奈良教育大学学術リポジトリNEAR
近世大和国における一国幕領皆石代納制の成立と奈 良町渡米制
著者 本城 正徳
雑誌名 高円史学
巻 18
ページ 1‑26
発行年 2002‑10‑01
その他のタイトル The Birth of Bakuryo‑kaikokudainousei (幕領皆 石代納制) with reference to
Naramachi‑watashimaisei (奈良町渡米制) in the Early‑Modern Yamato Province
URL http://hdl.handle.net/10105/8794
近世大和国における一国幕領皆石代納制の成立と奈良町渡米制
本 城 正 徳
は じ め に
近世幕領貢租研究は︑従来︑微租法や石代納の分野を中心に研究の蓄積がなされており︑全国の幕領のうち但馬・飛騨・
信濃・隠岐・日向・大和・伊予の七ヶ国については一国の幕領全体に皆石代納制︵皆金納制ないし皆銀納制︶ の採用されて
いたことがすでに明らかにされている︒本稿では︑以下こうした一国の幕領全体を対象とする皆石代納制を︑一国幕領皆石
− 1
1
代納制とよぶこととしたいが︑信濃国幕領を主対象とした大口勇次郎氏の研究によれば︑右の七カ国皆石代納制の存在は延
幸三 ︵一七四六︶ 年には確認できること︑天保期のデータによれば七ヶ国のうち施行領域︵支配石高︶ からみて信濃・大和
の両国が中心をなすこと︑両国では村段階︵村1代官所への納入段階︶ で皆石代納が行われていること︑等か指摘されてい
る︒
︵り−し
皆石代納制が行われた七カ国のうち信濃・大和・伊予については︑これまでも一定の研究が蓄積されている︒しかし︑こ
れら諸国の事例をも含めて︑一国幕領皆石代納制については︑事実関係のレベルを含め︑なお不明な点が多い︒たとえば︑
七カ国の皆石代納制はいったいいつ成立するのか︑成立の条件・要因は何なのか︑成立時期・要因は各国で共通するのか否
か︑幕末期に至るまで制度的変化はあるのか︑等々の諸問題に対して︑研究史の現状では十分に答えることは困難である︒
したがって︑そもそも七カ国におよぶ一国幕領皆石代納制の成立 ︵存在︶ は︑石高制に基づく米納年貢制という近世貢租の
基本的なあり方とどのように関連づけられるのか ︵説明可能なのか︶ といった︑より理論的ないし本質的な間に対しても︑
今のところ明確な答えを提示することは難しい︒まずは制度に関する各国ごとの事実関係レベルからの十分な検証と︑個別
分析の集積が要請されているというのが︑一国幕領皆石代納制の研究史の現段階であるように思われる︒
本稿では︑以上のような研究史的認識をふまえつつ︑信濃国とならぶ中心的な皆石代納国である大和国について検討する︒
︹ 3
︶
大和国における一国幕領皆石代納制の先行研究としては︑まず森杉夫氏の研究がある︒畿内幕領における石代納研究の一環
としてなされた氏の研究によれば︑大和国の皆石代納 ︵皆銀納︶ 制は元禄期 ︵一六八八〜一七〇三年︶ に成立したとみられ
ること︑その理由としては①銅山師による年貢米買請︑②吉野郡・宇陀郡等の山間部では田方=米作が少なくまた津出し=
年貢米輸送が困難であること︑③国中 ︵奈良盆地︶ および宇智郡吉野川流域における綿作とりわけ田方綿作の発展 ︵綿販売
による石代納銀の調達︶︑の三点が指摘されている︒森氏の提示された右の諸論点のうち︑皆石代納の理由の①銅山師買請
については︑その後大口氏から伊予国のみの理由とみるべきで︑大和国は該当しないとの典拠史科の検討をふまえた批判が
︵ 4
︶
提出されており︑筆者も基本的に同様に考えている︒しかし︑それ以外の森氏の所論については︑現在に至るまで大和国の
一国幕領皆石代納制に関する通説的理解となっているといってよいであろう︒皆石代納制採用の理由の②については︑前掲
の大口氏の研究では信濃国の場合と共通する採用理由として評価されており︑信濃・大和の両国では適当な廻米手段を欠く
がゆえに皆石代納制を強制されたという理解が示されている︒内陸部・山間部ゆえの年貢米輸送の困難性が︑皆石代納制採
用の要因として改めて注目・強調されているわけである︒また︑理由の③︵綿作とりわけ田方綿作の発展︶ については︑近
︑ 1
︑
年の浅野安隆氏の研究や奈良県内の自治体史等の叙述に継承されている︒もっとも︑自治体史の叙述においてではあるが︑
谷山正道氏によって元禄期よりも早い時期 ︵延宝期︶ における国中 ︵奈良盆地︶ 幕領村の皆銀納事例が指摘されている点︑
さらに皆石代納制への移行は綿作に代表される商業的農業発展に対する領主側の対応=石代納を通じての収奪強化であると
へ 6
︶
の明快な理解を示されている点は︑ともに注目しておく必要がある︒
さて︑本稿では︑以上のようなこれまでの研究とは少し異なる視点から︑大和国における一国幕領皆右代納制の成立を考
えてみたい︒本稿で主要に注目するのは︑一国幕領皆石代納制に先行して存在した奈良町渡米制であり︑とくにその制度的
廃止との関連において一国幕領皆石代納制の成立を考察してみたいと考える︒商業的農業発展への注目という点によく示さ
れているように︑従来研究の特徴が農相経済史的要因の重視という点にあったとすれば︑本稿での視点の特徴は︑政治史的
ないし政策史的要因の重視︑とりわけ奈良町渡米制という名称が明示するように都市政策史的要因への着目という点に求め
︵ 7
︶
られる︒もっとも︑本稿で注目する奈良町渡米制については先行研究がほとんどなく︑したがって︑まず制度そのものの内
容を検討・提示しておく必要がある︒そこで本稿では︑以下まず三節をかけて奈良町渡米制の解明につとめ ︵第一〜三節︶︑
その上で︑渡米制と一国幕領皆石代納制の関連について考察を行うこととしたい ︵第四節︶︒
一奈長町渡米制の成立と概要
奈良奉行所の与力玉井定時が著述した ﹁庁中漫録﹂ には ﹁御城米之事﹂ という項目がある︒﹁御城米﹂ とは幕領年貢米を
へ
︒
︶
意味するが︑この項目の叙述から奈良町渡米制の概要を知ることができる︒奈良奉行所の同心であった鏑木家に伝来する
︵q こ
﹁おはゑ﹂ という史料にも︑同じく ﹁御城米之事﹂ という項目が登場し︑同一の内容の記載されていることか知られる︒両
史料がともに渡米制の舞台である奈良町を直轄する幕府役人の作成・保有にかかる文書である点︑またこれら両史料が奈良
町 渡 米 制 が 廃 止 さ れ る 延 宝 四 ︵ 一 六 七 六 ︶ 年 ︵ こ の 点 後 述 ︶ か ら あ ま り 時 間 を お か な い 元 禄 〜 宝 永 期 ︵ 一 六 八 八 〜 一 七 l 一 〇
︵ 1
0 ︶
年︶ に作成されたとみられる点等から判断して︑この ﹁御城米之事﹂項目の記載内容の史料的価値は高いといえよう︒
さて︑﹁御城米之事﹂ では︑まずはじめに奈良町渡米制の成立経緯について︑﹁寛永十一成年︑御上洛之時︑奈良ハ酒・晒
︑= l
布名物之所︑永々相続之為トテ︑御城米御倍被成候︑畢責御救ナリ﹂ との記述がみえる︒この御城米による ﹁御借﹂ 米が︑
奈良町渡米のことである︒それによれば︑まず︑第一に奈良町渡米制は寛永十一︵一六三四︶ 年の将軍徳川家光の上洛時に
成立したこと︑第二に制度採用の目的・理由は︑酒・晒の主要生産地であった奈良の ﹁永々相続之為﹂ であり︑﹁畢境御救
ナリ﹂ との表現が明示するように幕府の直轄都市奈良に対する都市保護ないし都市優遇政策として実施されたことが判明す
じ胆 乃
る︒十七世紀の奈良は︑大坂二月などの上方諸都市とともに︑幕藩制的市場とよばれる領主的全国市場のもとで︑中央市場
の一翼をになっており︑主要都市加工業製品である奈良酒・奈良晒は︑奈良町商人の手をへて領主層の需要を中心に全国へ
︵ 1
3 ︶
販売されていた︒渡米制は︑こうした奈良の中央市場としての商工業機能を保護し発展させる目的で採用されたのであり︑
渡米は商工業人口を主とする奈良町町民の飯米=食糧および酒造原料米として消費されたとみられる︒次節で明らかにする
ように︑寛文期の事例では渡米は奈良奉行所の統轄のもと各町を単位として奈良町全体で実施されていることが判明する︒
この点から判断して︑渡米は酒造原料米よりも都市食糧としての意味が大きく︑渡米制は酒造業保護=原料米供給よりも︑
都市民食糧供給により力点をおいた直轄都市保護・優遇政策であったと考えられる︒
ところで︑前述の ﹁おぼゑ﹂ によれば︑延宝九 ︵一六八二 年の奈良町人口は三万八六六〇人であり︑それに対する年間
︵ 1
4 ︺
飯米消費量の見積りが五万三〇四〇石六斗であったことが知られる︒寛永八 ︵一六三一︶ 年の奈良町人口は三万四九八五人
︵ 遁︶
であるから︑寛永〜延宝期頃の奈良町年間飯米消費量はおそらく五万石程度であったと推定しうる︒一方︑酒造米について
︵ 1
6 ︶
は︑万治三 ︵一六六〇︶ 年の奈良町 ﹁酒株惣合﹂ がl一万六二四石二斗五弁であったことが知られる︒酒造株高であるから︑
実際の消費量とは必ずしも一致しないが︑十七世紀中頃の年間酒造米消費量は一〜二万石程度であったと推定しうる︒すな
わち︑十七世紀中頃の奈良町では飯米・酒造米として︑年間六〜七万石程度の米が消費されていたとみられるのである︒こ
れに対して︑すぐあとで明らかになるように︑ほぼ同時期の奈良町渡米高は年間五千〜七千石程度であった︒推計ではある
が︑渡米高は奈良町での総米穀消費量の一割程度の規模にとどまっていたとみられるのである︒しかしながら︑一定量とは
いえ︑毎年米穀が年貢制度の枠組みのなかで確実に安定的に供給され続けられるという点は︑消費者とくに食糧購入者とし
て存在する都市民の立場からすれば︑意味のある制度であったといえよう︒
以上︑奈良町渡米制の成立経緯を考察したわけだが︑﹁御城米之事﹂ によれば︑渡米およびその代金については ﹁上納金
之次第﹂ として ﹁中坊美作守殿之時ハ︑春・冬二相渡り︑上納金 ︵渡米代金−筆者註︶ ハ翌年極月二一度二上納﹂ と記して
いる︒中坊美作守とは二代目の奈良奉行中坊時祐のことであり︑その奉行在任期間である寛永十五年から寛文三 ︵一六六三︶
︼洞 邑
年にあっては︑渡米は毎年春・冬の二回にわけて奈良町に対して提供され︑その代金は翌年の十二月に一括して奈良奉行所
に対して上納されたというのである︒寛文四年には大和国幕領を支配する奈良代官か新設・分置されているから︑それまで
︵ 1
8 ︶
は奈良奉行が奈良町と大和国幕領をともに支配するという体制であった︒したがって寛文三年以前においては︑奈良奉行所
が大和国幕領村からの渡米の供給と町々からの代金の収納の双方を一元的に行い︑渡米制を全体として統轄していたものと
表1寛文〜延宝期の奈良町渡米
年 次 渡 米 高 1 石 当 り値 段 上 納 金 (渡 米 代 金 ) 納 入 状 況
寛 文 2 (1 6 6 2 ) 5 7 0 0 石
4 (1 6 6 4 ) △ 6 , 7 0 0 5 8 匁 寛 文 5 年 12 月
5 (1 6 6 5 ) 6 , 5 0 0 6 0 . 7 〝 7 年 正月 半分 ・2 月半分
6 (1 6 6 6 ) 6 , 5 0 0 6 5 〝 8 年 2 月 JJ ・3 月 〝
7 (1 6 6 7 ) 5 , 8 0 0 6 4 J7 8 年 12 月 〝 ・寛 文 9 年 7 月半分 8 (1 6 6 8 ) 5 , 5 0 0 6 3 〝 9 年 12月 〝 〝 10年 2 月 〝
9 (1 6 6 9 ) 5 , 0 0 0 6 5 〝 10 年12月 JJ JJ l1年 3 月 〝
1 0 (1 6 7 0 ) 5 , 6 3 2 6 4 〝 1 1年 12月 〝 〝 12 年 3 月 JJ 1 1 (1 6 7 1 ) 5 , 4 6 6 . 1 一 両 二 付 9 斗 延 宝元年 正月 〝 ・延 宝元 年 3 月 〝 1 2 (1 6 7 2 ) 6 , 0 6 5 . 8 6 〝 9 斗 2 升 I! 2 年 正 月 1I 2 年 2 月 〝 延 宝 元 (1 6 7 3 ) 6 , 2 0 2 . 8 2 〝 8 斗 9 升 〝 3 年 4 月 〝 〝 3 年 5 月 〝 2 (1 6 7 4 ) 6 ,19 7 1 9 〝 7 斗 4 升 〝 3 年1 2月 〝 〝 4 年 3 月 〝 3 (1 6 7 5 ) 6 , 2 0 2 . 2 〝 7 斗 6 升 〝 4 年1 2月 〝 JJ 5 年 4 月 〝 4 (1 6 7 6 ) ▽ 4 , 8 9 8 . 0 5 〝 7 斗 7 升 11 5 年〜 8 年
註)「御城米之事」に拠る。寛文2年は「庁中漫録」26に拠る。
みてよいであろう︒表1は ﹁御城米之事﹂等に記載されている数値を各年次別
に整理したものであるが︑それによれば︑寛文二年以降延宝国 ︵一六七六︶ 年
の間はほぼ連年の渡米高が判明し︑この時期の年間渡米高は四八九八石五斗
︵ 延 宝 四 年 ︶ 〜 六 七 〇 〇 石 ︵ 寛 文 四 年 ︶ の 幅 で 推 移 し て い た こ と が 知 ら れ る ︒
おおよそ毎年五千石から七千石程度の年貢米が大和国幕領から奈良町に渡され
ていたわけである︒これら渡米の代金 ︵上納金︶ の納入状況についてみれば︑
寛文三年以前は︑引用史料にあるように翌年十二月に一括上納されたとみられ
るものの︑寛文五年以降二回の分納 ︵代金の半分づつ二回︶ に変化しているこ
とがわかる︒翌年十二月と翌々年の春の二回分納という事例が多いが︑二回目
の納入時期はばらつきがみられる︒延宝四年になると四年がかりで完納してお
り︑二年間のうちに二回分納 ︵完納︶ するという形がさらにくずれている点が
注 目
さ れ
る ︒
さて︑﹁御城米之事﹂ によれば︑四年がかりで代金を完納した延宝四年の頃
に︑﹁此上納金ハ三ヶ年二皆済仕︵実際には四年かかっている−筆者註︶︑御城
米御おろし被下問敷旨︑町中願申候故︑辰年 ︵延宝四年−筆者註︶ ヨリ御城米
ナシ﹂ という記事がみえる︒すなわち︑奈良町渡米制は︑奈良町町中からの出
願によって︑延宝四年をもって廃止されたことが判明するのである︒表1等か
らも延宝四年に奈良町渡米が実施されたことは確実であるから︑﹁辰年ヨリ御城米ナシ﹂ という記述の文意は︑延宝四年を
最後として以降は制度的に廃止されたと理解するのが妥当であると思われる︒奈良町渡米制が︑渡米を供給される側の奈良
町の町人側からの出願=要求によって︑そしてその要求を受け入れた幕府の手によって制度的に廃止された点に注目してお
き た
い ︒
以上︑本節では︑①奈良町渡米制は寛永十一年に幕府の畿内直轄都市奈良に対する都市保護・優遇政策として成立したこ
と︑②渡米は奈良奉行所の統轄のもと当初は春冬二回渡され︑代金は翌年十二月に上納されたが︑寛文五年以降分納化が一
般的となること︑③寛文〜延宝期には大和国幕領米が年間五千〜七千石程度渡米となっていたこと︑④渡米制は奈良町町人
の要求を幕府が受け入れる形で延宝四年に廃止されたこと︑等を明らかにした︒第二・三節では︑渡米制の当事者である奈
良町および大和国幕領農村の双方の側の史料から︑渡米制のより具体的な様相︑実態について考察を進めたい︒
二 渡米制の実態 ︵そのニー奈良町側からの検討
奈良町の側からみた渡米制の実態については︑奈良町の町代によって作成された寛文七 ︵一六六七︶年〜同十年の ﹁町代
︵ 1
9 ︶
日記﹂ の記述が注目される︒もっとも ﹁町代日記﹂ の記述から解明しうる制度的実態の局面は限られており︑時期的にも渡
米制の存在した期間のうちの末期に属するといってよい寛文後期に限られたものである︒したがって︑限定的な実態分析に
とどまるわけだが︑当面︑以下の四点の指摘が可能である︒
へ加
︶
まずその第一点は︑渡米の奈良町町方への割付に関してである︒﹁町代日記﹂寛文七年十一月十九日の条には︑﹁五味藤九
郎様 ︵奈良代官−筆者註︶ム御城米之村付之帳︑取二参候と被仰候故︑町代弥次兵衛参候而︑帳請取まいり ︵略︶ 町中へ渡
り申候米高五千八百石御座候﹂ とあり︑町代が奈良代官の指示により ﹁御城米之村付之帳﹂ を受け取りに出向いていること
が知られる︒同条によれば︑この帳面は町代より奉行所役人︵奉行の家老および与力︶ 四名に ﹁掛御目申候﹂ とある︒その
後︑﹁殿様︵奈良奉行−筆者註︶・藤九郎様御相談二両︑此方△町へ割付可申候へとも︑町代共割付被仰付候﹂として︑奈良
奉行と奈良代官の指示として︑この年については︑渡米の町方への割付が町代に命じられ︑﹁村付之帳﹂ も彼らに渡されて
いることがわかる︒町代たちは翌日には ﹁御城米村付之帳﹂ を再び前日と同じ四名の奉役所役人へ ﹁御目にかけ申︑割付之
義﹂ について︑言上と許可をえている︒割付に奈良代官がかかわり出すのは︑同代官が新設された寛文四年以降とみてよい
であろう︒同年以降は︑基本的には奈良代官と奈良奉行所が連携する形で︑渡米の町方への割付が行われたとみられる︒寛
︼硯 内
文七年十二月十一日の条には︑﹁御城米村付之手形︑町中へ渡ス︑年寄・月行司判取﹂ とある︒寛文八年の場合は十二月七
︵ 2
︶
日の条に ﹁御米城米之手形︑町中へ御玄関二而︑年寄・月行司二判形させ︑渡し申候﹂ とあることからみて︑十二月に入っ
てから︑奈良町の各町町役人が奉行所において︑判形とひきかえに︑﹁御城米村付之手形﹂をうけとっていたことがわかる︒
渡米はまずは手形という形で︑町を単位としつつ︑奉行所から奈良町全体に割付されたと考えてよいであろう︒この ﹁村付
之手形﹂ はさきにみた ﹁村付之帳﹂ をもとにした手形と思われ︑手形には各町に引渡される渡米の提供元たる村名が記載さ
︵ ㌶ ︶
れていたと考えられる︒寛文七年十二月十三日の条には︑﹁同日︑御蔵米初テ出ル︑御借米之儀二付︑御触状廻り申候﹂ と
あり︑町方への手形の配付の後に︑村方からの実際の渡米の引き渡しが開始されていること︑開始時には奉行所より町蝕が
出されていること︑を確認することができる︒
︵ 2
4 ︶
さて︑﹁町代日記﹂ から指摘しうる第二の点は︑この村方からの実際の渡米に関してである︒寛文九年十二月十七日の条
には︑﹁升かきノ寸法︑指渡壱寸弐分御定︑此度之御城米二︑百性︑此寸法之升かきこてはかり可申候旨︑町中へ触可申候
由︑被仰付候﹂ とある︒それによれば︑村方からの渡米を町方へ引き渡す際の計量にかかわって︑升掻の長さを町触で規定
= .. ︑
していることがわかる︒さらに同年十二月十七日の条には︑﹁御城米之義二付︑町々へ荻野久兵へ殿・小笠原市右衛門殿
︵ともに奉行所同心−筆者註︶︑町代加兵へ廻り申候︑いつかたも無相違︑百性と相対二而請取申由︑申候﹂ とある︒それに
よれば︑渡米は村方から直接奈良町の各町へ引き渡されていること︑各町の渡米受取状況は︑奈良奉役所役人・町代が巡回
の上︑各町より確認をとっていることが判明しよう︒これらからみて︑渡米の町方への引き渡しは︑村方 ︵百姓︶−各町方
の直接の交渉によるが︑引き渡し全般については︑奈良奉行所が統轄していると考えてよいであろう︒
︼ 昭 ︻
ついで︑指摘しうる第三点目は︑渡米代銀の上納に関してである︒まず︑寛文八年十二月二九日の条によれば︑﹁御城米
之上納銀︑半分相済︑手形ヲ藤九郎様︵奈良代官イ筆者註︶ へ︑理介・弥次兵へ ︵ともに町代−筆者註︶持参仕︑上ケ申候﹂
とあり︑渡米代銀 ︵寛文七年の代銀と思われる︶ の半分を︑手形でもって︑町代から奈良代官に納入していることが確認で
きる︒この時期までの代銀納入の基本型は︑各町1町代1奈良代官という手続きを経た手形による納入であったと思われる︒
︑付..
この点は︑寛文九年七月十八日〜二十日の条において︑﹁町々ム之上納銀︑かけや二両包﹂︑現銀の形で町代より代官へ納入
せよという代官所の新たな提案に対して︑町代たちは ﹁何とも迷惑二存候事﹂ とし︑惣年寄や奉行所役人とも協議の上︑断っ
ていることからも明らかであろう︒なお︑代官所よりの同一の提案は翌寛文九年にも行われており︑十二月九日の条によれ
ば︑以降については︑町々よりの渡米代銀は手形ではなく現銀に変更されたこと︑現銀の集金は各町1奉行所に統一され町
代は集金には直接は関与しないこと︑などが判明する︒奈良奉行所の役割が︑渡米の代銀上納の面でも大きくなっている点
が注目される︒なお︑﹁町代目記﹂ の記述では︑代銀上納期限の延引をめぐってたびたび奈良奉行所と奈良代官所が協議を
︵ 詣 ︶
行っている事実が知られる︒たとえば︑寛文九年一月二十二日の条によれば︑﹁上納銀︑当月中二急度相立申候様こと被仰
付候へ共︑又候哉藤九郎様へ被仰遣︑三月迄相延申間︑左様二町中へ相触可申由︑被仰候二付︑則相触申候︑就共︑町中難
有由︑御礼二束ル﹂ とある︒それによれば︑延引決定は町触で町方に周知される点が確認されるとともに︑この場合は︑代
官所側の期限厳守の要求に対して︑奉行所側が延引を要請している点︑しかも ﹁町中難有由︑御礼二束ル﹂ という記述から
みてこの延引要請は奈良町町方全体の意向を反映していると思われる点︑に留意しておきたい︒第一節の表1が示す寛文五
年以降の上納期限の延引例もおそらくは同様の構図が認められるものと思われる︒
さて︑﹁町代日記﹂ の記述から指摘しうる第四の点は︑渡米代銀上納がらみと判断される︑すなわち返済の困難が大きな
要因となったとみられる奈良町町民の欠落の事例が相当数存在している点であり︵日記で確認しうるのは寛文七〜十年で計一
十一例︶︑これら欠落例に対して︑奉行所は基本的に家屋敷の売払による返済を指示している点である︒たとえば︑寛文十 10
︵ 竺 一
年二月二十一日の条では︑鴨川町の町役人が ﹁町内二表具屋清左衛門と申者︑御城米銀二指つまり︑欠落仕候﹂ と報告して
きたが︑これに対して奉行所は︑﹁先規之通︑町代共と相談仕︑家屋敷もうり払︑御城米上納柏立﹂ ることを命じている︒
︑
∫
︑
寛文九年十二月十日の条では︑﹁惣年寄・町代共江︑御与力中被仰候ハ︑御城米上納銀之事︑藤九郎様︵奈良代官−筆者註︶
へ被仰上候へハ︑年内中二急度上納仕可申旨︑被仰候︑併御上納銀こさしつまり︑家屋敷なと売申義二候ハゝ︑其段ハ壱町
二何人上納さしつまり︑家屋敷売買仕候と申義ヲ︑委細二書付︑御与力中へ書付被上可申候︑藤九郎様懸御目二可申旨︑被
仰渡候︑則共通町中へも相触申候﹂ という注目すべき記述がみえている︒それによれば︑家屋敷の売払による代銀の完済と
いうかなり強行な奉行所の方針は︑奈良代官所との交渉と約束に強く裏打ちされたものであることが判明しよう︒さきに奈
良町町方の意向をふまえつつ奉行所が代官所と代銀上納の延引交渉を行っている点を述べたが︑にもかかわらずこうした欠
落事例が発生していたわけである︒そして︑より注目されるのは︑﹁壱町二何人上納さしつまり﹂ という文言が示すように︑
こうした欠落と家屋敷売買による完済事例が︑この寛文後期の奈良町にあっては︑決して例外的な出来事ではなかったと思
︵J l︶
われる点である︒欠落町民の家屋敷売買は ﹁町中として﹂行うべLとの指示︑また上納金の町による立替例がみられること︑
等から明らかなように︑町民の困難は同時に各町の困難であった点を確認しておきたい︒
以上︑本節では①寛文後期の奈良町では︑各町への渡米の割付・手形の配付は︑奈良代官との連携のもと︑奈良奉行所が
統轄する形で行われていること︑②渡米は︑奉行所の統轄のもと︑村方から直接に各町へ引き渡されていること︑③渡米代
銀は手形でもって各町1町代1代官へと上納されたが︑寛文九年以降現銀上納に変更され︑奉役所の役割が大きくなったこ
と︑④寛文後期の奈良町では︑渡米代銀上納の困難を原因とする欠落と︑家屋敷売買による完済事例が︑例外的とはいえな
い状況になっていること︑等を指摘した︒
11
三 奈良町渡米制の実態︵その二︶−大和国幕領村側からの検討
奈良町渡米制の実態を明らかにしうる幕領村側の事例として︑まず検討したいのは︑寛永十一一二一六三五︶年の大和国山
辺郡吉田村の年貢米納入状況である︒すなわち︑﹁納米払方目録﹂を整理した表2によれば︑第一に同村米納分のうちに
七二石五升九合が ﹁南都町売﹂と記載されている事実が確認できる︒これは同村の寛永十∴年年貢合計の四七・〇%︑米納
分の五八・八%を占める石高である︒﹁南都町売﹂米には代銀換算表示が記されており︑年貢米が奈良町に引渡された後に︑
引渡された町方からこの代銀が奈良奉行所へ上納されたものと判断できる︒軍水十二年は︑奈良町渡米制が実施された翌年
表2 寛永12(1635)年山辺郡吉田村貢租納入内訳
納 入 形 態 ・内訳 石 高 ( % ) 1 石 当 り値 段
「 銀 納 」 3 0 石 6 斗 5 升 (2 0 . 0 % ) 3 9 匁 替
「南 都 町 売 」 米 72 石 5 升 9 合 (4 7 . 0 % ) 4 1 匁 替 米
納
「二 条 御 蔵 詰 」 米 4 8 石 1 斗 2 升 (3 1 . 4 % )
「加 子 米 」・「車力 」 米 1 石 3 斗 2 升 5 合 ( 0 . 9 % ) そ の 他 1 石 1 斗 1 升 ( 0 . 7 % ) 小 計 1 22 石 6 斗 1 升 4 合 (8 0 . 0 % ) 合 計 15 3 石 2 斗 6 升 4 合 (10 0 . 0 % )
註)『改訂天理市史』史料編第2巻、435〜436頁に拠る。
にあたり︑ごく初期の渡米事例である点にも留意しておきたい︒さて︑表2から第二に注目
したい点は︑右に指摘した代銀換算表示である︒表2に示したように︑﹁南都町売﹂ 米の値
段は︑同年の ﹁銀納﹂ 値段より一石当り二匁高になっている点を確認しておきたい︒この
﹁銀納﹂ の石高は︑年貢米合計の二〇%の規模であり︑史料文言上の明示はないが︑五分一
︵ ㌶ ︶
銀納としての ﹁銀納﹂ であったものと思われる︒表2から第三に注目したい点は︑四八石一
斗二升 ︵年貢合計の三一・四%︑米納分の三九・二%︶ におよぶ ﹁二条御蔵詰﹂米が存在す
る事実である︒これは京都二条城への蔵詰米であり︑この点は表2に示したように二条城ま
での輸送費用である﹁加子米﹂︵木津川の水上輸送費︶﹁車力﹂米︵下鳥羽〜二条城間の輸送一
費︶ か計上されている点からも明らかである︒﹁はじめに﹂ で述べたように︑従来の研究で 12
は︑大和国の一国幕領皆石代納制成立のl一l一要因として︑内陸部ゆえの年貢米輸送の困難性が
指摘・強調されている︒しかし︑右の吉田村の事例は︑実際にはその年の米納分の四割にお
よぶ年貢米が京都まで輸送=廻米されていた事実を明示しており︑注目に値する︒国中 ︵奈
. ︑心 ︑
良盆地︶ 幕領村では︑本例以外にも大和国国外への廻米事例が判明するのである︒なお︑近
ハ剖 一
世幕領では一般に五里以内の年貢輸送は農民の負担とされている︒したがって︑表2に登場
する ﹁加子米﹂ ﹁車力﹂ は五里をこえる部分について︑同村の年貢米の内から支出するとい
う形で領主側が負担したものと考えられる︒
さて︑幕領村側の二つ目の事例としてあげておきたいのは︑平群那五百井村の事例である︒
す な わ ち ︑ 同 村 か ら 元 禄 七 ︵ 一 六 九 期 ︶ 年 に 提 出 さ れ た ﹁ 新 検 差 出 帳 ﹂ に は ﹁ 米 津 田 ﹂ と い う 項 目 が あ り ︑ そ こ で は ︑ ﹁ 陸
路当村占南都迄道法四里︑先年五味藤九郎様御代官所之時分迄︑御年貢南都町へ米二而相着︑渡し申候﹂ と記されているの
︵ あ
︶
︵ 邪
︑
である︒五味藤九郎とは初代の奈良代官であり︑その在任期間は寛文四 ︵一六六四︶ 〜同十一年であった︒したがって︑こ
の五百井村では︑寛文十l一年頃までは同村年貢米を南都=奈良町まで輸送し︑渡していたことが判明するのである︒五百井
︵ ガ ︶
村は明暦元 ︵一六五五︶ 年から幕領となっているから ︵それ以前は竜田藩片桐氏領︶︑おそらくそれ以降の関係とみてよい
であろう︒また︑五百井村の事例では︑年貢米=奈良町渡米は︑村方から直接に奈良の町方まで輸送され︑引渡されている
ことが明らかであり︑この点でも注目される︒前述のように幕領では一般に五里以内の年貢米輸送は農民の負担とされてい
る か ら
︑ 道 法 塁 で あ る 五 百 井 村
− 奈 良 間 の 輸 送 は
︑ 村 民 の 負 担 に よ っ て 行 わ れ た と 考 え て よ い
︒ 一
ところで︑五百井村には明暦二 ︵一六五六︶ 年分の年貢皆済目録が残されており︑それによれば︑同年の ﹁六分米﹂=米 13
納分三七石四斗五升六合四勺のうち︑①六票︵竺ハ・六%︶が﹁六分米之内南都御蔵詰仕候﹂︑②五八石四斗五升七合−
へ撼 一
︵四二・五%︶ が ﹁六分米之内御売上﹂ と記載されている事実が判明する︒﹁御蔵詰﹂ という文言に少し疑問は残るが︑この
明暦二年の五百井村は幕領村であり︑①が奈良町渡米である可能性が高いと思われる︒今ひとつの考え方は︑①は奈良町奉
行所に設置された米蔵への納入米であるという理解であるが︑この時期の五百井村が奈良町渡米を行っていたことは前述の
﹁新検差出帳﹂ の考察から確実であり︑そうであるとすれば︑①ではなく﹁六分米之内御売上﹂ とされる②が奈良町渡米で
あった可能性もあるといいうる︒先にみた吉田村の事例では渡米は ﹁南都町売﹂ と表現されていた事実を想起して頂きたい︒
今のところ︑どちらが渡米に該当するのか確定するのは困難であるが︑ともに米納分の四割代の割合を占めている点に留意
しておくこととしたい︒
表3 延宝4(1676)年平群郡東安堵村貢租納入内訳
納 入 形 態 ・内訳 石 高 ( % ) 1 石 当 り値 段
銀 納
「 十ヶー金軌 ( 十分一大豆銀納) 54 石 3 斗 7 升 ( 9 .7%) 9 1 匁替
「 三ヶー金納」( 三分一銀納) 1 8 1 石 2 斗 1 升 (3 2 . 3 %) 7 5 匁替 米
納
「御 米 奈 良 町 渡 」 3 24 石 3 斗 4 升 (5 7 . 8 %)
そ の 他 (六 尺 給 米 ) 1 石 6 斗 5 升 ( 0 . 3 %)
合 計 5 6 1 石 5 斗 2 升 5 合 (10 0 , 0 %)
註)・「辰之年諸役掛り物之帳」、『安堵町史』史料編上巻、271〜272頁所収に拠る。
・「十ヶー金納」石高は一部推定値を含む。
さて︑幕領村側の第三の事例は︑延宝四 ︵一六七六︶ 年すなわち奈良町渡米が実施された最終
年における平群郡東安堵村の年貢納入事例である︒表3が年貢米納入状況を整理したものだが︑
それによればまず第一に︑年貢米三二四石三斗四升が ﹁御米奈良町渡﹂ となっている事実が判明
する︒これは︑一部推定値を含むが同年の東安堵村年貢合計の五七・八%︑米納分のほぼlV一〇〇
%にあたる数値である︒そして︑第二にこの事例では︑奈良町渡米制実施に伴う関連経費を年貢
とは別に村が負担すべき費用として算定・計上している事実が確認できる︒すなわち︑同年の場
合①﹁御米奈良町渡し︑さい ︵宰1筆者註︶ 領耕取入用﹂ が一二匁︑②﹁御米奈良町渡し︑駄賃
懸り石二三匁ツ1﹂が計九七三匁となっている︵表3と同史料︶︒①は渡米の監督・計量費用︑一
②は輸送費 ︵﹁南都町迄道法三里半﹂ とある︶ であり︑奈良町渡米制の実施に伴う輸送 ︵五里以 14
内︶・引渡経費は農民 ︵村︶ 側の負担であったことが︑ここでも確認されるのである︒
以上︑幕領村側の三つの事例を検討した︒その結果︑①寛永〜延宝期の大和国幕領 ︵山辺郡・
平群郡︶ 側の史料から奈良町渡米の存在ないし継続を確認しうること︑②村ごとの奈良町渡米の
割合︵年貢高に占める︶ にはばらつきがあり︑なかには米納分のほぼ一〇〇%の事例もあること︑
③渡米の輸送やそれに伴う諸経費については︑五里以内の場合︑幕領村側の負担となること ︵国
中幕領の大半は奈良町の五里以内圏に入る︶︑④渡米の代銀については︑年貢米銀納値段に二匁
高 と い う 事 例 ︵ 山 辺 郡 吉 田 村 ︶ の あ る こ と ︑ 等 を 明 ら か に し た ︒
四 奈良町渡米制の廃止と皆石代納制の成立
以上三節にわたって︑従来ほとんど知られていない奈良町渡米制について考察を行った︒その上で︑本節では︑奈良町渡
米制の廃止と大和国における一国幕領皆石代納制成立の関連へと考察を進めたい︒両者の関連をもっとも明瞭に示す史料と
して注目されるのが︑貞享五 ︵一六八八︶年正月に大和国六郡︵添上・平群・山辺・城上・宇智・吉野郡︶ の惣代庄屋一四
︵カ 一
名・大庄屋七名︵大庄屋は吉野郡のみ︶ から奈良代官三田次郎右衛門に提出された次のような願書である︒
一去卯︵貞享四年1筆者註︶ 之御物成銀︑不残︑当五月切皆済可仕之旨︑被為仰付奉畏候︑併当国之儀︑国中之分︑
三分一銀・十分一大豆銀者︑其年之内上納仕候︑六分米之儀︑先年者︑奈良之町人江三分一御直段二銀弐匁高二御
借付被成︑翌年極月切皆済仕候処二︑十二年以前︵延宝四年−筆者註︶鈴木三郎九郎様︵奈良代官−筆者註︶御 15
支配之時分︑町人中より御公儀横江ノ御訴訟申上︑其後百姓共江町人な︑︑二被為仰付候両︑前年之六分米代銀︑明
ル年之十月霜月迄皆済仕来申候︑然処ニ︑従当年五月切二被召上候而ハ︑指当申候而上納可仕手立存寄無御座︑百
姓難儀仕候間︑前々之通上納仕候様︑奉願候御事
吉野郡之儀者︑先規より草を伐替申候面︑三分二米上納仕来申候故︑前年之御物成代︑明ル六・七月迄二皆済仕候︑
依之︑三分一御直段銀壱匁高二上納仕候︑然上︑五月切二被召上候而ハ︑何を以上納可仕存寄一円無御座候間︑如
跡々之六・七月迄二皆済仕候様︑奉願候御幸
この願書の願意は︑右の引用文からも明らかなように︑国中︵奈良盆地︶幕領においては前年の六分米代銀上納の皆済期
限が本年より翌年五月切と早くなり︑吉野郡幕領においても前年の三分二米代銀上納の皆済期限が本年より翌年五月切と早
くなったが︑それぞれ従来通りの皆済期限 ︵国中では十・十一月迄︑吉野郡では六・七月迄︶ にもどしてはしいというもの
である︒願書ではこの願意に関連して︑従来の貢租制度のあり方が説明されているのだが︑そこでは︑以下の三点に整理し
うる注目すべき諸事実が判明するのである︒
その第一点は︑大和国の国中 ︵奈良盆地︶ に位置する幕領村にあっては︑﹁先年﹂ ︵延宝四年以前をさす︶ は︑毎年の年貢
の ﹁六分米﹂ 分を奈良町の町人へその年の三分一銀納値段に二匁高で貸付 ︵渡米とし︶︑代銀は翌年十二月迄に町人より皆
済してきたという記述である ︵傍線①︶︒それによれば︑まず奈良町渡米を行う幕領村の範囲が国中 ︵奈良盆地︶ 幕領と明
記されている点が注目されよう︒第二節では︑山辺・平群両郡の事例をみたが︑両郡とともに右の願書の差出人として惣代
庄屋が名をつらねている添上・城︵式︶上郡幕領も渡米を行っていたことは確実であり︑その他の国中諸郡幕領についても一
同様であったと思われる︒ただし︑願書の差出人に惣代庄屋が登場する宇陀郡については︑通常近世の大和国の地域区分で 16
︑ い 1 一
は国中には属さないとされる︒しかし︑願書では︑六郡惣代・大庄屋が大和国幕領を ﹁国中之分﹂ と ﹁吉野郡﹂ にいわば二
大区分した形で説明しており︑宇陀郡幕領から奈良町渡米が行われた可能性も否定し切れない︒ついで注目されるのは︑奈
良町渡米の代金が三分一銀納値段に二匁高と明記されている点である︒第三節では︑渡米制の成立直後の寛永十二 ︵一六三五︶
年に銀納値段 ︵五分一銀納値段と推定︶ に二匁高という事例の存在することを指摘したが︑その年の年貢の定銀納値段に対
して二匁高という点では︑両者は共通している︒奈良町渡米は︑五分一銀納値段のちには三分一銀納値段に対して︑それぞ
れ一石当り二匁高との値段設定がなされたものと考えてよいであろう︒この代銀を翌年の十二月迄に皆済してきたという記
述も︑第一節での検討結果と基本的に対応している︒
願書の記述から第二に注目される点は︑以上のような奈良町渡米は︑延宝四 ︵一六七六︶ 年に至って︑奈良町町人中より
の出願 ︵訴訟︶ によって廃止され︑かわって国中幕領の百姓たちに対して ﹁町人なミニ﹂ 負担することが命じられ︑﹁六分
米代銀﹂ は国中幕領村々から翌年十・十一月迄に皆済するようになったという記述である ︵傍線②︶︒延宝四年に奈良町町
人側の要求によって︑奈良町渡米制が廃止されたという記述は︑第l一節で検討した ﹁御城米之事﹂ の記述と一致する︒そし
て︑ここでさらに明らかになるのは︑町人側の要求を受け入れる形で六分米による奈良町渡米制は廃止されるのだが︑従来
奈良町町人が負担していた代銀負担は︑﹁町人な︑︑︑ニ﹂ という名目のもと︑そのまま国中幕領農民に転嫁されたという事実
である︒すなわち︑国中幕領については︑奈良町渡米制が廃止され︑従来の奈良町人負担分が幕領農民に転嫁された結果と
して︑村1代官への六分米の銀納制が制度的に成立したのである︒延宝四年の時点では︑願書にも明記されている通り︑四
分方は三分一銀納÷分一大豆銀納としてすでに銀納化されているわけだから︑この時点での六分米銀納制の成立とは︑す一
なわち皆銀納制=皆石代納制の成立に他ならない︒国中幕領に関しては︑奈良町渡米制が廃止された延宝四年が皆石代納制 17
成 立 の 制 度 的 画 期
︵ し た が っ て 実 施 は 延 宝 五 年 か ら
︶ と い う こ と に な る の で あ る
︒
−
もっとも︑第三節で検討したように︑延宝四年以前の六分米による奈良町渡米は︑米納分︵六分米︶ の一〇〇%近くが渡
米となる事例がある一方で︑各村レベルでみると量的なバラツキがある点には十分留意しなければならない︒延宝国年以前
の国中幕領では︑米納分︵六分米︶ のうち奈良町渡米は主要な提供先 ︵販売先︶ ではあるが︑第三節でもふれたように︑そ
れ以外にも米納先 ︵京・大坂等︶ や銀納形態 ︵年貢米販売による︶ も存在したと考えられるからである︒寛文期以降の事例
ではあるが︑第一節でみた通り渡米の年間総量か五千〜七千石程度であった事実からみても︑右の理解は妥当であると思わ
︵ 4
1 ︶
れる︒すなわち︑延宝四年を画期とする変化の重要性は︑従来の六分米が︑まるごと六分米銀納制に移行したという点に求
められるのである︒幕領農民の側からいえば︑実態としての奈良町渡米分だけではなく︑その村の六分米がまるごと銀納制
に︑しかも三分一銀納値段に二匁高という従来の町人並負担のままに転嫁・強制をされたわけであるから︑六分米銀納制の
︑し1
成立は事実上の貢租増徴に他ならないといってよい︒
さて︑願書から判明する第三の点は︑吉野郡幕領では︑﹁先規より﹂ ﹁三分二米﹂も銀納化されており︑その値段は三分一
銀納値段に一石当り一匁高であったという点である ︵傍線③︶︒吉野郡の幕領村では︑延宝八年には年貢を皆銀納している
︵ 姐 ︶
具体例が確認され︑その開始年代はさらにさかのぼると指摘されている︒すなわち︑吉野郡幕領では︑すでに延宝期以前か
ら三分一銀納二二分二銀納という国中幕領とは異なる形式で皆石代納制が採用されていたわけである ︵その成立はおそらく
十七世紀前期とみられる︶︒延宝四年の奈良町渡米制の廃止は︑国中幕領皆石代納制成立の画期であるとともに︑吉野郡を
含 む 大 和 の 一 国 幕 等 石 代 納 制 成 立 に 空 て も
︑ 制 度 的 画 期 を な し た と 考 え ら れ る の で あ る
︒ 一
もっとも︑木村博一氏の研究によれば︑吉野郡の貢租徴収のしくみは︑吉野 ︵川上・黒滝を中心とする地方︶・北山・十 18
津川の三地帯で異なっており︑慶長九︵一六〇四︶年以降北山郷では年貢を材木で納める木年貢制が︑十津川郷では年貢米−
納入のかわりに筏役の賦課がそれぞれ実施されたことを明らかにしている︒したがって︑年貢皆銀納制︵三分一銀納・三分
二銀納︶ が行われたのは吉野郡全域ではなく︑北部に位置する吉野川流域の吉野地方であったとみなければならないであろ
う︒右の願書の差出人として登場する吉野郡の七人の大庄屋がいずれも吉野地方に属するとみられる各組大庄屋である事実
も︑この点を裏付けているように思われる︒
では︑何故︑延宝四年に奈良町町人は本来恩恵的制度であったはずの奈良町渡米制の廃止を出願するに至ったのか︒そし
て︑幕府は何故町人側の要求を受け入れたのか︒次にこれらの点の考察に移りたい︒まず︑前者の間に対しては︑渡米代銀
が幕府の貢租増徴政策︑この場合︑三分一銀納値段引上政策の結果︑地域米価の実態と比較して大幅な高値となり︑奈良町
町人にとって過重な負担となっていたという事実が注目される︒すなわち︑森杉夫氏は︑寛永期における畿内幕領の三分一
銀納値段は当時の畿内の市場価格︵所相場︶ によっていたが︑十七世紀後半の寛文・延宝期には︑所相場に悪意的な増値段
.巨
を付加するという形で︑石代納値段の引上政策=貫租増徴政策が展開したことを明らかにしている︒大和国幕領においても
状況は同一であったとみてよく︑たとえば奈良町渡米の実施最終年にあたる延宝四年の大和国幕琴二分二班納値段は一石当
ハ傷一