株式配当については︑既に昭和二エ←丁年七月︑二度所見を発表したのであるが︵香川大学経済論叢︑第三十巻第
ニ・三号︶︑その後にわかに︑この問題について︑多くの論文が発表せられ︑私見と見解を異にするものも少くな
い︒そこで︑・これらの所説を吟味し︑批判することによって︑前稿で論じ尽さなかった点を補いたいと思う︒ただ
し問題を株式配当の本質論︑従って︑株式配当ほこれを受ける株主にとって所得なりや否や︑という点に限定する ことにする︒
太田習三博士ほ︑﹁株式配当と株式分割﹂ ︵企発会計︑第九巻第十二号︶及び﹁再び株式配当について﹂ ︵企業
会計︑第十巻第十盲︶のこ論文において︑私見とほ反対に︑株式配当ほ︑これを受ける株主にとって利益である と論じておられる︒
太田博士ほ﹁第這蘭題となるのほ株式配当と現金配当との関係である︒資本金が五千万円であり︑五百円の額
面株十万株を発行していたとする︒その会社が蒜の決算で壱千万円の純利益をあげ︑五百万円は法人税その他の
利益課税に充当し︑五百万円を株主に配当することに藤主総会は議決したとする︒法定準備金や役員賞与金や︑更
に進んで別途積立金に関しては数字関係を単純化するためにこの場合不問に付することとする︒さてこの決議に基 第三十二巻 第三・四・五号
再び株式配当につけて
高 ︵四八〇︶ 二四〇
康 雄
\
いて五百万円の配当を現金で行った場合と︑株式で行った場合の会社の財務関係を比較してみることとする︒現金
配当を行えば会社財産ほ払出されるので純財産ほもとの五千万円に復帰するので仙株当りの実質価値ほ五百円で
ある︒それで百株の所有者は五万円の会社純財産の実質的分け前と五千円の現金を握ることとなる︒これに反して
五日万円の利益配当を現金をもってしないで︑株式で行ったとする︒その場合にほ純利益の五百万円ほ払出されな
いで︑会社会封に留保されるので純財産ほ五千五百万円となる︒これそ同時に株数息二割増加して十山万株となる
ので︑一株当りの会社純財産は前と同じく五百円である︒それで百株の所有者ほ現金は何等獲得しないが︑前と同
じ内容実質を有する株式十株を配当として受入れることになる︒それはその所得者即ち株主にとLつて所得と称して
差支えはないものである︒﹂と述べ︑株式配当ほ株主にとって所得であると断じておられる︒しかしながら配当と
して株式を与えられることによって︑株主ほ果して実質的に何を所得したであろうか︒本例の場合︑株主ほ配当前
に実質価値五百五十円の株式百株を所有し︑配当後ほ実質価値五百円の株式百十株を所有することになる︒配当前
と配当後において所有する株式の実質価値の総額にほ変りがない︒又株主相互の持分関係にも麿化を生じない︒そ
の場合ほ︑株式配当が行われないで五百万円の利益が全部留保せられた場合と同様である︒故に太田説は株式配
当ほ株主の所得でほないとの私見をくつがえすに足りないと思う︒︵同説丹波康太郎教授﹁株式配当の本質につい
て﹂産業経理第十九巻欝八号︶太田博士ほこのことにつき︑﹁五首万円の利益を配当しないで単に留保すれぼ株式
の実質価値ほ山株当り五百五十円となり︑増加する︒しかしこれほ株主にとってほ全く未実現の利益であり︑問題
にほならない︒﹂と述べてお耳れる︒利益留保とする場合と株式配当を行う場合とで︑株式の実質価値の総額に何
等の相違も認められないにもかかわらず︑前者の場合﹁全くの未実現利益﹂で問題にならなかった部分が︑後者の
場合にほ何故.に所得と認められなけれぼならないのか︑諒解し難いところである◇
再び株式配当について ︵四八こ二四山
︵四八二︶二四二 第三十二巻 第三・四・五号
株式配当として受取った株式十株を山株五百円で売却すれば︑現金配当を受けた場合と同様の結果になると考え
ることほ誤りである︒そもそも︑株式ほ︑会社に対する株主の権利を代凄するものである︒会社に対する線主の経
済的権利の∵つは︑会社の清算の場合における残余財産分配請求権であるが︑より経常的で重要なものほ︑利益配
当せ受ける権利である︒前例において︑現金配当を受けた場合にほ︑総株主中において従来と同様の権利を持続し
ながら現金五千円を得たのであるが︑株式配当として受取った株式を売却すれほ︑現金五千円を得る代りに︑比例
ノ 的持分ほ千分.の山から千百分の二に減少するのである︒これほ利益の全額が留保せられたとき︑所有株式の郵を 売却した場合と性質を等しくする︒放に株式配当の本質ほ︑利益の配当でほなく︑寧ろ利益の留保であり︑而も通 常の利益の留保ほ後日これを取崩して配当に充てられることがあり得るのに反し︑株式配当ほ︑いわば利益の永久 的留保である︒
二
太田博士ほ︑株式配当非所得説を批判し︑株式配当所得説を主張する根本理念につ′いて︑′次のように述べられ
る︒﹁前述の考察ほその根本理念において
純利益ほ直ちに資本であるとみるならば︑その結果も自ら異らざるを得ないの′である︒純利益を資本勘定とする風
ほ特殊のものではない︒財務諸表準則でもそうなっているし︑日銀その他における経営分析に当っても同様であ
る︒しかしこれほ正しいかどうかほ議論の余地がある︒いうなれば処分以前の純利益ほむしろ短期負債の性質に帰
するものである︒それは株主総会の決議によって大部分が払出されるからである︒これを全く固定的な資本金︑積
立金等の所謂資本勘定と同劇範疇におくことは誤った分析紅導かれるのでほないかと思う︒それほさておいて︑発生
利益︵法人税だけほ控除して︶を資本勘定と認めれば︑五千万円の資本金の会社が配当可能利益五百万円を生じた
時ほ︑その正味身代ほ五千五首万円であり︑発行株数が十万株であれば︑一株当り五首五十円の実質となる︒脚剖
の株式配当をすれば︑一株当りの実質ほ五百円で最初と同様であるが株数が十分の山増加するので結果ほ全く同じ
ことである︒給ってこの配当によって株主ほ何等の所得をも得たものでほないと観察されるのである︒⁝⁝この解
釈についてほ前提がなければならない︒即ち純利益ほ質本の勘定であるということである︒この前提をおし進めれ
ほ現金による利益配当ほ資本の払戻しであると断定しなければならない︒﹂
右の所説の中心点ほ資本という語を如何に解するかである︒太田博士ほ︑昭和三十四年版﹁会計学﹂でほ︑資
本の中にほ利益剰余金を含み︑利益剰余金の中にほ未処分利益剰余金を含むものとしておられるのであるが︑前掲論
文でほ︑資本という語ほこれとほ興った意味に用いられ︑最後の文章から判断すれば︑醸出資本又ほそれに近い意
味に用いられているもののようである︒私見によれば︑貸借対照表借方の資産に射し株主以外の者のもつ請求権の
存在を示すものが負債勘定であり︑株主のもつ請求権を代表するものが資本勘定である︒これらの請求権ほいづれ
も迫接的無条件のものでほなく︑一定の条件付である︒負債も一定の条件が整ったときに弁済せられるのである
︑ が株主のもつ請求権の実施には層厳しい条件が存在する︒それが潜在的請求権といわれる所以である︒諸種の
条件が満される場合にのみ︑会社の資産ほ或いほ配当として︑或いは残余財産分配として︑株主の手に移るのであ
る︒資本金︑資本剰余金及び再評価剰余金に対応する額の資産ほ清算の場合の外株主に分配せられることほないり
利益剰余金に対応する額の資産ほ利益準備金のように法律がこれを禁止する部分を除き︑株主に配当として分配す
ることができる︒太田説のように純利益ほ根本理念において︑配当するものであるか︑反対に資本であるかとの議
論なたて︑それに基づいて株式配当非所得説を批判しようとすることは︑やや的を外れた議論の感がある︒純利益
ほ利益剰余金を構成するから資本であり︑同時に利益剰余金なるが故に配当の源泉ともなるのである︒純利益は資
閂び株式配当について ︵四八三︶二四三
︵四八四︶ 二四四 欝三十二巷 第三・四・五官
本でほあるが株主によって船出せられた資本でほなく︑醸出資本の運用によって得られた成果である︒株主にほそ
の分配を請求する潜在的な権利かあるからその一部が配当として分配せられることがあるのである︒右のような意
味において純利益ほ資本であると論じたからといって︑現金による利益配当を︑醸出資本の払戻を暗示するような
﹁資本の払戻し﹂という語で呼ぶのほ適当でほないと思う︒
AICPAプリティンほ第七章B節において株式配当の所得性について次のよう紅述べている︒
﹁6︑会社の株主の勘定に利益決定の原則を適用するに際し︑株主の利益決定の問題は︑会社白身の利益決定の問
題とほ別個のものであるということについて山般に異論ほない︒会社の利益ほ︑この利益に対するそれぞれの株主
の持分とほかかわりなく︑別個の実体の利益として決定せられる︒慣行的会計諸概念の下においてほ︑単に会社が
利益を得たという事実のみによってほ︑株主ほ何等の利益をも得ない︒未分配利益による持分の増加ほ︑株主にと
ってほ潜在的な利益に過ぎない︒なるはど会社が利溢を得た結果として︑その株式の市価ほ騰貴するかも知れない
が︑会社資産の分配︑分割またほ分離があるまでほ︑株主ほ何等の利益をも得ない︒彼の持株の有価が騰貴したと
しても︑かゝる末実現利益は利益でほない︒株式配当或いほ株式分割の場合にほ︑何ら会社資産の分配︑分割又ほ
分離ほ行われない︒倫又会社における彼の比例的持分の若干を手放すことなしに株主が実現し得るものほ︑何もそ
れからは生じない︒﹂
﹁7︑以上ほ儀式配当戎いほ株式分割を受けた者がとるべき会計手続を論ずる当って考慮せらるぺき重要な点であ
る︒何となれば︑株式配当所得説を支持する者によって述べられる多くの議論ほ︑本質的にほ会社に利益が発生
し︑それが株主に分配されるに先立って︑会社の利益を株主の利益として認識することに賛成する議論だからであ
る︒かかる議論を承認すれば︑会社会計に関する別個の実体という概念を放棄しなけれぼならないととになる︒﹂
三
太田博士ほこれを批判して﹁会社が獲得した利益を盾ちに株主に帰属する資本であるとすることも亦企業主体説
と異るものがあるのでほなかろうか︒この点についてはハズバンドの説が当っているのであって︑企業車体説に反
する代理人説またほ所有主主体説のほうが株式配当の非所得論にほ都合がよいのでほないかと思われる︒﹂ と述べ
ておられる︒
ハズバンドによれば︑会計的及び経済的目的からするとき︑会社はその出資者たる株主に対し代理人関係をもつ
ものとみることが妥当であり︑法律が会社なる観戯体に対して付与した種々の特性にもかかわらず︑何個人の集団
たる性格が残っていて︑企業を組織し︑それを営利目的のために運用するのほ叫般株主であり︑株主ほ最後の決定
権をもち︑窮極の危険を負担する︒企業の利害は実現したときから株主の利益を構成するので︑現金配当にせよ︑
株式配当にせよ︑それが実現されたとき事新しく利益として解釈さるべきものでほないというのである︒したがり
て︑これほ株式配当非所得説ではなく︑株式配当が行われるに先だって︑所得として認識しようとするものであ
る︒企業実体説によれは︑会社に発生する利益は直ちに株主の所得とほならない︒発生利益相当額の資産に対し︑
株主に潜在的請求権が生じ︑納税額や利益準備金充当額を控除して︑配当を受け得る可能性を生じたにはかなむな
い︒現金配当等によって︑会社資産が株主の手札移るとき︑ほじめてその所得となるのである︒散に株式配当非所
得説の説明ほ代理人説をもってしてほ不可能で︑企業実体説によらなければならない︒
四
太田博士ほ叉利益剰余金を二つに区分し︑株式配当の源泉がそのいづれであるかによって︑その本質を異にする
ものであるとして︑次のように述べておられる︒﹁株式配当の概念は当期発生利益を処分するものとして考えられ
再び株式配当について ︵四八五︶二四五
第三十二巻 墾ニ・四・五号 ︵四八六︶二望ハ
る︒⁝⁝然しながら商法の立像から見れば法規上定められた資本準備金︑利益準備金以外の任意準備金の法律上の
性格について判然たる規定がない︒これ等ほ別途積立金とか配当準備積立金とか多種多様の目的を宿し︑また名称
を冠していても︑それ等ほ法律の前にほすべて﹁利益﹂の二部分をなすものに過ぎないのである︒従ってこれを栗
本に繰入れて︑株式の無償交付を行うことほ︑前に述べた当期発生利益の配当と同じく株式配当として論じられる
ことになる︒この点についてほ法律の規定と経済的︑会計的の観念との差異を認めなければならない︒従ってかか
る積立金の繰入れによる株式配当︵法律上︶ほ経済的には株式の分割として処理すべきことほ︑資本準備金を繰入
れて株式を発行して無償交付した場合と同∵に解すべきである︒かかる任意積立金は取崩して配当することが商法
の規定でほ可能である︒しかし経済的またほ会計的にほかかる配当は資本の払戻しに当ると考えるべきものであ
る︒−そこで配当可能利益の範囲を当期純利益と未処分利益剰余金の額に限定し︑その金額中から行った配当ほ
すべて利益配当とみなし︑従って無償株式の交付ほ株式配当として処理するのである︒それを超えて行う株式の無
償交付ほこれを経済的には株式の分割とみるのである︒﹂ かくして 仙般に株式配当と称せられるものを二つに区分
し︑当期純利益と未処分利益剰余金以外の利益剰余金を源泉とする株式配当を本質的に株式分割であるとし︑﹁本
質的に株式分割でありとすれば非課税が適当である︒﹂と論じておられる︒
思うに︑利益剰余金を社内に留保する本質的な理由は積﹂五金のもつ次の二つの機能にある︒
川 損失乃至不況に対する緩衝器的槻能
利益剰余金の社内留保紅よって︑会社の純財産額を増加せしめ︑財政的基礎を強化して︑将来或いほ生ずること
あるべき損失の衝撃から資本金を防衛し︑会社債権者を保護し︑叉利益の不十分な年度に︑も配当を行うことを可能
ならしめる︒ぺートンほ剰余金の留保を過大に評価することを避けているが︑﹁少くとも程よき剰余金の蓄積ほあ
る程度配当金支払を安定させる手段として望ましく︑又資本金を傷つけることが重大な問題と考えられる臥り︑あ
る程度の剰余金の蓄積ほ営業不振の年度の欠損金を吸収するために望ましい︒﹂ ︵PatOnリAdくanCed AccO仁nting>
−誤−p.p.翌中⊥基金と述べている︒
回 金融敵機能
利益剰余金の留保によって︑運転資金の増加︑設備拡張資金︑負債返還資金︑株式償還資金等を賄うことができ
る︒これほ所謂自己金融であり︑前二者の場合にほ利益の再投資ともいわれる︒自己金融ほ最も便利で︑費用を要
しない金融手段である︒
右のような理由によって留保せられた利益剰余金に対し特殊の目的を与え︑特殊の名称の下にこれを分類して︑
それぞれの用途を定めることがある︒しかし︑ぺートンも主張するように︑このことを過大に考えでほならない︒
何となれば剰余金其自体が一種の万能緩衝器ないし積立金であるからである0︵PatOn︸Op.Cit.﹀p.諾○︶叉ケスター
もいうように異った名称の鏡立金に分つことほ決して積立金の不可侵性を保証するものでもない︒︵只ester>Ad・
くanCed AccOuntingけ一望声p.澄ひ︶
利益剰余金ほ社内に留保せられても︑更に特別の名称を付与せられても︑些かも利益剰余金としての本質を失う
ものでほない︒場合によってほ配当の源泉とすることもできるし︑各種の積立金に付されたレッテルは︑その残高
を未処分利益剰余金に振戻すことによっていつでも取り除くことができることはマッケン汐−の指摘する通りであ
る︒︵Macken乳e︶The﹃undaきenta−s Of AccOuntin騨−芝可.p.笥e
太田説によれば︑処分の決議を経て留保された利益剰余金ほ資本化されたものであるから︑これを源泉とする株
式配当ほ実質的には株式配当でほなく株式分割であるといわれる︒しかしながら既に明らかにしたように︑利益剰
再び株式配当について ︵四八七︶ 二四七
′
第三十二巻 第一子甲五号 ︵四八八︶こ四八
余金ほ社内に留保せられることによって決して利益剰余金としての本質を変えるものでほない︒資本金や資本剰余
金に近い性質のものに・なるのでほなく︑あくまで企業活動の成果の蓄積されたものに外ならない︒同山の源泉によ
る株式配当が直接未処分利益剰余金勘定からなされかときほ株式配当であり︑山度積立金勘定を経由すれほ株式分
割であるとして両者を全く異質のものとし而も後者の場合に限り非課税が適当であるとの考え方にほ賛成し難い︒
もっとも太田博士ほ﹁公平の原則から︑株式分割に当るものにも課税することになるのでほなかろうか︒⁝⁚各種
の積立金として処分したときに何等かの形で課税しこれをその後現金で配当しても︑課税しないというやり方がで
きれば︑合理的であると思う︒﹂と述べておられるが︑これでほ会社の利益ほ発生するに従って株主の利益となる
との代理人説に帰着することになる︒
五
番場教授はこの問題について次のよう鱒論ぜられる︒︵﹁株式配当−利益分配か否か︑実現収益か否か﹂産業経
エ 理第十八巻第三号︶﹁株式配当が配当会社における利益の分配︵株主への︶でないということほいい得ない︒
ンティティー説に従えば︑株式配当ほ︑株主紅対する会社の利益の分配であると見ることほ正しい︵会社が利益を
酪得したために増加した資産の分配でほないが︶︒株主ほ︑株式配当によって利益の分配を受けたのである︒しか
しその利益ほ︑株主が持株を処分しない限り︑現金又ほその等価物に転化しないのである︒山株主がその株式保竃
を継続する限り︑実現しない利益である︒当該株主が株式配当によって受けた利益を実現しようとすれば持分の一
部を犠牲に供さねばならない︒これにほ株主が不利益を蒙る可能性が伴うのである︒株主ほ当該会祖の存続する限
り︑その持分を処分し得ないという前提にた′つて︑株式配当は永久に現金又ほその等価物に転化し得ない利益と考
えることほ妥当である︒株式配当は株主の利益であるとしても︑それほ本質上︑実現され得ない利益である︒株主
の会計としてほ未実現利益ほ利益としないことが許される︒この意味で株式配当ほ株主の利益にあらずという解釈
も許されると思う︒﹂
教授ほエンティティー説にたって株式配当を株主に対する利益分配であると認める︒教授自身直接この点につい
て詳細な説明ほしておられないがハこのような説の主張者として︑ウィルコックス及びハズバンドの説を引用して
おられる︒クィルコックスは﹁株式配当を現金配当と同じく利益と認める考え方ほ︑会社の利益を株主の利益とほ
別個のものとする考え方を承認することから当然出てくる考え方である︒⁚⁝二万株主も株式配当が行われると︑
持分増加の証拠︵新株式︶を受取るのである︒株式配当を利益と見ることほ常識にはまっており︑納得の行く考え
方である︒﹂ と述べる︒ハズバンドほ前述したように本来代理人説の立場をとるものであるが︑エンティティー説
をとるならば次のように考えるべきであるという︒揖会社の稼得した利益ほエンティティーの利益であって︑株主
なる参加者の利益でほないこと︑惚留保されている利益ほキンティティー︵会社︶の持分それ自体を構成するこ
と︑㈲エンティティーの持分それ自体を減少する資産分配︵現金配当︶叉ほエンティティーの持分それ自体の二部
を株主に移転する取引︵株式配当︶ほ何れも︑従前︑株主のものでなかったものを株主に移転するのであるから︑
株主の利益を構成すること︒
この説の問題点ほ会社其自身の持分という考え方である︒会社の利益が会社其自身の利益であって︑直ちに株主
の利益とほならないらとぼ勿論である︒しかしながら︑それ故に留保利益ほ会社其自身の持分を櫛成し︑それが株
式配当によって株主持分を構成するに至るという点ほ納得し難い︒さきに資本の概念を論じた際に述べたように︑
会社に発律した利益ほ会社其自身の利益であるが︑株主ほこの発生利益相当額に対しても︑又留保利益相当額に対
しても当初から潜在的請求権1株主持分をもっている︒この利益を源泉とする株式配当が希われたときにほじめ
再び株式配当について ︵四八九︶二四九
︵四九〇︶二五〇 第三十二巻 第享甲五号 て株主持分が生ずるのではない︒潜在的請求権の内容にほ配当請求権と残余財産分配請求権とがあるが︑株式配当
前︑にほこの二種の請求権がともに存在していたものが︑株式配当後ほ︑その部分に関する限り残余財産分配請求権
のみが存在することになるのである︒教授ほ結論として株式配当は利益の分配でほあるがその利益ほ実現され得な
い利益であると述べられる︒しかしながら株式配当前と株式配当後とを比較して持株総数の実質的価値にほ相迎が
ないのが通常であるから︑株式配当自体によっでほ未実現利益も発生する訳ではない︒即ち株式の実質的価値の増
加という形における末実現利益は︑会社における利益の発生に伴い徐々に発生するものであって︑株式配当によっ
て突如としてもたらされるものでほない︒
六 むすび
株式配当ほ利益剰余金を資本金に振替え︑それによって代表せられる資産を解散の場合を除き株主に分配し得な
いものとすることであって︑株主ほこれによって何等の利益をも得ない︒所有株式の実質価値の総額も︑比例的持
分関係も︑株式配当の有無によっ七影響されない︒会社に利益が発生し︑株式配当が行われることが︑期首に比し
株主の実質的持分を増加せしめるの故を以て︑株式配当は所得なりというならば︑利益剰余金のまま繰越される場
合も株主に所得があったものとみなければならないことになる︒配当として得た株式を処分すれば這現金配当を
得た場合と同様の結果になるかのようであるが︑これほ実質←持分の処分である︒又這現金配当を受け︑その現
金を以て新株を引受ける場合と株式配当とを同一視することも誤りである︒前者は山応実現した所得を株主の自由
意思によって再投資するのであるが︑株式配当の場合は一般にこのような自由意思は存在しない︒なお株式配当ほ
未実現利益なりとする説があるが︑この未実現利益ほ会社における利益発生と同時に発生するもので︑株式配当の
有無とは無関係のものである︒故に株式配当は如何なる意味においても株主にとって所得でほない︒