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中央学術研究所紀要 第46号 001佐藤 厚「吉谷覚寿の東京大学仏教学講義」

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1 問題の所在

 1877(明治10)年、東京大学が出来ると、2年後の1879(明治12)年には仏教の講 義が「仏書講義」という名前で開設され、原はら坦たん山ざん(1819 1892)が最初に講義を行っ た。1881(明治14)年に吉よし谷たに覚かく寿じゅ(1843 1914)が加わった。彼らの講義が近代日本の 大学における仏教学研究の出発点であった。  原と吉谷とを比べると、原のほうがよく知られている。江戸時代に儒学を学び、蘭 医との勝負に負けて医学を学び、浅草で易者をしている時に招聘されて東京大学の講 師になるという波瀾の人生、講義でも『大乗起信論』と人体組織を結合させた独自の 教説など、人の関心を呼び起こす多くの要素を持ち合わせている。近年では特に『大

吉谷覚寿の東京大学仏教学講義

佐 藤   厚

1 問題の所在 2 吉谷の講義  2 1 吉谷の生涯と東京大学に赴任する契機  2 2 講義内容  2 3 吉谷の講義の変遷 3 吉谷の講義に対する学生の反応  3 1 三み宅やけ雪せつ嶺れい  3 2 井上円了  3 3 清きよ沢ざわ満まん之し・上うえ田だ万かず年とし  3 4 三み上かみ参さん次じ  3 5 谷たに本もととめり富  3 6 小結 4 井上円了『八宗綱要ノート』の謎を解く  4 1 『八宗綱要ノート』の謎  4 2 円了の仏教・哲学一致論と吉谷 5 結語

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乗起信論』講義が近代日本哲学における「現象即実在」という哲学的立場を形成する もととなったとして重要視されている1  これに対して吉谷についての言及はあまり存在しない。吉谷は基本、真宗大谷派で 教理を専門とする学僧であり、原坦山のような豪快な伝説や変わった教理を説くこと はない。しかし、筆者は東京大学で吉谷の教えを受けた井いの上うえ円えんりょう了(1858 1918)の研 究を進める中で、吉谷が重要であると思うようになり、その関係について論文を2本 発表した。そのほか筆者以外でも研究が出始めている2  ところで前に論文を書いた時、1990年代に東 京大学史史料研究会が『東京大学年報』を6巻 刊行していることを筆者は知らなかった。これ には明治期の東京大学の様々な書類が収録され ており、中には教師たちの「申報」、すなわち年 度末に提出する講義の報告書も入っていた。こ の中、吉谷の「申報」を見て、前に論文を書い た時に抱いていた疑問が解決した。さらに数年 分の申報を通読すると、吉谷が東京大学で講義 するにあたり様々な苦労があったことがわかっ た。やがて、それを整理したら面白いのではな いかと思うに至った。  そこで本稿では、第一に、吉谷の「申報」を もとに講義を再現し、その変遷を見る。そこに は授業に関する教材、授業の進め方、反省点などが記される。第二に、当時、吉谷の 授業に出席した学生のうち、感想や反応が残っている当時の学生の証言を集め、講義 がどのように受け取られたかを考察する。第三には、特に円了との関係に焦点を当て て検討する。  この考察は、草創期の東京大学の仏教学の授業の状況を明らかにすることにより、 近代に日本における仏教学の基礎を考察する上で重要であると考えられる。 図1 吉谷覚寿肖像(『文武高名録』)明 治22年頃か 1  井上克人『西田幾多郎と明治の精神』、関西大学出版部、2011年「すでに述べたように、明治中 期以降に提唱された哲学的立場は「現象即実在論」と総称されているが、その形成に大きな影響を 与えたのは、当時の仏教哲学者、原坦山である。つまり「現象即実在論」は、坦山の教え子たちで ある井上哲次郎、井上円了、清沢満之、三宅雄一郎(雪嶺1860 1945)らによって主張された一定 の形而上学、超越論的実在論に付された総称なのである。」P.159。「彼(引用者:原坦山)の『大乗 起信論』の講義は、当時の学生に「真如実相」をドイツ観念論の形而上学と結合して考えることを 教えた程、当時の仏教学説中では最も哲学的に進んだものであった。」p.160 2 鈴木朋子「吉谷覚寿における仏教復興の道」、日本近代仏教史研究会『近代仏教』23、2016年

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 なお1882(明治15)年から「仏書講義」は「印度哲学」という名になる。よって吉 谷の講義も、厳密には印度哲学講義であるが、わかりやすさを考慮して標題には「仏 教学」講義とした。

2 吉谷の講義

2-1 吉谷の生涯と東京大学に赴任する契機  まず吉谷の伝記を記す3。吉谷は現在の岐阜県出身で、真宗大谷派の最高峰の学問所 である高倉学寮で修学し、1877(明治10)年、大谷派の東京教校教授に就任、1881(明 治14)年、東京大学講師を経て、1885(明治19)年、東京教校長となる。1890(明治 23)年に擬講、高倉学寮教授に就任し、1896(明治29)年に嗣講に進む。1901(明治 34)年に講師となり、1911(明治44)年に大谷大学教授となる。このように吉谷は高 倉学寮の重鎮として権威があった。著作は、初期のものには『仏教大旨』、『仏教総論』、 『明治諸宗綱要』といった仏教全体を扱う著作が多く、後になると『三帖和讃講述』、 『六要鈔講讃』など真宗関係の著作が中心となる。1914(大正3)年、急性中風症によ り逝去した。遺稿集に『一乗院法話集』がある。  吉谷は1881(明治14)年9月から1890(明治23)年6月まで9年間、東京大学で仏 教学の講義を行なった。吉谷が東京大学に来た経緯は次のようなものである。東京大 学総理であった加か藤とう弘ひろ之ゆき(1836 1916)が東京大学に仏教学の講義を設けるにあたり、 島 しま 地じ黙もく雷らい(1838 1911)の推薦により、まず曹洞宗の原坦山を招聘した。ところが、加 藤と知己であった真宗大谷派・念速寺の近藤という僧侶が、原坦山について「禅門の 悟道の方にて教相学者にあらず。殊に天台学などは全く学びたることなき人」と述べ、 それゆえもう一人、教理専門の学者を招聘するのがよいと進言し、近藤氏の紹介で吉 谷が講師となったという4。教理を期待された吉谷は、東京大学で『八宗綱要』、『天台 四教儀』などの講義を行った。 2-2 講義内容  続いて講義内容を検討する。〈表1〉は、吉谷が在職した9年間の中、記録が残って いる年について、教材、対象学年、人数、問題点・工夫を整理したものである。以下、 年度別の報告書を見ていく。 3 『真宗人名事典』p.342 井上円了「加藤老博士について」、『東洋哲学』22 8、1915年

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〈表1〉年度別の教材等一覧 年 年度 教材 対象学年 人数 問題点・工夫 1 1881(明治14) 八宗綱要 3、4年 ? 3学期に4年生、卒論のため欠席多し 2 1882(明治15) 四教儀 3、4年 ? 『四教儀』を三分し、前、後、中の順で講義 3 1883(明治16) 八宗綱要 3、4年 ? 天台宗の部分は講義せず 4 1884(明治17) 四教儀? 3、4年? ? ? 5 1885(明治18) 八宗綱要 3、4年 13 テキストに依らず要点を説明 6 1886(明治19) 四教儀 2、3年 9 テキストに依らず要点を説明 7 1887(明治20) 仏教要旨 2、3年 9 「仏教要旨」により要点を説明 8 1888(明治21) 仏教要旨 2、3年 14 「仏教要旨」により要点を説明 9 1889(明治22) ? ? ? ? ⑴  1年目。1881(明治14)年度:(1881(明治14)年9月から1882(明治15)年6月)  吉谷の講義の最初の年である。当時の東京大学の学事歴は、9月に新学期が始まり 12月まで1学期、1月から3月までが2学期、4月から6月までが3学期であった。 以下、年度ごと吉谷の報告書を筆者が要約したものを掲げ、解説していく。本来なら ば原文を挙げなければならないが、紙幅の関係上、割愛した。この年度の報告書には 次のようにある5     本年度の科目名は印度哲学であり、学生は文学部の3年生と4年生であった。 教科書は、3年生には 凝ぎょう然ねんの『八宗綱要』、4年生には諦たい観かんの『四教儀』とした。 授業時間は週1時間である。     本来は3年生と4年生とを別に授業すべきであるが、合同で行い『八宗綱要』 だけを講義することにした。授業の方法は、あるときは口授し、あるときは筆受 させた。     学生が仏教の初心者であることや授業時間が少ないことに比べると、学年末試 験の成績はよく、やや仏教の一端を了解したといえる。  この中、『八宗綱要』とは、日本の鎌倉時代の僧侶・凝然(1240 1321)が著わした もので、1倶舎宗、2成実宗、3律宗、4法相宗、5三論宗、6天台宗、7華厳宗、 8真言宗の8つの宗派の歴史と教理を整理した書物である。これは古くから仏教の概 論書として使われてきた。一方、『四教儀』は、高麗の僧侶・諦観が著わしたもので、天台 宗の教理の入門書である。これも古くから仏教の入門書として使われてきたものである。  上の報告を見ると、初年度の講義はうまくいったような印象を受けるが、実は吉谷 5  「東京大学第2年報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第2巻(東京大学出版会、1993年) p.182

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が驚くことがあった。それは次年度の申報に記されるのだが、4年生は3学期になる と卒業論文を作成するため授業への出席が随意、すなわち自由になり、欠席者が多く なっていたのである。それが吉谷の授業方法に変化を与える。 ⑵  2年目。1882(明治15)年度:(1882(明治15)年9月から1883(明治16)年6月)  吉谷の報告書の要約は次の通りである6     この年、自分が教えたのは印度哲学すなわち仏教である。学生は昨年同様3年 生、4年生であり、本来ならば3年生に『八宗綱要』、4年生に『四教儀』を分け て講義しなければならないが、昨年は合同で『八宗綱要』だけを教えた。よって 今年は『四教儀』だけを講義する。授業は週1時間で、方法は昨年と同じである。 すなわち簡単な部分は口頭で説明し、重要な部分は最初に「筆授」すなわち書き 取りをさせて、繰返し説明して奥深いところに至らせようとした。  ここまでは授業の運営方法は同じで教材だけが『四教儀』に変わっただけである。 しかし、昨年大きな問題が発生していたことを述べる。     昨年度は実は問題があった。それは自分が大学の仕組みをよく知らなかったた めに起こった問題である。昨年度に講義した『八宗綱要』は、内容が簡単な部分 から複雑な部分へと展開していく書物である。よって授業の中、3学期に一番難 しい部分が来るのであるが、何ということであろうか、4年生の場合、卒業論文 作成のために3学期の出席は自由ということで欠席者が多かった。一番高等の部 分を研究させることができなかったのは、本当に遺憾に堪えないことであった。     これを受けて今年は講義の方法を工夫した。今年は『四教儀』の年であるが、 それを最初、中間、最後の3つに区別し、最初を1学期に、最後を2学期に、そ して中間を3学期に講義した。その理由は、『四教儀』という書物が前後に深い教 理を明かし、中間に浅い教理を説いているからである。     大学当局に願うには、4年生には卒論制作の時間を別途に与え、授業を欠席す ることのないようにしてほしい。そうすれば授業の順序も正しくなり、学生の理 解もきちんとしたものになる。  ここでは卒業論文作成のために授業を欠席する学生に対して嘆き、それに応じて教 材の進め方を変えた。すなわち、『四教儀』の構成は、冒頭に教判である「五時八教」 を出し、まず「五時」を説明しながら「化儀の四教」を示し、「八教」を説明しながら 6  「東京大学第3年報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第2巻(東京大学出版会、1993年) pp.289 290

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「化法の四教」を示し、最後に円教の修行法を「二十五方便・十乗観法」で示して終わ る7。ここから考えると、「化儀の四教」が最初、「化法の四教」が中間、「二十五方便・ 十乗観法」が最後と3分され中間と最後を入れ換えたのかもしれない。  ちなみにこの年の明治16年4月1日に、吉谷は加藤弘之の自宅に行き「仏教大旨」 を講義したという。8この内容はわからないが、1886(明治19)年に吉谷が刊行した『仏 教大旨』、あるいは1887(明治20)年に講義される「仏教要旨」と関連するものかもし れない。 ⑶  3年目。1883(明治16)年度:(1883(明治16)年9月から1884(明治17)年6月)  吉谷の報告を要約したものは次の通りである9     本年度に自分が担当したのは印度哲学であり、学生は文学部の3年生、4年生 である。教科書は前の例により『八宗綱要』だけを講義した。授業時間は週1時 間であり、授業の方法はこれまでと同じである。     『八宗綱要』は初年度に全体を講義したが、時間が少ないために内容を細かく説 明することはできず、とても残念であった。そこで今年は八宗の中、第七にあた る天台宗は翌年『四教儀』を講読するのでこれに譲り、残りの七宗について、や や精密に講義した。     今年度は、学生は極めて少なかったが、熱心で1回も欠席がなかった。よって 成績も前年に比べると一層進歩したといえる。  『八宗綱要』の中、天台宗は除き残りの七宗だけを講義するという、少ない時間で有 効に授業を行なおうと努力している様子が読み取れる。熱心な学生の態度に満足を表 しているが、中にはこの年に3年生だった井上円了も参加していたと思われる。 ⑷  4年目。1884(明治17)年度:(1884(明治17)年9月から1885(明治18)年6月)  この年度の申報は『東京大学年報』に収録されていないので見ることができない。 前年までの流れからすると『四教儀』が講義されたものと思われる。 ⑸  5年目。1885(明治18)年度:(1885(明治18)年9月から1886(明治19)年6月)  吉谷の報告を要約すると次のようになる10 この部分は池田魯參『現代語訳天台四教儀』、山喜房佛書林、2011年 pp.72 73によった。 「午後真宗僧吉谷覚寿を招き佛教大旨を聞く晩食を出す」中野実ほか「加藤弘之日記―明治十五・ 十六年―」『東京大学文書館紀要』11、1993年3月、p.101 9  「東京大学第4年報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第2巻、東京大学出版会、1993年、 p.404

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    今年度、自分が担当したのは印度哲学であり、学生は哲学科の3年生、4年生 であり全部で13人である。授業時間は毎週2時間である。教科書はこれまでの例 の通り『八宗綱要』である。     ところで、この年は授業の方法を改良した。その理由は、教科書の言葉を一つ 一つ解釈していると、「労多くして功少なし」の感じを覚え、ひいては大事な部分 を見失ってしまう可能性もある。ゆえに『八宗綱要』の「精要」を集めて、「諸法 原理」、「三法印義」というような、重要な教理を100個挙げて、まずこれを書きと らせ、後に反復して深い義理を得させる形にした。それは文句の糟糠にとらわれ ることなく、義理の真味を体認させるためである。この成果は定期試験の書き取 りおよび点数報告をご覧いただきたい。  この年から授業方法が大きく変わる。すなわちテキストそのものを解釈していくの ではなく、その中で大事と思う部分を吉谷が講義するという方法である。実はこの時 のノートが、井上円了が筆記した『八宗綱要』(筆者は『八宗綱要ノート』と呼んでい る)である。その内容は、吉谷の言葉通り「諸法原理」、「三法印義」という教理用語 についての説明が記されている。ここで重要なのは、「諸法原理」、「三法印義」という のは『八宗綱要』には出て来ない用語である11。すなわちこれは吉谷自身が仏教の中で 重要であると思う概念である。 ⑹  6年目。1886(明治19)年度:(1886(明治19)年9月から1887(明治20)年6月)  吉谷の報告を要約したものは次の通り12     今年度自分が担当したのは印度哲学である。学生は哲学科の2、3年生を担当 し9名であった。授業は週2時間である。教科書は『四教儀』を使った。しかし、 この年から方法を改めた。授業の方法は無理に教科書の文句を解説するのではな く義脈、大事な流れを理解させることを目的とする。よって『四教儀』全体の中 から「教観大綱」、「五時八教」など、重要な部分を抜き出し、あらかじめ書き取 りさせ、それから解説を加えるという方法である。これは効果があったからか成 績は点数報告を見てほしい。  この年からカリキュラムが変わり、配当学年が3、4年生から、2、3年生になる。 10 「文科大学年報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第5巻、東京大学出版会、1994年、p.135 11 井上円了「八宗綱要」(二丁オモテ) 12  「文科大学年報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第5巻、東京大学出版会、1994年、pp.511 512

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授業の方法は前の年に『八宗綱要』で行ったのと同じ重要な部分だけを解説する方式 である。これとの関係が考えられるもの吉谷の著作に『天台四教儀集註略解』(明治 31)がある。これは『四教儀』の代表的な注釈書である蒙潤の『天台四教儀集註』を 解釈したものである。内容は、第1「解釈題意」から第100「正規随宜」までの100題 のテーマが記されている。報告書で説く、「教観大綱」、「五時八教」という言葉は見え ないが、方向性は同じである。 ⑺  7年目。1887(明治20年)度:(1887(明治20)年9月から1888(明治21)年6月)  吉谷の報告は次の通り13     本年度、自分が担当したのは印度哲学である。哲学科の2、3年生で9名であ った。授業時間は毎週2時間であった。教科書は、最初に述べたように、これま での『八宗綱要』と『四教儀』を参考書とし、新しく「仏教要旨」と名付けて若 干の科目を立て、最初にその概要を書き取らせ、そして難解なところは繰返し説 明してその深い意味を研究させた。    学生は概して温厚かつ鋭敏であり、熱心に勉強する。  この年からさらに授業の方法が変わった。教科書は、従来の『八宗綱要』、『四教儀』 が参考書となり、それとは別に新しく「仏教要旨」を講義したという。これはどのよ うなものであろうか。  可能性としては、吉谷が1886(明治19)年に刊行した『仏教大旨』と関連があるも のと考える。『仏教大旨』は、吉谷が1884年から1885年にかけて『令知会雑誌』に連載 していた仏教概論であり、それをまとめたものである。内容は、「1.略して仏教の大 旨を明かす」、「2.広く問答を設けて反復弁論す」の二門に分かれる。「1.略して仏 教の大旨を明かす」では仏教の大旨を「転迷開悟の要路を提示するもの」と定義する。 「2.広く問答を設けて反復弁論す」は、1迷悟体性、2諸法原理から10総決料簡の10 門に分かれる。この『仏教大旨』は、前の『八宗綱要』の際の項目とも共通している もの(諸法原理)がある。よって、『八宗綱要』講義の時は、いまだ『八宗綱要』とい うテキストの注釈という側面があったのに対して、『仏教大旨』の場合は、吉谷が考え る仏教の要点がストレートに表現されたものである。  一方、当時、この授業を受講していた谷本富(後に教育者となる)は次のように述 べる。 13  「文科大学教員申報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第6巻、東京大学出版会、1994年、 p.77

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   印度哲学は原坦山氏に『起信論』を聴き、吉谷覚寿に『明治諸宗綱要』を聞けり。 大体は夫の『八宗綱要』に基づき、仏教の大意を二百項目に分けて叙述したるに て、特に天台宗は『四教儀』を参考用書として稍々詳説せらる。14  『明治諸宗綱要』とは、吉谷が1890(明治23)年4月に著わしたもので、『八宗綱要』 に準拠する形で、当時の日本仏教の宗派の歴史と教理を整理したものである。すなわ ち1法相宗、2華厳宗、3天台宗、4真言宗、5融通念仏宗、6浄土宗、7臨済宗、 8曹洞宗、9黄檗宗、10真宗、11日蓮宗、12時宗の12の宗派について、所依教典、宗 名義理、立教開宗、師資相承、宗義要旨を述べたものである。ただ、筆者は、これは 谷本の記憶違いではないかと考える。 ⑻  8年目。1888(明治21年)度:(1888(明治21)年9月から1889(明治22)年6月)  吉谷の報告は次の通りである15     本年度、自分が講義したのは東洋哲学で、すなわち印度の仏教である。学生は 3年生6名、2年生8名の合計14名である。授業方法はほぼ前年と異ならない。 仏教の義理を示すには、強いて書物の文字を解釈する必要はない。ただ浅い部分 から深いところに行く順序にしたがい、若干の科目を立ててあらかじめ筆写させ、 難解な箇所については反復説明をして奥義を理解させようとした。     ところで、前年度までは授業は毎週2時間で、2年生と3年生とを一緒に授業 していた。しかし、両学年の間には能力に差があるため講義をしていて不便を感 じることが多い。ゆえに今年は授業時間を週4時間にし、2年生と3年生とを別 に授業するようにした。これにより、きちんと講義ができるようになった。学生 の中には欠席が多い者もいたが、概して着実に勉強する学生が多いのは満足であ る。  講義内容は、ほぼ前年度と同じである。ただ、授業の運営方法に違いがあり、昨年 は2年生、3年生を合同で教授したが、学年間で知識の違いがあり、不都合なために、 2つの学年を分離して授業を行うようになった。 ⑼  9年目。1889(明治22年)度:(1889(明治22)年9月から1890(明治23)年6月)  吉谷が講義をする最後の年であるが、『東京大学年報』に「申報」が収録されていな いので、内容はわからない。 14 谷本富「大学の今昔」、『芸文』2 10、1911年10月、p.106 15 「文科大学申報」東京大学史史料研究会『東京大学年報』第6巻、東京大学出版会、1994年、p.361

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2-3 吉谷の講義の変遷  以上、9年間にわたり行われた吉谷の講義の内容について記録が残る7年分を見て きた。ここで講義の変遷を整理する。まず最初に設定した教材は『八宗綱要』と『四 教儀』である。当初は2つの教材を3年生と4年生に分けて教授するはずであったが、 3、4年生を同じクラスにして1年ごとに『八宗綱要』と『四教儀』とを講義する方 式であった。これは最初の4年間続けられた。よって、『八宗綱要』と『四教儀』は2 回ずつ講義したことになる。  この間に行なわれた工夫は次のようなものである。『八宗綱要』と『四教儀』は、ど ちらも細かく説明をすると時間が不足する。そこで『八宗綱要』は2回目に講義する 時には天台宗の部分は『四教儀』で触れるために除くことにしていた。続いて一年の 間のスケジュールに関してである。吉谷は、初年度の3学期に4年生が卒業論文作成 のために出席してこないことにショックを受けた。そこで次年には、『四教儀』を三分 し、前、後、中の順で講義することにした。  1885(明治18)年からは新しい展開がある。これは『八宗綱要』の年であるが、テ キストをそのまま講読するのではなく、ポイントを講義するという方式に改めた。こ の時の講義ノートが井上円了の『八宗綱要ノート』である。翌年1886(明治19)年は 同じことを『四教儀』で行った。  さらに翌年1887(明治20)年からは新たな展開がある。『八宗綱要』、『四教儀』は参 考書にして、自分が作成した「仏教要旨」により要点を説明する方式である。「仏教要 旨」の詳しい内容はわからないが、吉谷の仏教学を打ち出すものであると考えられる。 これは翌年も行われた。最後の1889(明治22)は記録がないためにわからない。  このように吉谷の講義は試行錯誤を経ながら変化していった。それは、テキストの 講読から自分で作った教材を中心に、核心的な部分だけを教授するというスタイルへ の変化である。この核心的な部分とは、すなわち吉谷の考える仏教学の中心思想とい うことになる。  1890(明治23)年、吉谷は東京大学を離れて京都に戻り高倉学寮の教授となる。同 時に宗派内の擬講という役職に就任し、以後、24年間京都を中心として活動する。ち なみに吉谷に代わり東京大学で授業を担当するようになったのは、同じ真宗大谷派の 村 むら 上 かみ 専 せん 精 しょう (1851 1929)である。

3 吉谷の講義に対する学生の反応

 ここでは吉谷の講義を受けた学生の中、その印象などを残している人物を探し、入 学年度が古い順からその反応を見て行くことにする。ここで取り上げるのは、三宅雪 嶺、井上円了、清沢満之、上田万年、三上参次、谷本富の6人と、最後に生徒ではな

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いが井上哲次郎である。  まず吉谷が東京大学に在職した9年間の教材と、上記の学生が聴講したと考えられ る学年を〈表2〉にまとめた。例えば、「1三宅」であれば、1881(明治14)年と1882 (明治15)、学年では3年生と4年生の時に吉谷の講義を聴講した、という意味である。 なお、「2円了」にある「研究」は研究生という意味である。 〈表2〉吉谷の講義年度と記録が残る受講生 年 年度 教材 対象 1三宅 2円了 3清沢 4上田 5三上 6谷本 1 1881(明治14) 八宗綱要 3、4年 3年 ― ― ― ― ― 2 1882(明治15) 四教儀 3、4年 4年 ― ― ― ― ― 3 1883(明治16) 八宗綱要 3、4年 ― 3年 ― ― ― ― 4 1884(明治17) 四教儀? 3、4年 ― 4年 ― ― ― ― 5 1885(明治18) 八宗綱要 3、4年 ― 研究 ― ― ― ― 6 1886(明治19) 四教儀 2、3年 ― ― 3年 2年 ― ― 7 1887(明治20) 仏教要旨 2、3年 ― ― 4年 3年 2年 2年 8 1888(明治21) 仏教要旨 2、3年 ― ― ― ― 3年 3年 9 1889(明治22) ? ? ― ― ― ― ― ― 3-1 三み宅やけ雪せつ嶺れい  三宅雪嶺(1860 1945)は、明治から昭和前半にかけての哲学者、評論家である。現 在の石川県生まれ。東京大学文学部哲学科を1883(明治16)年に卒業した後、1888(明 治21)年、志賀重昂・杉浦重剛らと政教社を設立し、国粋主義の立場を主張するため に『日本人』を創刊する(後に『日本及日本人』に改題)。その後も、個人雑誌として 『我観』を創刊、『中央公論』等に論説を発表するなどして注目を集めた。  三宅が吉谷の講義を聴講したのは3年生、4年生の時で、吉谷の1、2年目にあた る。三宅の自伝の中の東京大学時代の教授に対する評価は概して厳しいが、吉谷につ いても例外ではない。次の証言は、講義を聞くよりも、図書館で読書をしたほうがよ いということを述べる。    教授は大家だけのことはあるとし、知識を得るに特別なことはなく、図書館で読 書する方が消化するところが多い。教授にもよるけれど、教場は自分にとって別 段のことがないと思った。儒者や僧侶は前に哲学という語を使わず、新たに支那 哲学といい、印度哲学といい、何らか了解するところあっても、如何に教授すべ きかに悩まぬでない。教場で学生は自分ひとりであって、すぐ談話になり、授業 というほどのことがない。吉谷は自ら筆記したところを筆記させたが、これとて 書物を読めば間に合わぬでない。一流の大家でも教場で教えるところは形式に流

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れやすく、つまり図書館で自ら読む方を重要とせずにおけぬ。16(下線筆者)  筆記して説明するというのは、吉谷の教授スタイルであったが、それに対する反発 が見て取れる。  次の証言は、原との対比で吉谷を評し、原よりは良いが、しかし吉谷の講義にも問 題があるとして次のように述べる。    吉谷氏は東本願寺の僧で、授業は原氏とは正反対になり、八宗綱要を教科書にし、 一々文語体で筆記せしめ試験にもその筆記通りにさせた。そういうのを学僧とい うのであろう。筆記して記憶するのは他の学科にもあることで、真宗で普通の学 校のような授業法に力を用いたのであろう。暗誦するだけ知識を蓄え得るとも言 える。原氏の教場で雑談を聴き、有耶無耶に時を過ごすに優るらしいが、筆記し なくても注釈本を読めば判らぬことがない。八宗綱要の註釈本は吉谷氏の筆記さ せたのよりも精しいのが出版された。筆記全能とすればあたり前とし、教場に出 ずに読書する方が宜いこともある。17  続いて、東京大学講師を終え、やがて大谷派の重鎮になった吉谷を次のように批判 する。    吉谷氏は後に東本願寺で講師となり、オルソドックスの権威を振ったとの事、講 師は最上学職で御講師様と言えば教義に関して最後の判断を下だすの位置に居 る。帝大出身者はその為に悩まされ、種々の問題が起こった。吉谷氏は真宗に忠 実であったろうが、それが畢竟何の利益になったか。吉谷氏は帝大で知識の利益 を得べき者であって、その利益を得ず、次第に頑固になり、折角の学僧が不学僧 同様に見えた。18  吉谷のために「帝大出身者はその為に悩まされ、種々の問題が起こった」というの が具体的にどのようなものかはわからない。ただ一つ、村上専精が『仏教統一論』を 書き、その中で、いわゆる「大乗非仏説論」が問題になった時、大谷派の中で村上を 攻撃していた人物の一人が吉谷であったことが注目される19 16 「教場と図書館」pp.367 368(初出は『婦人之友』30 5「雪嶺自伝」1936年) 17  三宅雪嶺「自分を語る」(『三宅雪嶺』、日本図書センター、1997年)p.171 原著は朝日新聞社、 1950年刊行 18 同前 19  村上専精『六十一年 一名赤裸裸』「伝え聞く、当時、吉谷覚寿君、龍山慈影君の両大徳は、高倉 大学寮を代表し、拙著『仏教統一論』の第一編を携さへ、東本願寺の寺務所に出頭し、石川翁に面 会を求め、至急本山としての処分を要求せられしと。」、丙午出版社、1914年、p.373 374

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3-2 井上円了  井上円了は1882(明治14)年に東京大学文学部哲学科に入学している。よって、吉 谷の講義は学部の3年生(1884:明治16年)、4年生(1885:明治17年)に聴いている はずである。さらに吉谷の講義のノートである『八宗綱要ノート』は研究生となった 1886(明治18)年の作であるから、3年連続で聴講した可能性がある。筆者は、吉谷 の講義を聴講した学生の中で最もその影響を受けたのが円了であると考えている。そ の理由については後節に見ることにする。円了自身は吉谷の講義への印象などを記し たものは残していない。 3-3 清きよ沢ざわ満まん之し・上うえ田だ万かず年とし  清沢満之(1863 1903)は、真宗大谷派の僧侶で、仏教者、哲学者である。上田万年 (1867 1937)は、日本の国語学者、言語学者で、東京帝国大学国語研究室の初代主任 教授、東京帝国大学文科大学長や文学部長を務めた。二人は東京大学の先輩後輩の間 柄で、清沢が上田よりも一年上である。この資料は、上田が吉谷の授業を回想するも のであるが、その中に清沢が出て来る。よって、これは上田の吉谷評価であると同時 に、清沢が吉谷の授業にどのように参加していたのかという二つの情報が入っている。    大学に入り印度哲学を吉谷覚寿先生から教はつた。その講義の筆記を試験に暗記 する。『八宗綱要』などは註釈があつても仲々分らぬ。それで多くは講義の筆記を 暗記した。問題が百あれば二十位暗記する事にして、其の中五題位だして呉れと 吉谷先生に願ふた者も有つた。20  これは『八宗綱要』が教材であるから、1885(明治18)年のことと思われるが、そ の時は清沢が3年、上田が1年であるから、上田は受講していない。あるいは1887(明 治20)年のもので、「仏教要旨」のことかもしれない。清沢が4年、上田が3年であ る。それは「仏教要旨」も『八宗綱要』と内容が重なる部分があったからである。こ の点は疑問が残る。  続いて清沢の優秀性が語られる。    然し氏(引用者:清沢)はこんな事には係らなかつた。其の成績は百点を外した ことは無い様に思ふ。講義以上の力が有つて、私共が骨折る境界とは異り、問題 に対して自分の力で書くものと思つてをりました。然るに其の後卒業してから氏 の答案を見ると、私共のと異つてをらぬ。つまり私共が数時間要する事を、僅か 一二時間で直ぐ頭へ入れられたものと思はれる。21 20 暁烏敏、西村見暁共編『清沢満之全集』第3巻、法蔵館、1957年、pp.598 599。

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 清沢は100点を外したことがないという。それに対して上田は苦労をしたと見える。 3-4 三み上かみ参さん次じ  三上参次(1865 1939)は、日本史学者である。『明治天皇紀』などを編纂し、1932 (昭和7)年に貴族院議員(帝国学士院会員議員)。また史学会創設に関与し、1936(昭 和11)年に理事長を務めた。東京大学文学部には1886(明治19)に入学したので、前 の上田万年の1学年下である。吉谷の講義は2年生(1887年)、3年生(1888年)の時 に聴講したと思われる。1936(昭和11)年、71歳の時、インタビューに答えた三上は、 学部時代を回想する中で吉谷の講義について次のように述べる。    それから吉谷覚寿と云ふ坊さんの先生がありまして、之は東本願寺の人で、後に 東本願寺の学長を永くやつて居られたが、この人は『八宗綱要』を教科書として 仏学全体の講義をされた。是れは割合によく判つて、仏教とはどんなものである かと云ふことの知識を得たのであります。この先生、或る時これが判るかなと云 はれた歌を覚えて居る。「真如とは如何なるものと人問はば、墨絵にかける松風の 音」。中々判りさうもない歌ですが、そこを悟るのが悟りだと言はれた。それと同 じやうに「花は咲き咲き浄土散り散り浄土」と云ふことも言はれたが、之は判る。22 (下線筆者)  三上は1887(明治20)年に2年、1888(明治21)年に3年であり、吉谷の7年目、 8年目にあたる。この時の教材は「仏教要旨」であるが、『八宗綱要』を教科書として とあることから、「仏教要旨」は独立した教科書ではなく、『八宗綱要』にも関連する ところが多かったのかもしれない。  下線部「割合によく判つて、仏教とはどんなものであるかと云ふことの知識を得た」 という証言から、三上にとっては吉谷の講義は好印象であったことが窺える。また「真 如とは如何なるものと人問はば、墨絵にかける松風の音」という歌は、円了の『八宗 綱要ノート』にも出て来ることから23、吉谷が実際に講義で用いていたことが確認でき る。 21  同前。清沢の3年生の時の試験点数は次のようである。「哲学科旧三年試業点表」「西洋 100フ ェノロサ、印度 100吉谷、70原、支那 90島田」暁烏敏、西村見暁前掲書、p.607 22  「昭和11年11月19日 三上参次先生談旧会速記録(第三回)」『日本歴史』1981年1月号、吉川弘 文館、1981年、p.117 23  「井上円了『八宗綱要ノート』の思想史的意義」(東洋大学井上円了研究センター『井上円了セン ター年報』22、2013年)P.143「真如ヲハ如何ナルモノト人問ハハ、墨絵ニカキシ松風ノ音」円了の 『八宗綱要』では四丁オモテ

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3-5 谷たに本もととめり富  谷本富(1867 1946)は東京大学文学部の選科に入り、卒業後に教育者となった人物 である。学年は三上と同じである。よって吉谷の講義は2年生(1887年)、3年生(1888 年)の時に聴講したと推測される。まず1911(明治44)年、京都大学の雑誌『芸文』 に「大学の今昔」として東京大学時代を回想した記録を見る。この時、谷本は44歳。    印度哲学は原坦山氏に『起信論』を聴き、吉谷覚寿に『明治諸宗綱要』を聞けり、 大体は夫の『八宗綱要』に基づき仏教の大意を二百項目に分けて叙述したるにて、 特に天台宗は『四教儀』を参考用書として稍々詳説せらる。24  この中、「『八宗綱要』に基づき仏教の大意」というのは『仏教大旨』のことではな いかと思われる。また谷本は1938(昭和13)年にも著書の中で自分の学部時代を振り 返っている。    尚仏教も印度哲学といふ新しい名称の下に、故原坦山和尚の「起信論」に拠つて の惑病同源論や、故吉谷覚寿師の「八宗綱要」を土台としての明治諸宗の概説な どを料聴して、斯道の手ほどきをしてもらつたことは深く感佩するが、未だ別に 自分の哲学思想を左右するには到らず、別して原和尚の駄法螺はむしろ排斥し去 つた。25  ここでも谷本は吉谷の講義を「「八宗綱要」を土台としての明治諸宗の概説」と述べ て居る。ただ、そうした講義は自身の哲学思想を左右するには至らなかったと、やや 消極的な評価を与えている。 3-6 小結  以上、当時の講義を聴いた学生の評価を見てきた。  プラス、マイナスの評価で言えば、プラス評価が清沢、円了、三上である。清沢、 円了は直接感想を述べていないが、清沢は試験でよい点数を取り、円了の場合は後述 するように、仏教・哲学一致論を確立するための前提となった。この清沢、円了は共 に大谷派僧侶であることが注意される。  一方、マイナス評価は、三宅、谷本、上田である。三宅は、授業よりも本を読んだ 方がよいと述べていた。谷本は、講義に感謝はするが自分の哲学にはなっていないと いう。上田万年は暗記が大変で苦労したという話であった。  最後に東京大学で同僚であった井上哲次郎(1856 1944)の吉谷の評価を見てみる。 24 谷本富「大学の今昔」、『芸文』2 10、1911年10月、p.106 25 谷本富『非常時局の教育と宗教』、モナス、1938年、pp.509 510

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これが東京大学全体の吉谷に対する評価を示しているような気がする。    吉谷氏は、真宗大谷派に属し、仏教専門の学者としては相当の人物であり、既に 「明治諸宗綱要」と言つたやうな著述もあつた。しかし、その講義は、仏教以外の 学生にも理解の出来るやうに説明するには、多少遺憾の点があつたやうに想はれ た。さう言ふことから、東京帝大に於ける講師は、余り長くなかつたやうだ。26 (下線筆者)  この記述から井上哲次郎も、学生指導という点であまり吉谷を評価していないこと が窺える。下線部「その講義は、仏教以外の学生にも理解の出来るやうに説明するに は、多少遺憾の点があつたやうに想はれた」というのは、哲次郎自身が感じたことか、 あるいは学生たちの評判に基づくものかはわからないが、学者としては評価するが、 教育者としては評価できないという印象が伝わってくる。  ちなみに哲次郎はこの箇所に続けて、吉谷の後任である村上専精について次のよう に述べる。「村上博士は、西洋の学問はしなかつたけれども、務めて翻訳書等に依つて 勉強し、言葉遣ひから研究の仕方に至るまで、その時代に適応するやうな態度であつ たから、学生の受けは確に良かつた」27(下線筆者)。下線部「学生の受け」が、直前 の吉谷の記事との対比が暗示されているような気がする。  このように見ると、吉谷は、やはり伝統的な真宗大谷派の学僧であった。吉谷自身、 新しい時代の仏教を模索し、『仏教大旨』、『明治諸宗綱要』、『仏教総論』などを著わし た。しかし、外すなわち東京大学の学生、教師から見ると、それは依然として伝統的 な学僧のままであり、明治という新時代の進取を好む雰囲気とは異質なものと受け取 られたのであろう。

4 井上円了『八宗綱要ノート』の謎を解く

4-1 『八宗綱要ノート』の謎  筆者は2013年に「井上円了『八宗綱要ノート』の思想史的意義」という論文を書い た。円了は明治18年10月に大学を卒業した後、研究生となったが、この時のノートに 『八宗綱要』がある。筆者は、これを便宜的に『八宗綱要ノート』と呼び、翻刻ととも に吉谷との思想史的な関係を論じた。この時の筆者の疑問は、円了は学部で吉谷の講 義を聴いたのに、なぜ研究生になっても聴く必要があるのかであった。よって、それ が本当に講義のノートなのかという疑問もあった。そこで、吉谷との関係を探るため 26 井上哲次郎『井上哲次郎自伝』、冨山房、1973年、p.50 27 同前

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に、『八宗綱要ノート』と吉谷の『仏教大旨』、『仏教総論』との対応関係を指摘し、結 論としてこのノートが「吉谷の講義か、あるいは吉谷の手控えを書写した筆録である ことは、ほぽ間違いないであろう。28」と述べた。それが今回の吉谷の報告書により、 明治18年度の授業ノートであることが証明できた。  さらに時期の特定もある程度可能になる。明治18年度は9月から始まる。そしてそ の年の講義では重要な個所を100個挙げたとある。それに対して『八宗綱要ノート』は 第33の項目名で終了しているので、約3分の1である。よって単純に考えて1学期分 のノートではないか。するとノートが作成されたのは明治18年の12月位ということに なると考えられる。 4-2 円了の仏教・哲学一致論と吉谷  さて、過去に論文でも書いたことがあるが、ここで円了の仏教・哲学一致論と吉谷 との関係をまとめてみる。円了の仏教・哲学一致論とは、文字通り仏教と西洋哲学が 一致するという考え方である。基本構図は次のように表現できる。 仏教宗派 西洋哲学 倶舎宗(法体恒有) 唯物論 法相宗(頼耶縁起) 唯心論 華厳宗(真如縁起) 唯理論 天台宗(真如縁起)  第一に、倶舎宗の法体恒有の考え方が西洋哲学では唯物論にあたり、第二に、法相 宗の頼耶縁起が西洋哲学では唯心論にあたり、第三の華厳宗、天台宗の(真如縁起) が西洋哲学では唯理論にあたる。この構図の中、仏教宗派は、日本の伝統的な仏教学 の体系である。円了が、この構図を著作で最初に説くのは1886(明治19)年11月の『真 理金針』続々篇である。  ところで、1885(明治18)年の『八宗綱要ノート』の第一に「諸法原理」の項目が ある。そこには仏教の原理は真如である。しかし、それが教えによって三種類があり、 倶舎論の法体恒有、唯識論の頼耶縁起、そして華厳宗、天台宗の真如縁起となると説 いている。これが吉谷の考えである。  ここからは筆者の想像であるが、円了は吉谷の講義を聴き、それに西洋哲学の唯物 論、唯心論、唯理論を当てはめて、前の構図を完成させたのではないかと思うのであ 28  拙論「井上円了『八宗綱要ノート』の思想史的意義」(東洋大学井上円了研究センター『井上円 了センター年報』22、2013年)p.132

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る。その証拠が明治19年の吉谷の『仏教大旨』の次の記述である。そこでは「諸法原 理」の中で、儒教では太極、道教では大道、キリスト教ではヤハヴェを設定する。西 洋哲学にも様々な立場があるが、最近では一理を発見するようになっている。それで は仏教では諸法の原理は何か、それは真如であるとし、続いて『八宗綱要ノート』と 同じ、倶舎論、唯識論、天台宗を出す。重要なのはここで吉谷が、他宗教や西洋哲学 と比較して「一理」すなわち「世界発生の原理」としてこれらの仏教教理を出したこ とである。円了は同じことを講義中に聴いたのではないか。そして、これに触発され て円了は唯物論、唯心論、唯理論という西洋哲学的な名称を付与して仏教・哲学一致 論を作り上げたのではないか考えている。  このように見て来ると、学生の中で吉谷の講義の恩恵を一番被ったのは円了だった のではないか。円了も仏教学を原坦山と吉谷から習ったが、豪快な原よりは、論理的 で教理に緻密な吉谷の方が、円了の気質に合っているような印象を受ける。ただ皮肉 なことに、後に吉谷は円了の仏教哲学一致論を批判する。すなわち仏教は仏教だけで 考えるべきで、簡単に西洋哲学との比較をするのは間違っていると述べるのである。29 筆者はここに、江戸時代末期に宗派の最高学府である高倉学寮で仏教を学んだ吉谷と、 明治になって設立された「大学」という新しい教育機関で哲学と仏教学とを合わせて 学んだ円了との時代の差が現れていると思う。

5 結語

 以上、吉谷覚寿の東京大学での9年間の講義について、残存資料をもとに、1内容、 2学生の反応、3円了との関連を見てきた。吉谷の仏教学講義は、日本の大学におけ る草創期の仏教学講義という点で歴史的に重要である。本論文では、これまで整理さ れていなかった吉谷の講義を、受講生の評価もあわせて考証し、その内実を明らかに した。  現代においても、大学で仏教をどのように講義するかは大きな課題である。三宅の 言うように「変な講義よりも、自分で読書したほうが身になるのではないか」という 言葉は、現実に教鞭を執っている自分にも厳しい言葉として響く。仏教をどのように 講義するか。これは約130年前でも今でもあまり変わらない問題である。 〈参考文献〉 1.一次文献 29  詳細は拙論「吉谷覚寿の思想と井上円了」、国際井上円了学会『国際井上円了研究』3、2015年 を参照。

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1 1 単行本 暁烏敏、西村見暁共編『清沢満之全集』第3巻、法蔵館、1957年 井上哲次郎『懐旧録』シリーズ日本の宗教学2『井上哲次郎集』:第8巻、クレス出版、 井上哲次郎『井上哲次郎自伝』、冨山房、1973年 東京大学史史料研究会『東京大学年報』第2巻、東京大学出版会、1993年  同         『東京大学年報』第5巻、東京大学出版会、1994年  同         『東京大学年報』第6巻、東京大学出版会、1994年 谷本富『非常時局の教育と宗教』、モナス、1938年 中野実ほか「加藤弘之日記―明治十五・十六年―」、『東京大学文書館紀要』13、1995年 三宅雪嶺『自伝/自分を語る』(日本図書センター(人間の記録43、1997年)原著は底本 は「大学今昔譚」(我観社 1946刊)、「自分を語る」(朝日新聞社 1950刊) 吉谷覚寿『仏教大旨』、仏書出版会、1886年  同   『明治諸宗綱要』、法蔵館、1890年  同   『仏教総論』、吉谷覚寿、1890年  同   『天台四教儀集註略解』、法蔵館、1898年 『東京帝国大学一覧 明治19 20年』、帝国大学 1 2 雑誌 谷本富「大学の今昔」、『芸文』2 10、1911年10月 中村孝也ほか「三上参次先生談旧会速記録」(第三回:昭和11年11月19日)、吉川弘文 館『日本歴史』、1981年1月 2.二次文献 2 1 単行本 青江舜二郎『狩野亨吉の生涯』、中央公論社:中公文庫、1987年 井上克人『西田幾多郎と明治の精神』、関西大学出版部、2011年 鈴木正『狩野亨吉の研究』、ミネルヴァ書房、2013年 三浦節夫『井上円了:日本近代の先駆者の生涯と思想』、教育評論社、2016年 山口静一『フェノロサ:日本文化の宣揚に捧げた一生』、三省堂、1982年 2 2 論文 佐藤厚「井上円了における伝統仏教体系と仏教・哲学一致論」、東洋大学東洋学研究所 『東洋学研究』50、2013年  同  「井上円了『八宗綱要ノート』の思想史的意義」、東洋大学井上円了研究セン ター『井上円了センター年報』22、2013年

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 同  「吉谷覚寿の思想と井上円了」、国際井上円了学会『国際井上円了研究』3、 2015年

鈴木朋子「吉谷覚寿における仏教復興の道」、日本近代仏教史研究会『近代仏教』23、 2016年

参照

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