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隣人愛 における個人主義の位置

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(1)

隣人愛 における個人主義の位置

立 花 希 ‑

ThePlaceofIndividualism inNeighborLove

KiichiTACHIBANA

Abstract

Thispaperdealswiththeproblemsofneighborlovefromanethicalpointofview,notfrom areligious(ChristianorJewish)pointofview.

ItissaidthattheideaorloveoccupleSaCentralplaceinChristianity. Yet,inhisbook, ChristianNeighborloue,GarthL.HallettpointsoutthatattheheartoftheChristianideaof loveacrucialobscurltypersists. Heassessesthesixrivalnormsofconductrelatingselfand others;1.SelfPreference,2.Parity,3.OtherPreference,4.SelfSubordination,5.SelfForget fulness,6.SelfDenial. HeclaimstheChristianaltruisticneighborloveisexpressedin4,5,6 andtheothersarerelativelyegoistic.Then,heplacestheview ofAhadHa'am,aJewish thinker,in2.Parity,lnWhichheseesegoism andheclaimsthatAhadHa'am'sview isinade quateasthenorm ofneighborlove.

Onthecontrary,IclaimthatAhadHa'am'sviewisindiuidualisTnbasedonJustice.Inmy opinion,Hallettseeshumanconductsrelatingselfandothersonlyfrom egoism/altruism pointofview, Theview ofindividualism ismisslnginhisanalyss. Thisisthecauseof undesirableconsequenceswhichfollowfrom hisaltruisticnorm ofconduct.

Ontheotherhand,ifweintroducetheview ofindividualism,comparativelydesirable consequencescanbeproduced. Therefore,Iclaim,individualism mustbesecuredintheplace ofneighborlove.

.研究の動機

セ ン ト・ルイス大学 のガース・L・‑ レッ ト(GarthL.Hallett,1927)は, 著書 『キ リス ト教 の隣人愛』 を次のよ うな書 きだ Lで は じめている1

愛 とい う観念が,宗教的観点 と倫理的観点 の両方か らみて, キ リス ト教の唯一 とはいわな いまで も,中心的な位置を占めていることは明白である」 と言われて きた。 しか し, この中心 的な観念 の核心 には決定的な唆昧 さがつ きまとっているのである。「アガペー」 は, 神 へ の愛 と共 に隣人への愛を,そ して隣人愛 を通 して示 され る神への愛 を求 めている。 しか しなが ら, この隣人愛をどのような ものとして考えた らよいので あろ うか。 ‑‑ ほぼ2000年 の長 さにわ た ってキ リス ト教がアガペーを強調 しているとい うのに, このよ うな言 い方をす ると奇妙 にき こえ るか もしれないが,隣人愛 に対す るキ リス ト教 の規範 の研究 は,かな り未開拓の分野なの であ る。

‑ 1‑

(2)

そ して彼 は, この唆昧 さを払拭すべ く, キ リス ト教の伝統 的思想 および哲学者 の思想 の中にみ ら れ る 「隣人愛」 に関す る見解を6つの相互 に競合す る見解 として分類 した うえで,綿密 な比較検討 を加 え, キ リス ト教倫理 の確固たる説 として,彼 自身の見解 を自身 に満ちあふれて提起す るのであ る。 この体系的で詳細な研究か ら学ぶべ き点 は多 くあるが, この問題 に関 して,私が高 く評価 して いるアハ ド・ハアム (AhadHa'am,本名AsherGinzberg,18561927)の見解 に対す る取扱 いの仕 方が,私 の目か らみて,不十分であり, しか も妥当性 を欠 くように思われる。 これが,本稿 を書 く きっかけにな っている。以下,ハ レッ トの見解を具体的 に考察 しなが ら,問題の所在を明 らかにし, 表題 の問題 「隣人愛 における個人主義の位置」を解 く試みを行 いたいと思 う。 しか し, その前 にこ の考察が,宗教的観点か らの ものではな く,倫理的な観点か らの ものであ り, したが って,思想 の 出所が歴史的にキ リス ト教であるとか, ユダヤ教であるとか は問題で はな く,「隣人愛」 に関す る 思想 としての意味を考えるとい う立場を とっていることを表明 してお きたい。

Ⅱ.ハ レッ トの分類

‑ レッ トは,隣人愛 を自己 と他者 に関す る行為の客観的な規範2として捉 え,利益 (benefit) 自己と他者 に配分す る度合 によって,理論的 な可能性 として,完全 な利 己主義 (completeegoism) か ら完全な利他主義 (totalaltruism)に及ぶ範囲を9つに分類 した うえで,(1)自己優先 (Self preference),(2)等価 (Parity),(3)他者優先 (OtherPreference),(4)自己従属(SelfSubordination), (5)自己忘却 (SelfForgetfulness), (6)自己否定 (SelfDenial) の6つ の見解 が, キ リス ト教思想 史上,実際 に唱え られた として, この6つに絞 って考察 を加 えている。因みに,考察か ら除外 され ている見解 は,他者否定 (OtherDenial),他者忘却 (OtherForgetfulness),他者従属(OtherSub‑

ordination)3つである。‑ レッ トによれば,他者否定が完全 な利 己主義, 自己否定が完全 な利 他主義 とい うことになる。 この6つの見解 の相違を明 らかにす るため,一つ一つ取 り上 げて,説明 しよ う。彼 はまた, それぞれの見解が実際に誰 によって唱え られたかについて も研究 しているので, 思想史的にも興味深 いであろう。

(1) 自己優先

この規範 によれば,行為者である私が自己に対す る利益 と他者 に対す る同等の利益 との間の選択 を しなければな らない場合, 自己を優先 し,他者 を二 の次 にす るのが望 ま しいとい うことになる。

そ して, ある選択 をす る際 に私が受 ける利益以上 に,別 の選択 をすれば他者が利益を受 ける場合 に 限 り,後者 の選択 をす るのが望 ま しいということになる。

この見解 は,長 い間, カ トリックの道徳的神学 において支配的な見解であった とい う。 その代表 として, トマス ・アクィナス (12251274),サ ン‑ プルサ ンの ドゥラン ドゥス (12751334), フランシスコ ・デ ・ス レアス (15481617)が挙 げ られている。

(2)等価

私 に二つの選択肢があるとして, どち らを選択 して も私 の利益 は同 じであるが,他者 については 第二 の選択肢の方が利益 を多 く得 る場合,第二の選択 をす るのが望 ま しいとい う。 どち らを選択 し て も他者 の利益 は同 じであるが,私 について は第‑の選択肢 の方が利益を多 く得 る場合,第一 の選 択 をすべ きだ とい う。第一 の選択肢の方が私 の利益 は大 きいが,第二 の選択肢の方が,他者 の利益 がそれ以上 に大 きい場合,第二 の選択をす るのが望 ま しい とい う。 また,第一 の選択肢 の方が私 に は利益が大 きいが,隣人が複数 お り,第二 の選択肢の方が,彼 らの利益が私 のそれより同等かそれ 以上 (すなわち トータルとして大 きい) とい う場合,第二 の選択 をす るのが望 ま しいとい う。

‑ レッ トはこの見解 を唱えたキ リス ト教徒 として,聖ユ ステ イノス(100165頃),オー リゲネ‑

(185254頃),聖バ シレイオス (330頃‑379), アウダステ ィーヌス (354430),聖 マクシムス

‑2‑

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立花 :隣人愛における個人主義の位置

(350頃‑408/423), サ ン‑ テ ィエ リのギ ヨーム (1080/851148), ベ ル ラル ミー ノ枢機 卿 (1542 1621),ジャー ク‑ ペニーニュ ・ボシュエ (162711704), ライ ンホール ド ・ニーバ ー (18921971) を挙 げてい る。 ユ ダヤ人思想家 のアハ ド・‑ アムの見解 が この中に分類 されてい るが, この問題 を 後 で論ず るつ もりである。

(3)他者優先

これ は自己優先 にお ける自己 と他者 の部分 を置 き換 えた もので, この規範 によれば,行為者で あ る私 が 自己に対 す る利益 と他者 に対 す る同等 の利益 との間 の選択 を しなければな らない場合,他者 を優先 し, 自己を二 の次 にす るのが望 ま しい とい うことにな る。 そ して, ある選択 をす る際 に他者 が受 ける利益以上 に,別 の選択 をすれば 自己が利益 を受 ける場合 に限 り,後者 の選択 をす るのが望 ま しい とい うことにな る。

聖 ニーロス (?‑430頃), レオ 1世 (400頃‑461), グ レゴ リウス1 (540頃‑604)の名前 が挙 げ られてい る。

(4) 自己従属

この隣人愛 の理解 によれば,人 は自己の利益 について他者 とは独立 に考慮 を して もよい し, また そ うすべ きで あるが, それは,他者 に対す る最大限 の利益が先ず保証 されてい る場合 に限 られ ると い うものである。

ここで は聖 ア ンプロシウス (334‑397), カール .バル ト(18861968)が言及 されて いる。

(5) 自己忘却

行為 の選択 の際,人 は他者 との関係 においてのみ 自分 の利益 を考慮すべ きであ り,他者 との関係 か ら独立 した価値 を 自己に付加すべ きで はない とい うものであ る。

十字架 のホア ン (15421591),聖 イグナテ ィウス (1491頃‑1556),聖 フランソワ (15671622)が このよ うな主張 を していた とい う。

(6) 自己否定

これがキ リス ト教 的利他主義 の極 にあた る見解で あるが,人 は他者の利益の手段 として以外,けっ して 自己の利益 を求 め るべ きで はないとい うものであ る。

この見解 を唱えた者 の名前 が他 の見解 よ り圧倒的 に多 く言及 されている。教父時代で は,聖 ア ン プロシウス (334‑397), アウダステ ィーヌス,聖バ シ レイオス,聖 ベネデ ィク トゥス (480頃‑547 /550), ク リュソス トモス (347頃‑407), レオ1世, 中世 で は, ケ ンビス (13791471), アルベ ル

トゥス (1193頃‑1280), シエーナのカ タ 1)‑ナ (13471380), エ ック‑ ル ト(1260頃‑1328),サ ンー ヴィク トールの 7‑ ゴ (1096頃‑1141), レイズ ブルーク (12931381), ゾイゼ (12951366), タウ ラー (1300頃‑1361), オ ブェルニ ュのギ ヨーム (1190頃‑1249),近代で は,マルテ ィー ン ・ブツァー (14911551), カル ヴァン (15091564),聖 イ グナテ ィウス,十字架 のホア ン,ルター(14831546), ヴ ァンサ ン ・ド・ポル (158111660),現代で は, ヨー‑ ン ・フ リー ドリヒ ・ヴィルヘルム ・アル ン

(18021881), エー ミール ・ブル ンナー (18891966), ル ドル フ ・プル トマ ン (18841976), ロ マ‑ノ ・グァルディーニ (188511968),カール・F・H・ヘ ンリー (1913),ジョン ・ノックス (1900) ヴィルヘルム ・リュ トゲル ト(18671938), ア ンデ シュ ・ニー グ レン (18901978)な どが挙 げ ら れている。

尚, 同一人物 が複数 の箇所で言及 されてい る場合があ るが, それ は述 べてい る場所 によ って複数 の解釈 がで きるか らである。 また,著者 は(5)自己忘却 は(6)自己否 定 に融合 され易 い と も述 べ て い る3

次 に具体的な事例 を示 しなが ら,規範相互 の相違 をみ ることに しよ う。 自己犠 牲 の事例 と して, 実際 にあ った コルベ神父 の事例 で(1)自己優先 と(2)等価 の相違 を, アー ラン ド・ウ ィ リアムズの事例

‑3‑

(4)

(2)等価 と(3)他者優先 の相違 を説明 している。 コルベ神父 は一人 のユ ダヤ人 の男性 の代 わ りに死ん だので あるが, この行為 は自己優先 の規範 か らは導かれないが,等価か らは導かれるという。ハ レッ

トによれば, コルベ神父 は独身で あ ったが,助か ったユ ダヤ人 には妻子 がいた とい う。 コルベ神父 が生 き残 った場合 と妻子 あ るユ ダヤ人が生 き残 った場合で は, 自己 と他人 をまった く等価にみると, 後者 に価値が傾 くので, コルベ神父 の自己犠牲的行為 が導 かれ るとい うので ある。 (2)等価 よ り利他 的な規範 か らも当然, コルベ神父 の行為 は導 出可能で ある。

(2)等価 と(3)他者優先 の相違で あるが, これを1982年 ポ トマ ックJl=こ墜落 した飛行機 に乗 り合わせ て いたアーラ ン ド・ウ ィ リアムズ氏 の行為で説 明 してい る。彼 は自分 の所 に二度救命 ロープが降 り て きたに も関わ らず, まった く見ず知 らず の人 のためにその ロープを渡 した。三度 目に救命 ロープ が降 りて きた ときには,水底 に沈 んで しま った とい う。 この行為 は(2)等価 か らは導 かれない。 この 場合, 自己 と他者 の メ リッ トを公平 に測定す ることがで きないので, 自己 と他者 の価値 はま った く 同等 と想定せざ るを得ず, その場合 には自己を優先せ よとい うことにな るか らであ る。他方, (3) 者優先 の規範 で は自己 と他者 の価値 がま った く同等で あれば,他者 を優先せ よとい うことにな るの で, ウ ィ リアムズ氏 の行為 は導 き出せ るのであ る。 この行為 は(3)他者優先 よ り利他的な規範 か らも 導 出可能で ある。

(3)他者優先 と(4)自己従属 の相違 は,例 えば, チ ョコレー トを分配す る際,多 くを他者 に分配す る が, 自分 に若干 は残す とい うのが, (3)他者優先 か らは導 かれ るが,他者 の最大限 の利益 を考慮すべ きで あ るとす る(4)自己従属で は,全てを他者 に分配 せ よとい うことにな る。 これは些細 な事柄で あ るが,高額 の宝 くじが当た るな ど重大 な場合 に も同様 であ るとい う。

(4)自己従属, (5)自己忘却, (6)自己否定 の相違 は,例 えば, レス トランでおい しい食事 をす るよう な場合, (4)自己従属 は, それを 「楽 しめ」 といい, (5)自己忘却 はそのよ うな個人的な楽 しみにつ い て 「思 い煩 うな」 といい, (6)自己否定 はさ らに 「避 けよ」 とい う。

以上 のよ うな相違 についての考察か らわか ることは, ‑ レッ トが 自己 と他者 の関係 を完全 な利 己 主義 か ら完全 な利他主義へ とい う連続 としてみ, さ らに個 々の規範 を相対的な度合,程度 の問題 と してみてい るとい うことで ある。 奉仕,献身, 自己犠牲 の度合が 自己否定 の方 向に向かえば向か う ほど強 まるのであ るが, よ り利他的な規範 か らみれば, その手前 の規範 は 「利 己的」 な ものに映 っ て しま うのであ る。因み に, ハ レッ トは利他的な行為が望 ま しい と考 えてお り, また新約聖書 の章 句 の詳細 な分析 に基づ いて, キ リス ト教 の隣人愛 は,少 な くとも(2)等価 で はな く(3)他者優先 を明 ら か に勧 めてい る (2コ リン ト8 :9,使徒20:35参照) とした うえで, さ らに(4)自己従 属 以上 の 利他的行為 を も勧 めてい る (マ タイ5 :38‑42,20:26, ルカ14:12‑14参照) と述べ,(4)自己従 , (5)自己忘却, (6)自己否定 の どれであ るかを明確 に確定す るのは難 しい として も, (4)自己従属が

もっとも適切で あろ うと主張 して い る。

私 の関心か らは, この確定問題 は問題 で はな く,‑ レッ トの見解で は(2)の等価が,「利 己的」 規 範 とな って しま うことと, アハ ド・ハ アムの見解 を(2)に分類す ることは妥 当で はないので はないか

とい うことが問題 なのであ る。

ア‑ ド・ハ アムの見解 を考察す る前 に,隣人愛 に関す るユ ダヤ教 の考 えを提示 してお きたい。 そ れが, アハ ド・‑ アムの見解 の背景 にな ってい るか らで あ る。

Ⅲ. ユダヤ教 の隣人愛 (a)砂漠 の二人」 の物語

キ リス ト教 ばか りで はな く, ユ ダヤ教 において も,隣人愛 の議論 は 『旧約聖書』 レビ記19章18 の 「あなたの隣人 をあなた 自身 のよ うに愛 しなさい」 とい う言葉 の解釈か ら始 まるので あるが, ユ

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立花 :隣人愛における個人主義の位置

ダヤ教 では,「砂漠 の二人」 とい う物語を用いて この解釈がなされている。 それ は次 の よ うな物語 である。

二人 の男が砂漠 にいた。一方が一人分の水を もっていた。 その水を飲んだ者 は助か るが,両 方 が飲む と共倒れになるとい う状況 に陥 った。 このような極限状況 に人が立 たされた とき,一 体 どうすべ きであろうか。

私事 で恐縮であるが,広尾のユ ダヤ教会で教会 の指導者 にヘブライ語 を習 っていたとき, この物●●●●●●●●●●●

語 を聞か された ことがある。彼 は私 に 「水を もっている方 の人間だ った場合, どうすべ きか」 と尋 ねた。即座 に私 は 「二人で分 けあう」 と答 えると,彼 は一言 「ステユー ビッ ド」 と言 った後, その 説明を した。一人で も生 き残 れば,他 の人々に,遭難 の事情 を説明す ることがで き,二度 と同 じよ うな不幸が起 きないようにす ることがで きるのに対 し,共倒れで は,今後 の不幸 を未然 に防 ぐこと がで きず,危機的な状況 に遭遇 した人々の人骨が砂漠 に積み重 なるという結果 になって しまうか ら,

愚かな」行為だ とい うのである。次 に彼 は,生か死かの二者択一 しかない とした ら, どうす るか と私 に尋ねた。私 は,利他的な方が何 とな く格好がよいと思 ったので,「友人 に与 え る」 と答 え る と,今度 は 「それはキ リス ト教的だね。 あるいは‑ ラキ リの伝統かな」 と言 い, 「ユ ダヤ教 の伝統 は一枚岩ではないのだが」 と前置 きしなが ら,次のように説明 したのである。後 に知 ったの だが, これ はラビ ・アキバ (?132)の見解 に基づ くものであ った4

(1) 生命 は神 の賜物であって, 自分の ものではない。 自殺す る自由はな く, 自殺 は神 に対す る最 大 の罪 の一つである。 自殺者 は別の墓地 に埋葬 され るほどである。

(2)人 は神か ら与 え られた身体 を含む 自分 の財産を用いてより良 く生 きる義務 がある。

(3) その男の もっていた水 は彼 自身の財産である。それを放棄す ることは自殺行為である。

(4) したが って,彼 はその水を飲み,生 きる義務がある。

(5)他方,水 を もっていなか った男の方 は,水な しで も生 き延 びようと,最大限の努力をす るこ とが義務であるが, この場合 には,結局 は神の定 めた寿命 としての死を甘受 しなければな らな い ことにな っていた と。

私 の感想 は,理屈 として はな るほど首尾一貫 しているようだが,感情的には私 にはで きない。

分 けあ って共倒れ」がやはりしっくりくる。 あるいは,「自分が生 き残 る」 とい うこの選 択 は結 局 は 「利 己主義」で はないか とい うものであった。

その後, イスラエルに留学 し,偶然であるが, アハ ド・ハアムの著作を読み,彼の主張が このユ ダヤ教 の伝統 と軌 を一 に していることを知 った。 しか も,彼の主張 は現実 に可能 な中での最善の選 択で はないか と思え るようになったのである。

(b) ア‑ ド・ハアムの見解

ア‑ ド・ハアムは,ユ ダヤ教倫理 とキ リス ト教倫理 を対比 させて述べている箇所で, キ リス ト教 が先 の レビ記19章18節 の言葉 を肯定的黄金律 として定式化 しているのに対 して, ユダヤ教で は否定 的黄金律 として定式化 していることを指摘 し, その相違の根本的理由を述べている文脈 の中で,吹 のよ うに主張 している5

福音書 の遺徳規則 は,「自然人」 に対 して自己 と他者 に対 して もってい る自然的態度 を逆転 し,「自己」 の所 に 「他者」を置 くように要求す る。すなわち, あか らさまな利 己主義 を裏返 しの利己主義で置 き換えるように要求す るのである。 なぜな ら,福音書 の利他主義 は利 己主義 をひ っくり返 した ものにはかな らないか らである。利 己主義 と利他主義 とはどち らも,個人そ

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の ものが もつ一切 の客観的な道徳的価値を否定 し,個人を主観的な目的 に対す る単なる手段 に して しまう。利 己主義 は 「他者」を 「自己」 の利益 のための手段 に し,利他主義 はち ょうどそ の逆である。それに対 して, ユダヤ教 はこの主観的な態度か らまった く免れている。 ユ ダヤ教 の道徳 は,抽象的で客観的なるもの‑ 「自己」 と 「他者」の問にまった く差異 を設 けず に個 人その ものに道徳的価値を置 く絶対的正義 (公正 さ)‑ に基づいてい る。 この説 によれば, 人の正義感が自分 自身の行為 と他者 の行為 の両方 に対す る至高の判定者である。‑=‑この至高 の判定者 の前では, 自己を含む,万人が平等でなければな らないのである。 自己を含め,万人 が 自分 の生命や能力を最大限に発揮す る義務 がある。 と同時 に,各人 は,他者の自己発展をで きる限 り助 ける義務 もある。 しか し, 自分 のために他者 の生命 を犠牲 にす る権利が私 にはない の と同様,他者のために私 の生命を犠牲 にす る権利 も私 にはない。 自己 も他者 も人 間で あ り, 正義 (公正 さ) の御座 の前で は, どち らも同等 の価値を もっているのである。

こうした観点 に基づいて‑ ド・‑ アムは,先 の 「砂漠の二人」 の物語 について次のように述べて いる6

た とえそれが愛や同情 の純粋 な感情か ら生ず るものであって も, またその犠牲 になる者が行 為者 自身であって も,生命を失わせ るようないかなる行為 も悪である。当の事例 「砂漠 の二 人)〕 の場合 には,二人 の生命の うち一人 は助か ることがで きるのだか ら, 同情心 を克服 し, 助か るべ き者 を助 けるのが道徳的義務である。

すなわち,正義 (公正 さ) に照 らして この事例 をみた場合 には,水 を もっている方 の人間 は他者 に水 をあげて はな らない し,他方, もっていない方の人間 はそれを もらってほな らない し, もちろ んそれを奪 って もな らないのである。 したが って,水 を もっている方 の人間が生 き残 ることになる だろう。 これは 「利他主義」ではないが,利 己主義」 とも言 い切 れまい。「個人主義」 とい う第三 の道であるまいか7。 それは 「自己」 と 「他者」 のどち らも, 普遍 的で絶対 的 な価値 のあ る 「個」

の一員 としてみるものである。

Ⅳ.隣人愛における個人主義の位置

現実の社会 の中には様 々な考えの人々がいることは明白な事実である。 この問題 に対す る見解の 相違の若干の例を挙 げると,

(1) 一人で死ぬのは怖 いが,二人で死ぬな ら少 しは怖 くな くなるだろう。 自分だけ死ぬのは嫌だ し, 自分でけ生 き残 って も辛 い一生 を送 ることになるだけだろう。一緒 に死 ぬ ことに しよう。

(2)a)自分だけ生 き残 った ら,死んだ人 に対 して一生負 目を背負わなければな らない し, 世 間 の 目も冷 たいだろう。 いっその こと水をあげて, 自分が死んだ方が楽ではないか。 その方がかえ っ て,賞賛 され るか もしれない。

b)利他的行為が人間の道徳的義務であ り,隣人愛 の実践である。水をあげて, 自分 は死の う。

(3)普段,利他的な ことを言 っていて も,極限状態 になれば自己保存 しか考え られなくなるだろう。

自分が水を もっていればその水を当然飲んで生 きるし,水を もっていない場合 には水を奪 ってで も生 き残 るだろう。

これ らはすべて, 自己 と他者 の関係を,相対的な利他的一利己的関係 とした り,主観的な感情 に 基づいて判断 した りしてお り,客観的で普遍的な視点が欠如 している。 また これ らに基づいて実際●●●●●●●●

に行為 しようとす ると,意図 に反 して望 ま しくない結果が生 じて しまうのである。(1)の非合理性 に

‑6‑

(7)

立花 ・隣人愛における個人主義の位置

ついて はすでに述べたので省略す ることに し, (2)a)か らみてい こう。

(2)a)は自分 の感情 に流 されて自分 の ことしか考えていない ことは明 らかであるが, さ らにい えば,結果 としては一見す ると利他的だが,実 は利 己的なので ある。 それ は生 き残 った人 に重荷 と 恥辱 を負わせ ることにな ることを知 った うえで,生 き残 らせようとしているか らである。 また,相 手 も同 じように考えた らどうなるであろうか。結局(1)の共倒れに行 き着 いて しまうのではないか。

(2)b)について は, まさに‑ レッ トが論 じた 「利他主義」 にあたるで あろう。 これについても, よ く知 られた問題がある。相手 もまた利他主義者だ った らどうな るであろうか。例えば,二人の利 他主義者が ドアを通 ろうとしてぶつか って しまった。 さて どうなるか0「どうぞお先 に」,「あなた こそ, どうぞお先 に」 とお互いに譲 り合 って際限な くな るだろう。 この問題 につ いて は‑ レッ トも 言及 してお り8, 自分 な りの解決策 を提案 している。例えば,飛行機事故 のアー ラ ン ド ・ウ ィ リア ムズ氏の場合,救命 ロープを提供 しようとして相手 に断 られた場合 には,そのロープを自分で使用 してかまわない。 しか も, その場合で も 「利他的であった」 といえるとい う。内面的 な心情の問題 として は, そ うであるか もしれない し,他者 もそ う判断す るか もしれない。 しか し,実際 の行為の 結果 としては,ハ レッ トの分類で は 「利己主義」 にあた る行為 となん ら違 いがないのであ る。その 上, ロープの申 し出を断 る人 は利他主義者だが, ロープを受 け取 って生 き残 ろうとす る人 は,彼 の 分類で は 「利 己主義者」だ とい うことになる。利 己主義者が生 き残 って しまうような原則 は問題 を は らんでいるので はないだろうか。

(3)の場合 には,相手が利他主義者であれば,成功す るであろう。 しか し,先程 と同様,利己主義 者が生 き残 って しまうのは問題で はなかろうか。他方,相手 も自分 と同 じよ うに考えた らどうなる か。闘争 にな り,強 い方が生 き残 るか,共倒 れになるであろ う。結局,以上 のどれ も望 ま しい結果 を生 まないのである。

それでは,正義 (公正 さ) と個人主義 の原則か らほどうなるであろうか。水を もって いる方が こ の原則 に従 い,他方が利他主義 の原則 に従 う場合,水 を もっている方が生 き残 ることになるだろう。

水を もっている方が利他主義 の原則 に従 い,水 を もっていない方が個人主義 の原則に従 う場合には, 水を もっていない方 は,水 を提供 される前 に相手の場所か ら離 れ, 自分で生 き残 る努力 を しなけれ ばな らないであろう。 これは現実 には困難か もしれないが,不可能ではないであろう。水を もって いる方が利 己主義 の原則 に従 い,他方が個人主義 の原則 に従 う場合 には,結果 としてはあま り好 ま しい とはいえないが,衝突 は生 じないであろう。水 を もっている方が個人主義の原則 に従 い,他方 が利 己主義 の原則 に従 う場合 には,衝突 はさけ られない。相手が水を奪お うとす るか らである。正 義が負 けるか もしれないが,戦 うべ きであろう。最後 に,両方が個人主義 の原則 に従 った場合,水 を もっている方が生 き残 ることにな るだろう。 その場合,生 き残 る者の苦 しみの方が重 く,一生辛 いか もしれない。 しか し,正義 の原則 と感情 は別の事柄である。

以上 の結果 を表 にまとめると,

利 己主義 と利他主義 だけの組 み合せの場令

水をもっている方 水をもっていない方

利己主義者 利己主義者 闘争 望ましくない

利己主義者 利他主義者 利己主義者生存 望ましくない

利他主義者 利己主義者 利己主義者生存 望ましくない

‑7‑

(8)

個 人主義 が加 わ る場合

利己主義者 個人主義者 利己主義者生存 望ましくないが,水をもってこなかった自分に非

個人主義者 利己主義者 闘争 (正当防衛) 望ま しくないが,他に選択の余地なし

利他主義者 個人主義者 利他主義者生存 利他主義者生存の唯一の可能性

個人主義者 利他主義者 個人主義者生存 望ましい

個人主義者 個人主義者 個人主義者生存 望ましい

要す るに,利他主義及 び利 己主義 の原則 か らは, どの よ うな組 み合 せで も望 ま しくな い結果 が生●●●●●●●●●●●●

じるの に対 して,個人主義 の原則 が加 わ ると望 ま しい結 果 が生 じるのがわか るで あろう。 ところが, ハ レッ トの分類 で は, アハ ド ・ハ アムの見解 は(2)等価 の中 に位 置づ け られ, したがって 「利己主義」

と して扱 われて しま うので,望 ま しい結果 が導 き出 され ない ことにな る。 ‑ レッ トは, 自己 と他者 の関係 を 目的 と手段 の相対 的で比較 的 な関係 (す なわち, 目的 を よ り他者 の方 に, 手段 を よ り自己 の方 に置 く不等号記号 で表現 で きる もの) と して捉 え,完全 な利 己主義 か ら完 全 な利他主義 とい う 連続 的 な スペ ク トル と して描 いて しま って い るところに問題 が あ る。 彼 の分 類 で は,「個 人 主 義 」 を正 当 に位 置づ け る ことがで きないので あ る。

1 GarthHallett,ChristianNeighborLove,GeorgetownUnlVerSltyPress,Washington,1989,P.

Vll.

2愛を客観的な規範 として捉えようとすること自体に反対の意見があるかもしれない。日く,思惟や理性 は 愛に馴染まないとか,愛 は計算によって得 られるものではないとか,愛は限 りないとか,愛だけが最善 の道 を知 っているのだとかと。 しかし,人間の愛は感情だけではなく,想像力や判断力 も必要 とす るのであり,

したがって少な くとも理性的であるのではなかろうか。 この点に関 しては,‑ レットの考察 は価値があると 思われる。

3 Hallett,op.cit.,P.6.

4 BabaMezia'62a.ベン・ペ トゥラの方は,水を分けあって一緒に死ぬことを主張 していた。

5 AhadHa‑aTn,Essays,LetteTS,MeTnOirs,ed. L. Simon,oxford,1946,pp.1323.

6 Ibid.,P.134.

7 個人主義」 という言葉は,利他主義」に対立するものとしての 「利己主義」 と同様に用いられたりもす るが,個人主義」を 「利己主義」 と峻別すべきであるという詳細な議論については, ポパーの次の著作を参 照 されたい。K.R.Popper,TheOpenSocietyandItsEneTnies,Routledge,London,1966,vol.i, Chap.6.

8 Hallett,op.cit.,pp.1025.

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参照

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