 ) 参 照 。 『 大 乗 開 山 徹 通 和 尚 為 瑾 首 座 註 』 の 復 元以
上 、 『 面 山 本 所 引大
乗 註 』 に は 、A
・B
・C
三本
の 『大
乗
註 』 が含
ま れ て い る こ と が確
認
で き た が、A
本 とB
本 に つ い て は 、 こ れ を 厳密
に区
別 す る こ と は不
可 能 と 思 わ れ る 。 し た が っ て 、 面 山 本 の 行 間 に引
用 さ れ たA
・B
本 を 一本
と し て こ れ を 基本
に し 、 さ ら に 岸 沢師
が 「 一本
云 」 と し て朱
書
・ 墨NII-Electronic Library Service 書 さ れ た 養 泉 寺