『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲
佐 藤 智 岳
1.
は じ め に
全 知 者 は 分 別 状 態 で 説 法 で き る の か .『 真 実 綱 要 細 注 』 (Tattvasaṃgrahapañjikā,以下 TSP)は,世尊の発話を認める者であっても,発話する 段階では世尊は非全知者であると認める,と述べる1).ただし,世尊が有分別状 態で発話する際は非全知者であるとしながらも,全知者状態での認識に裏付けら れたものであるから,彼の言葉は非全知者の言葉ではない,としている2).本稿 は,世尊の有分別状態での発話と慈悲との関係を,「2 種の分別」という考えを踏 まえて検討する3).2. なぜ世尊は分別状態になるのか
分別状態での発話内容が全知者状態の 認識に裏付けられたものであったとしても,そのことは真実そのものを説くこと を意味しない4).では,なぜ世尊は分別状態になって説示する必要があるのか. TSP は次のように述べている. TSP[1068, 19–24]:【問】もし顚倒していない者であるなら,どうして,[わざわざ]分 別の状態で付託するだろうか[いや,しない],といって反論するなら. 【答】そうではない.なぜなら,語の発動の手段を知る者であるから.なぜなら,[彼は] 付託する分別以外に,言葉を生じさせる他のものを見ないし,語の対象を付託されたも のとは別なものとして捉えることもない.したがって,語の発動の手段を知る者は,衆 生への哀れみから,如実に理解した真実を理解させずに,[その代りに,まず]他人に語 りかけることができる者となって,それ(如実に理解した真実)を理解させようとして, 語の発動の手段である――付託するものである分別と,語の表示対象である付託される もの――を作り出す. ここでは,分別する以外に,言葉を発する手段がないことが示されている.つ まり,真実を認識したとしても,それを言葉で表現する限り,分別せざるを得な いのである.また TSP は,衆生への哀れみから(jagadanukampayā),理解された通 りの真実を説明せずに,他人に語りかけることができる者となると述べている. つまり世尊は,理解した通りの真実ではないが,言葉を通じて衆生に教えを説く ために,あえて分別状態になって教えを説くのである. 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 (115) 〈参考文献〉 川越英真 2001「Nag tsho Lo tsā ba について(2)」『東北福祉大学研究紀要』26: 275–295. 寺本婉雅 1928『ターラナータ印度佛教史』丙午出版社.Davidson, Ronald M. 2005. Tibetan Renaissance: Tantric Buddhism in the Rebirth of Tibetan
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―――. 2016a. “Jñānaśrīmitra on the Ratnagotravibhāga.” Oriental Culture 96: 7–48.
―――. 2016b. Buddha-nature and Emptiness: rNgog Blo-ldan-shes-rab and a Transmission of
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Roesler, Urlike. 2008. “On the History of Histories: The Case of the bKa’ gdams pas.” In
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Stearns, Cyrus. 2001. Luminous Lives: The Story of the Early Masters of the Lam ’Bras Tradition
in Tibet. Boston: Wisdom Publications.
(平成 28 年度科学研究費補助金基盤 B[代表 久間泰賢]26284008,挑戦的萌芽研究[代 表 松田和信]16K13154,および平和中島財団国際学術研究助成による研究成果の一部) 〈キーワード〉 Vikramaśīla,六賢門,Ratnākaraśānti (高野山大学准教授,PhD) (114) ヴィクラマシーラ寺の六賢門をめぐる史料とその問題(加 納) ─ 924 ─
ら,]原因が存在しないから.一方,善[なる分別],それは,覆いを除去した者にも矛 盾しない.それゆえ,偉大な世尊に(bhagavatām)哀れみの修習(abhyāsa)から起こさ せられた,衆生利益の生起に役立つ,善なる分別が現前するなら,[善なる分別は]どう して止められようか. 当該箇所は,分別を雑染なもの(kliṣṭa)と善なるもの(kuśala)とに分類する. そのうち,雑染な分別は煩悩障などを除去したものである世尊には存在し得ない とする.一方で,貪欲を持たないことによって起こる,衆生利益に役立つもので ある善なる分別ならば,世尊に関しても問題がないとする.つまり世尊の発話は, 雑染な分別ではなく善なる分別に基づいているのである.
5. TAV
における有情利益のための分別 衆生利益を目的とした分別を明確
に認める用例として,以下の TAV9)の記述を挙げることができる. TAV[D 42a6–42b2, P 47b2–5]: 有情利益を為す[ための]方便である分別の智慧を持っている場合, その方(ブッダ)が全知者として行動を起こすのは,それ(有情利益)のためであるから, [その方に]過失はない. 彼(ブッダ)が解脱などの教説を説く原因である分別の智慧を持っているのは,過失(貪 欲など10))に基づくものであるというのは不適切である.なぜなら,それ(有分別の智 慧)の本質自体は有情利益のためのものであるから.…〈中略〉… それゆえ,全ての対 象が空であると,牟尼が世俗として説く場合,分別ではあるけれども,有情利益を為す ものであるので,いかなる過失があろうか. TAV も,ブッダが教示する際,分別していても,それは貪欲などに基づくもの ではなく,有情利益のためのものであり,問題はないとしている.また当該箇所 からは,ブッダが分別状態で教えを説くことが世俗として説くことである,とい うことも理解できる.6. おわりに 言葉を発するには,分別する必要がある.世尊が分別状態になる
のも,衆生に言葉を通して教えを説くためである.そのような世尊の発話は,衆 生への哀れみ(jagadanukampā),哀れみ(karuṇā)という,いわゆる慈悲が原因とさ れる. TSP は,発話の原因が発話欲求者性であり,その発話欲求者性は貪欲だけでな く,哀れみによってもあり得ると述べる.これは PV(SV) 1.12 の議論が背景になっ ている.さらに TSP は,分別と発話欲求に関しても検討している.TSP は,分別 を 2 種に分類し,雑染な分別だけではなく,衆生利益に役立つ善なる分別が存在 することを示す.この衆生利益のためにブッダが有分別状態で説法することは, 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲(佐 藤) (117)3. 発話は哀れみによってもあり得る
以下の TSP の記述では,発話が貪欲 (rāga)だけでなく哀れみ(karuṇā)によってもあり得ることが示されている. TSP[1069, 7–15]:同じ理由で,話者であるならば,貪欲がある者だという推理も適当で はない.そう(貪欲がある者)ではなくとも,発話行動があり得るから.なぜなら,発 話・[口の]動きなどは貪欲などだけの結果ではないから.[というのも]発話欲求者性 という共通の原因をもつから.また,その発話欲求者性は離欲者の哀れみ(karuṇā)に よってもあり得るので,逸脱がある. 【問】その哀れみこそが貪欲ではないか,といって反論するなら. 【答】[karuṇā を rāga と]名付けることで,[我々に]望ましくないことは何も帰結しな い5).しかしながら,常・楽・私・私のものという見解に由来する,有漏の事物に対す る,心の執着が,貪欲であるといわれている.またそれ(貪欲)を前提とする私・私の ものを邪魔するものへの怒りが,瞋恚である.また,私・私のものへの執着が,無知で ある.しかし哀れみはそうではない.なぜなら,それ(哀れみ)は,我執がない場合で も,特定の苦を見ることだけによる,修習(abhyāsa)によってのみ生じるから.すなわ ち,離欲者達にはダルマなどを所縁とする慈しみ(maitrī)などがあると,教典で[既 に]説明されている. 上記は PV(SV) 1.12 での議論6)が背景となっている7).TSP 当該箇所では,発話 の原因は発話欲求者性であり,その発話欲求者性は貪欲だけでなく,離欲者の哀 れみ(karuṇā)によってもあり得ると述べている.また哀れみ(karuṇā)こそが貪欲 (rāga)ではないか,という反論に対しては,哀れみを貪欲と呼ぶことで問題は起 きないとする.ただし哀れみは,貪欲・瞋恚・無知と異なり,「常・楽・私・私の もの」という誤った見解に基づくものではない. つまり当該箇所から理解できるように,離欲者である世尊は,哀れみ(karuṇā) に基づいて発話しているのである.4. 発話欲求と 2 種の分別
全知者に分別はあり得ないはずなので,彼には発 話欲求がないのではないか,という疑義が TS(P) 3596 で対論者によって示されて いる8).これに対して,TSP は次のように分別を 2 種に分類して,この問題に答 える. TSP[1117, 13–17]:以上のようではない…によって,回答する. 以上のようではない.なぜなら,彼に雑染なる分別(saṃkalpa)は存在しないから.[ど うしてかというと]覆いが滅しているから. 一方,衆生利益に役立つ善[なる分別]は,どうして止められようか.//TS 3597// 次の理由による.分別は 2 種である.煩悩などに沿うので(anukūlatayā),雑染であるも のと,無貪などとの結びつきによって起こるので,善であるものと.その(両者の)内, 雑染[な分別],それは,煩悩障などを除去した者達には,決して存在しない.[なぜな (116) 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲(佐 藤) ─ 923 ─ら,]原因が存在しないから.一方,善[なる分別],それは,覆いを除去した者にも矛 盾しない.それゆえ,偉大な世尊に(bhagavatām)哀れみの修習(abhyāsa)から起こさ せられた,衆生利益の生起に役立つ,善なる分別が現前するなら,[善なる分別は]どう して止められようか. 当該箇所は,分別を雑染なもの(kliṣṭa)と善なるもの(kuśala)とに分類する. そのうち,雑染な分別は煩悩障などを除去したものである世尊には存在し得ない とする.一方で,貪欲を持たないことによって起こる,衆生利益に役立つもので ある善なる分別ならば,世尊に関しても問題がないとする.つまり世尊の発話は, 雑染な分別ではなく善なる分別に基づいているのである.
5. TAV
における有情利益のための分別 衆生利益を目的とした分別を明確
に認める用例として,以下の TAV9)の記述を挙げることができる. TAV[D 42a6–42b2, P 47b2–5]: 有情利益を為す[ための]方便である分別の智慧を持っている場合, その方(ブッダ)が全知者として行動を起こすのは,それ(有情利益)のためであるから, [その方に]過失はない. 彼(ブッダ)が解脱などの教説を説く原因である分別の智慧を持っているのは,過失(貪 欲など10))に基づくものであるというのは不適切である.なぜなら,それ(有分別の智 慧)の本質自体は有情利益のためのものであるから.…〈中略〉… それゆえ,全ての対 象が空であると,牟尼が世俗として説く場合,分別ではあるけれども,有情利益を為す ものであるので,いかなる過失があろうか. TAV も,ブッダが教示する際,分別していても,それは貪欲などに基づくもの ではなく,有情利益のためのものであり,問題はないとしている.また当該箇所 からは,ブッダが分別状態で教えを説くことが世俗として説くことである,とい うことも理解できる.6. おわりに 言葉を発するには,分別する必要がある.世尊が分別状態になる
のも,衆生に言葉を通して教えを説くためである.そのような世尊の発話は,衆 生への哀れみ(jagadanukampā),哀れみ(karuṇā)という,いわゆる慈悲が原因とさ れる. TSP は,発話の原因が発話欲求者性であり,その発話欲求者性は貪欲だけでな く,哀れみによってもあり得ると述べる.これは PV(SV) 1.12 の議論が背景になっ ている.さらに TSP は,分別と発話欲求に関しても検討している.TSP は,分別 を 2 種に分類し,雑染な分別だけではなく,衆生利益に役立つ善なる分別が存在 することを示す.この衆生利益のためにブッダが有分別状態で説法することは, 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲(佐 藤) (117)3. 発話は哀れみによってもあり得る
以下の TSP の記述では,発話が貪欲 (rāga)だけでなく哀れみ(karuṇā)によってもあり得ることが示されている. TSP[1069, 7–15]:同じ理由で,話者であるならば,貪欲がある者だという推理も適当で はない.そう(貪欲がある者)ではなくとも,発話行動があり得るから.なぜなら,発 話・[口の]動きなどは貪欲などだけの結果ではないから.[というのも]発話欲求者性 という共通の原因をもつから.また,その発話欲求者性は離欲者の哀れみ(karuṇā)に よってもあり得るので,逸脱がある. 【問】その哀れみこそが貪欲ではないか,といって反論するなら. 【答】[karuṇā を rāga と]名付けることで,[我々に]望ましくないことは何も帰結しな い5).しかしながら,常・楽・私・私のものという見解に由来する,有漏の事物に対す る,心の執着が,貪欲であるといわれている.またそれ(貪欲)を前提とする私・私の ものを邪魔するものへの怒りが,瞋恚である.また,私・私のものへの執着が,無知で ある.しかし哀れみはそうではない.なぜなら,それ(哀れみ)は,我執がない場合で も,特定の苦を見ることだけによる,修習(abhyāsa)によってのみ生じるから.すなわ ち,離欲者達にはダルマなどを所縁とする慈しみ(maitrī)などがあると,教典で[既 に]説明されている. 上記は PV(SV) 1.12 での議論6)が背景となっている7).TSP 当該箇所では,発話 の原因は発話欲求者性であり,その発話欲求者性は貪欲だけでなく,離欲者の哀 れみ(karuṇā)によってもあり得ると述べている.また哀れみ(karuṇā)こそが貪欲 (rāga)ではないか,という反論に対しては,哀れみを貪欲と呼ぶことで問題は起 きないとする.ただし哀れみは,貪欲・瞋恚・無知と異なり,「常・楽・私・私の もの」という誤った見解に基づくものではない. つまり当該箇所から理解できるように,離欲者である世尊は,哀れみ(karuṇā) に基づいて発話しているのである.4. 発話欲求と 2 種の分別
全知者に分別はあり得ないはずなので,彼には発 話欲求がないのではないか,という疑義が TS(P) 3596 で対論者によって示されて いる8).これに対して,TSP は次のように分別を 2 種に分類して,この問題に答 える. TSP[1117, 13–17]:以上のようではない…によって,回答する. 以上のようではない.なぜなら,彼に雑染なる分別(saṃkalpa)は存在しないから.[ど うしてかというと]覆いが滅しているから. 一方,衆生利益に役立つ善[なる分別]は,どうして止められようか.//TS 3597// 次の理由による.分別は 2 種である.煩悩などに沿うので(anukūlatayā),雑染であるも のと,無貪などとの結びつきによって起こるので,善であるものと.その(両者の)内, 雑染[な分別],それは,煩悩障などを除去した者達には,決して存在しない.[なぜな (116) 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲(佐 藤) ─ 922 ─ダルマキールティのブッダ観考察の一資料
――阿羅漢の最後心に関する議論について――
酒 井 真 道
1.はじめに――本稿の目的――
ブッダがプラマーナたる所以は彼の四聖諦の知にあり,一切知にはない.ダル マキールティ(= DhK)が Pramāṇavārttika 第 2 章(PV 2)第 31 偈から第 33 偈1)に かけて示したこの良く知られたブッダ観は,多くの研究者の注目を集めてきた. それは,一切知に対する当該箇所の DhK の態度と,後代,特に 8 世紀以降の彼の 後継者たちのそれとの間に,「温度差」が見られるからである.すなわち,シャー ンタラクシタ(= ŚR),カマラシーラ(= KŚ),プラジュニャーカラグプタ(= Praj) らは,四聖諦を知るブッダ(後代に upayuktasarvajña の名で呼ばれる者)ではなく,一 切を知るブッダ(後代に sarvasarvajña の名で呼ばれる者)に重きを置くようになって いく.彼らは,ブッダの全知を要請し,その知の内容を吟味し,更にブッダが全 知者であることの証明をも行っている2).この動きを護山 2012: 239 は「八世紀の 思想家による全知者概念の復権作業」と表現する. しかし,一方で,DhK の諸著作には,彼が,ブッダが一切知者であるというこ とそれ自体については容認していると解釈できる箇所3)が存在する.そして,彼 がブッダの全知に言及する箇所で,内容的に重要で尚且つ後代への影響という点 で見逃せないのが,Pramāṇaviniścaya 第 2 章(PVin 2)における刹那滅論証の傍論 として展開される,阿羅漢の最後心(caramacitta)についての議論(PVin 2 79,5–13) である(チベット語訳 PVin 2 のこの部分に対するシュタインケルナー博士の訳註研究は Steinkellner 1979: 89–93 にあたる.なおこの部分を解読するにあたり,シュタインケルナー 博士はシュミットハウゼン博士から書信による協力を得ており,その書簡が Steinkellner 1979: 150–151 に Anhang III として収録される.).この箇所に注目した McClintock 2010: 136は,この議論を,DhK が sarvasarvajña の観念を擁護する議論を少なくとも認めて はいたということを示唆するものとして理解している.更に,Moriyama 2011: 336–337 は,この議論の中に,後代の思想家たちが挙って sarvasarvajña の観念を 印度學佛敎學硏究第 65 巻第 2 号 平成 29 年 3 月 (119) TAV 中にも確認できる.以上のように TSP は,有分別状態での世尊の説法を慈悲 という観点を中心に捉えていることが分かる. 1)Cf. TSP [1067, 20–23]. 2)Cf. TSP [1068, 9–11]. 3)Cf. 川崎[1992: 253–254], McClintock[2010: 355, n. 770]. 4)Cf. TSP [1068, 17–21]. 5)刊本では “na, nāmakaraṇe kiñcid aniṣṭam āpadyate” となっているが写本に基づき,“na nāmakaraṇe kiñcid aniṣṭam āpadyate” と読んだ. 6)Cf. PVSV [9, 1–18]. 7)Cf. Taber[2011: 445]. 8)Cf. TSP [1116, 24–1117, 12]. 9)TA の偈の数については,検討の余 地が指摘されている(cf. 小林[1984: 93])ため,本稿では偈の番号を記さない. 10)Cf. 小林[1994: 94].
〈略号〉
PVSV Pramāṇavārttika-svavṛtti. The Pramāṇavārttikam of Dharmakīrti: The First Chapter with Autocommentary. Ed. Raniero Gnoli. Roma: Istituto Italiano per il Medio ed
Estremo Oriente, 1960.
TA (TAV) Tattvāvatāravṛtti. D no. 3892; P no. 5292.
TS (TSP) Tattvasaṃgrahapañjikā. Tattvasaṅgraha of Ācārya Shāntarakṣita with the Commen-tary ‘Pañjikā’ of Shrī Kamalashīla. Ed. Swami Dwarikadas Shastri. 2 vols. Bauddha
Bharati Series 1, 2. Varanasi: Bauddha Bharati, 1968. 〈参考文献〉 川崎信定 1992『一切智思想の研究』春秋社. 小林守 1984「シュリーグプタ作『真実への悟入』――和訳研究(上)――」『論集』19: 75–94 (37–56). ――― 1994「シュリーグプタ作『真実への悟入』――和訳研究――」『密教文化』185: 80– 99.
McClintock, Sara L. 2010. Omniscience and the Rhetoric of Reason. Boston: Wisdom Publication.
Taber, John. 2011. “Did Dharmakīrti Think the Buddha Had Desires?” In Religion and Logic in
Buddhist Philosophical Analysis: Proceedings of the Fourth International Dharmakīrti Conference Vienna, August 23–27, 2005, ed. Helmut Krasser et al., 437–448. Wien: Verlag der Österreichischen Akademie der Wissenschaften.
(本研究は JSPS 科研費 16J06691 の助成を受けたものである.) 〈キーワード〉 vikalpa,慈悲,Tattvasaṃgrahapañjikā
(九州大学大学院) (118) 『真実綱要細注』における世尊の発話欲求と慈悲(佐 藤)