奈良教育大学学術リポジトリNEAR
家庭生活と家庭科教育
著者 反保 すゑ
雑誌名 奈良学芸大学教育研究所紀要
巻 2
ページ 71‑81
発行年 1966‑03‑29
URL http://hdl.handle.net/10105/6109
家庭生活と家庭科教育
反 保 す ゑ
ぱ し が き
中学校の家庭科が・的存在となって16年。私は家庭科の、このあり方について今なお不満を持ち っ∫け、.的存在から脱却することを願う一人である。近時小学校に於いても一技術中心に、生産教 育と関連づけてゆこうとする傾向がみられるが、果して生産教育と家庭科は結びつけておくべきもの であろうか。私は、家庭科はどこまでも家庭生活独自の立場から考えられるべきであると信じている ので鼓に家庭生活の本質より家庭科のあり方を述べてみたいと思う。
家庭科という名称は昭和22年に出来たのであるが、前身ともいうべき手芸は明治5隼学制頒布時、
既に存在した。その後手芸は裁縫科となり、家事科が加わり家庭科の前身が形づくられたのであった。
さらに学校教育が行われる以前の江戸時代に於いても.寺小屋、裁縫師匠の家など家庭以外の場所で 専門家によって教えられることが多かった。今これ等を含めて家庭科とみれば、家庭科は女子教育と して長い歴史を持つものであるということが出来る。それだけに時代とともに幾多の変遷があり、そ の存在価値の理由も時代によって変って来たのである。そこで本文はまずr I 家庭科の存在理由が どう変って現在に至ったか。」を述べ、次に「皿 家庭生活の本質」を述べて.最後に、「皿 家庭 科のあり瓜」について私見を述べることにした。
I 家庭科(家事.裁縫)存在理由の変遷 1) 学校教育以前の裁縫教育
往時より家庭の主婦となるためには、家庭の仕事を色々学ぱねぱならなかったが、裁縫は中でも 最も複雑で困難な仕事であった。従って他の仕事は家庭で母親などから伝授されたのであったが、
裁縫は専門家の師匠に託すことが多かった。勿論、母親がこれを教え得ることは母親にとっては大
きな誇りであったし、良家の主婦は教えられぬことを恥じらう様でもあった。しかし後には、裁縫
を習いに出ることが学歴的な意味を持つ様になった。何故に裁縫を習うことがそρ様に重視された
か、その理由について考えてみると.1.衣服制作は、奈良時代には既に上流階級や役人のものは
縫殿寮や縫部の司などで専門職人の手により制作されたが、一般家庭に於いては家庭の女子がしな
けれぱならなかった。平安時代には貴族の妻.妾なども夫の着物を自ら縫う習わしがあった。平安
時代の末期より、鎌倉時代にかけては縫物師、祖師などの職業入が現れ.貴族では家庭の女子はし
なくなった様であるし、江戸時代には仕立屋という職業が出来たが何れも、H投家庭では家庭の仕事
と一して女子がなしていたのである。2.日本の衣服はその非常な発達を遂げたため技術の習得が難
しく一朝一夕では上達出来なかった。3.家庭の女子は仕事が多く.子女にその技術を伝授する暇
がなかった。などが考えられる。従って家庭内での指導が出来にくいので、1その教育を専門家に托
し、学校教育が地かれてカらも親達の要求力強く現在に至ってもなお、家庭科の申で、衣服制作の扱い
方が、種々問題となり、家庭科の時間不足と、親達の非難に家庭科教員は悩まされて来た。被服制
作が今日なお重視され、家庭科内容の大半は裁縫であるように考えられている理由は伝統的なもの
であることが知られる。
2) 学校教育に於ける戦前の家事.裁縫教育
_口に言えば家庭生活に必要な技能教育一として置かれたのであるが明治以後終戦までの長い期 間には色々な教育的要素が加わっていった。その要素について述べる。
1.家庭生活技能の習得と.技能習得による精神修養。
衣服制作の技術は学校教育実施後も、家庭生活には欠くべからざる技術として女子に対しその 必要性が説かれ烏 しかも衣服請作のためには針という繊細な道具を使いこなさなけれぱならず 指先の微妙な働きは他の工作道具の使用以上に熟練を要求されるものであって一その適応性は.
性別、年令なども問題となり、時には比較的低学年から、時には高学年から.また男子にもその 可能性や必要性が論じられたり.否定されたりして今日に至っている。
学校教育実施当初は和服裁縫のみであったので、型や技術に於いても創作の余地がなく技術伝 援に終り.近代的教育価値は少いとされるのであるが、技術習熟の過程に於ける忍耐力や緻密性 を作りあげる精榊彦養として教育的価値を見出していたのである。
2.創作性と美の要素
近代的教育の発達と社会事情の変化は技術の習得に止まった裁縫教育に反省を促がしち衣服 は和服のみならず洋服をも用いることが普及し、女子の洋服は家庭裁縫で作ることが多くなった。
従って裁縫科の中には洋服裁縫をも加えることになっち洋服裁縫は和服裁縫の全く技術本位、
手練本位であるのとは異なり.創作性を持っている。また家庭生活全般に洋風が入るや.家具や 衣服の装飾として、糸や布を用いた手芸品の制作も盛んになった。
鼓に於いて裁縫科は単なる技術の習得という目的の他に創作や美的要素をその教育内容に含め ね昭和16年には小学校では裁縫は芸能科として扱われている。
3.科学性の要素
一方家事教育は食・佳と衣の縫製以外の面を扱ったのであるが、自然科学教育の進歩はこの家 事教育の中に取り入れられた。既に明治44年には、高等小学校に於いて家事は理科の中で取り 扱われていち裁縫技術の中にも多少の自然科学の影響はあったし.家事の中にも美的要素が必 要であることは認められるが、大別すれば、裁縫科には美的要素を含み、家事科は自然科学の要 素を含ん烏鼓に現在の家庭科が自然科学と美の二つの要素をもつ所以がある・
3) 戦後の家庭科教育
戦後の民主々義教育は家庭生活の指導を重大視して、家庭生活の向上なくしては国の発蛙もない という考え方が家庭科教育の中核をなしたのである。
基本的人権を打ち立てた法律は男女の平等、子の尊重、家族の開放を表明したが、これは家庭生 活に対して大きな改革を求めたことであって、子どもにとっても父と母の関係、家庭の一員として の子どもの立場等家庭生活について新しく考え直さねばならぬことが多々あり、家庭科教育は家庭 の新しい入間関係について教えねぱならぬことになっち玄玄に家庭科は家族関係という新しい内容 を加えち小学校では技能教育以前の問題として男女を問わず、家庭生活指導と称する教科外活動 として一年より六年に至るまで、学校生活の場に於いて家庭生活の諸問題を指導することとしれ 技能面の指導はその時おりおりに組み入れ生活技能。役立てる様にした、家庭生活指導は、民主的 な家庭を作るために新しい家庭の理解と、家庭生活をよく行うための技能を身につけることを目標
一72一
としたのであった。即ち家庭が社会機構の基礎として持たねばならぬ道徳面と.仕事をする技能面 のあることを示したのである。これは戦 後」・学校に於いて打ち出された考え方であったが小学校に 於いてのみならず中学校に於いても同様であるべきであった。家庭科にはこの二面あることが特質 であって、しかもこの二面は切り離すことの出来ない存在である。従って家庭科の一面だけを見て、
他の教科と合一させようとしても、なし得ない性格があり、もし無理に合一させようとすれば.・
的存在とでもしなけれぱなし得ないのである。家庭生活指導ではその技能面は時おりおりに組み入 れることにしたが、指導の実際に当って時間や、教師の問題で運営し難い場合は、技能面だけの時 間を特設し、これを家庭科として扱ってもよいことにし㌔ 中学校に於いては・技能面のみにし ぼり仕事を中心とした。裁に仕事や技能を本質とする職業科と同じ性格を持つものであるとして当 初は職業科の中の一科目として取り扱われねしかし職業科は広範囲な内容を持ちその全部を履習
出一
?ネいので.農・工・商・水産・家庭の中より男女何れも自由に選択することにして、専門的教 養を目指すより将来の進路を選択するための準備教養とした。従って家庭も選択の対象であって、
だれもが必要とする必須的性格はなかったのである。しかしこ㌧で家庭に関する技能が単なる職業 的技能であると考えることの不合理が指摘された。 「家庭科は近代的民主社会に於ける家庭の位置 及び家庭生活の望ましい在り方を目標とし、またそうした家庭生活に必要な技術をも合わせ目標と する」というのである。この点に於いては家庭科の独自性を認めたのであったが、一方家庭に関す る学習は生産生活に結びついた消費生活についての学習であるから職業とは密接な関係があること.
実践的教科として共通性があることなどにより1職業科とは完全に離さず.職業・家庭科という並 列の形にし㌔昭和24年である。さらに世界的な科学技術の進歩と各国に於ける技術教育の向上
は我が国に於いても大きな関心事となり、基礎学力の充実と、生産思想の教育に発展し島こうし て職業・家庭科の底に流れていた生産教育、労作教育の思想が、技術・家庭科となったのである。
昭和3/年であっち一方・」畔校に於いての家庭生活指導はそのあり方に於いては肯定され乍ら教 育現場に於いては、教科として取り扱わないので漫然として有名無実になることが多く家庭技能を 必要と考える地域では特設の家庭科をおき技能教育をなすことが多かった。遂に教科として再検討 がなされ家庭科の指導要領が出された。昭和31年である。35年に文部省より出版された小学校 家庭指導書に於いては家庭科の目指すところを欠の様に述べている。 「児童に、家庭生活において
日常必要な衣・食・住などの初歩的、基礎的な知識や技能を習得させ一家庭生活についての理解を いっそう深めさせ、家族の一員として自己の立場を自覚し、家庭生活をよりよくしようとする実践 的な能度を養うことを目ざすのである。」
この目ざすところに従って内容をどう取り倣ってゆくかについては、r被服・食物・すまいなど の生活技能を中心としながらし一全・体としての家庭生活のあり方を学習することに焦点があること を忘れてはならない。学習指導要領において、家庭科の目標の一つに『家庭生活の意義を理解させ、
家族の一員として家庭生活をよりよくしようとする実践的態度を養う。』という項があるが.これ を他の三つの目標の根底として考慮しなけれぱならないといっているのは、このためである。」と。
即ち家庭科は家庭生活の技能を養うものであるが根底にあるものは家庭生活のあり方でありそれ
に焦点をあてながら技能を養うものであるとしている。この考え方は当初の家庭生活指導における
精神とあまり変らない様であるが一家庭生活指導の一般目標では、第一番目が、家庭生活の理解と
あり、第二番目に態度、第三番目に能力と技能、最猪に習慣となっており.家庭生活の理解とあり
方から始まり.それが主となり、技能はその補助的立場にある。これに対して学習指導要領は、第 一番目が、知識、技能の習得で、第二番目は.生活の処理能力.最後に、「家庭生活の意義を理解 させ、家族の一員として家庭生活をよりよくしようとする実践的態度を養う。」となっている。順 序が逆転したということは、目ざすところの主体が変ったことであって.最後の項を根底として、
それに焦点をあててということは、具体的な教材には現わさず、教材選定に際して、その目標のよ りどころとすることである。従って具体的な教材は技能の習得をめざすものが並べられることにな る。家庭科はこうして技能を中心とする教科になっね しかしこの技能はどこまでも家庭生活をな すための技能であって、これが生産と連なるという性格はどこにも見当らないし、技術性を養う立 場をもとっていなへ技能による実践的な能力であり、家庭生活を合理的に処理する能力を目ざし ているのである。この点中学校の技術・家庭科に於ける女子向き、即ち家庭科を意味する部分は真 向うから、「家庭生活で行われている技術的なものを取り上げて、その技術を通して技術性を養う 立場をとる」として「民主的な家庭生活の建設、生活の改善、家庭経営の合理化などについては、
その全面的な達成は中学校育の総合的成果にまつ」としている。これではもはや家庭科ではなく.
家庭生活に必要な物を造る職人の養成であろう。
以上家庭科の性格.目標が時代とともに変りながら現在に至った状態を述べ松
皿 家庭生活の本質
1) 家庭・家族の定義
私は家庭.家族を次のように定義づけた・
家庭とは、1.同一家屋に本拠を置き 2.同一経済単位で生計をたてる 3.夫婦、血縁、血 縁的感情を持つ人々の、生活の場である。従ってこの場における生活が家庭生活である・
人はこの生活の場に於いて休息し、生殖と養育を営むら家屋は隠蔽された空間であり、同一経済 単位は物質面の生活計画を同じくすることを意味する。この家屋、経済をともにする集団の構成員 は特殊な入間関係を持っているが、特殊の内容は精神的結びつきである。生活の場とは生きるため の精神的.物質的な営みの拠点をいう。燃してこの生活の場をともにする人間の一団が、家族であ
る。
2) 家 屋
さて、隠蔽された空間は暖かく.涼しく.外敵や外部の煩わしさから隔てられた憩いの場所であ る。子はこの中で生まれ、育てられる。人問は昼間それぞれの立場で活動するが.夜を中心とした
何時間かは静かに休息し一明日へg労力を養う。即ち家屋は外部との区画をなし、家族を休ませ、
育てるのに欠くことの出来ない答器である。
近時八問関係の研究には住宅の広さも問題にされているが、昭和39年.本学学生、栗本幸子が 筆者指導のもとに行った大阪府柏原市高井田の府立修徳学院に収容されている13〜15才の児童 の家庭環境調査の結果、非行児と崖宅の関係は次のようであっ.ち
家族が1室のみで暮していた者26人、2室の者1ア入.3室10入、4室3人.6室1入で、
1室、2室の者が57人中43人であり、一戸当りの宣教は、平均/.9室であっち畳数では、家 族が3畳以下で住んでいた者が5入、3〜6畳で住んでいた者13人.6−9畳は15人.9−11 畳はア人.11畳以上は10人で、1戸当りの畳数は7.4畳.1人当りの畳数は1.6畳てあっ烏
一7壬一
経済状態は.一戸当りの収入平均24,000円で最低線だがらも当時としては維持出来る状態で あった。地域環境は、スラム街や.ドヤ街より田園地帯や住宅地帯が多かった。これはスラム街や ドヤ街の児童は施設に修養される以前の放置状態の者もあるためとも考えられるが、こうした結果
から、住宅の狭さは収入や地域環境以上に非行と関係が深いように思われた。非行の原因は他にも いろいろ考えられるが、安らぎの場としての住宅が一原因をなすことが充分に考えられる。
昭和40年12月1日にまとめられた社会開発懇談会の報告案は、「現在の社会情勢からみて、
生活環境をよくすることが緊急の課題で、そのためには①住宅対策を急ぎ、公害の防止対策をたて る一…・・」とあり.その要旨は、「住宅をふやすことは勿論重要であるが、間取り一規模などで質 を向上させるべきであるパ…・…・住宅をとりまく環境の改善については特に遊び場、保育所などを ふやし.交通安全対策を重視し、F水道など環境衛生施設を整備しなければならない……一一・」
という一項がある。住宅という家庭生活の容器が不足の数を補うのみでなく、その規模や内容の質 的向上を計らねぱならぬことを言明している。快適な住宅が、よき家庭生活を作り、これが社会を 開発させる根本的な問題であることに斯く。思い至ったという感が深へ
3) 経 済
家族経済は、消費経済であるということも出来るが.人聞は生産された財貨を消費し、それによ って作られた活動力はまた新しい財貨を作る。この一壊した働きの申で家庭生活は財貨を消費する 働きをなす。家庭での裁縫は安く着るため、即ち消費の仕方を合理的にするための手段であり、家 庭での調理は食物の消費を目的とした手段にすぎない。手段なくしての目的遂行はあり得ないので あるから、手段はそれ自体に・伍値があることはいうまでもないが、手段は時代や壌境によって変る。
着物を家庭で仕立てることは年々少くなっているし.やがて家庭では着物を仕立てない時代が来る ことも予想される。然らば着物を仕立てることは、一つの職業活動となり、その技術は家庭の仕事 から離れる。だが現在では、まだ家庭で仕立てる方が経済的であるから布を求めて仕立てるのであ る。調理にしても同じことが考えられる。現在食料品店では.家庭で調理せずとも食生活がなされ るような食品が並べられている。これのみでなされる生活が、栄養的にも、金銭的にも合理的であ るならば家庭での調理は必要でなく.家庭調理や家庭裁縫は家庭的な香りのする趣味的な意味での みの,衣服製作や、調理作業となるであろう。このような予想が実現されるのは、まだ遠い先の時 代であるとしても、これを否定する何の根拠もないのである。
しかし此のような時代が来たとしても、家庭生活に於いて.誰が、何を.どれだけ.どんな風に、
着るか.食べるかの、考慮、選択をしなけれぱならなへ
原始社会に於いては漁猟、採集が家庭生活を支えるための財貨の獲得法であった。自然界から与 えられる限られた物の中から財貨となるものを選択したのアある。次に人間は財貨を自らの手で作 って生活した。即ち家庭生活に生産という仕事を加え烏しかし今やその生産は家庭生活の中から とり山され、人々の協力により生産の場を別に作りあげた6そしてここで作られる財貨の中より各 白の必要とするものを選び出す、再び選択の時代となったのである。ではあるが原始時代の選択と
異る点は、限られた物の中から選び出すのではなく、入間相互の協力による生産力で無限にふえる
財貨の中から選び出せる一ということである。果てしない欲望に従って無限に生産されてゆく財貨の
選択と消費の行為をなせぱよい。一その結果この財貨にさらにまた注文をつけて改善を要求する。こ
れが家庭生活に於ける消費の方法である。
そういう行為をなすためには、家族の年令、性別等による生理的現象や、精神状態と財貨の関係 を理解し.その上に立って財貨を使用すること、即ち消費することの実践が必要なのである。
また最近実践方法の手段として種々の機械を用いるようになった。従って電気や機械を理解しこ れを操作する技能の必要性の大なることが言われるが、これもまた時代とともに移り変って来た生 活の手段の変化にほかならなへ電気や機械は消費活動の時間と.労力と、物をより合理的に使う ために用いられる道具であるが故に、使用することに焦点を置ぐべきである。例えば、冷蔵庫はメ ーカーによる性能の差や特色があろうが貯蔵する食品の性質と温度の関係を知って用いることが家 庭生活では問題点となる。洗濯機も、衣服材料や、汚れの種類を理解して.その機械の性格にあわ せて使用するということが研究の焦点でなければならぬ。
4) 家 族
家族としての資格を持ち得る特殊関係の入間と島
和辻哲郎氏はその著「倫理学中巻」に.家族共同体に就いて述べて屠られるが、家族共同体とし て取り扱われているものに.夫婦共同体.父母子共同体.兄弟共同体があるとされ、およそ次のよ うに各共同体を説明して屠られる。
夫婦共同体 性の別は入間存在に於ける根源的な差別の一つである。多数の個人は複雑に相対 する。その対立の最もr没的なものは、男女の両性であるが、その対立は合一に動き、二に於いて 一となるという入間存在の動性を最も端的に示したものである。男女の愛はこの性別による相互索
引であり、また他面に於いては互に代換し得ぬ個性的なもの㌧対立的合一であって、これが通例、
恋愛である。男女の愛は自らの存在の隅々をまで相手に公開し、相手の参与を受け入れる徹底的な 参与であるが、第三者の参与は厳密に拒妬即ち二人の問には完全に「私」が消滅し.第三者に対 ←ては完全に公共性を欠如した私的でなくてはならなへ
しかしこの私的性格は、第三者の参与を拒むことに成り立つのであって.第三老の参与が不可能なの ではない。こ\にこの私的存在の撹乱され得る所以がある。こうした男女関係を第三者が撹乱しな いようにこの私的存在を世間が公認するとき夫婦関係となり、この公認を制度として表現したのが
婚姻であり、婚姻に於いて男女は夫婦となる。
従って夫婦はその私的存在の形成を通じて共同性を実現するという人倫的任務を課せられており、
この共同性の実現が「夫婦相和」であって、夫婦相和は一般的な人問の和ではなへこ㌧に夫婦の 道はr相互参与」と「閉鎖性に基づく第三者の排除」という二重性格をもつものである。
「貞操」や「貞実」として把捉せられるものはこの閉鎖性に基づく夫婦道である。
親子共同体 男女の共同体は本質的な二人共同体であったが、親子共同体は本質的な三三入共同 体である。本質的な三人共同体とは、閉鎖性をもった本質的な男女の二人共同体に.子という第三 考が加わったというだけではなく、構造上全然二人共同体と異なる〇二人共同体の私的存在は、子 の前にはその閉鎖性を解かねぱならなへ しかも三者が、いづれも参与し合うというだけでなく、
いづれのユの関係もが、第三考に媒介されているということである。夫婦の閉鎖的な私的存在は 子によって破られ、夫婦は父母に転化する。父母なる関係は子によって媒介されち父は母子を媒 介し、母は父子を媒介する。
この親子関係は、古くから「血」によって云い現わされており.今日では「生殖細則によって 云い現されている。しかし.現実に於いては関係不明の二人を生殖細胞がそれを解明しうるか、裁に
一76一
於いて生殖細胞は役には立たない。また子の出生が生殖細胞によることを理解せぬ原始民族に於い ても、妻の子は自分の子であると信ずる。かく考えてみると、親子関係の真の絆は、夫婦間、親子 間の信頼や、確信である。とはいっても単に観念的なものでなく.夫婦の間の主体的な存在の共同 が、意識を超えた深い底を包んでいるからで「主体的な肉体」を含めての全存在の合一があるから である。
畝の団体は三人共同体としても現れることがあるが、しかし友情は本質上ユ関係でなくては ならぬことはなへ然るに、親子関係は相互媒介という点に於いて三入でなくてはならぬ。
子が増えることは.本質的な四人関係、五人関係等を生じるものではなく.父母子三人関係の複 合体とみるべきである。
ユ共同体は、二人共同体に於けるよりも私的関係が広い範囲に於いて実現されるし、二人共同 体は、閉鎖的であったが.三人共同体に於いては隠蔽されずともよいという開放的なものである点 がユ共同体とは異る。それにもか㌧わらず、父母子共同体が私的であるのは、子は夫婦の性的存 在共同の客体化であって、何人によっても代ることの出来ない唯一性を持っているからである。た
とえ.この三人共同体は、開放的で他者の参与を拒ぱまぬとしても、事実上その参与を受けること が出来なへそれは相互媒介性によるものである。
また別の観点よりみれば、父母子の関係は、世代の別を含む共同存在であり、子の成長によって、
父母子の共同体は変化する。子が嬰児であるとき、子が少年であるとき、子が青年であるとき、子 が壮年であるとき、等々に従って親子の間の関係の仕方は変らざるを得なべ親子の共同体はこの 長期の展開を含んだものである。
兄弟共同体 父母子の三入共同体に子の数がふえた時は三人共同体の重複を意味し.父母は何 れの子に対しても父母であるという関係は一子と子との問を媒介する。父母の愛を媒介として、自 分も同じ父母の子であるという理解から、子と子の愛情が生じる。鼓に.父母子三入共同体を媒介 とした、兄弟共同体が成り立つ。その点では私的であっても.兄弟相互には厳格な相互媒介性がな く.父母の慈愛を地盤とした開放的な共同存在が現れる。また本質上成員数の限定を持たない点に 於いても、二人共同体、三人共同体などの持っ厳格な私的性格をなくしている。しかし私的性格を
もった父母子の関係に媒介される点に於いて、兄弟共同体もまた、私的存在である。
家族構造 家族共同体は、以上の夫婦、親子、兄弟の共同体より成り得るが、事実上はこの全 部を包擁するものではなへ家族の員数が古来、5.・6人乃至4・5入であることは、この範囲の 狭小を明かに示している。
以上和辻氏は、夫婦・親子の根源的な私的関係を明示されたのである。これは今日各方面より研 究されている家族関係の基礎的な思想になっていると思われる。
そこで、家族の特殊関係には、2が1となる人間存在の動性を最も端的にあらわした 性別によ る相互索引性と、他とは代換し得ぬ個性点による索引力によって結合した夫婦と.夫婦の性的存在 共同の客体化で、何人によっても代ることの出来ない誰一性をもった親子がある⊃また父母によっ て媒介される兄弟関係がある。さらに兄弟関係は伯父甥.従兄弟などの関係に拡がってゆくがこの 一連のつながりをもっ血縁関係がある。
血縁関係は拡がるほど私的性格を失い、遂には、一般的な人間関係となってゆくのであって、家
庭、家族の定義の中で述べた血縁とは如何なる関係までを称するのであるかということになるが、
r血縁」と認識しうる入違と考えてよい。従って家族構成員としての資格の範囲は時により異る。
また血縁的感情とは、血縁ではないと自らが認めながら、なお血縁として考えようと決意する間 がら(例えば姑と嫁の間ヂらなどがある)や、その愛情が血縁に等しいまでに濃い場合(例えば養 父母と養子の間がらなどがある)をいったのである。
こうしてみれぱ、家族となり得る特殊関係の人問はかなり広範囲に考えられるわけであるが、実 際には、家屋(広く考えて以下住居という)という限られた空間での共同存在でなくてはならぬの
で、住居の広さが限定される限り、入間関係がさほどまで広範囲に亘ることがなへ
戸田貞三氏は、「社会学大系・家族」の中で「古代の住居遺跡をみると、その面積は一般に小さ いものである」として登呂の住居遺跡や、武蔵野の各地に発掘された古代の住居遺跡.また東京都 志村の高台にある穴居跡などを例にあげて、「古代人の家族は}般的には大家族であり得なかった とい㌧うる」と述べて屠られる。奈良時代の大家族制度下にあっても、 戸という」大家族の家の内 部に房戸があり、実生活の単位となっていたとみられる。即ち実質的な家族は少人数であったと考 えられているb
以上から考えて、現実的に家族としての資格を持ちうるものは、私的性格の強いものから.夫婦、
親子、兄弟位に限られるであろう。
さて.この資格をもつ者の中で兄弟は親子関係が作り出した.血縁関係であるから、家族共同体と して取り扱われるものは.血縁関係による親子共同体と、男女関係による夫婦共同体という二つの 性格の異った共同体に分類される。然らば家族共同体はその何れに重きを置くか.に於いて問題が一 生じる。
家族構造や、形態については多くの学者に、種々述べられているが、中川善之助氏は、祖先から 父母に伝わり、子孫へ継がれてゆく観念的集団を、無限家族と呼び.夫婦とぞ0⊃子供で形成する家 族共同体を、有限家族とよんで屠られる。また一牧野巽氏は、「社会大系・家族」の中に於いて、
夫婦とその未婚の子を含む家族を小家族というに対し、傍系親を含む多世代の家族を大家族とし、
傍系親を含まない多世代の家族を中家族とよぶことを提唱して屠られ、さらに、夫婦と未婚の子よ り成る小家族はその構成員の結合が最も緊密でありうる点で理想的であるが、経済や自衛の上から 家族の人数を多く保とうとする要求や、老年になった父母が養護者を必要とする点などからして大 家族が発生する。その場合、一子を残留させる場合が中家族なのであって一多子を残留させる場合 が大家族である〇一子残留の場合は同世代における子の配偶者は一人であるが多子残留の場合には 家族中の異分子である子の配偶考が多数となり、その複雑さにおいて一家の統制関係が異る。とい って屠られる。現代に於いては、氏の云われる大学旅なるものは殆んど見当らないが、中家族は多 数存在する。これは、経済と自衛の点では、近代社会がすでに家庭ではその機能を殆んど無くし、
その意味では中家族の存在理由は薄弱になっている。しかし老いたる父母の養護という理由に於い て存在することが多い。
改正民法は、人間を家の制度から解放した。家族制度の規程は消滅し、家族という請は一切用 いられていない。しかし家族としての資格を持つ人々の中で.夫婦のみに同居の義務を持たせ、親 には未成年の子に養育の義務を持たせていること、また夫婦には婚姻生活の費用の分担を義務づけ ているのは、住居と経済の共同による夫婦と未成年の子の家族共同体を示したものである。しかし 家族の規程はないのであるから、夫婦や未成年の子以外の血縁者を家族員として含めることは.実
一78一
生活の事情によって決めればよいのである。民法では夫婦と未成年の子以外の血縁関係については、
…親等内の親族に、扶養の義務を持たせているが、私は、これは家族となり得る可能性を示すもの として考えている。
事実、我が国では、中、小二つの家族形態が存在している。その良否は今、論外として、家族道 徳は、そのそれぞれに在り方の解答を与えねばならなへ
多世代家族(申家族)は血縁関係を主とし、 夫婦関係を従とする。夫婦の何
れかは、その家族にとっては異分子であり、家族内には、夫婦でもなければ血縁でもない者が存在 する。舅姑、婿嫁の間がらで。この人達は血縁であろうと決意し、血縁と等しい感情を持とうとす るのである。従って新しく作り上げる愛情がどこまで濃くなるか、異分子としての反発がどこまで 押えられるか、によって家庭生活の幸、不幸が決ま島もし努力が失敗に終ったときは、従と考え
られる夫婦関係が犠牲となり、その結果、その子が大きな痛手をうける。
夫婦と未婚の子より成る家族(小家族)の危険性は、夫婦共同体の本質にあって、その閉鎖性の 維持如何に拘わる。閉鎖性と、閉鎖された内部にある和合とが崩れたとき、この家庭生活は崩壊す るOこの場合も、最も痛手を受けるものは子である。しかもこの痛手は中家庭の場合以上であるこ一 とが冬へなぜならぱ、中家族の場合.子の安住場所は動かないが、小家族の場合は、父母の何れ にっくか、その安住の場さえ安定しないことがあるからである。
修徳学院の非行児のうち、離婚問題のあった家庭の者が、96人中54人あっね両親の不和や 他にも原因があろうが、父と母が離れ離れに二なることが、非行に大な関係のあることが伺い知られ
る。
家族の不和や、愛情の不足が非行児を生むとすれば、家庭生活の使命である産育活動は、その任 務を果し得ないこと㌧なる。保育所や、養護施設が如何に発達したとて一両親の庇護に優るもので ないことは、最近の心理学の面でも研究されているが.ホスピタリズムの研究はこのことを証明し ようとしている。ホスピタリズムが人間形成の上で歪みをもたらすのに対して、マサリングが人間 形成上必要であることの研究が進められている。また、ハーローが数年前から実施している猿の親 子関係の研究がある。生れたての猿を親から離して乳の出る針金細工の猿と、乳の出ない縫いぐる みの猿と、どちらによけい依存するかを実験した結果、軟らかな感触をもつ縫いぐるみの猿に依存 した結果が出ちこの結果、母の機能の本質的なものは、柔らかさ、暖かさであって、授乳は副次 的なものに過ぎないと結論されね猿の実験結果をそのま㌧入間に適用することは、はばかられる が、おもしろい実験ではある。
以上、家庭と生活について、その本質を述べたが、 次に、人間の全生活と家庭生活との関 連について述べる。
5) 人間の生活の場
人間の生活には三つの場がある。 即ち、個人生活の場.家庭生活の場、社会生活の場で
ある。