日(毎月l回25日発行)ISSN四19-4剖3
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こべる刊行会NO.
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ひろば⑬ 「差別 ・被差別関係J
論 へ 一 「両側から超える」構想lの意義 平川 茂 播州からの便り⑤ 私は部落差別をどう とらえてきたか 福岡ともみ いのちを生きる③ 自己申告票という怪物 長 谷川洋子 記憶の旅から明日へー写真と文 小 林 茂写真と文一小林茂 「魚、は、天のくれらすもんでござす。天のくれらすもんをタダで、わがいる とおもうこしとってその日を暮らす…これより以上の栄華の、どけえ行けばあ ろかいj 砂回明一人芝居「天の魚」(石牟礼道子原作、西部講堂、 1い し む れ 980年) みなまた 一本の灯明。黒い舞台。黒装束。親子三代にわたって水俣病の被害を受けた一家の老漁 夫。奇妙な仮面が、語りと光の角度によって、悲しみ、苦しみ、怒り、喜び、愛情を表した。 胎児性水俣病の孫、峯少年に語りかける。「堪忍せろ、ねえ、堪忍してくれい…お古や そげん体して生まれてきたが、魂だけは、そこらわたりの子どんとくらぶれば、天と地の ごつ、お前の魂の方がずんと深かわい。一一泣くな杢。爺ゃんの方が泣こがたるがね!」 「水俣」は反公害の象徴である。芸術表現の泉でもあった。石牟礼道子の文学、土本典 昭の記録映画群。著名な写真家たち。砂田明の演劇。
ひ ろ ば ⑬ 平川 十 戊 ︵ 四 天 王 寺 大 学 ・ 奈 良 県 香 芝 市 在 住 ︶
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ー﹁両側から超える﹂構想の意義 今年の春休みに、必要に迫られて﹁同和はこわい考﹄ ︵ 阿 件 社 ︶ 以 後 の 藤 田 氏 の 論 考 と 同 氏 が 編 ん だ 文 献 、 ﹃ こ ぺる﹄所載の論文、さらには部落問題に関わる書籍をま とめて読んだ。その結果わかったのは、藤田氏の﹁両側 から超える﹂構想が部落問題のみならず他の差別問題も 含む研究の今後の展開にとってきわめて重要な貢献をな す内容をもっているということであった。 振り返れば、私もまた本誌の多くの読者と同じく、 ひ ﹃同和はこわい考﹂の出版と同時に、その魅力に惹きつ けられた一人であった。私にとって、その魅力とは、部 落問題を、差別する側のみの問題としてではなく、差別 される側の問題としてもまた論じようとする藤田氏の議 論の組み立て方がもっ魅力であった。 しかしながら、その後、私は藤田氏とその近しい人々 の議論をていねいに追うことはしなかった。一つには、一 当時私の関心は、もっぱら大阪・釜ヶ崎の日雇労働者・一 野宿者の労働・貧困・差別に関わる問題にあり、それを一 扱うだけで手一杯だったからである。しかし、もう一つ一 の理由として、当時多くの人が﹁同和はこわい考﹄が提一 し ん し 起した問題を真塾に受けとめ、熱心に論じていたので、一 私ごときの出る幕などないと思われたことがある。一 そうしたなかで、私は二000
年代に入ってアメリカ一 の ホ l ムレス問題の勉強に取りかかった。そして、それ一 が一区切りついた段階で、今度は一八八0
年代から一九 ゴ 一0
年代頃までのアメリカで、鉄道に無賃乗車しながら、一 各地の農場や鉱山、建設現場をまわって働いていた一 ﹁ ホ l ボ l ﹂と呼ばれる人々の実態を明らかにしようと一 細 々 と 文 献 を 読 ん で い た 。 一 弘 一 附 へ こベる 1ところが一昨年、所属大学のカリキュラム改編の必要 から私が人権問題を担当することになった。そうなると い か ん やはり人権問題担当者としての業績の如何が問われるこ とになるので、それなりのものを書く必要に迫られた。 そこで、昨年、アメリカの社会学者ウィリアム・ J ・ ウ ィルソンの人種関係論について論文を書いた︵本誌四月 * 号に載せていただいた小丈は、この論文を基にしたもの で あ る ︶ 0 そして今年の春は、昨年のウィルソン論の続きとして、 藤田氏の議論を自分なりに整理したうえで、それを論文 にするために、冒頭に書いたように関連文献を集中して 読 ん だ の で あ る 。 なぜ、こんな個人的事情を長々と書いているかといえ ば、それは、これまで藤田氏の議論に関して何も公にし てこなかった私ごときが、突然、言挙げするにあたって は、やはり自分が︵一年がトラック一周に当たるとすれ ば ︶ 二
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周遅れの走者である理由を示す必要があるだろ うと思うからである。もしそうしなければ、なぜ私がよ りによって現時点で藤田氏の議論をレヴュ l ︵ 見 直 し ︶ するのかが多くの人には理解できないにちがいない。 こうして、私の以下の議論は、あくまで二O
周遅れの 走者としてのものであり、それゆえ、当然、そこには重 大な誤読やピントはずれの指摘、さらには致命的な見落 としも含まれているはずである。それについては二O
周 遅れであるという事情に免じてお許し願いたい。 誤解、それとも無視? 一 九 八 七 年 六 月 二O
日付で﹃同和はこわい考﹄は刊行 された。藤田氏がそこで提起した、部落差別を︵部落の 内側と外側の︶﹁両側から超える﹂という構想は、同書 の刊行直後から評判を呼び、いくつかのメディアに取り 上げられた。なかでも﹃こペる﹄︵京都部落史研究所月 報︶と﹃朝日ジャーナル﹂は、﹁同和はこわい考﹂につ いて、いくつかの異なる立場の論者からの投稿を継続し て載せることによって議論を深めようとした。 藤田氏もまた刊行直後から自身の構想を実践すべく、 精力的に活動した。八七年六月からは個人誌﹃﹁同和は こわい考﹂通信﹄を発行し始めた︵現在休刊中︶。また 先の﹃こぺる﹄が廃刊になった直後、その復刊を呼びか け、﹁こペる刊行会﹂を作って、九三年四月から本誌の 編集にあたってきた。さらには八四年以来の﹁部落問題全国交流会﹂の継続に尽力した。藤田氏はまた、こうし た活動の成果を本にして出版することにも積極的であっ た 。 いま見たような活動の結果、部落解放運動を行ってい る人の中にも、いまだごく一部であるとはいえ、藤田氏 の提起を受けて、新しい形の運動を行おうとする人たち が出てきた。また部落問題研究者の間でも、一部に藤田 氏の考えを踏まえた議論をしようとする動きも出てきた。 しかしながら、運動においても研究においても、全体と して藤田氏の構想はあまり詳しく検討されないまま現在 に 至 っ て い る よ う に 思 わ れ る 。 いま研究について Z= 間 題 の パ ラ ダ イ ム 転 換 ﹄ ︵ 明 石 主 百 店 、 一 一
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年︶と題 された著書の中で、藤田氏の構想を﹁﹁両側から越︵マ マi
引用者注︶える﹂というスローガン﹂として︵の み︶理解したうえで、藤田氏が﹁﹁両側﹂というのは、 一つの川をはさんでこちら側と向こう側というように、 部落民と部落民でない者とがくっきりと分け隔てられて いる状況を前提にしている﹂以上、有効性を持たないと 述べている︵二七頁︶。というのは、野口氏によれば、 八0
年代以後、部落民の中で部落を出て行く人が多くな り、また部落民でない者で部落に移り住む人が多くなっ一 た結果、部落民と部落民でない者という﹁両者の境界が一 あ い ま い 一 暖昧になってきた﹂からである︵向上︶ 0 一 しかしながら、藤田氏の﹁両側から超える﹂構想は、一 野口氏が言うような﹁部落民と部落民でない者とがくっ きりと分け隔てられている状況﹂を前提にしたものでは一 なかった。それは、藤田氏が、部落民の概念規定におい一 て、その実体化を一貫して拒否したうえで、部落民を、一 サルトル風に﹁被差別部落民とは、他の人々が、被差別 部落民と考えている人間である﹂と規定していたことを一 想 起 す れ ば 容 易 に わ か る こ と で あ る 。 一 また、八木晃介氏は﹃差別論研究部落問題の自然史一 的 考 察 ﹄ ︵ 批 評 社 、 一 一O
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年︶において、﹁両側から超一 える﹂構想に数回︵私の見立てでは五回︶言及している。一 しかし、その言及の仕方は、総じて回顧的なものであっ一 て、そこにうかがわれるのは、この構想の提起はすでに一 過去の出来事であり、その提起がもっていた衝撃もいま一 あ き ら 一 や大方失われてしまったが、それも仕方ないという諦一 め い り ょ う 一 めの気分である。それは、とりわけ次の箇所に明瞭で↑ あ る よ う に 思 わ れ る 。 一 ﹁ ﹁ 同 盟 員 が 一 屑 で 風 切 っ て 歩 く よ う に な っ た の は い つ か 一 こペる 3頃からなのか﹂といった同盟内部での真剣な自我概念点 検の呼びかけをつうじて﹁両側からの乗り越︵ママ引 用者注︶え﹂を提案する動きもあるにはありましたが、 組織総体の課題として設定されることがなかったばかり か、そうした動きは、むしろ﹁敵に塩をおくる裏切り行 為﹂として断罪されてしまった事実もあります﹂︵一六 八 頁 。 初 出 は 九 一 一 年 六 月 の 個 人 誌 論 文 、 傍 点 は 引 用 者 ︶ 。 ついでに言えば、この引用文の傍点部分の丈章はきわ めて不正確であって、事情に疎い人には、﹁両側からの 乗り越え﹂の提案というのは、﹁同盟内部での真剣な自 我概念点検の呼びかけ﹂だったのか︵そんなことにすぎ なかったのか︶と思わせるものになっている。しかし ﹁両側から超える﹂構想の提起は、すぐ後で見るように、 このようなものではなかった。 八木氏はなぜ、こうした不正確な文章を書いたのだろ うか。おそらく八木氏もまた、藤田氏によって﹁両側か ら超える﹂構想が提起された当時、部落解放同盟に対し て、藤田氏と似たスタンスを取ろうとしていたがゆえに、 藤田氏の提起のもつ意義がそれほど画期的なものとは思 え な か っ た の で は な い か 。 いずれにせよ、その一端を野口氏と八木氏の議論に見 たように、いまだ藤田氏の﹁両側から超える﹂構想は、 十分理解されないままであり続けているように思える ︵藤田氏の立場にかなり近い両氏にあって、このレベル なのだから、他はもっとひどいだろう。大方は意識的無 視を決め込んでいるように思える︶ 0 藤田氏の ﹁両側から超える﹂構想 従来、差別問題の議論にあっては、ほとんどつねに差 別側に焦点が合わせられたうえで、それがもっ偏見や差 別意識などについて論じられてきた。そのさい強調され たのは﹁差別があるのは、差別する者がいるからであ る﹂という見解であった。部落差別問題の議論もまた例 外ではなかった。そこでも、部落外の人々がもっ偏見や 差別意識が論じられるばかりで、部落民のあり方が問わ れることはほとんどなかった。 しかし、﹁同和対策審議会答申﹂︵六五年︶と﹁同和対 策事業特別措置法﹂︵六九年︶の下、部落解放同盟が ﹁行政闘争﹂を行うなかで、部落民と部落外の人々︵と りわけ部落解放同盟の運動に共感しつつ、その運動の周 辺で何らかの活動を行う人々︶の関係は、前者がほとん
どあらゆることに関する判断基準を持ち、後者はもっぱ ら前者がなす判断に従うのみというものになった。こう した﹁指導|随伴﹂関係にあって、部落民は自己を差別 に苦しむ犠牲者とみなしたうえで、︵自分たちを差別す る可能性のある︶部落外の人々に対して過度に告発的な 態 度 を 取 り が ち で あ っ た 。 他方、部落外の人々は、部落民のそうした態度にほと んど異議を唱えることはなかった。藤田氏が﹁差別する 側と差別される側の対話のとぎれ﹂として問題にしたの は、このような﹁指導随伴﹂関係のありょうであった。 そこで藤田氏は、部落民と部落外の人々が対等の立場に 立ったうえで、協力しながら差別をなくす努力をするこ とが必要だと考え、それを﹁両側から超える﹂試みと表 現 し た 。 ところで、﹁両側から超える﹂試みが可能となるには、 部落民と部落外の人々が対等の立場に立つことが必要に なるとして、では両者はどのようにしたら対等の立場に 立てるようになるのだろうか。藤田氏の議論の組み立て 方に基づけば、それは、両者がそれぞれ自分の課題に取 り組む中で、自ら︵自己および他者を対象化できる能力 をもった︶主体となることによってであると考えられる。 藤田氏の提起に応えて、部落民の主体化という課題を、一 自らが暮らす部落での実践を踏まえて考え続けてき売の一 は 住 田 一 郎 氏 で あ る 。 一 彼によれば、部落差別は﹁同和対策審議会答申﹂で言一 われているような﹁劣悪な生活環境﹂や﹁特殊で低位の− 職 業 構 成 ﹂ 、 ﹁ 高 率 の 生 活 保 護 率 ﹂ 、 ﹁ き わ だ っ て 低 い 教 育 一 文化水準﹂だけに現れるのではない。差別は、これまで一 さまざまな形をとって部落民に種々の作用を及ぼすこと一 それでは、その課題とは何か。これまた、藤田氏の議 論の組み立て方に基づけば、部落民の課題とは、﹁部落 民にとって不利益なことはすべて差別である﹂という見 解を安易に受け入れた結果、当の﹁不利益﹂を自分の都 合に合わせて解釈したうえで、自己の要求を押し通すこ とに抵抗を感じないようになってしまった﹁感性﹂を克 服 す る こ と で あ る 。 また、部落外の人々の課題とは、部落民から﹁それは 差別だ﹂と指摘されたときに感じる﹁自己責任の無限性 へ の お の の き ﹂ を 克 服 す る こ と で あ る 。 被差別側の や み ︿ 闇 ﹀ に向き合う こベる 5
によって、おしなべて彼らを﹁人間的な営み﹂から疎外 してきたがゆえに、彼らの中に何らかの﹁弱さ﹂をもた らしている。確かに同和対策事業の実施によって、﹁同 和対策審議会答申﹂で言われた意味での﹁実態的差別﹂ はかなり解消したが、部落民がこれまで差別されてきた 結果として、彼らの内面に刻印されたはずの何らかの ﹁弱さ﹂はいまだ手付かずのままではないか。住田氏は、 この部落民の内面に見られる何らかの﹁弱さ﹂を、﹁今 日の実態的差別﹂と
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て改めて取り上げたうえで、その 克服に取り組むことがきわめて重要であると考えてきた。 部落差別が部落民の内面に刻印した﹁弱さ﹂として、 住田氏が最も強調しているのは、部落民の﹁自己中心的 な性格﹂であった。住田氏はそれをまず自分の母親の中 に見出し、さらにはそれが、身内を極端に重視し、身内 以外の者を無視する態度として、彼が暮らす部落全体に ふつうに見られるものであると言う。 住田氏によれば、同和対策事業によって、部落の生活 実 態 ︵ ハ i ド面︶がかなり改善されたいまこそ、部落民 に見られる、こうした﹁自己中心的な性格﹂を、長年に わたる部落差別が部落民に刻印した﹁内面的な弱さ﹂ ︵ソフト面︶としてとらえたうえで、それを克服するた めの方途を考えなくてはいけないのである。もし、そう しないで、今後も部落民が自分たちの﹁内面的な弱さ﹂ を克服すべき課題とみなさず、このまま放置するとすれ ば、彼らは、あいかわらず、自分たちにとって心地よい ことしか言わない︵﹁すり寄る﹂︶部落外の人々に、結果 ひ ご 的に庇護され続けることになるだろう。 こうして、部落差別を﹁両側から超える﹂試みの、一 方の主体として、部落民が登場するためには、彼らが、 住 田 氏 の ニ 一 日 う ﹁ 内 面 的 な 弱 さ ﹂ を 克 服 す る 取 り 組 み に 着 手することが絶対必要であることがわかるのである。 差別側の ︿ 闇 ﹀ に 向 き 合 − つ 藤田氏の議論の組み立て方に基づけば、部落外の人々 が、﹁両側から超える﹂試みの、もう一方の主体となる ためには、﹁同和はこわい﹂という意識を克服すること が 必 要 で あ っ た 。 ﹁同和はこわい﹂という意識は多くの人に見出すこと ができる。藤田氏は、当時属していた大学の学生が書い たレポートを参照しながら、学生が﹁同和はこわい﹂と 言うときの﹁こわい﹂がどういうものであり、それがどこから生まれて来るかを考察していた。それによれば、 ﹁こわい﹂という意識は、部落民の祖先の身分と仕事に 関する﹁うわさ﹂や、部落に近づいた者は﹁何をされる かわからない﹂という﹁うわさ﹂に由来していた。学生 たちは、彼ら自身が直接部落民と何らかの関わりをもっ たうえで、部落に対して﹁こわい﹂という意識をもった のではなかった。しかし、だからといって、この﹁こわ い﹂という意識が、何らかの啓発によって解消されるよ うなものであるかといえば、必ずしもそうとは限らない。 ﹁同和はこわい﹂という意識は、いったん定着すると、 なかなか解消しないで、現実の部落と部落民を﹁忌避も あ ず か しくは排除﹂するのに与っていた。 ﹁同和はこわい﹂という意識は、部落と部落民を忌 避・排除する機能をもつだけではなく、それはまた、自 分の言動の特定の部分に対して、部落民から﹁それは差 別だ﹂と指摘されたとき、それに容易に屈服してしまう こ と に も 関 係 し て い た 。 藤田氏が、このことを考え始めるきっかけとなったの は、狭山事件について、その裁判の不当性を訴える活動 をしていた七
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年ごろ起こったある出来事であった。師 岡佑行氏が書いたピラの内容について、ある部落民 ︵ ﹁ S 君﹂︶が深夜、電話をかけてきた。彼はその中で一 ﹁それは差別だ﹂、﹁おまえを糾弾する﹂と言った。その一 とき藤田氏は﹁自分の全存在が根底から揺り動かされる一 ような恐怖感﹂を感じた。そして、藤田氏は、それを一 ﹁自己責任の無限性へのおののき﹂と表現していた。一 藤田氏によれば、この﹁自己責任の無限性へのおのの一 き﹂こそが、﹁同和はこわい﹂という意識の核心にある一 ものであった。そして、これが藤田氏をして、﹁S
君﹂一 による﹁それは差別だ﹂とか﹁おれは部落民や﹂といっ一 た言葉に簡単に屈服させたものであった。また一般的に、一 部落民の﹁随伴者﹂となった部落外出身者が、その言動一 の一部について、部落民から﹁それは差別だ﹂と言われ一 たとき、自分の中に生まれてくるのがはっきりとわかる一 のが、この﹁自己責任の無限性へのおののき﹂であると一 考 え ら れ た 。 一 し た が っ て 、 一 部落外の人々が﹁随伴者﹂であることを まぎれもない主体として﹁両側から超える﹂試み もう一方の当事者となるためには、この﹁自己責任 の無限性へのおののき﹂なるものの正体を明らかにし、 それを克服する方途を一不すことがどうしても必要になる の で あ る 。 や め 、 の 、 こぺる 7﹁差別・被差別関係﹂論へ いまや部落民と部落外出身者双方に対してそれぞれの 課題が示された。今後、両者がそれぞれの課題に取り組 み 続 け て い く こ と が 、 藤 田 氏 の 一 言 う ﹁ 両 側 か ら 超 え る ﹂ 構想の実現にとって不可欠である。そして、この作業が なされ、両者とも各自の課題を達成したとき、まぎれも ない﹁両側から超える﹂試みが始まることになる。それ は、ともに主体となった部落民と部落外出身者が、対等 の立場に立って、差別を克服するために協力するという 形 を と る だ ろ う 。 こうした藤田氏の﹁両側から超える﹂構想は、これま で誰も提起したことのない、まったく新しいものである。 すでに指摘したように、従来、部落差別問題の議論にあ っては、もっぱら差別側︵部落外の人々︶にのみ焦点が 合わせられたうえで、それがもっ偏見や差別意識などの あり方が論じられがちであった。そのさい強調された灯 は﹁部落差別があるのは、差別する者がいるからであ る﹂という見解であった。もちろん、この見解にも一定 の妥当性はあるにせよ、それはあくまでも﹁一定の妥当 性﹂にすぎない。部落差別の全体的なあり方を見ょうと 思えば、明らかにそれでは不十分である。必要なのは、 差別側︵部落外の人々︶ばかりでなく被差別側︵部落 民︶についても、それがもっ問題を明らかにしたうえで 両者の関係のあり方について考えることである。 藤田氏の﹁両側から超える﹂構想は、これまでほとん ど問われることがなかった差別側︵部落外の人々︶と被 差別側︵部落民︶のそれぞれがもっ問題︵闇︶に光を当 てたうえで、両者の関係のあり方を問おうとする点で、 部落差別問題の今後の展開にとってきわめて大きな意義 を も つ も の で あ る 。 ところで、部落差別問題を離れて、議論を人種差別に まで広げたとき、藤田氏が部落差別に関して提起した ﹁両側から超える﹂構想は、日本だけに見られる、孤立 した考え方ではなくなる。それは、むしろかなり普遍的 なものであることがわかるのである。 私が本誌四月号の小文で示したように、アメリカの社 会学者 W ・
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−ウィルソンは、黒人貧困層の中に深刻な 社会病理︵失業、婚外出産、母子世帯、福祉依存など︶ が見られることを率直に認めたうえで、これらの社会病 理の原因を、黒人貧困層にうかがわれる﹁︵深刻な失業・無業状態がもたらす︶自己効力感のなさ﹂|目標に 向かって努力し、その目標を達成できる能力が自分にあ ると確信できない状態|に求めた。 こうしたウィルソンの見解は、人種差別問題の議論に あって、これまで支配的であった、黒人貧困層の社会病 理の原因をアメリカ社会に根強く残る人種差別の存在に 求める見方の対極にあるものであった。したがって、ウ ィルソンは人種差別の議論において、従来支配的であっ た﹁差別側偏重︵被差別側不問︶﹂の立場から離れて、 ﹁被差別側の問題︵闇︶を問う﹂立場に移行していると いうことができる︵ウィルソンは、いまだ﹁︵差別側と 被差別側の関係のあり方を問う︶差別・被差別関係﹂論 の 立 場 に は 至 っ て い な い に し て も ︶ 。 フランスの作家であり、哲学者・社会心理学者でもあ る ア ル ベ i ル・メンミもまた現在では﹁被差別側の問題 ︵ 闇 ︶ を 問 う ﹂ 立 場 に 立 つ よ う に な っ て い る 。 彼がかつて行った、人種差別の定義は、これまでなさ れた定義の中で最も有名・有力なものであった。それは また、人種差別の議論にあって、従来支配的であった ﹁差別側偏重︵被差別側不問︶﹂の立場を最も典型的に代 表 す る も の で も あ っ た 。 このように、最初、人種差別をもっぱら差別側の立場一 か ら 考 え て い た メ ン ミ で あ っ た が 、 一 一
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四年に刊行さ一 れた﹃脱植民地人の肖像﹄︵菊地・白井訳﹁脱植民地国一 家の現在!ムスリム・アラブ圏を中心に﹄法政大学出版一 局、二O
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七年︶では、﹁被差別側の問題︵闇︶を問一 う﹂立場に立つようになっている。そこで、メンミは、一 脱植民地人!すなわち、かつて植民地だった自国にとど一 まり、いまや独立国家の市民となった人たちが現在陥一 っている苦境︵貧困、政変、腐敗、専制、女性への暴力、一 外国人排斥、少数派迫害など︶の原因を、﹁以前の植民− その定義とは次の通り。﹁人種差別とは、現実の、あ るいは架空の差異に、一般的、決定的な価値づけをする ことであり、この価値づけは、告発者が自分の攻撃を正 当化するために、被害者を犠牲にして、自分の利益のた めに行うものである﹂。この定義は、その原型が、最初 六八年に刊行された﹃支配された人間﹂︵白井成雄・菊 地昌実訳﹃差別の構造性・人種・身分・階級﹂合同出 版、一九七一年︶で提示された。そして、その後八二年 に出版された﹃人種差別﹄の中で、現在の形のものにな った︵菊地・白井訳﹃人種差別﹄法政大学出版局、一九 九 六 年 ︶ 0 こぺる 9者の変わらざる活動、その新植民地主義にだけ﹂求める のではなく、﹁むしろ主として新指導者たち﹂の﹁腐敗 と圧制﹂に求めている︵一六八頁︶ 0 メンミがその立場をこのように変えるに至った背後に は、彼の、次のような信念があった。﹁脱植民地人を手 助けするとは、単に彼らにおそるおそる共感を寄せるこ とではなく、自分に対して、また彼らに対して真実を言 うことだ。彼らに本当のことが言えるのは、彼らがそれ を聞くに値する人間であるとみなすからだ﹂︵六頁︶。こ の信念は、ウィルソンや藤田氏、また住田氏にも共通す る も の で あ ろ う 。 ところで、ウィルソンやメンミの立場︵﹁被差別側の 問題︵闇︶を問う﹂︶は、世界的に見ても、かなり有力 なものになっているようである。フランスの社会学者ミ シェル・ヴィヴィオルカによれば、人種差別研究の動向 に見られる大きな変化の一つとして、七
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年 代 以 後 、 ﹁被害者の存在が今までにないほど重視されるようにな った﹂ことが指摘できるという。すなわち、﹁問題なの は侮辱や偏見、就職差別などの行為だけではなく、それ が被害者に受け止められ、影響を及ぼす点なのである。 レイシズム︵人種差別|引用者注︶は人格形成に影響を 与え、精神的な打撃や恐怖が長いこと傷跡を残すことも ある﹂︵森千香子訳﹁レイシズムの変貌|グローバル化 がまねいた社会の人種化、文化の断片化﹂明石書店、一一00
七 年 、 原 書 は 一 九 九 八 年 刊 行 ︶ 0 このような動向を参照すれば、藤田氏の﹁両側から超 える﹂構想は、過去の出来事として忘れ去られていいわ けはないのであって、むしろ、それは従来の﹁差別側偏 重︵被差別側無視︶﹂の立場はもちろんのこと、﹁被差別 側の問題︵闇︶を問う﹂立場︵ウィルソンやメンミ︶を も相対化しうる、すぐれて包括的な立場である﹁差別・ 被差別関係﹂論に立っている点で、今後の差別問題研究 し ゅ う れ ん がいわば収赦していくべき位置にあるということがで き る だ ろ う 。 *﹁アメリカにおける﹁両側から超える﹂試みウイリア ム ・ J ・ ウ ィ ル ソ ン ﹃ ア メ リ カ の ア ン ダ ー ク ラ ス ﹄ へ の 遅 れ た 訳 者 解 説 ﹂ 、 本 誌 恥 加 、 日 ・ 4 0播州からの便り⑤ 私は部落差別を どうとらえてきたか
福
岡 と も み 京 ウ 者ISイ メ 兵ン !Ile;;ζ 民L カ 力日ウ 古 ン 川 セ 干玉ン f主 グ 苗字 み よ う じ 私の苗字は、被差別部落出身ではない母方の姓である。 私が生まれたのは一九五六年。この時代、男性が女性の 姓を選択する場合、女性の﹁家﹂を継承するために養子 となる場合がほとんどであった。民法七五O
条 に は 、 ﹁夫婦は、婚姻の際に定めるところに従い、夫又は妻の 氏を称する﹂と明記されているが、一九九一年の調査 ︵﹁日本弁護士連合会一九九三年一 O 月 二 九 日 付 選 択 的夫婦別氏制導入及び離婚給付制度見直しに関する決議 提案理由﹂︶ですら、改姓をしたのは九七・七%が女性 とされているくらいだから、当時は珍しいことであった と 回 ? っ 。 小学生の頃、自分の苗字が父方の﹁藤岡﹂という姓で はないことが不思議だった。兄が戦死し実質上の長男と なった父が母方の姓で、同居する父の母や父の弟家族が 父方の姓だったせいかもしれない。母に理由を聞いたこ とがある。﹁戦後民法が変わり、どちらの苗字を名乗っ ても良くなったのだ﹂と教えてくれた。戦後がどれほど 女性を自由にしたのかを象徴するような魅力的な答えで あった。﹁苗字が同居する叔父たちと違っていていいん だ﹂という根拠も与えられた気もした。いまさらながら 社会制度が個人の価値観にもたらす影響は大きいと痛感 する。ただ、母の回答はあまりに﹁正しい答え﹂すぎて ﹁ そ れ だ け か な ﹂ と ひ っ か か っ て い た 。 父は百字が変わることをどう感じていたのだろう。共 産党員として活動しているとき、ペンネームを使ってい たから平気だったのか。洗濯物を干すたびに﹁近所、見 てみぃ。こんなことをする男はいないやろ!ガハハ﹂ ひ ょ う ぼ う と自慢をし﹁男女平等﹂の実践家を標梼していたから 抵抗しなかったのか。あるいは、両親を捨てて駆け落ち 結婚した母への気遣いがあったのか。父が亡くなって一一 三年、私は父の思いを聞く機会を失ってしまっている。 こペる 11母のこだわり 二年ほど前、母に長年の疑問をぶつけてみたところ、 ﹁実は、部落の姓がなくなると部落が減って差別がなく なるのではないかと思っていた﹂という答えが返ってき た。﹁浅はかな考えだった。部落解放運動に関わって学 習を重ねていくうちに、そんなに簡単に差別がなくなる わ か ものではないと解った﹂と母は反省しているのだが、私 にしたら長年のもやもやが晴れてよかった。 部落差別に対する対抗手段として姓をなくすことを選 択した一一一歳の母の思いは、母の考えた﹁周囲が部落を 差別する心理﹂を照らし出しているように思う。母は、 ﹁部落とわかるから差別される。わからなかったら差別 されない。部落とわかる記号としての姓をなくせばよ い﹂と戦略を立てたのだろう。 ’u ’ 九 件 U 美 己 被差別部落の男性と結婚するなんて論外、親戚や世間 に顔向けできないと、﹁二度と家の敷居をまたぐことは 許さない﹂と祖母から言われた母は、﹁もう二度と帰る まい﹂と決めて何も持たずに家を出た。当時単身赴任で 不在だった祖父の反対はなかったものの、親戚一同、驚 天動地の情況になったのは想像に難くない。 父はレッドパ l ジで愛媛新聞社を解雇され、姉を頼っ て母の住む街に流れっき、パチンコ屋の用心棒をしてい たらしい。そのパチンコ屋で働いていた母が父と知り合 い、歌声サークルにオルグされ恋に落ちたとか。母はた ぶん、父 H ﹁藤岡実こという一人の人間に動かれたの だろう。被差別部落出身かどうかはまったく関係なかっ たに違いない。だから、部落差別をなくすのには、周囲 に部落とわからなければいいのだと娘心に考えたのでは な い か 。 祖母と母は、私の誕生を機に和解する。孫という存在 は魅惑的なもののようだ。それだけでなく、人間関係を なしくずし的に地ならししていくという、母独特の生き 延び戦略が発揮されたのだと思う。勘当はなかったこと にされた。私と妹はなんども母の実家を訪れたが、父は 一度も出向くことはなく、祖母の葬式にも参列していな い︵父が参列したかったとも思わないが︶。しかし、冠 婚葬祭をはじめ親戚との母のつきあい方を聞いていると 痛々しくなる。父に対する差別の巻き添えを食ったせい そ し とは思うものの、親戚に語られないよう細かく気遣う気 合いの入れ方は、﹁世間体を気にして母を勘当した祖
母﹂と重なる。祖母や親戚からの、部落出身者である父 せんし への賎視と排除は、父と一緒に生きていこうとした母の 心も複雑に揺るがせてきたのかもしれない。 もうひとつ。部落差別を飛び越えようとした母と、世 間から家を守ろうとした祖母とは、家父長制社会のなか で女性が抱える葛藤の表裏のようにも見える。一九九三 年に実施された政府の調査で﹁結婚相手と家柄﹂につい て訊いているが、相手の家柄を調べて﹁当然﹂﹁仕方な い﹂と回答した女性は四八・二一%、男性は七ポイント低 い四一・三%。﹁なくすべき﹂との回答は男性が五七・ 四%、女性は七・三一ポイント低い五
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・一%である ︵ ﹁ 平 成 五 年 度 同 和 地 区 実 態 把 握 等 調 査 ﹂ ︶ 0 女性の方が家 柄や世間にこだわる傾向が強いといえる。だからといっ て女性が保守的だと決めつけているのではない。二級市 民である女性は、地域社会で権力を握っているのは誰か、 権力者に逆らったらどんな日に遭うかをよく知っている。 理不尽や不条理にさまざまな感情がわき上がってはいる が、ときに封印し、性別役割や世間の慣習・価値観に合 わせて生き延びようとする。あるいは行動に移して一気 に決着をつけようとする。祖母と母がそうであったよう に、だ。部落差別もまた、ジェンダ l の視点を抜きに語 差別を受ける側がいくら部落とわかる︵と思い込んで いる︶あらゆる﹁印﹂や﹁違い﹂を隠す努力をしても、一 差別はなくならない。いくら襟を正して歩いていても、一 親戚づきあいに不義理をしなくても、金持ちになっても、一 地位や社会的名声を得ても、差別されない保障など一ミ− リもない。差別は、しようとする側が関係性という文脈一 で 、 賎 視 し 排 除 す る か ら だ 。 一 私は奈良県立同和問題関係史料センターの主催する県一 民歴史講座で学んでいるが、講座やフィールドワークに一 参加するたびに、その時代の人々の心性に興味をそそら一 れる。身分差別、近世政治起源説という枠組みで部落差一 し ι も い ツ 一 別を捉えていたときとは全く異なる過去の景色が見えて一 く る 。 一 ゃ く ら せ ん し ば f ニ たとえば櫓銭や芝設の徴収である。櫓銭とは芝居や一 相撲などの興行の際に興行主から得る収益の一部、芝銭一 とは寺社祭礼の際の出店から受け取る収益の一部のこと一 ︵ ﹃ 奈 良 の 被 差 別 民 衆 史 ﹄ 二OO
一 年 刊 。 一 二 三 頁 ︶ だ が 、 一 つ て は い け な い と 思 う 。 差別を怖れない こべる 13一八世紀前半、﹁械多﹂村は取得権を否定されていった。 興行主にとって﹁械多﹂村への櫓銭の支払いは、勧進や 祭礼の成就を何らかの意味で担保するもの、いわば﹁寄 進﹂といった性格を持つものであったようだ︵同書、 み ぞ う 一二七頁︶。変化は一八世紀初頭の未曾有の凶作を契機 に始まる。村々は冠婚葬祭をはじめ日常生活にかかわる 倹約のル l ルを決め、倹約の中に櫓銭・芝銭の支払いも 組み込まれた。支払うか否かを決定する主体は村々の側 じ ゅ じ ゅ つ に移り、櫓銭・芝銭が持っていた呪術的宗教的価値は 失われ、利害や論理に基づく、いわば近代的合理的な社 会秩序が現れはじめた。中世に成立した遺物の如き宅跡 権を持ち出し金銭を要求する﹁械多﹂村は、地域社会の 秩序を混乱させる集落としてみなされ、地域社会の関係 性も変容する。双方で合意されていた意味が失われて、 賎視と排除へと行き着くまでにはプロセスがあるのだ。 一八世紀初頭に始まった地域社会の変容が一二世紀に示 唆するものは、人と人との関係性と関係性の集合体であ る社会を豊かなものとしていく戦略の必要性ではないか と 田 ? っ 。 県民歴史講座での学びによって私は、歴史は階級闘争 によって発展してきたという見方と訣別した。権力と支 母と父の結婚は、地域社会に沈殿していた部落差別を一 か く は ん 撹祥した。関わった一人ひとりにいろんな波風が立った一 はずだ。だがその波風は心の奥深く仕舞われたままであ一 る。戦前、警察官でもあった祖父は、宇和島で水平社の一 指導的立場にあった女性がいかに筋の通った人だったか、一 エピソードを交え、ながら私に教えてくれた。でも世間を一 気にして揺れたであろう心の内は聞けないまま、祖父は一 他界した。おそらく親戚・縁者はみな、なにかしら重い一 も の を 抱 え て い る は ず だ 。 一 部落差別で傷つくのは部落出身者だけではない。関わ一 ったあらゆる人々が心の揺れを感じている。﹁差別はし一 てはいけない﹂という大義名分からではなく、誰もが持一 った葛藤や揺れを言語化できたら、部落差別の今の姿が一 み え て く る の で は な い だ ろ う か 。 一 配への怒りが消えることはないが、過去を見る立ち位置 お く が変わることで、差別を怖れることもなく、差別に臆す ることもないという感覚を持つに至った。 部落出身者だけが傷ついているわけではない
いのちを生きる⑨ 長谷川洋子︵大阪府小学校教員 三 島 郡 島 本 町 在 住 ︶
自己申告票という怪物
自己申告票を書かねばならない。まったくやっかいだ。 自己申告票は六年前に大阪府が導入した勤務評価の一 端で、学校では評価・育成システムと呼ぶ。先生を育て るためのシステムということになっている。私が病気休 暇に入った年から賃金に反映するようになった。 私は一度も申告票を書いたことがない。 勤務評価システムを受け入れることで子ども達の顔よ り管理職の顔を重視する人間になりゃしないかと考えた のだ。それに、私は、小学校で学ぶことは、植物で例え ると根っこの部分だと思っている。ひととのつきあい方 や連帯の仕方、いろんな学問の面白さや大切さを知り、 一生の友にしたいと感じるような根っこの蔀分。﹃星の 王子さま﹂ではないが、自に見えない大事な部分、結果 が出るまでに何十年もかかったりする根っこの部分を小 学 校 は 担 っ て い る の で は な い か 。 一 しかし、自己申告にかかげる﹁目標﹂は、結果が早く− 出ないと評価されない。おのずと結果が見えやすい教育一 に走ってしまうだろう。それやこれやで、私は自己申告一 票 を 一 度 も 出 し た こ と が な か っ た 。 一 病休に入った年、前年度に申告票を出していなかった一 ので、それが手当に反映された。 C 評 価 だ っ た 。 − ﹁出さなかったんだから文句は言われへんやろ﹂と思一 うひとが多いだろうが、申告書を出さない人間全員に C 一 評価をつけるのは全国広しといえども大阪府だけだ。出一 い ま 一 さないことと子どもの教育とはどう関係するのか、未だ一 に説明されていない。しかも C を連続一一回とったら最低一 の D 評価になって昇給しない。罰ゲ l ム み た い だ 。 一 ﹁もう無理矢理でもいうこと聞いてもらうからね﹂と、一 印 字 さ れ た 私 の 期 末 勤 勉 手 当 率 が 叫 ん で い た 。 一 去年の秋、私は現場に復帰し、私も校長も、私が自己− 申告書を書かねばならないことをすっかり忘れていた。一 ご一月の締め切り前日に、﹁長谷川さん、書きますか﹂﹄ と校長はあわてていいに来た。えつつ・年度末に今年の一 目 標 た て て ど う す る の ? ほ ん と う に ア ホ ら し い 。 一 お陰さまで元気に四月を越すことができたが、今年申一 こぺる 15告書を書かないと D 評 価 に な っ て し ま う 。 さらに今年の期末勤勉手当の成績率が去年より﹁上﹂ の者に優しく﹁下﹂の者に酷なものとなった。影響する のはボーナスと退職金。つい、独り身の老後の生活や、 いつか再発するだろう病気の莫大な治療費を思い浮かべ てしまう。冷静に考えたら私の場合﹁老後﹂と﹁病気﹂ は両立しない。だから弁天小僧のように威勢良く﹁書か ねえよ!﹂と居直ったらいいのだが、気持ちがそうなら 、 、 、 . 4 ハ ν 宇 旬 、 ν ああ、転向というのはこんな風なのかと、もの悲しく な る 。 ﹁ 書 く ﹂ ﹁ 書 か な い ﹂ 、 ﹁ 書 く ﹂ ﹁ 書 か な い ﹂ を 数 回 繰り返したら定年だ。しょぼい花道だなあ。 自己申告書の書き方がわからないので、 行った。彼はていねいに教えてくれたが、 だけの話だが﹂と声を潜めていった。 教頭に聞きに 最後に﹁ここ クラスのことを目標にしても、正直いって我々の評価 は低い。学校をどう変えていくか、学校組織全体のこ とを目標にしたら評価が高くなる。 耳を疑った。私ら教諭の仕事は子ども達の教育だ。管一 理職手当はもらってないぞ。自分の働く根っこの部分、− クラスの子ども達を大切にしないで、どうやって学校が一 よ り よ い も の に な っ て い く と い う の だ ! 一 同時に了解した。若い先生たちが T 市人権協議員や兼一 任所員など﹁大きな仕事﹂を競って担おうとするわけを。一 そういえば勤務評価が導入された年、職場の同僚がやた一 らに張り切っていた。﹁学校を変える﹂というのは魔法一 の 言 葉 な の か 。 一 しかし、﹁学校を変える﹂といっても、これまでの何一 が悪かったのか、何を目指すのかが、私はさっぱりわか一 らない。若い同僚達はわかっているのだろうか。結局、一 ﹁上﹂のいったとおり動くことになるのではないか。− かつてよく﹁ T 市の教育﹂と言われた。地元集中運動一 や同和教育の先進市の代名詞になっていたものだ。そこ一 からの脱却を管理職達が目指すのならば、 T 市の教育の一 新 し い ゴ l ルはどこなのか。誰が責任を持つのか。一 頭のない怪物を見ているみたいで、まことに気味が悪一 、 ‘ ハ v
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鴨水記 マ相変わらず各地に出かけ、いい出会 いを重ねています。先日は、四日市市 立神前幼稚園で年長さん︵五歳児︶に 話をさせてもらいました。わが家の猫 たちをめぐるエピソードなどを交えて の﹁いのち﹂の話にじっと耳をすませ てくれました。幼い子どもでも人間に とって大切なことはわかるんです。 マ﹁﹁あいさつ﹂には人を元気にする 力があることを初めて知りました。僕 は今まであいさつはあまりしませんで した。そのせいか他人からは暗い人と 思われていました。自身もいつも暗く ナイーブでしたが、今回の講演後相手 の目を見てあいさつをしたら相手もあ いさつをしてくれてとても心が明るく なりました。/他人も僕を暗い人から 明るい人に認識してくれて話をすると 熱心にしてくれます。それにあまり関 わりのなかった人からも注目されるよ うになり、よく話をしています。毎日 がとても楽しく、今まで学校に行くこ とがとてもいやだったのが今では学校 に行くことがまちどおしくなりました。 また、授業中あまり発言しなかったの ですが少しだけではありますが手を挙 げれるようになりました。こんなに学 校が楽しく感じられたのは全てあなた のおかげです。学校生活も日日余りで すが、この仲間違と共に楽しみたいで す。ありがとうございました﹂︵愛知 県 豊 一 田 市 立 小 原 中 学 校 三 年 男 子 ︶ 0 生徒の内面で何かが起こったとしか 考えられない。これは、大人がまっす ぐに子どもと向き合うとき、﹁何か﹂ が起こりうることを暗示しているので は な い か 。 楽 観 的 に す ぎ ま す か ね 。 マ五月八日、奈良県御所市で開かれた 故米田富さん︵一九 O 一 j i t − − 八 八 。 全 国 水平社創立者の一人。元部落解放同盟 奈 良 県 連 委 員 長 ・ 中 央 本 部 統 制 委 員 長 ︶ の 二 十 三 一 回 忌 追 悼 集 会 に 出 か け 、 思 い 出話をちょっとしました。終わって、 沖縄から駆けつけた彫刻家の金城実さ んと雑談していると、そばの人が﹁普 天聞は大変ですねえ﹂という。思わず ﹁大変なのは日本です﹂と突っ込みを 入 れ て し ま い ま し た 。 後 日 、 ﹁ 普 天 聞 は 大変だねと上からの目線を放つ飼い馴 ら さ れ て ﹂ ︵ 京 都 市 柴 田 修 三 さ ん 。 ﹁ 朝 日 歌 壇 ﹂ 叩 ・ 5 ・ M ︶ を 読 み 、 ﹁ 飼 い 馴 らされて﹂きたのはわたし自身でもあ る と 振 り 返 り ま し た 。 ﹁ も う 誰 も 樺 美 智 子のことなどは言わないままに六月終 わる﹂︵川西市安保のり子さん︶︵向 上 、