︿論説﹀
ヨン
バ ル ト 自 然 法 論 の 諸 問 題
1﹁実定法に内在する自然法﹂についてー
ヨ ンパ ル ト 自然 法 論 の 諸 問 題 85
目次
一︑問題の所在ー﹁一八命題﹂の再検討i
二︑実定法に内在する自然法(論)とは何か
1用語の概念について
2問題点をめぐって
ω実定法の存在
働内在の意味
㈹自然法の区別
四法原則について
三︑現代自然法論の課題にふれて
ー
2 3
4
現代実定法論について第三の道をめぐって実質的正義の探求ー歴史的・人間的判断‑
二〇命題﹂の提唱
松
岡誠
86
問題の所在、
ー 二 入 命 題 ﹂
の再検討ーホセ.ヨンパルト著﹃実定法に内在する自然法ーその歴史性と不変性ー﹄(有斐閣昭和五+四年入月)が刊行さ
れてから︑今や早くも五年になろうとしている︒そこで︑この書物で指摘された現代自然法論に関しての種々の課題
や︑あるいは自然法論を理解するための数々の新らたな提唱について︑時0経避をきっかけに再検討することは・法
哲学にとって意義あることと思われる︒もっとも同氏が現在のような法思想を有するに到った過程は︑ボン大学留学
時(とくに一九六五年)までさかのぼる︒その際︑同氏はH・ロンメンの﹃自然法の歴史と理論﹄を読み︑ロンメンの
﹁法原則の不変性﹂に対するアンチ・テーゼとして﹁法原則の歴史性﹂が考案された︒そして︑やがてその考え方は・
同氏の学位論文に結実し︑著書となってドイツで発表され︑またわが国では︑とりわけ一九七〇年代から今目におい
(1)ても︑同氏の基本的な立場に立脚した多くの業績が世に問われている︒
そこで︑同氏の法思想を検討するには︑ほぼ二十年間の思索の道程をも考慮しなくてはならないのであるが︑ただ
し同氏の法思考の根本はその間一貫しており︑またそれは︑すでに同氏の﹃自然法論の研究ー法の歴史性をめぐつ
てー﹄(有斐閣昭和四+八年)において︑﹁一八命題﹂として簡潔にまとめられているので︑それから問い直す方法
も可能であろう︒そして︑それらのうちでとくに基礎となも考え方は︑ω法の内容の考慮(命題①⑩)︑②自然法は実
定法に内在する(命題③⑦)︑㈲自然法と自然法論の区別(命題④⑥)︑ω法原則の歴史性(命題⑧⑰⑱)などと思われ
る︒それゆえヨンパルト自然法論は︑自然法の内容性・内在性・区別性・歴史性という四つの基本的な性格に着目し
て構成されており︑と同時にそれは︑自然法論の環侍帥か法理によって述べられているともいえみ犯︒
とはいえ︑ヨンパルト自然法論では︑現代自然法思想によって徐々に指摘されてきた自然法の現代的性格を︑より
ヘヘヘヘへ徹底化させているところに特色が見い出されるのであって︑そこでこの点に関して︑一方では︑現代自然法論の前進
ヘヘヘへへの試みに対して評価すべきであるし︑また他方では︑そのかなり思い切った構成の仕方ゆえに種々の疑問も生じて
くるのである︒そして︑そのために二入命題﹂についての検討を要する場合︑それは︑自然法思想の現代化に寄与
ヘヘヘヘヘヘヘヘへするような︑いわば前進のための再検討が︑この分野での開拓をめざすヨンパルト自然法論では︑むしろ待ち望まれ
(3)ているのかもしれない︒
ヨ ン パ ル ト 自然 法 論 の 諸 問 題
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(1)本稿で頻繁に引用・参照した邦語文献については︑次のような記号で表示したい︒
A﹃実定法に内在する自然法﹄(前掲)B﹃法の歴史性現行法の法哲学的試論1﹄成文堂昭和五十二年
C ﹃ 法 哲 学 入 門 ﹄ 成 文 堂 昭 和 五 十 年
D ﹃ 自 然 法 論 の 研 究 ﹄ ( 前 掲 )
E ﹁ 法 原 則 の 歴 史 性 と 自 然 法 論 ﹂ 有 斐 閣 法 哲 学 年 報 一 九 七 二 所 収 ︑ 昭 和 四 十 入 年
な お ︑ 最 近 の 独 語 文 献 で ︑ 自 然 法 論 に つ い て は 以 下 二 つ が 問 題 提 起 的 で あ る ︒ 匂 o ω α い 一〇 8 冨 芦 乞 餌 巳 糞 Φ ︒ 耳 鉱 ω ひq ︒ ω ︒ 三 〇 ,
げ 爵 9 0 ω 幻 Φ 9 r 貯 " 諺 菊 ω ℃ ち Q︒ ω ∴ U 一〇 αq Φ ω 〇 三 9 島 o 冨 ¢ 口 血 口 げ ① お o ω 6 三 9 岳 o 冨 q 9 ① 一陣 Φ 甑 ひq ぎ 詳 一日 Z 餌 け¢ 護 ① 9 け巴 2 冨 づ
◎ 霧 O o αq o 昌 ≦ 費 # 一﹃ O ① 薮 o 葺 菖 ω ω o ξ 弾 h ξ 図 窪 α 竃 巽 9 0 嶺 ︒︒ ω ・ ま た 邦 語 文 献 で ︑ 同 氏 の 法 思 想 の 表 わ れ と し て 興 味 深
い も の と し て ︑ た と え ば ﹁ 現 在 廃 止 さ れ つ つ あ る 死 刑 制 度 は 廃 止 す べ き か ﹂ 上 智 法 学 昭 和 五 十 七 年 ︑ ﹁ 安 楽 死 ︑ 延 命 処 置
と そ の 中 断 の 是 非 に つ い て の 覚 え 書 き ﹂ 上 智 大 学 昭 和 五 十 入 年 ︑ な ど が あ る ︒ さ ら に ﹃ 法 と 道 徳 ﹄ 成 文 堂 昭 和 四 十 八 年
ヘヘへの新版(昭和五十八年)が出たことと合わせて︑ユニークな学術書﹃にんげん研究ニッポン人﹄新潮社昭和五十七年︑を
ヘヘヘへ
と く に 付 け 加 え た い ( 法 哲 学 年 報 一 九 八 二 で ︑ 三 代 川 潤 四 郎 教 授 の 書 評 ま で あ る の で ) ︒ と 同 時 に ︑ 独 語 論 文 で も 日 本 人 論
を 述 べ て い る こ と も 特 記 し た い ︒ = o 日 b 奨 ∬ 菊 Φ o 洋 ω げ o 毛 自 ω ω 冨 ω o 言 亘 コ 山 く ① 轟 暮 ≦ o 答 二 口 αQ ︒︒ σq o h 帥 ゴ = 日 冒 冨 コ 山 曾 O Φ αQ o コ ≦ 母 計
冒 " 国 8 ず 冨 誓 8 ユ ① ︾ 鼠 ● じu ㊧ 口 血 国 o 津 ρ ち 器 " ω ● N Q︒ ㎝ 臣 ・
( 2 ) た だ し ︑ ヨ ン パ ル ト 氏 は い わ ゆ る ﹁ 第 三 の 道 ﹂ を 否 定 す る ︒ す な わ ち ﹁ 私 は 真 の 第 三 の 道 は 存 在 し な い と 確 信 し て い る ﹂
( A は し が き ) と ( 後 述 ︑ 三 の 2 参 照 ) ︒ な お 第 三 の 道 を 主 張 す る マ イ ホ ー フ ァ ー に つ い て ︑ 彼 は 第 三 の 道 を ﹁ 人 間 性 ﹂ の 探
ヘへ求への道であるような現実的法理学に探求したが︑ヨン︒ハルト氏は︑そのような考え方が歴史的自然法論であるならば評価
するようである(B一九七頁)︒けれどもカウフマンは︑マイホーファーの立揚を﹁時代的.歴史的固有性における制度的
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自 然 法 ﹂ に 分 類 し て い る ︒ ︾ 再 げ 霞 閑 ① 忌 目 き P ヵ ︒ 6 揮 ω ℃ 茎 o ω ︒ 9 一① ぎ 芝 鋤 鼠 ① 一鴇 の ● ︒ひ お 箪 ( 3 ) 書 評 と し て 阿 南 成 一 ﹁ 法 原 則 の 歴 史 性 ﹂ ( U 一〇 〇 Φ ω ︒ ぼ 島 ︒ 冥 ︒ 津 山 霞 園 o ︒ 算 ω 震 ぎ 銭 豆 Φ P 一〇 蕊 ) 法 哲 学 年 報 一 九 七 六 所 収 ︑
ヘヘへまた三島淑臣﹁法の歴史性﹂法哲学年報一九七八所収︑などがあるが︑本格的な批判論文はまだのようである︒
二 ︑ 実 定 法 に 内 在 す る 自 然 法 ( 論 ) と は 何 か
1用語の概念について
﹁実定法に内在する自然法﹂というとき︑ヨンパルト自然法論において︑実定法・内在・自然法︑および自然法論・
(1)法実証主義などの用語に︑どのような概念が与えられているのかをまず要約してみたい︒
すなわち︑ヨンパルト氏によれば︑
ω﹁実定法﹂については︑﹁存在するもの﹂として前提され︑またその存在は成文法と慣習法を含む現行法(法律)
の形式で表わされ︑さらに実定法の存在こそ自然法論の出発点であると考えられている︒
②﹁内在﹂については︑自立・対立・並存ではなく︑実定化によって実定法化されたものとして実定法の中に存
在することであると考えられている︒
③﹁自然法﹂については︑一般的に存在するかどうかが大きな問題で︑たとえ不変的なそれが存在するにしても
直接にその存在は確認されないが︑しかし実定法に内在する法学上の自然法は存在し(例︑法原則として)︑また変
化し続け(歴史性)︑さらに倫理学上の自然法(自然倫理)とは別のものであると考えられている︒
㈲﹁自然法論﹂については︑実定法を考察の対象とする実定法に関する一つの学説であって︑概念的に自然法と
区別されるが︑しかし実定法の中にある自然法的な要素(例︑何人も無視できない規定)を洞察し︑また法の内容
を考慮して﹁悪法は法ではない﹂という立場であるため︑法実証主義とは対立すると考えられている︒
㈲﹁法実証主義﹂については︑法の形式的な成立過程が重視され︑形式が揃っていれば法内容を考慮せず﹁悪法
も法である﹂と主張する立場であると考えられている︒
以上・用語のまとめが的確であることを願いつつ︑次にそれの問題点に移るのだが︑ただし用語はそれぞれ関連し
ヘヘへ
て法思想を形成しているので︑その点も考慮しながら︑またアンチ・テーゼをも立てて再検討を試みてみたいと思う︒
ヨ ン パ ル ト 自 然 法 論 の 諸 問 題 89
2問題点をめぐって
qD実定法の存在
ヘヘヘヨンパルト氏によれば︑それは自明のものとして前提されているけれども︑果たしてそれほど単純に実定法が存在
するのであろうか︑ということが質疑の第一点である︒たしかに成文法の場合は形式的には法規があるといえるかも
しれないが︑ただそれだけで﹁実定法﹂が﹁存在する﹂とい・えるのかど・つかであって︑実定的婁法﹂がどこにどの
ように存在するのかという問いは︑法哲学でも簡単には答えられないのではなかろうかという問題である︒
そこで法学上・葎(︒ Sと法(翼)という二つの犠が区別されてきたことに留意したい.すなわち︑ま
ず法律の場合・その成立要件を具備した上で法規範は生まれるのであるが︑それはいわば形態的で抽象的な存在の一
側面にすぎないし︑あるいは制定法の文言上の単なる存在であって︑したがって︑そこでは具体的な法状況における
法規範の当為性や実定性が未だ充分ではなく︑さらに効力についても一般的で抽象的な可能性にとどまっているとい
えよう・次に・実定法の﹁存在﹂についてのもう一つの側面が考慮されなければならない︒そのためには法律の適用
に解釈者の思晩ざがかけられることによって︑﹁法﹂の存在が確定され︑また効力についても個別的で具体的な可能
性が得られるであろう︒それゆえ︑実定法の存在では︑法律としての一般的.抽象的な存在と︑法としての個別的.
具体的な存在としての﹁両側面﹂が考えられ︑さらに︑この両側面は相互にシュパヌングの関係を有しながら︑解釈
ヘヘヘヘヘへ
者 に よ . 歩 わ ば 弁 証 法 的 統 を 経 て 法 的 価 値 判 断 へ と 導 か れ る の で あ . て ︑ そ の た め に も 露 雰 蓼 が 必 要 で あ
ると思われる︒
第二に︑慣習法の問題につい蕪少々見蟹異にするかもしれない.それは︑ヨンパルト氏の自然法論が﹁製掛
に内在する自然法﹂(﹁書かれた自然法﹂と名付けたい)ではなく︑慣習法も含めているからである︒もっとも法学上では今や慣習法は実定法と見なされるが︑ただし近代法制度における成文法主義では︑慣習法は補充的・技術的な規準にすぎず︑またそれの実定性も礎的であり︑あるいは響法の選択に疑問の余地が生じるときは︑法規範としての当
為性や実定性が成り立たない場A・も生じるであろう︒とはいえ︑羅な現代社会をすべて成文法で律す蚤﹂とは不可
能であって︑慣習法.判例法.条理法などの非制定法の意義は重大であり︑またそれらの法源論も充分に考慮されね
ばならない.﹂とは当然であって︑そこで罪制定法に内在する自然法﹂(﹁童旧かれざる自衡﹂と名付けたい)として・別
へに考慮することが望ましいと思われるのである︒
②内在の意味
ヨンパルト氏は︑法学上の自然法と実定法の一一元論を認めていないため︑内在は形力静に実定法そのものになるこ
と を 示 し て い る が ︑ た だ 法 学 上 の 自 然 法 論 も ﹁ 実 定 法 が 常 に 法 で あ る と は 限 ら 施 ﹂ と い う 例 外 を 寒 惣 奮 で 残
ヘへすとしたら︑それは形式と内容の混同にならないであろうかという疑問が第一に生じる︒すなわち同氏の﹁法学上の
自然法﹂では︑形式的には一つの法律(実定法)︑内容的には二つの法律(自然法と実定法)が述べられているように思︑兄︑さらに︑自然法の墾定法的な性蝉機能が鶉されているよ・つにも早える.たとえば︑同氏が丙容的に悪法
であるならば︑法律的にも効力をもたない﹂という場合︑いったいその内容を判断するのはど伽おかか観蔚なのであろうか︒そしてその際︑おそらく何んらかの超実定法的な判断基準を要するとしたら︑結局︑﹁実定法から独立した
所与としての自然法﹂を認める.﹂とになってしまい︑そうなれば実定法に内在するどころか﹁実定法に外在審自然