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間身体性における原交通の考察

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Academic year: 2021

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(1)

はじめに1

身体学研究構築にあたり、原理論方法論がそ れぞれ研究されてきた2しかしながら原理論研究 において、間身体性における原交通問題する

考察課題のままっている

これまでの拙論において筆者間身体性概念 ついてすでに何度言及しているがそれは、受動 的綜合における対化によってじる「身体共鳴」 あるという指摘まっていた3この身体共鳴 いう事態、差たってうのであれば、自己

という関係形成する根源であるつまりこのこ とはそもそも現象学をはじめとする諸々質的研究

成立する原理的根拠でもある4

本 論 考はそのことをらかにするため、 改 間身体 性議 論考 察その「 原 交 通

(Urkommunikation)」5という身体「間」発生 させる無意識構成能作、つまり自己他者感覚

‑運動系(キネステーゼ対化による共時間化 するそしてこの共時間化身体共鳴であるとい うことを考察するしたがって、他者他者であるに もかかわらずコミュニケーションをわすことができ

いに理解できる可能性じているという、極めて たり事態この間身体性問題考察する ことによって呈示できるだろう

以上のことから本論考、1.メルロポンティにお ける間身体性という概念めて確認、2.フッサー ルにおける受動的綜合議論いて原交通という 事況(Sachlage)成立考察するそしてこの原交 理解から間身体性力動的性質指摘、身 共鳴という事象について最後言及するこれら 考察により、身体学研究における原理論一通

間身体性における原交通の考察

Zur Betrachtung der Urkommunikation in der Interleiblichkeit

キーワード:身体学、現象学、対化、共時間化         

  

Schlüsselwörter: Somatologie, Phänomenologie, Paarung, Kozeitigung

武藤 伸司

MUTO Shinji

Abstrakt

In diesem Papier betrachten wir das Problem der Interleiblichkeit. Interleiblichkeit besteht aus unbewusster Leistung, die “Inter” durch “Urkommunikation” des Leibes erzeugt. Mit anderen Worten ist dies die Kozeitigung durch Parrung des sensorisch- motorische System (Kinästhese) des Selbst und anderen.

Deshalb bestätigen wir zuerst den Begriff der Interleiblichkeit in Merlot-Ponty. Dann

betrachten wir die Sachlage der Urkommunikation anhand der Diskussion über die passive

Synthese in Husserl. Aus dem Verständnis dieser Urkommunikation weisen wir auf die

dynamische Natur der Interleiblichkeit hin und beschreiben das Phänomen leiblicher

Resonanz.

(2)

仕上がったものとして看做すことができるだろう

1

.間身体性とは何か

「間身体性(intercorporéité)」6というメル ポンティの論考「哲学者とその影」において言及 されているメルロポンティの真骨頂であり、彼 思索集約点ともえる身体現象学、周知 『知覚現象学』7において詳細研究されている 、身体性にこの「間(inter)」という接頭辞され るようになったのはこの著作においてであるでは この間身体性という概念はいかなる意味つのか

1)メルロ=ポンティの身体論

間身体性概念考察するメルロポンティ いる身体ないし身体性という概念考察しよ

まずメルロポンティは『知覚現象学』における 身体考察において、「「感覚的性質」、知覚された ものの空間的規定、それにつの知覚現存不在 ですら、有機体外部事実上状況結果では なくて、有機体刺激えてこれに関係する仕方 している8べている。一般、身体という 対象化した際、それはめて生理学的、物的 なものとして理解されるしかし言及のようにメル ポンティは、身体というある特定有機体外部 環境「関係」によって感覚ないし知覚じると えている

えばメルロポンティは、「刺激受容における 有機体機能ある興奮形態をいわば「理解 (concevoirはらむ」)ことである9べている このことはつまり、身体生理学的刺激‑反応図

のように、単物的作用過程(因果性)によっ ては理解できないということを指摘している。身体 当然ながら物質であり、外部環境影響受容して その反応せるが、単にそれだけではなくともに 感覚思考などの精神的過程じているこのこ とからメルロポンティは「「精神‑物理的出来事」

したがってもはや「世界内部」因果性のも のではない…(中略)…私はこれを、運動伝達とか

ある変数による決定というような、第三人称的一連 過程として、思かべることはできない10 るのである

このことは、例えば身体というものを何某かと言及 るときそれが客体としてのみ純粋れるということ はありないということをしている。例えば、能動的 かをもうとするその身体きにしても、受動 じられているさや衣擦れの触覚的 にしても、「私」主観的感性れて言及する とすればその現象「意味」われてしまう。当 だが、意味われた状態では理解言及成立 しようがないつまり、現象事象認識してい るからまたは顕現的ないし現実的身体 っているからそれを理解するのであって こかられた科学的因果性言及だけではその 言及指示しているのか理解することはできない のである

このような身体的感覚から現象意味むとい 通路とは、現象様態から身体的感覚 じるという通路もある。例えばフッサールは、「ある 機関車貯水タンクにまったときに飽満 ボイラーにけられるたびにじた としてもだからといってその機関車がこの意識 というわけではない。〔だがそうじられている11

(HuaV, S. 117)べているつまり、自分身体 直接的じられていない、相対的外側事象 であってもその現象変化らの身体じられ (移)込んで現象をとらえることができるとい 体験められるということである12そうでなけれ 、身体感覚されていない現象にそうした言及はそ もそもできないしまたその現象様態意味見出 ことも解釈することもできなくなってしまう。例えばカント

うような「物自体」13というこの感覚から された純粋外部想定してることは、過ぎた 想化であり、単なる抽象でしかないだろう

またこの(移)込みという事態、何 体以外事物だけでなく、私身体自体にもこり メルロポンティは、「たとえば右手 左手れるとき、私左手「物理的物」として ずるがしかし同時、私がそのになれば

(3)

さしく、私左手もまた右手じはじめる、es

wird Leib, es empfindet

それが身体になりそれが じるという異様出来事こる14べている つまりこの身体でさえ、触るものとられるもの という一方的関係ではなく、相互逆転こると いうことであるこのような「触れる‑触れられる」関係 相互変換触覚ないし諸感覚ちてがっ ている身体フッサールは「感ずる物」(HuaV, S.

119)

ともんでいる

以上のことから、身体精神的でもあり、物理的 ものでもあるがそれを感覚して理解すること はできないということが確認される。特らの身体 他人身体してメルロポンティは以下のよう 言及する。「私右手、私左手能動的触覚 到来するのにっていた。私他人 るときあるいはそれをただつめるというときでさえ

他人身体生気びてくるがそれも 事情わりはないのである。私身体「感ずる 物」でありそれが触発されうる

―私

身体 あって、単「意識」だけのことではない

いうことをることによって、私、他【生命体】

(animalia)おそらく人間もいるということを する準備えたことになる15ここで重要なこと 、上べられた「触れる‑触れられる」関係 という事態自分身体だけでなく、他者身体 してもこるということとそしてそれが意識におい てだけではなく、身体自体においてじているという

であるこの以下でさらに考察していこう

2)キネステーゼとキアスム

これらのことについて注意するべきことは、単 としての比較類比、投影、投入によってこれら 成立するのではなく、感覚的次元においてそれ 成立しているということであるメルロポンティは

「哲学者とその影」論考において、身体がフッサー ルのイデーン

II』

において言及された、「先所与性

(Vorgegebenheiten)」(HuaIV, S. 5)における「 作 しつつあるあるいは含蓄的志向性」16 構成 であることを指摘するここでわれる先所与性とは

簡単えば自分身体じられたままの

であるそして作動しつつある含蓄的志向性 その感覚把捉、時間的まえておく過去把 持(Retention)未来予持(Protention)という性質 あるつまり身体とは、統握図式のような、感覚 味付与をし、知覚表象という超越的実在措定 するという仕方ではなくすなわち自分身体とし 存在すると素朴認識する仕方でもなく17、「時間 のものを発動させる志向性」18 によって構成されるとメ ルロポンティはえるのである

このことはフッサールのうキネステーゼそし 受動的綜合次元における構成ならない19

にメルロポンティの作動しつつある志向性 、「私はできる(Ich kann)」という身体における 感覚そのものであるどんな身体運動これま でに経験ないし体験されたきのコツとそのカンの

がサイクルをなすことによって一連れがメロ ディーのように形成されるつまりその身体運動性 によって、先所与された様々与件諸性質(例 身体自体はもちろん、身体接地する 道具様々なテクスチャるみになるのである まさに身体くということによって、感覚変化する ことによって、身体身体としての諸感覚形成して いくのである。言わば、「運動性によって身体性

するという現象なのである

このことからメルロポンティの指摘する触覚的 感性、すなわち「触れる‐れられる」関係変転 まさに感覚動的変化でありそれこそがまさ にフッサールのべるキネステーゼによって身体 外的事象成立するということとにして理解 される。上言及した思考的理解としてそうしたこと 成立しているのではないとえるのはむしろそうし 基礎的身体性があってこそそれらの高次 識作用成立するからなのである

こうした触覚性ないし感覚次元からえれば 他人りながら、彼のそこにいることに ついての明証をもつとすればそれは、他人 左手れかわるからであり、私身体、逆 説的にも身体にそのがあるような「一種 省」のなかで、他人身体併合してしまうからなの である20というメルロポンティの言及理解できる

(4)

つまり、自分身体ずるでありその感覚「感 するされる」関係変換ないし循環という体験( アスムがあるということによって、接触するその他者 身体ないし物体へと受動的感覚れは となるということである。言えれば、私他者 身体互換可能になるということでもあるこのこと からメルロポンティは、「私二本「共 前」「共存」しているのはそれがただつの身体 だからである。他人もこの共現前延長によっ れてくるのであり、彼とは、言わば 間身体性器官なのだ21主張するのである

以上のことからメルロポンティの身体性概念 理解するには、感ずるとしての身体特性 しなくてはならないということがえるこうした での身体性、すなわち「感覚」重要視するその 明証性起点とすることは、「この感覚的経験こそ 、認識作用うあらゆる構築作業「権利上 基礎」をなす22 からであるまたそれだけでなく 感覚二重性、すなわち「感覚するされる」関係 における変転現象というキアスムがまさに間身体性 成立させる根本的条件なのであるそして、互 いに感覚者同士その感覚特性、すなわ 二重感覚というキアスムによってつながりうこと じさせるのであるこの感覚特性による各身体 一致こそが、「同つの間身体性器官」とメル ポンティが主張する要点であり、理由でもあること

これらの道具立てから理解されるであろう

2

.原交通と何か

しかしながらこうした感覚重要性強調されれ ばされるほど、一般以下のような批判じる れは、「感覚めて一人称的なものであるそうで あればこの他者認識他者経験とい うものは、心理学的意味での観念連合判断作用 ぎないそれらはすべて体験投影 ないのではないかというものであるすでに上述 おいてメルロポンティは、心理学的意味えら れるような意識作用によって他者経験成立するわ

けではないと批判しているが、改めてこの問題考察 しつつ、「原交通」という根源的現象からその反駁 みることとする

1)システム(系)としての身体図式

えばメルロポンティは、「幼児対人関係」 いう講義録において、「幼児他人身体自分自身 身体とをいわゆる

〈身体〉

としてつまり 物体として同一視するようになるのはそれらを 体的えてじものとるからであって、決して

〈他

視覚像〉

〈自分自身

内受容的身体像〉との 応関係一点一点組てていくからではない23 べている(「考えてじものとべられている 、幼児においては当然そのような思考だでき ないであろうししているわけではないこの して理解すべきであり、言及のそのままの意味 ではない)。つまり、人間人間をそうした精神

‐物

理的存在として最初から認識してはいないということ である。例えばまれてもない乳幼児、母親 養育者顔真似をするのだが、視覚経験ない 乳幼児がその視覚情報から自分表情筋意図的 かしているとはここでメルロポンティ 指摘するのは、「幼児がまず真似るのも、人ではな 動作」24 であるというであるこれはいかなること

なのか

これについてはえば、「他人をかいているの るばあい、私をかくことをつの行為として 理解することはできますがそれというのもをかいて いるの動作がそのまま運動性えかけてくるか らです25というようにメルロポンティは他者 理解ではなく運動性共感として指摘するそれ 、絵きなど、一つの 部分動作のポイントに注目したり抽出したりす るのではなく、動きの形態(ゲシュタルト)全体をその ままにんで「生きてしまっているという状態であ ある身体表現する運動性その身体

運動性惹起させてしまうのである

ここで言及される運動性についてメルロポンティ それを「体位図式」ないし「身体図式」「鉛 直線とか水平線とかまた自分がいる環境のしかる

(5)

べき主要座標軸などにする

〈私

身体位置〉 知覚」26 であるとべている。自らの運動性 感覚、内的体験(手足かすことや筋肉 骨、関節力感)外的体験(何らかの物体にぶ つかったりされたり、動かされることって つの運動「系」として統一されるこうしてできあが るのが身体図式なのであるそして、身体「図式 といったものであればそれは私自身身体 感覚領域与件から感覚領域与件すこ とも比較的容易なのですから、同じようにして他人 いう領域にもすことができるはずでしょう27メル ポンティはべているこれは一体いかなること なのかまたどのような仕組みにおいてそれが 可能となるのかある身体感覚領野身体 感覚領野れたり接合したりするという事象 においてその機構のモデルとしてえられるのが

複数のカップリングという力学的理解である

2)カップリングと対化

カップリングとはシステム(系)間相互創発 する力学系理論としてのつである28 えば、一方他方変数時間とともに 影響える場合、それらのはカップリングしてい ると29。容器った流体加熱したとき

容器上部下部温度差一定値(臨界) えると、流体上下方向渦巻運動せる この場合、影響している変数温度ということになる つまりここでは、上部流体下部流体のカップリ ングがじてというたな現象創発しているとい うことになる

こうしたカップリングという現象考慮して、複数 身体関係えてみよう。上言及したように、身 ずるでありそれはすなわち外部環境 感覚‑運動相互作用することによって成立 ているものであったつまりここにもカップリングが できる)。またそうしたつの、相互変換可能

キアスムなものでもあったまた、動作運動性 らか一定形態以上、それはきのリズ ムやれをっているそうであれば、同期するメト ロノームのように、二つの系同士現象とし

運動性共鳴していくこと、類似していくことはそれ ほど不思議なことではなく、物理的にも説明可能 にあるとえるだろう30こうした理解からすれば 各系境界単純には区切れずその接地面にお いて相互浸透っており、少なくとも作用って いるという理解可能であるメルロポンティはこの ことについて、「

〈私

行動〉

〈他人

行動〉という つのをもちながらしかもつの全体としてくような

〈一

つの系〉31指摘しているこれがまさにカッ プリングの現象として指摘できるのである

もちろん、力学的なモデルの援用はあるのメタ ファーであり、精神‑物理的身体接合するという 事象にそのまま合致するとは簡単にはえないしか しながらこうした事象についてフッサールは「対化

(Parrung)」という受動的綜合における無意識 指摘している32この対化という自己他者 によってもたらされる両者差異化による際立ちは まさに対立する二項にその対立によって二項

関係という全体性弁証法的成立させているので あるこうしたことから、二つのなる主観的身体 感覚、心理的意味での意識きによる投影 とはなる次元いの感覚共有たして

いるとるのである

3)原交通における共時間化

以上のことについて山口一郎、「フッサールのと 立場、両項成立するこの時点以前、両項

意味発生成立をたどり、本能志向性する 命体環境世界との原交通、つまり、間領域 示」33 するものであると指摘しているここでわれる 原交通まさにこれまでべられてきたメルロ ンティの間身体性議論じものであるとえる

えば、「幼児周囲世界との原交通、つまり、自 身体区別がつかない匿名的間身体性媒介 にした交流」34 山口べるように、未自我 発達しておらず明確自己意識のない幼児身体

「匿名的」なものとして理解されるだがかえって そのことによって、間身体的交流可能になると 主張しているこの身体匿名性とその交流につ いてはメルロポンティが『見えるものとえないも

参照

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