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宮本義久

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Academic year: 2021

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A Mere Interlude について

宮本義久

On A Mere Interlude

Yoshihisa MIYAMOTO

I

本稿で扱うA MereInterlude (1885)は, ‑‑ディの第4番目で且つ最後の短篇集A Changed Man, The Waiting Supper and Other Tales, concluding with The Romantic Advertures ofaMilkmaid (1913)中の‑篇であるが,この短篇集に含まれる十二の短 篇は,約二十年に亘って書かれたものである。 R.L.パーディによれば,著作の最も早い What theShepherdSawは1881年,最も遅いEnter a Dragoon (‑ーディの最後の散 文物語)は1899年である。 ①

この短篇集の各作品の質に関する作者自身の評価は低く, ②もし多くの読者の求めがな かったら,自分はこれらを一巻にまとめるつもりはなかった,と述べている。 ③このこと は,この短篇集の出版が1913年と遅れていることに明白に裏書きされていると恩える。又, 本短篇集は,先行する三っの短篇集Wessex Tales (1888) , A Group of Noble Dames

(1891),及びムife'sLittleIronies (1894)と異り,短篇集としての一貫したテーマ上の 統一が見られず,単なる̀a collection of various sorts of stories'④にすぎない。

この短篇集のタイトルに用いられている三つの短篇は,作者自身による相対的評価の高 さを示していると考えて差支えないであろう. K.プレイディはThe WaitingSupper (1888)とThe Romantic Adventures of a Milkmaid (1883)を̀of a high quality and important in their own right'⑤と評価し, A. J.ゲラードは, A Mere lnterludeは,

その女主人公の性格のために, ̀oneof Hardy's finest comedies'⑥になっており,もっ と広範な人々に読まれる価値がある,と評している。

AMerelnterludeは, ‑ーディの短篇の特色を遺憾なく示しながら,又,同時に,特

異性・例外性をも示す作品である。本稿は,こういう特異点を指摘しながら,この作品を

考察するものである。

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AMereInterludeの語り方は,作者が筆記者となって,学校の教科書のセールスマン の語る通りにこの物語を語る,という形になっている。これは‑‑ディの枠組物語である A Few Crusted Characters {Life's Little Ironiesに含まれている)とか,古老が語っ たとする昔話などの方法と同様のもので,作者は物語から距離を置いた形になっているが, 物語に真実らしさを与える工夫である。

物語の冒頭で,このセールスマンの語る言葉が,この物語の内容・結末を予示する:

People were wrong, he declared, when they surmised that Baptista Trewthen was a young woman with scarcely emotions or character. There was nothing in her to love, and nothing to hate ‑ so ran the general opinion. That she showed few positive qualities was true. The colours and tones which changing events paint on the faces of active womankind were looked for in vain upon hers. But stillwaters run deep ; and no crisis had come in the years of her

early maidenhood to demonstrate what lay hidden within her like metal in a mine. (259)

つまり,この物語は,一見全く何の特徴もない若い娘が,実は未発達の可能性を潜在的 に持っており, ̀changingevents'や̀crisisを経験することで, ̀positive qualities'を 示し, ̀active'な一人前の女性に成熟する次第を物語るものである,ということである。

この物語は,まず,女教師である女主人公の,仕事か結婚かの二者択一を巡って展開 してゆく。そして,その過程で,彼女の性格は次第に明らかにされてゆく。

ライオネス諸島の小農である父親は,大金を投資して,娘を本土の師範学校にやり,教 師にするが,彼女は教師の仕事が死ぬほど嫌いだった。まず生徒達は̀unpleasant, troublesome'(261)だし,それ以上に視学官が来校するとなると, 3ケ月前から緊張で 安眠できないし,教育委員会は指導規定を変更ばかりしていて,何を教え,何を教えない でおくべきか分からない,とすべてに文句をっけて自己正当化しようとする。仕事にコミッ トすることをせず,受身にしか対応できない者の典型的姿勢である。ならばと,親は島一 番の金持だが50半ばのへデガンとの結婚を勧め,彼女は同意する。バブティスタは下宿の 女主人にこう打明けるのだ:

̀… I like him better than school ; but I don't like him quite so much as to wish

to marry him.'(261) そして,結婚ときまると,

̀Heaven knows if it willbe forthebest or not. But I have agreedto do it, and so

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the matter is settled.'(261)

と̀thecritical deed of her life'(263)たる結婚の問題を,その先のことに無頓着に,親 に任せる。目前の嫌悪する現実からの逃避を決めて,当面は安堵するのである。

結婚の約束を果すべく島へ向うバブティスタであるが,その気乗りせぬさまは,いくつ かの行動に現われる。まず,結婚決定後,彼女は自分の結婚のことを口にしたがらなくな ることであり,島‑の出発をぎりぎりまで延期すること,などである。又,島への定期船 に乗り損って,次の便まで三日間,ペンーゼファの町で待たねばならないと判明した時, 彼女ははっとするのである。

.‥ she experienced an indefinable relief at the postponement of her meeting with

Heddegan. (263)

そして,この町で船を待っ三日の間に起こる一連の出来事が,この物語のタイトルとなっ ている̀interlude'である。

バブテイスタはここで「偶然」 (‑ーディにあっては偶然は運命の同義語である),師範 学校時代の恋人チャールズ・ストウに出会い,ほとんどありそうもないことであるが,二

日後に結婚する。一方では,ストウの学校時代の二人の関係に触れての

̀ Baptista, I solemnly declare that in six months I should have asked you to marry me. '(267)

などの言葉は,彼女を̀uncomfortable', ̀sorrowful'な気持ちにさせ,遂にiま̀too painful'(267)なものとなるが,もう一方では,彼女のへデガンとの結婚への気乗りなさ を見透かしているかのような

̀It is never too late to break off a marriage that's distasteful to you‥‥'(268)

とか, ̀a lifelong misery by being the wife of a wretched old gaffer you don't like at all'(269)

という言葉は彼女の痛い所を突いたのである。

̀.‥Now, honesthy ; you do like me best, don't you, Baptista?'(269)

と畳み掛けられては領くしかなく,ストウの言う通りに結婚した訳である。そしてこの次 第は,彼女の腕を握るストウの行動についての象徴的叙述で要約されうる:

‥.the act seemed to say, ̀Now I hold you, and my will must be yours.'(267)

しかし,結婚の数時間後に,二人が結婚の事後報告に島に渡る船を待っ間に,ストウは水 泳していて溺死する。語り手はこの事故が不自然に見えないよう,自然現象, 2人の性格

とからませて,十分納得のゆくよう話を運んでいる。

一人で島に帰ったバブティスタは,この̀interlude'のことを明かさぬままに,まるで

それがなかったかのように,翌日一約束の日一にへデガンと結婚する。彼女がストウのこ

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とはいとも簡単に忘れたのは,二人の一緒に過ごした時間が短かったことと,彼の性格‑

̀ A sort of cruelty, an imperiousness',つまり̀tyrant'(273)的な性格‑のために, 彼女が̀rather fearfulthan loving memory'(278)を抱いたからであるとされる。スト

ウとの結婚は, ̀areckless drama'(273)であったのであり,彼は̀a fantasy'(275)と いう,疎遠で非現実的なものに化していたのである。

バブテイスタのへデガンとの結婚は,翌日の結婚に備えて進行している諸準備を目にし, 打明けた場合の両親の怒り・叱責を恩い,又,結婚中止の場合の島内の大騒ぎを予想し, 打ち明ける勇気が無かったから‑̀for the sake of peace and quietness'(292)‑であっ たのであり,黙っているのが最善と判断したからではない。結局彼女は周囲の状況に流さ れて, ̀theeasycourse'(279)を取ったのである。人生は選択と決断の連続である。バ ブティスタは職業及び二つの結婚という大きな決断に臨んで,自らの意志を欠き,他者の 意志や周囲の状況に流されるのであり‑̀she passively allowed circumstances to pilot her along'(276) ‑彼女の性格はpassivity'(263)の一語で表わし得る。

プレイディは,女主人公の姓名に,彼女のたどるべき過程が示唆されている,と述べる:

Baptista s Christian name suggests that her ̀interlude will be a ̀baptism'of some sort, and her surname‑blending the words ̀truth and ̀burden ‑

implies that these two things are somewhat linked.⑦

彼女はストウとの3日間の̀interlude'の「真実」の「重荷」を背負うことになったが, それが試練となり, 「洗礼」の役割を果して,彼女に新たな生命を与えることになる,と いうことである。

新婚旅行は秘密の出来事の地ペン‑ゼファと,かねて定められており,そこで見つけた 宿の部屋は, 「偶然」にも,前日溺死したストウの死体が,検死を待って,先程隣室に移 されるまで安置されていた部屋であり,バブティスタは, ̀Horror'に̀paralyzed'(285) の状態となる。彼女は忌わしくも,二人の夫にはさまれた形で寝ることになる。又,彼女 はこの新婚旅行中に,検死の無事な終了に安堵しつつ,秘かにストウの葬儀に参列し,島 に帰る。彼女はこれで自分の過去も埋葬されたと患い, ̀a material weight'(287)を肩 から下ろした気持ちになり,へデガン夫人としての立場を冷静に受け入れてゆくが,過去 はまだ生きていた。

結婚後一ケ月も経たないうちに,最初の結婚の証人であったガラス屋に「偶然」姿を見

られ,秘密を喚ぎっけられ,口止め料を払う仕儀となるが,これも彼女が, ̀ayoung

womanwhoallowedthingsto drift'(288)であったため,と説明される。ガラス屋夫

婦による三度の脅迫のあと,四度目には秘密の暴露を覚悟して,脅迫者夫婦を追い返し,

へデガンに̀interlude'の真実を告白するが,これも彼女の倫理的決断に基づくものではな

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い。 ̀tormentors'(291)によって, ̀her peace of mind'(291)が乱されるのがこれ以上 耐えられなくなったためであり,又,結婚登記簿の線からも,発覚は̀inevitable'(292) と判断したからである。しかしこれは,彼女の最初の,自らによる判断に立った能動的行 動である。

へデガンは秘密に結婚した亡妻との間に成人近い四人の娘がいることと,バブティスタ との結婚の目的は,金をかけずに,読み書きもろくに出来ない娘たちを教育してくれる女 教師の獲得にあったことを告白する。

̀…I am bitterly punished‑I am, I am!'(294)彼女の将来の見通しも絶望的である:

In the long vista of future years she saw nothing but dreary drudgery at her detested old trade without prospect of reward.(295)

AMerelnterludeは大小のアイロニーに満ちた物語である。 G.ウィングは,この物 語は,女主人公の,教師の仕事からの逃避のためのへデガンとの結婚が,継娘たちの教育 の仕事を押しっけられるという皮肉な破目になったところで,背信の結果の不幸を予想さ せながら,終るべきであったが,この物語では̀Hardy is on better terms with humanity.'⑧であって,試練に鍛えられた精神に平穏が訪れ,継娘たちへの愛が生れた,

となったとしている。プレイディも, ‑‑ディはこのアイロニーを容赦なく追いかけず, この悲劇を, ‑ッピー・エンドの̀tragi‑comedy'(296)に転じたが,それは読者サービ スのためだろう,としている。⑨

それはともかくとして,この物語の各登場人物とかかわるアイロニーをいくっか見てみ

たい。まずバブティスタの父親の,本土での娘の教育のための身分不相応とも恩える多額

の投資とのからみである。娘の通性を考慮するより,その機会の拡大を目指した野心的試

みであろうが,それが失敗と分かると,今度は金持の老人との結婚を娘に勧める。これは

The Woodlanders (1887)のメルベリー氏に似た考え方で,バーディ作品の場合,不幸

な結果に終る可能性が大であり,この場合も,子持ちのへデガンの欺塙と娘の苦境に父親

の狙いは裏目に出たかに見える。母親はあまりに̀didactic'(277)で,娘は心の中を絶対

に打ち明けることは出来ないと感じていた,とある。母親の忠言は, ̀[M]akeyour

word your bond always'であり、 ̀[CJonduct seemly, and all will be well.'277),と

極めて無邪気でオプティミスティックなものであるが,逆に考えれば,へデガンとの約束

があるにも拘らず,ストウと結婚したのは娘の̀great first act of disobedience'(270)

であったのであり, 「重荷」,苦しみの種となったとは言える。バブティスタがストウの死

後に島に帰った時,彼女の約束破りと適切ならざる行動を知らぬ母親の,娘への信を示す

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言葉(277)は,一句一句,アイロニカルに娘の心を刺す。バブテイスタは約束通り結婚 した後も, ̀interlude'の出来事を隠すために,へデガンへの小さな隠し事をくり返し, つらい思いをする。彼女の約束履行も告白も,母親の道徳的処生訓を,倫理的決断に基づ いて行なったものではなく,状況に流された結果の,いわば外見だけ母親の忠言と合致す るものに過ぎない。しかし,結果的であるにせよ,忠言通りのことがなされたのであるが, 相手があったのであり,へデガンの欺臓に出合って,娘は絶望的羽目におちいり,母親の

̀allwill be well.'という単純な予想は外れたことになる。 ‑̀though well meaning she

was maladroit, and her intentions missed their mark.'(276)

へデガンに関しては,新婚旅行の宿で,バブティスタを喜ばせる意図で,出費を厭わず 確保した最上等の部屋が,先程までストウの死体があった部屋で,彼女を戦慎させるとい

うアイロニカルな出来事を引き起したりしながら,彼女の最悪覚悟の告白が彼にとっては

̀fourtragedies'(294)たる娘たちの世話と教育を彼女に押しつけうることになる。彼の 欺きに対するバブテイスタの悔しさと対照的に,彼の,編しほおあいこだ,というクスク

ス笑いだけが,この時点では,印象に残り,不幸な家庭を予想させるのである。

この物語がこの段階で終わるとすれば,これは女主人公のみならず,その他の人々を も巻き込んだアイロニーの悲劇ということになろう。しかし実際にはこの物語は,試練に よる女主人公の成長に加えて,もう一つのアイロニーが導入されて, ‑‑ディ短篇では極 めて例外的な, ‑ッピー・エンドの喜劇に終っているのである。

̀I am miserable‥‥ Yet I don't wish things to be otherwise.'(296)

と,バブティスタはつらい現実からの逃避を図ることを止め,あるがままの現実を肯定的 に受入れ,それに能動的にコミットとする姿勢を明らかにする。そして彼女の乱れること のひんばんであった心に平穏が訪れる。彼女は大嫌いな教える仕事をしてやらねばならな くなった継娘たちに,このような積極的姿勢で立ち向かうのであるが,悲劇の喜劇への転 化は,継娘たちとのアイロニカルなかかわりから生じるのである。世間常識からは

̀genteel'(294)な女性の必要条件とされるものに欠けた継娘たちは,崇高とも言える無 私の美徳の持主であると判り‑̀a remarkably handsome man'(289)で,教師でもあ るストウが,暴君的エゴイストであるのとはアイロニカルな対比を示す‑,先生役のバブ ティスタに,逆に,純粋に客観的な自他の見方や新しい人間観を教えてくれることになる0 そして彼女はunwelcomed daughters'(296)を愛するようになり,危うい夫婦仲も,娘 達への共通の愛が粋となって,しっかりと結ばれた,と物語は終る:

… they [‑the daughters] formed an unexpected point of junction between her

own and her husband's interets, generating a sterling friendship at least,

between a pair m whose existence there had threatened to be neither friendship

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nor love. (296)

女主人公の洗礼は完了し,冒頭の予告は実現したのである。

他の登場人物たちに関して言えば,父親の教育投資は野心的目的という点では一旦否定さ れた後で,現実に対し能動的にコミットするようになったバプティストによって,野心と は関わりのない純粋な目的に役立てられることになり,生きてくる。正しい行動さえして おけばすべてうまく行く,という母親の単純な忠告は,娘の,不幸な現実でもそのまま受 入れるという新しい生き方とそれから生まれた愛という正しい行動によって,すべてうま く行くことになる。かくてバブティスタは,両親から独立し,ひとり歩きをしていると言 える。更に言えば,彼女の,ストウとガラス屋に関わる二つのネガティヴな経験も,ポジ ティヴな役割を果して,彼女の成熟と幸福に役立ってくるし,継娘たちと関わることで, 災はすべて福に転じるのである。

バブティスタが無私の継娘たちから学んだ純粋に客観的な物の見方,人間観に戻ってみ たい。山本夏彦氏は1996年6月2日の読売新聞紙上でのインタビュー記事の中で,蓋恥心 による偽悪もあってであろうが,こう語っている: 「どんな人のなかにも,自分を見物し ている̀他人'がいるものです。ぼくの場合は,その他人がどんどんのさばってきて,当人 を追い出しちゃった。まさに(傍観する者はつまびらかなり) 。だから,人間の嫌な部分 もはっきり見えるんです。」人間の嫌な部分が見える人は,風刺家であろうし,人間の中 に̀nothing to dislike, but infinitely much to pity'(296)をバブティスタに見させる作 者は仁愛の心篤いヒューマニストということになろう。そして人間への同情・哀れみの心 が常に‑ーディの作品には存在しており, The Son's Veto (1891)の階級意識の権化の ようなランドルフやA TragedyofTwoAmbitions (1888)の野心家ジョシュアをすら, 環境の被害者と見るのである。又,叙事詩劇The Dynasts (1903‑08)の中で,人間へ

の哀れみの心を, 「哀れみの精」として擬人化していることは,ここで更めて指摘する要 もないであろう。

A Merelnterludeは,その結びの部分で説かれること‑徒らに不幸からの逃げ道を他 に求めることなく,自己の置かれた現実を受け止める,というある種のペシミスティック な姿勢・無私・同情すべき存在である人間への愛‑から,幸福な生き方の積極的呈示とい う印象が強い。実質上の語り手を学校の教科書のセールスマンとしたのは,教科書売込み の仕事ため,彼が女主人公を知っていたためというよりも,この物語の幸福な人生のため の教科書的内容のため,という感じすらする。

IV

AMerelnterludeは, ‑‑ディの短篇としては,とりわけ女主人公の性格と物語の結

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末の点で特異である。バブティスタは,他の短篇の女主人公たちが野心,階級意識,嫉妬, 捌け口のない性的情念,などの形で示す強力な自我とは正反対に,自我を欠く,受動的な 性格の持主である。彼女に似た性格としてはToPleaseHis Wife (1891)のエミリーが

すぐ思い出されるが,彼女は野心的女主人公ジョアナのアンチテーゼに過ぎない。似てい るのはやはり, TheSon'sVetoのソフイであろう。しかし彼女は最後まで自分の願いの 許されるのを受動的に待ちながら,不幸な一生を終える。

バブティスタのように‑ッピー・エンドに終る短篇も,又,極めて異例である。第2短 篇集A Group of Noble Damesの第一話The First Countess of Wessex (1889)と最 終話The Honourable Laura (1881)はその数少ない例外に入る。この二つの物語の女 主人公たちは,婚約者又は夫が物足らず,恋人と駆け落ちを図っている途中,その恋人の 愛又は人格に幻滅し,自分の過ちを悟り,一人前の女性に成長し,幸福な結婚生活を送る

ことになる。 ‑‑ディ短篇において,このような変化・成熟の例は少ない。これは短篇と いう限られたスペースを考えると,ある程度は納得がいくことであるが,むしろバーディ の物語の狙いと関わっている。バーディにあっては悲劇と喜劇は表裏一体である。バブティ スタのように自分の過ちを悟って方向転換が出来れば喜劇となり,それが出来なければ悲 劇となる。

A Plot, or Tragedy, should arise from the gradual closing in of a situation that comes of ordinary human passions, prejudices, and ambitions, by reason of the characters taking no trouble to ward off the disastrous events produced

by the said passions, prejudices, and ambitions.⑲

という‑‑ディ自身のプロット論はこのことを裏書きしているが,同時にこの文は, ‑‑

ディにとってプロットとは悲劇であったのであり, ‑ッピー・エンドの物語が例外的なも のであったことを示してもいる。

AMerelnterludeを興味あるものにしているのは,バーディ短篇の中に占めるこの特 異性であり,又, ‑‑ディとしては特異であるが,その結末において,短い叙述ではある

が積極的な形で,女主人公の例を通して示される幸福の秘訣の呈示である。

なお,この物語には,ほとんどありそうもない出来事の数々‑バブティスタがストウと

会ってわずか二日後には結婚したこと,その結婚の二,三時間後のストウの溺死,その翌

日のへデガンとの結婚,新婚旅行の宿で二人の夫にはさまれて寝ること,など‑や,いく

つかの運命的偶然,及び,大小のアイロニカルな出来事,と‑‑ディ短篇の極印は明瞭に

押されていることを,付記したい。

(9)

(TextはMacmillanのThe Greenwood Editionを使用)

① Richard Little Purdy, Thomas Hardy : A Bibliographical Study (London : Oxford University

Press, 1954), p, 156.

② Kristin Brady, The Short Stories of Thomas Hardy (London : Macmillan, 1982) , IX.

R. L. Purdy, Thomas Hardy, pp.155‑6.

④ Lance St John Butler, Thomas Hardy (Cambridge : Cambridge University Press, 1978) , p.

159.

K. Brady, The Short Stories of Thomas Hardy, p. 158.

Albert J. Guerard, Thomas Hardy (New York : New Directions, 1964), p. 144.

K. Brady, The Short Stories of Thomas Hardy, p. 172.

⑧ George Wing, Hardy (London : Oliver & Boyd, 1963), p. 21.

K.Brady, The Short Stories of Thomas Hardy, p. 173.

Florence Emily Hardy, The Life of Thomas Hardy (London : Macmillan, 1962), p. 120.

(1997年6月13日受理)

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