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t r 日蘭交流 400 周年記念事業 プレイベ ン ト
長 崎 大 学 附 属 図 書 館 古 写 真 展
わ 影 長 峰
レンズ に写 った 時代 と街
期 間 平成 11 年 5 月 12 日 ( 水) 〜 5 月 16 日 (冒) 会場 浜屋百貨 店 8 階催事場 ( 長崎市浜町)
主催 長崎大学附属 図書館
協賛 長崎市 目蘭交流 400 周年記念事業実行委員会
後 援 長崎県教育委員会、長崎市教育委員会、なが さき阿蘭陀年推進協会 長崎新 聞社 、西 日本新 聞社、朝 日新 聞社、毎 日新 聞社 、読売新聞社、
日本経済新 聞社 、NHK 長崎放送局 、NBC 長崎放送、 KTN テ レビ長崎、
NCC 長崎文化放送 、NI B長崎国際テ レビ、エ フエム長崎、長崎ケーブル
テ レビ
ご 案 内
今回の展示古写真は、 4 つのパー トに分けてあ ります。
・pa r t1 「 古写真に見る長崎の近代化」では、長崎の眺望、外国人居留地、
出島、近代化の遺産な ど 46 点。
・pa r t2 「 長崎の中心 ・市街地景観」で は、 中島川 と石橋、諏訪神社 ・ 諏訪公園、寺院、近郊風景な ど41 点。
・pa r t3 「 絵葉書に見る長崎の景観」では、明治 30 年代か ら発行 される ようになった絵葉書 による長崎の各種建築物、その後の外国人 居留地、市街地風景な ど43 点 を選んであ ります。
・pa r t4 「 忘れ難 い様々な 日本の風俗」では、生産 と労働、いろいろな商 い、さらに、生活文化、習俗な ど 30 点 を選びましたが、既 に 見 る ことがで きな くな った懐 か しい 日々の生活 が蘇 ってきま す。
これ らの古写真は、幕末 ・明治か ら大正 ・昭和へ と続 く長崎の景観 ・諸 相 を写 し出 していますが、第 2次大戦後 の急激な変化変動 を経た平成の今
日か ら見れば、既 に 「 幻」の感 さえあ ります。
始 め に
長崎大学附属 図書館では、本年 も公開事業 の一環 として古写真展 「 幻影長崎〜
レンズに写 った時代 と街〜」 を開催することにな りました。
今回の展示は来年 ( 西暦 2000 年)の 日蘭交流 400 周年記念 を前に、長崎の 皆さまに郷土の豊かな歴史 を再認識 し、 21 世紀の長崎の未来 についてお考 えいた だ く機会の糸 口になれば と 「 変わ りゆ く長崎の景観」 と 「 懐か しい時代風俗 」 を中 心 に古写真展 を企画いた しました。
展示 しました古写真は、当館所蔵のコレクシ ョンの中か ら選定 しましたが、今回 は絵葉書や既 にご覧いただいた ものも含めました。
また、当館が所蔵す る古写真 は平成 10 年度末で 5400 点 を超 えま したが、
当館では電子図書館化の一環 として、 これ らをデータベース化 してインターネ ッ ト を通 じて広 く公開を進めてお ります。本会場で も 、CD‑ ROM での映像や当館 のホー ムページへ接続 しての検索 ・閲覧などを体験 していただけるよう準備 してお ります。
どうぞ、ごゆっくりご覧 ください。
最後 に、 この古写真展 にご協賛 いただいた長崎市 日蘭交流 400 周年記念事業実 行委員会、会場を提供 していただいた ( 秩)浜屋百貨店、展示企画 と古写真の選定 並びに解説 についてご指導いただいた岡林隆敏工学部教授 と若木太一環境科学部教 授 に厚 く御礼 申し上げ ます。
平成 11 年 5 月
長崎大学附属図書館長 富 樫 宏 由
古 写 真 に 見 る 長 崎 の 近 代 化
No・ 001 星 取 山か らの長 崎港 べア ト ( 2 8 ‑ 2 3 )
大浦居留地の背後の山か ら、大浦居留地、出島、長崎 湾の湾奥 を撮影 したものである。大浦居留地 と下 り松居 留地 を結ぶ初代の弁天橋が架設 され、出島には出島新橋 が まだ架設 されていないので、慶応元年 ( 1 8 6 5 ) 頃の写真 である。幕末の長崎港 には多 くの船舶が停泊 し、繁栄 し た外国人居留地の情景がわかる写真である。明治期以降、
第 1次、第 2 次の長崎港港湾改修工事の埋め立てによ り 海岸部の地形が大きく変化 した。 この写真は江戸中期以 降の長崎湾の地形を知る上で貴重なものである。
No. 002 長 崎市街 の 中心 部 と出島 ・梅 香 崎居 留地 べア ト 1 8 6 6 ( 1 7 ‑ 2 )
べア トのキ ャプシ ョンの 日付か ら慶応 2 年 ( 1 8 6 6 ) 3 月のものであることがわかる。右上の出島横、中島川 口 にはまだ新大橋が架け られていないo唐人貿易に供せ ら れていた新地蔵の裏はまだ海の名残があ り、その横の梅 香崎にはまだ洋館群が建て られていない。右上の茂みの 側 には長崎奉行所西役所の建物が見える。長崎の鳥轍写 真 として古いものの 1 枚である。
No. 003 中島川変流 前 の長 崎港 と長 崎市街
明治 10 年代後半 ( 7 5 ‑ 2 2 )
No. 004 中島川変流 工事 中の長 崎港 と長 崎 市街 ( 1 01 ‑ 2 )
明治 18 年 ( 1 8 8 5 ) か ら 23 年 ( 1 8 9 0 ) にかけて長崎港第 1 次港湾工事が行われた。 この事業の中で中島川 は出島 の背後 に変流 された。 これは、中島川変流工事 中を撮影 した興味深い写真である。旧中島川の河 口に新大橋が残 っている。一方、出島背後 には新 しい中島川が開削され、
出島橋が架橋 されている。明治 21 年 ( 1 8 8 8 ) 頃の写真 である。
No. 005 中島川 変流 工事 直後 の長 崎港 と長 崎 市街 ( 1 ト45 )
No・ 006 福済 寺裏 山か らの長 崎港 (1) ( 5 8 ‑ 21 )
No, 007 福 済 寺 裏 山か らの長 崎港 (2) ( 1 ‑ 3 5 )
No. 008 長 崎港 と中町教 会 フアサ‑ リ ( 81 ‑ 3 3 )
福済寺の茸越 しに、中町教会 と長崎港 を撮影 した写真
である。中町教会は旧大村藩屋敷跡に明治 29 年 ( 1 8 9 6 )
に完成 した。煉瓦造、瓦葺 き、 ロマネスク様式である。
長崎港 には多 くの外国船が停泊 し、明治 30 年代の長崎 港 の賑わいを見 る ことがで きる。明治 32 年 ( 1 8 9 9) 、 長崎外国人居留地が廃止されると同時に同年 8 月には要 塞地帯法が公布 され、長崎市街地の写真撮影は全面的に 禁止 された。 1 枚物で長崎市 を鳥撤撮影 した最後の時期 の写真である。
No. 009 中島 川 沿 いの長 崎市街 中心部 ( 58 ‑ 5 )
No. 010 小 島付 近 墓 地 か らの市街 地
べア ト 1 8 6 4 ( 28 ‑ 2 7 )
No. 011 高野 平 か らの小 島 山手遠望
No. 012 大浦 川 沿 い
( 5 8 ‑ l l )
( 58 ‑ 1 8 )
No. 013 唐 人屋 敷裏 か ら出島 を望 む
日下部金兵衛アルバム ( 2 ‑ 1 )
No. 014 東 山手 か ら大 浦 天 主 堂 を望 む
( ステ レオカー ド) ( 7 0 ‑ 2 0 )
No. 015 南 山手 か らの大 浦 と出島 (2 枚続き) ( 58 ‑ 3 2 )
No. 016 長 崎大 浦 外 国人 居 留 地
ベア ト 1 8 6 5 (
17‑ 3 2 )
南山手の高台か ら大浦、東 山手を見たもの。元治元年 ( 1 8 6 4)の大浦海岸通 りの 5 間築足 しは完了 しているが、
その前の波止は未完成で、東山手 14 番の洋館が建って いることか ら、慶応元年 ( 1 8 6 5)頃の撮影 と思われ る。
写真には 「 ヨー ロッパ人の居留地の一部と長崎市の市街、
65 年 7 月」 と記 されている。慶応年間の長崎大浦の海 岸通 りと東山手の洋館群が詳細 にうかがえる。
No. 017 飽 の浦 か らの南 山手
TheFa rEa s t 1 8 72 ( 21 ‑ 3 2 )
No. 018 大 浦 川河 口 Th eFa rEa s t 1 8 71 ( 21 ‑ 31 )
No. 019 梅 香 崎洋館 群 TheFa rEa s t 1 8 71 ( 9 6 ‑ 3 9 )
出島か ら梅香崎の洋館群 を明治 4 年 ( 1 8 7 1 )頃に撮影 した写真である。写真左側は新地、橋は初代の梅香崎橋 である。左端の建物は税関の検査所 となっている。出島 と対岸の居留地の間は中島川の堆積土砂で埋め尽 くされ ていた状況がわかる。 このことが中島川の変流工事の原 医は なった。
No. 020 大 浦海 岸 通 り ( 9 3 ‑ 2 4 )
No. 021 大 浦海 岸 通 りと松 ヶ枝 橋 ( 8 ‑ 2 )
No. 022 海 上 か ら見 た大 浦 海 岸 通 り ( 1 01 ‑ 4 )
No. 023 大浦海 岸 通 りの道 路 ( 1 01 ‑ 3 )
大浦海岸通 りの道路の中央 に写真機を据え付けて、大 浦海岸通 りか ら南山手 と浪 の平 を撮影 したものである。
明治 20 年代頃の写真 と思われ る 。 4 間幅の広 く全 くゴ
ミのない清潔な道路である。石 を積み上げた護岸、松の
木の街路樹、電柱がある。 この頃の道路の構造 と景観が わかる写真である。写真右側 には、浪の平の造船所、山 手にはグラバー邸が見えている。
No.024
南 山手 か ら見 た大浦 居留 地
(95‑5)南山手北側の崖上か ら大浦川越 しに大浦居留地 と東山 手を撮影 した写真である。明治 10 年代の写真 と思われ る。写真中央の道路が大浦 2 番通 りで、現在の孔子廟の 通 りである。大浦居留地には多 くの建物が密集 し、居留 地が まだ繁栄 している。写真奥 の丘は東山手であるが、
活水学院のラッセル館がまだ建て られていない。
No.025
大 浦 居 留 地 と長 崎港
No.026
大浦 居 留 地 (1)
No.027
大 浦 居 留 地
(2)(75‑1)
(75‑24)
(75‑23)
No.028
大 浦 天 主 堂 裏 か らの長 崎港
上野彦馬
(73‑28)No.029
大 浦 川右 岸 の洋館 群
(8‑3)4
明治中期の大浦川右岸の大浦居留地である。大規模な 木造の洋館が立ち並んでいる。ベランダ、手す り、窓な どの建物の組部 まで見 ることができる。背後の山腹 のピ ンクの洋館は、現在グラバー園に移設 されている東山学 院のスティール記念館である。海岸 には沖の船 との連絡 に使 うサ ンパ ン船がびっしり繋がれているO鮮明で美 し い写真である。
No.030
東 山手 とラ ッセ ル舘
(58‑10)明治
2 0年
(1887)頃の東 山手居留地 を撮影 した写真で ある。山の上の建物は現在 の活水のラッセル館である。
この建物は明治
15年
(1882)に建設 された細部の美 しい 木造の建物である。右下の建物は東山手 12 番館 ( 旧プ ロシア領事館、現県指定文化財)であ り、現在残 されて 活用 されている。学校の石垣や道路は現在でも残 されて いる。明治中期の写真は手彩色の写真であるが、特 にこ の写真は色彩が美 しく仕上がっている。
No.031
飽 の浦 か らの汽 船 と南 山手
明治中期
(21‑12)No.032
南 山手 の洋 館 群 (1) 上野彦馬
(73‑26)No.033
南 山手 の洋 館 群
(2)上野彦馬
(73‑25)マ リア学園付近か ら見た南山手の洋館群。右手の白い 建物はロシア領事館、右上には 「 よんご松」 とグラバー 邸が見える。中央左の高台の屋敷はシャーマン ・ピナニ ール邸である。中央下は中曽根町になる。
No. 034 長崎出島とロシア人居留地
べア ト 1 8 6 5 ( 1 7 ‑ 3 4 )
写真手前の長い建物群が中国人の居留地の倉庫 として 建設された新地蔵で、中央の緩やかな弧 を描いている場 所が出島である。出島が外国人居留地 に編入される慶応 2年( 1 8 6 6 ) 頃には遊歩道や橋の建設 によ り、江戸時代の 出島の地形が変化する。撮影 されている出島は、 これ ら の手が加わえ らる前の江戸後期の姿を残 している。対岸 の稲佐地区にはロシア人が仮泊 した場所があった。慶応 元年( 1 8 6 5 )6月、F. べア トの撮影である。
No. 035 長崎港の賑わい
アンダーウッ ド
19 0 4 ( 9 7 ‑ 1 0 0 )
No. 036 出島からの大浦居留地
Th eFa rEa s t 1 8 7 1 ( 2ト2 7 )
No. 037 十人町山手よりの出島と長崎港
上野彦馬 ( 21 ‑ 2 )
No. 038 ドンの山から見た新地蔵 と出島 ( 7 8 ‑ 4 6 )
ドンの山の下、中新町か ら新地、出島そ してそ の奥 に 稲佐及び浦上を撮ったものである。中央が出島で、その 右側手前が新地蔵 ( 現 中華街)、出島越 しに西役所 ( 覗 長崎県庁)が見 える。明治 2 年 ( 1 8 6 9 ) に架設 された出島 新橋 も見 えている。なお、中央奥 には江戸時代 ( 享保1 5 年)に開発 された浦上新田も見える。
No. 039 新地蔵 と出島 Th eFa rEa s t ( 21 ‑ 2 8 )
No. 040 南山手から見た大浦居留地 と出島 ( 2 6 ‑ 4 3 )
写真中央 に大浦海岸通 りがあ り、その先に出島がある。
出島の前面に広 く干潟が拡がっているが、 これは中島川
か ら流失 した土砂が堆積 したものである。 このために長
崎港の機能が低下 し、長崎県は明治 18年( 1 8 8 5 )
第1次
長崎港改修工事 を実施 し、中島川を出島の背後 に変流 し
た。さ らにその後、出島前面が埋め立て られ、江戸期の
出島の姿は消滅 した。出島が消滅する原因 となった中島
川の干潟が撮影 された明治 10 年 ( 1 8 7 7 ) 頃の写真である。
No. 041 梅 香 崎洋館群 と出島 ( 7 5 ‑ 2 )
明治 中期の梅香崎居留地か ら出島を撮影 した写真であ る。写真の手前は、左か ら長崎郵便局、デ ンマークの大 北電信、 日本郵船の建物である。デ ンマークの国旗 と日 本郵船社旗が立っている。写真中央は出島である。明治
26年( 1 8 9 3 ) 竣工の第 1 次長崎港改修工事によって、中 島川が出島の背後に変流されている。明治 21 年 ( 1 8 8 8 ) 架設 された出島橋や、現存 している出島神学校が見える。
出島の先の丘の上の建物は長崎県庁舎である。明治 32 年( 1 8 9 9 ) 外国人居留地が撤廃 されるが、居留地時代末期 の風景である。
No. 042 工部 省長 崎工作 分 局飽 の浦 工場
上野彦馬 1 8 7 9 頃 ( 21 ‑ 3 )
No. 043 立神第一 ドック (1) ( 9 3 ‑ 21 )
No. 044 立神第一 ドック (2) ( 7 5 ‑ 6 )
No. 045 長 崎駅 ( 現浦 上駅 ) ( 9 5 ‑ 8 )
旧長崎駅、現浦上駅 にあたる。当時、現長崎駅付近は 海で市 中乗 り入れができなかったため、現在の浦上駅に 長崎駅 を設置 し、明治 30 年( 1 8 9 7 )7月に開通 した。開 業 当時の 1日平均の乗客数は 700 人を超え、当時とし
てはもの珍 しさもあって利用客は多かった。
No. 046 長 崎ホテル ( 9 5 ‑ 7 )
長 崎 の 中 心 ・市 街 地
No. 047 中島川 ‑ の瀬橋 べア ト 1 8 6 4 ( 2 8 ‑ 2 4 )
No. 048 中島川風景 ・釣 り人 た ち
べア ト 1 8 6 4 ( 2 8 1 31 )
元治元年 ( 1 8 6 4)頃、ベア トが中島川上流の上野彦馬 邸の前あた りか ら対岸を撮影 した もの。 この頃ベア トは 彦馬宅 に滞在 したものと推測 される。右側の男性は魚釣
りをしている。
No. 049 中島川 の常夜 灯 上野彦馬 ( 6 6 ‑ 2 2 )
No. 050 中島川 と上 野彦 馬邸 上野彦馬 ( 6 6 ‑ 3 2 )
現在は中島川 と呼ばれているが、以前 この辺 りは銭屋
川あるいは楓川 と呼ばれた。奥の白い塀の家が上野写真
館である。右手の森は伊良林の水神社で、本河内高部水
源地ができる明治 24 年( 1 8 91 ) まで、上水道 として使用
された倉田水樋の水源である。
No. 051 中島 川 と阿弥 陀橋
小川一美アルバム ( 8 ‑ 1 5 )
中島川に架かる石橋の一つ。現在は形が変わっている。
橋の決に阿弥陀堂があるので この名があ り、八幡町 と伊 勢町の間に架かっている。 この写真は高麗橋上か らのア ングルである。
No. 052 中島川 と高麗 橋 付 近
べア ト 1 8 6 4 ( 2 8 1 2 9 )
No. 053 中島川 に架 か る桃 渓 橋 ( 4 7 ‑ 3 3 )
No. 054 中島川 と編 笠橋 上野彦馬 ( 6 6 ‑ 1 6 )
No. 055 中島川 古 町橋 と光永 寺 ( 7 5 ‑ 3 )
No. 056 中島川 の橋 小川一兵アルバム ( 9 1 4 0 )
No. 057 中島川河 口
No. 058 中島川 と万橋
向かって右岸の現電車通 りはまだ人家が立ち並び、バ ックに健山と蜂火山を配 し、満潮の中島川河 口に架かる 万橋である。万橋は旧町の築町 と万屋町に京都の人が購 罪のため延宝 6年( 1 6 7 8 ) に架設 した。
No. 059 諏 訪神 社 の大 鳥居
内田九一 1 8 7 2 ( 6 6 ‑ 1 5 )
No. 060 諏 訪神 社 の三 の鳥居
小川一兵アルバム ( 8 ‑ 1 2 )
鳥居の順番は建て られた順 につけ られている。 この大 鳥居は三番 目に建て られたか ら三の鳥居 ( 現在、下か ら
3 番 目)明治 10 年( 1 8 7 7 ) の献納である。鳥居の後 ろの 階段を上がった石畳の中央 ( 子 どもがいる所) に男性の 良縁 にと捧げる陰石があ り、諏訪神社は縁結びの神様で もある。右手の建物の 2 階部分のベランダが 目をひ く。
No. 061 諏 訪 神 社 の長 坂 ( 5 8 ‑ 2 5 )
No. 062 諏 訪神 社 の青銅 馬 ( 4 2 ‑ 2 )
No. 063 旧 中門 ( 諏訪神社境内) 上野彦馬 ( 5 8 ‑ 7 )
No. 064 諏 訪 公 園 の 噴水 ( 4 7 ‑ 3 4 )
諏訪神社境内の茶屋の前にある噴水で、公園等 の装飾 用噴水 としては 日本最古のものと言われている。若い女 性 をモデル として配 した写真。なお、高札 には 「この柵 こさわるべか らず長崎市役所」と記 してある。
No. 065 月見茶屋 ( 9 6 ‑ 8 3 )
No. 066 諏 訪 公 園六 角 堂
No. 067 長 崎聖 福 寺
黄葉宗万福寺の末寺、聖福寺本堂大雄宝殿である。大 殿 または仏殿 とも言われ、延宝 6
年( 1 6 7 8 ) 創建、以後数 度改築されている。正面の扉 に桃の彫刻 (この桃 には割 れ 目がない)が見えるが、諸殿の仏像 とともに中国人が 寄進 したもの。左手の建物は観音堂。
No. 068 興 福 寺 開 山堂 と麹 屋 町 (1)
べア ト 1 8 6 4 ( 2 8 ‑ 2 8 )
No. 069 興 福 寺 開 山堂 と麹 屋 町 (2)
明治中期 ( 7 5 ‑ 7 )
No. 070 興 福 寺境 内 上野彦馬 明治中期 ( 5 8 ‑ 3 )
No. 071 大 音 寺 本 堂 べア ト 1 8 6 4 ( 2 8 ‑ 2 6 )
No. 07 2 大 音 寺 の鐘 楼 ベア ト 1 8 6 4 ( 2 8 ‑ 21 )
No. 073 長 崎大 光 寺本 堂 ベア ト ( 6 6 ‑ 2 7 )
No. 074 長 崎 の墓 地 (
75 ‑ 1 3 )
No. 075 悟 真 寺 外 国人墓 地
上野彦馬 明治中期 ( 2 6 ‑ 2 0 )
稲佐の浄土宗情実寺の外国人墓地。キ リシタン時代以 後は在留唐人の菩提寺 ともなったため、開国まで外国人 の墓所 となった。中央 に見える白い塔はギ リシャ正教の 堂で、ロシア人の墓域 にあたる。その右手はオランダ人 墓域であ り、 日本で客死 した出島オランダ商館長デ ュル
コープの墓などがある。
No. 076 長 崎 月見 峠 ( 9 3 ‑ 3 )
No. 07 7 茂木街道 上野彦馬 明治中期 ( 7 3 ‑ 6 )
茂木は、長崎か ら雲仙、熊本、鹿児島へ行 く船便のタ
ーミナル として繁栄 した。また、外国人居留地の保養地
として利用 された。明治 20
年( 1 8 8 7 ) 代 に茂木新道が
開削された。写真は峠の頂上の田上付近の写真 と思われ
る。明治 20年代の写真。
No. 078 茂木
小川‑真アルバム 明治中期 ( 8 ‑ 1 7 )
No. 079 高鉾 島 ( 戸町の入江)
上野彦馬 ( 2 6 ‑ 2 3 )
No. 080 小菅の造船所 と長 崎港 を望 む ( 8 9 ‑ 9 )
明治元年( 1 8 6 8 ) に建設 された小菅修船所 ( 通称 ソロバ ン ドック)である。捲上げ小屋は現存する我が国最古の 煉瓦造建築で文化財に指定 されている。右側 に見える道 は浪の平か ら戸町へ抜ける旧道である。対岸の突き出た ところが現在の三菱造船所の立神工場、その背後の山は 稲佐岳である。
No.081‑No.083 飽 の浦か らの長 崎港
( 6 6 ‑ 1 9 , 6 6 ‑ 2 0 , 5 8 ‑ 1 5 )
No. 084 稲佐海岸 ( 7 3 ‑ 2 3 )
No. 085 丸 山遊廓 明治後期 ( 7 5 ‑ 2 0 )
No. 086 本寵 町商店街 明治中期 ( 7 5 ‑ 8 )
丸山か ら居留地 に通 じる本能町の通 りは外国人向けの 日本人商店が林立 していた。看板はロシア語や英語で書 かれ、金銀細工所、床屋、雑貨屋が見 られる。手前左側 の店は写真館 ( T. TAS HI ROYA) であ り、店頭 にはお土産 写真の見本が並べてある。通 りの外国人はイギ リス人で あろうか。 ( 表紙写真)
No. 087 出雲 町の遊廓
上野彦馬 明治中期 (
73 ‑ 2 7 )
遊廓 のあった出雲町の中心部である。明治中期 の写真 と思われる。道路の中央に水路があ り、両側 に建物が並 んでいる。写真右側 にある 3 階建ての建物が並び、当時 の出雲町の風景を写 している。
絵 葉 書 に見 る長 崎 の景 観
No. 88 三菱造船第一船台ガン トリークレーン ( 9 9 ‑ 1 5 0 )
No. 89 三菱造船第‑ ドック ( 9 9 ‑ 1 3 9 )
No. 90 三菱造船 1 5 0頓槌頭型起 重機 ( 9 9 ‑ 1 4 6 )
明治 42 年 ( 1 9 0 9 ) 150 トン電動型槌頭型ク レー ン が完成 した。英国マザーウェル ・ブ リッジ社か ら輸入 し, 飽 ノ浦の儀装岸壁 に設置 された。 このクレー ンは現在で
も残 されてお り,三菱造船所の貴重な近代化遺産 として, 夜はライ トアップされて いる。
No. 91 長 崎港 外 二 子 島炭 鉱 全 景 ( 9 9 ‑ 1 5 6 )
No. 92 長 崎港 の石 炭 積 込 の風 景 ( 9 9 ‑ 1 2 8 )
長崎港 に於 ける石炭船積み込み荷役 「 天狗取荷役」 風景 である。明治 中期か らの長崎港の風物詩 の一つであった。
人の手か ら手へ と、バスケ ッ トに入れた石炭 をスイスイ と流れ る様 に、機械 のよ うな迅速 さ、正確 さで石炭 を船 積 した。
No. 93 長 崎停 車 場 ( 9 9 ‑ 4 6 )
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原爆で焼 ける前の旧長崎駅舎である。鉄道は明治 30 午 ( 1 8 9 7 ) 浦 上 〜長 与 間が 開通 した。浦 上〜長崎 は明治
37 年 ( 1 9 0 4 ) 第 2 次港湾改良工事が完成 した埋立地 に、明 治 38 年仮駅舎 を建設 し長崎駅 として開業 した。大正元 午 ( 1 91 2 )10 月、 この写真 の新駅舎 に建て替え られた。
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No. 94 長 崎福 済 寺 上 か らの長 崎港 (1) ( 9 9 ‑ 2 4 )
No. 95 長 崎福 済 寺 上 か らの 長 崎 港 (2) ( 9 9 ‑ 2 5 )
現在 の長崎駅一帯 を本蓮寺の裏 山か ら撮影 した もので ある。長崎港の埋立工事は完了 し、既 に、鉄道 の駅舎及 びプ ラッ トホー ムの建設 されて いるのが写真 中央 に見 え る。 この埋立 によ り長崎港の様子が一変 し、美 しい鶴の 港 と言われた長崎港の景観が失われた。
No. 96 長崎本河 内低部水源地 ( 9 9 ‑ 5 2 )
No. 97 長崎西山水源地
No. 98 長 崎税 関
No. 99 長 崎 商 品 陳 列場
正式 には長崎商品陳列所 と言 い、国内外 の生産品を蒐
集 して、公衆 の縦覧 に供す るとともに当該業者の参考 に
資す る 目的 をもって、明治 29 年 ( 1 8 9 6 ) 諏訪公 園入 口に
設立 された。 この地は、江戸時代 に安禅寺の境内であっ
たが、徳川幕府崩壊後 に廃寺 となった。そ の後、我が国
最初の缶詰製造工場、市立長崎博物館等 を経て昭和 23
年か ら日本銀行 となった。
No. 100 長崎県庁舎
No. 101 長崎市役所
No. 102 長崎高等商業学校
( 現長崎大学経済学部) ( 9 9 ‑ 4 5 )
No. 103 茂木長崎ホテル
No. 104 梅香崎橋
梅香崎橋 は明治 40 年 ( 1 9 0 8 ) に架設 された コンク リー トアーチ橋である。現在 の湊公園西端付近である。川は 付 け替え前の銅座川である。端 の向 こう側 の建物は、横 浜正金銀行 ( 現横浜銀行)、 日本郵船長崎支店、大北電 信、長崎郵便局である。 日本郵船 の社旗が立て られてい る。
No. 105 長崎郵便局
海上か ら梅香崎居留地 の長崎郵便局、大北電信社、 日 本郵船 を撮影 した もので ある。長 崎郵便 局は明治 4 年 ( 1 8 71 ) 1 2 月本大工町 に設置 され、梅香崎居留地 8 番地 に 移 転 した のが 明治 8 年 ( 1 8 75 ) 1 月で あ る。 明治 17 年 ( 1 8 8 4 ) には同町1 番地 に新庁舎が完成 した。
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No. 106 長崎大浦三井物産会社前 ( 7 4 ‑ 9 )
No. 107 大浦海岸通 りと松ヶ枝橋 ( 7 4 ‑ 2 7 )
大浦海岸通 りと松ヶ枝橋である。大浦海岸通 りの整然 とした洋館 を見 ることができる。旗の立っている建物が ドイツ領事館である。 当時の松ヶ枝橋の橋台は現在 の松 ヶ枝橋 の下 に残 されている。明治後期の大浦海岸通 りの 風景である。
No. 108 大浦川両岸の町並み ( 9 9 ‑ 1 1 9 )
No. 109 香港上海銀行 と長崎ホテル ( 9 9 ‑ 1 2 5 )
No. 110 長崎ホテル ( 7 4 ‑ 7 )
手前の建物が香港上海銀行長崎支店である。明治 37 年 ( 1 9 0 4 ) に新築 されて、昭和 6 年 まで営業 した。現在 国 指定重要文化財 として現地 に保存 されている。向 こう側 の建物 は,明治 31 年 ( 1 8 9 8 ) に建設 された,豪壮な煉瓦
3 階建ての長崎ホテルである。
No. 111 南 山手外国人居留地 ( 9 9 ‑ 1 2 7 )
No. 112 長崎蛍茶屋 と‑の瀬橋 ( 9 9 ‑ 5 5 )
No. 113 中川 カル ル スの桜
中川カルルス温泉は、明治 33 年 ( 1 9 0 0 ) 旧長崎村 の有 志によ り、中島川上流中川郷の地 を開いて温泉場をつ く り、オース トリアのカルルス温泉分析表 を取 り寄せ、そ の成分 を調合 して温泉に入れ、カルルス温泉 として紹介 した。後 に、安 田伊太郎が独力で整備 して、桜 を植 え、
長崎における桜の名所 とした。
No. 114 中島川 一 覧橋 と光永 寺 ( 9 9 ‑ 7 8 )
No. 115 長 崎市 営本 町 中央公 設 市場 ( 9 9 ‑ 3 9 )
昭和 10 年代の中央公設市場 ( 現メルカ築町)の建物 と街路 を撮影 したものである。
当時の長崎に相応 しいモダンな市場の建物が繁栄 して いた長崎 を表 して いる。荷車や天秤棒 、 また行 き交 う 人々の服装か ら昭和初期の風俗のわかる絵葉書である。
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No. 116 長 崎市 東 潰 町通 ( 9 9 ‑ 4 0 )
現アーケー ド通 りである。写真右側 に「 石丸文具店 ・ 高橋呉服店」の旗が見えている。
石丸文具店は、明治 21 年 ( 1 8 8 8 )9 月、東浜町本通 り に進出。一方、高橋呉服店は大正 10 年 ( 1 9 21 ) に鍛冶屋 町か ら進出してきた。昭和初期の東浜町本通 りである。
No. 117 長 崎潰 町通 り ( 9 9 ‑ 41 )
No. 118 長 崎潰 町 川端 電 車通 と鉄 橋 ( 9 9 ‑ 8 1 )
No. 119 長 崎港 大波 止
No. 120 大波 止電 車通 り
写真は大浦方向へ撮影 したもので、後ろの山は大浦の 鍋冠山である。手前か ら三木屋旅館、小林廻漕店、歯科 等の看板が見えて当時の様子を伝えて くれる。長崎に電 車が開通 したのは、大正 4 年 ( 1 91 5 ) の長崎大学附属病院 下か ら築町間である。
No. 121 丸山遊廓
No. 122 大 徳 寺遠 望
No. 123 大徳寺の藤
明治 44 年( 1 91 1 ) 、 この長崎 を訪れた永井荷風は 『 海 洋の旅』の中に、大徳寺の茶屋か ら変鐘 の音 を聞きなが ら暮れ ゆ く長崎 の町の様子 を 「 何処か らとも‑ 焚鐘 の 響は、長崎の町 と入海 とを… 何時 まで も消えず に一つ処 に漂 っている。」 と書いている。
永井荷風 も長崎をこよな く愛 した一人であった。
茶屋の 「 梅ケ枝餅」 も味がよいと評判。
No. 124 田上 梶 原 茶 屋
No. 125 田上 切 通 し
( 7 4 ‑ 1 4 )
( 9 9 ‑ 1 5 7 )
No. 126 準 提 観 音 の はた 揚 げ ( 7 4 ‑ 1 3 )
No. 127 稲佐公園 (
74 ‑ 1 8 )
No. 128 出雲 町全 景 ( 7 4 ‑ 2 4 )
No. 129 戸 町 カル ル ス の 菖 蒲 ( 9 9 ‑ 1 51 )
No. 130 浦 上 街 道 ( 7 4 ‑ 2 0 )
長崎か ら時津への街道が浦上街道である。時津街道 と もいい、現在 の西坂町か ら始 まる。馬 に大 きな荷物 を乗 せ行 き交 う人々。大 きな松 と段 々畑がの どかである。建 物は藁書 きでな く、二階建ての瓦葺 きである。
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No. 131 稲の種 まき
No. 132 麦の脱穀
農家の庭先で 4 人の男女が麦の脱穀 を行 っている。右 端の男性 と左端 の女性が向かい合 って千歯扱 ( せ んば こ き)で麦 を脱穀 し、中央右の男性は左手 に箕 を持 ち、熊 手 を肩 に担 いでいる。江戸初期は 2 本の竹棒 の間 に穂首 を挟んで引いて脱穀す る扱箸 (こきは し)が使用 された が、江戸 中期 頃か ら写真のような千歯扱で脱穀 した。 こ れで作業能率が飛躍的に高 ま り、昭和 20 年代 まで使用 された。
No. 133 茶 摘 み ( 4 3 ‑ l l )
No. 134 農 家 の 人 々 ( 4 5 ‑ 1 )
No. 135 舟大工 ( 1 0 ‑ 1 3 )
No. 136 木 挽 き職 人 ( 1 7 ‑ 4 5 )
No. 137 牛 車 で 植 木 を運 ぶ 人 夫 ( 1 ト5 3 )
No. 138 水 汲 み を す る女性 た ち ( 41 ‑ 41 )
上水道がなかった時代は、水場 まで女性達が水桶 を待 ち、水汲み を行 うのが 日課だった。水場では女性達の楽 しいお しゃべ りが始 まる。運搬 は手に 卜げ るよ り頭 に載 せ る方が楽で、 これ も生活の知恵である。
No.139
絹 織 りを す る女性 た ち
(40‑48)No.140
野 菜 売 り 明治後期
(10‑41)料亭 の仕入れの風景で、野菜売 りの男 と女性の客は馴 染み らしい。信用第一の商いで、大八車 に篭や桶 をた く さん積 んで様 々な旬の野菜 を届 けた。野菜売 りの法被 に は伊野宇恵 という文字が見える。わざわざ 「 無農薬」な どと言わな くて もよい、いい時代であった。
人気 を得、下駄は重要なファッシ ョン用品 となった。和 服が主流 を占めていた時代、下駄職人の店 には多彩な下 駄が並んでいた。高下駄の重み、娘 のぽ っくりの鈴の音、
桐下駄の感触、 どれ も懐か しい思 い出である。
No.145
傘 屋
No.146
しめ縄 売 り
年末の風物詩 といえる正月用注連飾 りを売 る出店。近 郊 の山村や農家の副業である。注連縄 (しめなわ)は神 聖な場所であることを示すために張 る縄で、藁 を左撚 り に撚 った もの。各家庭では屋内の神棚 に張 るほか、正月 には年神がきていることを示すために、家の廻 りに張 り 巡 らした。桂 ( だいだい) を付 けた注連縄は これ を簡略
No.141西 瓜 売 り
(27‑25)化 したもので、門や屋敷の入 口に門注連 として飾 る。
No.142
しる こ売 り ( 51 ‑ 3 3 )
No.147呉服屋
No.143
篭売 り ( 1 7 ‑ 51 )
No.148玩具店
No.144
下駄職人
(15‑5)下駄 の歴史は古 いが、げたが一般化 して くるのは江戸 時代である。将軍吉宗の頃、三枚歯の下駄が現われ遊女 の履物 となった他 、朱塗 りのぽ っ くり下駄が若 い女性 の
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お もちゃとい う言葉は 「 お玩 (もちあそび)」が語源
で、 「 手 に持 って遊ぶ もの」 とい う意味である。金銭で
お もちゃを買って与えるよ うになったのは、比較的新 し
く近世 になってか らである。明治 に入 ってか らも、専門
の玩具店は極めて少なかった。写真 の玩具店 には、太鼓
に刀、弓、面、凧、独楽、笛 といった昔懐か しいお もち ゃが並んでいる。
No.149
乾物屋
No.150
蚊 帳 と女性 た ち
No.151
相 撲
No.152
虚無僧た ち
明治中期
(51‑9)小川一美アルバム
(6‑46)(7‑50)
小川一美アルバム
(44‑19)虚無僧は古 くは腰 に坐臥用の薦を巻いていた ことか ら 薦僧 (こもそ う) と称 され、深編笠を被 り胸 に袈裟 をか け、尺八 を吹いて門付けをして喜捨 を請い、諸国を巡っ たO禅宗の一派である普化宗 ( ふけしゆう)の僧の別称 である。彼等の多 くは有髪の武家の浪人で、諸国行脚の 途 中、不法者 を捕 まえる役 目を蒙 り、往来 の 自由、芝 居 ・相撲 な ど入場御 免 な どの特権 が与 え られて いた。
「 助六」な ど歌舞伎や尺八の音曲な ど芸能 にもその伊達 姿を流行 させた。
No.153
暫結 い
(18‑55)No.154
角兵衛獅子 明治中期
(51‑113)No.155
花魁道 中 小川一美アルバム
(44‑21)No.156
神 風 楼 ( 横浜 ・高島町)
(51‑29)15
No.157
風 雨 の 中の娘
(51‑95)横な ぐりの雨の中を、番傘に高下駄 をはいて着物 の裾 を翻 しなが ら小走 りに行 く女。一 一これは浮世絵のテーマ であった。歌磨の 「 牒雨」や春信の 「 風流やつ し七小町」
の‑コマを思い浮かべることができよう。雨はちょっと した非 日常を生み出す。 どこか艶やかさを感 じさせ る演 出写真である。
No.158
傘 を さす娘
No.159
老夫婦
白髪に髭を生や した老夫婦の肖像。幕末か ら明治維新 を生き、開国された激動の時代、変わ りゆく日本の近代 化 の様相 を見てきたその瞳の輝きは、深い達観 と人生の 年輪 を感 じさせる。
No.160
田舎の子供た ち
(38‑65)長崎兼学附属圃書館固着写真◎収集 藍公開
1 :古写真の収集
長崎大学附属 図書館では、昭和 63、平成 3、平成 7年度の文部省全国共 同利用 図書資料 ( 大型 コレクシ ョ ン)購入経費、及び平成 5‑ 6年度教育研究学 内特別経費 によ り幕末明治期 の古写真 を購入受入 し 「 幕末 ・明 治期 日本古写真 コ レクシ ョン」 を構築 してきましたが、平成 10 年度 にも文部省経費の配分 を受け、上野彦馬 並び にべア ト関係の古写真 を収集 しました。
現在 の所蔵数は 5400点 を超え、国内有数のコ レクシ ョンとなっています。
2 :目録類の発行
全国共同利用 のため、下記の目録 を作成 し全国の大学図書館その他 に配付 しました。
・幕末 ・明治期 日本古写真 コレクシ ョン目録 A4判 214p 1996年 2月発行
・幕末 ・明治期 日本古写真 コレクシ ョン目録 ( 補遺版) A4判 80p 1998年 3月発行
・幕末 ・明治期 日本古写真 コレクシ ョン目録 第一集 A4判 168p 1998年 3 月発行
3 :展示会の開催
古写真 の収集が始 まって後、地元長崎にお いては、平成 3 年 2月、平成 4年 10月、平成 6年 11月 に長崎 大学 の図書館 内で、平成 8 年 2 月には浜屋百貨店で古写真展示会 を開催 しました。
この他 、平成 7‑ 9 年度 には国立大学 図書館協議会 の公 開事業 として、本 コ レクシ ョンの中か ら精選 した 100点余 の古写真等 による 「 全国巡回古写真等資料展」が、札幌、仙台、東京 、金沢、京都、福 岡な ど全国 11 カ所 の国立大学等で開催 され好評 を得 ました。
4 :CD‑ ROM 等 の作成
資料電子化 の一環 と して、平成 7 年及 び 9 年 には放 送教育 開発セ ンター ( 当時) によ り古写真 を収載 した レーザーデ ィス クを制作 しました。
そ の後、本学工学部 岡林研究室 に於 いて 、CD‑ ROM を制作 し、検索 システム の研究等 に利用 しています。
5 :イ ンターネ ッ トでの公開
収集 した古写真 を広 く公開 し、また資料 の電子化 を図るために、平成 9‑ 10年度 に文部省の科学研 究費の 配分 を受 け、所蔵古写真データベース を構築 して図書館 のサーバ に搭載 し、イ ンターネ ッ ト上で 自由に閲覧す る ことができるよ うにな りました。
下記 の UR L にアクセス し、 「 キー ワー ド 」 「 地域 」 「 整理番 号」な どか ら検索す る ことがで きます。
現在 、約半数 に解説文 を付与 していますが、海外 か ら の アクセ ス に も対 応す るた め、英文 のタイ トル を付 し、
解説文 も英文化 してあ ります。
UR L ht t p: / / oJ dphot o. l b. nagasak i ‑ U. acJ P
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二千. I ; ‑ ̲ =. 三 . IL ∴
▲鈴木真一アルバム
▲アマチュア作品集アルバム
▲ 日下部金兵衛アルバム
編集 ・発行 長崎大学附属図書館
〒8 5 2 ‑ 8 5 2 1
長崎市文教町 1‑ 14
℡ 0 9 5 ‑ 8 4 7 ‑ 1 1 1 1
印 刷
( 有)三省堂 印刷所
長 崎市 日蘭交流 400 周年記念事業
西暦 2000 年ながさき阿南陀年
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在 が さき 西 暦2 0 0 0 年 岡 蘭 陀 串
長 崎 市 (復 元出島 を メイ ンにブ リツクホ ール .市立 博物館等 、市 内各施設 で 開催 )
大出島展 ( 2000 年 4 月 1 9 日 〜6 月 1 5 日)
長崎回際帆船まつ り ( 2000 年 4 月 19 日 〜27 日)
ロイヤルコツセル トへボウ管弦楽団演奏会 ( 2000
年2 月 1 5 日)
ロッテルダム ・フィルハーモニー演奏会 ( 2000 年 4 月 19 日)
国際みなとまつ り ( 2000 年 7 月)
= J‑ボル ト国際医学: Jンポ= jウム ( 2000 年 11
月)この他 、長崎市 は もちろん、平戸市、佐世保市 、ハ ウステ ンボス、西彼町、長崎 オ ラン ダ村 にお いて も多彩 なイベ ン トが予定 されて います。
ながさき阿南陀年推進協会
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