土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
About Mongolian Officers and Soldiers Living in China in Tu-Mu Incidents
川 越 泰 博
要 旨
明の北辺を侵掠したエセン︵也先︶率いるモンゴル軍を撃破するために︑正統十四年︵一四四九︶七月から八月にかけて西 進 を 続 け る 英宗 の 親征軍 が︑ 山西省 の 大同 ま で 来 て も モ ン ゴ ル 軍 の 姿 を 捕捉 で き ず︑ 行軍 の 方向 を 転 じ て 東還 を 開始 し た の は︑ 八月三日のことであった︒モンゴル軍の包囲攻勢を受けて︑明軍が覆滅するという悲劇に襲われる土木堡に到着したのは︑東 還を開始してからわずか一週間余り後の十四日のことであった︒五十万と号する大軍は壊滅的打撃を蒙った︒かかる地獄のよ うな戦場から命からがら生きて脱出したものも一部いたが︑それ以外の多くは戦没した︒これは明代の軍事体制そのものに甚 大な軍事的打撃を与え︑事変後樹立された景泰政権にとって︑軍事体制の再建は焦眉の急の問題となった︒
これまで全く知られていないことであるが︑多大な損害を蒙った親征軍中には多くの中国在住のモンゴル人衛所官軍が含ま れていた︒知られていなかったのは︑それを裏付ける史料が従来存在しなかったためである︒そこで︑私は︑新出史料にもと づいて断簡零墨な記述を集め︑それらを分析し︑親征軍に組み込まれて土木堡においてモンゴル軍と干戈を交えたモンゴル出 身の衛所官軍について多角的に検討して︑いくばくかの未知の史実を掘り起こし︑土木の変は在華モンゴル人衛所官軍にとっ ていかなるものであったかを究明した︒
キーワード ﹃中国明朝档案総匯﹄ ︑英宗正統帝︑山後人︑新官︑親軍衛
は じ め に
北 方 あ る い は 西 方 の 異 民 族 と 漢 民 族 ︵ 中 国 ︶ が 互 い に 鎬 争 う こ と を ﹁ 胡 漢 陵 轢 ﹂ と い う︒陵 轢 は 侮 り 踏 み に じ る
こ と で あ る︒明 代 中 国 の 北 辺 に お い て は︑ 王 朝 創 立 以 来 歴 朝 を 通 し て︑ ま さ に こ の ﹁ 胡 漢 陵 轢 ﹂ の 時 代 で あ っ た︒
そ の 沸 騰 点 が 正 統 十 四 年 ︵ 一 四 四 九 ︶ に 起 き た 土 木 の 変 と 嘉 靖 二 十 九 年 ︵ 一 五 五 〇 ︶ の 庚 戌 の 変 で あ る︒庚 戌 の 変 は
さ て お き︑ 土木 の 変 を 簡単 に 述 べ る と︑ 正統十四年 ︵一四四九︶ 七月十一日 に オ イ ラ ト 軍 を 中核 と す る モ ン ゴ ル 軍 が
明辺に侵攻してくるや︑その日のうちに親征の議が起こり︑十六日には英宗の親征軍は都を進発した︒行糧は一ヶ
月分︑兵器は八〇万を具備した大軍であった︒英宗は当時関係が悪化の一途を辿るモンゴルに対して大軍をもって
嶊破しようとしたが︑逆に八月月十五日に土木堡において撃破され︑英宗は捕虜となった︒英宗に扈従した多くの
文官・武官︑それに親征軍を組成した厖大な数の衛所官軍は︑このときに戦没したのであった︒明の朝野の人々に
大衝撃を与えた土木の変と呼ばれるこの事件は︑その後の明朝の政治体制・軍事体制等に多大な変更を余儀なくさ
せた︒英宗の捕囚は︑景泰政権の樹立以後︑奪門の変・曹欽の乱と︑相対的不安定と混乱の政治状況を現出する原
因となっ た
︶1︵
︒
土木の変はこの呼称の他には変時の年号に因んで己巳の変︑その前哨戦も含めて正統殉 難
︶2︵
とも呼ばれるが︑犠牲
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
者の規模について︑明代の史籍には︑ ﹁我が軍遂に大潰す﹂ ・﹁官軍人等死傷せる者数十 万
︶3︵
﹂とあり︑また﹁我が師︑
死傷せる者半ばを過 ぐ
︶4︵
﹂︑ ﹁千官︑枕藉して溝壑に塡ま る
︶5︵
﹂とあり︑土木の変が起きた土木堡は︑親征軍壊滅という
表現が似つかわしいほどの壮絶苛烈な戦場と化したのであった︒この壮絶な戦場から︑満身創痍で血塗られて︑足
を引きずりながら︑ともかく生きて京師に戻り得た軍官・軍士もいたことはいたが︑戦没して生還できない者が大
半を占めた︒
戦没者・生還者その双方にモンゴル人の軍官・軍士も多くいた︒それは無論明の親征軍を撃破したモンゴル軍の
関係者ではなく︑英宗の親征軍に従行した在華モンゴル人の軍官・軍士である︒土木の変が起きる二日前︑その前
哨戦ともいうべき鶏兒嶺の戦いが起きた︒親征軍がその一部を割いた派遣部隊は︑モンゴル軍の伏兵に遭遇して壊
滅した︒このとき出陣したモンゴル人の永順伯薛綬は︑自分の弓の弦が絶たれ矢が尽きても︑空弓を振り回してモ
ンゴル軍に立ち向かって攻撃した︒怒ったモンゴル軍が捕虜にして四肢を八つ裂きにして殺したが︑のちに勇猛果
敢に立ち向かった薛綬が実はモンゴル人であることが知れ渡ると﹁此れ吾と同類なり︒故に勇なることかくのごと
きなるか﹂と︑モンゴル軍中が慟哭したという︒この話は﹃英宗実録﹄正統十四年八月庚申の条に掲出されている
が︑薛綬がモンゴル人であることが知れ渡るという部分は︑ ﹁而して綬の本と山後人なるを知る﹂と記されている︒
因 み に︑ 清代初期 に 編纂 さ れ た ﹃明史﹄ の 薛綬伝 ︵巻一五六︶ に は︑ ﹃英宗実録﹄ の 当該箇所 に つ い て︑ ﹁既 に し て 其
の 本 と 蒙古人 な る を 知 る や︑ 曰 く 此 れ 吾 の 同類 な り︒宜 べ る か な︑ 勇健 な る こ と か く の ご く し﹂ と あ り︑ 蒙古人 と 表
記しているが︑ 明代では清代におけるのとは異なり︑ 薛綬の事例のようにモンゴル人を山後人と表記したのであ る
︶6︵
︒
親征軍には︑永順伯薛綬のような高官の武官も扈従したが︑編制上︑圧倒的多数を占めて親征軍の中核をなした
のは︑親軍衛・京衛・在外衛の衛所官軍であった︒子細に史料を検討すると︑その中には出身地を山後人としてい
る事例も少なくない︒かれら在華モンゴル人の衛所官軍にとっても土木の変は無縁のことではなかった︒自分の出
自であるモンゴルの軍勢と︑薛綬のように︑激烈な戦いを展開したのである︒本稿は︑これまで全く研究対象とさ
れたことのない︑土木の変と親征軍中の在華モンゴル人衛所官軍との関係について︑新出史料から事例を探り出す
ことを通して︑土木の変における親征軍中のモンゴル人衛所官軍の実相を検討し︑親征軍の性格の一斑を窺管しよ
うとするものである︒以下はその結果報告である︒
一 モンゴル人衛所官軍の検出とその基準 衛所中のモンゴル人が明代の政治・軍事史に大きな変更を余儀なくさせた未曾有の事件であった土木の変に︑ど
のように関わったかというテーマを設定し︑それを考究するためには︑具体的な個々の事例を検出し︑それらを総
合して︑諸々な角度から検討するという手続きを踏む必要がある︒しかしながら︑当該時期の最も基本的史料であ
る ﹃英宗実録﹄ を は じ め と す る 諸史料 か ら︑ そ の 具体例 を 検出 す る こ と は 難 し い︒な る ほ ど︑ ﹃英宗実録﹄ に は︑ 薛
綬の記述以外にも山後人である人物の記述は絶無ではないが︑それらは︑
○ 景泰四年冬十月丙戌の条︑ ﹁左軍都督同知劉得新卒す︒得新は山後人︒ ﹂︒
○ 天順四年秋七月甲申の条︑ ﹁後軍都督同知王斌に命じて致仕せしむ︒斌は山後人︒ ﹂︒
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
○ 天順六年九月丙午の条︑ ﹁懐柔伯施聚卒す︒聚は本と山後人︑後に順天府通州に居す︒ ﹂︒
と︑ わ ず か に 三事例 を 検出 す る だ け で あ る︒こ れ ら の 事例 は︑ ﹃英宗実録﹄ に 収載 さ れ た 卒伝 に 類 す る 記事 の 一部 で
あり︑かれらはそれぞれに左軍都督同知︑後軍都督同知︑懐柔伯と高官の武臣である︒しかしながら︑ ﹃英宗実録﹄
等既存の史料からは︑土木の変に殉難した親征軍中の圧倒的多数の衛所官軍中に含まれるモンゴル人衛所官軍を検
出することは殆ど困難である︒
ところが︑二〇〇一年に中国第一歴史档案館・遼寧省档案館編︑広西師範大学出版社出版として印行された﹃中
国明朝档案総匯﹄は︑中国第一歴史档案館に保存されている明朝档案をはじめ︑大陸に現存する明朝档案を大量に
影印したもので︑当該問題を検討する上できわめて有用であるのが︑本史料集に所収されている一〇二種におよぶ
衛選簿である︒衛選簿とは︑衛所官の本貫・軍に就いた経緯・来衛経路・襲職時期・年齢・続柄・職の昇降等のデ
ータを記載した登記簿である︒衛選簿に軍功が記されているのは︑陞進等に関連してであって︑その陞進過程にお
いていかなる軍事活動・戦役にかかわって陞進したのかを示す記述が少なくないが︑その一方で戦役等においての
陣亡記事も多々あり︑その戦役を特定することが可能である︒それらの記事を検討することは親征軍の組成の有り
様を探る上で甚だ有用なことといえる︒
かかる衛選簿にみえるモンゴル人衛所官軍の事例を検出するためには︑まずモンゴル人衛所官軍であること︑つ
いでその衛所官軍が英宗の親征軍に組み込まれて土木の変に際会したことを史料的に確認することがその前提要件
となる︒そこで︑果たして衛選簿がこの二つの要件を満たすことが可能な記述をしているかどうか︑実際に衛選簿
の 記 述 を 示 し て︑ そ れ を 押 さ え て お こ う︒そ の 一 事 例 を 示 す と︑ ﹃ 中 国 明 朝 档 案 総 匯 ﹄ 第 四 九 冊 に 収 録 さ れ て い る
﹃府軍前衛選簿﹄によると︑その三〇頁︑張清の条に︑
A 張 誠︑ 山 後 人︑ 父 に 張 友 有 り︑ 洪 武 五 年︑ 軍 に 充 て ら る︒三 十 二 年︑ 真 定 に て 小 旗 に 陞 せ ら る︒鄭 村 に て
勇士百戸 に 陞 せ ら る︒三十三年︑ 済南 に て 副千戸 に 陞 せ ら る︒三十四年︑ 小河 に て 失陥 す︒誠︑ 嫡長男 に 係 る︒
永楽元年︑金吾左衛前所副千戸を 襲
つぐ︒張旺︑嫡長男に係る︒父疾す︒府軍前衛前所副千戸を替る︒
とあり︑さらに四輩張英の項には︑
B正統十四年 ︵一四四九︶ 十月︑張英︑府軍前衛左所 征進未回
0000副千戸 張旺
00の嫡長男に係る︒
と あ る︒こ の A B 双 方 の 記 述 か ら︑ 張 家 の 土 木 の 変 と の 関 わ り を い ろ い ろ と 知 る こ と が で き る︒ま ず︑ B か ら は︑
① 張 旺 は 正 統 十 四 年 ︵ 一 四 四 九 ︶ の 親 征 軍 に 組 み 込 ま れ て 出 征 し た も の の︑ 生 き て 土 木 堡 か ら 帰 還 で き な か っ た こ
と︑②その副千戸の衛所官職は嫡長男の張英によって世襲されたことが知られる︒ついで︑Aから︑③親征軍に従
行 し た 張 旺 は︑ 山 後 人 で あ り︑ ④ そ の 先 祖 張 友 が 衛 所 軍 に 収 籍 さ れ た の は 洪 武 五 年 ︵ 一 三 七 二 ︶ ︑ そ の 後︑ 靖 難 の 役
に 際 会 す る と︑ 燕 王 軍 の 一 員 と し て そ の 戦 役 に 加 わ り︑ 真 定︑ 鄭 村 ︑ 済 南︑ 小 河 の 各 会 戦 に 関 わ り︑ そ の 間 に 衛
所の中で最下級の軍士から官品を有する副千戸まで累陞したことも知ることができる︒それは張友が靖難の役に勝
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
利して新政権を樹立した燕王 ︵即位して永楽帝︶ の軍に所属していた何よりの証である︒燕王に従って靖難の役を戦
った衛所官を新官というが︑モンゴル人で衛所官になった張友とその子孫は新官としてその後優遇をうけることに
なったのである︒
上記ABの記述を併せると︑英宗の親征軍に組み込まれ土木の変に際会した人の名前︑その出身︑変時の所属衛
所と職官︑陣亡したか回還したか︑その人の後継者の名前︑続柄︑その襲替時期︑それに加えて︑その人の先祖は
靖難の役に燕王側に加わって永楽政権の成立後新官として処遇されてきたか︑それとも建文軍に付して︑あるいは
その双方に無関係で旧官として扱われてきた か
︶7︵
︑等々の事項が判明する︒そこで︑これらのデータを網羅的に集積
し︑土木の変における在華モンゴル人衛所官の実態を探り出すべく作成したのが︑付表①﹁土木の変と在華モンゴ
ル人衛所官軍関係表﹂である︒
二 モンゴル人衛所官軍の土木の変
Ⅰ 出身地と変事の所属衛所・職官 付表①﹁土木の変と在華モンゴル人衛所官軍関係表﹂に掲出した事例の総計は︑九六事例︑これらは﹃中国明朝
档案総匯﹄に収録された現存の衛選簿から検出した在華モンゴル人衛所官軍の中で︑親征軍の一員として土木の変
に 遭遇 し た 人々 の 記録 で あ る︒ ﹃中国明朝档案総匯﹄ に は 一〇二種 の 衛選簿 が 収録 さ れ て い る と は い え︑ 親征軍 を 編
制 す る に あ た っ て 調 撥 さ れ て 京 師 に 赴 き︑ 出 陣 し︑ 土 木 堡 で 殉 難 し た 在 外 衛 所 と そ の 衛 所 官 軍 に 限 定 し て い え ば︑
付表①﹁土木の変と在華モンゴル人衛所官軍関係表﹂ № 氏名 出身 変時の衛名・職名 変事の状況 後継 続柄 襲替時期 職名 新官の有無 典拠
1張旺 山後人 府軍前衛副千戸 正統十四年征進未回 張英 嫡長男 正統十四年十月 副千戸 新官 四九
―三〇
2
劉貴 〃 〃 百戸 正統十四年迤北征進未回 劉旺 堂姪 天順三年二月 百戸 〃 六四
3
劉楫 〃 〃 正統十四年征進未回 劉昇 親弟 正統十四年九月 〃 〃 一五九
4
伯原 迤北人 錦衣衛鎮撫司副千戸 〃 伯瀅 〃 正統十四年十月 副千戸 ? 三七七
5
安忙可 〃 〃 指揮使 正統十四年迤北失陥 安孛羅 嫡長男 景泰三年四月 指揮使 旧官 四四六
6
馬兒 山後人 済州衛指揮使 正統十四年征進未回 福得 〃 正統十四年九月 〃 新官 五〇
―一四
7
広金 〃 永清左衛指揮同知 〃 黒兒 親弟 正統十四年十月 指揮同知 〃 一六
8
馬昇 〃 金吾右衛指揮僉事 〃 馬雲 嫡長男 正統十四年九月 指揮僉事 〃 二九
9
呂十顔帖木兒 〃 〃 〃 呂銘 〃 正統十四年 〃 〃 四一
10謝英 金山人 徳州衛正千戸 正統十四年迤北未回 謝福 親堂弟 〃 正千戸 〃 四七
11劉通 山後人 金吾右衛指揮僉事 正統北征未回 劉瑄 嫡次男 天順八年 指揮僉事 〃 四八
12郭狗兒 〃 薊州衛正千戸 正統十四年征進未回 郭金 嫡長男 正統十四年十月 正千戸 〃 六七
13黄毛 〃 燕山前衛正千戸 〃 余斌 親弟 〃 〃 〃 七四
14楽貴 〃 ? 正千戸 正統十四年北征未回 楽興 嫡長男 正統十年 〃 〃 八七
15劉清 〃 興武衛副千戸 正統十四年征傷故 劉雄 庶長兄 正統十四年九月 副千戸 ? 一一九
16王定住 〃 金吾右衛副千戸 征傷 王勝 嫡長男 景泰元年四月 〃 ? 一二一
17王喜 〃 〃 指揮使 正統十四年迤北陣亡 王輔 長男 天順八年 指揮使 新官 一六一
18懐斌 〃 〃 指揮僉事 正統十四年征進未回 懐仁 嫡長男 正統十四年十月 指揮僉事 〃 一六六
19普賢保 〃 永清左衛指揮僉事 〃 福玉 親弟 〃 〃 〃 一八五
20蔡勝 〃 金吾右衛正千戸 正統十四年征進回還老疾 蔡清 嫡長男 〃 正千戸 〃 二〇六
21楊哈哈孫 〃 開平中屯衛正千戸 正統十四年征進未回 楊昇 親弟 〃 〃 ? 二二五
22李興 〃 鰲山衛指揮僉事 〃 李通 嫡長男 景泰三年四月 指揮僉事 新官 二九二
23咬住 〃 金吾右衛指揮使 正統十四年迤北征進故絶 古南台 親弟 ? ? 〃 三〇一
24魏興 〃 〃 副千戸 正統十四年征進未回 魏忠 嫡長男 正統十四年十月 副千戸 〃 三一七
25狗子 〃 諸城守禦所副千戸 〃 孫兒 親叔 正統十四年 〃 ? 三三九
26李斌 〃 金吾右衛百戸 正統十四年迤北未回 李爛 親弟 正統十四年九月 百戸 新官 三四五
27完者禿 〃 〃 正統十四年征進回還 亦馬赤 嫡長男 正統十四年十月 〃 〃 三五三
28常友 〃 徳州衛正千戸 正統十四年迤北征進未回 常剛 親弟 正統十四年 正千戸 〃 三六〇
29奴才 〃 金吾右衛正千戸 正統十四年迤北失陥 定兒 嫡長男 天順八年三月 〃 〃 三六二
30師勝 〃 〃 都指揮僉事 正統十四年征進未回 師栄 親弟 正統十四年十月 指揮使 〃 四一八
31張斌 〃 登州衛正千戸 〃 張欽 嫡長男 〃 ? ? 四二〇
32蘭古納台 〃 常山左護衛指揮同知 〃 蘭五十八 ? 〃 ? ? 五六二
33高良 〃 金吾右衛指揮僉事 〃 高玉 嫡長男 〃 指揮僉事 ? 五六五
34李貴 〃 泗州衛指揮僉事 迤北征進未回 李瓉 ? ? 〃 新官 五八八
35千家奴 〃 興州左屯衛正千戸 正統十四年征進回還老疾 尹能 嫡長男 正統十四年十月 正千戸 〃 五一
―一八
36張瑛 〃 羽林前衛正千戸 正統十四年征進未回 張林 親叔 正統十四年 〃 〃 一九
37銷海 山後人︑哈剌哈人 〃 正統十四年迤北征進未回 姚受 親姪 正統十四年九月 〃 〃 二三
38嗟住兒 山後人 燕山左衛百戸 正統十四年征進未回 咬住兒 庶弟 正統十四年十月 百戸 〃 六三
39陳貴 〃 〃 正千戸 征傷 陳玉 嫡長男 景泰元年閏正月 正千戸 〃 二〇八
40山名 〃 大同前衛副千戸 正統十四年征進未回 山祥 堂弟 正統十四年十二月 副千戸 〃 二三九
41寧興 〃 雲川衛百戸 〃 寧貴 嫡長男 正統十四年 百戸 〃 二六九
42王真 〃 燕山左衛百戸 征傷 王貴 庶長男 景泰元年六月 〃 〃 二七六
43王通 〃 〃 正統十四年征進未回 王友 親弟 正統十四年十月 〃 ? 二八一
44痩厮 〃 燕山前衛正千戸 〃 福友 堂兄 〃 ? 新官 五二
―一六
45強朶羅 〃 〃 指揮使 〃 強順 親弟 〃 指揮使 〃 四九
46劉興 〃 〃 百戸 〃 劉剛 〃 〃 百戸 〃 二一四
47李能 〃 登州衛副千戸 〃 李聡 〃 〃 副千戸 〃 三五二
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
48
李剛 〃 青州左衛副千戸 〃 李紀 〃 正統十四年九月 〃 旧官 三五四
49黄興 〃 登州衛副千戸 正統十四年征北未回 黄旺 弟 正統十四年十一月 〃 新官 三六九
50傅貴 〃 威海衛副千戸 正統十四年征進未回 傅全 庶兄 正統十四年九月 〃 ? 三八八
51李勝 〃 通州衛百戸 正統十四年征進失陥 李真 堂弟 〃 百戸 新官 三九九
52梁成 〃 〃 征進未回 梁福 嫡長男 景泰元年正月 〃 旧官 四二五
53董聚 〃 〃 正千戸 正統十四年征進未回 董清 親弟 正統十四年十月 正千戸 新官 四四一
54薛勝 〃 霊山衛正千戸 〃 薛英 堂叔 正統十四年九月 〃 〃 〃
55王栄 〃 膠州守禦所正千戸 征進未回 王俊 親弟 景泰元年正月 〃 ? 四五二
56馬得 〃 徳州衛副千戸 正統十四年征進土木失陥 馬林 庶兄 正統十四年十月 副千戸 新官 四八一
57潘能 〃 平山衛副千戸 正統十四年征進 潘信 嫡長男 正統十四年十二月 〃 ? 五〇三
58田聚 通州人︑山後人 済南衛百戸 正統十四年進未回 田勝 〃 正統十四年九月 百戸 新官 五〇八
59梁広 瑞州人︑山後人 復州衛指揮僉事 〃 梁端 〃 〃 指揮僉事 〃 五四
―一八
60韓七十 山後人 武成後衛正千戸 正統十四年傷故 韓貴 〃 正統十四年十月 正千戸 ? 六三
61余真 保安州︑山後人 留守左衛百戸 正統十四年征傷 余敏 〃 〃 百戸 ? 一四三
62劉福 山後人 瀋陽左衛副千戸 正統十四年征進未回 劉海 堂弟 〃 副千戸 〃 二二五
63田広 〃 義勇後衛百戸 正統十四年迤北未回 田勝 弟 ? 百戸 新官 三〇一
64白雲 大寧人︑山後人 燕山左衛指揮使 正統十四年征進未回 白受 嫡長男 〃 指揮使 〃 三一八
65顔撫州奴 山後人 薊州衛指揮同知 〃 保住 〃 〃 指揮同知 〃 五八
―八
66宋文 〃 金山衛副千戸 〃 宋端 〃 正統十四年九月 副千戸 ? 六一
―一九四
67韓通 〃 高郵衛百戸 〃 韓順 親弟 正統十四年十月 百戸 新官 三七〇
68白玉 〃 海寧衛指揮使 正統十四年鶏兒嶺陣亡 白玘 〃 正統十四年七月 ︵?︶ 指揮使 〃 四四三
69張英 〃 泗州衛指揮同知 正統十四年征進未回 張福 嫡長男 正統十四年五月 ︵?︶ 指揮同知 〃 六四
―四五〇
70狗兒 山後人︑金山人 武成後衛副千戸 征進失陥 福春 〃 景泰元年閏正月 副千戸 〃 六五
―一一八
71楊亮 山後人 大寧中衛指揮僉事 正統十四年征進未回 楊春 親弟 正統十四年十月 指揮僉事 ? 二九三
72劉順 〃 〃 正千戸 〃 劉広 〃 〃 正千戸 〃 三一五
73郝驢驢 〃 〃 正統十四年迤北陣亡 郝旺 嫡長男 〃 〃 新官 三九六
74柒保奴 〃 〃 正統十四年征進未回 信 〃 〃 〃
〃 四四四
75楽太平 〃 〃 副千戸 正統十四年征傷 楽北平 〃 〃 副千戸 ? 四七〇
76住兒 〃 富峪衛指揮使 正統十四年征進陣亡 王原 親弟 〃 指揮使 新官 六六
―一三
77張貴 〃 忠義前衛正千戸 正統十四年征進未回 張勇 嫡長男 〃 正千戸 〃 二六九
78王聚 山後︑撫寧人 広寧左屯衛副千戸 正統十四年土木陣亡 王敬 〃 正統十四年 副千戸 〃 三五七
79王福 山後人 東勝左衛副千戸 征傷 王璟 〃 景泰元年四月 〃 〃 三九四
80単興 〃 〃 百戸 正統十四年征傷故 単清 〃 正統十四年十月 百戸 〃 三九七
81梁玉 〃 玉林衛百戸 正統十四年征進未回 梁鐸 〃 〃 〃 〃 四一九
82田広 〃 東勝左衛百戸 〃 田勝 親弟 〃 〃 〃 四二七
83王剛 〃 義勇後衛総旗 正統十四年迤北征進未回 王興 ? ? 総旗 〃 四三七
84王信 〃 蓋州衛指揮僉事 正統十四年北征未回 王敬 嫡長男 正統十四年十月 指揮僉事 〃 六七
―一三
景泰元年虜中走回
85咬住 〃 興州左屯衛指揮同知 正統十四年征進被虜︑ 楊通 嫡長孫 弘治八年 指揮同知 〃 一一三
86李忠 〃 通州衛正千戸 征傷 李斌 親弟 景泰元年閏正月 正千戸 旧官 一三九
87徐文 〃 永平衛百戸 正統十四年征進未回 徐斌 〃 正統十四年十月 百戸 ? 二九六
88王官保 〃 〃 副千戸 〃 王忠 嫡長男 〃 副千戸 〃 三〇九
89西友 〃 徳州衛正千戸 正統十四年征傷 西泰 〃 〃 正千戸 〃 六八
―二一五
90姚全 〃 〃 副千戸 正統十四年征進未回 姚善 親弟 〃 副千戸 〃 二四〇
91何広 〃 燕山前衛指揮同知 〃 何祥 嫡長男 〃 指揮同知 新官 三五一
92宝聚 〃 営州中屯衛副千戸 〃 宝貴 親弟 正統十四年十二月 副千戸 ? 六九
―一四九
93袁福 〃 鎮西衛副千戸 〃 袁友 〃 正統十四年十月 〃 〃 七一
―三四六
94寧興 〃 雲川衛百戸 〃 寧海 嫡長男 〃 百戸 新官 七二
―三三
95即義 〃 〃 副千戸 〃 即峪 〃 〃 副千戸 ? 一一八
96陳亮 〃 通州衛副千戸 正統十四年征進失回 陳義 嫡次男 正統十四年九月 〃 〃 五二
―四八一
その多くが北直隷・山西・南直隷・山東・浙江・遼東所在の者であった︒逆に陝西都司・陝西行都司・湖広都司・
福建都司所在の衛所・衛所官軍の事例はきわめて少ないことが確認され る
︶8︵
︒それに対応して︑第四九冊から第七四
冊に収録された衛選簿二六冊の中で︑土木の変における在華モンゴル人衛所官軍の痕跡を留めているのは︑四九・
五〇・五一・五二・五四・五八・六一・六四・六五・六六・六七・六八・六九・七一・七二の一五冊︑ほぼ三割に
過 ぎ な い︒ ﹃中国明朝档案総匯﹄ に 残存 す る 一〇二種 の 衛選簿 が 英宗 の 親征軍 に 編制 さ れ た 衛所 と そ の 官軍 を す べ て
掩蓋するものではないことは贅語するまでもないことであるが︑それでも付表①﹁土木の変と在華モンゴル人衛所
官軍関係表﹂を通観すると︑そこにはその様態に関して一定程度の傾向は読み取れるであろう︒
①出身地 衛選簿における在華モンゴル人の出身地の表し方は︑その多くは﹁山後人﹂である︒その他︑山後人
とともに金山人︑哈剌哈人︑通州人︑瑞州人︑保安州人︑大寧人︑憮寧人︑迤北人等の地名が併記されているケー
スもある︒瑞州︑保安州︑大寧︑憮寧は中国の地名であるので︑そのモンゴル人が明朝に服するようになって名乗
った出身地であろう︒それに対して金山人の金山とはアルタイ山がすぐに連想される︒そのゆえ︑山後人の山後と
はアルタイ山の後背を指称すると思いがちになるが︑明代における山後の意味するところは多義で必ずしもアルタ
イ山に限定できないようであ る
︶9︵
︒山後人と抱き合わせで表記されている哈剌哈人の哈剌哈とは︑ハルハ河に由来す
る 地名 で あ り︑ 明代以後 に 現 れ た モ ン ゴ ル の 部 の 名称 で あ る こ と は よ く 知 ら れ て い る
︶10︵
︒迤北 は 特定 の 地名 で は な く︑
北方全体を指す用語であり︑以上の山後人︑金山人︑迤北人等の用語を目安として︑衛所官軍で親征軍に従行し土
木の変に際会した在華モンゴル人を検出した︒
②変時の所属衛所 こうして検出したモンゴル人が所属したのは︑明朝軍事体制の骨幹をなす衛所である︒明朝
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
の開祖洪武帝によって創設された︑国軍の中核をなす衛所制度のもとで︑親軍衛・京衛・在外衛の三種類の衛所が
全国に設置された︒このうち︑親軍衛と京衛は京師に置かれ︑地方には在外衛が置かれた︒親軍衛は︑皇帝に侍衛
するので︑侍衛上直軍ともいうが︑専ら侍衛・宮城守衛・皇陵護衛・皇城巡察の任に当たった︒京衛は︑五軍都督
府 ︵ 五 府 ︶ に 隷 属 し︑ 永 楽 朝 以 後 は 班 軍 番 上 す る 外 衛 と と も に 常 設 的 営︑ す な わ ち 京 営 を 組 織 す る に い た っ た︒在
外衛は︑軍事を掌る機関として地方に置かれた都指揮使司 ︵都司︶ に統べられた︒
モンゴル人衛所官軍が土木の変に際会したのは︑無論こうした親軍衛・京衛・在外衛のいずれかに所属していて
の親征軍への組成の結果であった︒付表①﹁土木の変と在華モンゴル人衛所官軍関係表﹂にみえる各人の所属衛所
を上記の親軍衛・京衛・在外衛別に整理すると︑付表②﹁在華モンゴル人所属衛所表﹂のごとくである︒
親軍衛 前述のごとく︑皇帝に侍衛するので︑侍衛上直軍ともいい︑洪武・建文二朝においては︑金吾前衛・金
吾後衛・羽林左衛・羽林右衛・府軍衛・府軍左衛・府軍右衛・府軍前衛・府軍後衛・虎賁左衛・錦衣衛・旗手衛の
一二衛 か ら な り︑ ﹁上二十二衛﹂ と 称 さ れ て い た︒と こ ろ が︑ 永楽政権 が 発足 す る と︑ あ ら た に ﹁十衛﹂ が 増設 さ れ
た︒足かけ四年の長きに亘って展開された靖難の役に勝利して即位した太宗永楽帝は︑燕王軍の中核となった北平
都司下所属の衛所をあらかた親軍衛や京衛に改編陞格させ︑新皇帝の軍事的基盤を組成・強化した︒かくして︑永
楽中に増設された親軍衛は﹁十衛﹂となった︒それらの衛所名を挙げると︑金吾左衛・金吾右衛・羽林前衛の三衛
に︑燕山左衛・燕山右衛・燕山前衛・大興左衛・済陽衛・済州衛・通州衛の七衛である︒以上が既設と新設とを併
せ て の ﹁ 二 十 二 衛 ﹂ で あ り︑ 親 軍 衛 は ﹁ 上 二 十 二 衛 ﹂ と 呼 称 さ れ る よ う に な っ た が︑ そ の 後 も 親 軍 衛 は 増 設 さ れ︑
宣 徳 年 間 に 新 た に 武 驤 左 衛 ・ 武 驤 右 衛 ・ 騰 驤 左 衛 ・ 騰 驤 右 衛 の ﹁ 四 衛 ﹂ が 加 わ り︑ ﹁ 二 十 六 衛 ﹂ と な っ た
︶11︵
︒付 表 ①
親軍衛 府軍前衛
01
・
02・
03錦衣衛
04
・
05済州衛
06
金吾右衛
08
・
09・
11・
16・
17・
18・
20・
23・
24・
26・
27・
29・
30・
33羽林前衛
36
・
37燕山左衛
38
・
39・
42・
43・
64燕山前衛
13
・
44・
45・
46・
91通州衛
51
・
52・
53・
86京衛 武成後衛
60
・
70永清左衛
07
・
19興武衛
15
留守左衛
61
瀋陽左衛
62
義勇後衛
63
・
83大寧中衛
71
・
72・
73・
74・
75富峪衛
76
忠義前衛
77
在外衛所 徳州衛
10
・
28・
56・
89・
90薊州衛
12
・
65開平中屯衛
21
鰲山衛
22
付表②﹁在華モンゴル人所属衛所表﹂
登州衛
31
・
47・
49泗州衛
34
・
69興州左屯衛
35
・
82大同前衛
40
雲川衛
41
・
94・
95青州左衛
48
威海衛
50
霊山衛
54
平山衛
57
済南衛
58
復州衛
59
金山衛
66
高郵衛
67
海寧衛
68
広寧左屯衛
78
東勝左衛
79
・
80玉林衛
81
蓋州衛
84
永平衛
87
・
88営州中屯衛
92
鎮西衛
93
諸城守禦所
25
膠州守禦所
55
王府護衛 常山左護衛
32
所属不明
14
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
﹁土木 の 変 と 在華 モ ン ゴ ル 人衛所官軍関係表﹂ に み え る 親軍衛 は 八衛 で︑ そ れ は 親軍衛全体 の 三一% に す ぎ な い︒し
かしながら︑親軍衛に所属した事例総数三六を通観すると︑永楽帝が増設した﹁十衛﹂のうちの︑金吾右衛・羽林
前衛・燕山左衛・燕山前衛・済州衛・通州衛の六衛で三一件︑八六%の高率を占めている︒このように︑親征軍を
組成した親軍衛には︑多くのモンゴル人衛所官軍が含まれていた︒これはモンゴル人が衛所官軍となった由来と密
接な関わりがあるので︑後章で再度言及することにしよう︒
京衛 基本的には五軍都督府に隷属したが︑例外もあった︒例外とは︑ ﹁親軍に非ずして︑都督府に隷せざる者﹂ ︵﹃明史﹄ 巻七六︑ 職官志五︶ と さ れ る 京衛 で︑ 通計 す る と︑ 五軍都督府 に 隷属 す る 者 は ﹁三十三衛﹂ ︑ そ の 五軍都督府
に 隷 属 し な い 者 が ﹁ 十 五 衛 ﹂︑ 京 衛 は 併 せ て ﹁ 四 十 八 衛 ﹂ か ら 構 成 さ れ て い た︒付 表 ② ﹁ 在 華 モ ン ゴ ル 人 所 属 衛 所
表﹂にみえる京衛は︑その﹁四十八衛﹂中九衛︑わずか一八%にすぎない︒それは無論︑親軍衛に比べて京衛の方
は︑それに倍するほど多いという分母の違いもあるが︑それを勘案しても事例件数自体︑わずかに一六件でしかな
いので︑衛数の多さに比しての事例総数の少なさは︑親軍衛と比べると甚だ顕著であるといえよう︒
在外衛所 左右中前後の五府と略称される五軍都督府の管轄下に置かれたのが在外衛所である︒五府に直隷する
衛 所 も あ る が︑ 圧 倒 的 多 数 の 衛 所 は 都 指 揮 使 司 ︵ 都 司 ︶ に 統 轄 さ れ︑ そ の 都 司 は 左 右 中 前 後 の い ず れ か の 都 督 府 に
統轄 さ れ た︒そ こ で︑ 正統十四年 ︵一四四九︶ に お け る 英宗 の 親征軍 に 調撥編入 さ れ た モ ン ゴ ル 人 が 所属 し た 在外衛
所を探るに当たり︑都督府ごとにみていく︒
○左軍都督府 左府には直隷する衛所はなく︑衛所はすべて都司に所属する︒左府の場合は︑浙江・遼東・山東の
各都司である︒親征軍に調撥されたモンゴル人の所属衛所を各都司ごとみていくと︑つぎの通りである︒
浙江都司 海寧衞
68
遼東都司 蓋州衛
84
︑広寧左屯衛
78
︑復州衛
59
山東都司 威海衛
50
︑鰲山衛
22
︑青州左衛
48
︑済南衛
58
︑登州衛
31
・
47・
49︑平山衛
57
︑霊山衛
54
︑膠州守
禦所
55
︑諸城守禦所
25
○右軍都督府 右府ではここに直隷する衛所は宣州衛一衛だけである︒これ以外は︑いずれも京師から遙けし地域
に所在する陝西都司・陝西行都司・四川都司・四川行都司・広西都司・雲南都司・貴州都司に所属したが︑これら
の都司に所属する衛所は燕軍中には一例もみられない︒
○中軍都督府 中府所属の衛所は︑本府に直隷する衛所と中都留守司所属と河南都司所属との三種に分かれる︒親
征軍中のモンゴル人の所属した衛所は︑以下のように中府直隷の三衛だけであった︒
中府直隷 金山衛
66
︑高郵衛
67
︑泗州衛
34
・
69○前軍都督府 前府においては九江衛一衛のみが直隷し︑ほかはすべて湖広都司・湖広行都司・福建都司・福建行
都司・江西都司・広東都司に所属した︒付表①﹁土木の変と在華モンゴル人衛所官軍関係表﹂からは土木の変当時
モンゴル人が所属した衛所の事例については︑一件もみられない︒
○後軍都督府 後府は直隷する衛所と各都司所属の衛所を統轄する︒後府に直隷した衛所とそれらの各都司に所属
した衛所名の事例件数と列挙すると︑つぎの通りである︒
後府直隷 永平衛
87
・
88︑ 開平中屯衛
21
︑ 薊州衛
12
・
65︑ 興州左屯衛
35
・
82︑ 東勝左衛
79
・
80︑ 徳州衛
10
・
28・
56・
89・
90土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
大寧都司 営州中屯衛
92
山西都司 鎮西衛
93
山西行都司 雲川衛
41
・
94・
95︑玉林衛
81
︑大同前衛
70
以上の五軍都督府の事例を都督府ごとに整理すると︑左軍都督府は一一衛︑二所︑事例一五件︑右軍都督府は衛
所数・事例数ともにゼロ︒中軍都督府は三衛で四件︑前軍都督府も右軍都督府と同じく皆無である︒それに比べて
後軍都督府の事例が顕著で︑一一衛で二〇件を数える︒事例の総数は三九件︑左軍都督府の事例は三八%︑中軍都
督府は一〇%︑後軍都督府は五一%を占めることになる︒さらに︑左軍と後軍の両都督府を併せると九〇%近くを
占 め る こ と に な る︒無論︑ こ こ に 算出 し た 数字 は︑ あ く ま で も 付表① ﹁土木 の 変 と 在華 モ ン ゴ ル 人衛所官軍関係表﹂
か ら 読 み 取 れ る 傾向 で あ っ て︑ 正統十四年 ︵一四四九︶ 八月 の 土木 の 変当時 の モ ン ゴ ル 人衛所官軍 の 全体 を 掩蓋 す る
も の で は な い が︑ 一定 の 傾向 は 窺 う こ と が で き る で あ ろ う︒ す な わ ち︑ 正統十四年 ︵一四四九︶ の 親征軍 に 関 わ っ た 在
華 モ ン ゴ ル 人 は︑ そ の 多 く が 浙江 ・ 遼東 ・ 山東 の 各都司 と 後軍都督府直隷 の 衛所 と 大寧都司 ・ 万全都司 ・ 山西都司 ・
山西行都司と京師に近い地域に設置された衛所に所属していたと︒別稿において親征軍を編制するにあたって調撥
さ れ て 京 師 に 赴 い て 出 陣 し ︑ 土 木 で 殉 難 し た 在 外 衛 所 と そ の 衛 所 官 の 多 く は 北 直 隷 ・ 山 西 ・ 南 直 隷 ・ 山 東 ・ 浙 江 ・ 遼
東所在の者であったと結論づけ た
︶12︵
が︑親征軍中の在華モンゴル人の事例は︑その結論と対応しているといえよう︒
王 府 護 衛 事 例
32
の 常 山 左 護 衛 で あ る︒こ れ は も と も と 永 楽 帝 の 第 三 子 で 彰 徳 ︵ 河 南 ︶ に 封 ぜ ら れ た 趙 王 高 燧 の
王 府 護 衛 で︑ 常 山 中 護 衛 ・ 常 山 護 衛 と 併 せ て 三 護 衛 が 揃 っ て い た が︑ 永 楽 二 十 二 年 ︵ 一 四 二 四 ︶ 十 一 月 に 常 山 左 護
衛・右護衛の二衛を返上したため︑常山中護衛一護衛のみとなった︒ところが︑兄漢王高煦の反乱が鎮圧された後
の 宣徳元年 ︵一四二六︶ 九月 に︑ 趙王高燧 も そ れ に 通同 し て い る と い う 告発 が な さ れ た た め︑ そ の 告発 を 打 ち 消 す こ
とを意図して護衛返上を申し出︑趙王府の軍事力をゼロにしたのである︒趙王府の常山三護衛は︑このように二段
階を経て返上され︑その衛所官軍は︑永平・山海・盧龍・撫寧等の衛に分散配置され た
︶13︵
︒したがって︑常山左護衛
の 衛名 は︑ 正統十四年 ︵一四四九︶ 当時 は 存在 し な か っ た の で あ る︒そ れ に も か か わ ら ず︑ 常山左護衛 の 事例 が み え
る理由については︑今のところは不明といわざるをえない︒
③変時 の 職官 さ て︑ 明代軍事制度 の 中核 を な す 衛所 は︑ 通常︑ 指揮使 の も と に 五 つ の 千戸所 ︵五六〇〇人︶ よ り
成 り 立っ て い て︑ 千戸所 は 一〇 の 百戸所 ︵一一二〇人︶ よ り 成 る が︑ こ れ ら を 併称 し て 衛所 と 呼称 し た︒こ れ ら の 衛
所 は︑ そ の 機能 や 設置地域 と の 関 わ り で︑ 多様 な 性格 を 有 す る が︑ と く に 定額 と さ れ る 軍額 ︵五六〇〇人︶ に つ い て
は︑これより多いところや少ないところも少なからずあり︑多様な存在形態を示している︒ただ︑衛経歴等の事務
系統 を 除 く 衛所内部 の 武官系統 の 職階 は︑ ど の 種 の 衛所 に お い て も ほ ぼ 共通 し て お り︑ 指揮使 ︵正三品︶ 以下︑ 指揮
同知 ︵従三品︶ ― 指揮僉事 ︵正四品︶ ― 正千戸 ︵正五品︶ ― 副千戸 ︵従五品︶ ― 衛鎮撫 ︵従五品︶
―百戸 ︵正六品︶ ― 所鎮撫 ︵従六品︶ 等 と な っ て い た︒こ れ ら の 衛所官 は ﹁世官九等﹂ と い い︑ 死没 す れ ば 襲職︑ 年老 や 病気等 に な
れば替職した︒衛所にはこのほか旗軍がいて︑旗は総旗と小旗を指し︑軍は軍士を指した︒したがって︑官軍と併
称した場合の官とは︑上記の﹁世官九等﹂の衛所官を指し︑総旗や小旗︑ならびに衛所軍と呼ばれる軍士とでは大
いなる懸隔があった︒衛所の武官組織は︑このように︑官・旗・軍の三層による人的構成からなっていた︒付表①
﹁土木の変と在華モンゴル人衛所官軍関係表﹂を整理すると︑土木の変当時のモンゴル人衛所軍の職官は︑
都指揮僉事
30
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
指揮使
05
・
06・
17・
23・
45・
64・
68・
76指揮同知
07
・
32・
65・
69・
85・
91指揮僉事
08
・
09・
11・
18・
19・
22・
33・
34・
59・
71・
84正千戸
10
・
12・
13・
14・
20・
21・
28・
29・
31・
35・
36・
37・
39・
44・
53・
54・
55・
60・
72・
73・
74・
77・
86・
89副千戸
01
・
04・
15・
16・
24・
25・
40・
47・
48・
49・
50・
56・
57・
62・
66・
70・
75・
78・
79・
88・
90・
92・
93・
95・
96百戸
02
・
03・
26・
27・
38・
41・
42・
43・
46・
51・
52・
58・
61・
63・
67・
80・
81・
82・
87・
94総旗
83
となり︑都指揮僉事一︑指揮使八︑指揮同知六︑指揮僉事一一︑正千戸二四︑副千戸二五︑百戸二〇︑総旗一とな
る︒官でも軍でもない中間的な地位にいた総旗もみられるが︑衛所軍は現時点では検出できない︒それはかかる事
例がなかったからではなく︑史料の残存性に起因するものと思量される︒都指揮僉事や指揮使という衛所内では首
脳にあたる職官のモンゴル人もいるが︑圧倒的多数を占めているのは︑正千戸・副千戸・百戸で︑全体の七一%を
占めている︒武官の場合は︑正一品から従九品からなる文官と異なり︑正一品から従六品までの一二のグレードの
みであったが︑土木の変に際会したモンゴル人衛所官の職官は官品制度にあっては︑下位の五品・六品に多数固ま
っていたという傾向がみられる︒しかし︑その上位に位置する三品・四品官の都指揮僉事 ︵正三品︶ ・都指揮僉事・
指揮使・指揮同知・指揮僉事の事例も二六あり︑三割に近い二七%を占めている︒付表①﹁土木の変と在華モンゴ
ル人衛所官軍関係表﹂にみえる限定された傾向とはいえ︑上記の数字は︑元朝の崩壊と明朝の創業からおよそ八〇
年 が 閲 し た 正統十四年 ︵一四四九︶ 当時︑ 都指揮僉事 ・ 都指揮僉事 ・ 指揮使 ・ 指揮同知 ・ 指揮僉事 の 衛所首脳 に 累進
していた在華モンゴル人が多くいたことを物語っている︒
Ⅱ 変時の様相と変後の襲替 冒頭 に 引用 し た ﹁我 が 軍遂 に 大潰 す﹂ ︑﹁官軍人等死傷 せ る 者数十万﹂ ︑﹁我 が 師︑ 死傷 せ る 者半 ば を 過 ぐ﹂ ︑﹁千官︑
枕藉して溝壑に塡まる﹂等︑土木の変のときの惨状を伝える明代史籍の記述は︑付表①﹁土木の変と在華モンゴル
人衛所官軍関係表﹂ か ら み て も︑ そ れ ら が 決 し て 過大 な 表現 で は な い こ と が 知 ら れ る︒正統十四年 ︵一四四九︶ 八月
十 五 日 に お い て 戦 場 と な っ た 土 木 堡 に お い て︑ エ セ ン ︵ 也 先 ︶ 麾 下 の モ ン ゴ ル 軍 に 包 囲 さ れ た 輜 重 兵 等 も 含 め て 五
十万と号する親征軍各自には︑いかなる命運が待ち受けていたか︒それは﹁征進未回﹂ ・﹁迤北征進未回﹂ ・﹁迤北失
陥﹂等︑表現に微妙な差異はあるものの︑大半の者は生きて二度と京師の土を踏むことなく︑屍を原野に︑路傍に
曝 す こ と と な っ た︒そ れ は 親征軍中 の モ ン ゴ ル 人衛所官軍 に と っ て も 同様 で あ っ た︒無論親征軍 は ﹁大潰﹂ し た が︑
全滅した訳ではない︒そうした苛烈な戦場から陣亡 ︵戦没︶ を免れて京師に辿り着き︑原衛に戻った者もいた︒
付表① ﹁土木 の 変 と 在華 モ ン ゴ ル 人衛所官軍関係表﹂ か ら 摘記 す れ ば︑
15
劉清 ︵興武衛副千戸︶ ︑
16
王定住 ︵金吾右
衛 副 千 戸 ︶ ︑
20
蔡 勝 ︵ 金 吾 右 衛 正 千 戸 ︶ ︑
27
完 者 禿 ︵ 金 吾 右 衛 百 戸 ︶ ︑
35
千 家 奴 ︵ 興 州 左 屯 衛 正 千 戸 ︶ ︑
39
陳 貴 ︵ 燕 山 左 衛 正 千
戸 ︶ ︑
42
王 真 ︵ 燕 山 左 衛 百 戸 ︶ ︑
60
韓 七 十 ︵ 武 成 後 衛 正 千 万 ︶ ︑
61
余 真 ︵ 留 守 左 衛 百 戸 ︶ ︑
75
楽 太 平 ︵ 大 寧 中 衛 副 千 戸 ︶ ︑
79
王
福 ︵ 東 勝 左 衛 副 千 戸 ︶ ︑
80
単 興 ︵ 東 勝 左 衛 百 戸 ︶ ︑
85
咬 住 ︵ 興 州 左 屯 衛 指 揮 同 知 ︶ ︑
86
李 忠 ︵ 通 州 衛 正 千 戸 ︶ ︑
89
西 友 ︵ 徳 州 衛
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
正 千 戸 ︶ の 一 五 名 で あ る︒生 還 率 は わ ず か 一 五 % に す ぎ な い︒親 征 軍 に 組 み 込 ま れ た 在 華 モ ン ゴ ル 人 の 衛 所 官 軍 の
大多数は︑同じ民族であるエセン ︵也先︶ 率いるモンゴル軍の攻撃をうけて︑土木堡で戦没したのである︒
生還者 の 中 で 異色 な の は︑ 興州左屯衛指揮同知 で あ っ た
85
咬住 で あ る︒ ﹃中国明朝档案総匯﹄ 六七册所収 の ﹃興州
左屯衛選簿﹄楊文英の条の咬住に関する記述の中に︑
卯失剌︑嫡長男に係り︑七年優せられ︑十五年襲ぐ︒洪煕元年大松林にて胡寇を征掃し斬首して功有り︑指揮
同知 に 陞 せ ら る︒ 故
しす︒咬住︑ 嫡長男 に 係 り︑ 優 せ ら る︒十二年襲 ぐ︒正統十四年征進 し て 虜 せ ら る︒嗣無 し︒
六十︑親弟に係り︑本年襲ぐ︒咬住︑景泰元年虜中より走回して回復し︑指揮同知を襲ぐも︑前の迤北の功に
因りて指揮使に陞せらる︒弘治八年故す︒
とあり︑咬住は土木堡で捕虜となったが︑翌年京師に帰り着き︑興州左屯衛指揮同知に復帰したのである︒走回は
逃げ帰るという意味であろう︒走の逃げるという用法の使用例では︑ ﹃南斉書﹄巻二六︑王敬則伝に︑ ﹁檀公の三十
六 策︑ 走 ぐ る は 是 れ 上 計 な り︒ ﹂ が よ く 知 ら れ て い る︒逃 回 し て 生 還 し た 咬 住 は︑ 興 州 左 屯 衛 指 揮 同 知 に 復 帰 し た
後︑ ﹁前 の 迤北 の 功﹂ と い う こ と で 指揮使 に 陞格 し た︒こ の ﹁迤北 の 功﹂ の 具体的内容 は 不明 で あ る が︑ 咬住 が 逃 げ
帰っ た の と 同 じ 景泰元年 ︵一四五〇︶ の 八月十五日︑ ま る 一年 の 間捕囚 の 時 を 過 ご し た 英宗 も 京師 に 戻っ て き た︒英
宗の回鑾が実現したのである︒しかし︑英宗がそのまま南宮に移され︑ここでも軟禁され不自由な生活を強いられ
たことは著名なことで︑贅言する必要もなかろう︒
咬住 の 帰還 と 原衛復帰 が 英宗 の 回鑾 に 随行 し た 者 で あ れ ば︑ ﹁走回﹂ と 表現 さ れ る こ と は な い︒変後 の 親征軍関係
者への景泰政権の処遇は冷淡であった︒一年間の捕囚生活において英宗に終始扈従した錦衣衛校尉の袁彬に対して
でさえ︑英宗の回鑾に従って帰還したあと︑わずかに試百戸を授けたにすぎな い
︶14︵
︒それに比して︑咬住は帰還後し
ば ら く し て 指 揮 同 知 か ら 指 揮 使 に 陞 進 し て い る︒付 表 ① ﹁ 土 木 の 変 と 在 華 モ ン ゴ ル 人 衛 所 官 軍 関 係 表 ﹂ を み る と︑
戦没した者にしても生きて回還した者にしても︑その後の衛所官職の襲替では陞進の事例は一例もない︒咬住自身
は 陞進 し た が︑ 弘治八年 ︵一四九五︶ に 死去 し た あ と︑ そ の 後継者 と な っ た 嫡長孫 の 楊通 が 世襲 し た の は も と の 指揮
同知であった︒咬住がうけた指揮使という職官は︑一代限りの流官であったのである︒
かかる流官を授けられたのは︑おそらくは一年間近くモンゴルに抑留されていて知りえたモンゴル内部の政治的
軍事的情報 を︑ 咬住 が 明朝 に 報告 ・ 提供 し た た め で は な い だ ろ う か︒ ﹃英宗実録﹄ に は︑ こ の よ う な 逃回者 の も た ら
した情報を上奏文に引用した記述をみることができ る
︶15︵
︒咬住の帰還は英宗回鑾と同年のことであっても︑その前で
あったか後であったかは判断しがたい︒英宗の回鑾によって︑その従行者も全て帰還できた訳ではなく︑残留させ
られた明人も数多くいたからであ る
︶16︵
︒
土木の変の直後︑上記においてふれたように︑生きて中国に帰還した者もいたが︑戦没した者と同じく︑かれら
も ま た 衛所官職 を 交替 し て い る︒そ の 襲替時期 は 殆 ど 正統十四年 ︵一四四九︶ 九月 ・ 十月 に 集中 し て い る︒戦没者 の
場合はともかくも︑生還者も変後早い時期に衛所官職の襲替がなされたのは︑
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咬住を除いて︑それぞれが
15
劉清
︵征傷故︶ ︑
16
王定住 ︵征傷︶ ︑
20
蔡勝 ︵老疾︶ ︑
27
完者禿 ︵回還︶ ︑
35
千家奴 ︵老疾︶ ︑
39
陳貴 ︵征傷︶ ︑
42
王真 ︵征傷︶ ︑
60
韓 七 十 ︵ 傷 故 ︶ ︑
61
余 真 ︵ 征 傷 ︶ ︑
75
楽 太 平 ︵ 征 傷 ︶ ︑
79
王 福 ︵ 征 傷 ︶ ︑
80
単 興 ︵ 征 傷 故 ︶ ︑
86
李 忠 ︵ 征 傷 ︶ ︑
89
西 友 ︵ 征 傷 ︶
土木の変における在華モンゴル人の衛所官軍について
と負傷したり老齢で疾病を抱えていたりと︑現職に留まっても武人としての役割を果たすことは到底できなかった
からである︒そしてまた
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完者禿のように︑回還後も特段の疾病・負傷は負っていなかったとしても︑土木堡での
苛烈な体験がトラウマとなり︑職務を続けることはとてもできるような精神的状態ではなかったのではないだろう
か︒戦没者にせよ生還者にせよ︑その後継が襲替したのは︑親征軍に参加した衛所官が帯びていた職官であり︑そ
こでは陞格は絶無である︒
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師勝は流官の都指揮僉事であった が
17︶︵
︑あとを襲いだ親弟の師栄に授けられたのは祖職
の指揮使であった︒
こうした状況にあって︑土木の変の翌年にモンゴル営中から﹁走回﹂した
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咬住は︑変後も四七年の長きに亘っ
て指揮使の地位にいた︒いったい︑
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