一 は じ め に 石井 保雄
『わ が国 労働 法学 の史 的展 開』 信山 社( 二〇 一八 年) は驚 愕の 書で ある
。誰 もが いつ かは 取り 組ま ねば なら な い と意 識し なが ら、 誰も 取り 組ま なか った こと に、 ひと り正 面か ら挑 んだ 書籍 であ るか らだ
。 石井 教授 は述 べる
。戦 後労 働法 学は 必ず しも ゼロ から スタ ート した わけ では ない
。戦 前・ 戦間 期の 学問 業績 の上 に構 築 さ れ てき た。 しか し戦 前
・戦 間 期の 労働 法 学は 戦争 遂 行過 程で 消 滅し てし まう
。「 そ の過 程を 追跡 し
、 その 全 貌を 明ら か に する こと が本 書の 主要 な課 題で ある
。戦 後労 働法 学は 戦前 のそ れと 断絶 しな がら も、 また 一方 にお いて は継 続し てい る の で はな いか
」( はし が き)
。「 本書 が 意図 する の は、 わ が国 戦 前・ 戦 時期 の 労働 法学 が様 々 な課 題に 応 えん とし た 理論 的 営 為を 跡付 ける こと によ り、 その 展開 過程 を検 証す るこ とで ある
」( 同 書7 頁)
。 本書 で石 井教 授は
、わ が国 労働 法学 の生 誕─ 大正 デモ クラ シー 期か ら、 戦中 にお ける 消滅 まで
、そ して 戦後 の再 出発 の 時 代に
、労 働法 学を 担っ た末 弘厳 太郎
、孫 田秀 春、 菊池 勇夫
、津 曲蔵 之丞
、後 藤清
、吾 妻光 俊、 浅井 清信 らの 研究 業績 を 検 討し
、彼 らが
「敗 戦」 にど のよ うに 向き 合っ たか を検 証し た。
(
)
戦 後 初 期 の 「 社 会 法 研 究 会
」 に つ い
て
山 田 晋
二 四
〇 二 四
〇
そし て石 井教 授は 以下 のよ うに 総括 する
。 侵略 戦争 の拡 大過 程で
、当 時の 法律 学は
「戦 争拡 大へ の懐 疑す らな く、 むし ろ全 面的 な同 調的 な姿 勢な いし 態度 のも と 無 批判 的な 正当 化な いし 合理 化に 従事 して いっ た。 その 中心 にい たの が、 わが 労働 法学 徒で あっ た。
…。 確実 にい える の は
、一 様に 国の 戦争 遂行 の実 現に より 添う べく 肯定 的か つ積 極的 であ った とい うこ とで ある
。ア ジア 太平 洋戦 争に 敗北 し、 荒 廃し た国 土を 前に した とき
、労 働法 学徒 は戦 時期 の自 らの 理論 をい かに 内省 し、 総括 した であ ろう か。
……
。彼 らの 学 問 的な 発想 や、 労働 法学 ない し社 会法 学に 関す る基 本的 な概 念理 解や 構成 につ いて は、 戦前
・戦 時期 にお ける それ とく ら べ たと き、 ほと んど の者 に相 違は みら れな かっ た。 この こと は、 戦後 労働 法学 の形 成に なん らの 影響 をお よぼ さな いと い う こと は、 なか った であ ろう
。こ れこ そが
、従 来戦 後労 働法 学が 殊更 に自 らを 戦前 のそ れと まっ たく 異な った もの とし て 意 識し
、そ のよ うな 姿勢 を維 持し てき た遠 景事 情な のか もし れな い。 労働 法学 の戦 後の 歩み は、 この よう にし て始 まっ た。 そこ には
、戦 前・ 戦時 期と のあ いだ に断 絶で はな く、 むし ろそ れ を 担う 人間 のみ なら ず、 学問 的内 容に おい ても
、む しろ 継続 をみ るべ きで あろ う」
( 同書 五九 三~ 五九 五頁
)。 同書 は極 めて 示唆 に富 むも ので 多く を私 は学 んだ が、 私は それ ら多 数の 示唆 の中 で、 社会 法学 者の 戦争 責任 と、 研究 者 の 歴史 資料 の保 存管 理と いう 次世 代へ の責 任に つい ては
、こ こで 触れ ざる を得 ない
。 石 井教 授自 身 は、 い まさ ら 労働 法 学徒 の戦 争 責任 を追 及 する 気は な いと 記述 さ れて い るが
( 同書 五 五三 頁)
、 本 書を 読 めば 読者 は当 然、 社会 法学 者の 戦争 責任 を考 えざ るを 得な い。 それ は戦 前に 華々 しく 活躍 した 労働 法学 者自 身の
「戦 争責 任」 と、 戦後 の彼 らの 活躍 を支 持し ある いは 少な くと も彼 らの
「戦 争責 任」 を不 問と した 戦後 労働 法学 界の
「戦 後責 任」
─ ─
<
論 説
>
修 道 法 学 四 二 巻 一 号
(
)
─ ─
28
二 三 九 二 三 九
で ある
。例 えば
、一 九八
〇年 代、 日本 労働 法学 会が 総力 を挙 げて 編集 した
『現 代労 働法 講座
』の
『第 六巻 労 働協 約』 総 合 労働 研究 所( 一九 八一 年) に、 後藤 清は
「協 約自 治と その 限界
」を 執筆 して いる
。戦 前の 不滅 の業 績が あれ ば、 戦中 に 何 を主 張し よう とも また 何の
〈総 括〉 がな くと も不 問と され
、戦 後も 華々 しく 活躍 でき たの であ る。 いっ ぽう
、歴 史資 料の 保存 管理 は、 まさ に現 在の われ われ の次 世代 に対 する 責任 であ る。 石井 教授 の超 人的 とも いえ る 労 働法 学史 に対 する 執念 と意 欲に よっ て、 非常 に多 くの こと が明 らか にな り、 教授 の労 作は 学界 の貴 重な 財産 とな った
。 資 料・ 史料 はそ れが 残っ てい れば
、い つか は石 井教 授の よう な学 問的 執念 に燃 えた 研究 者に よっ て検 討・ 検証 され 研究 に 資 する こと にな るの であ る。 問題 なの は資 料が
「残 って いれ ば」 とい う点 であ る。 今日 では 研究 者が 収拾 した 貴重 書籍 で さ え大 学図 書館 が受 取を 拒否 する のが 一般 的で ある
。ま して や新 聞記 事や イン フォ ーマ ルな 文書 は、 当事 者が 意識 的に 保 管
・保 存の 手段 を講 じな い限 り、 散逸 の運 命を 免れ えな い。 本稿 筆者 は第 一の 課題 につ いて は現 在そ れを まと める 準備 がで きて いな い。 第二 の点 につ いて は、 若干
、手 持ち の資 料 を まと めて おく こと が可 能で ある
。 以 下に 提示 す るの は、 九 州 地域 の 社会 法研 究 者が 多く 参 集し てき た
、「 社 会 法研 究 会」 の 一九 六
〇年 代の 活 動に つい て の若 干の 考察 であ る。 社
会法 の歴 史的 研 究と して は、 法制 史研 究、 学説 史・ 思 想史 研究
、 研 究者 研究 な どが あり 得る
。「 研究 会」 それ 自体 の 研 究は 極め て少 ない
。ま して 全国 規模 の学 会で なけ れば
、皆 無で あろ う。 地域 単位 や小 規模 ある いは イン フォ ーマ ルな 研 究 会 につ いて は
、「 エ ッ セイ
」 に 記さ れる の みで あっ
し たが っ てそ のよ う な研 究会 の 資料 は残 ら ない
。 当 事者 の覚 書
( 1
た)
。 戦 後 初 期 の
「 社 会 法 研 究 会
」 に つ い て
( 山 田
)
(
) 二 三 八 二 三 八
も やが て散 逸す る運 命に ある
。そ もそ も「 研究 会」 は「 ワー クシ ョッ プ」 と同 じで あり
、活 字原 稿を 発表 する 前段 階の 準 備 作業 の場 であ ると 考え
、「 研 究会
」の 記録 には さし たる 意味 はな いと いう 考え もあ ろう
。 しか し小 規模 な研 究会 であ れ、 学説 史上 に影 響を 及ぼ す研 究・ 議論 が行 われ るこ とも 考え られ るし
、個 々の 研究 者の 学 問 的営 為の 集積 が学 界の 発展 に結 実す ると 考え られ る。 事実
、労 働法 学会 や社 会保 障法 学会 にお ける 学会 報告 は、 地域 的 研 究会 の共 同研 究と いう 形で なさ れる もの が少 なく ない
。し たが って 地域 的な ある いは 小規 模な 研究 会の 検討 が無 意味 な わ けで はな い。 広島 修道 大学 法学 部で 日本 法制 史、 法社 会学 を担 当さ れた 矢野 達雄 教授 は二
〇一 九年 三月 末に 定年 によ り退 職さ れた
。 教 授 は
「労 働法 史」 にも 大き な業 績を 残 され た。 一 九九 三 年に 刊行 され た
『 近代 日本 の労 働法 と 国家
』( 成文 堂) は
、 教 授 の一 連の 労働 法史 研究 をま とめ たも ので ある
。そ もそ も教 授は 労働 法史 を対 象に 研究 生活 をス ター トさ れた ので ある
。 広島 修道 大学 法学 部は 研究 紀要
「修 道法 学」 四一 巻二 号( 二〇 一九 年二 月) にお いて 退職 記念 号を 発刊 する こと で、 教 授 の研 究と 教育 によ り法 学部 にな され た貢 献に 謝意 を表 した
。生 来の 怠惰 さゆ えに
、私 は記 念号 に何 をも 寄稿 でき なか っ た
。半 年遅 れと なる が、 本稿 をも って 矢野 教授 への 学恩 に対 する 御礼 とさ せて いた だき たい
。
( 1
) 例 え ば「 関 西 行 政 法 研 究会
」 に つ いて 室 井 力「
「 た け の こ 会
」の こ と
─ 関 西 行政 法 研 究 会 の はじ ま り
」 ジ ュ リ スト 九 五 一 号( 一 九 九
〇 年 三 月 一 日 号
) 二 頁
。
─ ─
<
論 説
>
修 道 法 学 四 二 巻 一 号
(
)
─ ─
30
二 三 七 二 三 七
二 資 料 に つ い て 本稿 で使 用し た資 料は 林迪 廣教 授、 荒木 誠之 教授 が九 州大 学法 学部 を定 年に より 退官 され る際 に( それ ぞれ
、一 九八 六 年 三月
、一 九八 八年 三月
)、 譲 渡さ れた もの の一 部で ある
。
(一
)「 社会 法研 究会 報告 題目 およ び報 告者 一覧
(自 第 一回
(復 会) 昭和 年 4月 至 第 十五 回 昭和 年 3月
)」 社
35
37
会 法研 究会 昭 和 年4 月( 写真 1)
37
B4 版1 枚を 二つ 折に した 活版 印刷 の文 書で、研 究会 開催 日時
、題 目、 報告 者が 記録 され てい る。 報告 者の 所属 は記 載 さ れて いな い。 菊池 教授 の九 大退 官に
(一 九六 二年 三月
)に あわ せて 作成
・配 布さ れた
。
(二
)「 社会 法研 究 会 記録 2」 自1 96 1
.
. 至 19 63
.4
.2 コク ヨの 大学 ノ ート B5 版「 極東 A
」
( 写
10 21
30
真 2) 第一 一回(昭 和三 六年 一〇 月二 一日
)か ら第 二二 回( 昭和 三八 年四 月二 日) まで の記 録で ある
。研 究会 の報 告者
、報 告 概 要、 質疑 応答
、出 席者
、「 社 会法 研究 会」 総会 議事 など が記 録さ れて いる
。林 迪廣 教授 が保 管し てお り、
「記 録2
」と あ る が、
「 記録 1」 は所 在不 明で ある
。 戦
後 初 期 の
「 社 会 法 研 究 会
」 に つ い て
( 山 田
)
(
) 二 三 六 二 三 六
(三
)「 社会 法研 究会 会報
」B 4板 わ ら半 紙 ガリ 刷
( 写真 3)
「 社会 法研 究会
」 の
「 会報
」 と して
、 研究 会の 報 告要 旨、 論 文、 研究 会記 事な どを 掲 載し てい る。 各 号 の総 頁は 四頁
~ 九 頁で ある
。九 号ま で現 物を 確認 でき た。
(四
)「 菊池 勇夫 教授 演習 参加 者名 簿」 社会 法研 究会 昭 和 年4 月 頁 ガ リ刷 ホ チキ ス留 め
( 写真 4)
37
18
菊池 勇夫 教授 が九 州帝 国大 学法 文学 部着 任以 来の 演習 の題 目( 昭和 六年~) と昭 和八 年~ 昭和 三六 年ま での 演習 所属 の 学 生の 氏名
、住 所が 記載 され てい る。
─ ─
<
論 説
>
修 道 法 学 四 二 巻 一 号
(
)
─ ─
32
二 三 五 二 三 五 写真1
写真2
三
「 社 会 法 研 究 会
」 の 再 開 本稿 が対 象と する
「社 会法 研究 会」 は、 主に 九州 在住 の社 会法 研究 者が 参集 する 研究 会で ある
。二
〇一 九年 九月 で四 八 一 回を 重ね る。 この 研究 会は
、菊 池勇 夫・ 九州 大学 法学 部教 授が
、自 らの 教え 子や 教授 と関 係の ある 研究 者な どを 結集 して 設立 した も の であ る。 菊池 勇夫 博士 は「 社会 法研 究会
」に つき
、一 九五 九年 に次 のよ うに 記し てい る。 戦
後 初 期 の
「 社 会 法 研 究 会
」 に つ い て
( 山 田
)
(
) 二 三 四 二 三 四
写真3
写真4