ISSN 02880911
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︵ 龍 谷 大 学 ︶ は じ め に 寺内町は、寺内の周辺に存在する︿都市空間﹀であり、寺院という組織・機関がその成立の前提となっているいわ ば︿宗教都市﹀の一形態である。戦国期真宗においては、 ① れを示すが如き研究史を構築してきた。 この寺内町が特に発達し、寺内町研究と言えば、真宗のそ 重要な論点となったからである。それは、 真宗の寺内町が戦国史研究において特に注目される事情は、本願寺・一向一撲体制の実相を探る一つの視点として ② 一九六三年に鈴木良一氏が﹁本願寺と一向一撲は明らかに別物﹂というテ ーゼを一向一按論に投げかけたことにより、それまで、 一向一撲の組織論を︿真宗教団発展史﹀に置き換えた研究史 一向一挟論は、新たに一向一撲と民衆を結びつける︿場﹀を論議し ③ なければならなくなり、その可能性の一つにいわゆる寺内町が研究対象となったと考えられる。 へ一定の反省をもたらしたからである。 つ ま り 、 従って、戦国史研究としての寺内町論は、 一向一撲の社会的基盤論として、井上鋭夫氏が提起した﹁ワタリ i タ イ 寺 内 に つ い て ・ 覚 書寺 内 に つ い て ・ 覚 書 @ シ﹂論と合体しつ論議されたのである。現在、 その到達点は、峰岸純夫・藤木久志の両氏らの業積にあると考えられ、 現在も論議が積重ねられつつある。 一向一撲論を戦国史研究へと再構成する一前提として、寺内町を論議するわけであるが、 ⑤ その主たる︿ねらい﹀は次の如くである。 さ て 、 本 稿 に お い て も 、
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寺院は、仏教における︿固有﹀の組織・機関である。それゆえ、 ︿寺内町﹀を寺内町として成立せしめる寺院が存 在 す る ︿ 寺 内 ﹀ tま 寺院を構成する組織・機関としてみなければならない。 つ ま り 、 ︿ 寺 内 町 ﹀ の 成 立 根 拠 と な る ︿ 寺 内 ﹀ の 基 礎 概 念 と は 何 か を 問 う 作 業 が 課 題 と な る 。 従 来 の 寺 内 町 研 究 に お い て 、 この点は、どのように論議されてきたのであろうか。寺内町研究史にこの点を読み込 むならば、以外な事実が判明する。付︿寺内﹀という仏教︵寺院︶の組織・機闘を分析する視座が確保されていない。 口 都 市 的 機 能 を 重 視 す る あ ま り 、 寺院という中世宗教領主の役割が軽視され、戦国期の領主間編成・配置のなかで ︿ 寺 内 町 ﹀ が 分 析 さ れ な か っ た 。 国 ま た 、 寺院の組織・機関としての寺内分析を怠ったために、 寺院を支える /\ 周 縁﹀としての機能論を欠いている。などの分析視角の欠如が指摘しうる。 つまり、従来の研究史は、︿寺内町﹀を寺内町として成立せしめる前提に対する基礎分析が欠如しており、︿寺内﹀ とは何かという点への論議が強く要請されるであろう。そして、寺院を支える組織・機関としてどのように機能して いたのかという点から論議しなければならない。 ⑥ そのため、ここではヒンタ l ・ランドとして石山本願寺における︿寺内﹀と︿寺内町﹀を設定する。それはこれまで の 寺 内 町 論 と 一 向 一 撲 を 結 ぶ 論 議 が 、 いわゆる︿大坂並体制﹀論であり、寺内町研究において、 ︿ 石 山 ﹀ と は い つ たいどんな︿寺内﹀と︿寺内町﹀によって構成されていたのか、という問いが根本的な聞いになると考えたからであ る
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石山寺内の基本的性格
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一、前住上人仰ラレ候テ、御本寺御坊ヲハ、聖人ノ御存生ノ時ノヤウニオホシメサレ候。御自身ハ、御留守ヲ 当 座 御 沙 汰 候 、 シカレトモ仏恩ヲ御忘候コトハナグ候。御斎ノ御法談−一仰ラレ候キ。御斎ヲ御受用候閉そ御ワ ① ス レ 侯 事 ハ 御 入 ナ キ ト 仰 ラ レ 候 キ 。 願 得 寺 実 悟 の 編 に な る ﹁ 蓮 如 上 人 仰 条 々 ﹂ ︿ ﹁ 実 悟 旧 記 ﹂ ︶ に よ れ ば 、 本 願 寺 H 本 寺 は 、 ﹁ 聖 人 ノ 御 存 生 ノ 時 ノ ヤ ウ ﹂ であり、本願寺宗主自体は﹁御留守ヲ当座御沙汰﹂するのが役目であると蓮如が語ったと伝えられている。 つ ま り 、 意識の上においては、本願寺の住持は、 あ く ま で 宗 祖 で あ る ︿ 親 驚 聖 人 ﹀ 、 ことにその﹁御影﹂であるというのであ る 。 さて、このような基本的性格を持つ本願寺は、天文元三五三二︶年に法華一畏・六角定頼連合軍による山科坊舎攻 撃 の た め 焼 失 す る こ と に な る 。 史料刷二十四日 朝早々ヨリ諸勢取出候。取マワシセメ候、 四時也。ム昨日ヨリ今日ニ至マデ、城中静ニシテ強也。 然処兵庫介、和睦之唆トシテ人質ニ出源次郎内へ取時、諸勢水落ヨリ乱入シテ、火ヲカケ候問、 一 時 之 開 ニ 、 寺 中御坊等焼失候。ム予・舟後御堂庭ニテ打死スベキ覚悟ノ処、諸勢打ヨセザル問、六時ニ落行候。勧修寺五郎左 ③ ソ レ ヨ リ 上 ノ 醍 醐 へ 行 、 水 本 坊 へ 夜 明 候 時 分 − 一 参 候 。 富 式 向 。 衛 門 宿 へ 行 、 寺 内 に つ い て ・ 覚 書寺 内 に つ い て ・ 覚 書 四 ﹁私心記﹂の著者である実従一行は、焼失した山科坊舎より、宗祖である親驚の影像を醍醐に移した。天文元年八 月二四日のことである。この後に宗祖影像は、宇治田原に九月十三日に移された後に、翌年七月に摂津石山の坊舎に 移 徒 さ れ る こ と に な っ た 。 ︵ 阪 ︸ 明後日大へ可下分相定。送ノ事田中三玄也。二十四日ニ治定云々。 史料
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二 十 二 日 二 十 四 日 八時ヨリ立出也。高五郎宇治マデ被送候。州先与次下マデツレ候。宇治之小倉ヨリ夜船ニ乗下。夜明 ノ 前 暁 天 ノ キ レ ヘ シ ク 。 旅 人 屋 一 一 テ 夜 ヲ ア カ シ 。 ソ レ ヨ リ 出 口 居 住 候 火 庭 へ 。 二 十 五 日 朝飯食候ヨリ大坂殿へ下候。O
酒殿へ参リ、筑前ニ逢テ云々。O
先へ与三左衛門遺候。其後袴衣出口 ニ 借 候 ヲ 著 シ 候 。 。 酒 殿 − 一 一 待 申 候 。O
其後御亭へ参ノ懸御目御盃載候、肴ナシ。御ウヘ、参、御盃同前。ム上様 ⑤ へ三十疋、大へニ、御堂へ二筑へニ、御影二、御礼如此。座敷ナキ問、阿佐布所二先々。 つまり、本願寺教団は、天文元年の山科坊舎の焼失という突発的な事情により本寺を摂浦石山へ移転することを余 儀なくされたのである。従って、石山坊舎に本寺の機能は移され、宗祖の墓所として影像が奉安される場となるので あ る 。 舎 ヲ 建 立 セ シ メ 、 ⑮ ところが、石山坊舎は、周知の如く蓮如が﹁御隠所﹂として﹁明応第五之秋此ヨリ、カリソメナカラ如形一字之坊 @ 且々周備満足ノ為体﹂と完成していたが、当然のこととし 又当然明応六年仲有下間ノ冬ニイタリ、 て山科の大伽藍を収容するだけの設備はなかったはずである。 従って、石山坊舎への本寺の移転は、寺内へその機構、組織を移す点から窺い知ることができる。その過程を﹁天 文 御 日 記 ﹂ ・ ﹁ 私 心 記 ﹂ に よ っ て 見 る な ら ば 左 表 の 如 く に な る 。J
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・ 秋 一 一 蓮 如 石 山 こ 坊 舎 の 建 立 を 開 始 す る 。 一 ﹁ 諸 文 集 ﹂ 一 1 一 ︵ 一 四 九 六 年 ︶ 一 U山
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二 不 祖 影 像 を 巴 ? 移 心 白 子 の 中 に 納 め る 。 一 ﹁ 私 心 記 ﹂ 一 円 一3 1
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司 、 仏 事 を 修 す る 。 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ ・ ﹁ 私 自 ﹂ 一 項 目 拠 ⑫ 寺内について・覚書 五寺 内 に つ い て ・ 覚 書 ム ノ 、 石山寺内への本寺の移転は、右の通りの経過をもって行なわれたようであるが、 その結果として次の如くの傾向が
導 き 出 せ よ う 。 まず、第一点は、本寺としての石山は ﹁影像﹂が搬入されることにより確定するが、 その機構が再整備されるに は以外に時間が費されている。それは、天文一撲が終結せず、石山周辺の治安が安定せず、従って、寺内整備にかか ⑮ るのが治安の回復後となったのであろうか。この点は、細川晴元との聞の﹁和与﹂が天文四年十一月に整い翌月に ⑮ また、天文五年十一月になってから、六角定頼との﹁和与相調﹂ ﹁ 御 礼 ﹂ が 本 願 寺 か ら 細 川 側 へ 納 め ら れ 、 っ た と こ ろ か ら も 察 し う る 。 し か し な が ら 、 ここで留意しなければならないのは、実際に寺内整備が動き出すのは、天文十一年七月に阿弥陀堂 の建立が開始されるのを待たねばならなかった理由である。 ︵ 表 叩 ︸ 旬 、 比 を 参 照 ︶ そ れ は 、 石山へ﹁影像﹂が移ったこと が本寺の移転なのであるが、 そ れ は 、 やはり山科坊舎の焼失という突発的事情によるものであるから、以前として山 科という地に坊舎再建の可能性があったのではなかろうかという点である。 ︵ 表 216 を 参 照 ︶ そ れ は 、 山科坊舎焼失後の天文四年十一月の細川との和平実現後に、 翌 年 一 月 に は 、 さっそく山科の旧寺地の堂舎 の立柱がなされている点からも理解できよう。 ただし、山科坊舎の本寺としての復興はなされなかったのである。 ま た、どのような理由をもって石山の地を本寺再興の場所として決定したのかという事情を明らかにすることはできな L
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さらに、考えなければならない点は、石山という地に、本願寺・一向一挟体制の頂点にたつ本願寺が移転したこと により、摂河泉の権力編成にどのような影響を与えたのかという点である。 つ ま り 、 石 山 へ の 本 願 寺 の 移 転 、 そ れ に 伴う寺内の整備という事態に対して摂河泉の諸権力はどのように受けとめたのかということである。 天文一撲の処理は、天文四・五年のうちにおさまったのであるが、戦国期の摂河泉の諸領主権力の側にすれば、本 寺 内 に つ い て ・ 覚 書 七寺 内 に つ い て ・ 覚 書 /¥ 願寺・一向一撲という戦国期権力の中枢が石山に位置することは、 地域の権力構造の変動を惹起せしめ新たな緊張関 係を生んだことが予測させる。 ︵この点については次節で詳しく論ずることとなる。︶従って、石山寺内の整備事業、 本願寺教団の本寺としての組織・機関を収容しうる寺域を確保し、 かつ円満に建築を進めるためには、ぜひとも摂河 泉の領域支配を握る細川晴元、木沢長政らの承認は必要だったと考えられる。 というのは、天文八年十二月二五日に法安寺より寺域拡大のための土地を買得したが、実際には、阿弥陀堂の建設 が開始されたのは天文十一年七月であり、この間の政治過程を注目しなければならないからである。 ︵ 表
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︶ そ し て、本寺としての石山坊舎は、天文十一年の阿弥陀堂の新築、十五年には阿弥陀堂前に四足門、十九年には鐘撞堂が 建てられその威容を整えた。 ︵ 表 mJU 、 店 、 お ︶ そ の 聞 に は 、 御影堂の内陳や厨子・仏壇も整えられ、寝殿も新築さ れ て い る 。 ︵ 表 日IU
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出 ︶ ま た 、 天文十一二年十一月には、綱所の立柱も行なわれている。このように、 石山坊舎 は、天文二十年ごろまでには、本寺としての基本的な建造物は整ったことになる。 さて、石山寺内へ移転したのは、本寺ばかりでなく、内衆下問氏や寺内坊主衆、 また、地方からの本寺への上番衆 が詰める宿所なども移転した。その状況は﹁天文御日記﹂・﹁私心記﹂からは詳らかにはならないが、判明しうる範囲 で 論 議 し て み た い 。 ⑫ まず、天文四年十二月に一家衆に加えられた興正寺は、天文十五年八月に御堂の建立を行っている。その他の坊主 分が石山寺内でどのような居を構えたかは、興正寺の例が判るだけであとは﹁宿所﹂が存在したという事実しか判明 し な い 。 ⑮ ⑮ @ @ その例は数多いが、数例をあげると﹁丹後宿所﹂、﹁光徳寺宿所﹂、﹁定専坊宿所﹂、﹁興宿﹂といった具合に本願寺の 周辺にそれへ勤仕する人びとが居住する坊舎も建ち並んだようである。 ま た 、 ﹂ういった坊舎の移転が、寺内の拡大と結びついたことは言うまでもない。 めぐる諸般の動きとして理解することができる。 このように考えるならば、天文年間の石山寺内の基本的動向は、本願寺教団の本寺としての機能の整備と、それを @ また、本願寺・一向一撲体制︵日﹁本願寺法王国﹂﹀の中心が摂河泉 の戦国期の領主権力の編成の中に入ることにより、 ま た 、 その地域の中で︿寺内﹀が諸権力の認知を受けることによ り本願寺なる宗教領主が存在する空間 H 都市として確定することになった。
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石山寺内の確定
石山寺内が整備されつつある天文七年、本寺たる本願寺が移転することにより膨張してゆく寺域とその周辺は、戦 国期の諸権力との緊張を生み出した。それは、石山寺内の守護反銭などの守護役を含む諸公事の免除の問題であり、 石山寺内が宗教領主木願寺の領有空間として、戦国期の他の領主権力の︿不入の地﹀として確立する上での問題であ っ た と も 考 え ら れ よ う 。 これまでの寺内町論においては、寺院のいわば領主権の象徴たる︿不入﹀の問題は、一向一撲と民 @ @ 衆を結ぶ︿アジ l ル的特権﹀として評価され、寺内を寺院という組織・機関が存在する空間として理解する線は弱い。 し か し な が ら 、 従 っ て ここでは、天文七 J 九年にかけて寺内不入の問題をめぐって細川・山中・木沢などとの議論を、︿寺内特権﹀ という視点からではなく、寺院の領主権と不入権という問題から読み込んでいく。一 ト 一 千
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1 一三一一一見一摂津守護細川晴元患の徳政を施行、その回目、山中藤佐衛門より通告を受けるよ﹁天文日記﹂ 項 寺 内 に つ い て ・ 覚 書 九寺 内 に つ い て ・ 覚 書
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一 2 一 天 文 7 ・ 5 ・ 1 一 徳 政 の 件 を 細 川 へ 確 認 す る 旨 の 返 答 を 山 中 へ 行 う 。 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 一 一 一 細 川 へ 木 沢 長 政 を 以 て 細 川 政 元 澄 元 の 徳 政 ・ 諸 公 事 免 除 を 記 し た 制 札 を 提 示 一 一 一 3 一 天 文 7 ・ 5 ・ 4 一 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 一 一 1 一 す る 。 ま た 、 改 め て 制 札 を 要 求 。 一 一 4 一 天 文 7 ・ 7 ・9
一 諸 公 事 免 除 の 制 札 、 木 沢 、 取 次 を も っ て 細 川 よ り 来 る 。 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 5 一 天 文 7 ・ 8 ・ 2 − 細 川 へ 制 札 の 礼 が 木 沢 の 添 状 と と も に 送 ら れ る 。 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 一 一 一 山 中 方 へ 、 大 阪 寺 内 諸 公 事 及 び 徳 政 の 免 除 地 で あ る こ と を 、 細 川 よ り 承 認 さ 一 一 一6
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一 一 一 証 如 、 諸 公 事 ・ 徳 政 の 寺 内 免 除 の 下 知 の 文 言 が 、 山 中 の 主 張 に よ り 、 ﹁ 殊 於 一 一 一 天 文8
・ 9 ・l一寺内者被免除記﹂となっている点に不満を主張し、﹁於大阪寺内者縦難郡中一一 一 8 一 2 一共被免除記﹂と訂正させる。しかし、なでいかにもく難分別﹂と不満を一﹁天文日記﹂一 一 一 一 も ら す 。 一 一 一 一 山 中 、 細 川 の 下 知 と し て 摂 津 闘 郡 の 段 別 米 二 升 を ﹁ 寺 内 出 分 之 衆 ﹂ に 対 し て 一 一 一9
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・ 日 ・ 7 一 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 一 一 一 一 賦 課 す る こ と を 通 告 す る 。 一 一 一 一 一 証 如 、 山 中 の 段 別 米 賦 課 の 通 告 を 先 年 の 半 済 に 対 す る ﹁ 諸 公 事 A 一 一日一天文 9 ・ 1 ・ 1 一 一 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 一 一 一 を も っ て 、 出 作 分 に 対 す る 賦 課 を 拒 否 す る 旨 を 返 答 。 一一
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一ロ一天文却・ロ・四一再建された堺御坊に諸公事免許が許されんことを細川方へ要求。以上、摂津守護細川晴元らと本願寺の石山寺内の範囲をめぐって、 とくに徳政の適用除外および諸公事の免許とい った具体的な問題からの論議が天文七年、九年を中心に行なわれたようである。そして、 ﹂の問題は、戦国期の︿武 家権力﹀が、本願寺という︿寺家権力﹀が存在する空間り領域へ、 いかなる形においても︿不入﹀であるということ を確認したという点に意義が見い出せる。 ︿寺内﹀という空間可衣をめぐっての寺家側と武家側の理解の差である。これは、 @ すでに峰岸純夫氏によって指摘された点でもあるが、 そ し て 、 ﹂ こ で 興 味 深 い の は 、 ﹂ こ で は 、 寺 院 の 領 主 権 と い っ た 視 点 か ら 、 つまり寺内とその 住民を寺院の領土と領民という問題からとらえ直してみたい。 ︵ 表
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︶ それは、峰岸氏によれば、本願寺 H 寺家は寺内の︿不入﹀の範囲を石山寺内という空間に限定せずそこに居住する 住民を対象とする属人主義的に考え、 し か し 、 武 家 側 は 、 ︿不入﹀の範囲を寺内という空間のみに限定する属地主義 的に考えたというのである。検討のために、表中︵ 8 、 9 ︶ で も 示 し た 史 料 を 引 用 す る 。 史料仰朔日マ
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白木沢、藤井帰候。中坊被申事には下知之文言、山中望之通候、寺内計と聞候て如何候、早々号成 懸可取直之由候。仰中坊被申候文章は、於大坂寺内者縦雄為郡中共被免除詑と侯て可然之由、被申候。 @ / \ 難 分 別 候 。 いかにも 史料伸ムO
木沢並中坊又以藤井昨日承候趣難令分別候。先ニハ以制札之旨徳政不行候き。是ハ殊於寺内者被免除詑と @ 侯上者、兎角被申候ハ人事有問敷かと思候。但僻案候哉と申遣候。 さらに、また、天文九年十一月には この間題と同質の細川の段別米が﹁寺内出分之衆﹂に賦課されるか否かをめ ぐっての論議がおき、本願寺側は、属人主義的立場から山中の主張を拒否している。 ま た 、 そ の 際 に 、 前 例 と し て 、 半済が﹁諸公事免許﹂の範囲として確認されている旨が主張されている。 ︵ 表 9、
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︶ 寺 内 に つ い て ・ 覚 書寺 内 に つ い て ・ 覚 書 史 料 以 付 使 七 者 日 申 ム
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中 藤 左 衛 門 以細川之下知、欠郡段別米式升宛耕一四叩間一期馴棚乳事、寺内出作分之衆可出之之由、 史料仲十一日企O
山中藤左衛門へ、段別事返事今日申遺候。先年寺町之時、段米雄懸之以諸公事免除之筋目聞分詑。 又山中も以前半消事時一入難申懸之、依中披相除候き。先年之例と一五、井原局馬廻輩之知行除之と一去、芳一小例也。 ⑮ 又非惣次之儀之上者、諸公事免許成敗之旨、得其意於間分者、祝悦之由申遺誌。 というものであるが、属人主義的立場を貫こうとする本願寺証如の立場が読みとれると思われる。 @ ﹁寺内住民の要望をふまえて﹂いわゆる﹁寺内特権を確保﹂させた理由は何であったのだろ さ て 、 本 願 寺 を し て 、 う か 。 つまり、本願寺証如は、寺内住民の商業活動やその権益を代理して、摂津守護と寺内での諸公事・徳政適用免 除へと熱心に働いたと一連の動きから読み取ることができるのであろうか。 た し か に 、 山科から石山へと本寺の組織・機関を移転させ、本寺を収容する空間としての︿寺内﹀の整備には、ぜ ひとも寺内の商工業者の経済力・技術力が必要であったと思われる。 しかしながら、問題となるのは、 この論議の結 果、石山寺内は、武家の領主権の及ばない領域であることが確認され、本願寺という寺院の支配する領域であり、 ま た、その住民は本願寺の支配下に入る領民として確定したことを意味する点である。 本願寺にしてみれば、寺内の︿不入権﹀が確定することにより、中世的な法秩序に規制されつつも、全国的教団組 織を統合するための裁判や処断を執行する権門としての確立を意味したと思われる。それゆえに、天文七年、九年の 事件を、本願寺教団の本寺としての組織・機闘が石山寺内で整備されゆく過程で起ったと考えるならば、 そ こ に は 、 やはり摂河泉の領国支配体制、 とくに領主間配置の中に本願寺という寺院領主が割り込みそのなかで編成されていく 一つの画期としてとらえるべきと考えられる。n
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さて、以上、寺内とは何かという聞いに対して、一一つの主要な問題と史料を中心に論議してきたわけであるが、 @ こから次に述べる寺内町研究への展望を獲得した。 そ まず第一点は、石山坊合への本寺の機関・組織の移転と寺内の拡大を見るならば、寺内は寺院の存在する空間およ び寺院を支える諸機関が存在する領域として論議する必要があること。 また、第二点は、寺内における寺院の存在を 領主として評価するならば、 いわゆる︿寺内特権﹀は寺院領主が武家領主に対して保有する︿不入権﹀として理解す べきであること。以上の二点である。 本稿においては こ の 二 点 を 中 心 に 論 議 し た が 、 とくに留意したのは、使用した史料は、これまでの研究史におい て、私が主張する寺院の領主権という視点と寺院という組織・機関の問題を考えないと解釈しきれないと判断したも た @ の 本 と 稿 ど を ま 覚 る 書 と と L、
し う た 点 の で は あ こ る の O Tこ め で あ り 従って、ここでは史料操作・解釈上の問題点の指摘にとどめ、 具体的な論議は控え いづれ稿を改めて私なりの︿寺内町﹀像を提示したい。 ︵ 一 九 八 五 年 八 月 一O
日 ﹀ ① 註 寺 内 町 と 寺 内 町 の 研 究 史 に つ い て は 、 池 上 裕 子 ﹁ 寺 内 町 ﹂ ︵ ﹃ 日 本 歴 史 大 系 ﹄ 二 中 世 、 一 九 八 五 年 、 山 川 出 版 社 ② 刊 ︶ 。 鈴 木 良 一 ﹁ 戦 闘 の 争 乱 ﹂ ︵ 前 ﹃ 岩 波 講 座 日 本 歴 史 ﹄ 中 世 四 、 一 九 六 三 年 ︶ 二O
頁 。 寺 内 に つ い て ・ 覚 書寺内について・覚書 @ 代 表 的 な 論 考 と し て 、 峰 山 存 純 夫 ご 向 一 授 ﹂ ︵ ﹃ 岩 波 講 座 日本歴史﹄中世四、一九七六年︶、藤木久志﹁統一政権 の 成 立 ﹂ ︵ ﹃ 岩 波 講 座 日 本 歴 史 ﹄ 近 世 一 、 一 九 七 七 年 ︶ 。 井上鋭夫﹁中世鉱業と太子信仰﹂|| i 初期本願寺門徒の 社会経済的性格に関する試論︵﹃真宗史の研究﹄一九六 六年、永田文昌堂刊︶によって提起された。なお、井上 氏 の こ の 問 題 に 関 す る 諸 論 文 は 、 ﹃ 山 の 民 ・ 川 の 民 ﹄ ︵ 一 九八一年、平凡社選書︶に一本にまとめられた。﹁ワタ リ・タイシ﹂論の私なりの理解は、拙稿﹁一向一挨論の た め の 序 章 ﹂ ︵ ﹃ 仏 教 史 研 究 ﹄ 一 一 一 号 、 一 九 八 五 年 ︶ で 述 べ た 。 ④ 一向一授論を戦国史研究に再講成する試みは、藤木久志 ﹁ 一 向 一 授 論 ﹂ ︵ ﹃ 講 座 日 本 歴 史 ﹄ 中 世 二 、 一 九 八 五 年 、 東京大学出版会︶においてなされている。また、その方 法 に つ い て は 、 拙 稿 ﹁ 一 向 一 撲 論 へ の 一 視 点 ﹂ ︿ ﹃ 新 し い 歴 史 学 の た め に ﹄ 一 七 八 号 、 一 九 八 五 年 ︶ で 論 議 し た 。 石山寺内の研究については、今井修平﹁石山本願寺寺内 町 に 関 す る 一 考 察 ﹂ ︵ ﹃ 侍 兼 山 論 議 ﹄ 六 号 、 一 九 七 三 年 ︶ 、 水本邦彦﹁畿内寺内町の形成と展開﹂︵﹁論集近世史研 究﹄一九七六年、京都大学近世史研究会刊、後に峰岸純 夫﹃本願寺・一向一挟の研究﹄一九八四年、古川弘文館 に 収 録 ︶ 。 ﹁ 実 悟 旧 記 ﹂ ︵ ﹁ 蓮 如 上 人 仰 条 々 ﹂ ︶ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 、 蓮 如 と そ の 教 団 、 同 朋 舎 刊 ︶ 、 四 五 九 頁 上 段 。 ⑧⑨﹁私心記﹂︵﹃真宗史料集成﹄第三巻、一向一授、同朋 ⑤ ⑥ ⑦ 四 舎 刊 ︶ 、 天 文 元 年 八 月 四 日 二 条 、 天 文 二 年 七 月 二 二 日 、 二 四 日 条 。 五 四
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頁 J 五 四 一 一 具 、 五 回 九 頁 。 ﹁ 拾 塵 記 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 ︶ 六O
九 頁 上 段 。 ま た 、 ﹁ 実 情 旧 記 ﹂ に ﹁ ︵ 山 科 ︶ 本 堂 御 影 堂 ヲ モ タ テ ラ レ 、 御住持ヲモ御相伝アリテ大坂殿ヲ御建立アリテ御隠居 候 ﹂ と あ る 。 ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 、 四 五 二 頁 下 段 ︶ ﹁ 諸 文 集 ﹂ 酬 ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 、 二 七 三 頁 下 段 。 表 の 典 拠 は 、 ﹁ 諸 文 集 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 二 巻 ︶ 、 ﹁ 天 文 御 日 記 ﹂ ︵ ﹁ 天 文 日 記 ﹂ と 略 ︶ ﹁ 私 心 記 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 三 巻 ︶ で あ る 。 ⑬⑬﹃本願寺年表﹄︵一九八一年、浄土真宗本願寺派︶九O
頁 、 九 二 頁 。 ⑬﹁私心記﹂天文四年十二月朔日条、︵﹃真宗史料集成﹄第 コ 一 巻 ︶ 五 八O
頁 。 ⑬﹁天文日記﹂天文五年十一月十二日条、︵﹃真宗史料集 成 ﹄ 第 三 巻 ﹀ 七 一 一 貝 上 段 。 ⑫﹁私心記﹂天文四年十八日条︵﹃真宗史料集成﹄第三巻﹀ 五 八 一 一 具 。 ⑬⑩@@﹁天文日記﹂天文十一年一月四日条、コ一月十日 条 、 天 文 十 二 年 三 月 一 一 一 一 一 日 条 、 天 文 十 五 年 八 月 五 日 条 ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 三 一 巻 ﹀ 三O
一 頁 上 段 、 一 二O
七 頁 上 段 、 コ 一 三 二 頁 上 段 、 一 二 八 二 頁 下 段 。 ち な み に 興 正 寺 は 石 山 寺 内 に ﹁ 興 正 寺 所 御 堂 立 柱 ﹂ を し 、 土 守 基 を 移 転 さ せ た ようである。また、大坂坊舎と興正寺の関係について は、宮崎清﹁大坂坊舎建立の事情﹂︵木村応夫編﹃蓮如 ⑬ ⑫ ⑪② 上 人 の 数 学 と 歴 史 ﹄ 一 九 八 四 年 、 東 方 出 版 刊 ︶ 。 ﹁本願寺法王国﹂については、拙稿﹁﹁本願寺法王国﹄ 論への一視点﹂︵北西弘先生還暦記念会編﹃中世社会と 二同一挟﹄︵一九八五年吉川弘文館刊︶。また、戦国期 権力論と一向一撲の関係については、﹁戦国期権力にお ける本願寺・一向一挟体制﹂︵﹃二葉憲呑博士古稀記念論 文 集 ﹄ 一 九 八 五 年 、 永 田 文 昌 堂 刊 ︶ 。 寺院のアジlル性についての論議の代表的論稿は、網野 善彦﹃無縁・八ム界・楽﹄||日本中世の白白と平和|| ︵ 一 九 七 八 年 、 平 凡 社 選 書 ︶ 。 寺内町論が都市史研究ないし一向一授研究という問題視 角から論議されたためであり、寺内町を寺院史的視角か ら 論 議 し て い く 必 要 性 を 感 じ る 。 典 拠 は 、 ﹁ 天 文 日 記 ﹂ ︵ ﹃ 真 宗 史 料 集 成 ﹄ 第 三 巻 ︶ 。 峰岸氏﹁一向一授﹂︵﹃日本歴史﹄中世四︶一四四頁 J 一 四八頁。また、峰山芹氏の一向一撲に関する議論は、管見 の 及 ぶ 範 囲 で は 次 の 通 り 。 ﹁ 一 向 一 挨 ﹂ ︵ ﹃ シ ン ポ ジ ウ ム 日木歴史﹄九土一授、一九七四年、学生社刊︶、﹁大名領 国 と 本 願 寺 教 団 ﹂ 1 1 1 とくに畿内を中心に||︵﹃白木 の社会文化史﹄二、封建社会、一九七四年、講談社刊、 後に峰岸氏編﹃本願寺・一向一授の研究﹄に収録︶、ご 向一撲﹂ーーそのエネルギーの謎||︵﹃日本史の謎と ② ② ⑫ ③ 寺内について・覚書 発見﹄八、戦国の風雲、一九七九年、毎日新聞社刊﹀。 ② ⑧ 品 開 ︶ ⑮ ﹁ 天 文 日 記 ﹂ 天 文 七 年 九 月 朔 日 、 一 一 日 条 、 天 文 九 年十一月七日、十一日条︵﹃真宗史料集成﹄第三巻︶一 八五頁下段
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一 八 六 頁 上 段 、 二 六 五 頁 上 段 、 下 段 。 ⑧峰岸氏﹁一向一挨﹂︵﹃日本歴史﹄中世四︶一四六頁。 ②本稿では、寺内町を都市論的に検討することはできなか った。この点についての展望は、仁木宏﹁石山本願寺と 寺 内 町 ﹂ l | | 摂 河 泉 を 中 心 と し て | | ︵ 京 都 大 学 文 学 部 、 一九八四年度卒業論文、一九八五年七月九日﹁日本史研 究会中世史部会報告﹂レジメ︶がすぐれている。 @本願寺の宗教社会史的性格から︿寺内﹀の性格について は、大会当日の報告の主要な論点の一つとなっていた が、成稿にあたって枚数が大幅に超過することとなるた め省略した。別稿を革する予定である。また、木願寺の 宗教社会的性格については、拙稿﹁本願寺成立の特質﹂ 1 真 宗 教 団 史 論 へ の 一 前 提 ﹂ ︵ ﹁ 仏 教 史 研 究 ﹄ 十 八 号 、 一 九八三年︶、﹁いわゆる﹃仏法領 L に つ い て ﹂ ︵ ﹃ 龍 谷 史 壇﹄八一・八二合併号、一九八三年︶、﹁仏法領と仏物 と ﹂ ︵ 木 村 武 夫 先 生 喜 寿 記 念 会 一 編 ﹃ 日 本 仏 教 史 の 研 究 ﹄ 一 九 八 六 年 、 永 田 文 昌 堂 刊 行 予 定 ︶ 。 ︿附記﹀大会当日のタイトル﹁寺内と寺内町と﹂を木稿の 内容に即して﹁寺内について・覚書﹂と改めた。 一 五一 六
下問氏加署文書の一考察
片
−H 叫 ﹃ Eト 出 叩 ︵ 大 谷 大 学 ︶緒
下間氏は蓮如時代以後本願寺の侍臣として成長し、 一向一撰時代の本願寺の動向に深くかかわる存在である。この 下問氏が差出人となる文書は、当時の本願寺公文書の最も主要なものであるが、 その内容検討は本願寺教団史・一向 その前提となるべき基礎研究、すなわちこの種の文書に ① 関する古文書学的研究が、金龍静・草野顕之・泊清尚氏らによって相次いで発表されている。これによって、個別文 一挟研究にとって不可欠の作業というべきであろう。近年、 書の意味解読をおこなうあらたなコンテクストが準備されつつあることはいうまでもない。これにくわえて、近年ま この研究線上において真宗史・教団論のあらたな視角が ② 生みだされようともしているが、この点には泊氏らが言及しているので、詳しくはそちらにゆずりたい。本稿は、比 で全く閑却されてきた志納請取状の研究が示唆するように、 較的まとまった研究の進んでいない十六世紀前半について専ら基礎的分析をすすめることで、右の諸論がかたちづく る研究状況の一端につらなろうとするものである。なおここでは考察対象時期を、顕如が門跡勅許を得た永禄二年十二 月 以 前 に 設 定 し た が 、 ③ これは草野氏も指摘するように、下問氏の坊官就任に起因する﹁礼﹂関係の変換が、文書の 様式・体系に少なからぬ影響を及ぼしたことを想定すべきだという理由から、あらかじめ設定されたものである。 し たがってこの時期区分の当否は いずれあらためて、本願寺の公文書全体を通時代的に見たうえで検討しなおされる ベ き 問 題 で あ る 。
考
察
付 補註 1 本稿の当面の目標は、下間氏加署の文書群を様式に即して分類し、そこにあらわれる意志伝達手続き上のルiルを 解明することにある。この点、金龍氏が、 ︵A
︶ 宗主の意を伝達する︿奉書﹀ ︵B
︶ 宗主書状の︿副状﹀ ︵C
︶ 本願寺の公的意志を下間氏が独自に指令する︿直札﹀ ︵D
︶ 純 然 た る ︿ 私 状 ﹀ の四類型に分類している︵︿﹀内は片山が便宜的につけた呼称︶が、 ﹂れは意志伝達の型式という面からは動かし難 い分類と考えるので、本稿でもこれを踏襲する。また公文書という枠を設定し、︵A
﹀J
︵C
︶ の み を 考 察 対 象 と す る 。 なお、もとより分類には多様な基準設定が可能であり、それ自体一定の恋意性にもとづくものなのだから、 ﹂ の 小 論 はひとつの試論の域にあるものといわねばならない。換言すれば、分類とはあくまでも対象の一断面を射照する機能 下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 七下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 }\ と こ ろ で 、 ここに有効性と限界とがある。この点、私の方法的前提として確認しておきたい。 まず分類にさきだって注意しておきたいのは、対象を本願寺公文書におく限り、そこに署判する者の公 を も つ も の で あ り 、 職 的 地 位 、 つまり加署の資格を見出しうるはずだという経験的前提である。本稿ではこの点に注意を払い、文書様式 との連関を考えてみたい。幸いにして証如時代の宗内の諸記録にはそのための手がかりを見出しうるから、適宜検討 をくわえてゆくことにするが、 さらにその前提として、事前に整理しておいた方がよいと思われる事柄が一点ある。 というのは、右に言う諸記録にあらわれる﹁奏者﹂と﹁取次﹂なるものの概念についてである。先行の研究によると、 金龍氏は﹁︵下問氏︶上座・名代の主な任務は、宗主にたいする奏者として、諸家門末の取次・披露を行う事である﹂ @ と言い、﹁取次﹂を﹁披露﹂とならぶ上座の職務の一還としている。草野氏は、ある面で、 ⑤ 一視している。また泊氏は、事実関係を保留するとしたうえで、 ⑦ 日 記 ﹄ ﹁奏者﹂と﹁取次﹂を同 ⑥ このふたつの語を使いわけている。しかし﹁天文御 ︵以下﹃天記﹄と略称する︶天文五年一月廿八日条に、 ③ には下問氏上座以外の多様な人々があたっていることなどからみて、 ﹁ 取 次 明 照 寺 ・ 奏 者 上 野 也 ﹂ と 記 す こ と や 、 ﹁ 取 次 ﹂ ﹁奏者﹂と﹁取次﹂はあきらかに別個の職制で ある。本稿ではこの点の弁別を明確にしておく必要があるが、実はこれについては大桑斉氏が上記の研究にさきんじ て両者の役職としての差異を指摘し、そこに生じた重層的官僚機構の矛盾が、本願寺東西分派に連動する家臣団分裂 ⑨ の一動因であったことを論じている。大桑氏はつぎのようにのベる。 取次が動詞に使われているところからみて、特定の役職を示すものではなく、礼物・書状などを取次ぐという機 能をさしているものであるといえよう。従って在地寺院であっても、 上野のような奏者であっても、取次を行な うことが出来るのであって、奏者のように対面に立合って披露をするというようなものではなかった。 ほぽ納得のいく説明であるが、私なりに整理すればつぎのようにいえる。 ﹁ 天 記 ﹄ を 検 索 す る と 、 ﹁ 奏 者 某 ﹂ と い
う 記 入 は 、 しばしば証如自らがだれかと対面したことの記事に付随してあるのにたいし、 一方﹁取次某﹂という記入 は 一般に音信の授受に関する記事に付随する。これよりみれば﹁奏者﹂とは、宗主対面の際にその場に伺候して奏 達・奉行にあたる宗門内部制度的な役職であり、 一方﹁取次﹂は、文字どおり音信・士山納等の仲介をおこなう社会慣 習的行為であると考えられる。そもそも﹃天記﹄において﹁取次﹂は逐一記入されるのを原則とするが、 ︵ 頼 慶 ︶ ︵ 頼 莞 ︶ たとえば﹁上野留守の間ハ左衛門大夫に奏者の事、以光応寺申付也﹂ ﹁ 奏 者 ﹂ の 記入はなんらか特別の事情がある場合である。 合天記﹄天文五年九月十三日条︶ な ど と あ る 。 ﹁ 奏 者 ﹂ は下問氏上座という特定の者に課せられるもので、とくに 備 忘 の 必 要 が な い が 、 ﹁取次﹂は不特定がこれをおこなうものだからである。また詳しくは後述するが、 ﹁ 披 露 ﹂ も ﹁奏者﹂と同様に上座の職務である。次節以下では実際に文書遺例の様式検討をすすめるなかで、 これらの職制との 連関に目をむけてゆきたい。
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例 つぎに掲げるのは、傍点部分より判別されるように、 ⑬ ﹁ 鹿 王 院 文 書 ﹂ ︿ 奉 書 ﹀ の 事 例 で あ る 。 嵯峨洪思院領加州石川郡安土口保公要事、就未進分之儀、近年雄有中事悉以被棄破詫、早令存知之、年貢諸公事物 等、如先々対鹿王院上使速可令其沙汰、明不可及遅怠之旨被仰出之状如件、 永 禄 一 万 九月廿七日 頼 良 頼資 当所名主百姓中 下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 九下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 二
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﹁ 高 山 別 院 照 蓮 寺 文 書 ﹂ 御状之通令披見候、の内島股就出陣之儀内々可有合力撒之由致披露候処、宗駄之大法候之問責所陣立不可然之旨 御意候、此趣内嶋殿可被仰出候、定不可有与儀候、乍大儀自然之助成候者可然殿、委細者御使申候、恐々謹言、 ︵ 頼 玄︶ 蓮 応 ︵ 花 押 ﹀ 九月五日 照蓮寺 御返事 上 座 に 任 ぜ ら れ 、 まず︿奉書﹀加署の資格について考える。結論からいえば、この時期の本願寺にあっては下問氏嫡流より筆頭者が @ これと、場合によってはその名代とが﹁奏者役﹂にあたったとされており、遺例に即して考えると ︿奉書﹀はこの上座・名代が署判するものである。ただ、この結論にはひとつの障害がある。あきらかな︿奉書﹀の ⑬ ⑬ 署判者としてあらわれる下間兼頼・頼助・頼盛らが、谷下氏・金龍氏らの通説的見解では奏者経験者とされていない つまり、天文十年八月以後、奏者三人制が敷かれたとする説が通説化しているのであるが、しかし﹃賀州 本家領謂付日融﹄天文子三年分には﹁奏者﹂として筑前︵ H 頼 秀 ︶ ・ 民 部 少 ︵ H 頼 盛 ︶ ・ 丹 後 ︵ H 頼玄︶三者の名前 の で あ る 。 が あ ら わ れ る 。 したがってこのときすでに奏者三人制︵上座一人、名代二人︶がおこなわれているのであり、このよ うにみると天文四年以降の単独奏者制こそ、頼秀、頼盛追放ならびにその父頼玄の引責をめぐる非常事態を示してい るのではあるまいか。奏者三人制を本来のものとみるならば、兼頼・頼助らの︿奉書﹀も、むしろその存在から彼ら ⑮ が奏者であったことを推定すべきであろう。 奏者と奉行とは担う意志伝達の方向こそ逆ではあるが、あきらかに同種の原理にもとづく職務であり、本願寺にお いてはこれをあわせて下間氏上座・名代がつかさどっていたのである。ところで、例一と例ニの様式上の差異はあきらかだろう。機能・目的からみると、前者は頼資・頼良が上座頼総の ⑫ 名代としての資格において加署した加賀国行政文書であり、後者は門末照蓮寺よりの通信||披露状ーーを受信した 上座蓮応が そ の 内 容 を 宗 主 に 披 露 し 、 照蓮寺にこれをつげると共に宗主の意向を奉じ伝達したものである。 ︿ 奉 書﹀はこれらの例に代表される加賀国行政文書と宗内門末に充てるものとに大別できる。 ⑬ は じ め ﹁ 謹 一 一 一 口 ﹂ と 書 止 め る も の か ら 、 一般に、加賀国行政文書は 折 紙 で 付 年 号 を も ち 、 のち永禄初頭には例一のごとく﹁状如件﹂あるいは﹁執 達如件﹂と書止める一層下知状様式に近いものへと移行する。他方宗内充の場合には、おおむね切紙で決して年付を @ 書かず、候文で室田かれてあり、永禄年間未頃に発生する印判状を例外としてあくまでも﹁謹言﹂と書止める書状様式 を墨守しているのである。このような形式上の差異は つぎのような意味の反映と理解できるかと思う。すなわち、 私は本願寺の加賀行政権とは守護権にもとづくものと考えるが、 したがってその文書は、政治的な通達を、守護代・ 奉行人に擬せられた下問氏上座が宗主にかわって下知する公文書である。それゆえ様式的には、室町幕府奉行人奉書 が意識されているように思われる。他方宗内充の︿奉書﹀は、身分制に起因して宗主が門末に直接の意士山伝達をおこ なわぬ場合、宗主の私的な書札を、下問氏上座が代行作成するものである。その意味で、後者はあくまでも書状様式 を逸脱してはならないものなのである。そこで私はこれらを弁別して、 とくに後者を︽上座奉書︾として握把してお こ う と 思 う 。 なお︽上座奉書︾の特質として、 ︿奉書﹀であることをつげる文言︵奉書文言︶が、全文の末尾にではなく、中間 部におかれる事が多いという点に注意しておきたい。 したがって型式から見る限り奉書文言のあとにくる内容は宗主 の意志ではなく、下問氏上座・名代自身の意志をあらわしていることになる。この点は、後述の︿直札﹀の意義とか か わ る も の で あ る 。 下 間 氏 加 署 文 書 の 一 考 察
下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察
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︿奉書﹀以外にも上座が自らの職務の一環として加署する文書が存在する。たとえば城端別院に伝存する二通の宗 主 てと dじ、 車 内 面目 取 「 ネL
城 状 端 の 別 〈 院 副 善 状 徳 〉 寺 は 文 そ空
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あ た る つ ぎ の 例 三 は そ の 一 通 で あ る 。-
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御礼旨拝見仕候、如仰当春之御慶事旧候畢、何鳥目五十疋致披露候、同御方様江三十疋致披露候、何も御書被参 侯、随而私江弐十疋被下候、過分至極候、将又己前就御門徒之儀、上様江一二百疋青木方より請取中候、致披露候、 同御方様江弐百疋、定而御室日可有御申候、白出存候、将又雄軽徴至極候帯弐筋進入候、誠表御祝詞計候、何様御 上洛之時可申入候、恐憧謹言、 月 廿 六 日 蓮 応 ︵ 花 押 ︶ 善徳寺殿 御 報 ﹁ 御 室 日 被 参 候 ﹂ と い う 文 言 よ り 、 これが︿副状﹀であることが判明する。加えて﹁致披露候﹂という文言︵これを 披露文言と呼ぶことにする︶の存在から、上座の作成する文書であると考えられる。何故なら、 ﹃ 天 記 ﹄ を 通 覧 す る と門末志や勧進物等の宗主への﹁披露﹂は、原則として奏者がつとめているからである。 ﹁披露﹂は奏者役の職務の 一環であると考えられよう。次掲の付表にあきらかなように披露文言は志納請取状の場合、 ︿ 奉 書 ﹀ ︿ 副 状 ﹀ と も に 普 遍 的 に 存 在 す る 。I 15 14 13
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秀 玄 法 署 出 | 勝 ) 応 応 秀 秀 秀 英 ) 応 応 応 応 応 応 ) 頼 玄 橋 者 ! j \ーノノ、l 付 表 現 存 下 同 氏 加 署 志 納 請 取 状 一 覧 名 充 人 明 顕 昭一蓮寺 照 蓮 寺 照 蓮 寺 照 蓮 寺 照 蓮 寺 照 蓮 寺 明 照 蓮 寺 内 島 浦惣中 照 蓮 寺 善 徳 寺 善 徳 寺 源 五 郎 下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 日 卯月二日 九月九日 十月十五日 八月晦日 十月五日 十一月晦日,
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三 五 月 月 廿 一 J\ 日 日⑤ 二月二日 月十六日 コ 一 月 十 五 日 二月二日 二月廿七日 月廿六日 十一月廿八日 付 伝 高 由 山 来 別 記 院③裏②,
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I/ ③ 勝 童 寺 五 I/ 高山別院 I/ ⑤ 願 慶 寺 善 高 徳 山 別 寺⑦院。
③ 勝 興 寺 来 一 四一
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※ 付表註 ①OJ
奉 書 文 一 一 一 口 、OJ
副 状 文 言 、 ※1
披 露 文 言 の 存 在 を 示 す 。 註 ⑬ 参 照 。 ﹁ 高 山 別 院 照 蓮 寺 文 書 ﹂ 。 番 号 は ﹃ 岐 阜 県 史 ﹄ 所 載 の 番 号 。 註 ⑪ 参 照 。 ﹁ 勝 髪 寺 蔵 照 蓮 寺 旧 蔵 文 書 ﹂ 。 番 号 は ﹃ 岡 崎 市 史 ﹄ 6 所 載 の 番 号 。 ﹃ 岡 崎 市 史 ﹄ で は 正 月 廿 八 日 と す る が 写 真 で は コ 一 月 と 読 め る 。 蓮 如 忌 の 折 の も の で あ ろ 汗 勺 ノ 。 ﹁ 願 慶 寺 文 書 ﹂ 。 註 ⑬ 同 様 の 写 真 に よ っ た 。 ﹁ 城 端 別 院 善 徳 寺 文 書 ﹂ 。 番 号 は ﹃ 富 山 県 史 ﹄ 所 載 の 番 号 。 註 ③ 参 照 。 柏 順 史 編 ﹃ 雲 龍 山 勝 興 寺 古 文 書 集 ﹄ 七 号 。 な お 、 同 書 は こ の 文 書 を ﹁ 疑 い あ り ﹂ と す る が 、 ﹃ 富 山 県 史 ﹄ 通 史 編E
八 一 二 三 貝 所 載 の 写 真 は 、 ﹁ 姥 川 家 文 室 百 ﹂ 等 と 対 照 し て 正 文 と 見倣してよい。この点﹃県 史 ﹄ 本 文 参 照 。 ③ ② ④ ⑤ ⑤ ⑦ ③下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 二 四 こ の う ち 3 とロは、差出人自身への志にたいする礼状である。これ以外の︿奉書﹀ ︿副状﹀には必ず披露文言が見 出 さ れ 、 上座の加署する文言であることが確定されるのである。これにたいして志納請取状以外の場合には本願寺の 一方的な意志下達であることが多いのだから、必ずしも披露文言をもつわけではない。 したがってこれらの文書の作 成主体の公職を特定するためには、若干の推量を必要とする。 たとえば次掲のような意志伝達のための︿副状﹀の場 合 は ど う か 。 例 四 @ ﹁ 高 山 別 院 照 蓮 寺 文 書 ﹂ 就 若 松 殿 様 御 退 治 実詣従 英き此 ( 方 花 被 押 向 ) 御 勢 候 就 其 ︵ 肝 ︶ 御 室 田 被 成 下 候 、 各 馳 走 管 要 候 、 恐 々 謹 言 、 七月二日 白 JI I 慰百
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この︿副状﹀には披露文言はない。しかしこれは内容から享禄四年のものと考えてほぼ誤りなく、 @ 座の地位にあったと思われるので、︽上座副状︾たる要件はそなえているわけである。管見の限りではこの他に︿副 @ 状﹀の遺例を知らないが、宗主の書状に﹁猶某可申候﹂等の文言があることから、 ﹂ の 時 実 英 は 上 ︿副状﹀が存在したことを想像し うる例は存在する。すなわち①﹁城端別院普徳寺文書﹂の︵天文元年︶十月九日付加州坊主衆中・宿老衆中充証如書 @ 仲畑②﹁本蓮寺文書﹂の︵享禄四年カ﹀八月廿コ百付本蓮寺充証如書状、③﹁端坊文書﹂一二月廿日付紀州惣門徒中充 証如書恥かそれであり、①②には筑前︵ H 頼秀︶の、③には端坊の名が見えている。③の事例が存在する以上、 ︿ 副 状﹀作成が下問氏上座の職務であると一般化するわけにはいかないが、 その他の例がともに上座頼秀の手になること も見すごしがたい。私はむしろ③を例外的なものと想像するが、今のところ断定はさけねばならない。 つぎに︿直札 V で あ る が ここに︿直札﹀としてとりあげる文書は、すべて教団にとっての公的な事項を指揮する機能をもっ点で、下問氏の私信とは弁別されるべきものである。侍臣下同氏の︿直札﹀が何故このような公的位置を とりうるのかという点について考えてみたい。私が想像するところでは、 それは下問氏上座の宗主の意志伝達者 H 奉 者としての立場に淵源するものであるかと思われる。次掲例五は、明宗よりの披露状をうけた上座の返書でありなが ら︿奉書﹀形式をとらずに︿直札﹀を以て指令をおこなっている。 例五﹁本福寺由来記紙背文お﹂ 御折紙之通致披露候、何舟三般大津浦に可被置候、其方々御用心肝要候、恐々謹言、 丹 後 法 L 十 月 九 日 頼 玄 ︵ 花 押 ︶ 明 宗 御 一 房 一 御返事 また、すでにふれたように︽上座奉書︾は奉書文言を中間部におくという特徴があり、宗主の意を伝えるだけでな く奉者自身の意志もを伝える機能をあわせもつものであった。このような点から見て、 ︿直状﹀もその公的位置は 差出人が奉行人すなわち上座・名代であることによって確保されるものではなかったか。遺例も、とくにこの想定に 反 す る も の は な い 。 伺 前節までにおいては、加賀国行政文書を除いて宗外充の文言についてはふれてこなかった。その理由は、結論をさ きどりしていうと、宗外充文書においては︿奉書﹀以外に上座がその職務として発するものを見出し得ず、性格を具 下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 二 五
下 問 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 一 一 六 にすると思われたからである。本節では この種の文書の加署資格について若干の考証を提示しておく。 遺例こそ少ないが、元来日常的に作成された宗外充文書として、本願寺宗主と諸家との音信授受をめぐる文書があ @ る。たとえば﹃証如上人書札案﹄をみると、宗外諸家にあてる証如書状には﹁猶某可申候﹂ ﹁委細某可申候﹂等の文 言が記されている場合が多い。この文言は、某が口頭で演説するか、あるいは︿副状﹀を作成することを示すと考え @ ら れ る 。 こ の 演 説 、 ︿副状﹀作成は必ずしも上座や名代のみがおこなうわけでなく、下問氏以外をまじえた不特定の @ 人々が分担している。彼らは﹃天記﹄のうえでしばしば﹁取次﹂と呼称されているので、 いまはこの種の文書を、取 次役の作成する︽取次副状︾を規定しておきたい。 ,{§1] この︽取次副状︾の遺例は管見にないが、類例の文書につぎの﹁蛤川家文書﹂をあげることができる。 @ ﹁ 蛤 川 家 文 書 ﹂ ...,_ ,\ 歳暮為御礼、以使門 1 1 1 ] 可 然 候 様 御 取 成 所 仰 候 、 猶 円 山 隠 岐 守 可 令 申 候 、 恐 々 謹 一 一 日 、 ︵ 頼 慶 ︶ 蓮 秀 ︵ 花 押 ︶ 十二月廿二日 蟻川新右衛門尉殿 御宿所 例 七 同 前 為当年之祝儀、門
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被 申 候 、 心得可申白候、恐々謹言、 可然候様御取成所仰候、次太万一腰被進之候、相 正月十二日 頼 尭 ︵ 花 押 ︶ 蛤川新右衛門尉殿御宿所 {§IJ 同前 ︵ 祝 カ ︶ ︵ マ マ ︶ ︵ 之 ︶ 為年頭之口義
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御太万一腰進口候、宜御取合可為快然候、依而同太万一腰令進之候、表嘉祥斗候、恐々謹言、 八 正月十二日 頼 完 ︵ 花 押 ︶ 蛤川新右衛門尉殿 御宿所 ﹃天記﹄天文十六年正月十日条に﹁室町殿、三淵、清光院、伊勢、両奉行、賠川等、年始之音信如毎年上之﹂と見 えるから、蛤川氏との音信は恒例だったのであり、また同十五年正月十日条には﹁又清光院、コ一淵、伊勢、両奉行、 時川等へ令音骨﹂とあるから、証如はこれを自らはおこなわずに何者かに託していたのである。﹃音信御目指﹄天文 十二年正月十日条には﹁蛤川へ太万遺之、以頼莞書状也﹂と見える。ここに発せられたのが例七・八と考えられるが、 その内容は蛤川親俊に音信の﹁取成﹂をあおぐもの、 ﹁取合﹂をしてもらったことにたいして礼を申しのべるものと なっている。例八の場合は例六の如き歳暮の﹁取合﹂を求めたことに関する礼と見るのが妥当かもしれない。この他、 んだ書状が この種の文書としては光頼︵ H 頼完﹀が院家よりの年頭祝儀にたいして返礼を送り、伊勢守にあててこの旨を﹁湿﹂ @ @ に伝存する。この種の文書を披露状とみる見解もあるが、 ﹁ 尊 経 閣 古 文 書 纂 ﹂ 私はこれらをあくまでも ﹁ 取 成 ﹂ ﹁取合﹂を求める意の文書であると考えており、披露を求めるものとは見ない。その左証としては﹃証如上 人書札案﹄にみるところ、証如の室町殿にたいする音信の場合、 ﹁披露﹂を求める書状と﹁取合﹂を求める書状が同 時に別個のものとして作成されている事実をあげることができる。 さ て 、 ﹃ 音 信 御 日 記 ﹄ 等 に は 、 こ の 種 の 文 書 、 つまり下間氏らが宗主音信を代行する文書を発することを示すと思 下 同 氏 加 署 文 書 の 一 考 察 七下 問 民 加 署 文 書 の 一 考 察 ニ 八 @ われる﹁:::へ音信遣、以某書状也﹂というような記入がみえる。この某には多くの場合上座の名が充当するが、 な かには上座・名代以外の下問氏がこれに充当する場合もある。したがってこの種の文書も上座がその職務において作 成するものではない。そこで私はこれを、宗主音信の︿副状﹀と同様に、取次が作成するもの、 と り な し と り あ わ せ ﹁取成﹂﹁取合﹂は共に﹁仲介﹂をするこ つ ま り ︽ 取 次 直 札 ︾ というべきものと仮説する。ちなみに﹃邦訳日葡辞書﹄の訳語によると、 と り つ ぎ ﹁ 取 次 ﹂ は こ れ ま た ﹁ 仲 介 者 ﹂ と で あ る と い い 、 ﹁ と り な し 役 ﹂ の こ と で あ る と い う 。 この他宗外充の︿直札﹀類には、権門知行地の代官請に関するもの、 および土地買得に関するものが多々伝存する。 も な い が 、 その様式は、当然ながらその場に即した証文や請文などの多様なものとなる。したがってこれらを逐一検討する余裕 これらに加署するのは上座に限られるものでなく、場合によっては、御堂衆の坊主と連署したも何 n − 、 ょ − 、 中 t J/ さえ存在することに注意しておきたい。
結
同命 以上の考察によってみちびかれた結論ならびに仮説は、 おおむね別掲付図のように図示できる。 この結論・仮説を参照しつつ、若干の問題を提言しておきたい。 当 然 、 まず注目されるのは、宗内充公文書が一貫して上座・名代︵奏者リ奉行︶の発するものと把握できる点にあ る。本願寺宗主が門末に意志を伝える際には、時に自らの書状︵直札︶を用いはずるが、伝存状況からみても、 ﹁ 日 記﹄の記載からみても、それが一般的なものであったとは思われない。むしろ下問氏上座の作成する︿奉書﹀ /\ 直 札﹀こそが、本願寺の主たる意志伝達の術になりつつあったと私は考える︵次節参照︶。こうした上座文書の多用は、 宗主と一般門末とが、直接の意志伝達を社会規則︵﹁礼﹂︶によって禁止された身分関係におかれていることに対応す付
図
基
本
様
式
奉
i
u
直
童 日状
札
下間氏加署文書の一考察上座奉書
上座副状
円r ・上座直札
結
論
な
ら
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に
仮
説
守護権代行奉書
1
加賀国行政
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ー宗主音信授受
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書
1
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般
九宗 外 充
下 同 氏 加 署 文 書 の 一 考 察
。
る。ひろく凡下・百姓を門末としてかかえながら、 @ 一方で権大僧都から正僧正への官位・身分上昇をとげる実如 J 顕 如期の本願寺にあって、宗主と門末の意志伝達をとどこおりなく実現せしめる存在としての奏者は、教団構成上必要 @ 不可欠なるものとして生みだされたのである。 一般に、奏者とは身分社会に構造的に生みだされる媒介者であり、 そ れゆえ脱身分的な特権的存在であると私は考えるが、本願寺教団におけるこの構造を一元的に掌握する存在が下問氏 @ 補 註 2 だ っ た の で あ る 。 ところで右の図を見る場合に加えて留意されるべきことは、宗外充文書は、ある特殊条件下で便宜的に下問氏に課 せられた職務にもと守ついて作成されるものか、あるいは下問氏に限らず多様な主体によって作成されうるものだとい う事実である。これにたいして宗内における意志伝達媒介の文書は、 一貫して下間氏が作成するものである。奏者 奉行が下問氏の独占的な職務・権限︵職掌︶とすれば、宗外充文書にみえる下問氏の庶務執行は副次的なものとして 位置づけられるべき行為といえるだろう。下問氏の意義づけを図って、 その職務・権限の全体を把握しようとする見 方もあろう。その作業は必要不可欠なこととして推しすすめるべきであるが、 一歩ふみこんで考える場合、下問氏の 職掌として独自的・本源的であるものと、 そうでないものを見極める視点も必要であろう。私は、宗主・門末聞の意 志伝達の媒介者という面に象徴される下問氏の脱身分的な近従者的性格に注目し、 それを中世社会制度一般、寺院組 織一般の問題として論じうるのではないかと展望する。補
説
最後に ﹂の考証には論証の不備という問題以前に、 一定の限界があることをことわっておかなければならない。 それはひとくちにいえば、素材とした遺例の絶対的量不足、 ならびに文書伝来に関するエレメントの具体的な勘案がおこなわれていないという問題である。たとえば、 @ などに分散して伝来する﹁照蓮寺︵旧蔵︶文書﹂の一群は、本稿の考察に重要な位置を占める。前者は同類の文書の ﹁本福寺由来記紙背文書﹂の一群、 および現在高山別院・勝霊寺 伝存が極めて希少な十六世紀初頭という時期にあって、紙背という偶然性によって伝来することになったわけだが、 このことは他の諸未寺においても類似の文書が存在しながら、破棄され、伝わらなかったという事情を想像させる。 また後者も、前者よりは少し後の年代に属する希少な伝来の事例であるが、その伝来の契機は、 @ き公験|