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教育実践の基礎構造

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弘前大学教育学部紀要 第 6 0 号 : 6 5 ‑9 3( 1 9 8 8年 1 0 月) Bul l .Fac .Educ.Hi r os akiUni v.6 0:6 5 ‑9 3( Oc t .1 9 8 8)

ヴ ォ ラ ンタ リー ・ア ソ シエー シ ョンにお け る 教育実践の基礎構造

A Ca s eSt udyo faYo ut hCho r usCi r c l e ( 1 )

‑ Ba s i cSt r uc t ur eo fEduc a t i o na lP r a ct i

a

s i n 〟 Vo l u nt ar y As s o c i at i ons " ‑

大 坪 正 一*

Shoi c h i Ot s u t x )

( 1 9 8 8.7. 2 1 受理)

論文要 旨

仙台市の青年合唱サ ークルを事例 として取 り上げ,発達社会学的分析法に よってヴォランク 1 )‑ ・ア ソシ エーシ ョンの教育的意義を解明す る。本稿では,対象を集団構造 の持つ特質に限定 して,集団活動におけ る 成員の発達を もた らす教育実践 の基礎構造を検討す る 。1 9 7 0 年か ら 8 4年 までのサークル 自己展開の事例か ら, 活動の画期を探 り,画期を作 り出 した原動力 として集団の 「サ ークル化」 と 「運動化」 の矛盾があること,

「展開」 を主導 した教育力の発現構造 (同時に受け入れ型 の構造)の特質が, グォランタ リー ・ア ソシエー シ ョンにおけ る個人の発達を問題にす る上での基礎構造に当た ることが論証 された。そ こか ら,サークルが グォランタ リー ・ア ソシエーシ ョンとして存在す る以上,公式な態度決定 と成員の発達は直接には関連 しな いとい う,個人の態度決定 ( 発達)に関わ るサークルの教育実践 を検討す る次の段階 の視角 ( 作業仮説)が 導 き出された。

I . 実証研究 における視 角と本稿の課藍

筆者は先に,教育社会学 の学問的性格をめ ぐる論争か ら,教育実践を実証的に検討す る教育社会学 の もつ

( 1 )

積極性を論 じ,研究が 「発達の社会学」 として発展 させ られ るべ きことを述べた。 また特に,教育社会学の 主たる研究 テーマである 「地域 と教育 」 「集団 と教育」におけ る実証研究において,調査研究の 「混迷 と停 滞」や 「不毛性」の批判に答える意味で も,教育の研究のためには何を ど う突証す るか とい う発達社会学的 方法を, ヴォランク1 )‑ ・ア ソシエ ーシ ョン ( Vo l u n t ar y・A s 血 t i o n略 してV ・Aと記す 。 ) を例に述べ

C2)

た ことがあ る。す なわち ,1 95 0年代の教育科学論争か ら学ぶな らば,教育実践 の実証的研究には,単なる実 践の分析ではな く,対象 としての実践 の中に矛盾を兄 いだす こと,その矛盾が教育の発展や個人の人格形成 を進める過程を明 らかにす るなど,実践におけ る矛盾を実証的に分析す ることの課題が示 されていた。 「教 育」‑ 「 社会 」 , 「 社会」‑ 「教育」 とい う規定関係を追 うことだけではな く,教育 と社会を発達論的に問 う, あ るいは発達の過程 として実証す る教育研究が求め られたか らである。階級関係におかれた資本主義社会 の 教育実践 の特殊性を示すな らば,実践 の もつ矛盾の中に教育科学を拘束す る対象 としての教育の本質があ り, 矛盾の展開過程を実証す ることが教育社会学 の積極的役割にはかな らないといえる。こ うした視角か ら.「地 域 と教育」や 「集団 と教育」のテーマをめ ぐって も,集団を通 した発達 のあ り方を,実践において引 き起 こ され る矛盾 の側面か ら分析を加え,その教育的意義を とらえるとい う方法が導 き出 され ることになる。 いわ ば,実践 の中の矛盾 とその矛盾展開に対す る力動を発見す る中で,発達のあ り方を実証す るとい うことにな ろ う。それは,集団社会的行為の中か ら教育の過程を抽出 してい く社会学的研究であ り,教育実践を実証 し てい く上での基礎 となると考える。

発達社会学的視角に よる集団分析が最 も有効性を発揮す ると考え られ るのは,集団における自己教育の過

*弘前大学教育学部教育学科教室

De par t me ntofPe da go gy.Fa c ul t yofEduc a t i on.Hi r os akiUni ve r s i t y

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程を分析す る場合である。 自己教育過程は社会教育の分野の中核をなす形態であるが,地域における自主的 な学習集団は,多 くが Ⅴ ・Aとしての性格を持 ってお り,青年サークルなどは ここに位置づけ られ る。社会 諸集団の中で も 「自発的結社」 と呼ばれ るⅤ ・A の研究を見 ると,集団の性質上,体系性 ・一貫性 ・組織性 に欠け存在が不安定であること,教育内容の多様性,教育効果測定が困難であることなどに よって教育的意 義を明らかにす る実証研究は不十分であった と言われている。 しか し, コ ミュニテ ィや地域学習社会の形成 が さけばれ,イ ンフォーマルな教育活動やその集団の位置づけが相対的に高 まっている現在,「 集団と教育」

をめ ぐる教育社会学研究においても,学校 ・家庭 など強固なスタイルを持つ集団の教育的意義だけではな く, 集団の 「 展開」過程に教育的意義を求める視角が必要 とされている。地域の中にあっては,イ ンフォーマル であ りかつ周辺的であって も,活動の展開の中で教育的意義を創出してい く集団の意義が問われているので ある。 自己教育 こそが教育の高次の形態であると言われ る理 由もここにある。発達社会学的視角は,成員の 自発的意志で 自由に変えられ る度合が比較的高い集団としての Ⅴ ・A の分析に対 してばか りではな く, この ように周辺領域の諸活動か ら中心領域 (フ ォーマルな教育)の諸活動を再検討す る視角を提示す ることに よ って,家庭 と学校に対象が集中されている教育社会学の集団研究に,実証研究の レベルで有効性を発揮でき る根拠があると考えるのである。

筆者は ,1 9 75 年か ら,参与観察法的な手法 ( 形態か らす ると東大宮原研究室が編み出した 「アクシ ョン ・ リサーチ」に親和性を持つ)で もって,仙台市の青年サークルの調査を続けた。このサークルは,表出的 V・

Aとして ( 合唱サークル)典型的な性格を持つ ものであった。事例 となる合唱サークル ( 正式名称は仙台合 唱団アコール)を取 り上げたのは,次の ような理 由に よる。 まず,友人か らの勧誘 もあ り, 自分 自身 も同世 代の青年 とい うことで,調査主体一客体の社会関係を問 う上では, 自然な感 じでサークルの一員 となること ができた ことである。第二に,強力な指導者の意志に よって活動内容が規定 され る合唱団やサークルの形態 をなさない無原則な集団ではな く,規約に もとず く民主的運営の形態が保持 されていた こと。加入脱退が 自 由であ り,いつで もどのよ うな人間で も参加す ることができるサークルであった ことがあげ られ る。 ( 一般 合唱団の中には音楽的素養のない人は参加できなか った り, うた ごえの中心合唱団のように研究生制度を持 ち,その修了生のみを入団 させ るとい うもの もある。 )つ まり,民主的形態 を持つサークルとしては,典型的 な性格を持つ ものであった ことであ る。第三に,社会的基盤 としては,文化運動 ・労働運動の高揚の中か ら 展開 していた うた ごえ運動や労音運動に よって支えられてきた一面 と,市民のサ‑クル として市の社会教育 行政 とも交流を持つ,いわば中間形態 として存在 していた こと。 また,発足後 5 年を経過 し,世代交代や活 動内容の明確化などが課題 となってお り, 自己展開を見 る上では格好の素材であった ことがあげ られ る。 こ のような特徴は,前にあげた地域集団の研究の課題に照 らしてみても適合 してお り, 「アクシ ョン ・リサー チ」が十分可能な集団であった。

「アクシ ョン ・リサーチ」 とは 「調査研究者 と実践者の共同 ・協力を得なが ら,活動の次のサイクルを獲 ( I ) 得 してい くとい う教育実践 としての社会調査のあ り方」 と定義 されているが,参与観察法を取 り混ぜた形で 行われた この調査は,次のような方法である。作業仮説 として,集団活動において現出す ることが予想 され る 「矛盾」を先取 りし, この 「矛盾」を 「アクシ ョン ・リサーチ」上の要件 として設定す る。それは,0 0年 代を通 じて提起 されていたサークル活動の実践的課題 と青年期その ものが持つ発達課題 との関係か ら導 き出 された。当時のサークル実践理論の到達点 として,都市青年サー クルでは,①サークルの民主的運営,②余 暇善用型 の克服,③サー クル活動発展のための社会的条件の獲得,④学習内容の科学化,が課題 として示 さ ( 4 )

れていた。 これ らを, 自己教育活動をめ ぐる集団の変化 ( 発達)への要件 として, それぞれ①′. )‑ダー層 と

成員の要求,②′ 集団の明示 目的 と個人の 目的,③' サ‑クル化 と運動化, ④′ フォ‑マルな教育 とイ ンフォー

マルな教育, との間の矛盾 として措定 した。サークルの展開過程は これ らの矛盾の展開過程で もあ り,活動

の画期に よってそれ らは集中的に示 される。調査は, これ らの矛盾に対 して関与 してきた「教育」をとらえる

ことが課題 となる。教育的働 きかけを行 う 「 教育者」が対象 とな り, どのような個人 ( 集団)が, どのよ う

な方法で,何の 「矛盾」に対 して関与 していったのかを活動の画期 との関連で調査す ることで, 「 教育」の

内実が分析 され ることになる。実際は,教育の存在形態 ( 公教育の現在 ‑五十嵐顕)を頬型化すれば,サー

クル活動には,「固有の教育実践」 としてサークル集団内の教育活動,「 教育政策」 としての公教育 ( 学校教

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ヴォランタリー・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造 6 7 育 ・社会教育),「 批判的運動」 としての大衆運動に よる教育的側面 ( 他の社会運動組織か らの影響など)の 三者の関与が考えられ る。 この場合,「 教育政策」 と 「 批判的運動」はサークルの外にあるので,調査者は,

「アクシ ョン ・リサーチ」を行いなが らも,実践者 との協力 ・共同は この外側の 「教育」 とサークル との接 点を作 り出す ときに求め られ,それ らの評価 ( 受け入れや拒絶)をめ ぐって,調査者 と実践者,言い替 えれ ば理論 と実践 の交錯を通 した認識の発展を作 り上げることであ る。調査者の 「ア クシ ョン ・リサーチ」は以 上の点に限 られ,集団内の教育活動や意志決定に関 しては直接関与を計 らない立場をとるものである。

よってこの調査は , ( 1 ) 社会 と集団に関 してサークル 自体の持 っている矛盾 , ( 2 ) 青年期の集団 として 個 人 の もつ矛盾, を活動の中で どう展開 させてきたのかを問 うものであった。 すなわち, Ⅴ ・Aの性格の変化 ( 発達)を導 きだ した過程を教育実践 (自己教育過程) として位置づけ,成員の発達 との関連を見 る中で, 集団 自体の教育的意義や教育力の発現発動の構造 ( Ⅴ ・A におけ る教育実践分析)を求めるものである。そ のためにはまず,サークル活動の展開の事例を追い, 自己教育過程の基礎構造を分析す る課題がある。いわ ば,サークルにおける矛盾の構造の相互間連を明 らかにす るなかで, Ⅴ・A 自体の教育的意義を論証す る課 題であ る。そ こで本稿では ,( I ) の課題に絞 って ,1 9 7 0 年の発足時 (当時の名称は仙台労音合唱団)か ら 1 9 8 4 年 までのサ‑クルの自己展開を資料に基づいて概説 し,発達社会学的分析を行 う上での基礎的枠組みをつ く

ることを 目的 とす る。

2 . サークル活動の 自己展開 合唱団の成立まで

合唱団の歴史にはいる前に, まず労音運動について述べてお くことが必要であろ う。労音運動 とは ,1 9 4 9 年大阪で生 まれ,勤労者を中心 とした多 くの人々の 「よい音楽を より多 くの人に」 とい う要求に こたえるべ

く発展 した音楽鑑賞運動であ り,それが全国に広が って大 きな運動 とな り,音楽専門家の協力を得て多面的 な活動を展開 してきた。( 労音のステージに出れば歌手 として一人前 と言われていた時期 もあった。 ) 1 9 6 5 年 には 1 9 0労音 6 4万人の会員を持 ち,運動の最盛期をむかえたが,それ以降,文化情勢の変化 ( 1 9 6 2 年 日経連 の指導す る 「 音協」や 1 9 6 3 年創価学会を背景 とした 「民音」が労音に対抗 して発足。 また 「 恐 るべき労音」

の出版など,反共攻撃 と一体になった労音サ‑クルへの中傷や攻撃. さらに,テ レビの普及, レコー ド, ど アノ,ステ レオなどの音楽産業の急 テンポの発達に よって国民の音楽‑の要求の変化 ・多様化など)の中で, 会員数は次第に減少 し ,1 9 7 5 年段階では 1 5 5 労音,約 2 0 万人になっていた。その後, これ ら後退の原因につ いて討論を深める中で ,1 9 7 3 年 1 1月の第1 9回全国労音会議で 「労音運動の基本任務」を全面的に改正 し,再 ス ター トす るわけであ る. これを受けて仙台労音で も,個人加入制や名称変更,規約の全面改正を行 うわけ であ るが, この合唱団の成立に当たっては,旧労音の方針が総括 され る数年前 とい う時期において,いわば

「 誤 った」方針にのった形で 「 指導」を受けつつ鼠織化 された ものであ るといえ よう。

仙台労音合唱団の成立に当たっては, この労音 の阻織が大 き く関わ って くる .1 9 6 3 年当時 の全盛の余勢を かって,仙台で も労音のサークルが数多 く誕生す る.( 約3 ( X仙名) これ らのb‑ ‑クル員の相互交流の中か ら, 歌の好 きな青年が集 まって労音合唱団 「 杜」が成立す る.( 1 9 6 7 年)人数は全盛時 4 8名,週一回の練習を労音 事務局のあるビルの屋上で行 うといった もので ( 雨の場合は事務局で音楽についての座談会)音楽的な指導 者 もな く,交流を中心 とした活動が展開 されていた。 しか し, この団は次の ように 目標をはっき りと位置づ けていた。

1. 労音運動 と密接に結びついた合唱活動 ( 1 ) 思いっき り腹の底か ら唄 うこと ( 2 ) 合唱をす ること ( 技術的な もの)

( 3 ) 労音合唱団にふ さわ しい内容を持つ こと (曲 ・態度 ・その他) ( 4 ) 労音運動の強化に参加

( 5 ) ( 5 ) 団員同志互いに心か ら話 し合える場を持つ こと

この 目標か らも明 らかな ように,労音運動の組織化 と交流 とい う,労音運動その ものが 目指 しているもの

杏,合唱団とい う形で受け継いだ ものであって,団としての独 自性, と りわけ合唱す る場所の確保や音菜 の

(4)

指導 といった点での困難性を乗 り越える具体的な活動は存在 しなか った。当時の ] )‑ダーは 「合唱運動 とい

( 8 )

うよりサークルの うちわだけの会みたいな形」 と回想 している。

合唱団の成立 〜2 回捨金まで

この 「 杜」が中心 となって ,1 9 6 8年 1 2 月労音例会 「あの人は帰ってこなか った 」 ( 第 2 次世界対戦中の岩 手県農民出征兵士 の妻や母の手記を主題 とした もの)のバ ックコーラスを引き受けることとなる。そ こに集 まった労音会員の合唱活動参加の期待 ともあいまって. 「 杜」を発展的に解消す ることとな り.例会用合唱 団の指導者 となった高平つ ぐゆき氏 ( 在仙の うた ごえ活動家)をそのまま常任指揮者に 「酒の力を借 りた ど さくさまざれに くどき落 として」迎えいれ る中で,仙台労音合唱団を結成 しよ うとす る声がたか まるのであ る。この陰には,作曲家大木正夫氏や ,東京三多摩合唱団指揮者北川剛氏の力添えがあった。7 0 年 2 月に 「合 唱団強化の よびかけ 」 ( 資料 Ⅰ)を発表 し ,1 6 名の団員でスター トしたのである。 しか し, ここでの団の性 格規定は,基本的には 「 杜」のそれを踏襲 した ものに過 ぎず,指揮者を迎え入れ レッス ン場 も仙台市営の レ ジャーセソクー教養室 としなが らも,団員の拡大は余 り進 まず,練習の結集人数が一桁の状態が続いた.当 時の リーダーは, この状態を 「責任を労音運営委員会の指導 ・協力の不足 と非難 し,又逆にそ こに依存 しよ

( 7 )

うとしてきた」 と総括 している。そ して, 「このことも大切な点ではあ る」 としなが らも,合唱をやって行 くときに最終的に依拠す る力を見つけ出す努力を始めるわけである。結局それは 「一番信頼 しうるのは俺達 自身の力」 とい うところに到達す るわけであるが,困難を前にして,団員相互の討論 と, うた ごえ運動を続 けていた高平氏の助言 とい う形を とりなが らも ,1 2 月の労音例会 「第九交響曲合唱」に参加す るとい う活動 を通 じて,新 しい 「仲間」を増や しなが らつ くりだ していった ものであった。

7 1 年の 1 月には,労音事務局関係者の入団 もあって,団員は2 4名に増え,レッス ンの結集 も順調に進み 「 毎 週毎週新入田老を迎え, 自己紹介ばか りやっていた状態」が続 くようになる。その後,労音春 の大交流会に 参加 し,労音会員の前に初鼠見せを行 ったはか,東北 うた ごえ教育講習会に参加す るなど 「うた ごえ」 との 交流 も始 まる。 ( 7 1 年の宮城の うた ごえ祭典合唱創作発表会に初参加 し第 1 位 とな り, 日本の うた ごえ祭典 に参加,地域の部激励賞をとる。 ) また,運営委員会体制を確立 し,団運営 とレッス ソを計画化す るとともに, 第 1 回の合宿を2 0 名の規模で成功 させ,交流 と音楽についての学習 ( 講師高平)を行 うな ど,多面的な活動

( 8 1

を展開す る。 これ らの活動の裏には,労音や うた ごえでの制度づけ られた 「 教育」の存在 とともに,音楽 と 社会を見つめるために行われた田内の学習会 (テキス トは 「あなたの音楽手帳」井上頼豊著, 「憲法 と教育 基本法」,その他労音運動や うた ごえ運動についての学習会 も行われた。 )を通 じてひきだ された団員の多方 面に手を延ばそ うとす る青年 らしいエネルギーの存在があ った。つ まり,労音運動を発展 させ ようとす る一 致点 と,思いっき り歌いたいとい う要求が,団員の持つ積極性 と結び付いて展開 された活動であって,‑イ キ ングや芋煮会 といった ような従来の交流のあ り方か ら,合唱団 としての活動を通 じての交流がみ られ るの である。合唱曲 目では,当時労音が 「 再発見」を呼びかけていた民謡 と, うた ごえの中で歌いつがれてきた 歌が中心であ ったが,7 2 年 3 月に成功 させた第 1 回演奏会 ( 3 5 0名)で歌われたものは, これ らの歌 のはかに, 労音会員の阻織化を 目指す内容で作 られた 自主制作の ミュ‑ジカルがあった. この演奏会に対す る高平氏の 講評は, 「合唱団は心を開け るところであ り,合唱団の仲間だけではな く職場の仲間を信頼 して呼びかけ る こと,それがなければ団の発展はない」 とい うことであった.つ ま り. この活動を単に 目的を同 じく持 って いる人 ( 労音会員)だけではな く,その他 自分の回 りの青年に向けて展開 していこ うとい ううた ごえ運動の 影響を受けつつあ ることが感 じられ る。 こ うした活動の広が りの中で,7 2 年 5 月の第 2 回総会では合唱団の 規約を数 カ月の討議を経て確立す る。同時に,田内の組織 も一応整 い,団員 も 4 0名を越え最盛期をむかえる。

( 資料 Ⅰ)

第 2 回轄会〜第 3 回捨金

第 3 回総会 までに行 った主な活動は以下のとうりである。

( 彰 労音関係

東北労音大学,労音総会,労音友好祭参加。例会 「デ ィスカバージャパ ン」に出演。また この間労音か ら

の申し入れで,労音運動 ・合唱活動を発展 させ るために援助 し合 うとい う観点か ら,労音か ら助成金を受け

ることを決定 し,名実 ともに労音 の一つの壊構 となった。

(5)

ヴォランタリー ・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造 6 9 ( 9 うた ごえ関係

宮城の うた ごえ祭典,宮城の うた ごえ合唱発表会, 日本の うた ごえ祭典‥ 島の海 うた ごえ活動者講習会参 加。

③ 社会的活動

・宮城県知事選 ‑団としては活動できなか った ものの, どの様に取 り組むべ きか とい う討論会を開いてい る。その際一番問題になったのは, 自分達の抱えている合唱活動の会場の問題を どう反映 させてい くのか と い う点であ ったが,結果 としては 「明るい民主県政を作 る会」に参加提起のみに終わ った。総括 としては,

①働 く者の立場にたっ と言いなが ら実際活動 となると弱いのではないか,( 多文化 ・音楽が政治に どの ような 役割を果た しているのか とい う点についてのつ っこみが弱か った,( 針亡しい中を歌いに くるとい う意義 ‑令 唱団のあ り方を政治 との関わ りで問題にすべ きではなか ったか, とい うような点が出されている. また,団 員の中か らは, 「なぜ ( 団)が政治闘争をや らなければならないのか,革新系が生 まれ ると歌 とどうい う関 係が して くるのかぜひ話 してほ しい 」 ( 労音合唱団ニュース No ・ 6 5)とい う声 もあ った.た しかに,団を構 成 している成員の中には,政治的な問題に関 して も自覚的な人 々は存在 しているし,労音の会員 とい うこと でその割合が大であ ったことも推測できることである。 しか し, この ような大衆団体が団体 として政治の問 題に取 り組む場合には,それ相当の準備 と取 り組み方が明らかに されていなければ十分には活動はできない ことである。 この場合,活動できた もの,できなか った ものに対 してきちん と総括 して合 ったのは特筆でき るし,必然的に関心を持た ざるをえない事態に対 して,今後 どう対応をとるか といった ことを,当時 として は成員全てが考えていた ように思える。事実, 「 働 く者の立場にた って」 とい うことを実践す る上で教育 ・ 学習係の奮闘が これ以降見 られ るのであ る。(メーデー‑ の取 り組みに対す る学習会な ど)

・市長選 と文団協の取 り組み‑合唱団は レジャーセ ンターの教養室を レッス ン場に していたが, この場所 を毎週確保 しなければ正常な団活動はで きない。そ こで,同様にこの場所を使用 して毎週活動を している他 のサークル と話合い,文化団体連絡協議会を7 1 年 4 月に結成す る. レジャーセンターは仙台市民一般に貸 し 出され るものであって,申し込みは使用前 6 0日か らで きるので,早い もの勝ちとい うことになると活動が阻 害 され る恐れがあるか らである. この教養室に関 しては利用団体運営委員会を作 り,使用に当たっては レジ ャーセ ンターの指示に したがいなが らも, 自主的に利用 日を割 り振 ろ うとした ものである。 レジ ャーセ ンタ ーは翌月の使用できる日を運営委員会に提示す ることに よって, より簡単に一 ケ月の使用を確保す るとい う 方法を とったわけである。第 1期にはこの合唱団か ら会長が選出されている。 ( 資料 Ⅲ) ところが,市民会 館が7 3 年1 1月にオープンす ることにな ると, この教養室は市の社会教育課が保健体育課か ら無償で借 りてい ることもあって,今後の使用が危な くなる可能性が生 まれてきた.そ こで文団協は,合唱団を中心に社会教 育課 と交渉を持つ ことにな り ,7 4 年 1 月の市長選では 「 躍進連合 」 ( 草新市長の選挙母体)の中西部地区青 年学生協議会を通 じて会場問題を訴え,従来 ど うりの使用をかちとるのであ る. ( 若干の使用量を払 うこと になる,月額1 8 0 0円)市政 と りわけ社会教育行政のあ り方 と,いままで労音や うた ごえ運動 といった 自主性 を重ん じる活動をや ってきたサークル との関わ りの端緒を作 っていった点では興味深い.その後,第 3 回演 奏会 ( 7 5 年 6 月)には社会教育課に招待券を送 るなど接触は続け られていた。

④ 団内部での活動

・アコーデ ィオ ンカンパ活動‑労音の例会で カンパを訴え,ただ金を集めるだけでな く,必要性 と合唱団 の活動を知 って もらうために も,労音の組織を大 いに活用.

・うた う会 ‑労音会員の思いっき り歌いたい とい う要求を満た してい くとい う位置づけ と, 「明る く民主 的な歌を広めていこ う」 とす る二つの方 向とのかねあいで ,7 2 年 1 2 月か ら月一回定期的に行われ ることにな った。 ( 毎回団員+4 0名 くらいの参加であったが, この活動はその後仙台市長町にある地域 うた ごえサーク ル 「しお さ い」に受けつがれていった。 )

・. 、イキ ング,芋煮会などの田内交流

・第 2 回演奏会 ( 7 3 年 5 月) ‑ 「 働 くものの うた ごえを心に響かせ よう」 とい うス ローガンで開催, これ には仙台地区労,宮城の うた ごえ協議会,は うわん座が後援団体 となる.

・メーデー前夜祭,わ らび座講習会,仙台市土曜音楽祭参加.

(6)

労音の方針転換〜第 4 回総会

しか し, これ らの動 きの中で,団の活動は停滞を見せ始める。それ まで団の中心 となって奮闘 していた リ ーダーの転 出とい うことも一つの要因ではあったが,団が 目標 としてあげていた理念を現実化 してい く上で, 具体的な活動が団全体 としては明確に意志統一がで きていなか った ことにあ らわ され るC レッスソ結集が1 0 数名 となってしまい,予定 していた演奏会 も延期せざるを得な くなった 7 2 年1 1月には拡大運営委員会を開 き, 団活動のあ り方を再度討議 し直す ことをや り始める。そ こでのまとめとしては,合唱団の活動が労音運動の 中で実践 されてい くためには どのようなことを していけば よいのか とい うことであ り,それを①働 くもの.

労音会員の音楽要求を的確にとらえる努力.( 診その要求を働 くものに とって望 ましい方向に育ててい く努力,

③労音合唱団としての学習 ・活動の成果を演奏の中で現す努力, としてあげている。具体的には , 「よい音 楽」を演奏の中で現 してい くこと , 「 歌 う会」など労音会員の要求を取 り上げてい くこと,労音例会への協力

といった ことが出された。

以上のことは,第 3 回総会の方針 ( 7 3 年 7 月)‑ と引き継がれ る。そ こでは,労音 との関係において 「国 民音楽の創造に努力 しなければな らない」 とい う点に合唱団の役割を位置づけている。 また, うた ごえとの 関係については,合唱団の 5 つの 目的 と合致 しているので , 「 連帯 して行 くべ きである」とい うことが正式に 決定 され るのである。 ( 第 4 回総会 までは,団が呼びかけ団体 となって民謡講座を開 くな ど,前年 と同様の 活動を展開す る. ) ところが. この 「国民音楽の創造」とい う方針は,一年 もたたない うちに全国労音の方針 か ら外 されて しま うことになるのである 。7 3 年1 1月に改正 された 「労音運動の基本任務」の中には次のよう な ものがある。

① 「 音楽文化を創造す る」 とい う規定を取 り外 し, 「よい音楽の鑑賞 と普及」 とい う本来の 目的に戻 るこ と。つ まり,労音のような鑑賞団体が 「運動の性格の範囲を こえ,専門青菜分野の課題 も含め, 日本の音楽 界を リー ドす ることに責任を持たねばな らないかのよ うに考えた り行動 した りす ることは運動本来の性格を 誤 らせ るだけでな く,はなはだ しい思い上が りとい うべ きであ り,労音中心のセク ト主義」( 「労音運動の大 衆的民主的な発展のために」1 9 7 4 年 4 月) とい う把握であ る。 これは,労音運動の発展を音果文化創造‑の 基盤 として位置づけ よ うとす る考え方である。

② 「労働者の立場にたつ」 とい う親定を外 し. 「大衆的で民主的な鑑賞団体であ る」 と改める。 また,会 員は個人加入制を も認めることとな り.サークルを作 らな くて も参加できるように変更 された。 ( 資料 Ⅳ) 主に この二点にわたって,合唱団において も 7 4 年 1 月には 「新 しい基本任務」の読み と討議を行い,その 間の活動の停滞 とあいまって,第 3 回総会方針の再検討を行 うべ く, 2 月には臨時総会を開 く。 まず,団の 規約内の 目的に関わ る点が問題にされた。 これ らの中には結局 「新 しい基本任務」の中で否定 されている内 容を含んでいるものがあるので, 「うた ごえと変わ らないのではないか」 とい う意見がでた ことか ら改正が 求め られ る。そ こで決定 された団の方向は.①団員や入団 しようとす る人の 「思いっき りうたいたい」 とい う要求を取 り上げ選曲は限定せず,幅広 くみんなの要求を取 り上げ る。② 「よい音楽」の中身について理解 を深め,音楽的に質を高め,人間的に も成長 していけ るようにす る。③労音運動を発展 させ る方向で活動す るが 「いつで もだれで も合唱 したい」人達が入団で きる合唱団を 目指す。 とい うことであった。そ して, こ れ らの内実を作 るものとして, レッス ソの内容や よい音楽について検討 し方向付け る役割を持つ 「レッス ソ 研究部」を発足 させ るのである。同様に仙台労音 も3 月には臨時総会を開 き,名称を仙台音楽鑑賞会 ( 仙音) と改め,新 しい基本任務に基づいた活動を始め る 。 8 月の合唱団第 4 回総会では,規約の全面改正が行われ た。 とりわけ,成員は旧労音会員に限 っていたのを改め, 「 仙音の合唱例会に参加 した人たちで発展 してき た合唱団で,仙音会員や歌いたいと集 まってきた人に よって構成 される」 とす る。 また,仙音 との関係では, 音楽活動を広め合唱団員の音楽的要素を豊かにす るために も,仙音を足場に したほ うが よいとしなが らも,

①合唱団は仙音の付属物 として必要欠 くべか らざるものではない.②む しろ一つの一般サークルとして合唱

団を考える,③その中で仙音のサークル活動を活発に し,例会に参加,会員増加に協力す る, と自らを規定

す る。 よって.定期的に行 っていた 「 歌 う会」 も 「思いっきりうた う会」 と改め,仙音会員の要求を満たす

とい うよりも, 「団員がや りたいか らや る」 とい う方向に転換 して くる。 この艶約改正は,合唱団が 自主的

に行 った ことであ り,仙音の運営委員会 とは意見を異に していた。以上のよ うに. この第 4 回総会を もって

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ヴォランタリー ・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造 71 合唱団の性格は大 きく変わ ることとな り,活動のあ り方 も変化す る。つ ま り, 「 仙音の付属物」 としてあっ た団が,仙音の影響か ら次第に遠 ざか ってい くのであ り,旧労音が 目指す方向で一致点を兄いだ していた合 唱団が,一人立ちして,すべて団活動の問題を 自分達で解決 し,新たな一致点を作 り出してい く努力が要求 されて くるのである。 これは,活動の停滞が さけばれは じめた時か ら潜在的に持 っていた ものであったが,

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この時期に顕在化 して くるのである。

自主的サークルとしての模索

第 4 回総会以後は,理念 としてあげた合唱団の 目的を どのように現実化 してい くのか, またそれを保障 し てい く力はなんであ るのかが, より重 く団員に問われていた。いわば, 自主的な一般合唱団 として 自立 して い くための模索が続け られ ることになる。 ここでは,第 1 に, 「みんなの要求を取 り上げ」た活動 とい うも のを どんなものに していったのか,第 2 に, 「よい音楽の中身について理解を深める」 とい うことでは どう であったか,第 3 に, 「労音運動を発展 させ る」 こと,言い替えれば, 日本の音楽文化情勢を切 り拓いてい くとい うような大 きな課題は どのように取 り組 まれたのか, と りわけ他団体 との関わ りは どうであったのか といった点について,活動の展開を追 うことにす る。

( 1 ) 成員の要求に基づ く活動

団員は第 4 回総会当時3 6名,その うち レッスソに常時結集 していたのは2 0 名弱 といった状況であった。そ の後 メソバーは変化 しつつ も,人数的には同じぐらいの規模での活動が続 く。 しか し,新方針は仙音会員だ けではな く,合唱をや ってみ ようとす る全ての人間を対象に していたので,団員の合唱に対す る要求は多様 化 して くる。それ らを大別す ると二つに区分で きる。一つは,合唱団活動を一つの運動 として広げてい こう

とす るものであ る。その中には,旧労音会員の中で も 「 活動家」 といわれ るメンバーにみ られ るような,仙 音の運動 と組織を合唱団を通 じて積極的に広げ ようとす るグループと, 「思いっき り歌いたい」 とい う要求 か ら うた ごえ運動 と交流 し, この合唱団を うた ごえの‑サークルに してい こうと自覚す るグループである。

事実,仙音の例会 と合唱団の レッスン ( 水曜 日)が重な るときは,必ず レッス ンの方を中止 していたし,宮 城の うた ごえ協議会が主催す る行事や, うた ごえの合唱団の演奏会には,欠か さず参加ない しは友情出所を 行 っている。二つ 目は,合唱団を 自分の余暇善用の一つの手段 としてとらえ,その限 りで参加 して くるグル ープであ る。その中には, 「歌が うま くな りた い」 「自分の音楽性を高めたい」 として入 って くるメンバー が主であるが,べつに音楽に関係な くて も,一つのサークルに参加す ることに よって, 「自分を鍛えたい」

( 積極的な人間にな りたい,性格を変えたい,友人がほ しい‑) とい う要求を直接 もって参加 してきた青年 も多か った。実際には,学校の音楽教師や学生達にみ られ るように,合唱団に対 して音楽性 ・芸術性を主 と して要求す る側 と, 日常的には職場や家庭で歌 う機会の少ない労働者の 「 下手で もいいか ら, とにか く合唱 団では大声を出 して歌いたい」 とす る側のギ ャップが,曲目の選定や合唱団の行事等の選択にわた って存在 し,なかなか統一が とれないとい うことが重な るようになる。例えば,芸術性を追求す るグループは, レク I )ェーシ ョソや うた う会中心の活動に対 しては, 「自分の生活や将来の ことを考えると遊んでばか りはい ら れない」 として団を去 る傾向を見せた り,反対に混成四部な どの大 曲ばか りを行 うと,忙 しい中で時 々レッ スンを休んだ りす ると 「難 しいし自分にはついていけない」 として団に来れな くなる労働者 もでて くるので ある。 こうした状態では,新入団員 として入 ってきても,団に定着できずに退団してい く例が多 くみ られ, メソ/ :‑は減少をた どる。 よって, この時期に残 った ものは,芸術性を追求す るグループとしては,主 とし て うた ごえ運動等の接触の中で, 自分達が合唱できるための条件作 りを少 しで も志向 しよ うとす る意志を持 った メンバーであ り, レッス ン全体 としては不満を持ちなが らも,そのわずかの瞬間に音楽性を満足 させ る ものを期待 して, レッス ソに参加 して くることになる。

( 2 ) 「よい音楽」の中身を深める活動

4 回総会以降,音楽に責任を持つ レッスン研究部がで き,多少な りとも団員を音楽的に リー ドして行け る

メソバー ( バー トリーダー ・音楽教育の経験者)が選ばれて活動を続け る。 しか し,その体制は不安定で,

どうい うものが 「よい音楽」で,歌 ってよかった と思 った歌はなぜそ うだったのか といった ような事柄につ

いては まとめてい く作業は進 まなか った。 「皆が熱心に歌 ったか らよか った」 とか 「うまく歌えたか らよか

った」 といった ような総括が主た るものであった。 歌や音楽を始め, 発声, 伴奏 といった技術的な面で も

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その場 しのぎの活動 となってお り,田内で音楽的な リーダーを作 ってい くとい う取 り組みは困難であった。

( 常任指揮者高平氏は, 自分を 「部外者」 と認めているよ うに,定め られた曲を指導す ることに 自分の役割 を限定 してお り, レッスン運営には余 りロを差 しは さまなかった。 )第 3 回演奏会 ( 7 5 年 6 月)では,高平氏 の紹介で組 曲 「山芋 」 ( 大関松三郎作詞,佐藤敏直作曲)を演奏 したが, この歌は団員全体に琴い感銘を与 えた。第 5 回総会 ( 7 5 年 7 月)では 「『 山芋』のよ うな合唱ができる合唱団を 目指す」 といった ことが方針 づけ られたが, うた ごえな どで歌われているものと比べて一風変わ った この合唱が,なぜ皆に感銘を与えた のか とい うことは,その後になっても , 「 生活に根ざした歌 」 「労働の喜びを歌 う歌 」 「 人間 くさい歌」な ど と,漠然 と個 々人に とらえ られているとして も,深 く掘 り下げることはできなか った。そ こに音楽的に リー ドして くれ る 「専門家」が求め られ るのだが,そ ういった人はなかなか存在 しないし,指導を得 よ うとすれ ば財政面か らいって も困難であった。

( 3 ) 日本の音楽文化情勢を切 り拓 く活動

仙音の活動や うた ごえの運動その ものが, この大 きな課膚に取 り組んでいることは疑いえないが, 「 新方 針以降の運営委員会 としての討論が不足 していた 」 ( 第 5 回総会総括) と述べ られているように,む しろ仙 音 とは関係を薄めてい くのであ り ,7 6 年になると,仙音事務局においていた合唱団の書類や楽器類な どもす べて引き払 い,7 5 年 1 月に 「仙音合唱団アコール」 と名称は変更 した ものの, 「仙音」 とい うのは名ばか り になってしまっていた。 この間の事態 としては.仙音が多種類の音楽例会を企画 し,団員の要求 との違いで 参加が見合わな くなっていった ことや,そ もそ も例会数が多 くなって,会員の組成 や参加事態 も不十分 とな り,仙音 との関係そのものが悪化 してきた ことがあるが,その ことに よって仙音事務局 とい う格好の 「たま り場」を も失 うことになったわけである。仙音は,会員組織化と例会用合唱団 としての位置づけに固執 し続 けたが,すでに,会員以外 の リーダー層が多 く存在 してお り,新入団員はすべて非会員であるとい う状況で, 両者の交渉は物別れに終わ った。 また, うた ごえに関 しても, 自分達は うた ごえ運動は直接的に志向せず, 違 った 「音楽性」を追求 しているとい う意識か ら,宮城の うた ごえ協議会の構成 メンバーとはなっていない し (オブザーバー参加) , うた ごえの理論 ・運動論を黄極的に学ぼ うとす る姿勢はなか った。( 7 6 年宮城の う た ごえ祭典参加の位置づけは 「 発表の場を確保す る」 とい うのが主たる意見であった)

結局のところ, この時期は , 「自分達が忙 しい中を合唱活動をや っている意義」( 第 6 回総会総括)を再び 問い直す ところか ら活動を始めざるをえない状況であって,新入団員が増えず,団員の平均年齢が上がって くるに及んで,結婿や出産 とい う困難を前に どう合唱活動に参加 してい くのか といった. どち らか と言えば 消極的な対応になってしまっていた。 さらに,活動を通 じて明 らかに されていた会場問題やたま り場の問題 についても,ほ とん ど肯定 した現状か ら方針をたてよ うとす るだけで, 自分達の活動を保障 してい く体制作

りの活動は展開 されなか った。

停滞から再生へ

第 5回総会か ら第 7回総会 までの時期は,模索の時期であると同時に, リーダー層の入れ替わ りの時期で もある。結成時か らの団長であった D ( 団員番号 6 ・女)は,すでに第 5 回総会において出産のため T ( 1 08

・男)を団長代理 とし一線か ら退いていた し,副団長 H ( 3 8 ・男)同E ( 3 9 ・女) もそれぞれ第 6 回総会 ま で に転出や出産のため退団をしていた。 よって, この 時期の運営委員とし て 残 ったT, Y ( 83・ 女) , G ( 9 5

・女) ,0( 1 1 7 ・ 男)の4 人は,労音基本任務改正以降の入団者であ り,労音運動か ら直接参加 してきたので はな く, うた う会や演奏会を通 じて参加 してきたメソノミ‑であった。団の中心課題は,合唱団 として発展 し てい くことであって,鑑賞運動ではなか った。いわば,第 2 世代に引き継がれた この時期は, レッスン結集 が数名 とい う活動の困難 さが露呈す る中で,改めて,団活動を運営す るときに依拠す る力を見つけ出そ うと している時期で もあった。以上の ことか ら,必然的に,同じ合唱活動を している仲間 として交流のあった う た ごえ運動‑の接近がはか られた。常任指揮者の高平氏は,当時仙台の うた ごえの中心合唱団である仙台合 唱団の委員長 ( 団長)で もあ り,求めに応 じてア ドバイスを与えていた。直接的ではない高平氏の 「指導」

( 仙台合唱団では 「団員一人一人が 自分のサークルを持 と う」 とい う方針があ ったが,そ こでの活動内容は 個人に任 されていた。 )ではあっても,長年 アマチ ュアの合唱団をや ってきた とい う経験に裏付け られていた

ものであったので,団の方向をめ ぐる議論においては大 きな影響を与えるものであった。 ( 7 6 年 1 月には,

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ヴォランタリー ・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造 73 作曲家で もある高平氏の作品発表会が開かれ,7 7年 1 月には作品集の レコーデ ィングが行われ, アコールは 全面的に協力す るとともに,在仙の うた ごえサ‑クルとの合唱での交流を横極的に行った。 )

7 6 年 9 月に開かれた宮城の うた ごえ祭典は,中央か らプロの音楽家を呼んで企画 された本格的な祭典であ ったが,財政上大 きな赤字をだ し,祭典実行委員会はその後 も宮城の うた ごえ実行委員会 として継続 し,運 動の発展の中で赤字を埋める活動を行ってい くとい うことが総括 として提起 された。1 2 月にアコール も実行 委員会に加入を決定 し,常任委員を送 ることに よって, うた ごえ運動に継続的に取 り組む こととなった。宮 城の うた ごえ協議会が崩凄状態であった当時, この実行委員会は 「宮城の うた ごえ協議会再建」を も方針に 掲げ ることとな り,その方針に沿 って年間スケジュールが くまれた。 ( 多 くのサークルが共同の取 り組みを 通 じて相互に交流 し合 う中での再建 とい う方針であった。 )高平 レコ‑ディソグを始め,うた ごえ講習会,夏 の交流会,仙台で開かれた郵便 の うた ごえ全国祭典,宮城の うた ごえ合唱発表会,宮城の うた ごえ祭典な ど の取 り組みが年間を通 じてなされていった。その一方で, アコールは,運営委員 Yを仙台合唱団3 5期研究生 ( 中心合唱団団員 となるための うた ごえの教育制度)に派遣, 5 月の 日本の うた ごえ全国協議会総会にオブ ザーバー参加す るな ど,直接 うた ごえの運動を学ぼ うとす る活動 も展開 された。活動内容 も, 1 年半ぶ りに 開かれた うた う会 ( 7 7 年 7 月)を始め,新 日本婦人の会 リサイタル (9 月)や全国障害者問題研究会大会合 唱出演 (1 1月)な ど,外に出てい く活動が積極的に取 り組 まれていった。

レッス ソ結集数名 とい う状態か ら ,78 年 1 月の第 7 回給会 までの 1 年間に,新入団員 もふえて,2 0名の団

‑ と再生 していった。そ こには,上記の うた ごえ運動か らの影響 とともに,若 いエネルギーを持 った同世代 の運営委員会のまとま り,少人数であったか らこそできた田内の コ ミュニケーシ ョソの深 さな ど ( 例えば, ノー トの回覧にみ られ るような意見交換. レッスン後喫茶店での二次会,数多 く開かれた歓迎 コンパな ど) 多面的な要田があった ことが指摘できよう。 さらに,創造面では,7 7 年 5月に入団 したK ( 1 2 5 ・男)の力把 よって, レッス ン研究部の体制が確立 していった ことが特筆できる。 (K は東北大学混成合唱団の出身であ り,作曲 もす ると同時に,ボイス トt /‑ナ‑として レッス ンの指導に当たることとなった . )K が中心 となっ て レッス ン研究部を リー ドす ることとなって,高平氏 との関係 もスムーズに行 くことにな り,選曲や曲の指

山 )

導のあ り方 も定式化 されていった。第 7 回総会では, ・ Tを正式な団長 とし,また,Kを レッス ン研究部長 ( 運 営委員) とす るな どの体制の確立をはか ったはか,団活動の方向性をめ ぐって以下 の点が全体で意志統一 さ れた。すなわち, うた こえ運動は幅広い合唱活動に よって構成 されているので, うた ごえ運動を直接や るか や らないか とい うことはあま り意味をなさない. アコールの合唱活動の 目指すべ き方向は, 「 仙台を基盤 と して, とりわけ働 く市民のために開かれた合唱団活動をす ること,演奏や うた う会活動な どを通 じて,合唱 にふれたいとい う市民の要求に応えてい くこと」 また,その中か ら, 「合唱を通 した人間のふれ合いの体験 や,その大切 さを学べ るとい う団活動の楽 しさを伝え,広げてい くこと」である。 これ らの具体的な中身は, 実際の活動の中で明らかになってい くものであ り,市民の要求に 「 演奏で応えていける団になるのか,活動 の普及を 目的 とす る団になるのか」は今後の課題 として残 された。( 第 7 回給金総括)

宮城の うたごえ協議会加盟へ

新体制 となったアコールの活動の柱は, ミニコンサー ト活動 とい うことがで きる 。2 0 名規模 の合唱団で,

合唱の未経験者 も多い ことか ら,演奏会 とい うよりも, フラッ トステージで参加者 との交流 もできる一回 り

小 さい形式 のものであった. 目的は,( 1 ) それ までの練習の成果のまとめ,( 2 ) 団員拡大の場,( 3 ) アコールの合

唱を聞きたいとい う仙台市民の期待に応える ,( 4 ) アコールの活動を訴える場, とい うことであ り, 日常活動

が反映 し,参加者に理解 してもらえるような コソサ‑ トを 目指 した.81 年 1 月に第 4 回演奏会を開 くまで,

4 回の ミニコンサー トが開かれたが, 1 回当 り 3 0 0‑45 0名程度の組織を している。形式は らないサークルの

ア ッ トホームな面が好評であ り,音符が読めないとか歌が下手であるとい う理 由で市内の一般合唱団には入

れないでいた人達に,合唱活動参加の条件を開いていった。第 2 回 ミニコンサー ト ( 79 年 3 月)には3 0名の

歌い手 ( 休田老をのぞ く実働 の団員)を獲得 し,演奏会が開け る合唱団‑ と力量を伸ば していった。創造面

では,選曲に関す る方針 と,高平 ‑ レッス ン研究部に よる指導体制の確立に より, アコール‑‑モニーが定

着 されてきた。 とりわけ,編曲を担当したKが既存の ものではな くアコールにあった形で曲想をつ くった こ

とや, アコールの活動か ら得た もので創作曲を次 々に発表 しレッス ソに取 り入れ られた ことが特徴であ る。

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自分達で しか歌えないといった曲を 「 持ち歌」 として作 り上げ る活動を通 じて独 自性や団‑の 「 愛着」を獲 得 していったのである 。7 8 年1 2 月には創作合宿を行い集団創作曲 2 曲を作 り, この取 り組みの過程が第 2 回 ミニコソサー トの合唱構成のステージとなった。 また,市民会館移行問題で, レジャーセ ンターか らピアノ が持ち去 られ,長い間中古のオルガンを会場に置かせて もらって使用していたが,交渉に より自前の ピアノ を備え付けて t /ッス ソができるよ うになったo (ピアノは レジャーセンターに 「 保管」 して もらい,会場利 用団体に も使用を認めることになった。第 8 回総会で団員か ら月1 0 0 円の ピアノカンパを始めた。 ) さらに, 仙台合唱団が企画 している中央のプT Zを呼んでの声楽 レッス ンに,高平氏の強い勧め もあ り多 くの団員が参 加 した。(月 1 回4 0 0 円程度,参加者は女性のみであったが最高時 7 名に もな り ,9 回総会で 1 人1 ㈱ 円の援 助をす ることを決定 した。 )以上の ような新たな取 り組みに よって,演奏力量 も高め られ ,7 9 年には選ばれて 日本の うた ごえ祭典合唱発表会に参加,地域の部救助賞をとる .8 0年の宮城の うた ごえ合唱発表会では第 1 位 となっている。

ミニコンサー トを定期的に成功させてい くためには, うた ごえを始め多 くの団体の協力が必要であった。

参加者の組織だけではな く,音響や照呪 援助出演な どそれぞれ実績を持つ団体 ・個人 との協力関係を作 り 上げていった。そ こには,高平氏をは じめ とす る仙台合唱団の うた ごえの仲間を育てようとす る連帯の力ば か りではな く,民謡の指導に当たった民族歌舞団 「ほ うわん座」や,舞台関係の専門家である劇団 「仙台小 劇場」のスタッフ,合同ステージを作 った フォル クp‑ I /の 「エス トt /‑ジャス ・デ ・カソポ 」 ,乃年 9月に 仙台に うた ごえの店を出した音楽 グループ 「/ ;ラライカ」な ど多方面にわたる地域の文化活動の集団があっ た。(アコール 自身 も,それぞれの団体 も発表会や演奏会には賛助出演を行 ってきたし,仙台小劇場の公演に はバ ックコーラスを担当 した り,高平氏や K が依頼 されて創作曲を作った りす るな どの協力関係を作 ってき た. ) これ らの文化運動の集団は,齢年か ら,仙台の七夕祭 りの期間中 「 平和 と文化の祭 り (夕べ) 」 と銘 う って, 自衛隊の参加や商業主義中心の仙台七夕に対抗 した取 り組みを展開す ることになる。第 1 回の実行委 員長は高平氏であ り,市内の平和運動や文化運動の連帯組織 として も注 目されていた。 アコール も実行委員 団体 として漬極的に協力 した。 日常的には,宮城の うた ごえ実行委員会に結集す る うた ごえサークルとの交 流が多 くなっていった。 この実行委員会は,共同の取 り組みを通 じて多 くの団体の連帯関係を築 き上げ,7 9 年 2 月には 1 年以上の討議の中か ら宮城の うたごえ協議会再建準備委員会へ と発展 していった。 アコールは,

この討議に も積極的に加わ り,準備委員会に も参加 したが, 6 月の結成稔会時には,討議不十分とい うこと でオブザーバー参加であった。理 由の大 きな ものは, 日本の うた ごえ全国協議会に加盟 していないサークル の県協議会加盟 の意味が不明確であることであったが,団員の中では,加盟す るしないが 日常活動の上でそ れほ どの意味を持 って考え られないとい うのが大方の意見であった。 しか し, この間に打ち立てられていっ た連帯関係の重要性は十分認識 されてお り,オブザー′ ミーとして引続 き参加 してい くことが確認 された。 ミ ニコンサー トや演奏会を 目指 してのアコールの取 り組みの中で,困難点 としてあげ られ た も の は,団員数 ( 特に男性)をのぞけば会場問題であった。仙台市は,人 口の割に演奏会のできる会場が少ない. と りわけ, アコールのような地域サークルが使いこなせるち ょうどよい規模の会堤 ( 小ホール規模)は一つ しかな く,

1 年前か ら予約 しないととれないとい う貧困なものであった。 ( 複数の応募がある場合には抽選)必然的に 演奏会の計軌 ま1 年以上前か ら準備 しなければならないのであるが,会場が決まってか らその器にあった計 画をたてるとい うのが一般的であった。第 8 回総会時に方針 として出された第 4 回演奏会の計画 ( 8 0年 1 月 予定)は,会場が とれないとい う理 由のみで 1 年延期 となってしまったo これ らの問題の解決のためには, 大 きな組織 ・運動で もって訴えていかなければ ならないとい う認識 ( 第 9 回総会総括)は持 っていたが,宮 城の うた ごえ協議会がそのために大 きな力を発揮できるとい う確信は得 られなか ったのである。

再建 された宮城の うた ごえ協議会には,仙台合唱乱 国鉄 「D51 合唱団 」 ,電通 「モーニングコール」,

郵便 「きぽ こ」の 4団体の加盟に とどまったが,全ては全国協議会に加盟 してお り,職場サークルの 3団体

は全国の職場の うた ごえ協議会に も加盟 していた。競約の 「 性格 ・目的 」 , 「 活動」の部分は全国協議会競給

と同じ ( 全国を宮城県 と直 した もの)であ り,様 々な合唱サークルを 日本の うた ごえ運動‑ と組織 しようと

す る運動体 としての性格が強 くあ った。 ( 資料 Ⅴ) 日本の うたごえ全国協議会 も全国組織の県支部 としての

役割を強 く求めてお り,連絡協議体組織 と運動組織 との性格をめ ぐって問題を複雑に していた。宮城県の場

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ヴォランタリー ・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造 7 5 合・地域 ・職場の うた ごえ中心合唱団以外のサークルは, 「いままで どうりの連帯関係で十分である」 とし て加盟を見合わせていた し,すでに県単位の協議会を結成 していた学生のサークル も, 「メ リッ トがない」

として加盟 してこなか った。そ うした意味か らも,再建 された宮城の うた ごえ協議会には, うたごえ運動の 鼠織化を 目指す 「指導性」が求め られていたが,仙台合唱団をのぞいては人数的に も大 きな組織ではな く, 3 サ クルか ら出されている委員は,事務局長 となった 1 名 ( 仙台合唱団研究生修了)を除いてすべて仙台 合唱団員であ り, 4 サークルの代表が集 まって も,仙台合唱団の 「団外組織部」の意味あいが浸かった。 よ って,実際の活動は・宮城の うた ごえ協議会独 自の活動 よりも,その時 々に応 じて 「サークル代表者会議」

や行事の実行委員会を結成す るとい うことにな り,再建準備会の活動 と変わ ることはなか った。そ こか ら, 1 年を経過 した取 り組みの反省 として, 「いま求め られているのは,運動体 よりも連帯組織であ る」 として, 日本の うた ごえ全国協議会未加盟サークルの参加の条件を探 り,全国協議会に縛 られない県独 自の組織を全 面に押 し出すのである。そ こには, アコールを初めとす る未加盟サークルの活動が,県の うたごえ運動を進

県 レベルが主 全国協議会に加盟 していない場合 もある 園 Ⅰ うたごえ運動の存在形態

図 Ⅰ 宮城県におけるうたごえ運動の存在形態 ( 1 9 8 0 年当時)

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めてい く上で無視できないほ どの力を発揮 していたか らにはかな らない。以上の ような経緯を経て, アコー ルはめ年 5 月の第 9 回総会で正式に宮城の うた ごえ協議会加盟を決定す るO ( 図 1, Ⅱ)

3 0 名以上の団を目指 した活動

第 4 回演奏会の計画を始めたのは, ミニコンサー ト活動が軌道にのってきた第 8 回総会であった。 ( 7 9 年 4 月)アコール結成1 0 周年記念の意味 も込めて, 「ミニコンサー トの良 さを引き継 ぎ, ミニコンよ りも一歩 進んだ演奏会」 とい う目標であった。対外的な交流を旺盛に進め,多 くの仲間の協力の中で, 「仲間 うち」

( 運動を意識化 している集団)だけではない多 くの市民にアピールす る活動を展開す るよ うになると, 「い っしょうけんめいや っている姿」だけでは感動を呼ばないし,多様性を持つ観客を意識す る演奏や企画が求 め られていた。以上のことか ら,① 「 発表」が柱 となれ る団活動の計画,②最高のものをや りきれ る音楽教 育の体制作 り,が課題 としてあげ られたが,いつで も次 々と新入団員が入 って くるとい うスタイルの合唱団 では,団の構成が変化 しなが ら発表に取 り組む とい う新たな困難点が指摘 されつつあった。県の合唱連盟に 加盟 しているよ うないわゆ る 「 一般」合唱団では,年に時期を区切 って団員募集を行い,そ こに集 まってき たメンバーをのみ対象 として演奏会の計画を作 り出すのが一般的である。 また, うた ごえの中心合唱団では, 研究生制度を持 ってお り,半年か ら 1 年の研究生期間を終了 した メンバーを団員 として入団させ るとい うシ

ステムで,活動の計画をたてていた。労音の会員の中か ら労音運動を発展 させ る意味で団員を集め,多 くが それに沿 った意識を持ちなが ら入国 してきた時期に比べ,形態的には次 々と入団 して くるとい う同じもので はあって も,質的にはかな り違 ったものであったのである。

停滞期を乗 り切った 「第 2 世代」の ] )‑ダーや団員には,活動に対 してある程度の共通 したイメージを持 って実践す ることが可能であった し,新入団員が次 々と入 って くるといって も ,2 0 名ほ どの集団な らは,輿 茶点での二次会を とっても,一同に会 しての話合いが可能であった。そ こでは,サークル性を十分に活か し た 「仲間作 り」の活動が一人一人に対 して綿密に行われていた。 しか し ,3 0 名を越す集団になると,一同に 集 まれ る場所は喫茶店をとってもほとんどないし,二次会は分かれて開催 とい うことが多 くな る。 (たまり 場に していた店が営業停止す るとい うの も痛手ではあった。 )9 回総会では班体制 (3 班)を作 り.前運営委 員の 2 名を班長 とし,田内交流や新入団員の世話 と同時に団活動に規定 されない自主的な活動を期待 したの だが,思 うほ どの効果はな く,新入団員の定着は高 くな らなか った。図Ⅲに見 られ るように,規約改正以降 の団員組織化 ( 団員番号 1 0 9以降)紘,労音や うた ごえか らの紹介や宣伝 とい うよりも,団員一人一人が一人 をつれて くるといったものが主であって,友人や職場の同僚 といったところか らの組織化である。仙台市の 産業構成を反映 し,余 り大 きな職場の労働者は少な く,大部分が小規模運営の労働者 ( サー ビス業関係が多 い)である。大企業の場合は 自前で合唱のサークルを持 っていた りすることは多いので, 地域のサー クルに入 って くるのは少ないこともあげ られ よう。 ア コールでの比率では,保母(自治体職員)や看護婦が多か ったの であ るが, これは,職員数が多いわ りに合唱のサークルがなか った ことがその理 由であ り,職場を通 しての 団員拡大が可能であった数少ない例である。その保母 も ,81 年に仙台で開かれた保母の うたごえ全国祭典を 前にサークルの結成 と組織化が進め られ.「意識的」な部分は うた ごえサークルに組織 されてい くこととな り, 頭打ちの状態 となっていた。友人を此度的多 くつれてきたメンバーは,仙台出身の数少ない 「地元」の人間 であるが,友人や同級生の数は限 られお り, また,サークルに入 って しまうと,友人関係はサークルに限 ら れてきてそれ以上広が って こないとい う状況を作 り出していた。団員番号1 2 6(7 期運営委員)紘,勤労青少 年ホームのサー クル員 として,社会教育が組織す るサークルか ら新入団員をさそ ってきたが,勤労青少年ホ ームこそが 「 一人ばっちの青年」を対象 としたサー クル活動であるので,そ こか らさらに人の輪が広が ると い うことはなか った 03 0名 とい う数は,不十分であるとしても演奏会は可能な人数であったO しか し,パー トバ ラソスを見 ると,男と女が 1:2 であ り,そのままではかな り苦 しいとい うこともあ り,団員拡大は最

0 カ

後 まで追求 された。 となると, コンサー トや発表の場での宣伝のほかに, タウン誌や地元新聞‑の広告 とい

う形での団員募集 とい うことになる。 この場合は,実際の活動を見てもらっての入団ではないし,田内に友

人がいてスムーズに参加できるといったことに もなっていない。運営委員会は,新入団員の交流にかな りの

労力を使 うとい うことになったのである。 (ノー ト回覧, ニュースの定期化,全員での持回 りニュース発行,

運営委員会内の田内組織部の新設な ど。 )

(13)

ヴォランタリー ・アソシエーションにおける教育実践の基礎構造

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7 7

図Ⅲ 第 4 回捨金以降の用鼻祖練化 ( 1 0 9 ‑1 7 6 )

81 年 1 月に 5 年半ぶ りで開催 された第 4 回演奏会は,合唱団の歴史の後半 5 年の活動の総括 となるべ きも

のであ り,労音合唱団か ら市民合唱団 としてのアコールの転換を社会的に もアピールす る場 ともなった。( 第

1 0 回給金総括)団員の圧倒数が初めての試みであったに もかかわ らず,企画においても組織においても過去

最高のものであった。 しか し, 3 0名以上の団での取 り組み とはなれず, 2 年間にわたって課題を残 して しま

うことになった。そ こか ら,運営委員会内に事務局の設置 とい う方針が提起 された。ち ょうど K が大 きな家

を借 りることに もなったので,一室を事務所 として提供 してもらうことが決 ま り,団の財産を置 き,たま り

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