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Seishi YAMANO(Received,October31,1989)

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(1)

教育音楽の諸問題(II)

山 野  誠  之*

(平成元年10月31日受理)

On the Problems of Musical Education(Part II)

Seishi YAMANO

(Received,October31,1989)

まえがき

 本論は,『教育音楽の諸問題(1)』として,長崎大学教育学部教科教育学研究報告第4 号(昭和56年)に発表した論文の続篇である。(1)においては,主として「音楽教育の理 念」の形成を試み,それに対応する「領域論」,および「教材の価値論」を展開した。

 本論においては,この研究を踏まえ,小学校や中学校における音楽教育の具体例を基に,

「授業論」の展開を試みることとしたい。

 本論において引用されている実践事例やそれらに関する考察は,各種の音楽教育研究会 における音楽教師との交流によって得られたものである。この研究に素材を提供して下 さった多くの音楽教師の方々に,あらかじめ謝意を表しておきたい。

皿 授業論

 (a)音楽の授業において教師が作る「子どもとの人間関係」

 (1)1(d)において,音楽教育に関わる人間関係について理念的に追求したのであるが,

ここでは具体例から入ることとする。

 ある研究集会に,音楽の実践を携えて参加した小学校教師が,テープによる指導事例を きびしく批判され,「……それでは私の実践は問違っていたのでしょうか」と涙ながらに訴 えていた光景を,今も忘れることができない。「……私はこれほど子どものことを思い,子 どもにすべてを捧げ,全力で音楽の授業をやってきたのに」と,自分の実践への同情を求 めているように思われた。

 また別の研究会では,中学校の教師が提出した実践テープ「ママに捧げるうた」に批判 が集中した。この曲は,「ぼくをしあわせにしてくれたお母さんに,きっと恩返しをしたい」

というような内容を,悲しくさみしい曲調で歌わせようとするものであった。実践者の説 明によれば,「親と子の対応が少ない現状だからこそ,このような教材で(母親のことを)

考えさせることも必要ではないか」という認識に立つ授業実践であった。討論の中では,

*長崎大学教育学部音楽科教室

(2)

「この実践は,子どもの心情の表現ではなく,教師が作り出した大人の心情に子どもをの めり込ませている」という批判が多く出された。

 以上の2例から音楽教師が授業を行う時,教材選定の段階から,すでに一定の心情的背 景に支配されがちであることが分かる。また,この心情が時として子どもの心情とずれて いたり,子どもの心の揺れに通じた心情でない場合も多い。従って教師は,自己の音楽的 心情に子どもの心情を同化させようとすべきではなく,自らの心情的背景を見つめ直す操 作を迫られるのである。子どもと教師は,人間関係において特別の関係にありながら,な お互いに独立していなければならない。独立した心情にあってこそ,教師は子どもをよく 見つめ,子どもの内面に起こる音楽的活動の兆し1)を敏感に感じ取ることができるのであ

る。

 教師が音楽の授業にアクティヴに取り組むための心情的基底は,音楽人としてある種の 音楽に心を打ち込んでいる(ある種の音楽が本当に好きである)ことによって培われる。

このことは,子どもが「先生はよほど音楽が好きなんだなあ!」と思うことにつながり,

子どもの側が音楽の授業に積極的に取り組むための心情的基底を培うことへもつながる。

このことはまた,音楽教師はある意味では,真摯な音楽学徒でなければならない理由でも ある。このようにして培われた心情的基底をさらに大きく育てるものは,音楽的表現につ ながる「語りかけ」であり,音による直接的な語りかけ,すなわち音楽的に集中した「い いピアノ」または「いい範唱(範奏)」である。

 音楽的にあいまいな「語りかけ」からは,あいまいな歌声しか返って来ないのである。

この意味では,授業の中で子どもに指揮やピアノ伴奏を行わせることが,教師の意図とは 反対に,教師に対する音楽的信頼感を失わせる恐れもある。すなわち,その根本原因は,

教師が「音楽的語りかけ」を放棄したことによるものである。子どもと共に創る音楽の授 業を支える「心情的基底」を大切に育てようとするならば,教師は現在の力量に立って「自 分の指揮」あるいは「自分のピアノ」,「自分の歌」を作っていかなければならない。これ を確立した上で,子どもどうしの人間関係に配慮し,技術的な面の予備指導を行い,子ど もに分担させることが望ましい。

 (b)教材の取り扱いに対する権限と授業への準備

 教材分析をふまえて教材を選び取った後,授業への準備作業に入る訳である。この段階 で特に重要なことは,教材を子どもに渡す前に,その教材が教師の心と体にすっかり取り

こまれ,心と体をくぐりぬけ,客観化されるまで,歌う活動や弾く活動を行うことである。

 授業の準備としての「教師自身の歌う活動」には,教師が注意すべき次のような問題点

が指摘できる。C.M.v.ウェーバー「花冠のうた」2)を例に採ろう。「花冠のうた」の2部合唱

部分(原曲)には,「アガーテのまわりで輪になっておどる」と書かれている。この曲を教

材として授業で使おうとする時,このことを知っていることは,・子どもの表現活動を活発

に展開させようとする教師にとって不可欠の事柄である。,なぜなら,動きを想像すること

によって,縦の拍子感から横に揺れる拍子感への変化(対比)をより自然に感じ取ること

ができるからである。演技者の動きと同時に, sch6ner g瓢ner Jungfemkranz という歌

詞のリズム(付点音符)に目を向ければ,「横に揺れるリズム感」がどんなに大切な表現の

基礎であるかを直観できるであろう。この曲を終始「縦のリズム感」「棒立ちのリズム感」

(3)

で歌い通すだけに終わる授業実践を想像することは耐え難いことである。

 一方,同じ作品から教材化された「狩人の合唱」3)には,大幅に編曲が施されているもの がある。このような場合には,教師は当然のことながら,授業に入る前に,原曲のどの部 分がどのように変更されているか注意深く調べ,教材批判を行うべきである。ちなみに,

手許にある編曲の例で指摘して見よう。①調とテンポの変更,②前奏の半終止への変更,

③合唱におけるアクセントの省略,④フェルマータの音符の変更,⑤後奏におけるアウフ タクトの省略,⑥付点リズムの消滅,⑦1小節の延長。これらはすべて教材として必然的 な,かつ教育的に意味を持つ変更であるのかを一度問い直しておくことが肝要である。な ぜなら,私たちはウェーバーの『魔弾の射手』から教材を借用させてもらっていることを 忘れる訳にはいかないからである。

 一般に西洋音楽の古典から借用した教材は,作曲家が芸術作品として厳密に表記した原 曲を,教育目的に応じて改編したものであることが多い。教師はまず,作曲者からその教 材を使用する権限を譲り受けなければならない。そのためには,まずその原曲が芸術作品 として直接その教師に与えられなければならない。原曲が真に与えられない限り,この芸 術作品に対する直観は生まれないのであり,教師の感性はその働きをなし得ないからであ る。従って,原曲との関係においてとらえられない教材は,実践の対象として明確に規定 されない単なる現象(教材のようなもの)にすぎないと言える。その教材を原曲との関係 においてとらえ直し,子ども・若者の表現形態へ向けて再編する時,真の教材が生まれる のである。そして教師が,教材の取り扱いに対するすべての権限を獲得するためには,西 洋古典の枠を越えた「オリジナルの教材」を創り出す必要があろう。

 授業における子どもの学習形態がどのようなものであれ,鳴りひびくべき(聴き取るべ き)「ひびきの目標」を,教師はあらかじめ設定しておくべきである。この「ひびきの目標」

は,楽譜によって明らかな場合もあるが,楽譜に明示されない場合や発見が困難な場合な どがあるので,綿密な教材分析が必要である。小学校の教材「おぼろ月夜」4)の場合,「ひび きの目標」が第3フレーズの後半「……そよふく」の部分にあることを把握するためには,

この部分にIVと景の和音が用いられていることを簡単に分析しておくことが必要である。

また,中学校の合唱教材「風になりたい」5)では,Codaにおける「和声的ひびきの目標」

は,∫の前の完全終止II616VII6(V7)1,すなわち吻ゆ>「……そよかぜに」の部分に設 定されるべきことを発見すべきであり,現象としての∫(IVレ1)に惑わされてこれを見失 わないようにすべきである。鑑賞の学習形態においても,耳で聴き取るべき「ひびきの目 標」を設定することは大切なことである。パイプオルガンの演奏「小フーガト短調」6)にお

ける16フィートのペダルや4フィートのカプラーは,楽譜には通常明示されないので,教 師はレジストレーションに関する事前聴取を注意深く行う必要がある。

 ピアノ伴奏に関する事前研究としては,①子どもの歌が入る1拍前で視線を子どもに向 け,同時にブレスをする訓練を積んでおく,②借用和声の設定を適切に行う,③ひびきの ポイントをピアノで支えながら子どもの歌をリードする訓練,などが求められる。授業に おける教師のピアノは,子どもの声の「伴奏」であると同時に,一種の「指揮」でもある。

(c)授業の展開

ここでは,音楽の授業における導入・展開・結び(まとめ)という形式的な論述は他の

(4)

文献に譲り,いくつかの実質的な課題について論じたい。

 授業を計画するに当たり,まず第一に明確にすべきことは,カリキュラムの流れの中で,

その授業時問において子どもが採るべき学習形態の種類と順序,それぞれの学習形態に要 する時間の配分である。様々な条件を考慮し,専門職としての力量においてこのことが決 定されると,それぞれの学習形態の範囲で,教師は何をどこまで指導できるかが決まる。

たとえば,「歌いこませる中で,歌唱表現のいくつかの課題を達成させる」ことを目標とし て,「高い声が苦しそうに聞こえる」という現象に出合った場合,教育の現場で起こりやす い「現象から対症療法への直行」,すなわち,「歌いこませることを中止して発声指導へ直 行」するという,技術主義の弊害をあらかじめ防ぐことができるのである。すなわち,歌 う姿勢の保ち方や,発声の要領についての短い一言による注意だけを与え,むしろ「苦し そうに聞こえる部分のテンポを整えるだけで,表現目標に近いひびきを達成すること」も 可能となる。

 このように,一般教育としての音楽教育においては,学習テーマや題材に応じて,学習 形態の流れをバランスよく設定することが求められるのである。

 第二に,授業の展開は,印象を鮮明なものとするために,各学習形態においてできるだ けダイナミックに,かつドラマティックに行われることが求められる。このような授業展 開を可能にする内的条件は音楽的創造力と教育的情熱であり,外的条件は適当な設備と十 分な教室空間である。これらの内的・外的条件が十分に満足な状態から始められる授業は まれであるが,それぞれの条件を高める努力によって,それだけダイナミックな授業展開 の可能性が高まるであろう。

 合奏「茶色の小びん」7)を例に取ってみよう。合奏では,言葉の意味内容の呪縛から解放 されて,直接に「音楽的なるもの」「音楽の在り方(モード)」と関わることができるのだ から,この曲の場合,スウィングする内感を呼びさます「リズム運動の学習形態」を十分 に行う必要がある。通常は好ましくない態度として取り締まりの対象となるような動き,

例えば「消しゴムに糸をつけて振り回す」あるいは「少し大き目のボールを片手で水平に 回して指先で受ける」などの遊びが,音を創る音楽行為から離れているとしても,この教 材の場合には,十分に音楽的なる学習形態(リズム運動)として,授業の中に位置づける ことができるのである。当然のことながら,このような学習形態においては,十分な教室 空間が必要とされる。また,楽器編成の問題としては,第1拍に来る低音に電子オルガン のペダル(足鍵盤)を用いるよりも,スウィングの動きに似たベローイング奏法によるバ ス・アコーディオンを使用する方が,指導上の一貫性を持たせる上で有効である。言うま でもなく,適当な設備と指導目標に応じた選択が要求されるのである。この教材をダイナ ミックに指導する内的条件としては,教師の創造性によって「この教材のよさ」すなわち,

フレーズにおける「スウィングする部分」を発見することである。ある実践の中で,「3段 目の 茶色の小びんは のところが一番好き」と言った子どもの感覚は鋭い。教師はこの 感覚を,子どもが汗をかくほどのダイナミックな合奏によって豊かに展開してやりたい。

 小・中学校の教材として使用される合唱曲にはポリフォニックなものは少なく,和声に

よる様式的束縛の中で授業展開がなされているのが現状である。多くの例の中から1曲を

示せば「大地讃頒」8)がその典型である。ある教師の数年にわたる継続的実践では,内声部

の表現の質を高めるという目標をかかげることによって,様式的制約のもとにおいても,

(5)

各声部のダイナミックな表現指導が可能であることを示している。「へいわな一だいち よ一」の部分にふくらみ(<>)を与える指導に,音楽的な不自然さが感じられると しても,プロセスの一こまとして位置づけることができ,学習形態をダイナミックに展開 しようとする子どもの活動は,教育的に十分な意味を持っているのである。

 歌唱の学習形態として,F.シューベルト『ます』9)を教材とした中学校の実践例を検討し てみよう。実践者の説明によれば,教材選択の視点をこの曲のドラマティックな性格に求 め,その展開を可能にする伴奏のあり方を研究し実践したものである。ここでは,教師は 子どもが歌うテンポやリズム,歌い出す前一瞬のタイミングに問題があると気づきながら,

テープを聴くとただやかましい伴奏で子どもを追いたてるような印象を与えている。なぜ ならこの教師の場合,まず「ドラマティック」のとらえ方が不十分であると言える。音楽 について「ドラマティック」と言う時,それは「ますの動き」の文学的な表現そのもので はなく,これに基づいてシューベルトが意図した「音のドラマ」の性格を意味する。その 音には,歌詞の音声が形作るリズムも当然含まれる。曲全体を見通した場合,中問部「こ

      

ころあせりて……つれあがれり」が最もドラマに富んでいることは明瞭である。ピアノ伴 奏部にあっては,ディナーミクの変化と,特に左手のスタカートがドラマの内容である。

この内容が,曲全体の中でどんな意味を持っているか考察すること,すなわちアナリーゼ によって,真にドラマティックな伴奏が可能となる。ついでながら,歌い出しの部分で子 どもの入りがもたつく原因は,ピアノ伴奏と同時に行われる指揮(目の表情と呼吸によっ てなされる)がまずいためである。

 鑑賞の学習形態を採る場合には,教師のピアノによる事前学習が効果を発揮するだろう。

オペラやオラトリオなどのような,声楽を含む長い曲の場合には,①序曲から入って,声 が出た後しばらくの間を聴かせる,②歌唱教材部分とその前後を聴かせる,③全曲の中か ら,特徴的な部分を何個所か選んで聴かせる……などの方法があろう。いずれにせよ,い つの日か,子ども達が自らの意識性において全曲を聴き,あるいは演奏に参加する日が来 ることを強く期待しつつ授業を進めることが望ましい。

 ここで,授業における音符(または音)と和音の取り扱い方に関する2,3の問題に触 れておこう。

 まず,音符の長さの取り扱いについて,実践例に基づいて検討してみよう。ある研究会 で,歌唱教材『みんなでおどろう』10)を共通曲とした研究が行われた。テープ検討の中か ら,「リャ・リャ」の四分音符を,あたかもスタカートが付いているかのごとく,短く歌っ てしまうのがよいか悪いか,という疑問が出された。この問題は,一見取るに足らぬ問題 のように見徹されがちであるが,表現の目標を具体的に設定しようとする際には,おろそ かにできない問題である。これに対する大ざっぱな回答を与えるとすれば,およそ次のよ うになる。一般に,実際に歌われるべき音の長さは,書かれている音符すなわち見かけの 長さと一致しない場合があり,その実質的な長さは表現目標によって規定される。従って 楽典の知識だけでは実践の役に立たないのである。理論の側から言えば,楽典を実践的に 組み直す作業を行うべし,という課題が与えられたことになる。この曲の前奏の四分音符 は,はずむ気持をこめて弾く時には,余韻のあるスタカートになるだろう。この曲の中心

「くまをおっぱらった……」から「……きつねはにげてった」までは,切れ目のない長い

6小節フレーズであり,作曲者の意図を生かせば,ことさら短く切るべきではなかろう。

(6)

      「きょうは」の四分音符をどのように歌ってほしいと考えるかは教師の苦慮すべきところ。

子どもに任せるのが正しいのかも知れない。

 しかし,この教材を音の長さの面からいくらせんさくしてみても,表現へ向けて真に子 どもと出合わせることはできない。それよりも,日本語のもつきびきびとしたリズム感を 活かすことと,フレーズの長さの変化による近代的なフレーズ感こそ,子どもに与えられ るべき表現目標であり,この教材を歌うことによって高められる大切な音楽的内容であろ

う。

 要するに,音の長さの取り扱いは,歌詞との関係,フレーズの区分との関係,教室の音 響特性による音の余韻との関係などによって条件づけられ,表現目標の美的内包によって 規定される個々の音の特性に応じて決められるのである。このように,「音の長さ」に関し て,楽典的には柔軟に,美学的には厳密に対処することが,授業をダイナミックなものと する条件の一つとして重要なのである。

 「音の高さ」については,述べるべきことがあまりにも多いので,授業展開に関わるいく つかの問題に限定して述べることとする。

 「音の高さ」に関して教師が留意すべき最も重要なことは,「子どもの耳をいかにして活 発に働かせるか」ということである。現在最も広く用いられている音律は平均律であるこ とは言うまでもない。教育の現場の音楽活動も全体として平均律に支配されている。学習 形態のいかんにかかわらず,耳の働きにおいては器楽様式に属する学習活動と見徹される 理由はここにある。従って,平均律を前提として授業を行う限りにおい,ては,よく調律さ れたピアノに耳を集中する活動が活発に展開される必要がある11)。鍵盤楽器を含む合奏の 授業やピアノ伴奏を含むアンサンブルの指導においては,平均律に合わせるという耳の活 動を優先しなければならないことは当然である。しかしながら,ダイナミックな授業展開 という観点から考えた場合,個々の音をピアノの音に合わせるだけでは,子どもの学習活 動としては,機械的で単調なものとならざるを得ない。そこで指摘しておきたいことは,

平均律の中で唯一の純正なひびきであるオクターヴ(完全8度)を正しく取ろうとする耳 の働きを高めることの重要性である。その理由は,①オクターヴが音階構成の基本的枠組 みであること,②他の歴史的調律法との共通点であること,の2点をあげることができ る12)。特に②に関しては,ア・カペルラ(無伴奏合唱)の授業を行う際に必要となる5度純 正,3度純正の体験への橋渡しとなる発展的意味を持っているので,教育的には特に重要

である。

 俗に言う,いわゆる「オクターヴがとれない」という現象は,授業に限らず,プロのオー ケストラなどでも時々起こることである。この現象は,主として1オクターヴを純正に合 わせるための要領が習慣づけられていないために起こる。1オクターヴを純正に合わせる 操作は,一般に考えられている「低い音と高い音を合わせる」ことではなく,「低い音の第

2倍音を上の音に一致させる」こと,またはその逆に「上の音を低い音の第2倍音に一致

させる」ことなのである。従って,ピアノ伴奏つき合唱教材に取りくむ子ども達が働かせ

るべき耳の操作手順は,①低音部の音を正しくピアノに合わせる,②低音部の声音によっ

て生まれる第2倍音・第4倍音・第8倍音……をすばやく耳でとらえる,③この倍音に各

自の声(1オクターヴ上の音,2オクターヴ上の音……)を一致させる,のごとく行われ

なければならない。ここで作られた音高は,ピアノの音高とほぼ一致しているはずである。

(7)

 平均律でない歴史的調律の体験も,完全5度と3度のひびきの多様なあり方を知るため に,学校教育のどの時点かにおいてきちんと体験させておきたい。このことは,音楽史の 実像を耳でとらえる絶好のチャンス13)を提供すると共に,アンサンブルの能力を高めるの

に役立つ。

 このようにして高められたオクターヴや完全5度,長・短3度に対する感覚は,当然の ことながら和音に対する関心を強めるはずである。合唱における長3和音・短3和音・属 七の和音・転調など,述べるべきことは多いが,ここでは借用属七の和音を,教師の伴奏 が落とすことのないように注意を促すだけにとどめよう。〔例:W.A.モーツァルト『魔笛』

より「魔法のすず」14)の「ゆかいにするよ」の部分など〕

 以上,学習形態と教材に即した授業展開についていくつかの見解を述べたが,これとは 異なる真に創造的な学習活動が各地で試みられている15)。アメリカにおける「サウンド・ア ンド・サイレンス」の方式もその一つである。筆者は,数年前,ハンブルク市近郊の小学 校で,真に創造的な授業展開の一コマを見ることができた16)。そこでは教師は,楽譜として 与えられた教材を使わない。子どもに対する呼びかけや働きかけを,言葉だけでなく歌や 勢作で行う。子どものからだをリズムをもってたたきながら色々なゲームを展開する。子 ども一人ひとりが教室空問を十分活用し,教師が自分自身の音楽的身振りによって,子ど もに直接に働きかける授業を見て,日本の音楽教育の現状との大きな違いを痛感させられ たのである。

 「リズム運動」を伴う授業の展開は,日本の場合,独立した音楽教育実践として継続的に 行われる条件に乏しく,大抵の場合,運動会における集団演技などへ向けてなされる場合 が多い。ある教師は,運動会の集団演技について報告した中で,子ども達の偶発的・即興 的な「動作のずれ」によって生まれた「波のうねりのような表現」を,「一糸みだれぬでな いよさ」ととらえている。子ども達の表現の評価は別として,ここで考えるべきことは,

集団による即興表現のよさを,どのようにして子ども一人ひとりのものにするかというこ とである。音楽教育の根本理念に立ち帰れば,リズム運動表現の実践によって生み出され た「ずれ」の面白さと同質の面白さを,再び音楽の授業の中で系統的・発展的に体験させ ることが引き続き求められる。すなわち,大衆音楽や民族(俗)音楽の中に多く見られる

「ずれ」17)一西洋音楽の場合にも,オーケストラやピアノ演奏など,演奏の実際において は,意識的なレベルから無意識的なレベルにわたって,少なからず発見できる一が,表 現の世界をどれほど多様なものとし,個々の表現をいかに個性的なものとして深めている かを子ども達に発見させ,実感させる場を作り出すことが,音楽教師に与えられた大きな 任務となる。このような学習の場がカリキュラムの中に確保されて初めて,音楽教育は,

鋭い感受性と深い認識を一体的・同時的に育てることのできる教科としての自律性を回復 することができるのである。

 音楽の授業を通して「子どもと子ども,子どもと教師の人間関係を密にする」18)ことの音

楽的意味が追求されなければならない。この意味で,特に中学校の音楽の授業における教

師と子どもとの音楽意識の断絶は,一般的に救い難いほど大きくなりつつある。この現状

を伝える実践報告は枚挙にいとまがない。たとえば,「中学生には自分達の歌いたいものが

あり,たいていはポピュラー,マスコミの中の音楽である」や「子どもの個性を生かすた

めに最大限の努力をする必要があると思うが,子どもはフォーク調やポップス調を好んで

(8)

歌おうとする。このことをどのように理解し,どのように指導すべきか,一歩踏みこむに 至らない」などがある。

 このような音楽意識の断絶は何によって引き起こされたのであろうか?そのよって来た る根本原因は,「音楽」概念の歴史的変化にあると言える。現代の人間社会において,「音 楽は芸術である」という意識が薄れつつあり,とりわけ現代の若者にとって,「音楽は音の 環境の一部である」という意識が支配的となりつつある。ロマン主義的音楽観の衰退はも はや押しとどめることは不可能であり,歴史的必然であるとさえ考えざるを得ない。この 衰退の端緒は,音楽が複製可能な芸術と化し,「今,ここで」という一回性を失ったことに あり,もはや後戻りはできないからである。M.シェーファーの「サウンド・エデュケーショ ン」構想は,このような認識から生まれたものである。

 若い世代の音楽感覚を理解するためには,まず,子どもをとりまく「音環境」を全体と して把握し,分析・考察することから始めなければならない。音環境を全体としてとらえ る作業も簡単ではないが,音楽も当然その中に含まれる。自然音,生活騒音,情報機器の 音声,バックグラウンド・ミュージック,コンサートの音楽,音楽の再生音,自分の演奏 する楽器の音や声など,できるだけ広範囲に検討すべきであろう。子どもをとりまくこれ らの音環境を分類するには,形式的ではあるが,「場」による分類が妥当であろう。すなわ ち,子ども達の生活は,「家庭」「学校」「遊び」いう3つの「場の意識」によって,心理的 に区分されている。「家庭」においては,テレビの音声が圧倒的に多く,「学校」において は教育用音楽あるいは芸術音楽の一部を教材化したものがほとんどであり,「遊び」におい ては,ゲーム用ソフトの発する電子音が支配的となりつつある。従って,「学校」の場にお ける音楽だけは,他との関係が薄くなりつつある。一方,「家庭」と「遊び」は場として重 なる部分があるだけでなく,内容的にも心理的にも関係が深くなりつつある。事実,ファ ミコン・ソフトの音声(音楽)がレコード化・CD化され,子ども達は随時,自由にこれ を聴く(聞く)ことができるようになり,実際に多くの子ども達が個人所有の再生装置で 楽しんでいるのである。

 このように,音楽の授業において子どもと教師の間に一般的に存在する音楽意識のずれ は,子どもの音環境の場における内容的・心理的な断絶にその根本原因があることがわか

る。

 子どもの内面を知り,若い世代の音楽感覚を知ることは,鋭い観察や多くの調査,分析 の作業,これらに基づく深い考察を要し,教師にとっては大変困難な課題である。しかし,

上述のような「音楽意識のずれ」が歴史的にも,現実的にも不可避的に起こるものならば,

教師の側からこの溝を埋める努力がなされなければならぬことは明白である。子ども達の 好む音楽が大衆音楽やゲームの音楽などであったとしても,その個性的な音楽表現モード に教師の側から接近し,彼等のモードを話題にし,C Dを共に聞くなど共感できる部分で 積極的に結びつき,表現欲求の内容と心理を理解することを始めなければならない。現代 の音楽教師に求められる資質の一つは,このためのエネルギーと積極性である。

 最後に,「音楽療法的な機能を持つ授業展開」に触れておかねばならない。一つのクラス

を構成する子ども達は,心身に障害を持つ者を含め,一人ひとりが何らかの問題をかかえ

て授業に臨んでいると考えてよい。また,クラス全体としても,「明るいクラス」,「暗いク

ラス」といった雰囲気をもっているものである。このように様々な心のレベルの中で行わ

(9)

れる音楽の授業は,知らず知らずのうちに一定の「心理的機能」を営んでいるのであり,

この機能を音楽教師は一定の好ましい方向へと活用することが望ましい。音楽心理学や音 楽療法における基本的な原理であるr同質の原理」19)は,注意深く取り扱えば,音楽の授業

においても応用できる原理であり,音楽教育技術として位置づ けることができる。大衆音 楽やゲーム音楽の一部を授業に導入するという一見大胆な授業展開も,心理的側面からの きわめてオーソドックスな実践として位置づけることができる。そのためにも,カリキュ ラムは余裕を持ったものである必要がある。実践報告の中によく見られる「音楽の授業の 中で思いやりの心を育てる」や「音楽活動を通して協調性を養う」などは,音楽→思いや り,音楽→協調性,という観念の直行が見られることが気にかかる。音楽という教科の授 業の中で行わなければならないことは,「思いやり」や「協調性」を生む心の背景を音楽の 授業の中で音楽実践によって創り出すことではないだろうか。この意味において,音楽療 法の原理に基づく授業展開が存在意義を獲得しつつあるのである。音楽教育の第二義的理 念の早急な検討が望まれる。(未完)

1)拙稿:教育音楽の諸問題(1),長崎大学教育学部教科教育学研究報告第4号,1(c)主要な表現形態 pp.89−90参照.

2〉C.M.vonWeber l DerFreischutz,DritterAufzug,Nr.14Volkslied〈Chor>.,。.B窺吻観8勿%

:Wir winden dir den Jungfemkranz(C.F.Peters).

3)C.M.von Weber:Der Freischutz,Verwandlung,Nr.15Jagerchor,砿枷n6κhoγ:Was gleicht wohl auf der Erden(C.F.Peters).

4)『新版音楽科教育法』音楽之友社,1989,p.97(小学校6年の共通教材).

5)喜志邦三作詞,磯部 傲作曲,『中学生のためのクラス合唱曲集1』新学社,1989より.

6)」.S.Bach:Fuga G moll,BWV578(C,F.Peters).

7)『新訂小学生の音楽④』音楽之友社,昭和64年度用,pp.34−35.

8)大木惇夫作詞,佐藤 真作曲,『中学生のためのクラス合唱曲集1』新学社,1989より.

9)『シューベルト歌曲集』より「名歌集」No8.

10)S.Y.マルシャーク原作『小さなお城』より,丸山亜季作曲.

11)拙稿「実践的音感教育論」(長崎大学教育学部人文科学研究報告第21号,1973,pp.33−34).

12)ピタゴラス調律(5度純正)においてもミーントーン調律(3度純正)においても,オクターヴ関

 係は常に純正である.

13)Germanische Nat孟onalmuseum(Mmberg)では,歴史的調律法による古いオルガン(ポジテイー  フとレガール)を用いた,16世紀〜18世紀頃のオルガン作品の演奏を聴くことができ.る.

14)W.A.Mozart:Dle Zauberflδte,Erster Aufzug,8.Finale,Chor der Sklaven.Das klinget so

 herrlich,das klinget so sch6n !.

15)M.シェーファーの「サウンド・アンド・サイレンス」の方式もその一つである。

16)FrauGleimによる1年生のクラス授業(GrmdschuleL昼tjenmoor,Norderstedt,Schleswig

 Holstein).

17)民俗音楽においては,同一音高のピッチがわずかにずれて重なり合う場合が多く見られる。同一旋

       おめりぷ

 律の入りの「ずれ」は,日本の雅楽における退吹きの奏法に見られる。韓国国楽院において演奏され  る雅楽では,玄琴の入りに対して杖鼓がわずかに遅れて打たれる印象的な奏法が聴かれる。

18)拙稿:教育音楽の諸問題(1),長崎大学教育学部教科教育学研究報告第4号,1981,pp.90−92参

(10)

 照.

19)iso−principle,音楽療法で用いられる基本的原理・方法。すなわち,その人がとらわれているムード  に合った音楽をまず与え患者がそのムードにあきるのを待って,徐々に反対の期待されるムードの音  楽に移行させる方法である。(平凡社『音楽大事典』1,PP.465−466「音楽療法」の項目より).

参考文献

 ロジャー P.フェルプス『音楽教育研究入門』(山本文茂,加藤富美子,佐藤みどり,浜松敦子共 訳),音楽之友社,1984

 小学校音楽教育講座10『音楽教育用語事典』,音楽之友社,1983  r小学模学習指導要領』全文と改訂の要点,明治図書,1989  『中学校学習指導要領』全文と改訂の要点,明治図書,1989  『高等学校学習指導要領』全文と改訂の要点,明治図書,1989

 教員養成大学小学校課程用『新版音楽科教育法』,教員養成大学音楽教育研究会・編,音楽之友社,1989  中学校音楽指導資料第1集『日本音楽の指導』,文部省,1973

 ウィリアム・ブレイド・ホワイト『ピアノ調律と関連技術』,全国ピアノ技術者協会訳,音楽之友社,

1967(日本語版)

 音楽大事典,平凡社,1981〜1983  西洋人名辞典,岩波書店,1982(増補版)

参照

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