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自 己 表 現 と し て の 作 文 の 指 導

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(1)

自己表現としての作文の指導

1挑発としての題材づくり

安河内義 己

題材は︑子どもの生活に求めまい

1 題材づくりの立場

 自己表現としての作文の題材づくりに当たって︑私たちが基本

的に認識していなけれぱならないことがある︒

 それは︑かつての生活綴り方の時代の子どもたちに比して︑表

現︑とりわけ書くに値する生活が西いまの子どもたちの世界には

ないということ︒もう一つは︑子どもたちが生活の主体者になり

にくい世界に生きているということ︑である︒

 書くに値する生活とは︑目的的に︑必要な相手に向けて︑自分

の内なる自己を表に現わさないではいられない︑文字どおり自分自身が生き生きと活性化させられる生活のことである︒そういう

生活の中に︑子どもは表現するに値する自己づくりを進めていく︒ しかし︑子どものいまは︑そういう生活を子どもが求めても︑

なかなか許されない︑というのが現実である︒ 例えば︑小学校六年生で︑﹁生きる﹂︵谷川俊太郎︶という詩に

出合う︒

生きているということいま生きているということ

それはのどがかわくということ

木もれ陽がまぶしいということ

ふっと或るメロディを思い出すということ

くしゃみすること

あなたと手をつなぐこと

 例えば︑この詩がいうような︑真に﹁のどがかわくという﹂体

験を子どもはもつことができるか︒否︑である︒コイソを入れれ

ば︑たちまち自動販売機にのどはうるおう︒そして︑子どもたち

の大方は︑そのためのコインにもまたこと欠くことがない︒

 例えば︑﹁木もれ陽がまぶしい﹂体験が︑いまの子どもに真に

ありえるか︒これも︑否である︒そもそも木もれ陽を見させてく

れる自然林が子どもの身辺にはない︒仮にあったとして︑子ども

たちは日常的にそういうところに遊ばなくなって久しい︒

 子どもたちは︑こういう日々を生きているのである︒

 だから︑表現するに値する自己づくりができないでいる︒

 だからまた︑自己実現することも手に入れられないでいる︒

しかし︑生活綴り方の時代︑確かに子どもは生活者としての子

安河内一自己表現としての作文の指導

(2)

 長崎大学教育学部教科教育学研究報告第二十五号

どもだったのであり︑その彼らが働きかけたり︑働きかけられた

りする外界の事物は︑確かに彼らの手の届くところにあったので ハこある︒

 しかし︑だからといって︑私たちは時代を逆行させることはで

きない︒では︑どうするか︒学校でこそこういう生活づくりをす

るのである︒

 学校をこそ︑子どもの自己表現の場とするのである︒

 学校をこそ︑子どもの自己実現の場とするのである︒

 学校は︑学校の教育目標をもっている︒その学校の教育目標の

下に︑学年の︑さらに︑学級の教育目標が策定されている︒

 この教育目標の︑子ども一人ひとりへの具現化に向けての営み

こそが︑真に学校の教育の営みであることを再確認するのである︒

 そうとなれば︑自己表現としての作文の題材は︑あるがままの

子どもの生活に安易に求めてはいられない︒あるがままの子ども

の生活から安易に拾ってくるわけにはいかない︒

 積極的に︑学校の教育機能の総力をあげて︑書くに値する子ど

もの生活をつくり出す︒そして︑つくり出した生活のまさにそこ

のところに題材を見いださせていくのである︒

 そういう生活をもったとき︑子どもは︑請求されなくとも︑自

ずからすぐれた表現者となる︒

 題材は︑子どもの生活に求めるのではない︒子どもの生活を求

めて︑つくり出すのである︒

2 題材づくりの視点

視点1 自己づくりとその表現の過程を存分に生きられる題材

 自己表現としての作文の実践から見えてきたことがある︒        二      〆 一つは︑題材は︑学習者・子どもが自己づくりをするための媒材であるということ︒ 二つは︑題材は︑自己表現の具体となるものである︑ということ︒ 三つは︑題材は︑題材との間の交流が進められているその間にあっては︑学習者・子どもの生活の具体そのものである︑ということ︒ そういう題材とするためには︑題材づく似にあって︑次のような条件の︑厳しい適用が必要である︒

 学習者・子どもの体験となる活動が保証できること︒そ

して︑そのことが学校の教育目標の下に︑意図的︑計画的︑

継続的にできること︒

 このことから︑例えば︑教育計画にない︑

材などが除かれることになる︒ 単なる思いつきの題

 一回︑一度で完結するのでなく︑試行錯誤が許される継続的で︑発展的な活動が保証できること︒

 このことから︑例えば︑今まで多く題材としてきた行事

とかクラスマッチとか︶などが除かれることになる︒ ︵遠足

 子ども一人ひとりが個別にではなく︑

活動が保証できること︒ 共同的︑協同的な

(3)

 このことから︑例えば︑夏休みの間の個人的体験︵海水浴に行

ったとか︑ディズニーランドに行ったとか︶などが題材から除か

れることになる︒

 その活動のみが単独でなされるのではなく︑他の活動︵他

の領域とか他の教科における活動など︶と積極的に関連し

ながら進められる活動が保証できること︒

 このことから︑たとえば︑関連指導︑連動指導︑

う形で︑幅広く題材を得ることができる︒ 合科指導とい

 活動の対象の単なる受容に終始するのではなく︑

対象にアタックしていく活動が保証できること︒ 活動の

 このことから︑例えば︑特別な題材を求めるというのではなく︑

各教科︑各領域でやっている日頃の学習そのものこそが有効な題

材だ︑ということになってくる︒

文化の再生ではなく︑

できること︒ 文化を再構成していく活動が保証

 このことから︑例えば︑子どもの活動のない学習や子どもの参

画しない学校行事︵今のところ多くの入学式や卒業式など︶が題

材から除かれることになる︒

視点2 多様な自己表現ができる題材

 題材は︑学習者・子どもが︑その題材と付き合った結果として︑

 安河内日自己表現としての作文の指導 学力︵国語科では︑言語活動力︶が身につくものでなければならない︒ 学力としての言語活動力には︑多様な自己表現への道を開くものとして︑次のような力が求められる︒   ↑   ↑ したがって︑ ・どの方向に向けて自己づくりを進めるか︑自己づくりの方向を発想し︑決定することができる力︒・決定した自己づくりの方向に沿って︑自己づく      しざ トりの目的と内容を構想することができる力 ﹁・自己づくりの構想に沿って︑るための技術力︒ その具現化を進め

       多様な自己表現ができる題材とは︑単にいろいろ

な文種で作文ができる題材をいうのではない︒自己表現の方向を

どう決めるか︑自己表現の目的と内容をどう構想するか︑そして︑

それらのことをどう文章化するか︑などについての学習がいろい

ろに体験することができる︑そういう題材づくりが望まれるので

ある︒ 具体的には︑それは次の表1のようになる︒

(4)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告第二十五号

 自己づくりの 方向・構想・技術

自己づくり

の方向 自己づくり

の構想

づ虚 づ現

く構 く実

りの りの

に世 に世

散文 韻文 世界

ま世

的発想 的発想 を変え

とをあえり

るの

22  21  20  19  18  17  16  15 14 13 12 11 10 9 8 7 6 5

自己づくり

の技術記録文→

報告文︐ルポ文→

説明文→解説文→

意見文→論説文

評論文

論文川俳短詩

柳句歌

物語民話SF

伝記ドキュメント

小説脚本随想

     ①生

自己表現の方向・構想・技術と文種(ジャンル)

表1

 この表1は︑私たちに︑次のことを示唆してくれる︒

・どの形式で作文させるか︑文種の選択に当たっては︑子ども世

 界のいまとこれからについての︑深い洞察をすべきこと︒

・文種の偏りをなくすこと︒例えば︑④ルポ文︑⑨評論文︑⑯民

 話︑⑰SF︑⑲ドキュメントなど︑これらの実践・研究は︑極

 端に少ない︒

視点3 為して甲斐ある自己表現ができる題材

 為して甲斐ある自己表現だ︑と学習者・子どもが強く実感する

のは︑それによって目に見える成果が得られたときである︒

 その場合︑その自己表現はなによりも言語によってなされるわ

けだから︑そのような成果がもたらされるのは︑言語のもつ機能

が十分に発揮されてこそ︑ということになる︒

 言語の機能には︑次の六つがある︒

① 言語を調整する︒

②もの・ことを伝達する︒

③文化を創造する︒

④ 人を動かす

⑤人やもの・ことを育てる︒

⑥ 人と人︑人ともの・ことを結ぶ︒

 これらは︑コミュニケーションを図る際の︑

たときの言語の働きである︒

 これに対して︑認識を図る際の︑

働きとして︑次の五つがある︒⑦思考する⑧認識する⑨保存する という点に着眼し

という点からとらえた言語の

(5)

* これに︑先の②と③の機能が加わる︒︑

 今まで︑多くの国語教室は︑コミュニケーションを図ることの

方よりも︑認識を図ることの方を大事にしてきた︒

 これからは︑コミュニケーションを図ることの方を大事にして

いくべきである︒それは︑認識を図ることの方を軽視する︑とい

うことではない︒反対に︑いままで以上に︑認識を図ることの方

を大事にするということである︒

 なぜなら︑よりよいコミュニケーショソを図ろうとすればする

ほど︑よりよい認識を図ることが求められるからである︒

 このことを︑分かり易くしたのが︑次の図1である︒

 図1は︑コミュニケーションの機能は認識の機能によって支え

られ︑認識の機能はコミュニケーショソの機能を支えるという目

的を得て活性化していくことを表している︒

 為して甲斐ある自己表現ができる題材づくりに当たっては︑そ

の発想の根源のところで︑図1中の①から⑥までの言語の機能を

いかに十分に活性化させるかを︑常にふまえていることである︒

次のように︒

 ① どんな場で︑どんな面から︑どんな言葉を︑どのように調

  整することになる題材か︒

 ②どんなもの・ことを︑どんな人に︑どのように伝達するこ

  とになる題材か︒

③どんなもの・ことを︑どこに︑どのように創造することに

  なる題材か︒

④どんな人の︑どんな点を︑どんなところへ︵に︶動かすこ

  とになる題材か︒

⑤どんな人の︑どんな点を︑どんなところへ︵に︶まで育て  ることになる題材か︒⑥ どんな人と人とを︑または︑どんなもの・ことともの・こ ととを︑または︑どんな人ともの・こととを︑どんなに結び つけることになる題材か︒

︻︻: :::

⑥⑤④

育動ぶてか

るす

r一一一一一一一一一一一一一『② 伝 達 す  る 一1 コ

③創造する :1︸:: ︸:::::

冒一冒一一一胃

しF_____ 一一一一一一

 :ミ: ユ : : 二

1ケ

l l } 1 シ

:  ヨ: ン 1: 1 の1:機li能iiI

言    語    調    整     ①

.一一一、一一.一一一一一一一一¶一、……….、_.、.....」1...

      つ

⑨     ⑧  、   ⑦      : 保      認      思      認 存      識      考      識 す      す      す       の る      る      る      機       能        :

一_____一一一一一_一一__一一_一一一一一一一_一一一_一一___一一一一一__一一__一一一一___一」

自己表現の目的

図1

*図中︑①﹁言語調整﹂から②〜⑥へ向かう→印は︑②〜⑥が機能する

 過程に︑常に﹁言語調整﹂の機能が働くことを示す︒

安河内一自己表現としての作文の指導

(6)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第二十五号

 以上︑題材づくりの視点1・2・3を明らかにした︒

実際に題材づくりを進めるに際しては︑この三つの視点を︑

の図2のように組み合わせて適用していく︒

       視点2

視点3

視点 1 ①〜⑥⑦〜⑩⑪〜⑭⑮〜⑳

①②③

④⑤⑥

図2 題材づくりマトリックス

 縦軸に置いたのは︑自己表現の目的を析出するための視点3で

ある︒ 横軸には︑自己表現の媒材を選定するための視点2を置く︒

 そして︑縦軸と横軸の交差するところに︑視点2・3を適用す

ノ\

る際の条件として働くところの視点1を置く︒

 そうすると︑視点1・2・3の網の目をくぐって策定されてく

るのが︑図中︑右上に置いた﹁題材の具体﹂である︒

二 これからは︑子どもの生活を求める題材を

1 峰地光重の生活綴り方の場合

 峰地光重氏は︑その著﹃文化中心 綴方新教授法﹄︵文化中心

新教授法︑第五巻︒一九二二年刊︶によって︑宮坂哲文氏をして︑

 峰地氏のこの書︵注︑上掲書をさす︶において﹁生活指導﹂

ということばがはじめてつかわれたとみなすべきだろう︒

(『

地光重著作集16﹄けやき書房一九八一刊︶

と言わしめた小学校の教育実践・研究人である︒

 氏は︑﹁生活指導の職能として﹂︑﹁表現のための生活指導﹂と

﹁生活のための表現指導﹂の二つを指摘している︒

 児童はどちらかといえば︑その生活を至って放漫な態度で過

ごしている場合が多い︒そこでその生活を指導して︑価値ある

生活を体験するように導かねばならない︒生活指導をぬきにし

ては綴方はあり得ないのである︒従来綴方の成績が思わしく上

達しなかったのは︑この生活指導ということが殆ど顧みられて

いなかったことが︑槌かに一因をなしているのである︒

 それでその生活指導の方法として二つの面がある︒一はより

よき綴方を産むための生活指導であり︑二はその綴方の上に表

(7)

れたる生活を指導して︑更によりよき生活に導き入れようとす

るものである︒︵前出書一三︑一四頁︶

 そして︑氏は︑その生活を次のようなものだとし︑

教育の上位概念として位置づける︒

生活 収得︷        直       間

 表 内

言文動思

栗字作索接 接       

    読聴実日        常        経     書聞験験

これを国語

︵聴  方︶

︵読  方︶

︵綴  方︶

︵話  方︶

 わたしはこのように﹁生活﹂を上位概念としてすえ︑﹁聞く﹂

﹁話す﹂﹁読む﹂﹁書く﹂の各領城を従属概念として位置づけて

いる︒つまりここでは︑聞く︑話す︑読む︑書くという作用は︑

生活を伸ばし︑高め︑ゆたかにするためのもの︑いいかえると︑

それらの国語教育の各領域は︑生活を掘り起す耕転機だという

ことになる︒

      ︵前出書一八︑一九頁︶

 このように国語教育の上位概念として位置づけられる生活は︑

峰地氏によれば次のような論理をもつものであった︒

安河内自己表現としての作文の指導 A﹁生活﹂とは︑生命が対象と交渉をもつその相である︒      ︵前出書四四頁︶ 人間の生命が対象にはたらきかけ交渉するその相は︑どのような形をとるのか︒ 心理学では︑それを︑一理会︵認識︶二態度 三技術︵表現︶の三段にわけて考えている︒︵略︶理会と態度は︑これを一括して︑思想と考えることができ︑技術は表現というこになる︒だからはじめに思想があって︑つづいて表現が生まれてくる︒つまり思想が先行して︑そのあとで表現がつづく︒あんがいそのことが徹底しないで︑意味のないたんなる表現指導に終始して︑ムダ骨折りをしている向きがある︒︵略︶      ︵前出書四六頁︶ だから綴方︵作文︶教授の上では︑まずゆたかな思想を︑子どもの頭脳の中に︑育てあげることが大事であって︑文体や文型や︑文字語句の問題は︑その次のことである︒︵略︶      ︵前出書四七頁︶

 筆者は︑ここで氏の言う

  ﹁生活﹂とは︑生命が対象と交渉をもつその相である︒

については︑氏と全く同じ考えをとる︒しかし︑

  思想が先行して︑そのあとで表現がつづく︒

については異論をはさみたい︒

 初めに表現することを求めて止まない自己︵11思想︶があって︑

つづいて表現が生まれてくるという︑それはそのとおりである︒

だが︑その表現からまた思想が生まれてくる︑そして︑また︑そ

の思想が表現を生み出すという︑思想と表現のダイナミックな相

(8)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第二十五号

互補完の関係が︑書くことの実際には見られるからである︒ そして︑これがために︑書くことの楽しみも︑したがってその

意欲もまた倍加するという︑作文教室の事実がある︒ したがって︑作文過程の大筋のところでは氏の言に沿いつつも︑

自己表現となるかならないかのポイントのところで︑作文の方法

と過程にもう一工夫の必要を求めざるをえないのである︒

 氏は︑続けて言う︒

 B﹁生活﹂とは生活が育つ︵教育の︶場である︒ ここに麦の種子がある︒それはその種子だけでは育たない︒

自然と労力と資本︵肥料など︶がくわわって︑はじめて育つ︒

それと同じように︑子どもの生命にも︑そうした外的な条件がともなわなければならない︒その外的な条件というのは︑教師と教材と児童︵友達としての児童︶である︒これらの三者が︑

からみあって学校社会をつくり︑学校生活がなりたつ︒それがとりもなおさず教育の場であり︑生活の育つ場である︒      ︵前出書四八頁︶

 C﹁生活﹂は上位概念であらねばならない︒ ︵略︶それを一口にいえば︑﹁生活﹂そのものが︑教育︑教授

の目的概念になるということである︒ 生活綴方は︑日本のプラグマティズムだといわれている︒

︵久野収︑鶴見俊輔共著︑﹁現代日本の思想﹂︶けれどもプラグマティズムでは︑﹁実利実用﹂というものが︑上位概念となって

いて生活はむしろ下位概念︵従属概念︶になっている︒      ︵前出書五七頁︶

 さて︑ここまで氏の言をたどってくると︑問わねばならないこ

とがある︒

 いったい氏の言う﹁生活﹂とはいかなるものか︑と︒ その生活は︑日常的に繰り返される衣食住の維持活動︑いわば

単なる生命維持活動︑などではあるまい︒

 デューイの言う﹁活動して止まない﹂﹁自己表現して止まない﹂

存在としての子どもの︑まさにその本領発揮としての生き生きと

生命の活性化する生活でなければなるまい︒

 それは︑筆者によれば︑先の図1で言ったところの六つの生活︑

つまり︑⑥⑤④③②①

言語調整をする生活

もの・ことを伝達する生活

文化を創造する生活

人を︑もの・ことを動かす生活

人を︑もの・ことを育てる生活

人を︑もの・ことを結ぶ生活

である︒ これらの生活の実の姿は︑生活としてそこに具体的になされて

いるところの活動自体である︒活動であるから︑それは︑それ自

体の目的・内容・方法にしたがって展開する︒ それゆえ︑その目的・内容・方法のところに︑教師が有用なく

さびを打ち込むことによって︑氏の言う︑

  ﹁生活﹂とは生活が育つ︵教育の︶場である︒

  ﹁生活﹂は上位概念であらねばならない︒

(9)

とすることが可能となってくる︒

 しかし︑教師が有用なくさびを打ち込むことができないような︑教師の手を離れたところでなされる︑例えば︑単なる生命維持の

ための生活であっては︑氏の言は虚妄とならざるをえない︒

 因みに︑氏の実践による作文の題材は次のようである︒

子供の郷土研究と綴方

序文口絵︵原色版︶

露草林檎のある静物

雪あそび耕す人と馬

もらい風呂

コーヒー茶碗

一 動物篇

  くびきりばった

  ふくろうの子

  ハンザケ

  五位さぎ

  みの虫とじぞうさん

  ぶとと火縄

  鳥の巣の研究

  鮎の研究

尋尋尋尋尋尋高尋 一三四三一五一二 尋尋尋尋尋尋尋尋

六五五二五一三二 目  次

ひばり牛と人間

植物篇︑木ノハ

とげぬき草

松の実

むじんそう

ひら茸自然篇

春の雪雲と山

メタソガス

お月さま大山と鷲峰山

大風遊戯篇

おとし玉

しょうじ

専向ヨ古 五一

尋二尋五

尋二

尋六尋二

尋五

尋六尋三

尋六

尋三

高二

尋三

尋二

尋三

ノ\

しゃぼん玉    尋四

高足       尋五

上灘校かるた    尋五

箱庭       尋四

三明寺横穴

   三明寺児童倶楽部

労働篇梨の袋

仕事の調べ

わらじこんにゃく製造

御飯たき石屋道具を作る

田植僕達の理科室 尋六尋四尋二尋五尋六高二高一

    米田理科少年団

社会篇小学生刃傷事件について

         尋五

弔辞

けんくわ

石原先生卒業式送辞

卒業生答辞 尋五尋四尋六高一

高二

交通機関に関する研究

         高二

器物篇かがみ

コドモジビキ

トケイ真守の刀

そろばん 尋二尋一尋一尋六

尋四

せんそうのてんらんかい

         尋ニグラブ      尋四

吸玉       高一

人事篇

お母さん僕の家の話

丹毒山で子を生んだ人

ほうどく電気に打たれる

義章のこと

石山の話寒修行

悪日三徳山

お母さん

尋尋尋高高尋尋尋尋高尋尋 六六六二二六四二六一六二

︵前出書三七〜四〇頁︶

安河内一自己表現としての作文の指導

(10)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第二十五号

ご覧のように︑いくつかの題材1﹁鳥の巣の研究﹂︑﹁鮎の研究﹂︑

﹁上難校かるた﹂︑﹁三明寺横穴﹂︑﹁仕の調べ﹂︑﹁僕達の理科室﹂﹂︑

﹁弔辞﹂︑﹁卒業式送辞﹂︑﹁卒業生答辞﹂︑﹁交通機関に関する研究﹂

ーを除いて︑教師の手の届かないところの子どもの生活が題材

である︒ しかし︑そうであるのに︑

  生活とは生活が育つ︵教育の︶場である︒

   ﹁生活﹂は上位概念であらねばならない︒

 と︑なぜ言えたか︒︵筆者の管見によれば︑先の﹃子供の郷土

研究と綴り方﹄に著された実践によって︑氏はこの言を確信され

たらしい︒︶ それは︑例えば︑次の綴り方事例を見れば︑容易に納得される

ことである︒

   石屋道具を作る       ヤ  ヤ  ヤ 一月十三日︑僕が学校から帰って見ると父は一生懸命でふいごをなおしていた︒

僕が着物を着がえていると︑父は︑﹁ちょっと用がある﹂と僕をよんだ︒

 僕はすぐ外に出た︒

   ヤ  ヤ  ヤ       ヤ  ヤ  ヤ       ヤ  ヤ  ヤ 父はふいごをなおして︑消炭をビクで一ぱい盛ってふいごの側に置き︑ふいごの

前に腰掛を置き︑その右側にはバケツに水を八分目程汲んで置いていた︒そしてそ

       ヘ  ヤ    ヤ       ヤ  ヤのあたりには︑のみや矢や金を切るのみ︑其他のみを鍛えるのに必要な道具をたくさん置いていた︒僕が行って用を聞くと︑父は︑﹁くどから火種を二つ三つ持って      ヤ  ヤ  ヤ来い﹂といった︒僕は火入れに火種を入れて持って行った︒其の火をふいごの口に

置いて︑其の上に消炭をのせて︑ふいごを父が押した︒見る間に火は起こった︒

   ヤ  ヤ      ヤ  ヤ  ヤ 先ずのみ三本焼いた︒僕の家のふいごは小さいので一度に三本より多くは焼けな

      ヤ  ヤ     ヤ  ヤ  ヤ  ヤ       ヤ  ヤい︒十分間ばかりすると︑のみはようかんのように焼けた︒父は真赤になったのみ を竹の筒にさして︑先ほど出した大玄翁の上にのせて︑︵金じきがないので︑これを金じきに代用した︶︒金槌で鍛え始めた︒間もなく三本すんだ︒一本は四角次は六角︑その次は丸刃であった︒のみの刃は尖っていてはいけない︒それはあまり尖      ヤ  ヤっていると︑長くもたないし︑又よくこぼれる︒鍛えたのみを水につけるには︑つけ方がある︒やたらにズブンとつけてしまってはいけない︒水につけ方が悪いと︑金の質が悪くなる︒其の金の質を見分けるのは︑金の色である︒水につけた後︑ト         ヤ  ヤカゲ色の出るのが︑のみとしてよく仕上ったものである︒これを普通﹁金が出た﹂という︒最初の二本はうまく金が出たが︑最後の一本はうまく金が出なかった︒父    ヤ  ヤは最後ののみは再び焼き直した︒焼き具合は僕には細かいことは分らないが︑金に赤味がさした時であった︒その時水に入れた︒今度はうまく金が出た︒その問に︑七分角で一尺の棒︵これで矢をこしらえる︶と︑新に買って来たのみを二本火の中に入れて︑ふいごをブーブーと吹いていた︒ふいごを使うのは面白い︒押すと向うの弁がぴちゃんと閉まる︒そして火がブーと燃え上がる︒引くときもぴちゃん︑ブー       ヤ  ヤ      ヤ  ヤと出る︒これを何回も繰り返している中に︑のみが焼けた︒こののみは二本とも金が出た︒

﹁さあ︑今度は矢だ﹂︵矢とは石を割るに使うものである︶

 父は石磯槌を持って来た︒ 僕はヤットコで︑熔けかけたような鉄棒をはさんで︑大きな雨石︵これも金じきの代用︶の上においた︒先ず一所を切り︑次の其の裏を切り︑次にその横︑次に其

の裏と四度廻して︑ちょうど切れるように︑初めから見当をつけて切る︒此の金を       ヤ  ヤ  ヤ  ヤ切るのは最後の一打がむずかしい︒それは最後に台の石を︑熱くなった金切のみで

    ヤ  ヤ       ヤ  ヤ切ると︑のみが痛むからだ︒矢をきって︑少しの間ふいごを押したらのみが焼けた︒

  ヤ  ヤこののみは二本とも金がうまく出た︒それがすむと焼けた矢の仕上である︒そこで

父は切ったばかりの矢を︑引き上げて鍛えて︑りっぱに矢を作った︒僕はその間︑たえずふいごを押していた︒かくして︑前述の棒で矢が五本出来た︒最後に古いの

みで︑大きな矢を一本こしらえた︒

 僕の家は石屋と百姓をかねている︒父は細工が好きで︑素人の石屋もやっているのである︒      ︵高三 種部 功︶

      ︵前出書四一︑二頁︶

(11)

 このように︑この作品が如実に語っているが︑前述した︵二頁︶

ように︑生活綴り方の時代︑確かに子供は生活者としての子ども

であり︑その彼らが働きかけたり︑働きかけられたりする外界

の事物が︑確かな手応えをもって彼らの手の届くところにあっ

たのである︒

 氏の言は︑こういうところを踏まえて発せられているのである︒

 しかし︑氏の言の導くところは︑だからといってこの次元のと

ころで満足しえるものではなく︑やがて︑氏は﹁生産教育﹂を提

唱していくことになる︒

 ﹁生産教育﹂とは︑概略︑次のようである︒

三 物づくり︵生産︶を中核とする郷土学校の経営

 A ﹁生産の本質と生産教育の実際﹂の目ざすもの

  子どもに﹁生産の本質と生産教育の実際﹂︵峰地光重著︑昭和

 八年︑厚生閣発行︶と﹁上難小学校の教育﹂︵上難小学校著 昭

 和七年四月 同校発行︶の二種の本がある︒この本はいずれも︑

 物づくり︵生産︶を中核とする郷土学校経営の実践のすがたを

 そのままあらわしている︒まずその﹁生産の本質と生産教育の

 実際﹂の目次を概観しておこなう︒

1 生産の本質と生産教育

 一 財・生産・生産教育 二 生産教育史論・生産教育の目

的 三 生産消費・価値の発生 四 生産教育価値論 A経

済的価値 B社会的価値 C教育的価値 五 郷土教育と生

産教育 六 朝近の生産教育運動 七 生産教育に対する非  難 一 組織論 二 組織と教育 三 生産要素論と教育 四 労働論及び労働訓練 五 各科教授の生産化 六 協同組合 ︵産業組合︶及び協同組合の経営 一 生産組織の概観 二 農場の経営 三 工場の経営 四  出版部の経営 五 家事裁縫部の経営 六 購買部の経営  七 販売部の経営 一 日本生産教育運動の概観 二 日本生産教育運動の実際   千葉県厳根小学校の生産施設系統案   ︵以下 十六校例省略︶       ︵前出書九一︑二頁︶ 皿 組織の理論と生産教育経営皿 我が校の生産組織と工場経営W 日本生産教育運動の展望

そして︑氏は言う︒

およそ﹁文章技術というものは︑生活技術と密着しつつ︑生活

を切りひらく一つの耕転機とみるのである︒したがって綴方は

現実の生活と同じように︑目的意識をもつものでなくてはなら

なかった︒そして文章は︑生活を言語によって行なう確実な文

字表現︑あるいは再経験である︒表現もまた生活であるという

わけはじつにかかるところにある︒綴かたの前に掃除という生

活事実があり︑綴方の後に綴方は再び生活に却って実践をもつ

わけである︒

 環境からつかみえたいろいろな認識が︑再び環境に能動的に

安河内一自己表現としての作文の指導十一

(12)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第二十五号

 働きかける︒つまりここで︑実践・認識・再実践・再認識の過

 程がくり返される︒そしてそれが志向する方向は︑社会・生産

  ・個性の三つの分野にわけて考えることができる︒

      ︵﹃峰地光重著作集17﹄七三頁︶

 そのとおりである︒そして︑私たちは︑そのことを教師の手の

届く子どもの学校生活に求めなければならない︒

2 筆者の言う取材カード・モザイク方式の場合

 ω主として教科の学習生活を求める題材

事例1 単元﹁想像を広げて︵2089年の世界︶﹂小五︵福岡県

   須恵第一小学校︑三徳屋典子教諭実践 一九八九年︶

     太陽を食べようとしたごみお      高田 定幸

 ﹁バンザーイ︒ついに︑ごみを食べるかいじゅう︑ごみお︑ごみたろー︑ごみ子

が完成したぞ︒バンザーイ︒﹂

ある博士が︑ごみを食べるかいじゅう︑3びきを作り上げた︒実は今︑地球がごみ

でいっぱいで︑ごみがすてられないので︑この︑ごみを食べるかいじゅうを︑作っ

たのだ︒ 最初ゴミは︑地下にすてられていたが︑どんどんゴミをすてる︑量がおおくなり

わずか20年で︑地下のすて場は︑なくなった︒ので会議が行なわれて︑

﹁ゴミをさばくにすてる︒﹂

と決まった︒

 さばくに決まったのはいいが︑ごみをすてる量はどんどんふえて︑やっぱり5年

でさばくは︑まんぱいになってしまった︒このままでは︑ごみをすてる場所がない

ので︑会議がおこなわれて︑こんどは︑﹁海にすてる︒﹂

と決定した︒でも︑一時は︑ゴミをすてる量もへったが︑急にふえていって︑海は︑       十二どんどん魚がすまなくなって︑ごみの海になった︒だから︑30年で海もいっぱいになってしまった︒地下もだめ︒さばくもだめ︒海もだめ︒となると︑残るのは︑うちゅうだ︒だから︑博士はごみを食べる︑かいじゅうを作ってきたのです︒ このかいじゅうのたん生によって︑地球の人はたいへんよろこんだ︒ さっそく︑博士は︑かいじゅうを︑だまいた星というだれもいない星におくることに︑決定した︒ ついに︑そのかいじゅうを︑だまいた星におくるときがきた︒かいじゅうがとびさったとき博士がこういった︒

﹁おうい︒ビみを食べるかいじゅう︑かいじゅうよ︒お前たちは︑地球の人のため

に︑ごみをたくさん食べるんだぞ︒分かったか︒﹂

それを聞いていた︑ごみを食べるかいじゅう︑

﹁はい分かりました︒たくさんごみを食べます︒﹂

と言い返して︑はるか︑かなたへと飛び去っていった︒

︵承︶

 だまいた星へ行くと中︑くいしんぼうのごみおがこういった︒

﹁はらへったな︒﹂

するとごみたろーが︑

﹁もう少しのしんぼうだ︒地球の人が︑どんどんごみをすてているよ︒﹂

﹁へえ︒もう︑ごみをすてているの︒﹂

﹁すてて︑いるさ︒だって︑地球のごみの量はすごいもの︒﹂

とそのとき︑ごみ子がおこったように言った︒

﹁あんたたち︒そんなにぺちゃくちゃはなしていて︑だまいた星は︑ごみでいっぱ

いになるわよ︒﹂

﹁そうか︒なら急ごう︒﹂

と言ってごみおたちは︑ちょう特急でだまいた星に向かった︒

 だまいた星についた︑ごみおたちは︑ごみの多さにびっくりしていた︒

﹁やっぱり︑ごみたろーの予想はあたっていたね︒ちょう特急で来てよかったなあ︒﹂

またごみ子がおこったように言った︒

(13)

﹁あんたたち︑感心しているのも︑いいけどはやくごみを食べないと︑︑こみがどん

どんきて︑ごみの星になっちゃうわよ︒﹂

﹁あっそうか︒﹂

二人は︑といって︑ものすごいはやさで︑ごみをたいらげていった︒

 次の年もまた次の年も︑そのまた次の年もごみおたちは︑.こみを食べつづけた︒

でも︑いくら︑ごみを食べつづけても︑ごみは︑なくなることはなかった︒地球の

ごみは︑毎日毎日︑休むことなくこのだまいた星におくられていた︒そして︑20年

目︒

﹁ああ︑もう食べられない︒﹂

と︑苦しそうにいって︑ダウンした︒

﹁もうだらしがないわね︒私だけでも食べてやる︒﹂

といって︑むきになって食べだした︒

﹁ああ︑やっぱり︑私も食べられない︒﹂

と苦しそうに言った︒

 三人が動けなくなったとき︑一人の地球人がやってきて︑

﹁けっ︑だらしねえかいじゅうどもだ︒まったく︒ごみを食べないと殺すぞ︒﹂

とおこったように言った︒ごみおたちは︑こわくなり︑あわててごみを食べだした︒

︵転︶

 博士が︑20年ぶりに︑だまいた星に.こみおたちを︑見にいった︒

博士は︑おどろいた︒

﹁あっ︑お前たち︒﹂

それは︑博士の百倍から千倍は︑ある︑それは大きな︑大きなかいじゅうが立って

いた︒

﹁お前は︑.こみおか︒どうしてそんなに︒﹂

ごみおは︑むししていた︒

﹁ああ︑地球のごみをすてる︑量が︑多いために︑こんなすがたに⁝︒﹂

はかせは巨大化したかいじゅうにおどろいた︒

﹁ああ︑はらへったな︒﹂

﹁ちょっくらおれは︑となりの星をくってくるぜ︒﹂

といって︑となりの星を食べはじめて︑それは︑おそろしいすがただった︒ごみお

安河内一自己表現としての作文の指導 たちはつぎつぎにまわりの星を食べまわった︒そして︑ますます巨大化していった︒ ついに地球とだまいた星の二つになってしまった︒

﹁もう食べるものがなくなった︒この星でも食べるとするか︒﹂

といって︑だまいた星をかじりはじめた︒

﹁まだ︑ものたりないねえ︒地球でも食べるとするか︒﹂

といって地球を食べようとした︒はかせは︑おどろいて︑

﹁ま︑まってくれ地球を食べるのだけは︑やめてくれ︒﹂

﹁ふん︒﹂

とむしして地球へむかった︒地球は︑まっ黒な星だった︑それは︑ごみぶくろの色

だった︒ごみおは︑

﹁わー︒おいしそうな星﹂

といってたいらげてしまった︒

︵結︶

 何日か︑たってごみおは︑

﹁太陽が食べてみたい︒﹂

と思った︒だから二人に相談してみると︑

﹁太陽は︑とてもあついと言う話よ︒﹂

と言った︒でも︑ごみおは︑

﹁太陽を食べてみたくはないか︒﹂

と聞くと︑二人は︑

﹁食べてみたい︒﹂

と言った︒そして太陽に行くことにした︒

太陽に近づいた時︑ごみおが︑

﹁太陽って︑あついんだね︒﹂

﹁やっぱりみんなのうわさは︑あたるね︒﹂

ごみおたちはあついけど思い切って︑つっこんでいった︒

﹁あつーい︒﹂

そうさけぶと︑みるみるとけてしまった︒

 宇宙は︑太陽だけに︑なってしまった︒

一三

(14)

長崎大学教育学部教科教育学研究報告 第二十五号

 この事例の示す題材は︑図2﹁題材づくりマトリックス﹂に従えば︑視点1では︑④︵社会科の学習内容との関連︶︑⑤︵ごみ

処理への対応を自分のこととしてとらえるというアタック性︶︑

⑥︵SFの創作︶︑視点2では︑表1中の⑰︑視点3では︑図1

中の主として②③︑以上の項の交差するところから生まれている︒

       ︵この項︑続く︒︶

1 拙稿﹁自己表現としての作文の指導−教科書作文単元にみる

 表現力ω﹂六頁︵長崎大学教育学部教科教育学研究報告第+九号一九九二

 年六月刊︶に︑次のように記している︒

 私たちは︑かつて︑生活綴り方をこう言った︒︵西尾実・倉沢

栄吉・滑川道夫・飛田多喜雄・増淵恒吉監修﹃国語教育辞典﹄一

九五七年刊朝倉書店︑三九四頁︶

 生活綴り方とは︑ωいのちをもっているこども︑生活者としてのこども︵または

おとな︶が︑@それをとりまく外界の事物から働きかけられたり︑また︑それにみ

ずから働きかけたりする過程で︑の考えたことや感じたことを︑⇔その考えや感じ

が出てきたもとである外界の事物の具体的な姿や動きや︑それとじぶんとの触れ合

いの具体的なありさまなど

を書く︑と︒しかし︑子どもの今の時点からいえば︑

二つの問題が露呈していると見られないか︒

 その一つは︑﹁生活者としてのこども﹂というが︑ ここには︑﹁かれらには 十四

       パぽたして生活者としての生活があるか﹂︑彼らは真に生活者たりえ

ているかという間題︒

 さよう︑かつてはそうであった︒子どもには︑﹁臼井吉見は現

地を訪ね︑﹃怠けたり︑失敗しての貧乏ではなく︑働いても食え      ロない貧乏と対決している少年少年の姿に感動した﹄と書いた﹂生

活があり︑子どもは︑﹁六月は田植え︒農家が一番忙しい時だ︒

学校は一週間前後︑田植え休みになる︒ネコの手も借りたい季節

で︑休むのではなく︑小学一年生でも子守や苗運びなど︑相応の      レ労働力として働いた﹂生活者であった︒

 しかし︑今日の彼らに︑生活と﹁対決している﹂姿勢を見るこ

とができるだろうか︒﹁相応の労働力として﹂働く姿を見ること

ができるだろうか︒

 その二つは︑﹁働きかけたり﹂﹁働きかけられたり﹂する﹁外界

の事物﹂が︑彼らの手の届くところに︑さらには︑例えば︑﹁生      でレき生きとした自然をとらえさせていくこと﹂と楽天的に言えるほ

どに﹁生き生き﹂としてあるかという問題︒

 かつては︑﹁外界の事物﹂は確かにそういうものとしてあった︒

例えば︑﹁遊びの中に子どもは一つの集団を形成する︒おとなの

あらゆる束縛からのがれ︑自由に自己の考え︑感じた通りに友達

を選ぶ︒ここだけは真に子どもの世界を子ども自身が自由に形成       パヱしている集団とみなすことができる﹂と言えるような事物が︒

 しかし︑その遊びさえもが︑群れることさえもがない︑という       ハ マのが子どもの今日ではないのか︒

参照

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