軍備部方式の破綻 と海軍軍拡計画の再編 ( 中)
‑
1 883‑86
年‑池 田 憲 隆
0.
序論1.軍備部方式の破綻
1)「 83
年軍拡実行プラン」の概要2)「 83
年軍拡実行プラン」の遂行状況3)
軍拡財源 (増税分)の推移4)軍備部収支の検討 (
以上、前号)2.
艦船整備の展開過程1
)艦船整備計画の大枠2)整備案 (
外国発注)の変遷 3)整備の実施過程4)小括 (
以上、本号)3.
海軍公債の発行 と海軍軍拡計画の変容4.
結論2.
艦船整備の展開過程この時期における艦船整備の展開過程 についてはすでに分析 している 1)が、海外発注に関 しては
83
年5
月以前 しか検討 してお らず、国内建造に関 してもやや中途半端に終わ っていた。そ こで、 こ こではその補足をお こな うと同時に、海軍が強硬 な繰上げ要求で予算を獲得 したに もかかわ らず、83
年度か ら85
年度にかけて実際には支出できなかった原因についても検討 しておきたい。83
年軍拡 当初プランでは表5
にみ られるよ うな艦船整備計画の大枠が海軍卿か ら太政大臣に提示 され、承認 されていた。その後、さらに海軍は予算支出を83・84
年度に前倒 しする繰上げプランを 上話 し、ついに83
年5
月28
日に認可をえた。 この時点で、陸軍兵員増加費の大幅増額 とこの海軍 繰上げプランによって軍拡計画全体は変容 ・拡大 した( 83
年軍拡実行プラン)。海軍軍拡費 自体 としのなかで艦船整備をおこな うことになったのである。
1
)艦船整備計画の大枠83年軍拡 プランに基づ く海軍艦船整備計画は 8年間にわたるものであ り、その全体の枠組みは表
5
にみ られるような ものであった。 これによると、4
つの艦種分類 に立ち、32
艦を新造 し、現有艦 (製造中の 「海門」
「天龍」 も含む)の大艦 1、中艦4
,小艦5
を加えて総計42
艦 による艦隊を編成 する計画であった。 この計画は、一方でこれ以前には海軍艦船整備の長期計画が認められた実績はな かった とい う点においても、他方で清を事実上の仮想敵国 として構想されたもの とい う点でも画期的 なものであった。後者 に関 しては、 この計画完遂後には清の艦隊編成を総合的に上回ることは確実で あった3)
と考えられる。この整備計画の特徴は、艦隊編成のバランスが重視されていることであ り、
4
つの艦種の うち小艦 の予算が相対的に少額である以外は均衡的な配分 となっているが、水雷砲艦だけは相対的に優遇 され ているといっても過言ではない。この理由については、計画案等では必ず しも明 らかにされていないが、この時期の艦船分野における技術発展の 1つ として、水雷艇の役割に注 目が集 まっていたことは事実 であろう。 1860年代に発明された魚雷を主装備 した高速の小型艦艇は、建造期間が短 く、かつ製造 費が安価であ りなが ら大型の装 甲艦をも沈める可能性を秘めていたため、 1880年代には各国海軍が 競 って建造 した といわれている 4)。それゆえ、欧米列強ほ どの潤沢な予算を期待できない 日本海軍 と
しては、水雷砲艦 (水雷艇)の重視 とい う選択肢はある意味では合理的であったといえるかもしれない。
つ ぎに、繰上げプランの根拠 となる整備案 (83年 5月)の詳細について、表 65)に基づいて検討 したい。 これによると、83‑ 85年度に予算が計上 され、基本的に完成を予定す る艦は、竣工が遅 延 していた天龍を除 くと、大艦
(2)
、中艦(4)
、水雷砲艦である。 この案の特徴は、まず大中艦を 比較的早期に整備するとい う意図か ら 83・84年度予算が後年度か らの繰上げによって増額 されており、小艦には予算配分がいない (水雷砲艦を除 く) ことである。
その際、 とくに注 目されるのは大艦の予算が 2艦合計で約 617万円であ り、総額の約 57%を占め ている点であろう。 これでは 1艦 当た り 300万円超 とな り、整備計画の大枠で予定 されていた平均 単価 150万円 (表 5参照)の 2倍を超 えて しま う。 後年度 もこの単価 と同 じとして計算すると、大 艦 5艦の合計額は約 1500万円となる。総額が変わ らない とすれば、中小艦以下の整備の しわ寄せに なることは必至であ り、艦隊編成計画が歪んだ形にな らざるをえない。他方で、もし中小艦以下の整 備計画を変更 しない とすれば、大艦予算の追加要求に向かわざるをえないであろう。 この点か らも、
実行 (繰上げ)プランは単に艦船整備の早期立ち上げにとどまらず、軍艦製造費総額の増額要求が潜 在的に組み込 まれたもの と考えざるをえないのである。
中艦
(
「葛城」
「武蔵」
「大和」
「筑紫」 )
の新規製造 ・購入予算は、合計で約326
万円であ り、総予 算額の約 30%であ った。 1艦 当た り単価 は約 81万円であ り、整備計画の大枠で予定 されていた平 均単価に比べ ると、やや節約された金額 となっている。 これは大艦予算の膨張の影響 とみることがで きるが、「筑紫」を除いて国内発注艦であったため、回航費や監督諸費等があま り必要 としない とい う計算 もあったであろう。2
表
5 83
年軍拡当初プランに基づ く整備計画案(単位 :千円)
艦数 製造費 比率 1艦 当た り製造 員
大艦 5 7,500 28.2
%
1,500中艦 8 7,800 29.3
%
975小艦 7 2,520 9.5% 360
水雷砲艦 12 8,820 33.1% 735
(出典)史料[6]三条実美太政 大 臣宛川村純義海軍卿上 申(1883年2月 24日)よ り作成。
なお、大枠で相対的に優遇されていた水雷砲艦は、 この 3年間の計画では 80万円 (総予算額の約
8
%) とされてお り、相対的な位置づけは低い。 しか し、史料から見るかぎり、 この額は 1艦の予算 とされているので、それ自体の単価は低 くはな く、大枠の平均単価を上回っている。水雷砲艦につい ての史料が少ないため、あまり確実なことはいえないが、 この時点では実験的な予算設定であったの かもしれない。表
6
艦船整備案(単位 :千円)
艦 費 別 1883年度 1884年度 1885年度 合計 比率
天龍 造船 費 120 120
兵器 責 162 162
小計 282 282 2.6
%
葛城 造船 220 240 140 600
儀 装費 34 34
兵器費 170 170
小計 220 410 174 804 7.
4%
武蔵 造船 130 260 210 600
膳 装費 34 34
兵器費 170 170
小計 130 430 244 804 7.4%
大和 造船 500 100 600
儀 装費 34 34
兵器費 170 170
小計 670 134 804 7.4%
水雷砲艦 造 船責 126 255 255 636
兵器費 83 83 166
小計 126 338 338 802 7.
4%
筑紫 造船 費 507 507
回航費 133
兵器費 205 205
小計 845 845 7.7%
鋼鉄一等艦 造 船 費 750 750 1,500
回航 費 150 150
蟻装 費 23 23
兵器 費 426 426 852
小計 1,176 1,326 23 2,525 23.2%
鋼鉄鉄 甲艦 造船費 638 1,275 638 2,550
回航責 210 210
膳 装費 32 32
兵器費 426 426 852
小 計 638 1,701 1,306 3,644 33.
4%
監督者 及諸雑 費 造船 費 26 49 49 124 1.1%
海 門天龍筑紫 犠装 費 126 126 1.2
%
当初予算額 3,330 3,330 3,330 9,990
2)
整備案 (外国発注)の変遷では、 この整備案の中核的存在であった大艦
2
艦(3
年間の新艦製造費予算総額の約57%
を占め た)は、具体的にはいかなる性能や仕様を想定されたものであったろうか。赤松主船局長より海軍卿 への5
月5
日付上 申書6)によれば、「鋼鉄一等艦」は排水量5500
トン、速力1 6
ノッ ト、主砲 とし てクル ップ30
サンチメー トル半砲 (あるいはアームス トロング45
トン砲)3
門、砲塔および甲板 の鋼鉄厚が3
インチ、兵器を除 く製造費は銀貨1 00
万円、な どと定められていた。他方、「鋼鉄鉄 甲 艦」は排水量6500
トン、速力1 6
ノッ ト、主砲 として30
サンチメー トル半砲 (あるいはアームス トロング45
トン砲)3
門、鋼鉄の厚 さ1 0
インチ、砲塔および甲板の鋼鉄厚3
インチ、兵器を除 く 製造費は銀貨1 40
万円、な どと定め られていた。また、 この上申書によれば、 この2
艦は英国と仏 国にそれぞれ発注する予定 とされていたが、その後5
月25
日付太政大臣宛海軍卿上請書 7)の付属文 書によれば両者 とも英国発注 とされている。 ともあれ、 この大艦整備案は 5月 28日付で太政大臣の 認可を得ている8)。これ らの案が、当時の清国における最新鋭主力艦 「定遠」・「鎮遠」 (排水量
7200
トン、主砲1 2
イ ンチ砲4
門、鉄製船体の水線部に1 0‑ 1 4
イ ンチの装 甲鋲を装着)9)を意識 していたものであ ることはい うまでもないであろう。 もちろん、 この 2艦の予定仕様では排水量はもとよ り攻撃力 ・ 防御力 ともに清国艦 に見劣 りするものであった。前者は英国で防護巡洋艦( pr o t e c t e dc r ui s e r )
と 呼ばれ る艦種 に属す る ものであ り、後者 の仕様 はやや はっき りしない点があ るが、装 甲巡洋艦( a r mo ur e dc r ui s e r )
に属するもの10)と考えられる。ただし、 この整備は8
年計画の3
年分に割 り当 てられたものすぎず、後の5
年間でさらに大艦3
艦を建造する予定であ り、かつ中小艦および水雷砲 艦 も並行 して整備する予定であったか ら、艦隊計画 としてはまった く見劣 りするものでない。 しかも、この 2艦の予定製造費は表 6の数値に沿った金額になってお り、その点で前述 したような大艦の追加 予算要求への潜在的可能性を秘めたもの といってよいであろう。
ところが、 この整備案は前述の太政大臣上請によって認可をえた後、わずか
1
ケ月ほどで変更され ることになって しまった。6
月26
日付で海軍卿は太政大臣に整備案変更の何を提出 し11)、3
日後に 認められているのである。それによれば、まず 「鋼鉄一等艦」は発注取 り止め とな り、別の艦へ と差 し替えられた。すなわち、チ リ国がアームス トロング社に発注 した鋼鉄製軍艦エスメラルダ号( 3000
トンクラス)が予定変更により、代価1 75, 000
ポン ド (回航費等を加えた総額は紙幣1 31
万円ほど) で売 りに出されることが判明 し、調査の結果、これを購入することが決定されたためであった。 これ は整備案の 「鋼鉄一等艦」に比べて小さい艦ではあるが、艦船整備の早期立ち上げを 目論んでいた海 軍 としては、現在アームス トロング社において製造中のイタリア海軍発注艦 と同型であ り、かつ既に 竣工間近である (実際の配備が早い) とい う利点を優先 したのかもしれない12)。他方で、「鋼鉄鉄甲艦」 も仕様をやや変更 した案13)が
7
月1 7
目付で太政大臣宛に提出されて認め られている。それは、英国発注、排水量71 00
トン、速力平均1 5
ノット、最高1 6. 25
以上、主砲 と して30
サンチメー トル半砲2
門、中央台場側面甲鉄の厚さ1 6
インチ長さ1 50
フィー ト、中央台場 前後両面甲板の厚さ1 2
インチ、甲板鋼鉄の厚さ2. 5‑ 3
インチ、製造費は兵器除き銀貨1 70
万円 (紙 幣255
万円)とい うものであった。当初案の 「鋼鉄一等艦」を格下のクラスに変更 した代わ りに 「鋼4
銑鉄甲艦」をグレー ドアップ したもの といえよう。 この案に基づ き、海軍卿は英国滞在の伊藤寓吉少 将宛に製造注文の手筈を整えることを命 じた訓令14)を発 した模様である。
このように、
7
月段階で繰上げプランに基づ く大艦整備案がようや く確定 したかにみえた。 ところ が、その後の経過を追 ってい くと、さらなる変更が繰 り返 されたことが判明する。9
月3
日付の外務 省文書15)によると、「メイセイ号型防護艦二隻ノ製造価額等」についての調査を海軍卿が外務卿を通 じて在英森公使宛に依頼 している。 この 「メイセイ号」 とは当時英国海軍が建造中であった非装 甲巡 洋艦( Me r s e y、 4050
トン)であった と推定される16)か ら、7
月段階で一応決定された 「鋼鉄鉄 甲艦」の排水量の 6割弱程度の艦船で しかない。おそらく 「鋼鉄鉄甲艦」予算を 2分割 して、先に決定 され ていた 「エスメラルダ号」の仕様をやや上回る艦を 2隻建造 し、当初 3年計画における大艦 2艦建造 を 3艦整備に変更するとい う案が、少な くともこの 9月段階には浮上 したもの と思われる。
とはいえ、 この時点では 「鋼鉄鉄 甲艦」の
7
月案はまだ生 きてお り、伊藤少将はその仕様に基づ く艦船建造プランを現実化すべ く、仏ホルジサ ンチ‑ (フォルジ ・エー ・シャンチェ‑)社やアーム ス トロング社な どにおいて調査 ・折衝をお こなっていた17)が、予算面で折 り合わなか った18)ため か、結局7
月案は最終決定には至 らなかったようである。 こうした経過をへて、最終的な決定へ踏み 出す契機 となったのは、皮肉なことに既に購入が決定されていたエスメラルダ号の購入不能 とい う事 態19)であった。その購入計画は白紙に戻 され、旧計画 (鋼鉄一等艦の発注製造)へ と再度復帰することになったのである。
その後の大艦整備案の変遷過程は史料的にはっき りしない点があるが、繰上げプランに基づ く
5
月 整備案に最終的な決着がつけ られたのは、当初案策定か ら半年以上経過 した83
年末か ら翌年の 2月 にかけてであった。1 2
月6
日に海軍卿は外務卿を経 由 して英国に向けて 「改良メルセイ型弐艦 ヲ各 代価弐拾弐万五千硬ニテ注文約定スへシ」と打電20)
するとともに、1 2
月1 0
日には太政大臣宛に 「鋼 鉄艦二隻英国二注文之義御届」
21)を提出 したようである。すなわち、7月 「鋼鉄鉄 甲艦」案に代えて、9
月段階での浮上 した4000
トンクラス非装甲巡洋艦2
隻案の採用であった。さらに続いて翌年2
月1 9
日には、仏国フォルジ ・エー ・シャンチェ一社へ も同等 クラスの巡洋艦が約1 09
万円 (銀貨)で 発注されることになった22)
。こうして、当初案の 2艦建造が 3艦建造へ と変更 されることになったが、仕様変更によ り総予算は当初案の範囲内に収めることができたのである。 これ ら
3
艦はその後 「浪速」「高千穂」「畝傍」 と命名された。
3)整備の実施過程
表
6
にみ られるように、83
年5
月時点で繰上げプランにおいて計画されていた国内製造艦は、「葛 城」
「武蔵」
「大和」の3
艦 と水雷砲艦である。前者3
艦は、艦船整備計画の艦種分類か らい うと中艦 にあた り、1 600
トン程度の鉄骨木皮艦であった。 この内、「葛城」「大和」の発注経過は既に検討 し ている23)
083
年軍拡 当初 プラン策定 と並行 して、それ らの製造が計画 され、計画決定 ・実施に先立 って前倒 し的に 「葛城」は82
年1 2
月に横須賀造船所で起工 され、「大和」は83
年2
月にキル ビー の神戸鉄工所 と製造契約が締結 された。 また、「武蔵」は 「葛城」同型艦 として計画 され、海軍省は 横須賀造船所に対 して1
月31
目付で製造の委細について主船局 と協議すべき旨を達 している24)
0これ ら国産初の鉄骨艦を建造するにあたっては、 この当時海軍唯一の造船所であ り、かつ国内随一 の建造実績をもっていた横須賀造船所に発注がなされたのは当然であるが、ほぼ同時に神戸鉄工所に も発注がお こなわれた最 も有力な理由は、同所が鉄船の製造実績をもっていたことにあったと思われ る。繰上げプランにおいては、 これ ら
3
艦建造は先にみた外国発注に続 くプロジェク トであ り、総予 算額の中の約22%
を占めていた。 しかも、83
年度に入る前に前倒 し的に発注 ・起工がお こなわれた ことか らわかるように、早期完成が見込まれていた。つま り、表6
の予算案にみ られるように少な く とも85
年度中(
「大和」については84
年9
月)には竣工することが予定されていたのである。ところが、実際には
3
艦 ともこの予定を大幅に遅延す ることになった。 「葛城」
「大和」の竣工は87
年11
月、「武蔵」は88
年2
月25)
であった。 この原因は、両造船所の建造能力や経験の不足によ る26)ものであろ う。 当時国内で最 も高い造船能力を もっていた といわれる横須賀造船所でさえも、艦船の建造実績は
1 500
トンクラスの木艦 までであ り、 83
年当時においても 「海門」( 77
年9
月起工) と「天龍」( 78
年2
月起工)はいまだ末竣工であった。82
年度以前は艦船建造費が修理費等に侵食 され、予算が十分ではなかった とい う事情を考慮 しても建造能力の低 さは明 らかであ り、初の鉄骨艦
2
艦を ほぼ同時並行 して建造することは不可能ではない としてもかな りの困難を伴 うものであったろう。そ れゆえ、83
年度以降建造費はかな り潤沢に供給されたにもかかわ らず、建造期間は長期化せざるを えなかったのである。また、神戸鉄工所については艦船建造はお こなってお らず、その実績 は
500
トン程度の鉄船を造 ったとい うものであった。それゆえ、横須賀造船所 とはまった く比較にな らないのであるが、国内製 造拠点の確保 とい う意味 もあったためか、「葛城」同型艦である 「大和」の発注がお こなわれた。 し か し、経営者キル ビーは資金繰 りに行 き詰 まって自殺 し、建造は中断 したため、海軍は同所を買収 し、小野浜造船所 として建造を継続させていった27)。
このように、繰上げプランに基づ く艦船整備
3
年計画は順調 とは言い難かった。大艦の建造計画が 艦種の選定か ら発注に漕ぎ着けるまでの約 1年を要 した。それに対 して、中艦の建造計画 自体は迅速 に実施に うつされたが、国内造船所の建造能力不足か ら建造期間が長期化 したのである。最後に、以上のような整備過程を軍艦製造費の消化 とい う側面か ら検討 してお こう。 表
7
は1 883
‑ 85
年度における軍艦製造費の支出推移である。まず国内建造の中艦
3
艦についてみると、「葛城」は比較的予算案に近い支出推移であるが、85
年 度 までに竣工できなかったことは既にみた。同 じく横須賀造船所で建造 された 「武蔵」は、予算に比 べて支出推移が遅れてお り、建造の遅延がみて とれる。 もちろん、実際に竣工は大幅に遅れた。「大和」は予算では
83
年度 に集中的に投下され、84
年度半ば とい う早期の竣工を予定 していたが、神戸鉄 工所の破綻によ り建造が遅れるとともに、支出額 もかな り超過気味になって しまった。外国発注艦についてみると、「筑紫」は完成艦を購入 したので支出は
83
年度でほぼ終了 しているが、他の
3
艦はすでにみたように、最終決定 ・契約が遅れて起工が83
年度後半にずれ込んだため、予算 に比べて各年度の支出額は少ない。ただ し、 これ らの大艦は当初 プランに比べてグレー ドが下げ られ ているため、製造費 自体 も縮減されている。 また、国産に比べて建造期間は短 く、ほぼ Zから2. 5
年 で竣工 している 28)ので、契約締結後の建造経過 は概ね良好で予定通 り29)
であ った とい ってよいだ6
ろう
。
それゆえ、外国発注艦に関 しては、予算が消化できなかった原因は始動の遅れ と仕様変更にあ ったのである。表 7 軍艦製造費支出額推移 (1883‑ 1885)
(単位 :千円) 艦名 費別 1883
年度
1884年度
1885年度 計
比率葛城 船休機 関
184 274 124 581兵器 費
44 67 29 140小 計
228 341 153 722 8.8%武蔵
船体 楼 閣
49 95 262 406兵器費
16 66 52 135小 計
65 162 315 541 6.6%大和
船体 機 関
153 349 216 718兵器 費
68 70 18 156小 計
221 420 234 875 10̲7%高雄 船体機 関
2 15 31 47兵器 費
2 92 34 128小 計
4 107 65 176 2.2%海 門 船体 機 関
720
72兵器 費
30
3小 計
760
76 0.9%天 龍 船体 機 関
113 102 28 243兵器 費
82 60 5 146小 計
195 162 32 389 4.8%浪速 船体 機 関
280 566 352 1,197兵器 費
84 169 4 257回航 費 0 0
雑 費
79 93 6 178小 計
443 828 362 I.633 20.0%高千穂 船体 機 関
280 567 287 I.133兵器 費
84 112 4 199回航 費 0 0
雑 費
79 93 6 178小 計
443 772 297 1.511 18.5%畝傍 船体 機 関
186 367 53 606兵器 費
108 85 1 195雑 費
64 62 1 128小計
358 515 56 929 ll.4%筑紫 船休機 関
515 2 518兵器 費
8 10
9回航 費
72 72雑 費
41 41小 計
636 30
640 7.8%愛宕 船体 機 関
兵器 費
1 4 23 28小 計
1 4 23 28 0.3%摩耶
船体 機 関
18 74 92兵器 費
1 4 22 27小 計
1 22 96 119 I.5%鳥海 船体 機 関
56 17 73兵器 費
2 8 10小 計
59 24 83 1.0%小鹿 船体 機 関
21 89 110雑 費
3 2 4小 計
24 90 114 I.4%満珠 兵器 費
5 1 6 0.1%干珠 兵器 費
5 1 60. 1
%水雷船 兵器 費
150
150. 2
%扶桑 兵器 費
12 2 14 0.2%金剛
兵器 費
9 I 10 0.1%比叡
兵器 費
91
10 0.1%迅鯨
兵器 費
41
5 0.1%赤城 船体機 関 0 0 0. 0
%厳 島 兵器 費 1 1
0.0%松島 兵器 費 1 1
0.0%橋立
兵器 費 0
0 0.0%千 島 兵器費 0
0 0.0%小蒸気 船端 船等 船体機 関
28 23 51 101 I,2%郵船 兵器 費
72 39 2 113I
.4
%兵器 製造 材料
41 2 420
,5
%合計
2.770 3.578 1.812 8.160 100.0%予算額 4,384 4.388 2.133 10,905
未消
化 瀬
1.614 810 321 2.745( 出典) 史 料 [7
】「 軍艦 製 造費始末」
(1891年
8月詞)0 (注1
)予算額は繰上げプランによるO(注
2)原資料の百円の位を四捨五入 したため、Dという数値の記載 は五百円未満の支出があったことを意味 している0
4)
小括83
年度から始まった海軍軍拡8
年計画のなかで、当初3
年間の艦船整備について計画 と実施の両 面から検討を加えてきた。 この3
年間の艦船製造予算は、海軍が陸軍のごり押 しに便乗 した形で、な かば強引に獲得 したものであった。にもかかわ らず、3年間の予算消化率は 75%程度 (表7)に止 まった。 この理由については、整備プランにおいて最も比重の大きかった外国発注の大鑑 と次に比重 の大きかった中艦 とではかな り対照的である。すなわち、前者については当初案から実際の決定 (契 約の締結)までに手間取ったため1
年近 く着工が遅れたので、予算の執行がずれ込んだことが主因で あり、仕様変更による製造費の圧縮が副因であった。後者については当初案が迅速に実行に移された が、国内建造が主であったそれ らの艦は国内造船所の造船能力や経験の不足から、製造が難航 したた め、予算執行が遅れ気味になると同時に、当初の竣工期限をはるかに超過 してしまったのである。以上のように、海軍整備計画に際 して多額の予算を獲得 したにもかかわらず、実際には消化できな かった理由については、「工事の遅れ
」 3 0
'とい う点は国産の中艦について妥当するが、最も大きな原 因は外国発注の遅れにあった。 この遅延については、海軍内部における軍備構想の対立激化によるも のであったという見解3
1)があるが、この時点では対立 とい うほどのものではな く、既定予算の枠内 における艦種選定の迷走 というべきものであった。 これ以前に海軍は長期的かつ潤沢な艦船製造費を 手にしたことがなかったにもかかわ らず、対外情勢が追い風 となって突然巨額の予算を手にしたため、艦隊構想が実行可能な形で整理されておらず、しかも外国に艦船を発注する経験が不足 していたため、
意思決定が迅速におこなえなかったものと考えられる。
【注】
1 )池田 [ 2 002 ]p p . 22‑ 25 0 2) 池田 [ 2 001 ]p p . 5 0‑ 51 0
3)
もちろん、 この時点で後の清の軍拡について単純な予想はできない し、軍拡競争が往々にして双方を刺激 し 合ってより拡張する方向に進む可能性はあ りえたであろう。 しか し、軍事を外交 と全 く切 り離 して論 じるこ とはできない。その意味で、この時期における日清戦争両国の軍事 と外交については、高橋 [1 995
]の分析( p p . 1 05 ‑ 11 5 )
に説得力がある。4) 青木 [ 1 983 ]p p . 1 09‑ 11 00
5)
同様のものをすでに提示 していた (池田[ 2 002]p. 23
、表3)
が、それは造船費のみの数値であ り、総額を 表わすものではなかった。ここで、表6
のように訂正 しておきたい06)
史料[ 6]1 883
年5
月5
日付 「英仏両国へ御注文可相成軍艦 ノ概表等進呈之義上申」。なお、約1
ケ月後に 同 じく主船局長より海軍卿への上申 (史料[ 6]1 883
年6
月1 4
日付 「甲鉄艦製造図等進呈 ノ義上申」)
が なされてお り、そこでは若干の仕様変更があるが、大きな変更はみ られない。なお、 この時期には銀貨 1円‑紙幣
1 . 5
円、また銀貨 1円‑英0. 2
ポン ドの換算 レー トが採用されていた。7)
史料[ 6]1 883
年5
月2 5
日付 「新艦製造費繰上御下付 ノ儀上請」(付属文書 「明治十六年六月以後諸艦製 造期限及支出年度割概算」 )
08)
本章に関係する最も重要な先行業績である大津[ 2 00
1]は、 この経過を考慮に入れていないため、「赤松案 の採用決定には至 らなかった」 ( p . 44)
と述べているが、それは誤 りである。海軍内部では導入艦種をめ ぐっ て、予算枠を遵守する赤松案 と予算案を超過する 1万 トン戦艦導入請 (伊藤案) との対立があったとい う把 握を大津は示 しているが、 この時期にそのように主張することは実証的に無理がある。そもそもこの時点で の予算枠をめ ぐる争いは生 じえないのである。海軍は軍拡予算の繰上げを認めさせたばか りであ り、それに 基づいて表6
の予算が政府に認可されている。内部対立が顕在化するのは、む しろ84
年後半期 ぐらいか ら であった。 これは、軍備部方式の破綻が明 らかにな りつつあって、その再編後の軍拡予算の獲得をめぐって8
新たな軍備構想の提示が可能 となってきたことによると思われる0
9)
福井静夫
[1992]p.64。なお、この時期の 日清両国海軍の主要な艦船を概観 ・ 比較 したもの として、 高橋
[1995]pp.108‑11
0 ( 表
3および表
4)が便利である。
10)
青木
[1983](p.106)によれば、巡洋艦 ( c r ui s e r ) とい う艦種名で呼ばれ るよ うになったのは
1880年代 か らであ り、船体構造や 目的か ら防護巡洋艦 と装 甲巡洋艦 に分類 される。前者は厚 さ
1‑ 3インチの薄い装 甲 ( 防御 甲板)を張 った構造 であ り、後者は防御 甲板に加えて舷側水線部に装 甲もつ構造であ った。なお、
6月 14
日付赤松上申書の仕様は後者 としての性格をよ り明確に したもの と思われる。
ll )史料
[8] 1883年
6月 26日付 「 英国アームス トロング造船社 ヨ リ軍艦御購入相成度二付伺」 。 これは英国 に滞在 していた佐双小匠司か ら同年 4
月 29日にもた らされた情報によ り. 検討が開始されたもの と思われる ( 史料
[6] 1883年
4月 29日付 「 佐双小匠司ヨ リ外務卿宛電報」) 。 この時、佐双はアームス トロング社か らの情報 としてエスメラル ダ号 とともに 「コ リンウー ド号改良型」の鉄 甲艦
(5,700トン、代価は兵器等を 除いて
355,000ポン ド)を紹介 している。 この前後に同様にチ リ国によるアームス トロング社発注艦 ( 筑紫) を購入することを決定 している ( 池田
[2001]p.50)ことか ら、アームス トロング社か ら積極的なアプロー チがあったもの と推測 される。 この時期のアームス トロング社については、小野塚
[1995]pp.17ト177お よび横井
[1997]第五章の分析が興味深い。
12)
同年
6月
5日付の山県有朋 「 対清意見書」 ( 史料
[9]p.137)によれば、「 前 日議定スル所ノ甲鉄艦ハ更二迅 速 ノ竣功 ヲ要スル事」 とされてお り、 この時期に内閣においてもそのような合意がなされていたことも影響 していると思われるoただ し、 この 「 甲鉄艦」 とは装甲艦 とい うよ りも単に鋼鉄製艦船 という意味であろう.
13)
史料 [ 1
0] 1883年
7月 17日付 「 英国へ鋼鉄製鉄 甲艦製造方注文ノ義二付伺」 。
14)史料
[10] 1883年
7月 18日付 「 在英海軍少将伊藤常吉訓令案」 。
15)
史料 [
11] 1883年
9月
3日付海軍卿よ り外務卿宛文書。
16)
史料
[12]p.1001
7)史料
[13] 1883年
9月 8日付海軍卿宛伊藤常吉 「 仏国造船家ホルジサ ンチ一社 ヨリ差出候軍艦 国井明細書 之義二付上申」、および史料
[10] 1883年
9月 13日付森公使よ り外務卿宛電報。
18)1883
年
7月 18日付の訓令に従 って調査 していた伊藤は
、9月 13日付海軍卿宛電報 ( 史料
[10])において 「 ア ームス トロング会社ノホワイ ト氏ハ貴訓ノ図形 ノ如 ク四個 ノ 『 パルベ ッ ト」 ヲ備 フル トキハ排水積八千噸余 二及フへシ ト云エ リ‥.<中略>‥.其価ハ貴訓ノ概算 ヨリ頗ル高価二至ル可シ」と述べている。それに対 して、
海軍卿の
9月 29日付返電 ( 史料
[11])は 「 英国ノ良艦 カムパ ダウン号ノ価ハ毎噸五十四傍ナルニホワイ ト 氏ノ提議スル船 ノ価ハ何故二毎噸七十二傍ナルヤ」 と疑問を呈 している。 これでは、「 鋼鉄鉄 甲艦」の当初予 算をかな り超過 して しまうのである。
19)
史料
[8] 1883年
10月 16日付太政大臣宛海軍卿 「 政府工御届案」 。同文書では、チ リ国政府の都合でこの 件は破約になった としているが、 この経過にはかな り不明な点が多い。 この件 に関 しては、在米臨時代理公 使内藤類次郎が駐米チ リ国公使か ら聞いた話 として、チ リ国と白露国 ( 秘露 ‑ペルー ?) との交戦中のため、
英国政府は局外中立を守 ってエスメラル ダ号の引 き渡 しを拒否 したので、チ リ政府 としては 日本への売却に 依存はないとい う情報を提供 している ( 史料
[8] 1883年
11月 12日付海軍卿宛書翰) 。なお、 このエスメ ラルダ号はふたたび数奇な運命をたどり、日清戦争直前にようや く日本海軍の手に渡 り、「 和泉」と命名された。
20)
史料
21 )史料
22)史料
23)池田
24)史料
25)池田
[11] 1883
年
12月 6日付外務卿宛海軍大臣依頼電文。
[10] 1883
年
12月 10日付太政大臣宛海軍卿文書。
[13] 1884
年
2月 19日付太政大臣宛海軍卿 「 仏国造船会社江軍艦製造注文致度儀上請」。
[2002]pp.22‑240 [14]p.2280
[2002
]表
1 (p.21 )を参照。
26)
横須賀造船所の建造能力については、池田
[2002]pp.19‑22を参照の こと。
2
7)池田
[2002]p.24028)
池田
[2002]表
1 (p.21 )を参照。
29)
ただ し、「 畝傍」が 日本への回航途中に行方不明になったことはよ く知 られているように、この外国発注 プラ ンは結果か らみても難産であった。
30)
高橋
[1995]p.2020 31 )大
岸 [2001]pp.45‑460【参考文献】
青木栄一 Fシーパ ワーの世界史ヨ( 参出版協 同社 、1 983 年 ( 社会科学篇) 6 号 、2001 年
池 田憲隆 「1 883 年海軍軍拡前後期の艦船整備 と横須賀造船所」弘前大学人文学部 「 人文社会論叢」( 社会科学篇) 7 号 、2 002 年
大背博 明 F 近代 日本の東 アジア政策 と軍事」成文堂 、2001 年
小野塚知二 「 イギ リス民間造船企業に とっての 日本海軍
」『 横浜市立大学論叢
」(社会科学系列 ) 46 巻
2・3合併号 、 1 995 年
高橋秀直 『日清戦争への道」東京創元社 、1 995 年 福井静夫 『日本戦艦物語 』[1 ]光人社 、1 992 年
室 山義正 『 近代 日本の軍事 と財政」東京大学 出版会 、1 984 年 横井勝 彦 F 大英帝 国の く死の商人) 」講談社 、1 997 年
【史料】
[1 ]伊藤博文編 F 秘書類纂 財政資料」 中巻、原書房復刻版 、1 970 年 [ 原本 は 1 936 年]
[ 2 ]伊藤博文編 F 秘書類纂 兵政関係資料」、原書房復刻版 、1 970 年 [ 原本 は 1 935 年]
[3 ]『 歳入歳 出決算報告書 ]明治 十六 ・十七 ・十八年度 ( 大蔵省編 F 明治前期財政経済史料集成 ̲ 1第 六巻、明治 文献資料刊行会版 、1 963 年)
[ 4 ]大東文化大学東洋研究所編 「 松方正義 関係文書」三 、1 981 年
[ 5 ]伊藤博文編 『 秘書類纂 財政資料」下巻、原書房復刻版 、1 970 年 [ 原本 は 1 936 年]
[ 6 ]海軍省編 F J H村伯爵 ヨ リ還納書類
j五 ( 防衛庁防衛研究所戦史部図書館、所蔵) [7 ]斎藤責文書 「 巡洋艦畝傍号始末等調査報告」 ( 国会 図書館憲政資料室 、所蔵)
[ 8 ]海軍省編 『 公文備考別輯』 <新艦製造部エ スメラル ダ号購入 > ( 防衛庁防衛研究所戦史部 図書館、所蔵) [ 9 ]大山梓編 『山鮪有朋意見書』原書房 、1 966 年
[ 1 0 ]海軍省編 『 公文備考別輯』 <新艦製造部浪速艦 、上 > ( 防衛庁防衛研究所戦史部 図書館、所蔵)
[11 ]外務省編 『 外務省記録」 <各 国へ軍艦建造並購入方交渉雑件 英 国 ノー > ( 外務省外交史料館、所蔵) [ 1 2 ]海軍参 謀本部 r ‑ 英 国及各 国海軍」、刊行年不詳。 なお、海軍参謀本部 が存在 した時期 は 1 888 年 5
月1 2 日
か ら