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差別意識論への一視角

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差別意識論への一視角

その他のタイトル A Perspective to the Theory of Discriminative Consciousness

著者 小原 仁

雑誌名 関西大学社会学部紀要

巻 14

号 2

ページ 181‑202

発行年 1983‑03‑28

URL http://hdl.handle.net/10112/00022784

(2)

小 原 仁

人間の主語は消えて動詞はしびれ,形容詞の雑草にまみ れて民衆の反骨は行方不明となった。……逆境を逆手に 取れば,逆風もiJ厠風となる。危機が好機に転じる。危機 が大きくなれば好機も育つ。その成否をきめる条件は一 っ,主語を明らかにして動詞をうごかすか否かです。

—むのたけじ

は じ め に

『関西大学部落問題研究室紀要』第8号掲載の論稿(「人間存在と差別ー解放論ノートH」)で は,人間存在そのものに定位して差別を対自化することを試みた。しかしそれは,論理的にも実 証的にも細部にわたっての展開は割愛し,いくつかの基本的な諸概念と各論への端緒をそれなり に対象的に定着しておくことに主眼がおかれていた。その意味で,いわばテーゼの連続以外のな にものでもなかった。これに対して本稿は,差別意識論の具体的展開への第一歩の踏み出しであ る。

「部落」に対する差別意識の解体が,今日の解放運動の重要な課題となっていることは周知の 事実である。例えば,部落解放同盟は, 1973年の運動方針において「社会意識としての部落民に 対する差別観念を如何に理解するかは部落解放への展望が開けるかどうかを左右する重要な課題 である」!)と, その重要性を強調している。実際のところ, 差別意識は,差別行為を導くもので あり,差別実態を形成し,かつ維持・強化するものであり,解放運動を阻止する力でもある。に もかかわらず今日,妬み差別意識,無関心,差別落書等に見られる積極的・能動的差別意識等々 が禰漫している。その意味で今日差別意識の解明の作業は焦眉の課題となっている。本稿は,こ

.  .  . 

うした差別意識の解明への<視角>ないしは<構え>についての一つの試論である。

I. 差 別 意 識 論 へ の 関 心

差別意識の解明がどのような<関心>のもとになされるかによって,理論構築は一定の制約を

1) 「部落解放」解放出版社,第39号, 1973

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関西大学『社会学部紀要』第14巻第2

受けることになる。このことは,近年,社会学が問題化してきた用語でいうならば,<背後仮説

(background assumptions)>2Jに通ずる問題である。その意味で,研究者自身の差別意識に関 する関心が明確化されなければならない。

見田宗介氏はかつて, 社会意識論を「民衆のアイデンティティと主体性を拡大する活動」 して,その「本源的な課題」を「民衆の自己解放における, 対自的総体化の運動の一契機」4) して位置づけている。

こうした観点から言うならば,差別意識論は,<民衆の自己解放の運動の一契機>として明確 に位置づけられなければならないだろう。その意味で差別意識論はまた,<民衆の解放主体形成 論>として位置づけられなければならないだろう。 まさしく, 差別意識の中で,「人間の主語は 消えて動詞はしびれ,形容詞の雑草にまみれて民衆の反骨は行方不明となった。権力はこういう 社会状況を造成して利用した」5)。差別意識から自己を解放することは,「主語を明らかにして動 詞をうごかす」6)ことだ。 わたし自身の差別意識論への関心を一言で言うならば, このように言

うことができよう。

一般的に言っても,今日的状況を見るにつけ,<解放主体の形成>ないしは<解放を生きる主 体としての自己形成>の問題は, 最大の課題ではないかとわたしには思える。例えば, 現代は 危機の時代である と様々の側面から様々な論者によって語られている鸞 いわく,資源涸渇,

環境破壊,人口爆発,軍事化,ファッショ化,核兵器,原発,非行,等々挙げてゆけば枚挙にい とまない。確かに危機はある。だがおそらく最大の危機は,そういった様々な人間破壊につなが るような諸問題に対してゆく主体の解体にあるだろう。主体性の拡散・混乱は,今日の人間の当 面する最大の課題であろう。

人間はこれまでも様々な問題に直面してきた。そしてまたある意味で,これからもそうであろ

2) A. w. グールドナー, 岡田直之• 田中義久共訳『社会学の再生を求めて 1 社会学=その矛盾と下部 構造」新曜社, 1974, 36

3)福武直監修,見田宗介編「社会学講座 12・社会意識論』東京大学出版会, 1976,1 4)同上, 23

5)むのたけじ「甦る道はイロハのイから」,『マスコミ市民』マスコミ市民会議, 1981年12月号。

6)同上。

7)例えば,竹内良知氏は,「現代人権論の課題」と題する小論の冒頭において次のように述べている。

「現代文明がもたらした巨大な変化は国家間の関係から個人の生活様式にわたり,人びとの生き方の全 面に及んでいる。現代文明はさまざまな形で生活の向上と便宜をもたらした反面,人間の疎外を極度に 深めている。人びとはさまざまな非人間的状況に投げこまれ,生きることの意味を奪われ,ァイデンテ イティを失っている。そればかりではなく,文明の進歩に伴う自然環境の大破壊と汚染は人類の生存そ のものの基礎を脅かしているし,核兵器に象徴される軍事技術は人類を絶滅の淵に追いこんでいる。文 明の逆説があらゆる面で噴き出し,文明や進歩の意味が根本的に問われている。

しかし,人類はこの危機にたいする有効な対処の方法をまだ見出していない。国家を中心とした統制 はこの危機を克服できないでいるばかりか,かえってその危機を深めている。現代のさまざまな問題状 況は,国家,軍隊企業等が人間を無視して自己の目的をおしすすめるところに成り立っている。こう

した状況を具体的に解決するためには,人間とその生き方についての根本的反省をつうじて人間疎外か らの回復の道を見出さなければならないが, 『人間の尊厳』を基軸とする人権の理念はその具体的な指 針となりうるであろう。」(「関西大学通信」第118 1982.)

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う。だが,様々な困難に出会うということそれ自体は,人間にとって一義的に否定的な意味をも つものではない。それは常に両義的である。それは,人間的に生きられれば,人間的生を深め豊 かにする契機ともなる。 K.マルクスと共に言えば,「受動的苦悩〔Leiden)は,人間的に解すれ ば,人間の一つの自己享受」8)である。まさしく,様々な問題に直面しつつも,それを自己の生を弁 証法的に豊饒化する契機へと転化してゆく<解放主体の形成>こそ今日の焦眉の課題であろう。

言うまでもないことだが,ここで言うところの<解放主体>とは,自己自身を解き放ってゆく 主体,自己実現を生きる主体,自己解放を生きる主体のことである。そしてここで<自己>とは,

事実存在する人間存在の普逼性と特殊性との統一としての具体的な個体である。したがって<自

. . . . . . . . . . . .  

己解放>とは,具体的な個体性の解放=実現である。

わたしたちは,現代という普遍的な疎外状況の中で,バラがバラであるように,人が人として 生きれないような状況にある。あるいは,それぞれの個体がそれぞれの個体性において生きれな い状況にある。人が人として,「女」が「女」として,「男」が「男」として, AさんがAさんと して, BさんがBさんとして生き切る生こそ解き放たれた生であり,そうした生を生き切る主体

こそ<解放主体>に他ならない。したがって<解放主体の形成>とは, h 色ふ ~B としそ生ふる

主床ら形成以外のなにものでもない。いかなる外圧にも,いかなる内圧にも屈せず,自己白嘉を

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

尽きなく生きる主体の形成以外のなにものでもない。

この意味で,差別とは,人間存在の根抵的な自己疎外としての関係性の一形態に他ならない。

例えば,部落差別にあっては,「部落民」 という焔印を張られることによって物質生活において も精神生活においても疎外され,自己実現をはばまれている。これは,在日朝鮮・韓国人差別,

「障害」者差別,女性差別,等々他の諸差別にも言えることである。そして差別意識とは,こう

.  .  .  .  .  . 

した差別を生産・再生産する意識に他ならない。その意味で,先程述べたように,差別意識論は . . . ・・。・。・・・・

差別から人間を解き放つことによって人間そのものを解き放ってゆく運動の一契機に他ならない。

ひとまずこのように言うことができると思うが,その根拠について若干述べておかなければな るまい。

マルクスは,「自由な意識的活動が,人間の類的性格である」9)と述べている。 しかし,「自由 な意識的活動」はむしろ人間の生物学的な構造によって強いられているものである。マルクスは,

. . .  

周知のごとく,人間を「受苦的 (leidend)な存在」10)と捉えている。すなわち人間は,<生物>

的受苦と<人間生物>的受苦との二重の受苦を被っている。あるいは,二重の否定を被っている。

人間は,まず生物として,生きていくためには自分の外部にあって自分から独立した諸対象と関 係せざるをえない11)。かつまた,人間生物として,その生物的な生=関係が自然身体において完

8) K. マルクス,城塚登•田中吉六訳「経済学・哲学草稿』岩波書店, 1970, 136頁。 9)同上, 95頁。

10)同上, 208頁。 11)同上, 206頁。

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全には保証されてはいない。こうした人間存在の人間学的・人間生物学的事実については,周知 のごとく, イクスキュール,プレスナー,ゲーレン, ポルトマン等々哲学的人間学・人間生物等 において最近明らかにされているところである。人間的生というものをこのような観点からみる ならば,まさしく<生きる>とは, この二重の否定の絶えざる否定のなかで肯定的に自己を定立 していくことである。そしてこの運動こそ,「自由な意識的活動」としての<行為>である。単 なる生物は,<生物>的受苦の止揚の運動として<行動>するだけであるが,人間は,二重の受 苦を被っている存在として, その二重の受苦=人間的受苦の止揚の運動としてく行為>する。

マルクスは,「資本論』の中で「人間労働」について次のように述べている。

―くもは,織匠の作業にも似た作業をするし,蜜蜂はその蝋房の構造によって多くの人間の 建築師を赤面させる。 しかし,もともと,最悪の建築師でさえ最良の蜜蜂にまさっているという のは,建築師は蜜房を蝋で築く前にすでに頭のなかで築いているからである。労働過程の終わり その始めにすでに,労働者の心像のなかには存在していた,つまり観念的にはすでに存在 には,

していた結果が出てくるのである12)

ここでマルクスは,人間の活動としての労働が「心像」・「観念」によって導かれていることを 指摘している。マルクスが,「心像」・「観念」と述べているものを<意識>というならば,<意

.................................... 

識>とは,<人間生物>的受苦の止揚の活動性として,否定の否定の活動性として,生=関係様

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

式の肯定的な定立活動である。いわばそれは,<世界観>の構築活動である。

ここに,人間にとっての<意識>の重大な意味がある。つまり,意識が世界と自己の真実を疎 外し,虚偽化してしまうならば,生は,受苦の止揚の中で受苦=享受として生きられず,受苦=

受苦として苦悩の堪の中に沈む。すなわち,人間的な苦悩とは,意識が真実に適合していないと きの感性的な体験である。<意識>は,身体に台座をもち,脳の機能に他ならないが, そこから 相対的に自立しているがゆえに, ア・プリオリには人間的生の疎外の契機であると同時に解放の 契機でもある。 常に意識は病む可能性がある。 古来仏教において,「煩悩」として捉えられてき たものは,まさしく意識の病であろう。

.  .  .  .  . 

差別意識もまた,この意味で言えば,意識の病あるいは<虚偽意識>である。差別意識は,生

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

=関係の弁証法(同一と非同一の同一)の意識形態的な否定・疎外として,人間を苦悩の堪に突

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

き落とす。この意味で,差別意識論は,人間的生=関係の弁証法の意識形態的な解放の運動とし

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

て,総体としての人間解放運動の一契機である。

わたしは,被差別部落民でも在日朝鮮・韓国人でも女性でもいわゆる「障害」者でもない。い わゆる今日取り上げられている典型的な被差別者ではない。 しかし,わたしの中には,被差別者

12) K. マルクス=エンゲルス全集刊行委員会訳「資本論,第一巻,第一分冊」大月書店, 1968, 234頁。

(6)

・被抑圧者の怒りがある。それは,人間的自然のトータルな解放へと向かう。それは,<無差別 の原理>を生の,社会の,文化の原理とすることへと向かう。その一契機として,わたしにとっ ての差別意識論がある。あるいは,わたしの差別意識論への<関心>がある。

II.  差 別 意 識 の 基 本 構 造

野口道彦氏は,「差別の意識構造」13)のなかで,「部落に対する差別意識の中核」について,次 の四つに整理して述べている。

第ーは,部落への烙印付与である。「烙印」の一つは「いやしい」(卑賤視)というものであり,

他の一つは「けがらわしい」(不浄視)というものである。前者は,地位の上下・序列に関する 意識で,連続的・相対的な概念である。他方後者は,非連続的概念である。

第二は,触稼性に関する意識である。それは,不浄視に関連していえば,見ること,聞くこと,

触れることを忌避する意識であり,卑賤視に関連していえば,親しく付き合うと地位の下落を招 くという意識である。

第三は,その結果として,部落と接触することに恐怖感をいだき,部落を遠ざけようとする意 識である。そしてそれはまた,部落を存在しないものとして認識しようとする傾向である。

第四は,これらの結果として,部落を異質化する意識である。それは,異なる世界に住むもの として部落を認識する傾向や同質性を認めることを拒絶する傾向である。

野口氏の整理をわたしなりに要約したわけであるが,野口氏の述べるところによれば,部落差 別意識は,卑賤・不浄の烙印付与にはじまり, 「部落を異質化する意識」に結実している意識と 言えよう。

こうした見解はまた, 福岡安則氏の「差別意識把握への社会学的可能性」14)という小論におい ても述べられている。すなわち,福岡氏は,差別意識を被差別部落民を下に見下すという意識の 方向性と, われわれとはちがう存在だ というかたちで外に遠ざけるという意識の方向性との,

いわば二つの意識ベクトルの合成として捉え,差別意識の内的構成を,差別的感性・偏見・差別 主義イデオロギーという重層的構成において捉えている。そして,差別的感性を差別意識の基底 にある共同主観的感性構造と規定し, 「身体的・自然的諸属性にせよ, 社会的・文化的に構成さ れたものにせよ,なんらかの<差異>を有する他者たちにたいして,まるごと人格総体において く異質な存在>であるかに感得しがちな感性のありよう」と定義している。

あるいはまた,田中和子氏は「性差別研究へむけての方法論的一考察一性差別意識の解明を出 発点として一」15)において「性差別意識の原形成は,男女の 生物的 差異性をdichotomousな ものとして意味づけていく人間の想像力のありようにかかっている。この二項分化的な想像力に

13)  「部落解放」解放出版社,第174号, 198114)  「現代の眼」現代評論社, 1981年11月号。

15) 「第55 日本社会学会大会報告要旨』 1982, 308

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関西大学「社会学部紀要』第14巻第2

.  .  . 

よって媒介された性差意識は,一定の社会関係のもとで,性差別意識へと編成される」 「性差別 意識の根底に dichotomousな性差意識が存在する。」と述べている。

野口氏の場合も福岡氏の場合も田中氏の場合も共通しているのは,くまるごとの異質化>,い いかえれば,<同質性の全面否定>ということではないかと思われる。わたし自身もこの点に差 別意識の基本的な構造をみている。ただわたしの場合は,かつて前記論稿で述ぺておいたように 単なる現象記述としてではなく,差別を関係性の一形態として捉え,関係の弁証法的構造に定位 して規定し,それに基づいて,差別意識もまた関係意識としてその弁証法的構造に定位して規定 している。すなわち,差別意識(意識の差別態)とは,その基本的構造においてみれば,意識に おいて存在の二元(多元)性が対自的・媒介的にのみ全体的・同一的であり,即自的・直接的な 全体性・同一性が疎外されており(意識の分裂態), かつ, 関係の項が序列化されているような 意識である。したがって,序列化された分裂態としての意識形態である。このことは,被差別者 の叫びの中に明確にみてとれる。

例えば,「障害」者の伊藤和恵さんは次のような詩を書いている16)

君も人間 あなたも人間 そして

忘れないで 私のことを 私もおなじ人間だから

君もいっしょ あなたもいっしょ そして

忘れないで 私のことを 私も仲間に入りたいの カの限り叫んでみる 忘れないで 私のことを

あるいはまた,「障害」者の岩井菜穂美さんは「そよ風のように街に出よう」 という詩のなかで 次のように詩っている17)

みせかけの微笑なんか みせかけの同情なんか 私はほしくない

16)向野幾世「いいんですか,車椅子の花嫁でも」サンケイ出版, 1981, 5152頁。 17)同上, 182183頁。

(8)

それよりも 同じ人間として 一緒に生きてください

被差別部落出身の加藤光子さんは「かあちぁんはがんばるぞ」という詩のなかで次のように詩 っている18)

部落の人たちは,ちがうと言う 良い仕事がないからか

どうして部落だけが

きらわれたり 苦労するのか みんな同じ人間なのに

どこがちがうと言うのだろう かあちぁんは歯をくいしばった 暗い田んぼに向かって,大きな声で

どこがちがうんだー,おれだって人間だ一

力いっぱい叫んだら

胸のなかが,スーッと軽くなった とめどなく涙が出てきた

今に見ろ,今に見ろ 心のなかで叫んだら

涙がいつの間にか怒りにかわった もう,かあちぁんの細い目から 涙は出ない。

こうした被差別者の叫びはほとんど普遍的である。それは,「同じ人間」 としての同一性への 願いであり,その疎外に対する怒りであり悲しみである。

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . 

こうして,差別意識の基本構造は,同一性の疎外にあり,それは,序列化された分裂態として

.  .  .  .  .  .  .  .  .  .  .  . . 、 ..  .  .  .  .  .  . 

の意識形態ないしは分裂的=序列的意識形態であると言えよう(もちろん,「同一性の疎外」の対 極として,「非同一性の疎外」という形態を持つ差別意識,つまり,前者のく異化>としての差 別意識の対極としてのく同化>としての差別意識がある)。まさにそこに差別意識の虚偽意識た

る所以があり,基本的な問題性があるわけである。

18)部落解放詩集編集委員会『部落解放詩集太陽もおれたちのものではないのか」解放出版社, 1980, 91

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関西大学『社会学部紀要」第14巻第2

][.  差 別 意 識 の 重 層 構 造

差別意識の基本的な構造と形態を,前章で述べたごとく,同一性の疎外,序列化された分裂態 として捉えるにしても,それは,単に一面的で平板なものではない。このことについては,先程 述べた福岡氏の差別意識論をも含めていくらか論じられてきた。例えば,堀口牧子氏の「集合的 無意識」,「無意識的差別意識」19)といった概念も,差別意識の深層を問題化しているわけである。

ここではとりあえず, 江嶋修作氏の「差別意識の構造と教育」20)に明らかにされている差別意 識の構造的把握を見ておきたい。

江嶋氏は「差別意識の構造」を次のような<図>で示している。ここで差別意識は,一番外側

〈差別〉

,

 

ベ ベ J V J 釦 ベレ

' ー シr r  

「被差別部落」の社会的(歴史的,

文化的,経済的,政治的などを含 む)実態及び情報

< 函 > 差 別 意 識 の 構 造

の円周によって表現されている差別行為を支え,生み出すものとして捉えられている。したがっ て,差別行為は円周の内部の個々人に内在化された差別意識が二重矢印の方向で顕現されたもの として捉えられる。そして,円の中心にむかって,差別意識は表層から深層へと三つのレベルに 分けられ,層相互の関係は,より深層のレベルがより表層のレベルを支えるとされている。

こうした見解は,新保満氏が「『偏見」をもっていても「差別」しない場合もあるし,「偏見』

をもたなくても『差別」する場合もある」21)と述ぺている事実を考慮に入れておけば,異論のな いところであろう。

さて次に,各レベルの差別意識の説明をみておこう。

19)堀口牧子『現代日本の差別意識」三一書房, 1978,15•17頁。

20) 「解放教育」明治図書, No.106,  1982

21)新保満『人種的差別と偏見一理論的考察とカナダの事例ー」岩波書店, 1972, 1112

(10)

(1)  「価値」レベル

このレベルの差別意識は, 最も表層に位置するもので, 被差別者を 「自分たちよりも低いも の」と認識する頷域である。そしてこの認識は,「貧富の差」「社会的地位の上下」「学歴の高低」

などによって支えられ,被差別者との距離を量的差異に基づいて測定し,確認する。この差別意 識の根拠は,被差別者の社会的・経済的低位性,つまり社会的諸条件の劣悪さにある。このレベ ルの差別意識は,「正一不正」「善一悪」の論理で迫り得る領域,その意味で論理的・合理的に分 析し,説明(接近)することが可能な領域である。

(2)  「シンボル」レベル

このレベルの差別意識は中層に位置し, 被差別者を「嫌なもの」 と認識し,「できれば遠ざけ ておきたい」という心情領域であり, 「何かしら自分たちとは違う存在」 と考えがちな態度を伴 う。したがって,量的に測定し難い領域,合理的・論理的に取り出し説明し難い領域の差別意識 であり,「好き一嫌い」「適合ー不適合」といった情動的な尺度によってしか捉えられない差別意 識である。いわゆる,「解った上で差別する」ケースにみられる差別意識である。

(3)  「集合心性」レベル

このレベルの差別意識は最も深層に位置し, 被差別者を「卑しきもの」 として認識し,「自分 たちとは異質な存在」という態度を伴い,人間に対する「異質性」の認識と感覚を特徴とする領 域である。そしてこの「異質性」の認識から被差別部落への「畏怖」と「蔑視」の感情がつくら れる。その意味で,「遠ざけ」て「見下げる」行為を最も奥底で支える領域である。また,この レベルの差別意識は潜在意識の領域と一部重なるもので,「あいまいさ」 という属性をもつ。 のレベルの差別意識を支える基準は,「貴一賤」「浄ー檄」である。

江嶋氏は差別意識の三つのレベルをほぽこのように述べ,更に五つの問題点を取り上げ,次の

<表>にみられるごとく,五つの問題 点に沿って差別意識の三つのレベルを 比較している。

<表>について詳細な検討は別の機 会にまわし,ここでは若干の疑問点に ついて述べるに留め,先に進みたい。

氏は,差別意識を表層から深層にむけ て「価値」「シンボル」「集合心性」と 名称を付しているわけであるが,そこ にある論理は何なのか明確に理解し難 い。「価値」については, そのレベル の差別意識が「正一不正」「善一悪」

の価値判断のレベルで対応できるもの

<表> 「差別意識」の三つのレベルでの比較

│ 

レ「価ベ値ル」 1 「レ集合ベ心性ル」

① 別意識」 R識者 「低いもの」 「嫌なもの」 『卑しきもの』

⑧  差 会異 感 差 化 異 感的 歴) 

④ 「差別意識」 論識別理尺度 への識別尺度

情識別動尺度 潜識別在尺的

(具体的尺度) (正善一一不悪) (適好きー一不嫌適) (喜二旦)

⑥ 盤意識」 感性(心)

(11)

関西大学「社会学部紀要」第14巻第2

であるということであろう。「シンボル」については, そのレベルの差別意識がシンボル的に表 現されるということであろう。 しかし, 「価値」にしろ「シンボル」にしろ人間的意識の重層構 造の各位相において問題化しうるものであって,それを位相を表現する概念として使用すること には疑問を感じる。「集合心性」 については, そのレベルの差別意識が根づいている基盤を示す 概念に近いように思われる。だとすれば,前二者の概念とどのような分類基準において論理的整 合性をもっているのか疑問である。 また,<表>に明らかなように「『差別意識』の基盤」につ いては,それぞれ「知識」「感情」「感性(心)」 と区別されているが, 「感情」と「感性(心)」

との区別が明確に理解し難い。

ところで,氏のここでの差別意識の構造論は, 差別意識を克服するための教育としての「同 和」教育という実践的な関心のもとにあり,重要な示唆に富むものであるが,同様の関心を持っ ておりながら,わたしの場合は,若干視座を異にする。わたしの場合は,差別意識の実践的変革 という場合,まず着目しなければならないのは,それが根付いている<基盤>ではないかと思う。

すなわち,差別意識が根付いている基盤によって差別意識はそれぞれの特性をもち,したがって その変革にあたっても,その調森にあたっても,そのそれぞれの特性に見合った方法がとられな ければならないだろうと思う。

. . . . . . . .  

こうした観点から,差別意識の重層構造は,表層から深層にむけて,とりあえずの表現ではあ るが,く知性>・<感性>・<身体性>とも言うべき各位相において構造的に把握できるのでは ないかと考えている。ここでは触れないが,これはまた社会化の重層構造でもある。言うまでも ないことであるが,各レベルは相互媒介的・相互浸透的であって,絶対的な区別ではない。いま

ここで詳論できないが,簡単に説明しておこう。

<知性>的位相とは,先にみた江嶋氏のいうところの「価値」レベルにほぽ該当するであろう。

G. W. オルボートは,「予断は,新しい知識が現れても,それが改められない場合にのみ偏見と なる」22)と述べているが,ここでいわれているところの「予断」,あるいは,<偏見>の「所信的 側面」23)と言えるかもしれない。 ともあれそれは, 知性のレベルにある差別意識であって,それ ゅぇ,知性的アフ゜ローチで変革可能な差別意識である。

<感性>的位相とは,感情態度として結節している差別意識である。したがって,先にみた江 嶋氏の「シンボル」レベルから「集合心性」レベルにわたるものである。あるいは,オルボート の言うところの,<偏見>の「態度的側面」24)と言えるかもしれない。 ともあれこのレベルの差 別意識は一種神経症的なものであって,知性的なアプローチでは変革不可能な差別意識である。

むしろ,知性的アプローチが逆効果になることすらあるレベルである。

<身体性>的位相とは,もっとも深層に位置し,この位相にあっては差別意識は身体性へと結

22) G. W. オルボート,原谷達夫・野村昭共訳「偏見の心理』培風館, 1968,8頁。 23)同上, 11頁。

24)同上。

(12)

節している。この点に着目しているのは,菅孝行氏である。菅氏は次のように述べている。

ー一まるで「自然」の生理のようにしみついてしまった差別観念から,自己を解放する闘いは,

  . .

政治革命の理論やイデオロギーを獲得するだけでは不充分である。この闘いは決して直接,政治 的な概念に翻訳できるものではない。それは,身体生理にかぎりなく近ずいてしまっている差別 性を克服する闘いであり,いわば「生活をかえる」(ランボー)闘いであり, 日常性批判の闘い である25)

ー一差別の習俗とは,国家によって組織され抑圧された身体性であり,このような身体性を前 提とした意識のなかでは,差別こそが「自然」なのである。このような,逆立ちした「自然」を 正置するためには,国家によって組織されることのない解放された身体性=差別の習俗を根こそ ぎにした身体性を獲得しなければならないのである26)

—身体性とは,単なる生理学や医学の対象としての部分的な身体ではない。それは,文化総 体を担う全体性である。従って身体性の問題は文化の問題であり,文化革命は,身体そのものの 内部からの革命ぬきには成立しないのである。そして,文化革命ぬきの政治革命とは,究極にお いて非連続的性格の政変とえらぶところはなく, 政治革命を十全に政治革命たらしめるために は,文化革命は不可欠なのである27)

長々と引用を重ねてきたが,これまで差別意識論は身体性の次元にまで深められて論じられる ことがあまりにも少なかったように思われるからである。

尚,一言注意を喚起しておきたいことは,菅氏も「身体性とは,単なる生理学や医学の対象と しての部分的な身体ではない」と述べているように,ここでいうところの身体性とは,社会から 切り離された抽象的な身体性ではない。人間の環界としての自然が具体的には社会化された自然 に他ならないのと同様に,自然としての人間そのものも具体的には社会化された自然以外のなに ものでもない。社会化は,自然としての身体にまで及んでいるのである。まさしく,マルクスも いうように,「五感の形成はいままでの全世界史の一つの労作である」28)。すなわち,知性・感性

・身体性といっても,それは,歴史的・社会的存在としての人間の知性・感性・身体性に他なら ない。

身体の社会化の問題あるいは心身相関の問題は精神医学や心身医学の領域においても論じられ ている。古くは, w.ラィヒのベジトセラビーに結実していった「性格の鎧」から「筋肉の鎧」

への人間構造論にみられるし,近年では,ネオ・ラィヒアンといわれている A ローエンのバイ オエナジティックスにもみられる。あるいは,心身医療におけるサイコ・ソマティックなアプロ

25)菅孝行「現代の部落差別と天皇制」明石書店, 1978, 4142頁。 26)同上, 43頁。

27)同上, 44頁。

28) K. マルクス,前掲書(『経済学・哲学草稿』), 140頁。

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ーチとソマト・サイキックなアプローチの併用のなかにもみてとれる。

ここでこれらの領域に深入りして論じるわけにはいかないが, ポール・A.ロビンソンがライ ヒの主張の主旨を述べるなかで, 「人間のからだを変革するのはその世界観を変革することにほ かならない」29)と述べているように, 自由でしなやかな身体を取り戻すことは人間解放の課題で はないかと思われる。

H. マルクーゼは, "EROSAND CIVILIZATION"の「はしがき」で次のように述べた。

―この論文では,心理学のカテゴリーが使われている。というのは,心理学のカテゴリーは,

政治的カテゴリーになってきたからである。いっぽうに心理学,他方に政治哲学,社会哲学をお く伝統的な境界線は,現代における人間の条件によって,もはや,過去のものとなってしまった。

かつては,自律的であり,確認することができた心的過程は,いまや,国家のなかの個人が演じ る機能,いいかえると,個人の公的な存在の中に解消されている。心理学の諸問題は,政治問題 に転化する。個人の私的な障害は,いよいよ,社会全体の障害を直接反映するようになり,個人 の障害の治療は,ますます,社会一般の障害の解決に依存するようになる。現代は,たとえ全体 主義国家を生まない場合にでも,全体主義的な傾向をおびるようになる。心が公的な権力に対抗 できるかぎり,また私生活が現実的であり,心から望まれ,自発的に形成されているかぎり,心 理学は,ひとつの特殊な研究領域として,精密化され,実際に応用されることができた。しかし,

個人が,彼自身のために存在するだけの能力も可能性も失ってしまえば,心理学の用語は,心を 規定する社会的な力にかんする用語に変わってくる。このような事情のもとでは,心理学を社会 的,政治的な出来事の分析に適用することは,まさに,それらの出来事によって否定されてしま った,ひとつのアプローチをとることを意味する。われわれの課題は,むしろ,その逆であり,

心理学の諸観念にふくまれる,政治的,社会的な実態を展開することである30)

ここでマルクーゼは,現代社会にあっては,心理学のカテゴリーは政治的カテゴリーになり,

心理学の諸問題は政治問題に転化したと言う。つまり, 「心」の政治学・社会学の可能性につい て語っていると言えよう。すなわちここでマルクーゼは,いわゆる知性的な位相の政治学・社会 学から感性的な位相の政治学・社会学へと一歩射程を深めている。わたしは,更に一歩踏み込ん で,身体性的な位相の政治学・社会学の必要性を説いているわけである。このことは,先にみた 菅氏の論述にもあるように,差別意識の問題のみならず,それをも含んだ文化総体のラディカル な変革を考える場合不可欠な課題であろうかと思われる。

さて,差別意識の<基盤>に基づく差別意識の重層構造についてはこれくらいにとどめ,別稿 において要論することとし,別の観点からする差別意識の構造分折に関する視角について次章で

29)ポール・ A・ロビンソン,平田武靖訳「フロイト左派」せりか書房, 1972, 71頁。 30) H. マルクーゼ,南博訳「エロス的文明」紀伊国屋書店, 1958, ii頁。

(14)

若干述べておきたい。

IV.  差別意識の論理構造

ここで論じておきたい「差別意識の論理構造」 とは,差別意識は,論理的なレベルとして,

<個別>・<特殊>・<普遍>というおよそ三つのレベルにおいて捉えられるのではないかとい うことである。

こうしたアプローチは,ある意味ではすでに語られてきたところのものである。例えば,大賀 正行氏は「部落解放運動入門」31)の第一章「部落差別のとらえ方」において次のように述ぺてい る。尚,大賀氏は,部落解放同盟中執として,部落解放運動の理論的・実践的指導者の一人であ る。そして次の一文は,「部落解放運動入門」にあたって,部落差別をどのように捉えるべきか,

そのポイントを述べられたものと思われるので,煩を厭わず,全文を紹介しておきたい。

一部落解放運動というのは,部落差別をこの世から完全になくすることを目的として闘って いる運動です。現実に差別が存在しているということが前提になるわけです。差別がないのにこ ういう運動があるわけはないのです。差別といってもいろんな差別があります。女性に対する差 別,貧富の差別,あるいは黒人差別,在日朝鮮人に対する差別とか,こういう人種的,民族的な 差別,いろんな差別の形態があるわけです。そういうなかで部落に対する差別というのがわが国 にあるわけです。

そこで,区別と統一という二面をみてもらいたい。つまり部落差別と在日朝鮮人に対する差別,

女性に対する差別はちがいますね。これをごちゃまぜにしては困ります。区別しなければなりま せん。しかし,部落差別とそれらの差別がまったく切り離されてあるわけではなく,それが統一 してあるわけです。同じ根っこからできているわけで,そこには共通点があり,共にいっしょに なってやらなければならん面もあるわけです。統一の側面をみてもらう必要があります。

したがって,特殊面と共通面の両面をむすびつけて理解していくというのが大切なことです。

我々は,白は白,黒は黒というように,なんでも単純に区別して考えようとする<せがあります ね。そのほうが楽だからです。しかし,現実というものはそんなに簡単なものではなくて,非常 に複雑なものです。複雑な現実は複雑な頭でもって,理解しないとつかむことができません。こ れは,哲学的には弁証法的思考法といいますが,弁証法的思考法というものを身につけておいて もらわないと正しい学習はできないのです。残念ながら日本の学校教育というのは,弁証法的思 考というのをあまり教えません。

そこで部落差別のもっている特殊而,他の差別との共通面というものを正しくとらえなければ なりません。ところが特殊面だけをとりあげて,スラムとはちがう,何々とちがう,とかいうこ

31)学生部落解放研究会編・発行『部落解放運動の歴史と解放理論』, 1976

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とばかりを主張して,部落をまさに特殊なものとして理解していこうとする部落セクト的な,部 落第一主義的な傾向が一方にあります。もう一方では,部落も在日朝鮮人も一般の人も結局同じ ことじゃないか,それをなぜことさら「部落」とか「同和」とかいうのか,民主教育,民主的な 教育が徹底してゆけばことさら「同和保育」などというのはいらないじゃないかというような,

平面的に解消していこうとする考え方があります。ダイヤモンドと石炭はどちらも同じ炭素とい う元素からできています。しかし本質が同じだからといって,いっしょくたにするわけにはいき ません。部落差別も朝鮮人差別もその他の差別も,同じ本質をもっておりながらちがいをもって いるわけです。そのちがいはどこからうまれてくるかといえば,それはその成立の条件がちがう からです。同じ炭素がダイヤモンドになる場合と石炭になる場合,圧力とか温度とか,その条件 がちがうわけです。歴史的諸条件のちがいによって差別の形がちがうわけです。だから我々は,

ちがいはちがいとして理解し,同時に共通点もとらえているというようなものの考え方というも のをもってほしいと思います。案外,こういうところがはっきりしていないから,論争やってい る場合,お互い自分の意見を主張してますけど,どっちもまちがっているというようなことがよ くあるわけですね。

したがって,部落解放運動は「差別と闘う」という場合には暗黙に「部落」ということが省略 されているわけです。我々は部落差別と闘っているのです。「同和」保育という場合も,部落差 別と闘っているわけです。ところがいつのまにか部落差別を捨ててしまうわけです。よく部落ぬ きの「同和」教育,差別ぬきの「同和」教育とよく批判される場合がありますが,我々はあくま でも,部落差別とかかわってものを考えていくということをガッチリと押さえなければならない と思うんです。と同時に,差別一般を考えてい<, この姿勢が大事なのです。ところがたいてい の人は,部落差別は考えるけど他のことは考えません,という人がいます。また,他のことを考 えると部落差別を考えません,という二つの誤りを犯します。部落差別というものをしっかりと つかみながら,差別一般をなくすことを考えていく,特殊なものをしっかりとふまえながら普逼 的なものを考えていくということが大事なのです。したがって,部落解放運動,部落解放教育,

あるいは部落解放の保育というものもやはり,部落差別のかかわりにおいて問題が展開するので す。同時に,保育問題全般のなかにある問題に同時にかかわっているんだ,ということでとらえ てほしい。

明らかなように, ここで大賀氏は,「部落差別のとらえ方」として大切なことは, 部落差別を 他の諸差別との関連の中で,「区別と統一」「特殊面と共通面」の二面あるいは両面をむすびつけ て理解していくことであると述べている。そしてそのことを, 「特殊なものをしっかりとふまえ ながら普逼的なものを考えていくことが大事なのです」とも表現している。また,こうした理解 の仕方を「弁証法的思考法」と言い,こうした思考法を「身につけておいてもらわないと正しい 学習はできない」と述べている。

(16)

差別に対するわたしの理解は,前記論稿にも明らかなように,大賀氏と同様に弁証法的思考法 によっている。ここで述べている差別意識の論理構造における三つのレベルもまた上の大賀氏の 主張と同様弁証法的構造において理解している。ただわたしの場合は,更に<個別>のレベルを 設定し,差別意識を更に詳細に分析することを意図している。あるいはまた,ここで言うところ の三つのレベルを先の差別意識の重層構造論における三つの位相とクロスすることによって,差 別意識のより具体的な解明とその実践的な変革への指針へと具体化したいと考えている。

以下簡単にここで言うところの三つのレベルについて説明しておこう。

ここで<普遍>レベルとは,オルポートが「一般化された態度としての偏見」32)として論じて いるものにほぼ該当するであろう。すなわち, オルボートが,「一つの外集団を拒否する者がそ の他の外集団をも拒否する傾向がある,という事実は,まず確かである」33)と述べているように,

ここで問題にしている差別意識は,普遍的・一般的な差別意識である。従来の言い方でいえば,

「部落差別の受け皿」 として機能しているような差別意識であると言ってもいいだろう。あるい はまた,バーソナリィティ論的に言えば, T.W.アドルノらの述べているところの「権威主義的 パーソナリィティー」34)もこのレベルの問題であろう。 したがって, 先に差別意識の基本構造に ついて論じておいたわけであるが,そこで述ぺておいたようなあらゆる差別意識に普遍的に存在 する意識形態のレベルと言っていいであろう。すなわち,わたしなりの言い方で言えば,存在の 二元(多元)性において即自的・直接的な同一性が疎外され(意識の分裂態),かつ序列化され ているような意識形態であり,序列化された分裂態としての意識形態である。

<特殊>レベルとは,具体的な被差別対象にむけられている差別意識である。すなわちそれは,

「部落」差別意識,「女性」差別意識, 「障害」者差別意識, 等々として具体化されているような 差別意識である。

<個別>レベルとは,個々の差別事件に現れるような,たとえば,結婚・就職・教育・社交等 々の個別具体的な表現を持つ差別意識である。

先の大賀氏の論稿では,<個別>レベルは論じられてないわけであるが,まず論理的に言って おけば,普遍と特殊は個別において弁証法的に統一されている。例えば,個別具体的な差別とし ての結婚差別は,分析的にみれば,そこに他の諸差別意識と共通している差別意識という普逼性 の契機と,例えば「部落」差別意識という特殊性の契機との構成体として理解される。したがっ て,個別具体的な差別意識は,三つのレベルの弁証法的な構造において理解されるわけである。

更にまた,<個別>レベルの設定によって個々の差別意識(結婚・就職・教育・社交等々)の共 時的な構造,通時的な変動等々も把握でき,したがってその変革のための実践的な課題も明確に なる。その意味で,これら三つのレベルにおいて差別意識を捉えておくことは,差別意識の調査

32) G. W. オルボート,前掲書, 61頁。 33)同上。

34) T. W. アドルノ他,田中義久•矢沢修次郎・小林修一訳「権威主義パーソナリティー』青木書店, 1981 。

‑195‑

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およびその克服の実践を考える場合不可欠であるように思われる。

以下,こうした差別意識の理解の持つ意味ないしは意義について若干述べておきたい。かつて,

解放同盟の友永健三氏は, 「皆さんに部落解放の運動家になれといっているのではない,差別を しないさせない人間になってほしい」, といった主旨のことを講演で言われたように記憶してい る。実際すべての人間が部落解放の運動家になることは不可能である。また,水平社の網領・宣 言にも明らかなように,部落解放運動の主体はあくまで被差別部落民自身である。「綱領」では,

「我々特殊部落民は部落民自身の行動に依って絶対の解放を期す」と述べられている。また,「宣 言」では次のように述ぺられている。

-—全国に散在する吾が特殊部落民よ団結せよ。

長い間虐められて来た兄弟よ,過去半世紀間に種々なる方法と,多くの人々によってなされた 吾等の為の運動が,何等の有難い効果を齋らさなかった事実は,夫等のすべてが吾々によって,

又他の人々によって毎に人間を冒漬されていた罰であったのだ。そしてこれ等の人間を動るかの 如き運動は,かえって多くの兄弟を堕落させた事を想えば,此際吾等の中より人間を尊敬する事 によって自ら解放せんとする者の集団運動を起こせるは,寧ろ必然である。

ここには,部落解放の主体は被差別部落民自身であること,そして部落解放の運動は被差別部 落民自身の自己解放の運動であることが明確に語られている。

それでは,社会的に差別者の位置にある人間の課題はなんであろうか。それは,先程の言葉で 言えば, 「差別をしないさせない」

.  .  .  .  .  .  . 

ことであろう。 ここで重要なことは, 「差別をしないさせな い」ということが,被差別者のためというのではなく(これ自身差別的である),差別者自身の 自己解放の課題であるということである。一つには,他者に対して差別的・抑圧的な人間は自己 自身に対しても差別的・抑圧的であるということである(他の一つは,差別的な生き方を通じて 差別的な社会・文化・人間を維持・再生産し,そのことによって自己自身を疎外・抑圧状況にお くことになるということである)。一般に,対ー他関係と対ー自関係は相互媒介的に同一である。

したがってこの論理からいって, 「差別をしないさせない」 ということは差別者自身の自己解放 の闘い以外の何ものでもない。差別者が自己解放を闘う主体として自立するときはじめて,自己 解放を闘う主体としての被差別者と<連帯>が可能となる。差別という関係のなかで共に自己疎 外という堵のなかにいるのだから(と言っても,差別者と被差別者との間には疎外状況において 明確な区別があることは言うまでもない)。

ここで,少し長いが,上に述べたことの具体例として「私と差別問題」という表題で書かれた 学生のレポートを紹介しておきたい。

.  . 

ー私自身が「差別」というものと関り考えだしたのは,やはり大学に入ってからです。 77

(18)

の地名総鑑問題,差別落書等からです。中学校の時学習塾の先生が「ヨツ」について雑談しはじ めました。岡山のいなかですが,どこそこの地区は「四つ」だとかいってあまりつきあわない方 がいいといっていました。その時はじめて,そのような事柄を耳にしたのですが,何かしっくり

しませんでした。部落問題としては,高校の時社会の先生から特別に講義されましたし,薙徊的 に「橋のない川」を見せられました。歴史的な形成,再編の過程は,知識としては知ったのです が,何か自分との関係がしっくりいきません。大学で入学するとすぐ,地名総鑑です。これはた まげました。これから入学するというのに 1 差別という言葉もよく聞きます。映画のサークル に入ったのですが,そこでもいろいろ学習していましたし,私自身も考えていきました。いろい ろな闘争にも参加しましたが,一般理論としてはわかっても自分の歴史とどうかかわってくるの かがもうひとつ実感できません。それから在朝の問題,狭山,沖縄,アイヌ,と考えそれなりに,

大学内で取り組んできましたが,学費闘争を境にしてすこしわかってきました。障害者と出会っ たことです。実際に,解放理論,運動理論を持っていても主体的な生活者一生活感覚としての自 分を見失っていたような気がしたのです。その彼は, CP=脳性マヒで言語障害もあります。ぜ んぜん言葉がわからない。差別だといわれてもしかたがない。わからへん。このことの重みをい やほど知らされた。介護者に聞くと, CPの彼は怒りだす。自分は彼を理解しようとするが,ゎ からない。いらいらする。話をかえる。 YES, NOの質問をする。そうしていく自分が恐いほ どみえてくる。相手から映し出されてくるのである。これはこわいことです。部落差別,在日朝 鮮人差別,沖縄等は,国家支配,帝国主義拡大政策に結びつく問題として歴史的に形成されてき ている。しかし,私と彼の関係はどうだろう。その総体は……。障害者,女性差別の問題はすこ ぶる根深いと直感してしまった。個別差別状況には,個別の形成,形態をとっていくが,障害者 の差別の本質は,優生思想であろう。それは私自身である。自らの差別性がここまで対象化され 映し出されたこの部分は,差別は自分の問題であることをつきつけた。このことに私自身はすく

. . .  

われたという感情さえもった。それは,今まで,日常的な意識性,思想,生活行動等に対する総 検証を意図しながらも,その糸口が見つからずに自己=対世界としてしか見えなかった。この優 生思想は,能力主義,近代合理性,管理主義といった幻想をしっかりとばらまいている。自分自

.  .  .  .  .  .  . 

身のだめな部分,劣っている部分などあくまで,相対的な価値ではあるが,顕著な事柄として障 害者は位置づけられる。それに伴って,その生活一存在も否定される。能力主義に洗脳されてい る自分は必然的にCPの彼の前に現れ,抑圧的な存在となる。これは,自分の内にも抑圧的な思 想として存在していることにも気づくのである。

人間の個の解放ということをずっと考えていたが, CPの彼が,個として存在価値をもち,他

. . . . .  

者=世界と有機的な関係をもつことができるなら,私=自分のありのままの存在が価値をもち,

解放的な関係がつくり出せるのではないかと思ってきた。人間の個として,その存在そのものか ら認めていくことは,彼を抑圧する自分の内のしがらみ=鉄鎖も打ち破ることができるのではな いか,自分自身が個一存在の主体として認め,解き放っていくことができるのではないかと思っ

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