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フランス15〜16世紀の演劇状況 ―世俗劇の上演現 場―

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奈良教育大学学術リポジトリNEAR

フランス15〜16世紀の演劇状況  ―世俗劇の上演現 場―

著者 川那部 和恵

雑誌名 奈良教育大学紀要. 人文・社会科学

巻 57

号 1

ページ 191‑198

発行年 2008‑10‑31

その他のタイトル Les Circonstances de Representation Scenique du Theatre Profane en France aux XVe et XVIe Siecles

URL http://hdl.handle.net/10105/738

(2)

フランス15〜16世紀の演劇状況

―世俗劇の上演現場―

川那部 和 恵

奈良教育大学英語教育講座(仏文学)

(平成20年5月7日受理)

Les Circonstances de Repre ´ sentation Sce ´ nique du The ´ ^ a tre Profane en France aux XVe et XVIe Sie ` cles

Kazue KAWANABE

(Departement of English Language Education (French literature), Nara University of Education, Nara 630-8528, Japan)

(Received May 7, 2008

Abstract

Nous conservons quelques centaines de textes du théa

tre profane qui ont été écrits et joués en France à la fin du Moyen Age et au déut de la Renaissance. Un si grand nombre de sur- vivances érites peuvent téoigner que ce genre était alors tre

s florissant et qu'il convenait fort aux exigences de son époque. Mais comme c'est souvent le cas dans l'histoire, un genre qui a connu une grande vogue sociale perd sa raison d'étre, une fois son temps passé. Et de fait, depuis le milieu du XVIe sie

cle, la représentation du théa

tre profane comme sa rédaction commencent à devenir de moins en moins actives et ne tardent pas à dispara

l

tre du devant de la scéne his- torique. Il n'a pu suivre les courants du temps nouveau qui allait se modernisant, en pleine Renaissance; ce qui est à l'origine de sa disparition.

C'est ainsi une ta

che importante de replacer ce genre dans le contexte historique pour met- tre en lumie

r e la situation concre

t e dans laquelle il était en pleine prospérité. Dans cet article, nous allons donner une vue d'ensemble des circonstances de représentation, à cette époque, du théa

tre profane, en faisant le point respectivement de l'occasion et du lieu de représentation, de l'acteur, de l'auteur et du public, apre

s avoir passé l'état actuel des études.

Key Words : French medieval drama, circumstances of the presentation, carnival, farce

キーワード: フランス中世演劇, 上演現場, 祝祭, 笑劇

1.はじめに

フランスで中世末からルネサンス初期にかけて書かれ た世俗劇の脚本は、今日大量に残されている。その五百 前後に及ぶ残存数から察するに、この劇が、かつてその 時代においては非常に栄えた、つまりは社会的要請のき わめて強かったジャンルであるということができる。歴

史の常として、このように社会のブームにのったジャン ルは時代が変われば役目を終えていく。じっさい世俗劇 も、

16

世紀も半ばを過ぎると制作・上演とも急速に減 少し、まもなくその演劇活動は歴史の表舞台から姿を消 してしまう。ルネサンスが盛期に入り、近代化への転換 が進む中でその波に乗れなかったことが、このジャンル の主な衰因の一つとして考えられるだろう。

(3)

そのような意味において、歴史的な観点から世俗劇の活 動に光を当て、これを歴史的文脈の中に位置づけること は研究の重要な課題の一つとなる。この展望のもと、本 論ではその一端として、世俗劇を隆盛に導いた時代の演 劇環境についての基本的理解を確認すべく、まず研究の 背景を概観したあと、上演の機会、上演の場所、役者・

作者、観客に関して、それぞれ具体的かつ簡潔に総括す る。

2.研究の背景

上演現場の状況を知るのに同時代の証言は欠かせな い。一次史料が充実していればそれだけ容易に、またよ り正確に実相に近づくことが可能となる。が、世俗劇は その点において弱点がある。たとえば聖史劇であれば、

『マルタン聖人の聖史劇』

Le Myst e

re de saint Martin

のようにまとまった「上演記録」が残っている場合があ り、そこからこの劇の初演時(1496年10月、ブルゴー ニュのスール市にて)における運営と舞台の一部始終が、

企画など準備の段階から上演、事後のようすに至るまで、

把握できるわけだ(1)。1501年モン(Mons)で上演され た受難劇にも、「舞台監督の指南書と会計報告書」と称 するものが残されている。しかし世俗劇においては、こ うした類の記録や報告書といった資料はほとんど残され ていないのである。一回の上演に巨額の資金や大勢のス タッフの動くことのない小ジャンルでは、それだけの必 然性も必要性もなかったといえよう。

では、世俗劇について生の証言が全く無いかといえば、

そういうことではない。「上演記録」のようなまとまっ た形でではないが、いわば付随的に、当時のさまざまの 公的あるいは私的な文書――市会の審議記録や君主の勅 令、年代記、詩・文学、日記、訴訟記録、さらに王侯諸 家をはじめ当局や諸組織の帳簿や家政簿など――の中 に、さまざまなかたちで世俗劇への言及が散見されるの である。例えば、メッスのさるオーブリオン氏は

1497

年の日記に、カーニヴァルの期間中、当市では巨大な二 体の人形の練り歩きのあと、「サン=ニコラ・ド・ウー の法廷において、陽気なファルスが演じられた」と書き 記しており(2)、またラブレーの『第三の書パンタグリ ュエル』(

1546

年)には、「そういう次第でジョングル ールのあいだでは、役を決めるときには、ソとバダンの 役はいつでも団体の中でも最も巧みで申し分のない者に わりあてるのです」

37

章)と、配役についての言及が ある。あるいは、テキストそのものにこうした情報が見 出せる場合もある。ファルス『仕立屋とエゾペ』

Le couturier et Esopetの結びのセリフ「この短いファル

スをお楽しみいただけましたでしょうか。/ ナヴァール 学寮の哲学専攻学生、エゾペでした」は、作者の身分を

明かしたものであるし(3)、また、ピエール・グランゴ ワール作のソティ『教皇ユリウスニ世批判』

Sottie contre le pape Jules II

について当時のテキストを見れ ば、その表紙には「阿呆の君主の芝居と阿呆の母

/ マル

ディ・グラにパリ中央市場にて上演

/ 1512年」というよ

うに、タイトルのみならず上演の日程と場所も刻印され ている(4)

世俗劇の上演の現場を伝える証言は、このように断片 的で簡潔きわまりないかたちではあるが、それでも世俗 劇周辺の正しい再現に資するところ大であり、よって、

上演実態に関する研究とはまず、あちこちに散在する

「状況証拠」の採集と集積、次に、そこからの掘り起こ しと再構築の作業ということになる。

研究史では幸いなことに、こうしたプロセスに基づく 資料性の高い研究成果がいくつか発表されてきた。その 筆頭がプチ・ド・ジュルヴィルの『喜劇的な演劇の上演 目録』(1886年)で、これは、ほぼフランス全土の調査 から入手した厖大な資料をもとにまとめられたものであ (5)。フランスの各地で

1352

年から

1600

年の間に行わ れた上演

240

件ほど(うち約

200

件が

1445

年から

1560

のもの)の概要が、各々の実録史料をベースに集成され ている。比較的最近では、上演団体の名称と所在を明ら かにした、ピエール・サドロンの「中世フランスにおけ る役者の常設結社」がある(6)。これは、当時フランス の150以上もの町に遍在したとされる459団体(著者に よればこれは実際のほんの一部)をリストアップしたも のであるが、地域の「結社associations」に示唆される ように、その一覧は世俗劇現場のコミュニティー的・祝 祭的性格を確信させるものである。先のプチ・ド・ジュ ルヴィルはまた、単なる目録にとどまらず、いわゆる史 料に語らせた研究書『中世フランスの役者たち』(7) 物して、役者たちの実態を浮き彫りにした。現在、上演 団体の実態解明については、民俗学や歴史人類学の成果 に助けられるところも大きい。

「現場」の研究とは基本的に具体的で個別的である。

一般に、得られる情報が少ない場合、ある一つあるいは 少数の現場の事例をもって全てに共通のものと見なしが ちであるが、こうした一般化には慎重であるべきだろう。

視覚史料でいえば、今日、聖史劇の舞台として流布して いるヴァランシエンヌの並置舞台装置図(ユベール・カ イヨ画)も、ファルスの舞台絵として知られるフランド ルのケルメスにおける上演図(ピエール・バルテン画)

も、フランス全域に共通の舞台というわけではない。

3.上演の機会

中世末からルネサンス初期にかけての時代、演劇の上 演は、聖史劇にせよ世俗劇にせよ、基本的に祝祭の機会 川那部 和 恵

192

(4)

と結びついていた。祝祭とは、いわゆるカーニヴァル

(謝肉祭)に代表される、めでたさと陽気さを特徴とす る、あらゆる祭りや祝典、行事、出来事をさし、とくに 当時はその隆盛期であった。さまざまな祝日にさまざま な祝祭が頻繁に行われた。たとえば教会暦上の祝日(降 誕節、公現祭、四旬節前の数日間ほか)や、地域および 組織(教会、ギルド、大学、学寮など)の守護聖人の祝 日を祭るのはもちろんのこと、王侯(妃)の入城、凱旋、

和約、王家の婚礼などを祝う官製の式典、さらに五月祭 やぶどう収穫祭に代表される季節の祭り、あるいは定期 市や市民の日常生活にちなんだ祝い事(婚礼や洗礼式)

等々。これらのうち、聖史劇の上演は宗教的な祭日に限 られるが、世俗劇は、およそどの祝日のどの祭りにも登 場しえた。

祝祭の場では、遊戯、ゲーム、ダンスほか多くの催し ものが繰り広げられるが、とりわけ見せ物形式の出し物 が人気をよんだ。パレード、演奏、詩の朗誦や滑稽本の 朗読、活人画、パントマイム、仮装行列、等々…。そし てここに世俗劇も列なる、というより、バフチンによれ ばこれこそが真っ先にくるべきものとなる。「カーニヴ ァルの広場と最も密接に直接的に結びついているのは、

中世の笑劇である」(8)。1536年、ルーアンのカーニヴ ァルで上演された『節度の阿呆たち』

Farce moralle et joyeuse des Sobres Sots

において、(第三の)阿呆がけ しかける。

「この機会だからサぜんぶ吐いちまおう

知っていることをさ。みんな聞いてくれるぜ」(9)

そうして、抑圧されたエネルギーの解放を公式に認めら れた祭りのこの非日常的な空間に、言論の自由、暴露、

支離滅裂言語、アクロバット、猥雑と糞尿談、攻撃とけ んか、だましあい、冗談と笑い、が入り混じり充満する 世俗劇の各ジャンルが炸裂する。

上演は、あるときは、典礼や儀式や行列の終了後に催 される乱痴気騒ぎの余興や陽気な宴会の中に、あるとき はカーニヴァルの儀礼や行列そのものの内に組み込まれ た。一回の舞台につき複数の作品がのせられることが多 く、その順番はソティに始まりファルスに終わるのが一 般的であった。前記の『教皇ユリウスニ世批判』が

1512年カーニヴァルの最終日に上演されたときも、例

にもれず、まずはこのソティ『教皇ユリウス「世批判』 次にモラリテ(『フランス国民、イタリア国民、強情な 男』、そして最後にファルス(『ラウレ・プロワイヤー ル』)という順であった。

聖史劇と舞台を共にする場合の一般的なプログラム は、ソティ、聖史劇、モラリテ、ファルス、の順である。

初期にはファルスが聖史劇の劇中に、ちょうど間狂言の

ような形で挿入されることもあった(10)。ジャンルの組 み合わせや順番のあり方に特に厳格な規程があったわけ ではなく、場合によってはそれぞれの習慣や状況に則し た組み方も可能であった。『マルタン聖人の聖史劇」の 上演はソティを含まないばかりか、天候の影響で、聖史 劇→ファルス(1日目)/聖史劇(続き)→モラリテ

(2日目)、というように通例とは異なる構成で実施され た。

4.上演の場所

上演の場所はおもに祝祭の場となる広場や、大道、十 字路、それに市や縁日が開かれる場所、つまりは青空の 下であった。ルーアンの

<コナールの僧院>、ディジョ

ンの

<阿呆の母>

といった団体は、カーニヴァルの練り

歩きの途中そうした場所にさしかかるや、一時停止をし てパントマイムやファルスやらを繰り広げた。屋内での 上演もありえた。先の『教皇ユリウスニ世批判』が演じ られたパリ中央市場とは屋根つきであるし、『酒飲み』

の滑稽説教は、居酒屋が舞台であったと見てまちがいな い。また当時の絵画をみると、王侯の宴会はほとんどが 城館内の大広間で開かれている。

学生による演劇は、通常は校内で演じられた。非公開 というわけではなかったが、観客はいきおい学生か関係 者に限られたであろう。彼らは時には外に出ていくこと もあった。たとえば城館の祝宴に呼ばれるということが あり、

1507

年、パリのコクレ学寮の学生たちは、カラ ーブルの公爵が旅の途中立ち寄ったパリで催した宴の席 で、ファルスを演じている(11)。パリ大学の学生たちが、

1508年6月11日サン・テチエンヌ広場でモラリテ『新

世界』

Le Nouveau Monde (par Andrieu de la Vigne)

を上演したという記録もある(12)。これは、そのことに よって自分たちが経済的な不利益を被ることになった、

ブールジュの国事詔書の廃止に対する抗議の風刺作品で あるが、その声を広く市民に伝えたいという思いが彼ら を広場に向かわせたのだろう(13)。また、<バゾッシュ>

という王立裁判所の下級職員で結成された団体は、職業 柄、裁判所前や法廷の中、さらに王宮の大広間で上演す る権利を与えられていた。

戸外での上演には即席の仮設舞台が使われたようであ る。前述のケルメスの上演図によれば、その質素な舞台 はきわめて狭い。大人の肩ほどの高さに、幅およそ3メ ートル、奥行き2メートル前後の広さといったところか。

セットは机と台と椅子のみで、正面後方はカーテンで仕 切られている。しかし、三人も上がれば手狭になるこの 舞台がすべての上演に用いられたとは考えにくい。とく に、演出上広いスペースを必要とする『香具師』

Le

Bateleur

のようなファルスでは、尚更である。この劇

(5)

では、役者の似顔絵売りの香具師は絵を前面にずらりと 並べ、その前で、客引きのためのアクロバットや動物芸 などの見せ物を手下どもにさせなければならないから だ。

またいかなる作品も、聖史劇との共演の際には、後者 のいくつもの景(場のセット)からなる並置舞台の一部 を使って演じられたことだろう。これはとりわけ天国や 地獄が場として設定されている作品にとって効果的であ る。主人公が天国から徒歩で生還するファルス『ジュナ ン・ランドールの復活』La résurrection de Jenin

Landore

も、同じく地獄からの『ジュナン・ア・ポー

ムの復活』

La r é surrection Jenin à Paume

も、件の 景を使ってなされれば演劇的な説得力が増すであろう。

また、『悪魔に魂を持って行かれた粉屋』Le Meunier

de qui le diable emporte son a

me en enfer

のファルス における悪魔軍団の会議も、実際に地獄のセットの中で 行われてこそ、悪魔の登場に対する違和感も薄れよう。

さらに、フランドル地方やカーンでは車上で演じられる ことも多かった。世俗劇は、いうなれば役者と劇行為と 観客さえあればどこであっても成立する、柔軟性に富む ジャンルなのである。

5.役者と作者

舞台の上で人物を演じるという行為は、16世紀半ば までは独立した仕事でも専門的な職業でもなかった。確 かにそれまでにも、ジョングルールや流浪の道化役者の ような者たちが芝居で収入を得ることはあったようだし

(14)、客寄せのため芝居もどきを打つ物売りや雑芸人た ち(香具師、奇術師、薬売り、曲芸師など)は常に祭り や縁日とともにあった。しかし、そうだとしても、多芸 な彼らにとって芝居はレパートリーの一つでしかなく、

またその芝居とは、おそらく(脚本という物的証拠は残 っていない)大道芸の延長か即興的な対話劇程度のもの であったろう。フランスに演劇専門の劇団が登場するの は、

1548

年イタリアの職業劇団(主に悲喜劇を演じた)

がアンリⅡ世の宮廷を訪れるようになって以降のことで ある。

16

世紀半ば頃から衰退していく世俗劇を演じたのは、

従って、プロの役者ではなく素人であった。それは、既 に触れてきているように、おもに裁判所の書記を中心と するグループないし、大学生や学寮生のグループであっ たとされる。彼らにとって演劇活動は余暇の娯楽の一つ であり、祝日を祝う一つのかたちであった。彼らは必要 に応じて、難役である道化役を外部の芸達者に、たとえ ばジョングルール(前述のラブレーの引用を参照)やポ ンタレ(ソティにこの名で登場)といった雑芸人に依頼 することもあった。そして、こうした素人の上演グルー

プもまた、演劇だけに興じたのではなく、祭りの様々な 出し物にも積極的に参加した。

フランス文学史ではこのようなグループを一括して

「陽気な組合(連中)Sociétés Joyeuses」と呼んでい る。これらは本質的には祝祭実行組織であり、それぞれ に「権力、司法、若者、無軌道、快楽、愚行、狂気」を キーワードとする滑稽な看板を掲げていた。その存在は、

北はリール(<若者の空襲とその手下たち>)やアラス

(<歓喜の僧院長とその善良な子どもたち>)、ヴァラン シエンヌ(<愛の君主または喜びの君主とその手下たち

>)から、南はニースやモンペリエ(いずれも名称は不

明)まで、その他トゥールーズ(<バゾッシュの王とそ の見習いたち>)、ボルドー(<子どもの母とその子ども たち>)、リヨン(<誤植の殿様とその手下たち>)、アミ アン(<阿呆の君主とその手下たち>)、ディジョン(<

阿呆の母とその歩兵隊>)など、当時都市であったとこ ろのほとんどに確認されている(15)

上演にはこれらの組織の多くが関わったと思われる が、そのすべてについて確証があるわけではない。確実 視されているのは、現在に残る作品の制作元と目される 三つの組合と学生グループである。つまり、パリの

<バ

ゾッシュ(裁判所下級職員組合)王国>

<呑気な子ど

もたち>、および学生たち(組合員と学生の見分けはつ かないことが多く、混在的・流動的であった)、それに ルーアンの

<コナール(角はやし亭主)の僧院>

であ る。これらの組織については断片的ながら記録が残って おり、また、辛うじて判明している作者の中には、いず れかの組合員であることが確認されている人もいる。ア ンドレ・ド・ラ・ヴィーニュ、クレマン・マロ、ジャ ン・ダボンダンスはいずれも

<バゾッシュ> に所属。後

年ヴィクトル・ユゴーの小説『ノートル・ダム・ド・パ リ』(

1831

年)に登場するピエール・グランゴワール は、<呑気な子どもたち> のメンバーであるばかりか、

一時はこのグループの幹部をも務めた。さらに、アンド レ・ティシエによれば、

74

作品を収めた『ヴァリエー ル版撰集』

Recueil de la Vallie

re

は、その大半が

<コ

ナール> のレパートリーである(16)

作者については、上にあげたような、ハリナ・レヴィ ツカが「教養あるブルジョワジー」と評する人たちを除 けば、殆ど不詳である(17)。とはいえ、少なくとも「組 合」員もしくはその周辺の人ではあろうと考えられてい る。こうした集団の自作自演的活動において作者に課せ られた役割は、組合のアイデアを吸い上げ、組合の意図 を込めて書くという、組合の代弁者以上のものではなく、

そこに独創性や個性の入り込む余地はなかった。これは いわば当時の流儀であるとされ、ピエール・バデルも

「中世においては文学作品を生み出す条件が今日のそれ とはまったく異なっていた(・・・)。中世の詩人は、

川那部 和 恵

194

(6)

自分が属している集団のためにしか存在しない」と述べ ている(18)

「組合」の性格や傾向は組織を越えて汎一的であり、

数百に上る一つ一つはまことに雑多な現存作品も、全体 としては一つの原理や雰囲気に集約される。言語、文体、

語法、喜劇的手法、人物の性格、精神、価値観、思考形 態など、どれも同趣向、同系統のものと言ってよい。ま た内容も似通ったものが少なくない。しかし作者がある 意味で書く機械に徹したのだとしても、著作にはふつう

(一晩とか)非常に短い時間しか与えられなかったこと を考えると、その文才は相当のものであったといえよ う。

こうした団体の性格上、その舞台に女性が上がること はなかった(19)。これはカトリック教会の監視下におか れた時代の傾向ともいえ、聖史劇においても女優の登用

16

世紀半ばまでは原則的にない。例外としてたとえ ば1468年メッスで上演の『シエンヌの聖女カトリーヌ の聖史劇』Le Myste

re de sainte Catherine de Sienne

において、

18

才の娘が聖女の役を演じたという報告が あるにはあるが(20)、いずれにせよ

16

世紀半ばまで、女 の役は男性が演じるのが慣例であった。

衣裳は、ファルスにおいては、人物固有の職業や社会 的身分に則したものを身につけた。特定の身分とは結び つかない滑稽な役回りの類型である「バダン」は、バダ ン帽という紐付きのボンネットをもってその徴とした。

彼はまた、アルレッキーノとは違って仮面をつける習慣 はなく、かわりに顔面に粉をまぶすことが多かった。一 方ソティの「愚者」たちは、宮廷道化に由来するいわゆ る道化のお仕着せをまとった。

本業でないとはいえ、彼らはなにがしかの報酬を得る ことがあった。大道での上演には投げ銭がつきものであ ったし、城館への出前上演には出演料が約束されていた。

そこでは学生ですら酒や祝儀などの恩恵に与かった。し かし当局の負担で舞台が設置される公的な上演におい て、それが自分たち自身の気晴らしが目的である場合に は、無償で演ずるのが常であった。

6.観 客

ファルスではしばしば、最後に、登場人物の一人が客 席に向けて暇を告げつつ終わることがあり、そのさい使 われる代表的な呼びかけ詞に「高貴な観衆」、「閣下」、

「君主」「貴婦人」「姫君」などがある。およそ高位者 を示す名辞ばかりであるが、これは恐らく、ティシエも 言うように、まずは香具師の常套的な口上をまねた大仰 な表現にすぎないと考えられ、作者がそこに込めたかも 知れない思惑はさておき、実際には、お偉方に限らず、

あらゆる身分・階層の人が観客であったと想定してまち

がいなかろう。

とはいえ、上演の場所や状況によって、集まってくる顔 ぶれは異なったはずだ。宮殿や館の客席を埋めるのはお もに王侯貴族や有力者であろうし、大学や学寮では、ま ず在校生や教師や同窓生によって占められるだろう。法 廷内であれば、バゾッシュの組合員仲間が中心となり、

また、市民の結婚式では、家族や、親戚・友人など招待 客が観客となろう。しかしその他の戸外で行われる、市 や縁日を含むカーニヴァル的な種々の祭りや、聖史劇公 演の場においては、客層は上から下までもはや特定しえ ないまでに混在していただろう。そこには、子どももい た。『香具師のファルス』の冒頭、香具師は次のように 叫ぶ。

「下がって、下がって、下がって、下がって!

さあ、寄ってらっしゃい、見てらっしゃい、このケ ダモノが死ぬところを。

坊ちゃん嬢ちゃんは、お鼻をチーンして きれいにしようね。

下がって、下がって、下がって、下がって!」(21)

観客が世俗劇に求め期待したものはなんであろうか。

ひとえに笑いである。ティシエは、反抗的で嘲笑的で現 実感覚にたけた「中世の人間は《演劇的な仕事》よりも、

才気と、性的暗示と、風刺と、こっけいな状況と、笑い にみちた言葉に飢えている」と指摘する(22)。なるほど 作品には、劇作法に則った文学的傑作にも、陽気でみだ らな冗談に徹したものにも、あるいは思索にみちびくよ うな状況を扱ったもの、さらに、粗造りの駄作に至るま で、こうした笑いがあふれている。観客は、常識も道徳 も秩序も無視して自由奔放に表現される人物たちの、無 軌道の笑いの言動のなかに、いっとき、祝祭的な「第二 の生活」を生きたのであろう。それは彼らにとって結果 的には教育の機会ともなりえた。「世界のものごとは逆 さから見ることによってしか、その本当のすがたを捉え ることはできない」(ジャン・ルーセ)

7.結 び

以上、世俗劇上演をとりまく当時の実態、すなわち上 演の機会と場所、役者と作者、及び観客がいかなるもの であったかについてまとめた。そこで確認されるのは、

この演劇が今とは全く異なる文脈において展開されてい たことである。それはわれわれになじみの文学や芸術を 指向する演劇活動というよりは、圧倒的に社会的な娯楽 の一環としての営みであった(23)。「祭り」の転倒空間 の「全民衆的」で自由な雰囲気のなかで、舞台と客席は 一体となって、言葉や身体の遊びにたわむれ楽しみ、共

(7)

に怒り、共に驚き、共に考え、共に笑った。その上演と は、例えば日本の祭りにおける神輿担ぎのように、地域 や共同体の仲間たちが意識を共有し、結束を新たにする 行為であり場であったということができるだろう。臨場 の観客がいないと成立しえない演劇は、本来的に社会的 なジャンルである。世俗劇はとくに、そのテーマの身近 さと即興的な性格によって、不特定多数の観客を引きつ けて時代に根づき、またそうした舞台と客席とのいわ ば<あ-うん>のコミュニケーションを見事に可能にし たのだと思われる。

歴史的な研究は新たな史料が発見されればまた前進す る。世俗劇の上演状況についても、今後も発掘次第では さらなる研究の進展が見込まれよう。

8.補遺:世俗劇のジャンルについて

本文中に常時言及のある世俗劇の各ジャンルについて 簡単な解説を付しておく。ジャンルの数は解釈の仕方に より多少増減するが、一般的に、モラリテ、独白劇、滑 稽説教、ソティ、ファルスの5つとされている。同時代 にはこれらとならんで奇跡劇や聖史劇などの宗教劇も栄 えた。この聖と俗の二大分野が、中世カトリック教会の 影響下にあったこの時代の演劇を理解する上での基盤的 枠組となっており、悲劇・喜劇という演劇概念はまだ現 われていなかった。宗教劇が聖書や聖人伝に材をとり、

教化と伝道を目的に構成したものとすれば、世俗劇は、

説話や小話あるいは現実の日常生活を滑稽に脚色したも のといえる。以下が5つのジャンルの概略である。

1)モラリテMoralite′

モラリテは訳すと道徳劇ないし教訓劇。多くは擬人法 を用いた教化目的のジャンルとされる。しかしこのあま りに単純化された定義のゆえに、作品一覧はいわば聖・

俗の境界さえ越えた多様な作品群を取り込むことになっ ている。じじつ、どう見ても世俗劇の枠には収まらない、

つまり形式や源泉や内容面などにおいて宗教劇と見紛う ような作品も少なくない。たとえば『思慮深い善と抜け 目ない悪』(8千行59人物)や『真の人間と俗なる人 間』(3万行

84

人物)などの長大な作品は、規模の点で は聖史劇に該当し、『放蕩息子』や『救世主キリストの 受難』のテーマの出所は言うまでもなく福音書である。

また『乙女に暴行した甥を殺した皇帝』には神の奇跡が 介入し、『ローマの町を裏切った女』については、典拠 は聖史ならぬローマ史であるにしても、その壮大な歴史 ドラマ仕立ての内容は宗教劇にもおとらぬ崇高で深刻な 雰囲気にみちている。

こうした真面目な大作品の一方には、むろん、世俗劇 の名にかなう極めて俗っぽい作品の数々がある。それら

はわずか数百行、3〜4名の人物からなる小品で、陽気 で騒々しく、滑稽な雰囲気と展開をもつ。とはいえ、そ の教化志向に変わりはなく、例えば、食べすぎから体の 至る所に不調をきたす内容の『腹、脚、心臓、頭』では、

結末に、人物「腹」の暴飲暴食を戒める教訓が加えられ る。中にはしかし、教会と貴族に対する風刺を前面に出 した『洗濯をする教会と貴族と貧困』「教会」と「貴族」

が、「貧困」に自分たちの汚れ物を洗わせるばかりか、

さらに多くの重労働をおしつける話)や、昇天した聖人 の奇跡のパワーを浴びることによって目や脚が治ってし まうことを嫌い(そうなると物乞いが続けられなくな る)、その葬列を避けるために、「目の見えない男」が

「脚の悪い男」を背負って、後者の指示する方向にえっ ちらおっちら遁走する、笑劇的な『盲人とあしなえ』な ど、教化の意図が直接にはみえにくい作品もある。

2)独白劇Monologue dramatique

独白劇は200〜300行前後からなる独り芝居で、香具 師や大道芸人の口上をまねた語り口に特徴がある。役者 は、ことば遊びをふんだんに盛り込んだ滑稽な話芸によ って、笑うべき人物の性格を浮き彫りにする。特に、ほ んとうは能力などないのに万能だと偽って自分を売り込 む万年失業者の「何でもできる召使い」や、ほんとうは 臆病なのに自分は強いのだと喧伝する「空威張り兵士」

といった、虚栄型ほら吹きタイプが格好の餌食にされ た。

3)滑稽説教Sermon joyeux

独白劇の一種で、下品で陳腐なテーマを用いて教会の 説教をもじったものを滑稽説教という。説教師に扮した 役者が、たいていは本物の説教の形式にそって厳かに、

まずは怪しげなラテン語を満載した基調演説を行い、つ いで本題のパロディにはいる。よく知られているのは、

食材を聖人に見立てて調理のさまをつぶさに描きなが ら、その殉教を称賛するパターンである。かくして『ブ ドウ聖人』は押しつぶされて事切れ、『ニシン聖人』は 焼き網の拷問に耐えながら殉教する。『腸詰め聖人』は 食されることにより(その人に渇きをあたえ飲酒に誘う という)奇跡をもたらす。そして彼が飲むであろうワイ ンすなわちキリストの血は、怒りを鎮め、性欲を高め、

死者をも蘇らすバッカス祭の神酒となる(『酒飲み』

4)ソティSottie

ソティはsottiseとも言われて本来は「愚かさ、愚行」

を意味したが、15世紀以降、「ソ」Sot ――「愚者」、あ るいはその文化的背景を加味して「阿呆」ないし「道化」

―― なる人物(の一群)を登場させる、当時発生の演 劇ジャンルを指すようになる。このソはしかしながら作 川那部 和 恵

196

(8)

品の中で常に「ソ」と名乗っているとは限らない。「ギ ャラン」とか「(全)世界」「よき時代」等のさまざま な別称で登場することも多い。彼らはいわゆる「道化」

服、裾に鈴のついた胴衣とタイツ、それにロバ耳頭巾に 身を包み、阿呆の「君主」や「母」に率いられて騒がし く登場する。作品には、単なる叫びやアクロバット、こ とばの遊戯などに戯れるだけの気ままな客寄せ道化のよ うなものから、物価の高さや夫婦の不仲に言及した教訓 的でファルス的なもの、または、「愚」の仮面の特権を 利用して社会や政治に遠慮ない批判をあびせる風刺も の、などがある。テキストの規模は平均して

300

500

行、人物は3〜5名。

5)ファルスFarce

ソティと同規模のファルスはわが国の狂言にも似て、

いわば庶民の日常生活のスケッチないしカリカチュアで ある。人物は類型的で、ほとんどの場合名前をもたず、

夫、妻、母、バダン、召使い、間男、小間使い、司祭、

隣人などといった、身分や職業や役柄に関する名称で呼 ばれる。ファルスは、こうした人物たちの生活を描写す ることにより、そこに観察される悲惨な状況や、愚かで 滑稽なさまを提示する。しかしそれは教化や風刺のため というよりは、たんにそうした日常の現実を陽気に笑い 飛ばすだけであり、そこにこのジャンルの本質があるの だとされている。

作品は、素朴ながら劇的筋立てaction を有するもの が多い。そのなかで笑いと構造的に結びつくのが、「だ

ます

/ だまされる」という関係に基づく枠組である。観

客はだまされた人物の愚かさを笑い(『市価で[に]たま ごを売る[くれてやる]マユエ』:市価でたまごを売って こいという母親の言いつけで市場に出かけた愚か者が、

事情を知り市価と名乗って近づいてきた悪賢い男に、た だでたまごをあげてしまう話)、だました人物の見事な 術 策 に 笑 う (『 十 字 架 の 下 の3人 の 間 男 』 : 人 妻 が 、 別々に言い寄ってきた3人の男に言葉巧みに、それぞれ 前金と引き換えに、同じ逢い引きの場所と(一時間ずつ ずらした)時刻を指定する。しかし十字架の下に彼女が やって来ることはなかった)。笑いが一段と大きくなる のは、この図式が双方向的に作用するとき、つまり、術 策が一見うまく運んだように見えて、じつは事が進み終 わってみれば、だました奴がだまされたという(

A trompeur, trompeur et demi

、しっぺ返しの事態が起 こるときである。被告の羊飼いを弁護して勝訴に導いた ものの、今度はまさにその勝訴を勝ち取った同じ手口で、

羊飼いに弁護料を踏み倒されるインチキ弁護人の『パト ラン先生』をはじめ、今も有名な作品はみなこの逆転劇 を有している(『悪魔に魂を持って行かれた粉屋』『洗 濯桶』

(1) Cf. Recueil de farces (1450-1550), par André Tissier, t.IV, Droz, 1986, pp.177-180.

(2) L. Petit de Julleville, Répertoire du théa

tre comique en France au Moyen-Age, Slatkine Reprints, Gene

ve, 1967 (Réimpression de l'édition de Pairs, 1886) , p.354.

(3)

原文:《

Prenez en gré de la petite farce. / C'est Esopet, le soumiste de Navarre.

; cf. L.Petit de Julleville, Les Comédiens en France au Moyen Age, Slatkine Reprints, Gene

ve, 1968 (Réimpression de l'édition de Pairs, 1885) , p.292.

(4)

これらの字句はページの上半分5行にわたって記され、下 半分には阿呆の母とその二人の子どもたちを描いた版画が あ る 。

Emile Picot, Recueil général des sotties, t.II, Librairie de Firmin Didot, Paris, 1904, p.125.

(5) L. Petit de Julleville, Répertoire..., op.cit. Amiens, Angers, Auxerre, Béthune, Caen, Cahors, Cambrai, Dijon, Laval, Lille, Lyon, Metz, Nancy, Orléans, Paris, Pontoise, Reims, Rouen, Tarascon, Toulouse, Tours

外の都市の事例が掲載 されている。

(6) Pierre Sadron, 《Les Associations permanantes d'acteurs en France au Moyen-Age》, Revue de la société d'his- toire du théa

tre, t.III, 1952, pp.220-231.

(7) L. Petit de Julleville, Les Comédiens... , op.cit.

(8)

ミハイール・バフチーン(川端香男里訳)『フランソワ・

ラブレーの作品と中世・ルネッサンスの民衆文化』せりか 書房、

1985

p.21.

(9)

原文:《

A ces jours sy (=pendant les jours gras) y fault tout dyre / Se qu'on sayt, on le prent a bien》, E. Picot, op.cit., t.III, No.XXI, vv.288-289.

(10)

聖史劇の劇中に挿入されるファルスは、しかしながら、間 狂言とは性格が異なる。間狂言が、一曲の能の前半部が終 了したところで一人の狂言方が登場して、その曲の内容を 語りによって説明するというように、能との連続的な関係 を持つものであるのに対し、この場合のファルスは、進行 中の聖史劇とは全く関係のない喜劇的な小品である。その 役割はもっぱら長大な聖史劇の綾取りとして観客の注意を 喚起したり、覚醒をうながしたり、凝りをほぐしたりする ところにある。たとえば

14

世紀末の『フィアークル聖人の 聖史劇』

Myste

re de la vie de monseigneur saint Fiacre

には、714行目に「ここでファルスが挿入される」、989行 目に「ここでファルスが終わる」という表記があり、その 若干

280

行の間に『泥棒のファルス』

Farce du Brigand

が挿入されている。それは、舞台において今まさに昇天し たばかりの聖人が数々の奇跡を起している最中に、突然、

泥棒や農民や妻や巡査らがどやどやと割り込んできて繰り 広げるドタバタ劇である。

(11) L. Petit de Julleville, Répertoire..., op.cit., p.360.

(12) Ibid.

(13)

この国事詔書(Pragmatique Sanction de Bourge)は、フ ランスの国家的教会の独立自治権を認める旨を謳った勅書 で、

1438

7

7

日、シャルルⅦ世によりブールジュで発布 された。大学人にかなり有利な作りとなっており、例えば

「聖職禄」については、都市の司教座聖堂参事会員職と聖 堂区司祭職の

22%

を大学出身者に確保すると規定するな ど、さまざまの特権が組み込まれている。

1461

年、息子の ルイXI世により撤回されたが、その後、何度か復活と撤回 を繰り返した。Cf.ジャック・ヴェルジェ(大高順雄訳)

『中世の大学』みすず書房、

1991

pp.132-133, 142-143,

(9)

147,

他;

R

H

・ロイン(魚住昌良監訳)『西洋中世史事 典』東洋書林、1999;他。

(14)

例えば、「夢想家(空っぽの夢)(Songecreux)の渾名で 通 っ て い た ジ ャ ン ・ ポ ン タ レ 大 将 (

Maistre Jehan Pontalais)は、1515年、ヌーシャテルのロレーヌ公の前で

仲間たちとモラリテを何本か演じた際に、報酬として

40

ーヴルを受け取っている。

Cf. Répertoire..., op.cit., p.364.

(15) Pierre Sadron, op.cit.

(16) Recueil de farces (1450-1550), par André Tissier, t.I, Droz, 1986, p.17.

(17)

《En réalité

la farce comme les autres genres dramatiques, refle

te surtout les idées de la bourgeoisie cultivée ; c'est à elle qu'appartiennent les auteurs, intellectuels de l'époque, dont les noms nous sont parvenus, comme André de la Vigne, Pierre Gringore, Jehan d'Abondance

, Halina Lewicka, Etudes sur l'ancienne farce franc

aise, Editions Klincksieck, 1974, p.12.

(18) P

・イヴ・バデル(原野昇訳)『フランス中世の文学生活』

白水社、

1993

p.7.

(19)

女優は、16世紀半ば次々に結成された「歴史劇、悲劇、モ ラリテ、ファルスの役者たち」という名目のプロの巡業劇 団の中で、生まれたとされる。

Cf. Les Com e

´

diens... , op.cit. p,9.

(20) L. Petit de Julleville, Les Come

´

diens..., op.cit. p.10.

(21)

原文:《

Ariere, ariere, ariere, ariere ! / Vene

´

s la voir mourir, vene

´

s. / Petis enfans, mouche

´

s vos ne

´

s / Pour faire plus belle manyere. / Ariere, ariere, ariere, ariere !

, Recueil de farces (1450-1550), op. cit., t.IV, pp.257-258.

(22) Recueil de farces (1450-1550), op. cit., t.I, p.54.

(23) Cf.

「・・、もし中世の演劇に知的に取り組もうとするので あれば、われわれは、演劇とはこのようなものであるとか、

戯曲はこのように書かれるべきだといった現代の考え方を 捨てて、その代わりに、共同体の遊技(ゲーム)という考 え方をとらなければならない」(グリン・ウィッカム(山 本浩訳)『中世演劇の社会史』筑摩書房、

1990

pp.5-6.

川那部 和 恵

198

参照

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