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立原道造 愛の諸相立原道造 愛の諸相

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一四五 一  悲恋から愛の成就へ   立原道造(一九一四~三九)は多くの愛を歌っているが、生涯最後の一年である一九三八年にはその様態に変化がみられた。それまでは悲恋が主題である場合が多かったところ、この時期には愛の成就による幸福が歌われているのである。例えば「優しき歌」の連作(『四季』第四〇号一九三八・九)である。

   一、朝におまへの心が  明るい花のひとむれのやうに  いつも眼ざめた僕の心に  はなしかける《ひとときの朝の  この澄んだ空  青い空

名   木   橋    忠   大 立 原 道 造   愛 の 諸 相

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一四六 傷ついた  僕の心から棘を抜いてくれたのは  おまへの心のあどけない  ほほゑみだ  そして他愛もない  おまへの心の  おしやべりだ

ああ  風が吹いてゐる  涼しい風だ草や  木の葉や  せせらぎがこたへるやうに  ざわめいてゐる あたらしく  すべては  生れた!露がこぼれて  かわいて行くとき小鳥が  蝶が  昼に高く舞ひあがる(Ⅰ二三四~二三五頁)

  立原はこの一九三八年にはじめて恋人を得た。この作に彼の実人生を投影して読むとすれば、「傷ついた  僕の心」(第二連一行目)を癒してくれる恋人の存在が、「あたらしく  すべては  生れた!」(第四連一行目)という新生をもたらしたとみることができる。「僕」は「おまへ」との静かな愛の風景の中にある。連作の第二番も同様だ。

   二、また昼に僕はもう  はるかな青空やながされる浮雲のことをうたはないだろう……昼の  白い光のなかで

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一四七 おまへは  僕のかたはらに立つてゐる 花でなく  小鳥でなくかぎりない  おまへの愛を信じたなら  それでよい僕は  おまへを  見つめるばかりだ

いつまでも  さうして  ほほゑんでゐるがいい老いた旅人や  夜  はるかな昔を  どうしてうたふことがあらう  おまへのために さへぎるものもない  光のなかでおまへは  僕は  生きてゐるここがすべてだ!……僕らのせまい身のまはりに(Ⅰ二三五~二三六頁)

充足している。 の愛の前には薄らいでしまい、「ここがすべてだ!……僕らのせまい身のまはりに」(第四連三行目)と語り手は愛に ~三行目)という信頼に「僕」たちは満たされている。その愛を得るまでの「はるかな昔」(第三連二行目)は現在   「    昼の白い光のなか」(第一連三行目)、「かぎりないおまへの愛を/信じたならそれでよい」(第二連二行目   これを前年までの作品と比べてみれば差が際立つ。学生時代の立原は幾たびも恋に敗れており、詩にもその投影であるかのように悲恋が歌われた。第一詩集『萱草に寄す』(風信子叢書刊行所一九三七・五)にはそれが顕著である。

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一四八

例えば「虹とひとと」(初出『四季』第二三号一九三六・一二)を読んでみよう。

雨あがりのしづかな風がそよいでゐた  あのとき叢は露の雫にまだ濡れて  蜘蛛の念 おじゆずも光つてゐた東の空には  ゆるやかな虹がかかつてゐた僕らはだまつて立つてゐた  黙つて!

ああ何もかもあのままだ  おまへはそのとき僕を見上げてゐた  僕には何もすることがなかつたから(僕はおまへを愛してゐたのに)(おまへは僕を愛してゐたのに)

また風が吹いてゐる  また雲がながれてゐる明るい青い暑い空に  何のかはりもなかつたやうに小鳥のうたがひびいてゐる  花のいろがにほつてゐる おまへの睫毛にも  ちひさな虹が憩んでゐることだらう(しかしおまへはもう僕を愛してゐない僕はもうおまへを愛してゐない)(Ⅰ二八~二九頁)

  雨あがりの叢に「おまへ」の思い出がこみ上げる。「何もかもあのまま」(第二連一行目)とあるように、今も愛を

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一四九 育んだ頃と同じように風が流れ雲が渡っていく。小鳥の歌が夏の青空に響き、花が咲いている。しかし愛はうつろい、心は離れてしまった。こうした愛の終焉が歌われる点は、『萱草に寄す』の中盤「夏花の歌」連作の第一篇でも同様である。この作は初出『四季』(第一九号一九三六・六)掲載時には「ながれ──薊の花のすきだつたひとに」と題されていた。

空と牧場のあひだから  ひとつの雲が湧きおこり小川の水面に  かげをおとす水の底には  ひとつの魚が身をくねらせて  日に光る それはあの日の夏のこと!いつの日にか  もう返らない夢のひととき黙つた僕らは  足に藻草をからませてふたつの影を  ずるさうにながれにまかせ揺らせてゐた

……小川の水のせせらぎはけふもあの日とかはらずに風にさやさや  ささやいてゐる あの日のをとめのほほゑみはなぜだか  僕は知らないけれど

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一五〇 しかし  かたくつめたく  横顔ばかり(Ⅰ二二~二三頁)

  これらの作品は彼が夏ごとに逗留した信濃追分での悲恋が投影されたものとして読まれてきた

(1)

。立原の恋愛詩は実生活の愛をなぞるかのように、一九三八年に至って悲恋から愛の成就へと主題が変化したと考えられるようではある。しかし一九三八年の立原を追ってみれば「優しき歌」連作の如き作品は一側面でしかない。知られているように立原は堀辰雄の『風立ちぬ』を批判し、さらには愛を鍛錬するためにあえて恋人へ別離を宣言し、別離を主題とする詩を歌ってもいるからである。以下本論では彼の愛の様相を追ってみようと思う。

二  安住と出発

  立原の「風立ちぬ」と題するエッセイは一九三八年を通して断続的に『四季』に連載された

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。Ⅳ章(『四季』第三八号一九三八・六)では『風立ちぬ』「死のかげの谷」の章から、《此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がさはめいてゐるといふのに、本当に静かだこと》の箇所が引用される。立原は堀の寂寥の在り方を問い、「ここは本当に静かだと、ただそればかりを言ふ強さと力とは決して動きのなくなつたときのあの見せかけの静寂を呼びはしない」(Ⅳ章・Ⅲ二五七頁)として堀の態度を停止と見、「一切の力と関係とが働いてゐるあの無限の静寂をこそ呼ぶのだ」(同)と述べて強い動性を打ち出すのである。Ⅴ章(『四季』第三八号一九三八・六)ではそれが強い決意として示される。

僕らは、休息する者として、ここにゐるのではない。また死んだ者として、眠りのなかに身を倒すときではない。「死者たちの間に死んでゐる」時からもまた抜け出す。前進が、内部への、世界が示す底知れない透明な深さへの、更に敢為な一歩が、今やいりようである。騎士たちの果敢な遠征が。(Ⅴ章・Ⅲ二六〇頁)

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一五一   Ⅵ章(『四季』第三八号一九三八・六)でも「死のかげの谷」の文章が引かれ堀の充足が確認される。先にも引用された《此処だけは、谷の向う側はあんなにも風がざはめいてゐるといふのに本当に静かだこと。》、さらに《そしてこんなささやかなものだけで私達がこれほどまで満足してゐられる。》、《そんなこの頃のおれの方が余つ程幸福の状態に近いのかも知れない。》、これらを立原はゲーテ『親和力』に準え、「「此処だけは」平和であり、脅かすものはない」、「「こんなささやかなもの」が僕らの胸に優しさを注ぎこむときに、僕らは詩人とともに、「幸福の状態に近い」ものを理解する」と見る。「僕らは、「幸福」を知るよりもなほ、このやうな状態にこそ、「満足してゐられる」のだ」(Ⅵ章・Ⅲ二六一頁)。さらに同じく「死のかげの谷」の《あつちにもこつちにも、殆どこの谷ぢうを掩ふやうに、雪の上に点々と小さな光の散らばつてゐるのは、どれもみんなおれの小屋の明りなのだからな》の箇所についても、「生きた人間は恒に他の人から自分を奪はれねばならない。そして自分も他の人も満足しながら、この掠奪がなされるのは、ひとつのやはり美しい感謝ではなからうか」(Ⅵ章・二六一頁)と記し、他者との融和を一度は肯定的に捉えている。ところが立原はここを堀との分水嶺と見、こうした幸福には「ここではつきりと分れねばならない」と強い決意を示すのだ(Ⅵ章・Ⅲ二六二頁)。「出発と前進はつづけられねばならない。この方向〔引用者注・堀の方向〕には無限の平面のひろがりがあるきりだ。僕らは、また「以上へ」、そして深く、高さの方向に掘りすすまねばならない」(同)。

  Ⅶ・Ⅷ章(『四季』第四二号一九三八・一一)に述べられるのも「出発」「以上へ」の思いである。「僕たちの明日は異質のものに超えてゆかねばらない。さうしてのみ無限に高まりゆく方向を僕らは持つ」(Ⅷ章・Ⅲ二六五頁)。立原は、堀が「古代日本の音楽にみちた空気のなかに人間像の完全な全円を描きあげてゐる」と判断し、その融和統一の様態を「停止」と見て堀からの超克を打ち出すのである。次の引用は「風立ちぬ」論の末尾の文章である。

  大きな響が空に鳴りわたる、出発のやうに。何のために?  聞くがいい。………僕らは今はじめて新しく一歩を踏み出す。《風立ちぬ》としるしたひとつの道を脱け出して。どこへ?  しかしなぜ?  光にみちた美しい午

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一五二

前に。(Ⅷ章・Ⅲ二六六頁)

  この「風立ちぬ」論が『四季』に断続的に掲載される一九三八年には、立原は他の論でも「出発」の思考を繰り返していた。田中克己論「詩集西康省」(『四季』第四一号一九三八・一〇)では、「この詩人をもふくめて、僕らの「午前」とも呼ぶべき異質の時代が、このかがやかしい先人の詩を超えて、黎明を染めねばならない」(Ⅲ二七〇頁)として「午前」と名付けた「異質の時代」への飛翔を企てる。あるいは散文作品「物語」(『文芸汎論』一九三八・八)には以下のようにある。

僕には、たつたひとつわからないことがある。時はなぜこのやうにくりかへすのか。そしてなぜ僕にひきとめれずにすぐ死に絶えるのか。〔略〕今死に絶えてゆくこの時は、その日には昔がたりのうつゝになる。そして僕らは夢のなかに生き、時のなかにふるさとを失ふ。(Ⅰ五四九~五五〇頁)出て行かう。遥かな世界。僕たちの無限。いま、あたらしい生は生き生きと山のあちらを望んでゐる。さう、いつか僕はおまへにただ悲しみばかりを低い声で告げてやつた。僕らは最後の人たちだ、と。さうだつたらうか。あたらしい夜が、そしてあたらしい朝が、僕らを待つてゐる。(Ⅰ五五一頁)

  くりかへす時のなかに「ふるさと」を失い、「遥かな世界」、「僕たちの無限」へと「出て行かう」とする意志。

  以上の点は冒頭で読んだ同時期の「優しき歌」連作とは明らかに矛盾しているだろう。「優しき歌」から読み取れた恋人との満たされた生活とは、まさに「風立ちぬ」論における、「「此処だけは」平和であり、脅かすものはない」、「「こんなささやかなもの」が僕らの胸に優しさを注ぎこむときに」、「「幸福の状態に近い」ものを理解する」という、一度は容認しつつも最後には否定される境地ではなかったのか。

  だが一九三八年の立原は「出発」を宣しつつも一方で愛への安住をも歌い続けるのである。「草に寝て……  六月

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一五三 の或る日曜日に」(『むらさき』一九三八・八)を読んでみよう。

それは  花にへりどられた  高原の林のなかの草地であつた  小鳥らのたのしい唄をくりかへす  美しい声がまどろんだ耳のそばに  きこえてゐた 私たちは  山のあちらに青く  光つてゐる空を淡く  ながれてゆく雲をながめてゐた  言葉すくなく

──しあはせは  どこにある?山のあちらの  あの青い空に  そしてその下の  ちひさな  見知らない村に 私たちの  心は  あたゝかだつた山は  優しく  陽にてらされてゐた希望と夢と  小鳥と花と  私たちの友だちだつた(Ⅰ二二〇~二二一頁)

  「小鳥らの/たのしい唄をくりかへす

  美しい声が/まどろんだ耳のそばに  きこえてゐた」(第一連二行目~四行

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一五四 目)、「私たち」はそうした「花にへりどられた  高原の/林のなかの草地」(第一連一行目~二行目)にいる。「私たち」は「山のあちら」の空、雲をながめている(第二連)。これが第三連では「しあはせは  どこにある?/山のあちらの  あの青い空に  そして/その下の  ちひさな  見知らない村に」とあるから、幸福を目指して「私たち」は「あちら」へと「出発」するのかとも思える。だが直後の「私たちの  心は  あたゝかだつた」(第四連一行目)、あるいは「希望と夢と  小鳥と花と  私たちの友だちだつた」(第四連三行目)といった点からは「私たち」は今いる地点で満ち足りていることが窺われる。幸福な充溢した愛に「私たち」はまどろんでいる。

  あるいはこの三八年秋に執筆が推定されている「夢見たものは」

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。 夢見たものは  ひとつの幸福ねがつたものは  ひとつの愛山なみのあちらにも  しづかな村がある明るい日曜日の  青い空がある

日傘をさした  田舎の娘らが着かざつて  唄をうたつてゐる大きなまるい輪をかいて田舎の娘らが  踊ををどつてゐる 告げて  うたつてゐるのは青い翼の一羽の  小鳥低い枝で  うたつてゐる

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一五五 夢みたものは  ひとつの愛ねがつたものは  ひとつの幸福それらはすべてここに  ある  と(Ⅱ三六八~三六九頁)

  青い小鳥が歌う。夢みたひとつの愛も願ったひとつの幸福も「それらはすべてここに  ある」(第四連)と。

  安住と出発。みて来た立原の思考の分裂からは、本心としては愛に安住したいと思いながらも、超克の意志がそれを許さない、そんな相反する思いに苛まれていた心の内が浮かびあがってくるだろう。拙著『立原道造新論』(新典社二〇一三・一一)においても、立原が晩年に超克と安住の思いに引裂かれていた点を論じた。しかしさらに彼の愛の思想に踏み込んでみればどうもこの考えには訂正が必要のようなのである。

  ここまで彼の実生活を投影して作品を読んで来たわけだが、それではここで彼が恋人に宛てた同時期の書簡を読んでみよう。

三  「別離」という愛の試練

  まず一九三八年九月一日付のものである。

  僕には  ひとつの魂が課せられてゐる。どこか  無限の、とほくへ行かねばならない魂が、愛する者にすら別離を告げて、そして  それに耐へて。だが、その魂は決して愛する者を裏切ることには耐へない。別離が一層に大きな愛だといふこと、そして  僕の漂泊の意味。おまへにも  また、これに耐へよと  僕はいふ。僕たちの愛が、いまひとつの大きな別離であるゆゑに。(Ⅴ四二六頁)

  おまへは  僕のここにいふ別離を決して僕たちのカタストロフイーなどとかんがへる愚かさをしてはならな

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一五六 い。なぜならばただ別離が  いまは  大きな愛の形式、そして  僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法であるゆゑに、そして  それに耐へることで僕たちは高められ強くせられるゆゑに──。(Ⅴ四二七頁)

だ。他に九月四日付の書簡を読んでみよう。 が一層に大きな愛」との思いを実践するかのように恋人に「別離」を強い、新生を夢見て単身盛岡、長崎へ旅立つの 層純化される。「別離」に耐えることで「僕たちは高められ強くせられる」。悲壮な決意である。事実立原は、「別離   「別離」こそが「僕がおまへを生かし、おまへが僕を生かす愛の方法」だという。離れていることによって愛は一

けふは夏の日のをはり。もう秋の日のはじめ。僕はボオドレエルの「秋の唄」の最後の行を愛する。

  だれのために?  昨日は夏だつた、今、秋だ   不思議なひびきが  出発のやうに鳴りわたる。

  蜂蜜のやうな、澄んだ、おだやかな陽ざしのなかで、子供らは樹に攀ぢる。鳶が輪を描いてゐる高い空。そこには、砂のやうな巻雲がさらさらとながれてゐる。地の上にも、光とかげとが美しい。花はしづかに溢れてゐる。けふは夏の日のをはり。もう秋の日のはじめ。大きな大きな身ぶりを描いて、不思議なひびきが空を過ぎる。しかし、僕らが明日を知らないこと!  ただ出発だ。どこへ?  だれのために?

  おまへが僕に手帖を与へなかつたので、この美しい光のなかで回想される日は、どの文字の上にもやすんでゐない、あたかももつとも純粋な営みは  何のかたみもとどめ得ないかのやうに。しかし、僕は、あれらの日々の日記を、おまへに見せたくはなかつたか。僕に信じられないくらゐの  不思議な美しい夏。それは、もうふたた

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一五七 びはくりかへしも出来なければ語ることもできないだらう。ただ出発だ!  どこへ?  おまへへ!一層ふかく「僕ら」へ!(Ⅴ四三一頁)

  ここにも「別離」が二人の愛を鍛えるとの思いが貫かれている。「出発」によって「僕ら」は離れ離れになる。しかしまさにその「出発」の行く先とは、最後に記されているように「おまへ」そして、「一層ふかく「僕ら」」なのである。再び逢う日には別れが二人の愛を鍛えているとの意だろう。この書簡にあるボードレールの詩句を得て結晶した作品がやはり同時期に執筆が推定されている「また落葉林で」(『四季』第四七号一九三九・六)

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だった。

いつの間に  もう秋!  昨日は夏だつた……おだやかな陽気な陽ざしが  林のなかに  ざはめいてゐるひとところ  草の葉のゆれるあたりに おまへが私のところからかへつて行つたときにあのあたりには  うすい紫の花が咲いてゐたそしていま  おまへは  告げてよこす私らは別離に耐へることが出来る  と

澄んだ空に  大きなひびきが鳴りわたる  出発のやうに私は雲を見る  私はとほい山脉を見る

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一五八 おまへは雲を見る  おまへはとほい山脉を見るしかしすでに  離れはじめた  ふたつの眼ざし……かへつて来て  みたす日は  いつかへり来る?(Ⅱ三六一~三六二頁)

  これをごく自然に読めば歌われているのは「私」と「おまへ」の愛の終りだ。しかしここでも立原の実人生を透かしてみれば、みて来た恋人宛ての書簡が補助線になる。この作の「いま  おまへは  告げてよこす/私らは別離に耐へることが出来る  と」(第二連三行目~四行目)、あるいは「すでに  離れはじめた  ふたつの眼ざし……/かへつて来て  みたす日は  いつかへり来る?」(第四連三行目~四行目)。これらの点には「別離」が一層大きな愛であり、二人が高められ強くせられる方法なのだという立原の思いが読み取られる。第一節に挙げた「虹とひとと」「夏花の歌」に歌われた別れとは愛の破綻によるものであった。しかし愛を得た今は、愛の鍛錬のために別れると言うのである。他に一一月一四日付の恋人宛書簡にも「会はないで  かうしてゐること──それに耐へねばならないのは 僕たちが  こんな近くゐるときにでも  ときどきは  必要ではないのかしら」(Ⅴ四七五頁)などとあった。

  これほどまでに立原が「別離」にこだわる点をみれば、〈本心としては愛に安住したいと思いながらも、超克の意志がそれを許さない、そんな相反する思いに苛まれていた〉とした前述の見解には変更が必要のようだ。みて来た「優しき歌」の連作、あるいは「草に寝て……  六月の或る日曜日に」、「夢見たものは」などの一見愛の安定、充足を歌ったかのような作品群は、実はそうではなく、「別離」によって愛を鍛え、高まり、強くなった新生の末に至ることのできる境地、理想の愛の在り処として読まれるべきなのだろう。理想の愛は今の二人にはない。それは「別離」による試練によって二人が高められたその先に現れるイロニーとしての愛なのだ。その意味ではかつての悲恋詩に通じる、現時点では叶わない愛が一九三八年になっても夢見られていたということである。

  だがそれにしても恋人との相応の愛に充足することもできたはずの立原が、かくも執拗に「別離」にこだわるのは何故なのか。その根幹にあった実生活上の事実を挙げてみれば、第一に彼が自身の死を強く意識していた点が挙げら

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一五九 れる。前年である一九三七年の一〇月には肋膜炎の診断を受け、同年一一月には逗留中の追分油屋旅館が全焼し死を目の当たりにした。その死の切迫を杉山美都枝宛に「予想されない死期に近い油屋のなかで  四日ほどくらしたことが  不思議な夢のやうにおもはれます」(一一月二二日/Ⅴ三五四頁)と書き送る。一二月上旬の丸山薫宛書簡には「どんな意味でも、死にたくはありません」(Ⅴ三五六頁)と記され、また一二月一五日の猪野謙二宛にも、「「汝・死ぬなかれ」  この至上命令を忘れてはゐないのだ」、「汝・死ぬなかれ!  と叫ばねばならぬ」(Ⅴ三五七頁)などと書き送られた。この臨死体験に加え、三八年夏には肺尖カタルと診断され勤務先を休職している。彼は死が迫る限界状況の中、生の証明として理想の愛を純化しようとしていたものだろう。  ではこうした切迫の中、さらに立原を促した文学的背景にはいかなるものがあったか。堀辰雄は「風立ちぬ」論において弟子である立原に強く批判される立場であったが、立原の死後、この一九三八年の愛の態度についてリルケからの影響を指摘していた。

四  リルケ  芳賀檀

  堀辰雄は「木の十字架」(『知性』一九四〇・七)に立原を悼み次のように述べた。

私と妻とはときどきそんな立原がさまざまな旅先から送つてよこす愉 たのしさうな絵端書などを受取る度毎に、何かと彼の噂をしあひながら、結婚までしようと思ひつめてゐる可憐な恋人がせつかく出来たのに、その愛人をとほく東京に残して、さうやつて一人で旅をつづけてゐるなんて、いかにも立原らしいやり方だなぞと話し合つてゐた。──「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」ことを既に決意してゐる、リルケイアンとしての彼の真面目をそこに私は好んで見ようとしてゐたのであつた。(『堀辰雄全集』第三巻角川書店一九七七・一一/八一頁)

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一六〇   堀は、立原がリルケに影響されて恋人との「別離」を選んだことをいかにも立原らしいとみている。ここに引かれた「恋しつつ、しかも恋人から別離して、それに身を震はせつつ堪へる」の句はリルケ『ドゥイノ悲歌』(一九二三)第一悲歌のものだ。手塚富雄の訳を挙げてみよう。引用者による傍線が堀の引用部分にあたる。

〔略〕おまえはいったいあのガスパラ・スタンパを心ゆくまで偲 しのんで歌ったことがあるか、恋人に去られたいずこかの乙女がこの高い範例にならって自分たちもそうなろうと思いさだめるほどに。いまこそ古い古いこれらの悲痛がわたしたちにいっそうゆたかな実りの力となるべきではないか。わたしたちが愛しつつ、愛するものから自由になって、おののきながらそのことに堪えぬくべき時ではないか。ちょうど張りつめた弦に堪えぬいた矢が力をあつめて飛びたつとき矢以上 00のものとなるように。まことに定住はいずこにもないのだ。(『ドゥイノの悲歌』岩波文庫一九五七・一二/二〇一〇・一改版/一〇~一一頁)

  手塚によればこの箇所は次のように解説される。

相手から愛を返されようとして愛するのではない。ただおのれ自身の絶対的な愛を実現する。リルケが再三力説する思想。それは愛ということにおいての人間の実存の貫徹である、したがって、この上もなくさびしいものである、それが次の「堪えぬく」という思想を呼び出すのである。(同九八頁)

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一六一   まさにこれは立原が恋人に強いた「別離」の様態である。富士川英郎も同じ箇所につき、「彼女やその他の「愛する女たち」がその苦しみを通じて、「人間の世界」を高く超えていったように、われわれもまた、それにならって、自己中心的な恋の充足を願う心をふりすてて、高く飛翔すべきことを説いている」(『リルケ全集』第四巻彌生書房一九六一・一〇/八八頁)と論じていた。  それでは当の立原のリルケ受容の状況はどうだったかといえば、「別離」の思考が立原に根付いたのは、一九三八年に大きな精神的影響を受けていた芳賀檀を通してであったようだ

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。芳賀は『コギト』、『日本浪曼派』同人で、立原は芳賀の著書『古典の親衛隊』(冨山房一九三七・一二)を寄贈された際には高揚して礼状を書き送っている(後掲)。その『古典の親衛隊』には「別離の悲歌」と題してリルケ『ドゥイノ悲歌』についての論が収録されていたのだが、立原はエッセイ「風信子〔三〕」(『四季』第三五号一九三八・三)において『古典の親衛隊』につき「無限に真実があり、美がある」(Ⅲ二三六頁)とし

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、さらに「「古典の親衛隊」といふ本の中では、その最もかがやかしい章、「別離」あるひは「別離の悲歌」のなかで「秋」といふ時間について、詩人は書いてゐる」(Ⅲ二三七頁)と称揚している。ここで書かれる「「別離」あるひは「別離の悲歌」」の「別離」とは『古典の親衛隊』巻頭論文であり、「エルンスト・ベルトラム教授に」と副題され、「この身を挺して危険の最前線に立つ一人の騎士〔引用者注・ベルトラム〕との出会」(六頁)と「別離」を綴ったものだった。

  そして芳賀「別離の悲歌」は「ルチー・フエルゲル嬢に捧ぐ」と副題され、リルケの愛の思想を恋人に語りかけるような筆致で著されている。

之〔引用者注、リルケ『ドゥイノ悲歌』〕は、愛と別離の歌、その深淵と恐怖を敢へて呑んだ者のする強い歌です。死の代りに、不思議に美しい一つの歌を。愛と別離と、換言すれば決意と変革との歌であると思ひます。──其の一番純潔な、美しい一例を、私達は、アテネの花瓶に、大理石の彼等の墓石の彫刻に見ることが出来ます。併し、私達は、もつと堪へねばならない。ギリシア人が知らなかつた限界に迄。──乃ち危険に迄。愛とは

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一六二

最早、別離そのものであるといふこと。私達は敢へて今其の危険な決意の戸口に立つといふこと。(二八頁)

恋人よ、私達は愛するが故に、別れて、身を慄はせる悲痛に堪へるべき時ではないでせうか。旅の終りでは人々は装ひを新にするのです。新しい出発の為に。「停滞は許されぬ。」と詩人は私達を叱ります。又たとへ叱られなかつたとしても、誰が私達を止めることが出来ませう。私達は新しい呼吸を感じてゐます。微笑よ、私達を上に向かせる淋しい微笑よ。私達はこの決意を、もうどうすることも出来ますまい。(三〇頁)

  芳賀がここに記す「「停滞は許されぬ。」と詩人は私達を叱ります」の点は前に引いておいた第一悲歌の箇所に対応している。そして芳賀がここで述べている「愛とは最早、別離そのものである」あるいは「恋人よ、私達は愛するが故に、別れて、身を慄はせる悲痛に堪へるべき時ではないでせうか」、こうした「別離」の愛を立原が大変な称賛をもって受け入れていた点からは、そのリルケにおける愛の思考の受容において芳賀の果した役割の大きさが推察される

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。そして芳賀もまたリルケ『ドゥイノ悲歌』の翻訳を進めており、まさにそれが『四季』第四一号(一九三八・九)から掲載が開始されていた。そして立原はこの訳につき堀宛書簡(一九三八年一〇月一九日付)で「ドウイノの悲歌が訳されはじめ、僕はそれをよみました。りつぱなものだとおもひます」(Ⅴ四五九頁)と書き送ってもいる

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  なお立原の三八年に至るまでのリルケ受容の様態を記しておけば、高等学校三年時、一九三三年のノートを繰ってみれば、「堀辰雄氏の忠告」として「

Rilke

の詩のよさがわかるやうになること」(Ⅲ四五九頁)と記している他、茅野肅々訳『リルケ詩抄』(第一書房一九二七・三)が「堀辰雄氏の持つてゐる本」の項目の「好きな本」リストに書き込まれている。また一九三四年二月一二日付国友則房宛書簡には、「室生犀星とリルケとにだけ、僕は心を打ちこまう!」(Ⅴ七三頁)とあり、さらに一九三五年六月一〇日付生田勉宛書簡には「この頃は「フアウスト」と「ギリシア・ローマ神話」とリルケの

FRÜHE GEDICHTE

・ “

なかにばかりくらしてゐた」(Ⅴ一二六頁)と語られる。 ” の

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立原道造  愛の諸相(名木橋)一六三 『四季』第八号(一九三五・五)のリルケ特集号にはリルケの初期詩編

Lieben

二二篇から一〇編を抄訳、「愛するリルケの主題によるヴアリエエシヨン」として発表していた。さらに彼は同三五年のノートの四月九日には「霊魂を得るといふのは、僕にとつては、

Ding an sich

の世界に行くといふことだ。「視は祈禱」といふリルケの宗教だ。

in sich tief gehen

といふことだ」(Ⅲ二〇頁)と述べ、翌三六年にはリルケ「オルフエへのソネツト・Ⅰ」を訳載してもいる(『未成年』一九三六・五)。こうした点からすれば彼のリルケ受容はすでにその後期にまで踏み込んでいたものであり、一九三八年において「別離」による愛の鍛錬に至る準備は整っていたということができるだろう。  ところで第二節冒頭では一九三八年における立原の、「高さの方向」、「以上へ」の「出発」(「風立ちぬ」論)、あるいは「午前」と名付けた「異質の時代」への飛翔(「詩集西康抄」)、そして、くりかへす時のなかに「ふるさと」を失い、「遥かな世界」、「僕たちの無限」へと「出て行かう」とする意志(「物語」)を確認して来た。これらには「別離」の思考同様、やはり芳賀檀からの強い力学が感じられるのである。  この点につき立原が芳賀『古典の親衛隊』を寄贈された際の礼状から引いてみよう(一九三八年一月下旬)

(9)

。「いま、あの御本のなかで呼吸するとき  私の決意は新らしく  たしかめられます、私もまたひとりの武装せる戦士! この変様に  無限に出発する生!」(Ⅴ三六九頁)。これにつき『古典の親衛隊』を開いてみれば、表題論文の次のような箇所には立原の口吻が感じられる。「お前は、寧ろ何時迄も清らかな夢のみを信ずる勇敢なる戦士であればよい。お前は家郷の「以前」をより美しい「以上」に変革しなければならない戦場への義務を持つ」(一二七頁)。『風立ちぬ』論とは、「以上」への存在たるべく、堀からの「出発」を宣言するものだったが、そこで立原が用いる「以上へ」「どこへ」と言った語彙は、実は『古典の親衛隊』に頻出する語彙なのである

歌』論である。他に芳賀「ドイツ文学理論と方法」には、「「私は今どこに立つてゐるか?」を問はねばならないし、 『古典の親衛隊』所収「別離の悲歌」(三三頁・三四頁)からの引用だ。言うまでもなく前掲のリルケ『ドゥイノ悲 あるいは、「目に見えず吾々の胸の中に築かれた決意は「以上」の大地でなくて、何でありませう」。これらは芳賀 寂が高まつた。何といふ肯定。又何といふ自由であらう。私達はなほ上ることが出来よう。未知の、偉大な階段を」。

10

。例えば次の文はどうだろう。「静

(20)

一六四

又人間自身が一つの架橋であつて、私達の真の故郷は生育であり、変様ではないであらうか。「どこへ行くのか。」を私達は問はねばならない」(三五六頁)と宣せられている。

  これらを考慮する限りにおいては、芳賀は常に「どこへ」と自問し理想的な「以上」の存在へと自己を「変様」させんとするヒューマニストと捉えられる(芳賀の時局下における言説については別稿に論じた

た芳賀『古典の親衛隊』の作用を落すことはできない。 高めるという点で「以上へ」の一要素なわけで、一九三八年にあって自己の生、愛を矯め鍛えようとする立原に働い

11

)。「別離」も愛を

  さて立原は一一月末に、恋人に「別離」し長崎へ旅立つ。彼は一一月二五日、奈良の散策のあと京都に出て、当時第三高等学校教授であった芳賀檀と面談、芳賀宅に宿泊している。旅程において成った次の草稿「朝に」

生」への思いが如実に投影されている。

12

には「新

きのふのやうに  僕たちはたそがれの水路のほとりに暮れやらない  空のあかりをながめながら長い嘆かひに  時をうつしてはならぬ 陽が見えない空のあたりを赤く染めながら  今夜が明けようとしてゐる風は  つめたく  身体を打つが  僕たちはあたらしいものの訪れを感じてゐる

それが何か  それがどこからか──

(21)

立原道造  愛の諸相(名木橋)一六五 けふ  私たちは  岬に立つて眼をあちらの方へ  投げ与へようひろいひろい  水平線のあちらへ

》昨日は  をはつた!《すべては  不確かに  僕たちを待つ(Ⅱ四六四~四六五頁)

  「きのふ」のように「暮れやらない

  空のあかりをながめながら/長い嘆かひに  時をうつしてはならぬ」(第一連三行目~四行目)。「私たち」が「あちら」へ眼差しを向けている。夜が明け、「僕たち」を新生させる「あたらしいもの」が「訪れ」る。この絶唱は彼が最後まで生と愛の強度を高めようとしていた表れだ。

  ところが同じ一一月二五日には、一方で彼は恋人を思いノートに次のように書き記していた。奈良、薬師寺での記述である。

どうしておまへから離れることが出来たのだらうか。昨夜まで僕は知らなかつたこの別離がどんなものかを。今もまだわからない。おまへは僕とはとほくにゐる。あの僕の知つてゐるビルデイングにゐる。しかし僕はそれを信じられない。僕がとほくに来てゐることも信じられない。別離とはこんなことだつたのだらうか。しかし僕はさびしい。そしてすべてがむなしい。何かささへるものを失つたやうな気がする。この眼にうつくしくながれる古代の白い雲と明るい空とすべてをかがやかせる太陽を今この土地で見てさへ僕の心はむなしい。この土地こそ僕の期待だつたのに。(Ⅲ一一九頁)

  「別離」への後悔。ここからは彼の本心が垣間見えるようだ。永遠の漂泊のなかにこそ成長があるはずだった。別

(22)

一六六

れてあることで二人の愛は矯め鍛えられ理想のものとなるはずだった。ところがこの記述にはそのイロニーとしての愛自体が否定される予感が底流している。

  同日、駅の待合室でも立原はつぶやくのだ。「かはいさうな僕ら、なぜ愛しあひながら、しかも妨げるだれもゐないのに、離れようとねがつたりしなくてはならないのだろう。それが僕だけのあはれなフアンタジイのねがひ、しかもそのねがひは心のなかにうかんだだけで、選ぶことをつきつけられれば、いつもいつもやりそこなつて、その実現の近くで自分からすててしまふのだ」(Ⅲ一二二~一二三頁)。

  九州に入った立原は友人に紹介された長崎の下宿へ向かうのだが、既にこの時全身は結核菌に蝕まれていた。血痰と喀血に苦しむ中、立原は記している。

たうたう運命は星になる夢でもなかつた、花になる夢でもなかつた。青いランプをともしたいとねがふ僕には、放浪癖はやはりなかつたのだとおもふ。かへつてひとつの家をつくつて、それのまはりに庭をつくり、それの内に家具をおき、つつましやかな愛情で、生活をきづくことにあるのだとおもふ。宇宙的なさすらひや大なる遠征よりも、宇宙を自分のうちにきづくこと。せまい周囲に光を集注すること、それが僕の本道だとおもふ。きづつき破れ去る浪漫家の血統にはつひに自分は属さないとおもふ。(一二月九日・Ⅲ一六二頁)

  さらに翌日には、かつて自身が否定した「停止」に入ることを願うのだ。

しづかな、平和な、光にみちた生活!  規律ある、限界を知つて、自らを棄て去つた諦めた生活、それゆゑゆたかに、限りなく富みゆく生活──それを得ることの方が、美しい。そしてそのとき僕が文学者として通用しなくなるのなら、むしろその方をねがふ。(一二月一〇日・Ⅲ一六四頁)

(23)

立原道造  愛の諸相(名木橋)一六七   あれだけ自身に課し、恋人に強いた「別離」による愛の鍛錬は放棄される。五日後に帰郷した彼は絶対安静と診断される。死は四か月後に迫っていた。  注目したいのはこの直後の文で立原が「コギトたちのあまりにもつめたく、愛情のグルントのない文学者の観念を否定すること。コギト的なものからの超克」と述べている点だ。芳賀檀もまさに「コギト」の文学者であって、それをいまや立原は愛情のグルント、即ち根拠がないものと見ているのである。この芳賀を否定する言辞から、立原の純潔を信奉する者は立原は芳賀には従えなかったと論じる。しかしみて来たように芳賀の影響は一九三八年を通して明白であり、何より最後に立原が「コギト的なものからの超克」として「別離」による愛の鍛錬を放棄している点は、立原の愛の思考に働きかけた芳賀檀の影響力の甚大さを如実に物語ってはいないだろうか。  以上本論をまとめてみよう。立原道造の恋愛詩は一九三七年までは彼の実生活上の失恋体験をなぞるように悲恋が歌われた。しかし一九三八年に入り詩からは愛の充足、安定が感じ取られるようになる。これは実生活で恋人を得た幸福がそのまま詩に現れているとも考えられるが、同時期に立原は「風立ちぬ」論などで盛んに「出発」を唱え、実生活でも恋人に「別離」を強いている。この点にはリルケとさらには芳賀檀から学んだ「別離」による愛の鍛錬の思いが投影されているのであり、一九三八年における愛の充足を歌った詩とは「別離」による「新生」後の理想の愛の境地が願われたものと考えられる。その詩想は新生を夢見た立原最晩年の長崎への旅程にあっても継続されたが、体の衰弱で倒れた彼からはイロニーとしての愛が失われ、否定してきたはずの自身に望みうるだけの愛が直視されるに至った。

   注(

  私らはたたずむであらう霧のなかに 号一九三五・一〇)。

1

) 悲恋の詩を挙げてみれば、『萱草に寄す』(風信子叢書刊行所一九三七・五)から「またある夜に」(初出『四季』第一二

(24)

一六八 霧は山の沖にながれ  月のおもを投箭のやうにかすめ  私らをつつむであらう灰の帷のやうに

私らは別れるであらう  知ることもなしに知られることもなく  あの出会つた雲のやうに  私らは忘れるであらう水脈のやうに その道は銀の道  私らは行くであらうひとりはなれ……(ひとりはひとりを夕ぐれになぜ待つことをおぼえたか)

私らは二たび逢はぬであらう  昔おもふ月のかがみはあのよるをうつしてゐると私らはただそれをくりかへすであらう(Ⅰ一二~一三頁)あるいは「浅き春に寄せて」(『四季』第二五号一九三七・二)。今は  二月  たつたそれだけあたりには  もう春がきこえてゐるだけれども  たつたそれだけ昔むかしの  約束はもうのこらない 今は  二月  たつた一度だけ夢のなかに  ささやいて  ひとはゐない

(25)

立原道造  愛の諸相(名木橋)一六九 だけれども  たつた一度だけそのひとは  私のために  ほほゑんだ さう!  花は  またひらくであらうさうして鳥は  かはらずに啼いて人びとは春のなかに笑みかはすであらう

今は  二月  雪の面 おもにつづいた私の  みだれた足跡……それだけたつたそれだけ──私には……(Ⅰ一七八~一七九頁)(

( 第四二号(一九三八・一一)に掲載された。

2

) Ⅰ、Ⅱ、Ⅲ章が『四季』第三七号(一九三八・五)に、Ⅳ、Ⅴ、Ⅵ章が第三八号(一九三八・六)に、Ⅶ、Ⅷ章が『四季』

( 筆を一九三八年九月~一〇月と推定する。本論もこれに従う。

3

) 『立原道造全集』第二巻(筑摩書房二〇〇七・一二)の安藤元雄による「解題」は立原が愛用した原稿用紙の特徴から執

4

) 注(

( の特徴から執筆を一九三八年九月~一〇月と推定する。本論もこれに従う。

3

)同様、『立原道造全集』第二巻(筑摩書房二〇〇七・一二)の安藤元雄による「解題」は立原が愛用した原稿用紙

( (『国語と国文学』二〇一六・二)を参照されたい。

5

) 立原と芳賀檀に関しては拙稿「立原道造『風立ちぬ』論と芳賀檀─『古典の親衛隊』におけるリルケ受容を通して─」

( 造の詩学』(双文社出版二〇一二・七)第五章に論じた。

6

) ここでは同時に亀井勝一郎『人間教育』(野田書房一九三七・一二)が称揚されている。この点については拙著『立原道

7

) 立原の芳賀檀経由のリルケ受容の詳細については注(

5

)拙稿を参照されたい。

憶ひし事あるか。ひとり、恋人に捨てられし乙女は 〔略〕ガスパラ・スタンバの例もあるを、

8

) 芳賀訳「ドイノの悲歌㈠」(『四季』第四〇号一九三八・九)の、先の手塚訳と同箇所を引いてみれば以下の通りだ。

(26)

一七〇 高きこの歌姫の身になぞらへて、愛する人の心を感ずと言ふ。あはれ、われ又かの女 ひとの身なるか?と。漸やくにこの永劫古き痛みこそ、創 造の業となるべき日に非ざるか?  恋しつつ、恋人に離れつつ、身を慄はせて  堪ふべき時に非ざるか。例へばつがへし矢の、力ここに集め、放れては矢を超へて以上のものたらん為、弦 いとに堪ふるに似て。停滞は何処にもなく。       (七~八頁)(

( から三八年一月下旬と推測する。本論もそれに従う。

9

) 日付は不明だが、『立原道造全集』第三巻(筑摩書房二〇〇七・三)の「解題」で宇佐美斉は、『日本浪曼派』編集過程等

( 九九七・八)第六章「中間者と言霊」などになされている。本論ではさらに両者の具体的な思想の関連を探っている。 道造の虚像と実像』(桜楓社一九八五・五)第Ⅰ章「立原道造と日本浪曼派」、坪井秀人『声の祝祭』(名古屋大学出版会一

10

) 語彙の類似の指摘は、既に飛高隆夫『中原中也と立原道造』(秋山書店一九七六・一〇)の表題論文、大森郁之助『立原

( 学』(双文社出版二〇一二・七)に詳述してある。 芳賀との関わりが立原に及ぼした時局下の思考を落すことはできないわけだが、この点については既に拙著『立原道造の詩 の最近の動向(下)」や、『古典の親衛隊』所収「北京」(初出『四季』第三一号一九三七・一〇)にもみることができる。   とされる。民族の優等性を誇る思考は既に一九三七年一一月一五日号の『帝国大学新聞』掲載「詩人と戦士とドイツ文壇 ドルフ・ヒットラー」には、「全ての天才が左様である様に、彼〔ヒトラー〕も亦その時代の決算であつた」(五五頁)など むもの」(『文學時標』一九四六・二・一五)と糾弾されている。芳賀『民族と友情』(実業之日本社一九四二・四)所収「ア (「立原道造における進歩性と反動性」『南北』一九五〇・一二)。事実芳賀は戦後、佐々木基一により「ヒトラーの再現を望 しいものがまじりこんでいるから、どうも仕方ない。芳賀によせた幾編かを人は彼の詩集のうちに見出すことができよう」 列の親衛隊長芳賀タンなど引合に出すのは名前を記すだに穢ならしいような気がするのであるが、立原の詩にはその穢なら

11

) 立原の芳賀への接近は彼のナショナリズムの萌芽として捉えられてきた。杉浦明平の次の言説が著名である。「ナチス第五 と思われる友人たちの住所」が書かれている点から「長崎への旅行中の一九三八年一二月頃に書かれたもの」と推定する。

12

) 『立原道造全集』第二巻(筑摩書房二〇〇七・一二)の安藤元雄による「解題」は使用された用紙とその裏面に「旅信用

(27)

立原道造  愛の諸相(名木橋)一七一 本論もそれに従う。【付記】  立原道造についての引用は筑摩書房版五巻本全集(二〇〇六~一〇)を用い巻数はローマ数字で表した。なお全ての     引用についてルビの省略など表記を改めた所がある。また『四季』については、号数と刊行年月を示した。

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