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山丁研究 ――「満洲国」を生きる作家の生涯と作品――

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Academic year: 2021

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山丁研究

――「満洲国」を生きる作家の生涯と作品――

論文要旨

1.研究の意義と方法

本論文は、「満洲文壇」の中心人物であった山丁を取り上げ、彼の生活経歴をできる限り 明らかにしたうえ、「満洲国」時代を中心に、彼の重要な創作・活動を考察しつつ、とりわ け三つの短篇小説集と長篇小説を重点的に分析したものである。

筆者が山丁を研究対象にした理由は、彼の経歴には言わば「代表性」といったものがある と考えたからである。彼は、中華民国時代、軍閥・張作霖時代、「満洲国」時代、日本占領 下の北京時代、国民党・共産党の内戦時代をくぐり抜け、文化大革命を経て、名誉回復を経 験している。文壇デビューは、ほとんど「満洲国建国」と重なっている。山丁の一生は、中 国近代の大きな歴史的事件に次から次へと巻き込まれていった。

その文壇デビュー時から、1943年に「満洲国」を脱出するまで、彼は数多くの作品を残 している。現実描写を得意とする彼の作品からは、日本の「満洲国」統治の実態と一般民衆 の生活のありよう、特に当時の文化状況を明らかにすることができるはずだ。

戦後、山丁は「満洲国」作家として、悲惨な体験に遭遇せざるを得なかった。また、1980 年代に「発言権」を獲得したのちの彼は、再び筆をとって、自己弁護の文章を書き始めるこ とになる。このような傾向は、大きな政権交代を経験した「満洲国」・台湾の一部の作家た ちに共通するテーマだったと言えよう。山丁の戦後における活動を明らかにすることは、文 学史上の問題をこえて、アジア史研究の一端にも役立つと考える。

作家の作品を理解するためには、作家自身の人生の軌跡や交友関係を明らかにする必要 がある。そこから、作品理解のための有力な手がかりを得ることができるからである。した がって、本論文ではまず、山丁の生涯を明らかにしたうえ、彼の作品を論じていくにする。

生涯を明らかにするにあたっては、一次資料を探索するかたわら、山丁の子息と友人に 対する、筆者のインタビューも参考とした。子息からは、文化大革命の時、山丁自ら執筆し た子息宛ての「交代材料」を入手することができた。友人の作家・李正中氏に対するインタ ビューからも、資料が語ってくれない山丁の経歴を明らかにすることができた。また、筆者 が発見した資料により、『梁山丁研究資料』の誤りと遺漏を正すことができた。

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2.論文の概要

本論文は三部からなっている。第一部「山丁の生涯」においては、政治的・社会的環境の 変動に応じて彼の生涯を四つの時代に分けて考察した。

第一章「生い立ちから『満洲文壇』に登場」するまでは、彼の生まれた家庭環境、出身地 の開原、受けた教育状況を検証した。師範中学校在学中に北京大学出身の邊先生の影響で新 文学を読み始め、文学への道を歩むようになっていく。そして、雑誌『氷花』の編集者であ り、東北大学付属中学校の学生・全格平との出会いから、彼は発表の場を得た。さらに、税 捐局の徐の娘との恋愛は、山丁の創作活動に大きな刺激をもたらした。これらの出会いは、

山丁に作家としての出発をかなわせたのである。

第二章「満洲国」時代では、山丁の職場変化に基づき、「石城時代」、「新京時代」、「満映 時代」に分けて考察した。1932年ころ、山丁は税捐局の官吏となり、32年から36年にかけ て扶余県三岔河鎮にある、税務系統のなかでは末端に位置する石城税捐局に勤めながら、彼 は文学の夢を忘れず、積極的に創作に取り組み、文壇でのネットワーク作りにも熱心だった。

33年と34年、当時哈爾濱を拠点に活動していた蕭紅、蕭軍などの左翼文芸運動家とも知り 合い、「満洲文壇」への足がかりを得た。この時期の生活・職場体験は、彼に下層農民・労 働者と接するチャンスを与え、このことが、山丁文学の原点となった。

19366月、山丁は「満洲国」の官吏養成機関・大同学院に入学した。卒業した後、彼 の勤務先は扶余県石城税捐局から、「満洲国」の首都であり、政治・経済・文化の中心地で あった新京の税捐局へ移った。398月、山丁は扶余県税捐局に転勤させられた。しかし、

扶余の仕事は1年も続かなかった。

19403月、満洲映画協会の2代目理事長に就任した甘粕正彦が、積極的に中国人作家 を満映脚本部に入れるのを機に、山丁も満映に入社し、再び地方から新京に戻ってきた。そ の頃、彼は日本人主宰の「満洲文話会」にも入会し、本格的に「満洲中央文壇」に進出し始 めた。41年12月、「大東亜戦争」が始まり、「満洲国」政府はさらに作家たちの戦争協力を 求めてきた。43年になると、文学者に「英米撃滅詩」や「献納詩」といった翼賛詩の執筆が 強制された。今や「満洲文壇」における中心的存在となっていた山丁も、こうした圧迫から 逃れることはできなかった。政治雰囲気が厳しい中、43年秋、彼はついに「満洲国」脱出を 余儀なくされた。

第三章「北京時代」では、山丁が脱出した経緯、彼を含め「満洲国」系文化人が北京に おける活動を考察した。終戦まで2年も至らない北京生活において、山丁の職業は不安定 だった。1944年になると、北京の物価は急激に高騰していき、「満洲国」時代と比べる と、彼の生活は格段に苦しかった。したがって、この時期の創作も減った。本業以外、彼

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は華北作家協会の会員として、座談会に出席したり、地方の視察に派遣されたりすること も多かった。これら文学活動のうち、特に注目したのは、華北文壇に地殻変動をもたらし た「破門事件」と、山丁が病気がちの袁犀に代わって華北作家代表として南京へ赴き、第 三回大東亜文学者大会に参加したことである。45年815日、山丁は北京で終戦を迎え た。「満洲国」は日本の敗戦とともに崩壊した。終戦直後の北京は混乱状態に陥り、彼は すぐには東北に戻れなかった。45年1112日朝、ようやく北京を離れることができた。

第四章では、戦後の東北の政治・文化状況を踏まえたうえ、「満洲国」を生きた作家らの 遭遇について述べた。山丁は、1948年の「整風運動」において批判され、55年、「胡風事件」

の影響で10カ月の隔離検査を受けた。さらに、「漢奸文人」として、58年に「投獄」され、

刑務所で10年間を過ごした。68年、刑務所を出たのち、工場労働を11年間強いられ、79 年にようやく名誉回復された。80 年以降、それまで長く発言権を奪われていた山丁は、再 び発声するチャンスを得た。この時期の山丁は、積極的に自分と友人の作品を再刊する一方、

「自己証明」と「自己美化」のため、過去の作品を書き換えたり、一部は事実と合わない回 想を執筆したりしていた。97年、政治に翻弄され続けてきた人生が終わる。

第二部では、「満洲国」時代の山丁の重要な活動と創作を取り上げて考察した。

第一章は、1933、34 年の創作を紹介したものである。総じていえば、この時期の山丁に は、一定の創作量はあるものの、それらの多くは素材をそのまま使い、直感的に描くといっ た傾向が見られる。文学レベルは高いとは言えまい、「習作」と見なしていてよいと考える。

第二章では1935、36年の創作活動を分析した。山丁は、「満洲国」時代と戦後において、

この二年間の「空白」を強調している。現在の学界では、山丁は「郷土文学」の提唱者とし て名を知られており、また、「満洲文学」の歴史全体においても重視されている作家の一人 である。しかし、彼がいわゆる「附逆作品」(支配者に屈服し、媚びへつらう作品のこと)

を発表し、「満洲帝国国民文庫懸賞原稿募集」に応募し当選した事実は、あまりよく知られ ていない。本章ではこの時期の作品を、現実を描く「郷土文学作品」、自己の内面を見つめ る作品、「附逆作品」と、三つの領域に分けて、「空白の2年間」における山丁を論じた。こ れらの分析を通して、山丁が1935~36年の 2 年間の創作歴を「空白」にした理由を探り、

「附逆作品」を書いた背景について考えてみた。

第三章では、「満洲国」官吏養成機関・大同学院における山丁の活動と日本旅行の経緯と を紹介した。日本側に期待される「満洲国」の有能官吏の一人として、山丁は日本を訪れた。

しかし、卒業して1年も経たなかった1938年、彼が大同学院を「批判」する「以前与現在」

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「耐寒的収穫」を発表した行為は、学院の教育精神に対する「裏切り」だったと考えていい のではあるまいか。さらに、40年3月、官吏として日本側に大いに期待されていた彼は、

自ら官吏生活に別れ、満映に入社してしまう。大同学院の卒業から、わずか3年後に過ぎな かった。

第四章では、今までほぼ定説となっている「郷土文学論争」の内実を明らかにした。1937 年、山丁が新京に転勤して間もなく、「満洲文壇」で最も重要な事件、いわゆる「郷土文学 論争」が生じた。ところが、当時の論争状況と現在の研究上の定説との間には大きな「ズレ」

が見られる。筆者は、一次資料を用いて、38年、『大同報』の編集者・柳龍光と、対する『明 明』の毛利、古丁との間に起こされた論争的対立が、いかにして山丁のいう「郷土文学論争」

にまで発展していったかを、本章で考察した。

第五章において、満映におけるシナリオ創作と、詩の創作・翻訳・編集活動を紹介し た。満映に3年半くらい勤務していた山丁は、戦後、満映時代の仕事を語る時、「20数本 の脚本を書いたが、どれも映画化されなかった」と主張している。筆者は実際、山丁が脚 本を書き、映画化された作品を二本見つけることができた。この二つのストーリー紹介を 読む限り、山丁の文学的才能は、シナリオ創作には向いていなかったようにも思われる。

要するに、娯民映画では観客を笑わせ、楽しませることが肝心である。観客の心をつかむ ためには、物語の面白さが重要なポイントとなる。その点が、山丁本来の創作モチーフと 異なるところであり、彼にとっては最も困難なところであったに違いない。なお、提出さ れたシナリオは審査や手直しも受けなければならないため、映画化されたシナリオに、原 作者の思想がどれくらい残されていたかは疑問である。

第三部は作品論である。

第一章では、1冊目の短篇小説集『山風』を取り上げた。『山風』は、益智書店より「文 芸叢刊第二輯」(呉郎主編)として1940610日に出版され、33年から39年にかけて 新聞の副刊や文芸欄、雑誌に発表された小説8篇、書き下ろし1篇を収録している。とこ ろが、単行本に収録するさい、山丁はこれらの作品を大幅改稿したのだったが、これまで の研究では、その事実が無視されてきた。本章では、この書き換え問題を取り上げ、そこ から、「満洲国」の政治・文学統制の実態を垣間見ることができた。

第二章において、2冊目の短篇小説集『郷愁』を分析した。『郷愁』は『山風』に比べ て、同じく農民・労働者に注目しているところに共通点がある一方、登場人物に日本人以 外の外国人の存在が目立つ。『山風』では、日本人あるいは日本を暗示するものが描かれ

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ている。『郷愁』になると、日本人のほか、ロシア人や朝鮮人も登場する。しかし、作者 は両者に対し異なる描き方をしている。「満洲」へ流れてきたロシア人には後ろ楯がな く、国を失った「満洲人」と同病相憐れむような存在であった。ところが、中国人からす れば、日本の権勢をバックに威張っている朝鮮人は日本の侵略の共犯者に他ならなかっ た。

第三章は3冊目の短篇小説集『豊年』を通じて、「満洲国」後期の山丁を含む知識人の精 神状況を考察した。この本の作品を従来の山丁文学と比較すれば、石炭や鉄道を借りて日本 の侵略を批判するところが一脈相通ずる。しかし、農民や労働者を中心に描いてきた山丁文 学は、『豊年』においては、これまでと異なる傾向をあらわにしている。作品の主人公たち の職業は、作家、画家、軍人などが多く、知識人たちの精神的苦痛をテーマにした作品が目 立ってくる。山丁が描いた文学者の「絶望」を理解するため、筆者は多くの紙幅を用いて、

「満洲国」後期における山丁を考察した。一連の政令によって、作家たちは「口を持ってい るが、発言できない」状況に追い込まれていったのである。このことこそが、山丁の小説の 主人公たちの悩みの源であり、『豊年』が訴えようとする主題に他ならなかった。

この3冊の作品集からは、山丁の創作テクニックの向上が見える一方、「満洲国」におけ る政治環境の変移も一目瞭然である。一面、「満洲国」の歴史が描かれていると言っても過 言ではあるまい。

第四章では彼の代表作と見なされる『緑色的谷』を扱った。『緑色的谷』は山丁の「郷 土文学」の実践作とされ、連載中から大いに注目を浴びていたが、後の「文化大革命」の とき、これが日本人によって翻訳、出版され、日本侵略者をたたえ、美化したという理由 で、山丁は「漢奸文人」の罪名をかぶせられた。彼の名誉が回復された後の1987年、

『緑色的谷』は再び世に出た。しかし、当時の政治環境に影響されたのか、87年刊行の

『緑色的谷』は43年版と比べると書き換えが随所に見られる。また、再刊に伴い、『緑 色的谷』についての研究は今に至っても盛んな様相を見せている。

本論文では、書き換えられた1987年版ではなく、オリジナルテクストといえる新聞連載 版や初刊本版を読み直し、再検討をおこなう。まずは、『緑色的谷』の内容や構成と、先行 研究における問題点とを紹介したうえで、新聞連載版、初刊本およびそれらの日本語訳、こ れら多様で複雑なテクストの関係を整理する。つぎに、新聞連載版および初刊本における

「日本人像」に焦点をしぼって検討した。「日本人像」を検討する理由は、書き換えられた 87 年版では、作中の日本人の存在感がかなり薄められているにも関わらず、その点が従来 の研究ではまったく指摘されていないからである。しかも、「満洲国」時代の中国人作家の 作品には「日本人」がマイナスの存在として描かれる場合が多いなかで、オリジナル版に日 本人がプラスの存在として登場していて、このきわめて稀なケースを見逃してはならない。

最後に、多くの研究者に注目され、作者も指摘した主要登場人物・小白龍について論述する。

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87 版においては、小白龍の部分に関する書き換えに最も重点が置かれていて、そうした書 き換えを施した作者の動機を明らかにしたうえ、「満洲国」を生きた文学者の戦後のありよ うについて考察した。

最後の「おわりに」において、戦後における植民地作家の運命について考え、本論文で処 理できなかった幾つかの問題を今後の課題として示した。戦後から新中国が成立するまで の間、山丁、蕭軍ら「満洲国」を生きた文化人に対する「政治清算」がさっそくおこなわれ、

文革中に監獄に「収監」されたり、あるいは労働教育を強いられた作家たちもあった。彼ら の作品の内容を恣意的に解釈し、「親日」のレッテルを貼り、「漢奸文人」の判決を簡単に下 した。この重すぎる判決に耐えられず、自殺、または原因不明で獄死した文学者も何人かい た。「満洲国」時代の文学者のほとんどが悲惨な運命をたどった。

1980年代以降、山丁をはじめ、「復活」することのできた文学者たちは、「自己美化」を始 めることになる。彼らの一生は政治に翻弄されてきたため、政権に迎合するようになってし まう。これも、植民地作家の共通点ではあるまいか。

参照

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